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2012年7月28日土曜日

リーディング・ワークショップとの関連 3

前回との関連で、読むことの「メンター」「よき先輩」としての教師についてです。

78 本のある生活を豊かなものにし、子どもたちに命を吹き込む最良の方法は、教師自身が本との関わりを深め、教師自身の本を読む生活に息を吹き込むことです。本の世界に浸ったり、気になりながらもベッドの横にある小さなテーブルに埃をかぶったままの本を取り出したり、新聞を読んだり、6歳のときに大好きだった絵本を見つけ出したりしましょう。

日本の教育にもっとも欠落していることの一つが、この見本ないしモデルの存在です。子どもたちが真似したいと思える教師の存在です。

 それは、プロである必要はありません。子どもたちよりは「少しは先を歩み続けている」存在です。学校に入る前の親たちが、その役割を見事に果たしているように。

 見本やモデルになることをまったく考えずに、教科書をカバーすることしか考えないのでは、子どもたちにとって魅力に感じられる存在にはなれません。

 教師自身が楽しい、おもしろい、ワクワクしていることでないと、子どもたちに伝わることは「退屈なもの」「カバーしないといけないもの」というメッセージだけです。子どもたちが心底取り組めるものになるはずがありません。

 このことは国語の読むことだけに限定されません。すべての教科で言えてしまいます。

2012年7月25日水曜日

リーディング・ワークショップとの関連 2

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

 教師を対象にした講演等に限らず、広く一般対象にも作家が話をするというのは当たり前に行われていることです。でも、残念ながら読書家(そういう言葉が使えれば、ですが)の話を聞くチャンスは皆無の状態が続いています。もちろん、プロとしての職業としては成り立ちにくいわけですが、読むことを生きがいにしている人たちはたくさんいます。

62 私たちも、子どもたちも、それぞれの生活の中で本を読むことについて「メンター」と呼ぶべき人、つまり「よき師匠」として導いてくれるような読書家にはなかなか出会うことがありません。ちょうど、弟子入りした見習い工が熟練者に学ぶように、子どもたちが教師という熟練した読書家に弟子入りして読むことを学ぶとすれば、教師の読むことの教え方も根本的に変わっていくと思います。

 読むことに限らず、書くことも、話すこと・聞くことも、他の教科も、スポーツや趣味ですることも、そして仕事でも、構造は変わらないのだと思います。

 ある意味では、学校に入る前に私たちが話すことを学んだり、書くことを学んだり、読むことを学んだり、立って歩けるようになったり、箸を使えるようになったり、自転車に乗れるようになったり・・・すべてがすべて、この学び方で身につけていると言っても過言ではないぐらいです。

 それが学校というスペースに入った途端、このもっとも大切な見本となる「メンター」「よき先輩」がいなくなって、登場するのは教科書をカバーする教師という存在です。その人たちの多くは、カバーする内容が好きでも、得意でも、こだわりがあるようでもなさそうですから、多くの子どもたちにとっては、何のためにするのかわからないままの時間が続いてしまいます。「ぜひ真似したい」という動機づけは、ほぼゼロなのです。

 『ギヴァー』のコミュニティーでは、ジョナスも同じ年代の他の子たちもそうであったように、かなり適正を把握されつくして職種が選ばれています。12歳からは「よき先輩」の下で仕事を始めますし、それ以前もインターンシップ的な形で見本から学ぶことを中心に据えた社会になっています。
 ジョナスの場合は、ギヴァーからすべてを受け継ぐ形で。

2012年7月23日月曜日

リーディング・ワークショップとの関連 1


『リーディング・ワークショップ』については、これまで何回が紹介してきました が、あらためて読み直し、気づいた点がいくつかあるので共有したいと思います。

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がしたからです。

21 子どもたちが、ほかの子どもが話すことに耳を傾けたり、ほかの人がいった言葉に影響を受けたりするということは、読むことの教えていく際の根幹に関わっているものと言えます。というのは、今日のアメリカ社会の問題として、単に子どもたちが言葉を知らないということではなく、ほかの人の言葉に対して、自分の心の中や生活の中において創造的に反応できないということがあるからです。言葉や話、そして様々な考えが子どもたちの心に響くことがなく、子どもたちの生活に影響を与えることもない状態では、本に書かれたことについてよく考えたり、そこからよりよく生きていくための術を生み出すことはできません。


