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2010年3月31日水曜日

うまい人の活用



 そういえば、訪ねた学校でうまく活用された体験が別のところでもありました。

 以下は、リーダーの役割について学校の校長たちを題材に取り上げてまとめた『校長先生という仕事』★(平凡社新書)からの引用(48~50ページ)です。  

★ この本では、4人の校長の「追っかけ」をしています。2人の日本人校長と、2人のアメリカ人校長の。そして、その時間の使い方と教師を中心に人との接し方の違いが明らかになります。以下に紹介するのはそのうちの一人で、午前8時から9時までの間に起こったことです。



 なお、ティムさんは、生徒数1550人、教師数80人、副校長3人の高校の校長さん。
 学校は、高校生の銃撃事件で一時有名になったコロンバイン高校に近い、アメリカ・コロラド州のデンバーにあります。

八時少し前に部屋に戻り、社会科教師のキムとのミーティングは八時丁度からはじまる。
その入ってきた先生を紹介された後、確認の意味も含めて「退席した方が、いいですか?」と尋ねると、「あなたもミーティングに入って、アドバイスをしてあげてください」と極めてオープンである。★従って、話されている内容に集中せざるを得なかったので、メモをとることがおろそかになってしまった。

★ この辺の人の使い方は、とてもうまいと思う。「利用できるものは、なんでも利用してしまえ」というのをまさに地で言っているような気がした。日本だったら、このレベルの話でも「個人的な内容」ということで退席を要求されると思う。もちろん、中・高レベルで、教科違いの校長に自分が教える教科の中身の相談を個人的にするということ自体、考えられないと思うが。
 とにかく、こういう人の使い方のうまさというか、オープンさは、何から来ているのか、といろいろと考えさせられてしまう。わずか一時間前に、初めてあった、それも異国から来た人間に対して、カリキュラムについての話に同席してもらい、かつアドバイスまで要求するということについてである。部分的には、彼らの人間関係のつくり方にあるのだと思うし、もう一つは、ティムさんの自信のようなものも感じた。こちらがテストされているような感じもしないではなかったが。

この時キムから提起されたことは、三点あった。
1)自分の時間の使い方
2)最終学年の社会科の中身
3)成績のつけ方
この中で、話し合いというか、私の意見を求められたのは、二番目である。1)の時間の使い方については、ティムさんも基本的にはキムの希望である「家族のために、教える時間を減らしたい」という要望を聞いて、それを尊重し、最大限実現するように努力する旨を伝えていた。3)については、どれだけ話し合いが行われたのか、残念ながらまったく記憶も記録がない。話の中心は、キムから一枚の資料も提示されていたこともあって、2)の最終学年の社会科の中身についてであった。
 キムからは、これまで教えてきたテーマや自分が教えたいテーマが、全部で一〇ほどリストアップされたものがタタキ台として提示されたうえで話し合いが行われた。それには含まれていなかったが、他にもボーダレス、貧困、メディアの力などのテーマもあり得ることも追加説明された。
 私とティムさんがキムに言ったことは、
     生徒たちの興味・関心を第一に考えること
     コースのねらい(ないし達成したいこと)は何かを明確にすること
     それを明らかにした上で、それに至るプロセスを考えること
などであった。


  こういう活用法というか人間関係のとり方というのは、『ギヴァー』の世界にも、日本にもないと思った。いったい何の違いが、人間関係の違いを招いているのか?

2010年3月30日火曜日

コミュニティについて 4の4

NAVET(車輪の軸)というスウェーデンのオレブロ市内にある公立学校の紹介の続きです。


学校訪問の中には、なんと、しっかり授業にゲストとして登場することも計画されていました。(結構、欧米の学校では来訪者を自分たちの授業に活かす発想が行き渡っています。あちらからわざわざ来てくれた人を、活かさない手はありませんから!!)


50分間の最上級生の英語のクラスでした。


こちらから話をする必要はまったくと言っていいほどなく、質問攻めでした。


質問をしていたのは5~6人に限られていたのが残念でしたが、みんな熱心にやり取りを聞いていましたし、質問のレベルの高さには参ってしまいました。


内容は、なんと日本の教育(問題)のことや、日本人が何を持って幸せと感じているのかなど。
もちろん、こちらの答え方や話の内容がそうしていた部分もあったのですが、結構、日本の教育の“悲惨さ”についてはテレビ等が報道しており、「なぜ、あんなにしなければいけないのか?」はぜひ知りたいことのようでした。
主には、受験のことです。そして、それが社会全般に及ぼしている影響のことについてです。


振り返ってみると、彼(女)らが納得できるような説明ができたとは思えません。


と同時に、単純な眼で見ると(「よそ」からの視点で見ると)、「とてつもなくおかしなことを、みんなでやっている」としか言いようがないようにも思え、それに気がつければ、そのおかしなことをやめられそうな気もしてきたから不思議です。


つまり、日本の教育の現状を言いわけ的に説明したり、弁護したりするするよりも、彼(女)らの質問に対して、「そうなんです。ご指摘の通り、私たちはおかしなことをしてるんです」と言いたくなってしまったというか、言わざるを得ない部分は多分にあるんだろうな~と思った次第です。


いい質問や本質的な質問をしたり、されたりというのは大事ですね。


「内輪」だけの視点では、それはなかなか出てきません。「よそ」の(異なる)視点の大切さに気づかせてくれます。


この点も、『ギヴァー』と関連あると思われませんか?

