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2012年1月25日水曜日

家族も共通テーマ

『ギヴァー』と『狼とくらした少女ジュリー』には、家族という共通のテーマもあり得ると思いました。

 そういえば、NHKでは昨年から山田洋次監督が選んだ映画100本「家族編」の紹介を続けています。(なお、「東京物語」の50年ぶりのリメイクの「東京家族」は、東日本大震災の影響で撮影が約1年延期されました。山田さんは、自分の映画人生を振り返る番組の中で、1970年当時の高度成長期の中でも、もちろん映画を撮り続けていたのですが、その時福島に原発の1号機が完成したことには頭がまったくまわらず、「うかつでした」と発言していたのが印象的でした。)

 ネット社会、管理社会で、ますます家族の比重は軽くなっていくかのようです。


 さらには、動物たちを中心に自然との関係も。

 『ギヴァー』の世界では、ゾウやクマは、自然にはもちろん、動物園にもおらず、安眠アイテムとして小さい子たちが眠る時に欠かせないものとなっているだけです。犬やねこや鳥も身近にはいないようです。

 それに対して、『狼とくらした少女ジュリー』で描かれている極北のアラスカは、人間よりも狼をはじめとした動物たちを中心に自然が主役の世界です。

 この対照的な関係にも想いを馳せないわけにはいきません。

2012年1月23日月曜日

『ギヴァー』と関連した本 79

今日紹介するのは、ジーン・クレイグヘッド・ジョージが書いた『狼とくらした少女ジュリー』です。

 これも、『ギヴァー』と同じくニューベリー賞を受賞した本です(1973年の受賞)。ニューベリー賞は、最も優れた児童文学の著者に与えられる賞です。すでに1922年にスタートしているそうですが、これに匹敵する日本の賞はあるのでしょうか? 外れがありません。よく選ばれているし、受賞に値する児童文学が書かれているということだと思います。これまでに、このブログでも紹介してきた本には、

アヴィの『クリスピン』
リンダ・スー・バークの『モギ ~ ちいさな焼きもの師』
シンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』
ロイス・ローリーの『ふたりの星』
などがあります。

 「児童文学」ですが、大人も十分に読める本ばかりです。★
 前段が長くなりました。

 主人公は、14歳のエスキモーの少女です。英語名がジュリーで、エスキモーの名前は、マヤック。本の中では、本人がマヤックを使いとおしていますが、どういうわけかタイトルには、ジュリーが使われています。
 すでにお母さんを亡くしていたマヤックは、お父さんが猟に出て帰って来なかったので、お父さんから言われていた未来の夫のところへ嫁ぎました。しかし、その相手が好きになれず、逃げ出して、北極海沿岸のツンドラ地帯をさ迷うことになってしまいました。
 そのとき助けてくれたのが狼の一家でした。(お父さんから、狼とのコミュニケーションの取り方を聞いていたので、それが可能でした。)
 最後は、行方不明になったはずのお父さんに出会います。

 なぜ『ギヴァー』と関連すると思ったのかというと、いくつかありますが、一番は「何処(どこか違うところ)」を求めているところです。自分がもっともフィットするところを求めているのです。それは白人社会でも、変わり行くエスキモー社会でもなく、どうも自然の中というか、狼の群れらしいのです。

 ぜひ読んでみてください。 (星野道夫さんに通じる部分があります。ちなみに、カークパトリック・ヒル著の『こんにちは アグネス先生』とシドニー・ハンチントン著の『熱きアラスカ魂』は、エスキモー/アラスカ関連の本でした。

 訳者あとがきに3部作になっていることを知り(しかも、後の2冊は日本語に訳されていないようです)、早速注文してしまいました。第2部は1992年に、第3部は1997年の出版です。


★ そういえば、『ギヴァー』と関連する本の中にも、ニューベリー賞の中にも、まだアーシュラ・K. ル=グウィンの『ゲド戦記』を含めていないことに気づきました。ニューベリー章に含めることはできませんが、関連する本には加えます。

