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2011年12月31日土曜日

『ギヴァー』と5年間の付き合い

『ギヴァー』との付き合いは、2007年の3月からですから、もうそろそろ5年になります。本のタイトルを知って、すぐに図書館から借りてきて、3日で読んだのを今でも記憶しています。毎日寝る前に読みました。


 はじめて受けた衝撃があまりに大きかったので、この本をできるだけ多くの日本人に読んでもらいたいと思いました。★その後、『ザ・ギバー』(講談社)がすでに絶版になっていることを知ったので、約3年間をかけて復刊しました。(小説を読んで、そんな大それたことをしたいと思ったのは、この本がはじめてです。そして最後でもあると思います。)

 実際に、翻訳も新たな『ギヴァー』(新評論)が出たのは、昨年の1月です。

 その時から、『ギヴァー』のブログも始まったわけですが、毎日の出来事を『ギヴァー』の視点で見るというか、他のたくさんの本を『ギヴァー』との接点で読み始めるようになりました。それがもう2年も続いています。★★


 主人公のジョナスのお父さんやガールフレンドのフィオナがしている負の部分については、かなり前から気になっていましたが、特に、3月11日の地震・津波+原発事故以降は繰り返し考え続けています。(特に、後者の原発事故との関連で。)★★★

 ジョナスのお父さんとフィオナは、ニュー・チャイルド(乳児)の養育係や老年の家の世話係として、日本で言う福祉の領域の仕事に携わり、対象の立場に立ったサービスを提供しています。プラスの面に関しては、申し分ないかに見えます。

ジョナスのお父さんは、普通児と認められず、解放される可能性の高いゲイブリエルを世話の大変な夜の間、家族の同意と養育センターの許可を得て自分の家で特別にめんどうを見られるようにしたぐらいです(13~5、31~3ページ)。★★★★1ページに掲載されている登場人物の欄にも書いてあるように、性格は「内気でおだやか」な人なのです。

 しかし、少なくとも一つの大きな負の部分があります。
 人の命を絶つことである「解放/リリース」を、至極当たり前にしていることです。(206~215ページ)
 それは、感情や記憶を持たないがゆえにできる、とも書いてあります。(215~7ページ)

 3月12日以降考えてきたことは、私たちの社会も、感情や記憶、あるいは未来への責任の意識を欠くことによって、「解放/リリース」とはいわないまでも、同じようなことをしてしまっているのではないかということです。それも、きわめて多岐にわたる分野において。「よかれ」と思って。あるいは、まったく気にもせずに「習慣」を押し通すことで。

 目に見える形で表れてしまったのが(放射能は見えませんが)、原発事故による放射能の拡散・放出でした。しかし、同じように目に見えない形で、静かに「解放/リリース」が進行している分野は他にもたくさんある気がするのです。食(農業)、福祉、環境、政治、経済、そして教育など、暮らしに関連するほとんどの分野で、です。

 少なくとも、今年はそれら様々な分野で進展が見られた年ではありませんでしたから、新しい年はなんとか少しでも見えるようにしたいものです。もちろん、それを誰かに期待するのではなく、できることを自分たちができる分野や領域で動くことによって。


★ 読んですぐ、「これは、今の日本に一番必要な本だ!」と思ったのです。

★★ その過程では、『ギヴァー』の中で扱われているテーマが、そのまま哲学で扱っているテーマであることも発見してしまいました。 特に、2010年4~5月の書き込みを参照ください。自分ほど哲学から遠い人間はいないと思っていたので、大きな驚きでした。

★★★ 3月11日以降、約2ヵ月半はブログに書くことができませんでした。

★★★★ ちなみに、赤ちゃんのゲイブリエルは何も語ることはありませんが、この小説の最初から最後まで登場して、きわめて大きな役割を果たしていた気がしています。

2011年12月19日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 77

今回紹介するのは、ジョナスとリーダーシップとの関連についてです。  本は、『リーダーシップの真実』(ジェームズ・クーゼス&バリー・ポズナー著)。
 前にリーダーシップの本をたくさん読んで『校長先生という仕事』という本を書いたことがあるので、気にはなっていましたが、ここまで関連があるとは思っていませんでした。

 なんと、ジョナスはこの本で紹介してある10の真実すべてを押さえているのです!!

第一の真実 違いを生み出す
第二の真実 信頼性がリーダーシップの基礎である
第三の真実 価値がコミットメントを推し進める
第四の真実 将来に目を向けるのがリーダーである
第五の真実 一人ではできない
第六の真実 信頼がすべて
第七の真実 挑戦から偉大なことが生まれる
第八の真実 模範によってリードしなければリードできない
第九の真実 最良のリーダーは最良の学習者である
第一〇の真実 リーダーシップとは心を通わすことである


 以下は、本を読みながらとったメモです。

32 日本には欠落しているロールモデル(実際に行動で示してくれる存在)!

