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2011年6月30日木曜日

科学者どう考えるか

 前回の数学に続いて、今回は理科です。
 紹介するのは、『科学と創造』(H.F.ジャドソン著)。
 サブタイトルの「科学者はどう考えるか」の方が、本の内容をよりよく表していると思いました。原タイトルは、The Search for Solutionsです。

 この本の特徴の一つは、使われているたくさんのいい写真とその解説のよさです。それらだけを見たり、読んだりするだけでも、内容のかなりの部分が伝わってきます。「科学」とは関係のない日本の芸術や日ごろの風景までが使われているのに(「こんな写真、よく見つけたな~」と)驚いてしまいます。
 もう一つの特徴は、人(科学者たち)の紹介の仕方がうまいことです。

 写真は、章立てと連動しています。
 それらのタイトルも、科学および科学者を理解する大きな助けになっている気がします。
 以下のとおりです。

   探究
   パターン
   スケール
   偶然
   フィードバック
   モデル
   予言
   証拠
   理論

 子どもたちが嫌いになる教科書を中心にした理科の授業の代わりに、これらこそを中心に据えた形で理科の授業を考えていくべきだと思います。なんと言っても、「これらこそが科学と科学者の考え方」なのですから。

2011年6月26日日曜日

オフライン思考

 ちょっと経路の違った本を読んでいます。
 『数学する遺伝子』(キース・デブリン著)です。

 この本の主な主張は、脳の機能はパターン認識ですが、数学は「パターンの科学」なので、人は誰でも数学する遺伝子を持ち合わせているというものです。

 では、なぜ嫌いな人やできない人がいるのでしょうか?
 マラソンと同じだそうです。
 マラソンも、40年より前は長距離選手の中のごく一部が走るもんだと思われていました。普通の市民が走れるものとはまったく思われていませんでした。それが健康ブームで、今では誰でもやる気にさえなれば走れてしまうのです。数学もまったく同じだというのです。ですから、ぜひ「やる気になりましょう!」と著者は提唱しています。

 私がこの本で一番面白いと思ったのは、「オフライン思考」ということでした。

 それは、ひとことで言うと「内的に生じたシンボルの世界についての思考」(294ページ)のことです。これだけでは、まだわかりにくいので、さらに説明すると「過去の出来事をくわしくかえりみたり、未来の行動をずっと前から計画して、様々な選択肢について考えたりできる」(295ページ)能力です。そして、オフライン思考ができる動物は人間のほかにはいない(295ページ)そうです。

 オフライン思考に対して、オンライン思考の開始と維持に必要なのは、物理的環境というか刺激です。(301ページ)こちらは、基本的に「動物的」思考というか反応です。もちろん、人間も依然としてもち続けています。危ない状況などに遭遇した時は、ほぼ自動的に作動します。

 脳は、オフライン思考が可能になる前に、きわめて多様な活性化のパターン(すなわち、いくつかの組み合わせ、意味のある活性化の連鎖を開始し、維持するのに十分なだけのパターン)を生み出す能力を獲得していなくてはならなかった(302ページ)、と著者はビッカートンという人の主張を紹介してくれています。

 それらのパターンを蓄えることができたおかげで、オフライン思考が可能となり、それによって「人間が ~ そして人間だけが ~ できるようになったことはたくさんある。私たちは、遠く離れているものも含めて、さまざまなものや場所、状況や出来事について語り合うことができる。過去や未来の出来事について、考えられる。時間の経過についても考えられる。架空の物語を作ることもできる。様々な道具や、機能的な人工物や、純粋に象徴的な人工物も作れる。複雑な未来の行動プランを立ててそれにしたがうこともできる...そして、論理的推論によって世界に対する理解を深め、行動の意思決定をすることもできる。」(311ページ) ← 『ギヴァー』の中で、これらができているのはほとんどギヴァーとジョナスだけと思えてしまいます。私たちはせっかく身につけているこれらの能力をしっかり使わなくては、とも思いました。特に、3月11日以降のような状況では。


 デブリンは、これからの数学・科学教育ということでは(340~343ページ)、

① 数学や科学がどんなものであり、暮らしの中での役割を明確にすること と
② 論理的思考/科学的に考える習性を身につけること

に集中すべきであると提言しています。従来の忘れてしまうことが約束されているようなスキルの練習に無駄な時間を割くべきではないとしています。
 論理的思考/科学的に考える習性はどうやって身につくかというと、「数学や科学をすること」であり、それにはスポーツや演劇などをすることを参考にすべきだとしています。★それには、上に書いたように必然性というか「やる気」になる決意のようなものが前提として必要になります。それなしで厳しい練習をするだけだと、あまり生産的ではないスキルのドリルになってしまいますから。


★ そういえば、まさにこの視点で開発されたのが『ライティング・ワークショップ』と『リーディング・ワークショップ』でした。

2011年6月25日土曜日

「貢献」と「異和感」

 先日、ある人と話していたら、組織改善で大切なのは、「貢献」と「異和感」と言っていました。ウ~ン、まったくその通り、と思いました。
 あえて、「違和感」ではなく、「異」を使いたいそうです。確かに、「違」には「そむく」を含めて否定的なニュアンスが色濃くただよっているのに対して、「異」の方は「異なる」「疑う」など「オルターナティブ」なニュアンスが濃いと思います。

 それを聞いて、すぐに両方とも『ギヴァー』の代表的なテーマだと思いました。
 ほとんどそれらについて書いた本とも言えなくはないぐらいに。★

 さらには、授業というか、授業改善にも、この2つは欠かせないと思いますし、人と人との出会いにも欠かせないと思います。

 菅さんはじめ、いま政治に関わっている人たちも、震災地の復興とこれまでとは「違う」日本をつくり出すのに、この2つのキーワードを実行してほしいところですが、どうもあるのは「自分のことだけ」と「保身」としか思えません。(東京都の知事さんは、他にすること/考えることがないらしく、またオリンピックの招致活動に税金の無駄づかいをしたいようです。)


★ そういえば、これも前に訳した『エンパワーメントの鍵』(クリスト・ノーデン-パワーズ著)も、この2つのキーワードをテーマにした本でした。残念ながら本屋さんでは買えないので、図書館で借りて読んでみてください。