2012年1月22日日曜日

ジョン・ホルトの本

週末、ひょんなことから、『バカをつくる学校』で書かれている内容と同じ内容のことを40~50年前に書いていた人がいたことを思い出しました。ジョン・ホルト(John Holt)です。
 彼の本を私は90年代のはじめに読んでいたのですが、すっかり忘れていました。

 How Children Fail(子ども達はどうつまずくか)とHow Children Learn(学習の戦略 : 子どもたちはいかに学ぶか)の2冊で有名になりました。自らの教師としての体験を綴ったものです。その後も、The Underachieving SchoolやWhat Do I Do Monday?などを書くまでは、まだ学校改革・授業改革の可能性を持っていたようですが、イバン・イリッチの『脱学校の社会』(1970年出版)★の影響を受けたころから、彼自身も脱学校に傾斜しInstead of Education(21世紀の教育よこんにちは)で完全に決別しています。

 いま読んでも、納得して読めるはずです。
 ということは、状況がまったく変わっていないということでしょう。アメリカも、そして日本も。(状況は、日本のほうがはるかに深刻な気がしますが。)


★ イリッチの本は、私が都市計画を学んでいた大学時代(75年ごろ)に、教育ではなく、まちづくりの観点から読んでいました。とても刺激的な内容だったことは、いまでもよく覚えています。

2012年1月18日水曜日

『バカをつくる学校』 7

『バカをつくる学校』の最終回です。
少し長くなります。

●終わらせよう、学校教育の悪夢

152 ニューイングランドの町々がしていたこと ~ 気の合う仲間とともに暮らし、ともに働けるシステムを考案した。そのうえ、彼らは地域全体の反映~物質、知性、社会のすべてにおいて~も見事に果たした。それは、個人の働きが公共の利益につながるという魔法のような仕組みだった。彼らの自立、自信、勇気、民主主義、地域への忠誠といった習慣が、豊かな社会を育んだのである。
154 地域の知識、技術、愛、忠誠はプラス面。マイナス面もあった。それは、排他性。
155 自己修正のメカニズムを持ち合わせていた >> 中央の管理ではなく
→ ニューイングランドの町々が依然として実行しているタウン・ミーティングという方式に反映されている!!
 一人ひとりが考え、判断し、行動する、ということ。
159 その原理とは、調和の取れた集団では、人々の判断に任せることが最善の結果につながり、判断を任されたときこそ、人間の能力は最大限に引き出される。 ← 逆に、中央からのコントロールは、その能力を萎えさせている。
160 現行の制度の失敗の理由を知ることからスタート。
 一人前の人間になるには、調和した集団の中で自分の判断力を磨き、自らの人間性に合った夢を追求することが必要なのである。そして、その夢の根底には、自己、家族、仕事、地域社会など、人生に大切な意味をもたらすものがなければならない。

160~1 教育問題への2つのアプローチ(①制度改革によって技術的に解決しようとするもの~その中では個人の可能性は考慮されない、②悪者探しアプローチ~悪い教師、悪い教師、悪い校長、悪い親、悪い子ども)と、教育ビジネス(巨大な教育産業=教育で食べる人たち)の密接な関わり → 前者の2つの問題解決のアプローチは、根本的な問題解決には至らない。努力はしている振りをするのと、責任逃れが目的。教育ビジネスを守る/維持するために。