『ギヴァー』新訳版ちらし

2010年3月29日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 19

ここしばらく、スウェーデンのオレブロ市の(それも、3以降は、コミュニティ・スクールの)事例を紹介しているのは、『ギヴァー』の舞台設定となっているコミュニティの意思決定や、それへの住民/構成員の参加の仕方は、いったいどうなってるんだ、という素朴な疑問から発していました。

民主的な物事の決定の仕方というよりは、「長老たち」による合議制で決まっているようです。

それで思い出すのは、塩野七生著の『ローマ人の物語』です。

その中では、共和制(=元老院の合議制)による意思決定について書かれていますし、カエサルによって築かれた終身独裁官による統治(帝政)についても書かれています。もちろん、そのスケールはジョナスのコミュニティとは段違いですが。 (ちなみに、カエサルは初代の終身独裁官ではなく2番目でした。)

『ローマ人の物語』は、そういう統治機構について考えるのに、とてもおもしろい本ですが、「記憶」ということについてもいろいろな示唆を与えてくれると思います。

また、ジョナスのコミュニティの宗教については皆目わかりませんが、『ローマ人の物語』は多神教だったローマがキリスト教に移行する過程などについてもおもしろく描かれています。

そして、おそらく塩野さん自身の主テーマであるリーダーおよびリーダーシップについては当然のことながら。

そういえば、塩野さんのルネッサンスものも、同じようなテーマを扱っていました。
例えば、ベネチアを主人公にした『海の都の物語』は、もう20年ぐらい前に読んだ記憶がありますが、ベネチアという国家/コミュニティをいかに維持したらいいかという壮大な物語だったはずです。

2010年3月28日日曜日

コミュニティについて 4の3

NAVET(車輪の軸)というスウェーデンのオレブロ市内にある公立学校の紹介の続きです。 今回は、学校のソフト、つまりプログラム面です。


朝、学校に到着して、建物に入ったときから驚きました。受付にいるのが生徒なのです。約30分の校内のガイドをしてくれたのも生徒でしたし、とにかく最上級生が、いろいろな仕事(本来は教師がするようなこと)を担っているのです。それらをすること自体が、重要な学びと位置づけられているからです。生徒たちも学校の運営も含めて、自分が学ぶということに受身的にではなく、積極的にかかわるべきであるということ(あるいは、それが「義務」ということ)で、実行しているそうです。何を、どのように学ぶのかは、生徒たちにとって極めて重要だ、と思わされました。 基本的に、「生徒たちができることを、教師がするのはおかしい」という考え方に基づいて学校が運営されています。あるいは、その考えは親との関係にも反映しています。


学校は、6つのユニットにわかれて運営されています。


ユニット      ①   ②   ③   ④    ⑤    ⑥
生徒の年齢  13-15  13-15  13-14  10-12   6-9    6-9
グループ数    3    4     2    3     4         4
生徒数       74  73   45   68  59   56
教師数        6   6    4    6   6   6


このユニットは、ある意味で学校の中の「学校」になっており、いろいろな話は、まずユニットで行われるそうです。校長が言っていた「私たちは、絶えず“学び合う組織”(Learning Organization)であることを目指しています」という起点になっているのが、このユニットなわけです。
生徒も、教師も、このユニットのレベルで、学校の様々な運営に参加していきます。学校の施設をどう使うか、予算をどう使うなども含めて、まずはユニットで話し合い、決定したことを校長と個別に、ないしユニットの代表が集まって全体で話し合うそうです。例えば、教員研修も、このユニットにある程度の決定権が与えられており、予算をどう使うかも含めて話し合われます。(教員には、1年間を通じて5日間の、夏休みには8日間の研修日が保障されているとのことでしたが、どのようなコースを取るかで若干予算がかかってくる場合があるからです。) まさに、デューイが言った「民主主義の練習の場としての学校」を実践している!と思わされました。


学び合う組織を目指して、もう一つ重視していることは教師がしっかり自分のしていること(教え方)を「研究者」として客観的にみられるようにしていくことです。これも欧米ではよく言われ、かつかなりの実践が行われてきている分野のアクション・リサーチ(つまり、教えながら、いろいろなデータを集め、自分の教え方を評価し、振り返り、さらに練り直して教える。このサイクルでクラスの中での実践が向上していく、というアプローチ)などが導入されています。


その表れとして、子どもの世界は学校だけではないし、学びの場も学校だけではないので、積極的に学校の外に出て、実際に見たり、体験したりすることが奨励されています。しかし、ただ学校の外に出ればいいというわけではないので、プロジェクトとして、つまりある特定のテーマが設定されて、それを調べるために出て行くことになります。もちろん、調べたままで終わりではなく、クラスの中で発表するところまでするのがプロジェクト・アプローチです。教科の枠を越えて、生徒たちの関心に合わせて設定されたテーマについて学習するアプローチで、1週間全部をこれに使うこともあるそうです。これをするには、当然教師同士の連携・協力が不可欠です。テーマは、学年に応じていろいろですが、その時々の社会の関心事が扱われることも多いそうです。例えば、エリトリアや脳死など。(ちなみに、日本でも「総合的な学習の時間」として導入されましたが、導入した側(文科省)も、やらされる側(学校、教師、生徒)も、何がなんだかわからないままに過ぎ去ろうとしています。とてももったいないことです。発想は全然間違っていないのですが、導入のされ方がおかしかったので、価値のあることをやれないまま葬り去られようとしています。) 