2011年6月23日木曜日

12歳で「二度目の誕生」は無理

 「ちくま少年図書館」の第3弾として『銀河鉄道をめざして ~ 宮沢賢治の旅』(板谷英紀著)を読みました。  なんといっても、日本のゲーテ、あるいはヴァン・ゴッホですから、焦点の当て方次第では、いろいろなことが書ける人ですが......ここでは『ギヴァー』との関連で。

 その宮沢賢治でさえ12歳までの経験で、これまで、今、そしてこれからの多くの人たちにインパクトを与え続ける作品群(や彼の生き方)は可能だったかというと「無理」と言わざるを得ません。



 宮沢賢治にとって、

・ 故郷を離れて盛岡中学校に入り、岩手山との出合い。そして文学と宗教への打ち込み。(13~18歳)
・ 中学校卒業と同時に起こり、その後自分をときどき襲う幻覚<青い波>との出合い
・ 法華経との出合い (18歳)
・ 盛岡高等農林での教師や友人たちとの出会い ~岩手山での誓いも含めて (19~22歳)
・ 法華経の布教活動のために上京し、本格的に童話を書き始める。のちに自分の作品を「法華文学」と位置づける (24歳の約7ヶ月間)
・ 花巻農学校の教師になり、生徒たちとの様々な活動や授業 (25~30歳)
・ 自分の最大の理解者だった妹・トシ子の死
・ 羅須地人協会の設立(賢治30歳)

 これだけの多様な出会い/出合いとアクションがないと「二度目の誕生」というのは実現しないというか、つくづく難しいと思った次第です。


 その意味では、『ギヴァー』のコミュニティは、「ひと」として生まれることを最初から否定している社会、二度目の誕生を制度として廃止している社会なんだとも思いました。たくさんの記憶によって生まれ変わることが可能なギヴァーおよびギヴァーの卵であるジョナス以外は。


 テーマ以外に、本を読んでいてマークをつけた箇所は、以下のとおりです。

130 偉大な才能ほど周囲から多くものを吸収し、それをすばらしいものに変えることができるのです。

132~3 生徒を無視して教科書をカバーする授業から、わかりやすく、生徒たちがけんめいに勉強する、(教師がモデルとして示し続ける)授業への転換をアッという間に成し遂げた宮沢賢治の才能。

2011年6月21日火曜日

田中正造が「生まれる」

 実は、田中正造に入れ込んでいたころ(80年代の中ごろ)は、何本かの論文を書いたこともありました。中には、ルソーの『エミール』をベースにしながら田中正造の生き方、成長、教育などを分析したものまでありました。

 前回紹介した『ひとが生まれる』との関連で言えば、田中正造以外の4人は20歳ぐらいまでに、二度目の誕生を終えているのですが、田中正造の場合は3度の牢獄生活も含めて少なくとも35~6歳までは(ひょっとしたら死ぬまで)何度も生まれ変わり続けた人のような気がします。足尾鉱毒以外のたくさんの経験を背負っているというか、逆に言えば、それらがあったからこそ、そこに必然的にたどり着いた気もします。

2011年6月20日月曜日

二度目の誕生

 『日本史との出会い』があまりによかったので、「ちくま少年図書館」を継続して読んでいます。今回紹介するのは、彼これ30年前に読んだことのある『ひとが生まれる』(鶴見俊輔著)です。

 なぜ読んだかというと、30年ぐらい前に数年間、田中正造に入れ込んでいた時期があり、彼に関する本を全部読んだことがあったのです。あまりの入れようで「全集」まで購入しましたが、それはまだ一部しか読んでいません。

 「人間はいつ自分になるのか。
  人間は、生まれた時に、いきをする。手足を動かす...そんなふうにして、なんとなく私たちはことばを覚え、人間としていろいろなしぐさを覚えてしまう。それでけっこう暮らせる。
  ところがそのうちに、なにか変なことが起こる。いままで自然に覚えたことでは、どうにもそこをこえられない。
  今まで自分にそなわった力では、それとかくとうしても、組みふせることができない。そういう恐ろしさの中から、あたらしい自分が生まれる。
  そういう自分の誕生の時は、生まれてから何年目にくると言えない...
  自分が、どういう時代のどういう世の中に生きているのかというふうに、自分を社会の中の一人としてとらえることが、いつある人にとって起きるかには、いろいろな場合がある。だが、人間が、隣の人と違うからだとこころをもって個人として生きているからには、社会の中の一人として自分をとらえる時が、いつかは、やってくる。」(はじめに)

 まさに、ジョナスにもギヴァーとの出会いによって、12歳か13歳でそれがおとずれました。

 鶴見さんが自分自身の誕生の記録(記憶?)に残っている5人として選んだのは、田中正造以外に、ジョン万次郎、富岡製糸工場について書いた横田英子、関東大震災直後の朝鮮人、社会主義者、無政府主義者たちに対する弾圧によって獄中で自殺した金子ふみ子、学徒出陣で徴用され1945年7月28日に四国沖の偵察飛行中に通信を断った林尹夫です。

 すごい人選です。 『日本史との出会い』に引けを取らない。

 ところで、ジョナス(ギヴァーになる人)以外のコミュニティの人たちには、この二度目の誕生はあるのでしょうか? ない方が幸せとも言えるのでしょうか?

2011年6月17日金曜日

出会い

 「愛と家族と死」の3つ以外に、「出会い」というのも『ギヴァー』と『メイおばちゃんの庭』の両方に共通したテーマだったと思います。

 その「出会い」を中心に据えた本として、秦恒平著の『日本史との出会い』を見つけました。「ちくま少年図書館」に収録されている1979年に出版された本ですが、内容的にはまったく古さを感じさせない、しかも50歳を過ぎた私が読んでも読み応えのある本です。

 本のタイトルは「日本史との出会い」ですが、4組の出会いが紹介されています。いずれも、日本史を代表するような出会いです。①後白河院と乙前、②法然と親鸞、③足利義満と世阿弥、④豊臣秀吉と千利休。

 これら4組の出会いを、ジョナスとギヴァー、『メイおばちゃんの庭』のサマーとメイおばちゃんやオブおじちゃん、そしてクリータスとの出会いのことも考えながら読みました。そして、日本史に存在する他のたくさんの出会いや、自分のこれまでの出会いにも想いを馳せながら。

 おもしろいとはお世辞にも言えない日本史の教科書を読むよりも、この本を読んだ方がはるかに考えますし、歴史好きになります。(そして、いまの時代についても、自分についても考えます。~ 歴史の教科書から「いまの時代」や「自分の行動について」考えることなんてあるのかな??)


