『ギヴァー』の中で描かれているコミュニティは、私たちの社会と「似ているけど、違い」ます。
そのことを、私たちにとっては極めてあたりまえな家族、結婚、生と死、子どもの成長、学校、仕事などを使いながら鮮明に描き出してくれます。
「似ているけど、違う」は「私たちとよその人たち」の違いでもあります。リリーが学校(?)で遊んでいた時に、隣のコミュニティの子たちが来ていて、滑り台だかを使うときにちゃんと並ばずに割りいって遊ぶという行為をしていたことに対して、リリーが怒っていたところが描かれていました。これは、ひょっとしたら、ローリーさん自身が代々木のワシントン・ハイツから出てきて渋谷の街を観察していると、あちらこちらで見かけた風景だったのでは、と察しました。日本では整列して待つということが30年ぐらい前までは習慣としてありませんでしたから。電車やバスなどを整列して乗車するようになったのは、結構の努力が要りました。タバコの禁煙化や女性専用車両なども、似たようなルールです。
自分の仕事の決め方も、私たちの社会とは違う決め方です。権威とそれなりに観察力と洞察力のある人たちによって、一番向いていると思われる職業が割り当てられます。
生や死についても、他の人がタイミングを見計らってくれます。
何の不便もないコミュニティですが、住人たちはすることや言うことのすべてを録画・録音されており、必要に応じて注意を受けたり、最悪の場合は<解放>されてしまうこともあります。
こうしたたくさんの「似ているけど、違う」を通して、「いまのあり方でいいんですか?」とローリーさんに問いかけられている気がします。
(参考: A Reading Guide to The Giver, by Jeannette Sanderson, Scholastic, p. 30 - 32)
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