2001年に再びこの学校を訪問した時は、廊下のアチコチにマルチ能力のポスターが貼ってありました。マルチ能力は、人の能力を多様に捉えようとする教育理論であると同時に実践です。少なくとも、①言語能力、②論理的・数学的能力、③空間能力、④身体・運動能力、⑤音感能力、⑥人間関係形成能力、⑦自己観察・管理能力、⑧自然との共生能力です。子どもたちにわかりやすい言葉でいうと、①ことばが得意、②数字が得意、③絵が得意、④からだを使うのが得意、⑤音楽が得意、⑥人と接するのが得意、⑦自分のことが得意、⑧自然が得意、です。


能力をこういうふうに多様に捉えることができると、すくわれる子がたくさんいます。なんといってもいまの学校で認められているのは圧倒的に①と②が中心ですから。そして、絵や音楽や体育は付け足しです。しかし、これらの能力は、そのまま教科に置き換えて考えることが目的ではありません。例えば、私のように空間認識能力の高いものにとっては、地理や歴史が得意でいいですね、で終わらせてはもったいないのです。場所に関連づけてくれれば、ほぼ何でも苦労することなく頭に入る脳の構造をしているようなので、国語、算数、理科等の教科も場所に関連づける形で提示されれば、得意科目になるわけです。
同じようなことは、からだを使うのが得意な子は体育や技術や家庭科で際立つだけではなく、動くことを国語、算数、理科、社会に導入することで光れるようになるわけです。同じことは、音楽や人間関係等、すべてに言えるわけです。
能力を狭く捉えてしまうことの弊害に気づいていただけたでしょうか。 絶版になってしまいましたが、興味のある方は『マルチ能力が育むこどもの生きる力』(トーマス・アームストロング著、小学館)を図書館で借りて読んでみてください。多くの子どもたちが救われる方法がたくさん紹介されています。


『ギヴァー』の中の職業(係)の割り当ては、この辺のことをどう踏まえていたのかな、と思ってしまいます。

2010年3月27日土曜日

コミュニティについて 4の2

NAVET(車輪の軸)というスウェーデンのオレブロ市内にある公立学校の紹介の続きです。

地域の中にある学校を計画段階から強く意識していたNAVETは、地域とのかかわりを積極的につくりだしていこうとするコミュニティ・スクールのアイディアを、イギリスやカナダから学んだそうです。昔のスウェーデンの村の学校はまさにこんな感じだったらしいですが、それはすでに消えてなくなっています。初代の校長は、準備の段階から関わったので、実際イギリスなどにも視察に行ったそうです。

昔あったいいものをそのまま戻すことは困難ですが、似たようなことを「ほかの地」でしていることなら、少しは容易だという時代になっています。もっともっと世界を広く見る必要性をつくづく感じました。国内だけでは、残念ながら選択肢がなさ過ぎます。

では、まずはハードな面から紹介していきましょう。

新しい学校だけあって、モダンにできています。と同時に、シンプルにできています。また、太陽の光を可能なかぎり取り入れるデザインにもなっています。そんなところには、緑や水槽などが置かれています。これらのめんどうを見るのも、生徒たちの役割です。
料理の実習、裁縫の実習、技術の実習、クラフトの実習、音楽の実習、コンピュータの実習など特別な教科の部屋も、充実しています。(それらは、地域の人も全部使えます!)

クラスは、3つないし4つの教室が一つのユニット(まとまり)を形成しています。ユニット毎に、トイレ、少人数で勉強できる部屋、一人で勉強できる部屋などがついており、生徒の多様な学び方(と教師の多様な教え方)に対応できるようなレイアウトになっています。各教室には、電話とコンピュータ(インターネット)が一台ずつついており、外との通信も大事な教育の手段として位置づけられています。
レストランを12時以降は地域の人が使えることはすでに書きましたが、おやつを食べ、新聞や雑誌を読めるティールームや、受付のホールにおいてあるビリアド(玉突き)なども地域の人が使えます。こうした共有の部分(外部にも開かれた部分)は、見通しがいいように設計されているのも特徴です。おそらく、外部の人が入ってきてもわかりやすようにという配慮からでしょう。なんと、受付から体育館の中も見えてしまうのですから!!

2010年3月25日木曜日

双子の一人を解放するシーン

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『ギヴァー』の中で、ジョナスの父親が、双子のうちの一人を「解放」(リリース)するシーンがあります。

この本の中のハイライトシーンのひとつと言ってもいいかもしれません。
その意味するところというか、現代社会におけるアナロジー(類似・相当する行為)について、ここしばらく考え続けています。

皆さんが、このシーンから読み取ったものや受けたインパクトにはどんなものがありますか?

2010年3月24日水曜日

コミュニティについて 4の1

前回は、保護者が中心に、地域の住民も含めたコミュニティが運営する学校について紹介しましたので、今回はその延長線上で、学校が計画された段階から「コミュニティ・スクール」にすることを目的にしてつくられた学校について紹介します。

ちなみに、このスウェーデンのオレブロ市の学校は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』(中公新書)の中で、「いい学校のイメージ」を描いている際に私の頭の中にあった2つの学校のうちの一つです。もう一つは学校は、デンマークのコペンハーゲンにあった中学校でした。

私は、このNAVET(車輪の軸という意味)という名前の学校を1996年と2001年の2回訪ねています。数字等は、1996年時点のものです。


オレブロ市の中心から車で10分ぐらいのところに新しい造成された住宅地のほぼ中心部に建てられた学校で、開校は1992年の秋。
生徒数405人、教員数35人。生徒の年齢は、6歳から15歳まで。日本の小・中一貫校にあたる。公立の学校だ。