これって、日本の社会でも、まったく同じように起こっていることであり、そして『ギヴァー』のコミュニティの中でも起こっているように思います。(もちろん、『ギヴァー』のコミュニティでは、本自体読みません/読めません。会話も表面的なもので、「創造的に反応する」とか「心に響く」とか「よりよく生きていくための術を生み出す」といったこととは無縁のレベルで行われている気がします。

日本でも、国語教育がこのレベルで行われているかというと、まったく期待できません。あえてそうしたことを避ける方法で行われている、とさえ言えるかもしれません。ひたすら学力向上の名の下の点数をあげるために。

2012年7月21日土曜日

『ギヴァー』の読書クラブ


もう1年以上前のものですが、『ギヴァー』の読書クラブの記録を見つけました。

私はまだ『ギヴァー』どころではない時期だったので、開催するだけでもすごい、と思ってしまいました。2時間、みっちり話し合われたことが伺われる記録です。

2012年7月5日木曜日

長老たちの右往左往


長老たちの右往左往ぶりについては、以前にも書きましたが、またここ数日、民主党内のドタバタ劇を見せつけられています。(野党も似たようなものですが)

『ギヴァー』の長老たちもドタバタはしますが、ここまではひどくない気がします。
「国のため、国民のため」と言いながら私利私欲しかないことが透けて見えてきてしまうわが国の政治家たちとは大違いだと思います。

こんなことになってしまう原因は何でしょうか?

私たちが、ちゃんと選ぶべき人を選んでいない?

なるべき人がそもそも立候補していない?

そもそも選挙自体が機能していない?

見えない関係こそが原因?

どう考えても、国会、県会、市会等の議員が(首長も!)給料に見合うだけの仕事をしているとは思えません!!★

『ギヴァー』の長老たちは、どのくらいの給料をもらっていると思いますか?
ギヴァーも含めて、どうももらっているようには感じられません。
基本的に現物支給で、給料などが存在するとは思えないぐらいです。

★ もちろん、給料のおかしさは政治の世界だけに止まらず、スポーツの世界など、経済界全体を覆いつくしている問題です。このことは、6月29日に扱ったテーマに直結しています

★★ ちなみに、1月9日に紹介した大分県・姫島村は、今年の村長選も無投票の確率大だそうです。 少なくとも、選挙という税金の無駄遣いをしていないことだけは確かです。

2012年7月1日日曜日

ローズマリーの存在

ローズマリーは、ジョナスの前任者の女の子の名前です。
 実際に、本には登場しない存在です。
記憶としてのみ登場します。(ギヴァーの中に残る記憶として。そうでした、ギヴァーは記憶を消し去りたくても、消せないなのでした! レシーヴァーに伝えない限りは。)
コミュニティの中ではその名前を使うことも、存在を偲ぶことも許されません。

しかし、ローズマリーが死を選ぶというアクションがあったればこその今回のジョナスのアクションとも言えます。

もちろん、それがギヴァーにも大きな影響を与えました。
ジョナスに対して、ローズマリーがしたことと同じことはさせられないというプレッシャーもあったでしょうし、また、ギヴァーに「自分の娘で、彼女のために自分はここに残る義務がある」と言わせたのですから。

そして、それまでの歴代のギヴァーとレシーヴァーたちが考えたこともなかったことを、この二人は起こしてしまったという意味でも。

ある意味では、生きてこの世にある人(ジョナスにとっては、父や母やリリーやガールフレンドのフィオナや友だちのアッシャーなど)よりも、すでにこの世にない、会ったこともない人との絆のほうが深い場合もあり得るということか、大切にすべき場合もあるということでしょうか?