162 結局のところ、私たちが社会問題をどう捉えるかは、人間をどう捉えるかによる。 ← まったく!!
163 オクタヴィオ・パスのアメリカの学校制度評 ~ 北米の人々は、子どものころから厳然たる制度に支配されている。簡潔な教義にもとづく特定の原則が、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、教会、そして何より学校によって延々と繰り返されている。(→94ページ参照)こうした体制に閉じ込められた人間は、ひどく小さな植木鉢に入れられた植物のようなものだ。その人は成長することも成熟することもできない。こうした陰謀は、人々の暴力的な反乱を招きかねない。
164 体制を維持している人たちは「人間であることをやめ」ている
165 教育≠学校制度
166 人間性を失わせる手段としての学校とテレビ
  国の解決策ではなく、豊かな実験室としての地域社会に目を向ける。ニューイングランドの町々がしているように。
167 個人、家庭、地域社会を信頼すること ← フィンランドをはじめ北欧諸国のように
168 自らの力を信じること
170~1 学校の欠陥 = 監禁と抑圧、脅迫と屈辱、無意味な競争と奪われたチャンス、そして家族や友人、あるいは自分自身との関係を台無しにされた年月に対する怒り
174 学校の役割 = 中央が管理する大量生産経済の「教育部門」
  未熟な(幼稚な)人間をつくり続ける装置 ← ここまで言い切られちゃうと、かなり悲しいですが、現実的に見ると間違ってはいないと思います。

●解説

178 『カッコウの巣の上で』をチェック


 以下は、付け足しです。
『ギヴァー』と関連のある本 75で紹介した『群れのルール』(ピーター・ミラー著)で、群衆の叡智を賢く活用する方法として、著者が特に注目していたのは、以下の4つでした: 自己組織化、意思決定における情報の多様性、間接的(ないし直接的)協業、適応的模倣。

学校教育において、存在するのは最後の「適応的模倣」だけで、残りの3つはまったく(ないしほとんど)存在しませんし、練習する機会も提供されません。これでは、叡智を活用できないのは当然といえます。練習すべき時に、練習できないのですから、社会に出てから活用できるというわけにはいかないでしょう! 

ジョナスは、ギヴァーからたくさんの記憶・情報が提供され、ギヴァーとの協業が行われることで、自己組織化も可能になっていきました。そうしたことは、ジョナス以外の他のコミュニティの住人たちにはまったく提供されません。

2012年1月17日火曜日

『バカをつくる学校』 6

●私はこうして教師になった
99 ふるさとがすべてを教えてくれた/自分を作ってくれた → いまは、そのふるさとがなくなっている。


●もう学校はいらない

115 学校、家庭、地域、社会はつながっている
   ★ 学校制度のプラス面とマイナス面
  学校制度というのは、たとえ良いものであっても、地域や家庭から活力を奪うものである。社会問題を機械的・事務的に解決しようとするが、根本的な解決のためには、自己形成や自己発見、強調性といったものをじっくり育てていく必要がある。

116 制度は、完全な参加を必要としない! 指示されるとおり動くことだけが期待されている。

120 地域への参加/体験こそが大切!

121 制度は、効率的に任務を遂行するため、人々をまず自己から引き離し、次に他者から引き離す。・・・制度は人々を孤独にし、冷酷なまでにその目的を追求する。・・・学校制度の拡大は、社会の危機をさらにエスカレートさせるものなのだ。

122 何度も言うが、制度の中の社会は見せかけにすぎない。それは人々の孤独を癒すような期待感を抱かせるが、じつはそうではない。・・・つまり、どんなに多くの組織や制度に属しても、どんなに頻繁に電話が鳴っても、本物の地域社会を得ることにはならないのだ。 → 『ギヴァー』の中で描かれている諸々のことを思い出します。そして、日本社会も。

  そもそも、制度から得られるものは何もない。あっても、それはあなたがすでにもっているものである。制度は良くも悪くもならない。制度の目的は、つねに同じ状態を保つことであり、そこではほとんど発展がない。薄っぺらな人間関係を維持することで生まれるのは、あなたの「友人」がじつはあなたのことを少しも気にかけておらず、あなたの生き方はおろか、あなたの望みや不安、成功や失敗にもまったく興味がないという病的な状態である。彼らは単なる同僚にすぎず、共通の利益に関すること以外、何の期待もできない。 → この辺も。