先にも書いたように学校は計画段階から、地域の学び、文化、レクリエーションのセンター的存在して位置づけられていた。実際、たくさんの地域のグループや住民が夜はもちろん、日中も学校の施設を利用している。私が訪問していた時もたくさんの教員以外の大人(=保護者や地域の住民)を見かけた。
たとえば、グランドはサッカー・チームが、体育館はバスケットボールやバレーボールのチームが、図工室やクラフトのグループが、音楽室はバンドが、保健室は妊婦が、そして12時以降の食堂は地域の一般の人たちが、といった具合に。(学校が始まるのが早いこともあって、生徒たちは、12時前には全員食べ終わっている。なお、12時前と後では、テーブルや料理も若干違う。テーブルにはクロスがかけられたり、料理も品揃えがよくなった。私は、校長と12時以後の方で食べさせてもらった。普通のレストランとまったく遜色のない料理が食べられた。)学校の様々な活動にもボランティアとして関わっている。96年当時は、学校の理事会までは関わっていなかったように記憶しているが、2回目に訪ねた2001年の時はしっかりとその制度もできあがり、出迎えてくれた中に保護者や地域代表の理事たちもいた。

もちろん、これまでのこれまでの学校のやり方とは違うので、摩擦や衝突が起こることもある、という。教員たちから苦情が出ることもある。しかし、それ自体が学びのチャンスだし、出会いのチャンスでもある、と校長は語っていた。(ちょっと、日本の校長には考えられない発言!)問題点を出し合って、話し合うことが大切、と言う。親や地域にとっては、コミュニケーションがよくなるし、出会いの場ができたので歓迎されているそうだ。  (次回につづく)

2010年3月21日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 18

今日、紹介する本は、内容的に関連があるというよりは、私個人にとって極めて関連のある本かもしれません。

それは、ピーター・レイノルズ作(谷川俊太郎・訳)の『てん』です。
この本と『ギヴァー』は、同じ研修会に参加して教えてもらいました。ちょうど、3年前の3月のことでした。
両方とも翻訳があることがわかったので(というのは、研修会が英語で行われた英語を話す人たちが対象のものだったからです)、早速図書館に行って借りてきました。
(ちなみに、もう一冊研修会の中で使われた本は、『星の王子さま』でした。これについては、すでに知っていたので、あまり印象は残りませんでした。)

どちらも最高でした!
『てん』の方は、それ以降、ほとんど自分の行う研修では読み聞かせをして、紹介しているぐらいです。(もちろん、単に読み聞かせを目的にしているわけではありません。内容が研修の目的にあっているからです。)
まだ読んだことのない方は、ぜひご一読を。
『てん』の続編の、『っぽい』も最高です。

『ギヴァー』の方は、まだ研修で読み聞かせをしたことはありません。(やれそうだと思った方は、ぜひ教えて下さい。)

『ギヴァー』はあまりにいいので、手元においておきたくなってアマゾンで見たら、なんとすでに絶版ではないですか!!!
ですから、古本で買いました。
と同時に、復刊に向けて動き出した次第です。
(このように書いてきて思うことは、自分自身が極めて単純な人間だ、ということでした。)

『ギヴァー』と『てん』の関連ですが、単に私が同じ時に知ったというだけでなく、内容面でもあると思います。気づかれた方は、ぜひ教えてください。お願いします。

コミュニティについて 3

スウェーデンのオレブロの紹介の続きです。

前回のティスリンゲ区内の事例です。

この地域は過疎化が進み、すでに教会もなくなっていて、学校も統廃合の危機に瀕していました。
そこで、住民が立ち上がり、コープ形式(住民協同運営形式)で学校を運営することにしたのです。
自治体というか政府は、正規の学校の8割の金額は出し、学校の運営は住民団体に任されます。
それでも、学校が問題なく運営されているかのチェック機能=責任は負っています。
住民団体は、残りの2割を時間(労働奉仕)と資金の提供で補います。
基本的には、時間の労働奉仕ができない人は資金提供をします。
経理の能力のある人は、学校の経理を担当し、補修ができる人は大工や電気技師などの役割を担当し、特に特技がないという人たちは様々なボランティアを担当する形で。
確かに、これまでなかった時間を割くことになったので大変ではありましたが、参加した住民の一体感はこれまで以上に強固なものになったそうです。なんと言っても「自分たちの学校を、自分たちで運営している」のですから。
スウェーデンでも、この種の学校はまだ数は多くはありませんが、こういう選択肢があるということはとても大切なことだと思いました。まさに「コミュニティ・スクール」そのもの、と言えます。

2010年3月20日土曜日

コミュニティについて 2

3月11日の続編です。

 スウェーデンのオレブロ市の行政区の一つのティスリンゲの都市計画・環境の領域の事業を一つ紹介します。ちょっと古いですが、私が一回目に訪ねた1996年3月当時の話です。

 1992年にブラジルのリオデジャネイロの地球サミットで採択されたアジェンダ21を地域レベルで取り組もうと4夜連続のイベントを開催する準備をしていました。やり方は、ビジネス関係者、農業従事者、若者を対象として、対象には単に参加者としてではなく、情報提供者や企画委員として関ってもらいながら展開していました。つまり、主な対象がビジネス関係者の夜は、その代表を何人か講師に呼ぶ。若者の場合は、講演は一切なしで、セカンドハンドの服を使ってのファッション・ショーを通して環境に迫ろうという企画。イベンの最後の30分ぐらいは、ディスカションの時間を確保し、参加者の考えやアイディアを出してもらうというのです。(このような、対象を明確に設定して、その人たちに受け入れられるアプローチを取ることを、「ターゲット・アプローチ」といいいます。日本では、マーケティング=商売の世界では当たり前になっていますが、役所などの公的な組織はまだ採用していません。かたくなに「一般市民」が存在するという前提で事業を行っています。)