37 模範的リーダーシップの5つの実践
  1. 模範となる
  2. 共通のビジョンを呼び起こす
  3. プロセスに挑戦する
  4. 人々を活動できるようにする
  5. 心を励ます

43 関係性(リーダーとフォロアーの)が鍵
      誠実である
      先が見える
      意欲を与えてくれる

127~128 「自己の最良のリーダーシップの経験」から導き出されたこと:
     ・ 逆境に対する勝利
     ・ 過去からの決別
     ・ それまで行われなかったことを行うこと
     ・ まだ発見されていないところへ行くこと
  これらは、すべて挑戦と変革に関わることだ → 『ギヴァー』のジョナス

  ものごとを同じ状態のままに留めることで、最良の自己を達成したと主張した者は誰一人いなかった。

  リーダーシップの研究とは、不確実性、苦難、分裂、変革、移行、復興、新たな始まりなど重大な挑戦のなかを、男と女がどのように人々を導くかについての研究である。それはまた、彼らが、変化に乏しい自己満足の時代のなか、どのようにして現状を揺るがせ、新たな可能性を覚醒させ、機会を追求するかについての研究である。

  「自己の最良」は、挑戦を脅威ではなく機会と見ることがいかに大事かを示す明らかな例である。

2011年12月14日水曜日

1995年の書評

http://www.hico.jp/ で見つけました。  ちなみに、このサイトには、下の以外にも当時の書評が6つ紹介されています。


未来のコミュニティが舞台。このコミュニティでは乳児から老人にいたるまで行き届いた世話がおこなわれているし、穏やかで健康的な生活が保証され、人々は飢餓や戦争を知らない。主人公はまもなく一二歳になるジョーナス。彼は自分がどの職業 に任命されるかに大きな関心を寄せている。というのも、このコミュニティでは一二歳を境に子ども期が終わり、残りの人生をどう過ごすかは、長老によって決定されてしまうからである。ジョーナスは予想外の職業ー記憶を受けつぐ者ーに任命され、その訓練を受ける過程でコミュニティに関する意外な真実を発見していく。 → この辺は、トライポッドにとても似ています

このあらすじから、本作品が高度に管理された社会を舞台にしていることは察しがつくだろうと思う。というのも一見理想的なこのコミュニティには「自由」がないからだ。作者の主張ははっきりしている。ひとつには合理性や安全、便利さといったものを追求し、すべての異分子や不確定要素を排除することの危うさである。さらに、難しい決定を先送りにしたり、選択そのものを「長老」たちにゆだねることの危うさである。それらが積み重なり、現在の姿になっている。だが、この作品の長所は主題のわかりやすさだけではない。主人公といっしょに、このコミュニティの真実の姿を見抜いていく過程こそが驚きをもたらしてくれる。そのためには一見平凡に見える文章の裏を読む作業が必要とされる。たとえば「おやすみだっこちゃんというのはほとんどの場合、リリーの持っている象のように、想像上の動物のふかふかやわらかい縫いぐるみだった」とあれば、縫いぐるみの説明に惑わされずに、「想像上の」という言葉に注目してほしい。この一言で、子どもたちが「象」「キリン」「カバ」といった動物を一切見たことがないこと 、ひいてはこのコミュニティにはあらゆる動物がいないことを察知しなければならないのだ。そして、こういう細部を元に世界の全体を把握し、その意味を知ったとき、かつてわたしがそうであったように、あなたもまたこの世界の意外性に魅了されるであろう。

「もしも・・だったら」という発想から生まれ、シミュレーションの冴えをみせ、管理と自由をめぐるSFならではの問題提起をおこなったこの作品は、結果として九四年度のニューベリー賞に輝いた。昨年のこと、英語圏の児童文学関係者の間では「もうこの本を読んだか」という問いがしきりにかわされたという。さて、あなたはどうする? 九〇年代を代表するであろう『ザ・ギバー』に、だまされたと思って挑戦するか、無視するか。
                                                                                       読書人 1995/10/20

 16年前に書かれたものですが、状況はまったく変わっていないというか、さらに悪化している感じがします。

2011年12月12日月曜日

家族間の摩擦の原因がネット?

少なくとも、私の家ではそういう気が強くしています。    「携帯/スマートフォンやパソコンを介してインターネットにつながっている時間の長さの問題」と言い換えられると思います。

 そういう私は、「死ぬまで携帯/スマートフォンは持たない」と公言しています。こちらの意思に反してドンドン電話やメールが押し寄せてくるのが嫌なので。もちろん、こちらからも電話やメールを携帯に流すのは嫌いです。