123 家庭、地域 >> 制度、国家、組織
124 → 95
125 制度が、家庭や地域の絆を引き裂く
127 制度の中の偽りの社会では、人間の基本的欲求は満たされない。
    制度の目的は、管理と画一化 → まさに、『ギヴァー』、そして日本
    家庭や地域社会は、自由と多様性

128 教育は、世界最大のビジネス

129 学校も教育も、制度。学校の目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせること。つまり、いい教育を受ければ、いい職に就け、いい稼ぎが得られ、いい物が手に入るという図式。
131 競争は、服従と尊敬を強いる
132 地域や家庭は、関心を向けられる存在。心を深く満たす。
133 制度は、表面的に満たすだけ。表面的な数字で人を判断する。
137 学校で身につく有害な習慣
  どんな教育であれ、子どもは個人として尊重されるべきであり、けっして集団に従わされるべきではない。教育は子どもたちのやる気を引き出し、人生の道しるべとなる価値観を見出させるものであるべきだ。また、教育は子どもの心を豊かにし、どんなときも思いやりを忘れない人間に育てるものであるべきだ。そして、人生にとって何が重要かを教えるものであるべきだ。

138 教育は、「一つの正解」によって支配される
139 家庭や地域は、個々の仕組みの集まりであり、けっして「一つの正解」に縛られたりはしない。プライベートな時間は、個性の発達や価値観の発達に不可欠なものであり、それがなければ、私たちは個人になり得ない。「自由」が大切なわけ。
142 他者と共存することを学ぶには、まず個人として、家族として、自立して生きることを学ぶべきだ。なぜなら、私たちは自分に満足できて初めて、他人にも満足できるからである。・・・家庭や地域が再生されれば、子どもはかつてそうだったように、自分の力で学ぶようになる。

2012年1月16日月曜日

『バカをつくる学校』 5

●学校教育の「第四の目的」

 働き手を育てること。無知な労働者の養成。
 指示に従う人間、考えない人間の養成

65 何も伝えてくれないテストの点数  ノーベル賞受賞者、アメリカ大統領

71 百のことを知っている百姓から指示に従う無知な工場労働者へ

81~2 従順な大衆の存在が都合のいい制度・システム

82 学校生活の単調さ、退屈さと、消費社会(コーラとマックに代表される)はつながっている!

84 子どもたちをダメにする学校 ~ 教師に気に入られようと、次第の臆病になり、慢性的に退屈になり、やがて生きる目的を失ってしまう。本来、教室は感動的な場所であるべきなのに、そうした教室の意義は一度も見直されてこなかった。

  子どもをもっともダメにするのはマンネリである。学校に監禁され、同じことを繰り返される子どもたちは、やがて思考が停止する。こうした罠にはまった子どもたちは、ネズミと同じく、徹底した管理が必要になる。

94 エドワード・バーネイス著『プロパガンダ教本 こんなにチョろい大衆の騙し方』

95 ケネディの有名な演説「国が諸君に何をしてくれるかではなく、諸君が国のために何ができるかを問うてほしい」 ~ 民主主義国家から統治国家への転換
→124 「国家」の要求が「家庭」の要求に勝るという政治哲学を表現したもの

96~7 豊かになれない(ならない)多くの人々 ⇔ 教育との関係

2012年1月15日日曜日

『バカをつくる学校』 4

49 時間割(子どもたちのスケジュール)は、依存的な/従順な人間を作り出すための隠れた手段だ。彼らは自分の時間の使い方がわからず、自己の存在の意味も目的もわからない。この依存的で無目的な生き方は、国民的な病気である。それは学校やテレビ、習い事と深い関係があるはずだ。
 深刻な社会問題 ~ 麻薬や暴力、愚かな競争、性の乱れ、ギャンブル、アルコール、そして金品への執着 ~ もまた、じつは依存的な人格による病気であり、学校教育の産物にほかならない。 ← 他者依存症を作り出す学校が、依存症の社会を築き上げるのに大きく貢献している。自立した人間、自らの責任で行動する人間を探すことの難しさ?