 一方的に、行政側の考えを押し付けるのではなく、地元の人の考えやアイディアを聞くことを中心に据えていました。アジェンダ21について知ってもらうことと、議論をかもし出すことをねらいに設定して、すでに役所が作成したローカル・アジェンダ21の取り組みの啓蒙書を普及することは二義的な位置づけにしていました。区としては、今回の取り組みを、緑が多いところでの生活を楽しむこと、エコ・ツーリズムを通して観光客を増やして、まちの活性化を図ろうとする試みの枠の中で捉えていました。(ここでも過疎化は進んでいました。)

2010年3月19日金曜日

作家の視点

ここ2~3日、小倉明の本を読んでいます。
最初は、『旅のくつ屋がやってきた』(アリス館)でした。
その後、『トレモスのパン屋』、『ふしぎな絵かき歌』そして『ぼくの町に行きませんか』と読んできて、作者の意図がわかってきた感じです。

ご本人が『ぼくの町に行きませんか』のあとがきに書いてくれていました。

住みなれた町も、時として思いがけない表情を見せることがあります。町は生きものであり、つねにめまぐるしく変化しているからです。町にいるときも、私は一人の“よそ者”、または旅人として歩いていきます。
私は文学にふれるとき、この“よそ者”の目をなによりもたいせつにしてきました。こだわりのない、やわらかな目だけが、確かなものをさぐりあてることができると思うからです。

作家の目 = “よそ者”の目 なんですね。

『ギヴァー』の作者のロイス・ローリーにも同じことが言えるかもしれません。
そして、作品の中でも「よそ」「よそ者」をテーマにしていたぐらいですから。

いま、ライティング・ワークショップという作家になる体験を通して書くことを学ぶ教え方を普及しているのですが、ここまで体験できたらすばらしいだろうな~、と思うようになりました。「作家になる体験」と一言でいっても、いろいろなレベルというか次元があることに気がついた次第です。

2010年3月18日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 17

いっしょにリーディング・ワークショップに取り組んでいる先生が、

星新一の『ちょっと長めのショートショート<6>ねずみ小僧六世』の中の「古代の神々」という短編は星新一版 ミニ「ギバー」に感じました。

とメールをくれました。さらに、


映画「アパター」でも「ギバー」の世界を思い出すところがありました・・・

ギバーにはまりすぎてしまったのでしょうか。

娘との散歩の途中で

先日、娘としばらくぶりに散歩をしました。
飼い犬が生きていたときは、結構一緒に歩いたのですが(建前上の飼い主は娘でしたから)、昨年の1月にいなくなってからは、はじめてだったと思います。

まずは図書館に行って、その後に買い物に行く途中に、「最近の公園には遊具がないね~」と娘がもらしました。

高齢者用の運動のための道具は増えても、確かに子どもが遊ぶための遊具は少なくなっています。

「役所が親に訴えられるのを嫌がって、撤去したんだと思うよ」と私は答えました。

そしたら彼女のいわく、「じゃ、いつ、どこで、どうやって自分が危ないことからのがれる練習をするの?」

「ギヴァー」の世界に迷い込んだ親子の会話のようでした。

娘の世代(現在、25歳)はまだ外で遊んでいました。都会育ちだったので、公園の遊具には大変お世話になりました。(しかし、娘が小4の時にPTAの広報委員をした私は、PTAの広報誌で「外で遊ばない今の子ども達」を特集した記憶がありますから、すでに家でファミコンでゲームをするのが流行り出していました。子どもたちが集まっても、バラバラなことをしている遊びの風景です。) 私の世代は、公園などというものはありませんでした。原っぱや建設予定地として整地された土地や木の上で遊んでいました。

そういえば、『ギヴァー』の中にもちょっとですが、遊びの風景が出てきましたね。

遊びから見えてくる社会というか世界。
たかが「遊び」ですが、バカにできません。


「記憶」 「よそ」 そして「ここ」

知人のNさんが、感想を送ってくれました。


「記憶なしには、それらの知識には何の意味もないということだ。
かれらは私にこの重荷を負わせた」(148P)
ギヴァーとレシーバーの役割の意味が、この台詞で初めて
理解できたが、その「記憶」とは何なのか。
作者が少女時代を終戦後間もない日本で過ごしたことに
関係があるとすれば、新しい国づくりに立ち上がろうと
している日本という国にとっての「戦争」の記憶のことなのか、
あるいはもっと深遠な「人類の歴史」に言及したものか。
最後まで疑問として残った。

ジョナスとゲイブが生まれ育ったコミュニティを抜け出し
「よそ」を目指して逃走した終章。たどり着いた場面で
物語は終わるが、「よそ」とはどんな社会なのか、最も
知りたかったことが描かれずに終わってしまった。
おそらく読者の想像に任せようということだろうが、
作者の意図を知るためにも、何かヒントだけでも
与えてほしかった。私が読みきれなかっただけだろうか。
もう一度読み直してみたいと思う。

余談:
このコミュニティでの冷酷な「解放」の制度といい、
「厳しい掟」や「完備された“福祉”施策」といい、
今話題の鹿児島県の〇〇市長が目指す町は
このようなことなのかと考えてしまった。