 近くにあると、つい使ってしまうのがネットです。
 そして、費やす時間のことも、それから得られる情報の信憑性についても考えなくなるのではないかと思います。

 出版された文字媒体にはチェック(編集)機能があるのですが、ネット媒体にはあるものとないものがあります。(ほとんどは「ない」と言って間違いといえるかもしれません。)それを見分けられないと、とんでもないことになる可能性もあります。まさに、自分の狭い世界にのめりこんでいく可能性があるわけです。
   ある本の中では、マックが最初に登場した時から愛用している人たちの中には、もう何年か前から本が読めなくなっている人がいるそうです。本という媒体がネット時代の情報収集にすでに合わない(遅すぎる)媒体だというのです。これは、思考のスピードだけでなく、何をどう考えるかの領域にすでに問題が入ってきていることをうかがわせます。

 またネット社会に警笛を鳴らすある人は、「ネットを使いこなしている=自分の都合よく利用していると思っている人ですら、実はうまく使われていることを自覚すべきだ」とも言っていました。

 人と人をつなぐ媒体なのか、人と人を切り離す媒体なのか???

 そういえば、ジョナスのコミュニティでは、ネットは使われていない感じです。
 コミュニティの外ともつながっている感じはしません。
 他のコミュニティの飛行機がたまに飛んでくることはあっても、連絡があるようには思われませんでした。

2011年12月10日土曜日

『クラウド化する世界』

前回に続いてネット社会についての本です。
 『クラウド化する世界』ニコラス・カー著

31 ガス灯から電気照明に。 自家発電から集中発電への転換
   エジソンのアイディアを膨らませたサミュエル・インサル

119 電気が家庭の仕事を大きく変えた!

142~6 サイトからブログへ、そして購読ブログへ簡単にできてしまう ★

164 場を提供するだけで、たくさんの人が無料奉仕してくれるブログやサイト

166 理由は、楽しいから、満足感が得られるから

179 選択肢の多様化 → 選べない問題  → 分裂化

186 おおいなるばら売り

190 分裂化を進めるインターネット

196 ネット・コミュニティは、民主主義にとって弊害!!

228 ネットは、解放以上に、コントロールのテクノロジー
    必要な情報よりも、不必要な情報(迷惑メール)が常に量的に多い

2011年12月9日金曜日

『人間はガジェットではない』

読んだ本のメモです。
 『人間はガジェットではない ~ IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言』ジャロン・ラニアー著

15 「談話は魂を写す鏡 ~ 人は、自ら語るがままである」 プブリリウス・シルス

18 人であるとは、探求であり、神秘であり、根拠のない信念なのだ。

46 推薦する活動のリスト (ネットで書き込む際の)
 > 危険な目に合いそうな場合以外、投稿時、匿名にしない。
 > ウィキペディアの項目を執筆するなら、それ以上の努力を、ウィキイ外の場で声をあげ、自分が書いたトピックがおもしろそうだと気づいていない人におもしろさを教える作業につぎ込もう。
 > ウェブサイトを作り、ソーシャルネットワーキングが用意したテンプレートには収まらない形で自分を表現しよう。
 > たまにでいいから、閲覧の100倍も時間をかけて制作した動画を公開しよう。
 > 何週間もの熟考のすえ、ようやく聞こえた内なる声について、ブログ記事を書こう。
 > ツイッターでは、自分の外で起きたどうでもいいことについて書くのではなく、自分の内側の状態を表現する方法を模索しよう。そうすることにより、マシンを規定するように客観的に記述されたことが自分を規定するといつの間にか信じてしまう危険を回避しよう。

48 デジタルな創造材料は疑ってかかる方がいい。
   こっちに来れば楽だよとデジタルなモノに呼ばれたら抵抗すべきだ。ソフトウェアで構築された媒体を愛すると、どこかの誰かのいいかげんな考えという罠に落ちるおそれがある。そうならないよう、できる限りのことをすべきだ。

131 情報システムを動かすには情報が必要だが、情報では現実の一部しか表現できない。情報が表現できていないことまで求めようとすると、おかしな設計になってしまう。たとえば2002年に成立した落ちこぼれ防止法(No Child Left Behind Act ~ アフガニスタンとイラクで戦争をはじめたブッシュの教育版)で、米国の教師たちは、幅広い知識を教えるか、「試験向けの教育」をするかを選ばなければならなくなった。その結果、教育用情報システムの不適切な使用により、優れた教師ほど低い評価を受けることが増えてしまった。
    全国統一試験のコンピューター解析が教育に与えた影響は、フェイスブックが友情に与えた影響と同じだ。いずれの場合も、人生がデータベースに変換される。この劣化は、いずれも、同じ哲学的間違いによって引き起こされている。つまり、人間の考えや関係をいまのコンピューターが表現できるという考えだ。どちらも、今、コンピューターにはできないことだというのに。

254 ウィキペディアの功罪を認識した上で使う!!
    →『銀河ヒッチハイク・ガイド』ダグラス・アダムス著

2011年12月6日火曜日

「みんなの意見」は案外正しい

  11月26日の『群れのルール』の続きで、『「みんなの意見」は案外正しい』ジェームズ・スロウィッキー著を読みました。


10 集団の知恵(集団知)
12 集団は 愚考(狂気)vs. 賢明? → 『ギヴァー』のコミュニティ? 私たちの社会?