193ページには、「室町時代の特に前半は、他のどの時代より手ひどい飢饉に人民がくりかえし苦しみぬいた時代でしたが、必ずしも天災とばかりはいいきれない。むしろ天災は、いつもいくらかは政治の無策と背をあわせていたことを、ぼくらはにごりない目で見きわめていなければなりません」   とありますが、これはまさにいまの時代にも言えてしまいますね。




メモ: 146~7、170、204~209、229ページ。

2011年6月16日木曜日

愛と家族と死

 これらの3つは、確実に『ギヴァー』のテーマに含まれていましたが、それらを真っ向から扱った本が、『ギヴァー』の前年にニューベリー賞を受賞したシンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』です。しかし、それらの扱い方はあまりにも対照的です。ぜひ、ご一読を。すぐ読めてしまいます。

 シンシア・ライラントさんの本がもっと日本語で読めるようになることも祈っています。

2011年6月14日火曜日

『ギヴァー』の感想・書評サイト

 アマゾンのカスタマーレビューでは、複数の本の感想・書評が読めます。
 新評論社の『ギヴァー』講談社版(すでに絶版)の『ザ・ギバー』 、そして原書のThe Giverです。ありがたいことに、原書のレビューも含めて全部日本語です。

 さらには、アメリカ・アマゾンのレビューもあります。なんと、その数3344も。★ もちろん、全部英語です。
 その中で、私の気をひいたのを一つ紹介します。

This book I read first in 5th grade, and I loved it. Then I read it again in 7th grade, understood more, and then finally the last time I read it was in 8th grade, 3 years ago, but I loved it. I try to read it about every three years because it is the kind of book that you'll love the first time you read it, but the more you read it, the more you understand. This book is touching, and it makes one think about our own society and where our future might be. If taken seriously, this book is a work of art, written so both children and adults can enjoy it. Definitely I recommend this to anyone who wants to see a different point of view on where technology and the media might be leading us! (December 29, 1999, By A Customer)

 これを書いた人は、1999年当時、11年生=高校2年生でした。計算してみると、3年前の1996年は8年生。7年生の時は1995年。そしてはじめて読んだ小学校5年生の時は、『ギヴァー』が出版された1993年だったわけです。

 いまは29歳前後のはずですが、いまでも3年おきに読み続けているか、聞いたみたいものです。「3年おきに読むようにしている」と書いているからです。また、「読めば読むほど、理解が深まる」とも。

 さらには、「これは心に響く本で、自分たちの社会のことを考えさせてくれる」し、「この本は一級の芸術作品で、子どもも大人も楽しめます」と、高校2年生当時に書いています。★★


 他にも、読書メーターAllReviews読書感想文を見つけました。


◆紹介した以外の感想・書評サイトがありましたら、ぜひ教えてください。◆


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★ こんなに桁違いのレビューが書かれている理由は、確か2年前の段階で、530万部も本が売れているのと、その内容のよさだと思います。

★★ この人は、高校2年生でこんなことを書いていますが、50歳を過ぎて読んだ私も同じように感動しました。それが、講談社が版権を放棄した本の復刊に私を駆り立てました。『ザ・ギバー』が残念ながらあまり売れなかった理由の一つは、「ユースコレクション」という形で中・高生に対象を限定したことだと思ったので、マーケット調査を日本でもしたところ、小学5年生から79歳までが確実におもしろいと思ってくれたことで復刊にこぎつけることができました。

  「一級の芸術作品」かどうかは、私はあまり多くの小説を読んでいないのでわかりませんが、「自分たちの社会のことを考えさせてくれる」ことは同感です。それが、このブログを(一冊の本をテーマに)こんなにも長く続けられる理由ですから。

2011年6月12日日曜日

『逆説の日本史』第17巻

 テーマは、「アイヌ民族と幕府崩壊の謎」です。

 私たちは、1853年のペリーの黒船による浦賀来航によって開国したと思っていますが(それは、日本の歴史教育の結果!)、実は、そのはるか前からその予兆はあったにもかかわらず、時の政権担当者たちが、その無能さゆえに全部それらを握りつぶしていたのが原因だったというのです。

 どれだけの予兆があったかというと、

・ 1786年:田沼意次によって行われた「蝦夷地調査」「蝦夷開発計画」が松平定信によって中止される(「葬り去られた」という方が正しいぐらい)

・ 1792年:林子平の『海国兵談』の出版禁止。ロシア船エカテリーナ2世号が漂流民の大黒屋光太夫らを伴い、根室に来航。これも、松平定信の「業績」。

・ 1804年:ロシア使節レザノフが巨大戦艦ナデジュタ号で長崎に入港。愚劣な外交でレザノフを激怒させ、その部下フヴォストフが択捉島、礼文島、利尻島などを攻撃し略奪する。

・ 1808年:オランダ国旗を掲げて長崎に来航したイギリス船フェートン号が、やりたい放題をして去る。(なお、この時点で地球上にオランダ国旗がなびいていたのは、長崎の出島のみ) ~ この事件がきっかけで、佐賀藩は教育、財政建て直し、火薬製造、蒸気船の開発などを発展させることになるが、幕府は動かず。

・ 1837年:アメリカ人の民間人チャールズ・キングがモリソン号で江戸湾に来航。フェートン号の反動で、砲撃を加えて追い返してしまう。

・ 1839年:蛮社の獄。高野長英の『戊戌夢物語』(モリソン号を打ち払ったことがいかに無謀であるかを夢中での知識人との討議という形で記し、江戸幕府の対外態度を批判した内容)。渡辺崋山の『慎機論』(幕府の年来の対外政策への不満を記した内容)。


   これらすべてを当時の幕府の政権担当者たちは、握りつぶしていたのですが、上に書いた佐賀藩をはじめ、長州藩と薩摩藩は目が覚めて、財政再建に動いたことが倒幕につながるきっかけになりました。 (1)

 スリーマイルやチェルノブイリから、いったい原発に携わる人たち(政府、電力会社、研究者、自治体等)は何を学び、どのようなアクションをとっていたのでしょうか? (2)

 同じことは、教育や学校についても言えてしまいます。 (3)

   (1) は、鎖国神話。
   (2) は、安全神話。
   (3) は、教科書神話、テスト神話、教えること=学ぶこと神話がはびこっています。

 過去と現実から学ぶ大切さと同時に、神話にまどわされない勇気を持ちたいです。
 (1)~(3)以外の分野では、どんな神話があるでしょうか?