2010年3月17日水曜日

話し合うことの大切さ へのコメント

中学でも教えた経験のある、現在、高校の先生からコメントをもらいました。



私も同感です。話すことで理解が深まります。しかし、学校教育では、アウトプットはテストのみで、「話す」というアウトプットは軽視されています。「静かに話を聞くこと(だけ)が大切である」と。

どうやら、「素晴らしい講義を聴き、自ら考えることが学問の王道であり、学び合いなどの技法を使うことは邪道である」という風潮があるようです。

しかし現状は、「テストで赤点をとらないように最低限の暗記をし、テスト終了後はすっかり忘れる。そもそも勉強とはそんなものだ」と思う子供を生産しているように思えます。これは一番怖いことではないでしょうか。

吉田さんの著書の中に「学びからも卒業してしまう」という表現があります。これがわれわれがもっとも恐れることだと思います。そして、学びから卒業している教師も多いことが問題です。

2010年3月16日火曜日

話し合うことの大切さ !!

いま、「読むこと」の効果的な教え方についての本を訳しています。

自分自身が、日本の小~高の授業で読むことが嫌いになったのが原因です。

教育現場では、私が極めて悲惨な体験をしてから40年たった今でも、同じ授業を続けています。

そんな状況をなんとかしたい(少なくとも、嫌いにはならず、願わくは好きになる状態にしたい)、と思って訳しています。もちろん、この本に書いてあるのは、そのレベルだけではなく、一生使い続けることのできる読む際のワザをたくさん身につけることのできる方法が紹介されています。

教師にとっては、教え方の楽しさを思い出させてくれる本ですし、教える際の評価の大切さにも気づかせてくれる本です。

その中(第9章のはじめの方ですが)に、こんなところがでてきます。
『ギヴァー』との関連を読み取ったので、紹介します。



 太古の昔、人間は話すことで地球を語り、太陽や星や雨を説明してきたのです。何世代にもわたり、親は子どもたちを集め、自分たちの物語を話してきました。話を理解し、それに意味を吹き込んでいくことがなければ、宗教や科学や歴史とはいったい何なのでしょうか?
 日々の様々な局面において、「なぜ、このことが起こったのだろうか? 他の方法はなかったのだろうか? これは、他のこととどう関わっているのだろうか? これが世界にとって、また自分にとってどんな意味があるのだろうか?」と考えて問いかけてみることは、まさに人間が生きていくことそのものなのではないのでしょうか。

 → 考えること、物語ること、記憶を葬り去ってしまったジョナスの世界

 他の子どもたちと話す練習ができることで、自ら考えていく土台をつくっていくことができるということです。「何を考えているの?」、「この本のどこを読んでそう思ったの? そのことを裏付けることはどこに書いてあったの?」といった質問を繰り返し行うと、いずれは自分に同じような質問をするようになっていくのです。

 → 読むこと、書くこと、話すこと、聞くこと、見ることは、考えること。
   それらを軽視しているとしか思えないジョナスの世界

  そして、私たちの世界も。

 学校教育において話すという活動は、大きな価値があると見なされることもありますし、まったく無視されることもあります。しかし、いずれにしても話すということが教えられることは皆無に近いのです。子どもたちが上手に話せるようになるためにはどのように教えればよいのかということが、教師の間で話題に上ることはあまりありません。しかしながら、読み書きと同じように話すことは知性の発達を促す原動力であり、この原動力は極めて大切なことなのです。

 → 軽視ないし無視されているのは、話すことだけでなく、書くこと、読むこと、考えること全体です。

2010年3月15日月曜日

本屋さんがすすめる『ギヴァー』

本屋さんによって棚に並べる本は様々です。

売れる本を並べる人もいますし、売りたい本を並べる(それも、半端じゃない並べ方で)人もいます。
福島県郡山市のみどり書房桑野店の東野さんの思い入れと紹介の仕方です。
            ★   東野さんの思い入れを読む ★
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2010年3月12日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 15 の続き

15では、長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』と『ダーウィンの足跡を訪ねて』(両方とも集英社新書)を紹介しましたが、その後病み付きになって、チャールズ・ダーウィンに関連するものを中心に、長谷川さん推薦の本を読んでいます。


中でもおもしろかったのは、
・『世界のたね』(アイリック・ニュート著)
・『ダーウィンが信じた道』(エイドリアン・デズモンド&ジェイムズ・ムーア著
(両方とも日本放送出版協会)


前者は、人類の科学の歴史(真理を追い求める物語)をとてもわかりやすく紹介してくれている本です。
後者は、チャールズ・ダーウィンに絞った本ですが、彼の研究や行動の動機に迫っている本です。なんと、奴隷制をなくすことだったというのです。
『ダーウィンのミミズの研究』(新妻昭夫作、福音館書店)とダーウィンの伝記映画『Creation』も、ダーウィンの性格の一面をよく表しているようでおもしろかったです。

2010年3月11日木曜日

コミュニティについて

スウェーデンの例を紹介します。

オレブロという、人口が128,977人(2006年、国内第7位)の市についてです。
私はこの街を、1995年と2001年の2回訪ねています。
2回目は、ちょうど9月11日をはさんででした。
スウェーデン人たちのあの事件に対する見方が、日本人やましてや当事者のアメリカ人たちとはまったく違うのに驚きもしました。(このことも紹介したいのですが、テーマがずれてしまうので、またの機会に。)