24 賢い集団の特徴である4要素:
 ・意見の多様さ(書く人が独自の指摘情報を多少なりとももっている)
 ・独立性(他者の考えに左右されない)
 ・分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)
 ・集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)

33 グーグルの検索 ~ ウ~ン!?

49 異質/多様性こそが大切!

55 多様性の欠如は「集団思考」になる
   均質集団は、自分たちは正しいと思い込む。
   異なる意見は役に立たないという信念 → 学校や、授業研究アプローチが陥っている「集団思考」 集団の愚考・狂気

57 目立ちたくない

61 現実に独立性を確保するのは難しい。人間は自立的であると同時に社会的な存在である。人間はつねに学びたいと思っているが、学びは社会化のプロセスでもある。

   集団のメンバーがお互いに大きな影響を与え、お互いの個人的関わりが強くなると、集団の判断は賢明でなくなる。お互いの影響が強くなると、同じことを信じ、同じ間違いを犯しやすくなる。学びをとおして個人が賢くなる一方で、集団として愚かになる可能性が生まれるわけだ。

   日常的に影響を及ぼしあっている人々が、果たして集団として賢明な判断を下せるのだろうか?  → ギヴァーのコミュニティでの欠如。学校でも、社会全体でも。

62 集団のやることに同調 ~ 通行人に空を見てもらう実験 → 選挙行動??

67 リスクの回避 ~ リスクの高い状況では、集団に同調し、大きな失敗を避けたほうが、革新的な手法を導入して大失敗をするよりも、感情的にもキャリア的にも納得しやすい。みんな、多数派でいることに安心感を覚える。

76 2種類の模倣: 賢い模倣はすばらしいアイディアを広めるのに役立つので集団のためになるが、自ら考えることなく行う模倣は害になる。
   2種類の模倣を区別するのは難しい。
   だれも、後者であることを認めようとしないから。
   だが、賢い模倣にはいくつかの前提条件が必要。まず、初期の段階では選択肢も情報も潤沢に存在していること。次に、それがたとえ合理的とは思えなくても、みんなの意見よりも自分の意見を優先させようと思う人が少数でも存在していること。 → 自ら考えることのない模倣が充満している学校、他にもたくさん!

80 みんなの意見が正しくなる鍵は、人々に周りの意見に耳を貸さないよう説得できるかにある。 → 考えないでなびいてしまいがちな人間!! 特に均質社会においては。 『ギヴァー』のコミュニティも。

86 分散性のメリットとデメリット
   分散性がすばらしいのは、独立性と専門性を奨励する一方で、人々が自らの活動を調整し、難しい課題を解決する余地も与えてくれる点にある。逆に分散性が抱える決定的な問題は、システムの一部が発見した貴重な情報が、必ずしもシステム全体に伝わらず、有効に活用されないこともある。
90 集約と分散のバランス
100 調整 ~ 相互依存関係
108 規範・慣習化することによる安定の維持
110 慣習をくつがえすのに伴う苦痛

116 鳥や魚の群れの自己組織化の4つのルール
   ① 中心にできるだけ近いところにいるようにする
   ② 隣の個体と2、2羽分の距離を空けて飛ぶようにする
   ③ ほかの個体にぶつからないようにする
   ④ 鷹に襲われたら逃げる

117 オレンジ・ジュースがいつも近くのコンビニで買えるシステム(自由市場)
118~120 教室の中での経済の実験

ビジネス(市場)への応用

130~1 強調、信頼、協力について
132~3 クエーカー教徒のビジネスと信頼
258  教室の中での株売買の実験

民主主義への応用:

268 国民対話コンベンション討論型世論調査 James Fishkin
269 Bruce Ackerman

2011年12月4日日曜日

アリやハチから学ぶこと

11月26日の『群れのルール』の続きで、『アリはなぜ、ちゃんと働くのか ~ 管理者なき行動パタンの不思議に迫る』デボラ・ゴードン著を読みました。たかがアリやハチですが、大いに考えさせられます。


7 アリのコロニーについて最も不思議なことは管理不在ということである。管理担当者がいないのに機能している組織を想像することは、人間のそれとはあまりにも似ていないのでとても難しい。中心的な統制機関がない。相手に、命令したり、物事をこのようにやりなさいと教えたりするアリはいない。

11 アリたちには支配者も将軍もよこしまな首謀者もいない。実に指導者らしいものすらいない。

8 思考は電気的な刺激が脳のニューロンのもつれの中で活動する時に生ずるが、思考はニューロン以上の何かであり、ニューロン以外の何かである。

  アリたちは自由に動き回る一個の存在であり、個体として注意を引くにもかかわらず、コロニーに関連した意味があることだけしかしないからだ。ズームインすればアリが見え、ズームアウトすればコロニーが見える。アリたちとコロニーはいつも同時に存在するのである。 → 人間と個人と社会(世間)の関係は?