2011年6月11日土曜日

教育の目的のそもそものズレ

 ピアジェの『教育の未来』が出たのは1972年ですが、日本の教育は彼が「してはいけない」と書いていたことをやり続けてきた(逆に、「やるべきだ」と書いていたことはまったくやれていない)ことに気づかされます。

 いったい何が問題なのでしょうか???

 これは単なる教育や学校関係者の問題というよりも、深く社会のあり方の問題とつながっていると思います。(教育や学校関係者だけがおかしいはずはありませんから!)『ギヴァー』で描かれている学校や教育のあり方もコミュニティのあり方と深くつながっていたように。

 この問題が象徴している点について、ピアジェに関する他の本を読んでわかりやすい図を見つけました。下の図です。

    出典: Young Children Reinvent Arithmetic, 2nd Edition, by
    Constance Kamii, p.63(Originally in “To understand is to
    invent” by Jean Paget 邦訳は、『教育の未来』)

 AとBには、大きなズレがあります。Aは自立した学び手を育てることを目的とした部分です。それに対して、Bは現時点での教育の目的です。それは意図してはいないのかもしれませんが、結果的には「依存」や「従順」を養っている部分の大きい教育です。各人が自分なりの知識や意味を作り出すのではなく、すでにある既存の知識を覚えることに時間とエネルギーを割く教育です(その大半は、テストや試験の後しばらくして忘れられる運命にある知識です。)それでも、少ないですがオーバーラップしているところ(青の部分)はあります。

 ピアジェは、右側のBの公的な教育の部分で「自立」に貢献していない部分を減らし、すでにオーバーラップしている部分を広げていく形で、Aの「自立」を促進するようにBを転換していく必要がある、と提唱していたわけです。

 この2つの円がずれているのは、ピアジェが指摘した教育の分野だけでなく、政治や環境や福祉など他の分野でも同じように言えることです

2011年6月9日木曜日

受身と依存の教育から、自立の教育へ

 ピアジェの『教育の未来』の最終回です。

 タイトルは、「受け身と依存の社会から、自立の社会へ」でもよかったのですが...コインの裏表の関係ですから。


104 一人の個人が知的な面で何らかの束縛にしばられている場合には、精神的・道徳的な面でも自律的な人格をつくることは不可能になります。自分自身の力で真理を見出すのではなく、命令に従って学ぶように義務づけられた個人は、自律的な人格を形作ることができません。知的な面で消極的受け身的な立場に陥った人間は、精神的・道徳的に自由であることはできないでしょう。 → 権威主義的な教育をしている限り、自立した人間葉育たない! 権威に従う人間を再生産するだけ。

 生徒の自発的活動を重んじる教育法は、人格の知的発達を可能にする唯一つの方法です。 ← 言い切ってくれています!!

 とはいえそこでは、集団の場からの働きかけのあることも、当然の条件とされています。 ← 関係性の大切さ。コミュニティの大切さ。

105 真の知的な活動は、実験的活動と自発的研究にもとづく真に知的な活動は、個人と個人とのあいだの自由な協力がなくては成り立ちません。先生から生徒への上から下への関係ではなくて、生徒同士の間の協力がなくては成り立たないのです。知的活動を行うためには、お互いにたえず刺激し合うことが必要でありますが、そのうえさらに、互いに検討し合い、批判的精神を働かせることが必要です。この2つの行為により、個人は、客観性とは何であるかを知り、証明の必要性を知るようになります。論理による思考作業は...つねに共同的な作業なのです。 ← 「自由な協力」や「共同的な作業」を中心とした授業を体験している人は、日本でどのくらいいるでしょうか? まだまだ教師一人ががんばる授業が続いています。

  伝統的な学校では、社会的関係として、教師と生徒個人との間の縦の関係しかありませんでした。知的・道徳的真理を所有する絶対的権威者としての教師と個々の生徒との間の関係しか考えていませんでした。教室で行う作業においても、家庭で行う宿題においても、生徒たち同士の間の横の直接的コミュニケーションや協力は、まったく考慮されていませんでした。点数だけがものをいい、試験が重くのしかかっていたからです。自発的活動を重んずる学校では、これとは反対に共同作業が前提とされ、個人作業とグループ作業がかわるがわる行われます。人格の発達のためには、そのもっとも知的な部分においてさえ、集団生活が不可欠であることが明らかとなったからです。 ← グループ活動の大切さ。一斉授業が中心で、グループ活動が付け足し程度じゃダメ。

118 相互的尊敬の持つ教育的意味、子どもたちの間に自然発生的に生まれた組織に根ざした教育法のもつ意味は、わからぬうちから出来合いの規律を課されるのではなく、行動の中で規律の必要性を見出しつつ、子どもたちが自分で工夫しながら規律を作ってゆけるようにするところにあります。自発的活動を重んずる教育法が、知的教育と同様道徳教育においてもかけがえのない役割を果たしているのは、まさにこの点にあるのです。単にうわべだけでなく、子どもを中から実際に変えてゆくようないろいろな道具や手段を、自分自身で作り出すように子どもを導いてゆくところにあるのです。 ← おそらく、日本の学校は、子どもたちにそんなことがやれるとは思っていない(同じレベルで、日本の社会は市民に自発的活動がやれるとは思っていない)。

 これは単なる心理学上の理論や論理的帰結ではありません。自治についての教育学的実験がますます豊かな成果をあげていることが、その何よりの証拠です。(私立の全寮制の学校や青少年犯罪者の施設の例などが紹介されているが、いまは学校の例も含めて、他にもたくさんある。)