オレブロ内部のことについて紹介する前に、スウェーデン全体のことについて。
1960年代から80年代にかけて、強固な福祉国家をつくりあげました。(それをモデルにしたいと思っている、日本人も少なくないと思います。)しかし、それが人々の自立性を奪う結果も招きました。
例えば、1940年には20万人もいた地方政治家が、75年には4万5千人に減っています。1800年代には2000以上あった自治体も、今は290に減っています。(95年の段階から10ぐらい増えています。)

保守的な考えを持っている人は、個人の自由な決定に任せる方法(つまり、民営化)を主張し、それに対して、社民党は市民の参加・協力をもとに行政が計画を立てる方法を主張しています。基本的に、男性や高齢者は前者を、女性と若者は後者を支持する傾向があるようです。

オレブロ市は、1983年に他の大きな都市にさきがけて市の権限委譲を15の区を設けることによって実施しました。「それは、いい決定だったが、十分ではなかった」とある市議はいいました。すべての権限が区レベルに降ろされなかったので、当初15あった区の一つが不満を訴え、91年に市から“独立”して固有の自治体となることを選択したのです。

目標は、できるだけ多くのオレブロ市民を意思決定のプロセスに参加してもらうようにすることだが、「現状では、<まだこの程度でよし>とする議員と、<まだまだ不十分>と思っている一部の市民とのギャップは大きい」と言わざるを得ないようです。

ティスリンゲ(Tysslinge)は、オレブロ市にある14の行政区のうちの一つです。
人口は、5300人で、ジョナスのコミュニティの1.5倍の規模です。
区の事務所に与えられている権限は、義務教育、保育園、高齢者福祉、青少年センター、公園などの余暇活動、文化施設としての図書館、貧困(失業中の)家庭への社会福祉、道路の維持管理、都市計画・環境です。

市・長・村(行政地域)の規模は、永遠の課題なのですが、少なくともスウェーデンの事例を国、そして一地方都市のレベルで見ると、約200年かけて数を減らす方向に振り子が触れた後、すでに数を増やす方(というよりは、市民が主体的な意思決定のプロセスに参加する方向)に振り子が戻りつつあることは確かのようです。

2010年3月9日火曜日

良書ですが、怖い

協力者になってくれている知人からのメールです。


忙しくて2月の中旬くらいに、読み終わりました。
確かによい本ですが、子供のためのジョージ・オーウェルという感じで心のそこから怖い本ですね。

前に考えた副題どおり(『The Giver -記憶:失われた世界への入り口』や『The Giver -記憶:失われた世界への鍵』)の内容でびっくりしています。

4月になりましたらお茶か、お酒でも飲みましょう。

ジョナスの住むコミュニティの規模

去年の10月17日に出したクイズ:

ジョナスが住むコミュニティの規模(人口)はどのぐらいだと思われますか?


の答えです。


それは、18ページと59ページを注意して読むと書いてあります。


「各年齢のグループには、誰も解放されなければつねに50人の子どもがいた」
「毎年、<儀式>にはコミュニティの全員が参列した」


いいところ、50人×70才=3500人ぐらいの感じなわけです。


日本には現在、187の村と、783の町と、785の市があります。
このうち、3500人より少ないのは、村が79村、町が45町あります。
市の最低人口は、4486人です。


(しかし、町の最大人口は51539人、村の最大人口は53944人で、市の最低人口をはるかに上回っています。町や村でい続けるメリットが何かあるのでしょう。)


10年前ぐらい前は、3000以上の自治体がありましたが、国が音頭を取って、市町村合併が行われて、数が半分に減りました。ということは、確実に規模は大きくなった自治体がほとんであることを意味します。
それは、市民・町民・村民にとって果たしていいことだったのでしょうか?

2010年3月7日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 16 の続き

前回紹介した『生き抜くための数学入門』(新井紀子著、理論社)の続きです。


53 「数学的な構え」を身につけるため

「数学的構え」が身についているかをチェックする項目:
1.宝くじを買う。とくに、ジャンボ宝くじはかならず買う。(Yes, No
2.献立を思いつかなくて、スーパーでうろうろする。(Yes, No
3.テレビで紹介された健康法はかならず試して、たいてい3日坊主で終わる。(Yes, No
4.「なぜ?」と聞くと、「うるさい」と答える。(Yes, No
5.安い、と評判のスーパーまで遠出をして、疲れて外食して帰ってくる。(Yes, No
6.ゴールデンウィークに入ってから突然どこかに行くことを思いつく。そして、渋滞に巻き込まれる。(Yes, No
7.ベストセラーに出てくるフレーズを使って説教をする。(Yes, No
8.映画を見ると泣いているか、寝ているかのどちらかだ。(Yes, No
9.1年前にはまっていたことを思い出せない。(Yes, No
10.貯金がない。(Yes, No


57 人間の「社会」は太古からありますが、それに「社会」という名前がついたのは、そう古い話ではありません。けれども、「社会」という名前がついたとき、いままで見えていたものとは別のものが見えてくる、概念には、そういう働きがあります。 (他の例としては、「権利」「情報」「リスク」「未来」など)
   見えない抽象的なものを見る方法は、禅や詩などほかにも方法があるでしょう。けれども、見えないものを見て、それを誤解なくどの文化に属する人とも共有する、ということになると、それは論理であり数学なのだろうと思います。
   見えないものについて「だから」「どうして」「どうなる」か、を考える力は、毎日の暮らしにさほど重要ではないように見えます。だから、そんな訓練を進んでしようという人は多くないでしょう。けれども、みえないものについて、「だから」「どうして」「どうなる」を考えることができなければ、この社会で幸せになれる確率は相当に低いのです。それは、現代社会が、情報量と選択肢の多い民主主義社会だからです。