9 アリコロニーの生活は、より社会性の少ない先祖のハチ類から、過去1億年以上にわたって進化した。

2011年12月1日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 76

娘が、前回の『トライボッド』シリーズに続き、『ジャンピング・マウス』と『ギヴァー』との関連について書いてくれました。

 『ジャンピング・マウス』は、私が訳した『ドラマ・スキル』(レスリー・クリステン著)の中で紹介したことのあるネイティブ・アメリカンの物語です。その時は、『聖なる輪の教え』(セブン・アローズⅠ)ヘェメヨースツ・ストーム著を参考に紹介しましたが、いまは『ジャンピング・マウス』そのもののタイトルでも本になっています。


ジャンピング・マウスはネズミに自分を重ね合わせるネイティブ・アメリカンに伝わるお話です。ネズミだけの世界のおかしさに気づき、まだ見ぬ世界がありそこに行くということを他の者に否定されてもつき進み、行動する、信念を貫くことの大切さというメッセージが込められている気がします。

ギヴァーのジョナスもある意味、このネズミと同じで、コミュニティがおかしいと気づき、最後は街を出る決心をし飛び出します。

ギヴァーの方はコミュニティがどういうものか、そしてそこを出るまでについてフォーカスしていますが、ジャンピング・マウスは気づいて、ネズミの世界から目的地へ向かい、辿り着くまでについてフォーカスしています。
なので、2つのお話は繋がっているようにも感じます。

気づくことの重要性、気づきを得てからその目標に向かって進むまでの難しさなどをギヴァーでは描かれています。ジャンピング・マウスでは、目標に向かい出してからの困難を主に描いています。

ジョナスもネズミも自分を信じて突き進む姿が、読んでいて、自分もそうあるべきだと思わされました。

2011年11月28日月曜日

トライポッド と ギヴァー

娘がトライボッドのシリーズを読んで、感想を書いてくれました。

トライポッドは設定も面白い。ギヴァーと同じく未来の設定で争いもない平和な世界、全てをコントロールされた世界が舞台だ。
違うのは、トライポッドの世界では記憶を受け継ぐ者がいないらしく、過去に繁栄した都市のことや文明についてはほぼ解明されていない。電車などの存在も忘れ去られている。
そして、機械によって自由な心を奪われてしまうということは、自分で幸せや感動を感じられず、全て受け身と服従するということになる。。。それに誰も疑問を抱かない。。。

あくまで人がコントロールするコミュニティが舞台のギヴァーよりも、トライポッドの機械(マスター)にコントロールされた舞台の方がパソコンや携帯などの機械が溢れてきた世の中の現状から現実味がある気もする。

人がコントロールするコミュニティの場合、戦争や争いを無くすのは本当に困難な事だと思う。

ブータンのように利他の精神で他人の幸せが自分の幸せと思える国民性が育まれて初めて幸福率97%の国になれる。それが人口の多い、人種、宗教が入り交じった国々では、善悪が分かれているため必ず「間違い」とされることが生まれてしまう。

ジョナスの世界ではどうやって人が人をコントロール出来るようになったんだろう?

トライポッドの場合は、ウィルを含めたまだ頭の輪をはめていない一部の自由人たちが残ったのも凄いと思う。重力まで変えれる技術を持っているのには驚いた。そういうことを考えると、話は逸れるけど地球のバランスは本当に神秘的。重力も酸素も全て当たり前に存在するけどそれを感じない程快適。

1冊、2冊と読み終えて、3冊目でどう機械と戦って地球制服を免れるのか続きが気になる!

2011年11月26日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 75

最近読んだ本、『群れのルール ~ 群衆の叡智を賢く活用する方法』ピーター・ミラー著のメモです。
 筆者は、有名な雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』の編集者。
 アリ、ミツバチ、魚、鳥などの集団行動と人間の集団行動を比較してくれています。
 というか、私たちはもっとそれらから学べることがあるんじゃないか! と主張しています。
 太字は、この本の主要テーマです。

 私は、本を通じて『ギヴァー』のコミュニティや、私たちの社会との関連を感じましたが、とくに最後の277ページ以降はとても大切だと思いました。もちろん、ジョナスが行動で示してくれたことではあるのですが。


20 アリ、ミツバチ、ニシンなどの集団はリーダーからの指示もなく、難しい問題を解決していく = 自己組織化
21 自己組織化の3つのメカニズム: ①分権的統制、②分散型の問題解決、③多数の相互作用 ~ この3つを足し合わせると、群れのメンバーが誰の指示も受けなくても、シンプルなルールに従って意味のある集団行動をとることができる。
      ↓
22 人間のビーチでの振舞い