122 自律性と相互性は、人格と自由の前提

2011年6月8日水曜日

伝統的な教育をやり続ける日本 = 今の社会のあり方

  ピアジェの『教育の未来』の4回目です。


90 伝統的教育を行っている学校の教育法は、子どもや青少年の中に能動的でしかも自律的な理性を育てることに成功している、といってもいいものでしょうか。

   伝統的な学校は、生徒に対して多くの知識を与え、その知識を用いていろいろな問題を解きいろいろな訓練をする機会を与えています。こうすることにより伝統的な学校は生徒の思考を<豊かにし>、いわゆる<知的体操>を行わせます。知的体操は、生徒の思考を強固にし、思考を発達させるものと考えています。誰もが知っているとおり、中等教育を終えてから5年、10年、20年もたつと、学校で習ったこれらの知識の多くは、忘れられてしまいます。 ← 1年もつでしょうか? ピアジェ先生に言われるまでもなく、受験生たちのほとんどは実体験を通して知っていることです。

91 これに対して、自発的活動を重視する教育法を唱える人たちは、次のように言うでしょう。言われるままに記憶した知識はほとんど忘れ去られてしまうのであれば、重要なことは学習プログラムの量を多くすることではなく、勉強の質をよくすることではないか、と。言葉をかえて言えば、自由な研究と自発的な努力により自分自身で獲得した知識のほうが、よりよく記憶されるはずだ、というのです。

92 心理学的な見地からは、自発的活動を重んずる教育方法がよいということが明白になってきます。自発的活動を重視する教育法を唱える人々の多くが想像するよりももっとずっとラディカルに、知的教育を改めてゆかなければならないということが、要求されているのです。 → 何年も前からわかっていることなのに、変えられないのはナゼでしょうか???

93 教育の内容がいかほど高くても、通常の教員に課されている自発性を重視せぬ教育法を取る限りは、よく知られているような難問に突き当たるのです。普通の学級において、教えられた数学をすぐ身につけることのできるのは、一部の生徒に過ぎません。

 数学の出来不出来が、将来の成功・不成功を示している、と思っている人は少なくありません。そのような人々は、数学の成績がよくないのは従来の数学教育法そのものが悪いからではなかろうか、などとは考えたこともありません。 → みんなできないのは自分のせいにしていますね!!

~102 数学教育の無知について、たくさんの事例を踏まえながら紹介

102 数学こそ、人格の発達にもっとも役立つ。知的自律性を確保するところの理性的・論理的な思考法を獲得するための、もっともよい分野です。そして、それにもかかわらず、旧態依然たる教育が行われ、人格の完全な発達と理性的・論理的思考法の獲得をたえず妨げているからです。なぜそのようになってしまったのか。ほかでもありません。大人にとって、幼少期・少年期の子どもから自発的・現実的行動を引き出すことぐらい難しいことは、ほかにないからです。→ だからこそ、自発的活動を重視した教育が求められている? でも、「人格形成に数学がもっとも役立つ」というのはピアジェ先生の偏見では?

103 ピタゴラスの定理を覚えたからといって、自分の理性を自由に行使することができるようになるわけではありません。この定理があることを自分で発見し、その証明を自分で見出し得たときに、はじめて、自己の理性を自由に行使することができるようになるのです。知的教育の目的とするところは、出来合いの真理を記憶したり繰り返しできるようにすることではありません。それというのも、模倣して繰り返された真理は、半心理でしかないからです。現実的・実践的行動を行えば、いろいろ廻り道をすることを余儀なくされ、時間を失うこともありましょう。知的教育の目的は、それを覚悟の上で、真なるものを自分の力で獲得することを学ぶところにあるのです。

さて、数学の方法論について以上のようなことが言えるとすると、言語・地理・歴史・自然科学、その他の科目の教育においても、自発的・実践的活動を重視した教育を行うべきだということを、一層大きな正当性をもって唱えることができるでしょう。 → 単に教えられたことを覚えるのではなく、自らが発見したり、作り出したりする必要性は前から言われ続けていますが、そうならないのはナゼでしょうか?? 常に、質がないがしろにされ、一時的な記憶の量が大事にされ続けています。

2011年6月7日火曜日

テストの弊害

  ピアジェの『教育の未来』の3回目です。


73 学校で行われる試験・テストの価値については、これまで多くのことが言われてきております。試験は教育にとって、まさに傷口であると言えましょう。そしてこの傷は、教育のあらゆる段階にその口を開き、教師と生徒との間の正常な関係を、損ない続けているのです。これは決して誇張ではありません。それは教師と生徒の両方において勉強する喜びを失わせ、お互いの信頼をなくさせているのです。試験のもつ本質的な欠点は、つまるところ、つぎのような二つの点にあります。まず、試験によって得られた結果は一般に客観的なものではない、というのが第一の欠点です。第二点としては、やがては試験そのものが目的となってしまう、ということがあげられます。入学試験とても、実は最終試験となってしまっているのです。中学の入学試験は、小学校教育の目的とされているのが実情です。学校で行われる試験は、客観的なものではありません。試験は生徒の構成的な能力を調べるよりも、むしろ記憶力にかかわるものだからです。学校時代の試験の成績とその後実社会に出てからの活動とがあまり一致しないということは、誰しも知るとおりです。試験は、目的そのものになってしまいます。★

試験を廃止しない最大の理由は、社会の中にある保守主義的傾向と競争原理にあると言えます。 ← 言い切ってくれています。


87 人格の発展とは、いったい何なのでしょうか。また、どのような教育法を行えば、人格の発展を確実に実現することができるのでしょうか。(これまでに、どんな取り組みがされてきているのか???)個人と人格とをはっきり分けて考えることが必要となります。個人とは、心理学においていう自我で、その中心は自分自身にあります。相互性の関係と衝突するものです。これに反して人格は、自分の自由な判断により規律を受け入れ、規律を作ることに協力する個人です。各人の立場を尊重することに自己の自由を従属させる相互的規律の体系に、自分の意志により従ってゆくことのできる個人であります。
88 人格は、相互性との調和をはかりながら自己の自律性を実現するものだからです。もっとはっきり言えば、人格は無秩序の反対であると同時に、外から課された強制に反対するものです...以上のことをまとめると、つぎのようにいうことができるでしょう。<人格の完全な発展ならびに人権および基本的自由の尊重の強化を目的とする>ということは、知的・道徳的な自律性をもって行動できる個人をつくることであり、相互性の規則を重んずるが故に他の人のもっている自立性を尊重する個人をつくることであって、この相互性の規則こそが各人の自律性を正当化するものである、と。
89 教育を受ける権利とは、とりもなおさず、活動的な理性と実生活にもとづく生きた道徳意識とを形作るのに必要なすべてのものを、学校に対して求めることができる、という権利ではないでしょうか。→ということは、まさにそれを提供する方法論の問題になる。自発的活動を重んずる方法に。


