「赤」や「明るい瞳」以外にも象徴的なものが『ギヴァー』にはいくつかあります。鏡、川、雪、そり、ニュー・チャイルドのゲイブリエル、飛行機...
逆に存在しないことで象徴しているものもあるかもしれません。たとえば、音楽、動物、日の光・雨・風(要するに、天気の変化)、火など...
ジョナスのコミュニティにとっての鏡の存在は、「鏡は、コミュニティにはめったになかった。禁じられているわけではなかったが、実際に必要がなかった。ジョナスも、気づいたらそばに鏡があったという時ですら、自分自身の姿を何度も見ようなどという気はまったく起きなかった」(32ページ)
もう一つ鏡が登場するところは、祖父母についての説明がされるところです。
「<祖父母>だよ。『両親の両親』を意味する言葉だったのだ、ずっと昔ね」
ジョナスは笑いだした。「前へ、前へ、果てしなく前へ、ですか。それじゃ、両親の両親の、そのまた両親の両親がいるってことになりますね」
<ギヴァー>も笑った。
「そのとおりだ。合わせ鏡にちょっと似ているね。鏡に映った自分が背後の鏡に映っていて、その背後の鏡にはまた鏡に映った自分が映っている」(172~3ページ)
「鏡」が、この後にギヴァーと話し合う「愛」ということには直接つながっていかないと思いますが、少なくとも祖父母の存在を含めた家族のぬくもりにはつながっていく気がしました。
知り合いで、『ギヴァー』の読後感を送ってくれた人の中には、「鏡は、自己確認の比喩でしょうか」と書いていた人もいました。確かに、それは確かにあると思いました。
ということは、ジョナスのコミュニティは自己確認をしない社会であるのに対して、私たちの社会は自己確認の連続の社会(=自己確認を絶えず迫る社会)ということになりますか?
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