51~6 ハチの家探し  意思決定における情報の多様性の大切さ
61 多様性は能力に勝る!! → 95ページ
64 多様性、独立性、異なる視点の融合。いずれも聞き覚えのある原理だろう。まさに我々がミツバチから学んだことだ。知識の多様性を確保する。友好的なアイディア競争を促す。選択肢を狭めるための有効なメカニズムを用いる。ミツバチにとって賢明といえる行動は、人間にとっても同じなのだ。

72 集団による間違いの多くは、結論を急ぎすぎることに起因する。みんなで思いつく限りの選択肢をあげてみる前に、ある選択肢を拙速に選ぶと、残った時間はそれを正当化するための根拠を探すことに費やされてしまうのだ。→ アービング・ジャニスが提唱した「グループシンク(集団浅慮)」

89 ボーイング社の例: 実際に支配していたのは、公式な役割分担ではなく、非公式な仲間意識や忠誠心だった。

95 3人いれば、どんな能力を持った一人の能力よりも、知識や問題解決能力の多様性が確保できる!

98~112 ニューイングランドのタウンミーティングの例 = 住民全員参加型(とは言っても実際に参加した者のみ)の意思決定を実践
107 ロバート議事規則 = ①知識の多様性を求める、②友好的なアイディア競争を促す、③選択肢を絞り込む効果的な方法を使う  → 落ち着きたいところに落ち着く!

125 カスケード反応 = 連鎖反応
126 ハチやアリの自己回復機能/耐久力
          ① 分散型知能
          ② 予測機能
          ③ 複数の島に分ける
127 複雑システム: 送電網、交通ネットワーク、株式市場、インターネット
    これらは、自己回復機能をもたせないと、パニックに陥る危険性がある

136 間接的協業
147 アリ塚 = ウィペディア
150 ウェブ2.0
164 ネットワーク

174 鳥の群れ行動 → 魚の群れ行動  それも、種類による(小さいもの中心?)
176 適応的模倣

224 人間の真似る習性/群れの習性

277 「自然淘汰によって、仲間からのプレッシャーや長いものに巻かれろ的な考えに屈しないように進化したミツバチは、自分の頭で考えて判断を下す」 人間よりも賢い!

 人間の行動はミツバチとは違う。我々のジレンマを単純化すれば、コミュニティに帰属したいという気持ちと、個人的な利益を最大化したいという欲望に引き裂かれているということになる。
278 正しい行動をとるには、何かの足すかが必要な場合がある。個人と集団の利益の不均衡を解消するには、法律、規範、金銭的インセンティブといったものが必要なのだ。

280 集団に所属しても、個性を封印する必要はないということだ。自然界における優れた意思決定は、妥協だけでなく競争から、また合意だけでなく意見の不一致から生まれる。自らが選んだ新たな巣作りの候補地への支持を取り付けようと、ミツバチがどれだけ激しく議論を戦わせるか、思い出してほしい。同じことが人間の集団にも当てはまる。我々が集団に何らかの付加価値を与えることができるのは、自分らしいユニークな経験や能力から生まれる特別な何かを提供したときだけだ。何も考えずに他人の行動をまねしたり、他人の意見に便乗したり、自分なりの優れた直感を無視したりすれば、何も与えることはできない。

 集団に貢献するためには、自分の負担すべき費用を支払ったり、仲間の利益のために何かを犠牲にしたり、現状を受け入れたりすることが必要な時もある。自分が正しいと信じることのために立ち上がったり、信条に従って政治家に働きかけたり、長いものに巻かれるのを拒否したりするのが必要な時もある。いずれの場合も、集団にとっていちばん大切なのは、我々が自分自身に正直であることだ。

2011年11月16日水曜日

『司馬遼太郎の風景』②

『司馬遼太郎の風景』を読み続けています。第2弾は、「北のまほろば+南蛮のみち」です。


37 稲作が、国家と不可分の関係にある。
   「人間の最大の敵が人間」になるという、皮肉な運命を背負い込んだ。

38 急ぎすぎた日本 ~ 中国が数千年かかって築き上げた文化を、日本はほんの数百年に圧縮して、「稲作国家」を現出させた。こうした性急な社会の変化が、日本の歴史に不幸な事態をもたらすことになった。
  コメ至上主義社会の不思議 ~ 米ができにくいところでも、米をつくる!