★ 以上の2つでテストの欠陥というか弊害を理解するには十分だと思いますが、少なくとももう一つ大きな問題があります。それは、知識として暗記したり、理解する部分の一部は測れるかもしれませんが、ピアジェが言う「構成的な能力」=分析、応用、統合、評価・判断、創造・想像等は測れませんし、社会に出てから(もちろん、その一部である学校の中でも)大切な態度や姿勢の部分=ライフスキルやEQについても測れません。このような観点から見ると、通常教室で行われるテストや、学力テストや、入試は、本来測られるべきものの中で20分の1ぐらい、高く見積もっても10分の1ぐらいしか測ることのできないことをわきまえた上で使った方がいいわけです。(ということは、評価の媒体としては「欠陥商品」として捉えることを意味します。)それが、あたかも個々の生徒のほとんどの能力を把握できるというような間違った認識では、生徒たちがかわいそうです。

2011年6月6日月曜日

『教育の未来』の56ページ

 民主主義の教育は、各個人の持っている能力を最大限に発揮させることによって、すべての人々を豊かにするように務める。だから民主的学校ではそれぞれの児童が集団や社会を豊かにするために、自分のすべての能力を発達させることを学ぶものである。集団の中のものは、他の(人が?)持つ能力、才能に関心を持っている。教育計画は学校内のすべての児童に、個人としての自分の力をじゅうぶんに伸ばし、自分の社会に貢献できるような、あらゆる方法を進める刺激と機会とを与えるように組織されるものである。(カッコは引用者)

 上の文章はどこから来たものか想像できますか?
 昨日のピアジェの『教育の未来』の56ページを思い出してください。
 たまたまある本を読んでいたら、見つけてしまいました。
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 なんと驚くなかれ、日本の文部省です。(いまの文部科学省の前身。)
 1950年に出された『小学校における学習の指導と評価 上』という資料の中の「民主主義においては個人差が尊重されねばならない」という中に書かれています。
 まだアメリカの影響を色濃く受けていた時代だから、こんな文章が書かれてしまったのでしょうか?
 いまも建前的には、同じようなことを言ったり、書いたりし続けているかもしれませんが、それが実現されるような教育、学校、授業になっているかというと、ほど遠い現状にあります。残念ながら、これが書かれた時よりはるかに後退しています。
 時が過ぎるとともに、私たちは進歩するのかな?、と疑問を持ってしまいます。

 「教育計画」は、いまとなってはほとんど教科書をカバーし、行事をこなす(プラス中学以上は部活)になってしまっています。もちろん、その2つ(プラス部活)がそれなりの「刺激と機会」になっているとは思いますが、「あらゆる方法」からすれば少なすぎます。

 その原因は、ピアジェが『教育の未来』の38ページに書いていたことにつきます

2011年6月5日日曜日

何よりも大切な教師の養成と研修

 ピアジェの『教育の未来』の第2回目のテーマは、教育改革の最大のテーマの教師の養成と研修です。
 わが国においても、その方法がわからないことが最大の問題であり続けています。
 文科省や教育委員会(や大学)も、その方法がわからないので、教科書でごまかしている部分が多分にあります。ピアジェが書いているように「いかほど立派な教育計画をたてても何の役にも立たない」のに。エネルギーのかけ方がずれているわけです。しかし、彼らにとっては教育を管理しやすい手段ではあるわけです。(マスコミも、「教科書」「教科書」騒ぎますし、「教科書」を題材にした番組もたくさん作り、「教科書神話」を上塗りするのに大きな負の役割を担い続けています。)

 56ページの部分は、何の疑問ももたないで、すんなり読めてしまうかもしれませんが、「個人のもっているいろいろな可能性を、有効かつ有益な形で社会の中に発現させる」のにいまの学校や授業が合っているかというと、まったく合っていません。それは、ピアジェのこの本の今日紹介する以外の部分に書かれていることからも明らかです。そして、上(=38ページ)との関連では、教師たちがそれができるように養成・研修されていないのですから。


38 教員の養成の問題こそは、これから行われるべき教育改革のすべてに先立って解決されなければならない問題なのです。それというのも、この問題が満足すべき形で解決されぬ限り、いかほど立派な教育計画をたてても何の役にも立たないからです。

43 世界人権宣言第26条  = 教育に関する部分

56 教育を受ける権利とは、個人にとっては、自分のもっている可能性に応じて正常に成長する権利以外の何ものでもないでしょう。またそれは、社会にとっては、個人のもっているいろいろな可能性を、有効かつ有益なかたちで社会の中に発現させる義務以外の何ものでもないのです。
 → と同時に、社会の問題を解決・改善しようとする場合に、基本になるのは教育の質です。そして、それをよくしようと思ったら、教師の質をよくするしかないのですが...

2011年6月4日土曜日

ピアジェの『教育の未来』

   紹介する(関連する)本の内容がガラッと変わります。

 ジャン・ピアジェは「心理学」では有名ですが、日本ではあまり教育の分野では知られていないと思います。でも、欧米ではここ20~30年行動主義に変わる教育の主流になりつつある構成主義の元祖としてレフ・ヴィゴツキーと並んで脚光を浴び続けています。この本はタイトルのとおり、彼の教育への提言をまとめたものです。今でも(教育には永遠に)必要なことをたくさん述べてくれています。
  わが国においてはこれらの原則的なことを、ちゃんとやっていないんだから、よく学べない状態が続くのも当然、と思わせてくれます。ローリーさんも『ギヴァー』の中では伝統的な学校や教育観で描いていたような気がします。従って、ギヴァーには「学校での教育に期待できるものはあまりない」ようなことを言わせていたようにも記憶しています。 (左側の数字は、例によってページ数です。)


