「大きな違い」ということでは、ドラマ教育にも同じことが言えてしまいます。
私は、2003年に『ドラマ・スキル』(レスリー・クリステン著・新評論)を訳しました。
私がその本を日本の人たちに紹介したいと思ったのは、たまたま2001年1月にオーストラリアの高校を訪ね、世界的にも「ドラマ教育」に熱心と言われているオーストラリアのドラマの授業を実際に見てしまったからです。
生徒たちが、なんと楽しく、生き生きとしていたことでしょう。これは、日本の学校で行われているたくさんの授業はもちろんのこと、オーストラリアでも他の教科ではなかなか見られません。
何よりも、からだを動かすのがいいようです。本来、あれほどエネルギーがあり余っている小・中・高校生を、ほとんど体育の授業以外は椅子に座らせたままにしておく方が、おかしなことなのですから。じゅうたんが敷きつめられ、机のない大きな部屋も、生徒たちには開放感を与えていたのかもしれません。さらには、からだを使って創造的に自分を表現することも、楽しさや生き生きしていることの大きな要因ではないかと思えました。
そして、私は真剣に考え込んでしまったのです。
「子どもたちが、こんなに楽しく、生き生きとからだを動かせ、しかも自分のことを表現できる時間が、学校にあるのと、ないのでは、学校にいるときはもちろん、卒業して社会に出てからも大きな違いが出てしまうのではないか」と。 (以上、訳者まえがきより)
ジョナスの友だちのアッシャーとフィオナが「戦争ごっこ」をして遊んでいるシーンが出てきます。ジョナスも、戦争の記憶を注がれるまでは、一緒に楽しくやっていたのに、真実を知った後は、できなくなってしまいました。
私は、戦争ごっこをした記憶はありませんが、「チャンバラごっこ」をした記憶はあります。
いずれも、一種のドラマ(教育)ではないでしょうか?
さらに考えてみると、私たちに日常の中には、演じていること(ドラマをしていること)がとても多い気がします。いろいろな役を(意識する・しないに関わらず)演じつつ生きているような気がします。意識してやっている部分が「教育」ということなのかもしれません。
また、意識する・しないの両方に、強要されている部分が多分に入り込んでいる気がしないでもありません。それもいろいろな形で。
そういう諸々のことに、ジョナスのように、意識的に、そして選択的に生きはじめたら、どういうことになるんだろう、とも考えます。
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