40 柔軟性を欠いた津軽 (江戸政権も)

42 これが、戦後の日本のあやまちの遠因になっている。

43 日本人の体質
 「大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」と思い込む日本人の病的体質は一向に治っていない。治っていないどころか、ますますエスカレートしている。
 一億総じて同じ目的に突進していなければ生きられない民族なのかもしれない。
 「お家やお国のためならどのような理不尽にも耐えて忠誠を尽くす」は、戦後の日本にも、企業がその精神を肩代わりしている。

45 そういう縛られた国民性から解放されなければならない時。

71 陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂、長谷川如是閑

85~6 古代において、日本列島の住民の血は大いに混じり合っていた。 それが、徐々に純血主義に。純血は、響きはいいが、内実はひ弱い。国際性に欠けた閉鎖社会。

→ ここまでは「北のまほろば」として津軽について、縄文時代の青森について、古代から中世にかけての十三湊についてなどを考察しています。古代の津軽は、決して野蛮な採集社会ではなく、広い地域(海外までを含めて)と広域していた豊かな地域であることに、司馬さんは想いを馳せています。そして、この地域を貧しくした主要因として稲作をあげています。

 以下は、「南蛮のみち」、とくにバスクに焦点を当てた部分です。
 なぜ、バスク人たちは地球の果ての日本に来続けるのか?
 ちなみに、elsewhere(どこか違うところ)は、ギヴァーのテーマの一つです。

127 聖フランシスコ・デ・ザビエル

130 1925年に来日したソーヴール・カンドウ神父

174~5 日本という異郷でくらし、そこで悔いのない生涯をおえることができたのも、この町(=バスクの中の小さな町)の生家における少年時代が充実していて、記憶が年々光にまで高められていたためであったかと思われる。
  少年時代が充実していると、それが精神の支えとなって、人は遠くに羽ばたける。

200 ザヴィエルの日本人:

  日本人は、傲慢で怒りっぽい。
  欲は浅く、はなはだ物惜しみしない。
  他の国について知ろうとする切ない欲求がある。
  嫉妬を知らない。
  盗むことを憎む。
  貴人をたおせば、りっぱな騎士とみなされる。
  音楽・演劇を愛する。賭博をさげすむ。宗教心はつよい。

205 バスク人の意識や性格とその風土は密接に結びついている

210 太宰治 と 陸羯南 にこだわっていた司馬遼さん

2011年11月14日月曜日

オランダ紀行

『司馬遼太郎の風景』を継続して読んでいます。

 70年代から90年代にかけては、司馬さんの本はほとんど読んでいました。
 亡くなってからは、読んでいませんでした。

 このシリーズは、NHKが『街道をゆく』を映像でシリーズ化したときの副産物です。
 司馬さんを引用しながら、書き手の想いを込めて綴っているので、司馬さん本人の作品ではありません。
 最初に読んだのは、『司馬遼太郎の風景 1 時空の旅人』でしたが、次に8「愛蘭土紀行」と5「オランダ紀行」を読みました。

 オランダ紀行には、「日本が江戸時代を通じてオランダとつながっていたことの幸せ」以外に、オランダは「自分たちで作り出した国家」であり、「世界で最初に市民が誕生した国」であることを司馬さんは繰り返し語っていました。

 私のオランダとのつながりも紹介します。
 80年代の中ごろからの付き合いですが、その社会の成熟度は、北欧の数カ国が匹敵するぐらいで、英語圏の国々や他のヨーロッパの国々も及ばない気がしています。

 以下は、私が80年代から90年代にかけて関わっていた国際交流・協力の分野でオランダと日本の状況を比較したものです。



 上の比較を踏まえて、日本の各地域で取り組むべき国際交流・国際協力のあり方を、以下のように提案しました。

  ●継続的なもの・多くの人を巻き込むことができるもの
    (喜ばれない、理解されない、評価されないという状況を打開して
     いくために、市民や職員が得をしたと思えるような情報を提供し
     たり、出会いのきっかけをつくる)

            ↓

  ●オランダの事例に学ぶ (=特に、日本に紹介したいもの)

     ①担当者のレベルの研修(プロ意識とそれを裏付ける能力が
       身につくような)
     ②ターゲット・アプローチ(対象および目的やテーマを明確にし
       た上での事業計画および実施の方法)
     ③フォローアップ (事業をやりっぱなしにしないために)
     ④3~5年ぐらいの期限を区切っての計画(イベントでは変わっ
       ていかない。                  
       年間計画で位置づけることはもちろんだが、フォローアップと
       人間関係がよくなることで、変わっていく/効果が表れるまで
       には時間がかかる。)

            ↓
  ●まず、できること/やるべきこととして (つまり上記の①。②~④は、
    ①の中に含めることができる)
   多くの人を巻き込むことができ、効果のある継続的な事業を企画、
        実施できる人、行政や民間や個々のボランティアの間をつなぐことが
        できる人(ファシリテーター)の養成。どんな資質と能力が求められる
        かというと・・・・ 

 以上の比較、およびそれに基づいて作られた提案は、行政一般、教育、環境、福祉等の分野はもちろん、企業まで参考になるのではないでしょうか?