●自発的活動や探究の大切さ

13 心しておかねばならないことがあります。それは、ここでも求められている改革とは、単に数学・物理学・化学・生物といった自然科学教育の個々の分野の専門化した教育法を求めることではない、ということです。むしろそれは...自発的活動を重んずる教育法とはどんなものか、といった問題を考え直してみるところにあります。また、子どもや青年の発達に関して得られた心理学的知識を教育に適用する問題など、もっと広範な多くの問題を問うことなのだ、ということです。そしてこのような広い意味を持った問題を、現在まだ世の中を風靡している学問の細分化の傾向に抗して、あらゆる水準で問い直さなければならないということです。

14 そこでまず、心理学上のある基本的事実に注目していただきたいと思います。というのも、一般に認められていることとはかなり矛盾するある重要な事実があるので、そこから出発するのがよいと思われるからです。生徒一人ひとりの間には能力の差があって、その差は年齢とともに開いてゆくということは、一般には自明のことと考えられています。

15 ところが、一般に信じられているような能力差のあることを証明する組織的データは、わずかな数の女児の場合を除き、得ることができませんでした。そして、これらの女児に差が認められたのも、実は知能が劣っていたためではなく、常にこれらの問題に興味がなかったからにすぎませんでした。知能水準が平均以上の生徒はすべて、どの年齢においても、同等の理解力と積極的な取り組みの態度を見せたからです。

 私たちの仮説によれば、知能水準が同等であるのにある生徒は他の生徒に比べて数学や物理に優れているという場合、この生徒が他の生徒と違ってもっているいわゆる適正能力とは、与えられた教育の形式に適応していくことができる能力なのだ、ということです。従って、他の科目の成績はよいがこれらの科目には弱いという生徒も、別の筋道を通って学んでゆけば、理解できないと見えたこれらの問題を充分にこなすことができるはずであります。

17 第一の条件は、当然のことながら、自発的活動を重んずる教育法を取ることであります。幼児や少年の自発的な探究を本筋とし、習得すべき真理をただ単に伝達することを止め、生徒が自分自身ですべての真理を発見したり再構成したりできるようにすることであります。ここでの誤解は、この種の試みにおいては教師の役割はゼロになってしまうというもの、またこの方法を着実に行うためには生徒をまったく自由な立場におき、好きなように勉強させ好きなように遊ばせるようにしなければならない、というものです。(両方とも間違いです。教師はしっかり環境・雰囲気を整備しなければなりませんし、反対の例を挙げたり、様々な問いかけをして子どもたちに考えさせたり、結論を急がぬように自制させたりする役割があります。また、基礎心理学的な知識と実践者になることも求められています。)

21 実のところ、教師が生徒の前でやって見せるだけの実験は、本当の実験とはいえません。また、たとえ生徒たちが自分の手で行ったにしても、すでに定められた方法に従って、言われたとおりにやるのでは、本当の実験ではありません。

 自発的活動を重んずる教育法の基本原理は、科学の発達の歴史をたどる中で考え出されたものであります。それを一言でいえば、次のように表すことができるでしょう。「理解するということは、発見し発明すること、いいかえれば、再発見して再構成することである。」将来、単に教え込まれたことを反復するだけの人間でなく、ものを作りだしたり創造したりすることのできる人間をつくるためには、まずこのような条件を必然的条件として引き受けることが必要です。

2011年6月3日金曜日

『親鸞と道元』 3

 『親鸞と道元』の最終回です。


222 知床に毘沙門堂を建てた立松さん ~ 「スローな宗教」
    自然と合体した人びとの祈り

235 人はなぜ、お遍路に行くのか
236 死とはすなわち旅という感覚
245 旅で死にたい、という五木さん ~ 自然死(五穀を断って成仏する)、自分を殺すのは自殺

251 阿弥陀仏とは、隈なく照らす月の光のようなもの

261 浄土というのは、特別な場所じゃなくて、われわれの現世、生きているいまの時代には、自分自身を相対化する、そういう存在ではないかと思うんです。いまの自分の考え方、いま身をおいている社会を相対化していく、照らし出すものではないかと思うんです。

275 戒律も、懺悔すると許されるというシステムだった。 ~ とても柔軟

280 日光の男体山で経験した足元を照らす一灯の光
    救いになるのは、前を歩く人 ~ 生き方を教えてくれる、死に方を教えてくれる → そういう存在が身の回りにたくさんいたのが戦前まで、という感じでしょうか? いつの間にか前を歩く人を失ってしまった社会をつくってしまいました。

284 何かの信仰に入っていくのは人間を通じてなんですよ。本を読んで、突然目覚めて信仰に入るということは、ありえないことではないと思うけれど、それはあまり続かない信心だと思います。

296 宿業(しゅくごう)は、運命と違って、前向きな思想。いまここで自分がどういう行いをするかによって、あとの結果が決まってくるというわけだから。全部背負わされたということではなくて、自分のいまの選択が、あとの結果を決めるという発想とつながっているのです。前世、現世、来世のつながり。 → なんか『哲学者とオオカミ』のテーマだったような? そして、『ギヴァー』のテーマでもあるような。

298 宿業観というものは仏教の原則の一つで、根本だと思います。人はよき行ないをすれば、よき結果につながるという考え方は、仏教の根本にある考え方です。
    仏教の根本は、「衆善奉行、諸悪莫作」(しゅぜんぶぎょう、しょあくまくさ)といって、よいことを行ない、悪いことはしないという、これにつきるんだと思うんです。

300 すべては変わるという、不変なものはないという考え方が身についている場合には、たとえば自殺しなくてもすむんじゃないかという気がするときがあります。
301 やっぱり逃げ場がないという考え方を否定するのが仏教だと思いますね。逃げ場はあるというか、状況は変わる。ポジティブな考え方。 → これは、救いです。

2011年6月2日木曜日

『親鸞と道元』 2

92 宿業(しゅくごう) → 296と298ページ
93 業縁(ごうえん)
   善とか悪とかいうものは相対的なもの。「業縁あれば、人は状況のなかで常に変化するものだ」 人の善悪は簡単に評価してはいけない。

117 悪人正機という説に出合ったときの衝撃。規制の枠の中(いいことをした人間はいい報いを受け、悪いことをした人間は悪い報いを受けるのは当然!)で考えていたことを粉砕される。 → 今回の原発事故にも言えてしまう??