58 見えないものについて「だから」「どうして」「どうなる」を論理的に考え、そこにリアルを感じるための別の目を獲得する、その訓練をする時間が、数学の時間なのです。
61 論理的に考える習慣ができている = 数学的な構えができている

数学の捉え方が、多少は変わりましたか?
小学校の低学年から、ここで紹介したような視点でやってほしいものです。

2010年3月6日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 16

前回は、理科との関連を紹介しましたが、今回は算数・数学との関連です。
紹介する本は、『生き抜くための数学入門』(新井紀子著、理論社)

以下、ちょっと長いですが、そのまま引用します。(数字は、ページ数です。)

7 正直に言うと、私は算数も数学もあんまり得意ではありませんでした。
 というか、学校で習った科目のうち、一番苦手で一番きらいだったのが、数学なのです。
 どれくらいきらいか、というと。
 ピーマンよりも、カメムシよりも、校庭10周マラソンよりも、数学がきらい。
 数学なんか、この世からなくなったらいい。
 数学の授業の何が一番いやかって、それは、例題を見ながら練習問題をまちがえずにたくさん解かないといけない、っていうところ。練習問題をたくさん解いていると、自分が機械になっちゃったような気がするんだもの。そして計算まちがいをして×がつくと、不良品になった感じがするんだもの。
 ふん! 数学ができるからって、えばるなよ。べつに因数分解ができたからって、図形の補助線をうまく引けたからって、そんなことちっともえらくない。幸せとは全然関係ないじゃん。
 そう思ってました。

 いまふりかえって考えるに、数学がきらい、というよりも、数学がこわかったんだな。「あなたはだめです。失格」って、数学に宣言されちゃうのが、こわかったんだろうと思います。

9 いまだに学校の数学は苦手です。
 なぜ、学校の数学は苦手なのに、数学者なのか。どうして数学はきらいなのに、数学の本を書くのか。それは、たぶん、学校の数学に変わってもらいたい、と思っているからかもしれません。あのさ、数学のための数学じゃなくて、芸術のための数学でもなくて、子どもがハッピーな大人になるために学校でどうしても習う必要があるような数学になろうよ、って。

10 問1: 円周率とは何でしょう?
                 まずは「円周率とは、・・・です」という定義をかいてください。そして、その定義にもとづいて、円周率が3.から始まる理由を論理的に説明してみましょう。
   問2: 正解者が1割に満たなかったグループは?
                            1 中学1年
                            2 有名高校1年
                            3 有名大学1年
                            4 霞ヶ関の高級官僚
                            5 新聞社の記者
   答えは、全部。

18 困るのは、こういう問題を聞かれたときに、何をどうしたらいいかわからなくなって、非論理的なこと。円周率がなんであるかを理論する前に、「円周率が3になったら、子どもが全員バカになる」なんていってしまうことなんです。
19 日本人は、どうも「とは」と「なぜ」の力を、学校でも社会でもちゃんときたえていないらしい。
 この問題を解けない人が悪いのではないのです。この問題を見てうろたえないような教育を学校でしてないから、こういうことになっちゃったんです。
21 「島とは何か」 ~ 領土問題
24 暴力は避けたい。だけど、自分の主張も通したい。自分のたいせつなものは、ちゃんと自分で守りたい。そういう人に必要なのは、「とは」と「なぜ」の力です。

2010年3月3日水曜日

『ギヴァー』と関連のある本 15

今日紹介する本は、長谷川眞理子著の『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)です。

ラジオ番組で、長谷川さんがダーウィンのことを紹介していて、『ダーウィンの足跡を訪ねて』を図書館から借りてきたのがきっかけです。

前者の「まえがき」で、長谷川さんは以下のように書いています。

 私は生き物が大好きで、これまで、動物の行動の研究をしてきました。でも、小さいころから生き物が好きでも、「生物学」というのは、長らくおもしろくない学問だと思っていました。なにしろ、動物や植物の各部の名前、消化酵素の名前、体内での反応の名前、細胞の中の微細な構造の名前、神経系の名前、地球上の各地の生態系の名前・・・名前、名前、名前ばっかり、覚えることばっかりです! この感じは、今でも少しも変わらないようで、高校生の多くは、生物は暗記科目と思っています。
 進化は、私たちが生き物に対して抱く「なぜ?」という疑問に答えてくれるのです。高校までの生物の教科書に決定的に欠けているのは、この「なぜ?」という疑問ではないでしょうか。教科書のどこを見ても、なぜそうなっているのだろう? という根本的な疑問に答えてくれる記述はありません。「こうなっている」という記述があるのみです。そういうわけで、生物学は様々な名称の羅列となり、全体を貫く理論のない、単なる暗記科目と思えてしまうのです。
 実際、生き物を見ていると、「なぜ?」という疑問が限りなく湧いてきます。


確か、『ギヴァー』が描かれているコミュニティは生き物がいなくなっていた世界でした。

そして、私たちも小学校から「なぜ?」なしの「正解」だけの授業を理科に限らず、ほとんどすべての教科で教えられ続けますから、疑問・質問がもてなくなってしまいます。

こんなことをしていていいんでしょうか?

「長老」たち★に改善を任せても何も変わらないことは、『ギヴァー』の中でも明らかですから、ジョナスのように気がついた人、一人ひとりが行動を起こさない限りは私たちの世界でも何も変わらないことは明白のようです。

★ 私たちの社会で「長老」たちに相当するのは、誰でしょうか?