50~52 そして子どもはこうなった
① 大人の世界に無関心になる
② 集中力がほとんどなく、あっても長続きしない
③ 未来に対する認識が乏しく、明日が今日とつながっているという感覚がない
④ 歴史に関心がない
⑤ 他人に対して残酷になる
⑥ 親しさや正直さを拒絶する
⑦ 物質主義になる
⑧ 依存的で、受け身で、新しい挑戦に臆病になる
 ← まさに現代の日本!? (東日本大震災+東電原発事故は、こういう流れにストップをかけてくれるきっかけになるのか?) 『ギヴァー』で描かれている世界もこれらとオーバーラップするところが多分にある。

53 この140年間、アメリカは「専門家」からなる司令部 ~ 中央のエリート集団 ~ の命令を、人々に押しつけようとしてきた。しかし、それはうまくいかなかったし、これからもうまくいかないだろう。そもそも、国民を中央の命令に従わせることは、民主主義というこの国の壮大な実験を否定するものだ。 ← アメリカの中央は、日本のそれよりもはるかに弱い。50の州がすべて中央と言っていいぐらいだから。
 スウェーデンと神奈川県の人口が近いことを考えると、文科省がすべてをコントロールする形よりも、各県が独立国のように競争した方が(いい意味で)、はるかにいいものができる可能性は高い。少なくとも、受身的でなくなり、主体的に行動する人が増えるわけだから。

54 (ヨーロッパの)エリート教育の根底には、自己認識こそ真の認識の土台だとする信念がある。そこでは、どの年齢の子どもも、自分一人で対処すべき課題を与えられる。その課題には、孤独に打ち勝つということも含まれる。 → 「7つの大罪」と対極にある教育

55 ところが、いまの学校教育は、子どもたちが自己認識を深めるための時間を奪い去っている。・・・どんな幼い子どもでも、自分で学習できることを信じなければならない。私たちは、子どもたち一人ひとりが、それぞれの個性や自信を深められるようなカリキュラムをつくらなければならない。  → WW&RW。一斉授業で教科書をカバーする授業では、それは無理。
56 自己認識さえ身につけば、彼らは自力でどんどん学んでいくだろう。そして自己教育にこそ、永遠の価値がある。
  子どもたちには、今すぐ自由な時間を与えるべきである。そして、できるだけ早く、現実社会との接点を取り戻してやるべきである。→ METやCPEHSやCoalition of Essential Schools、Best Practice High Schoolなどが試みていること。 そのためには抜本的な改革が必要だ。 → 学校の中だけに閉じ込めておくことは、子どもたちのためにならない!! 48ページの「テレビ・学校・習い事」では、悲劇が続くだけ。

58 自立学習や社会奉仕、冒険、プライバシーの保護、多様な研修プログラム(1日以上の体験学習) ~ これらはいずれも、学校教育の真の改革にとって有力で、安上がりで、効果的な方法である。しかし、どんな大規模な改革を行おうと、教育の中心に家庭を置かないかぎり、病んだ子どもや病んだ社会を救うことはできない。学校が子どもを親から引き離すかぎり、悲劇は終わらないのである。
  豊かな人生の基礎となるのは、国のカリキュラムではなく、「家庭のカリキュラム」だ。健全な教育のためには、まず学校が率先して家庭生活を尊重し、親子の交流を促して、家族の絆を強めなければならない。
  抜本的な教育改革にとって最大の問題は、強大な既得権益がマスコミを支配し、学校制度そのものから利益を得ているということだ。
  私たちが耳にするのは、じつはマスコミが伝える公認の意見だけである。 ← 2011年の原発事故報道と同じレベル!!