108 親鸞がしたことは、個人というものを信仰と結びつけたこと。個人の信仰を確立した。親鸞は近代に至る前に個人の自我というものを確立した。それまでの宗教は国のため。

184 法然、親鸞、道元は、個人のための信仰。白衣から黒衣への転換が象徴するもの → 「国のための電気、個人のための電気」と考えてしまいました。まだ、ほとんど後者が考えられていなかったがゆえに起こってしまった今回の悲劇? しかも、営利企業と国が密接につながっているわけですが、個人の存在は単なる「ありがたく分けてもらう対象」でしかなかったし、そうであり続けています。少なくとも、電機が登場する以前は、そういう関係はなかったわけで......

109 アニミズム=自然発生的な信仰観は非常に深くあったと思う。だから人々は祭りをし、いろいろなものを畏れ、敬った。だけどそこにはやっぱりこの思想はなかったと思います。 → 電気や自動車に代表される文明の利器が、そういう部分をドンドン減らしていったんでしょうね。

110 『木喰』立松和平著

119 現世往生説 = この世に生きている間に、いっぺん自らの生を清算して、そして生まれ変わって、そして念仏を信じて生きるという生き方に変わったときに、その人は仏と等しくなるという考え方

138 中国から何もお持ち帰らなかった道元のすごさ → 中国に行くことを考えなかった親鸞のすごさ

143 道元も、法華経を唱えながら亡くなった

 本覚(ほんがく)思想、悉有(しつう)仏性、悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)

156 「仏道を習うということは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり」

160 煩悩は死までつきまとう

203 『歎異抄』 読むたびに変わるもの

207 ブッダも、親鸞も、いまをよりよく生きるために語った人

218 戦争前から戦争中は「思考停止の状態」 → 現代も?! いまの政治や、テレビ等の状況を見るにつけ、そう言わざるを得ないというか、いてもいなくて/あってもなくても同じ状況が、すでに長年続きすぎています。(さらに言えば、いること/あることの弊害が大きくなっています。)

2011年6月1日水曜日

『親鸞と道元』

 『ギヴァー』と関連のある本27で、五木寛之さんの『親鸞』上を紹介しました。その時は宗教的な本というよりも、親鸞の生き様として読みました。ジョナスに引きつけながら。

 今回の本は小説『道元禅師』を書いた立松和平さんとの対談集です。(どちらが発言したのかについては、書き出していません。)二人の問題意識は、「少なくともここ10年以上、日本では命のデフレ、魂の恐慌が起こっている」(16ページ)にあると思います。

 ちなみに、『ギヴァー』と関連がある本なのか、そうでないかの基準は極めてあいまいです。たとえば、今回の本は関連があるのか、前回紹介していた『哲学者とオオカミ』は関連があるのか、自分でもどう位置付けたらいいのか悩んでいます。


29 親鸞、道元、栄西、日蓮、法然 ~ まさに宗教的なルネサンスの時代

49 そして、全員が比叡山の中退組 ~ 規制の枠組みに入っていては大事はできない!

41 面授 ~ 本当に大事なところは、文字や文書では伝えられない。必ず師から弟子へ面と向かって伝えていかないといけない。心から心へ伝えることが大事だと。語られる言葉こそが、実は真実だと思っている。なぜかというと、語られる言葉には表情があり、声という声色があり、それから身振り手振りがあり、その時の目の色があり、感情がこもっている。面授とは、それらをまるごと言葉として伝えるわけです。対面しての面授がなぜ大事かというと、言葉に含まれた諸々の要素を全部、全的に受け取ることができるから。 ~ ギヴァーからジョナスに伝えられたことは、まさに面授によるとも言える気がしました。

42 文字というのはそうではなくて、語り手の本当の全的な真意は伝わりません。
   釈迦(お経)も、キリスト(バイブル)も書かなかった。

190 文章が伝えるものというのは、そのときの自分の声とか全身全霊とともに語る言葉として伝えられるものではないから、真実の半分ぐらいしか伝わらない。

192 真宗ではいまでも聞法(もんぽう)を一番大事にするんです。要するに、直接声で話を聞くということです。文字で読むのではなく、聞法で、人から人へと直接伝えるということです。
    空海にしても最澄にしても、中国に渡って、師匠の正当な教えと向き合って、面授されることが必要だからです。どの本に出合ったかということが大切ではないんです。

44 本来は古典も一回性のものなんじゃないか。詩も、歌も、経も、肉体から肉体に伝えられるものなんです。

45 『ブッダのことば ~ スッタニパータ』中村元訳・岩波文庫

50 道元は、比叡山の修行中に重大な疑義を持ってしまった。親鸞も。法然も。 ~ 疑問、疑いを持つことの大切さ。それが新たな行動のエネルギーに。

 道元と親鸞の共通点: 両者とも比叡山に入った。幼少で母と別れた。貴族の出身。中退して比叡山を下りた。そして比叡山にいるときに非常に大きな疑惑というか疑義にとらわれた、疑いを心に抱いた。

 道元は、すべてのものに最初から仏性があるなら、改めて厳しい修行をする必要があるのだろうかという疑義。 親鸞は、修業しても、仏に出会えない。

55 道元と親鸞を結びつけるもの: 日本の文化、日本の思想、日本人の仏教にした

75 すばらしいことをやっている間に、いかに死ぬかということを考えなくちゃいけない。

79 心身(しんじん)脱落 = 意識しなくてももっている秩序や観念の関係性がバラバラになって、自由自在になるという境地のこと

80 いまのわれわれが生きるためには、数知れない小さい悟りを大切にしていく。 ~ 気づきおよびそれにもとづいた行動

87 宗教的なものに惹かれるのはシックマインド。ヘルシーマインドには宗教は必要ない。 前者は、「病める心」というよりは、「悩める心」。

89 自然とはいったい何か? 私は日記を毎日書いている。だれが来たとか、どこでどうしたとか、箇条書きでそっけもない文章を書いている。余白に、自然の観察もメモしてあり、それを後で見ていくと、ほとんど一緒だ。多少、一週間ぐらいの違いはあるけど、ほとんど一緒といってよい。これが自然だ。 ~ 今回の地震と津波、そして放射性物質による汚染について考えさせられてしまいます。