2011年11月8日火曜日

過去・現在・未来

 これまでも、ネイティブ・アメリカンやアボリジニについては紹介したことがありますが(『ギヴァー』と関連のある本51、52、53、55など)、今回は先月紹介した「記憶と歴史」との関連を感じた『インディアンの夢のあと』(徳井いつこ著)の紹介です。



7 アメリカ・インディアンの遺跡に惹かれ始めたとき、呼びかけてきたのは何だったろうか? 認識されることを待っていた他人の古い記憶? いやそれは私自身の記憶ではなかったかと思い始めている。 → でも、彼女が訪ねていたのは、まだ北米大陸の原住民が、アメリカ・インディアンと言われる前の時代の遺跡!

8 旅が「知らないことを知っていく」プロセスならば、書くことも、そして読むことも、ひとつの旅にちがいない。

25 彼らにとって「過去」というのはどれも最近の出来事なのだ。プエブロの人々が歴史に抱いている近しさは、われわれが自分自身の過去に抱く感覚に似ているかもしれない。部族の系譜、先祖について知らないというのは、記憶喪失者に近い。記憶を失っては一歩も前進できない、と信じているかのように、多くのプエブロは過去に精通しているのである。

93 「自分が誰であるかなど、知ることができるでしょうか。私は、自分が何者であるかを知りません。デキストラは知っていますか?」と著者が尋ねると、

 「自分が何者であるかを知るということは、自分自身をいつも油断なく見張っている、ということ。<周囲で起こっていることのなかに没入してしまわないように注意しなさい!>と先祖は言った。<起こっていることから距離をとって、ひとりで歩むこと>と。

 「若い人たちは、ホピにおいてさえ、まったく過去を敬おうとしない。私にとって過去は、かけがえのないもの。価値あるもの。古い時代の古い人々の生き方のなかには、多くの真実が含まれている。昔から人々は<大地のめんどうを見るように。世話をするように>と言い伝えてきた。<自然を壊すことがあれば、必ず何かが起こる>と。それがいま起こっている」

94 「プエブロには昔からストーリーテラーと呼ばれる役目の人がいて、物語り続けることで、“古きもの”に結びつけられた人間の姿を繰り返し確認するという機能を果たしてきた。物語を失ったわれわれは、自然との絆、過去との絆を失って、風のまにまに漂っているわけです」

   「私が子どものころ、まわりにいる大人は誰でも物語を話してくれた。冬は暖炉のまわりで、夏は屋根の上に寝そべって・・・落ちていきそうに深い夜空を覗きこみながら、たくさんの話を聴いた。この世界のありとあらゆるものについての物語。太陽、月、鹿、蛇、蟻、鷲・・・・・悲しくて泣いてしまう物語もあった」

96 「将来に絶望している?」
   「絶望はできない。あきらめることはできないのよ。われわれは子どもたちに伝え続けなければならない。しかるべき年齢になれば、たぶん、気づくときがくる。われわれにできるのは、話すことだけ。人生をつくるのはお前たち。お前たち自身の選択なんだよと」

97 祭はいわば、人々が集合的記憶をとりもどすための再生装置のようだ。人々は自在に過去にさかのぼり、この世界が出現する以前のことまで思いだす。

→  『司馬遼太郎の風景』①(NHKスペシャル)~特に、パートⅢ、144ページ、142ページの最後の行は「司馬遼太郎の悲劇」である以上に「日本人/日本の悲劇」

2011年11月2日水曜日

『ギヴァー』と関連のある本 74

しばらくぶりに、おもしろい小説に見つけました。

 主なテーマは、自由。
 本のタイトルは、"The White Mountains"(『鋼鉄の巨人』学習研究社版、1978年。「トリポッド2 脱出」ハヤカワ文庫版、2004年)。書いた人は英国人作家のジョン・クリストファーで、出版されたのは、なんと1967年。

 『ギヴァー』では12歳の誕生日に、儀式で自分の職業が決まったのが、"The White Mountains"(直訳すると、「白い山脈」。実は、スイスのアルプスのこと)では、14歳の誕生日にキャップをかぶる戴帽式が行われる。
 それは、『ギヴァー』の12歳の儀式と似ていて子どもから大人になる儀式だ。好奇心、怒り、思いを奪い去られ、従順な大人になるための。
 それは、戦争のない平和な社会の一員になることも意味している。代償として、三本足 (The Tripods)の「鋼鉄の巨人」にそのキャップをかぶせられると精神・思考を操作され、飼いならされた状態になる。
 主人公のウィルと従兄弟のヘンリーは、それがいやなのでイギリスのウィンチェスターの近くの村から自由な人々が住む白い山脈まで自由を求めた旅に出る、というストーリー。
 西ヨーロッパの地図が頭に入っている人には、ドーバー海峡をフランス側に渡ってから、パリの街(廃墟)を通って、アルプスへ至る道中を連想できるのも、一つの楽しみ。まるで、『ギヴァー』のelsewhere(どこか違うところ)を求めて歩いているかのように。

 「キャップをかぶらせることで、好奇心、怒り、思いを奪い去り、従順な大人にしてしまう三本足の異星人」たちは、いったい何にたとえられているのでしょうか??
 それに該当する『ギヴァー』のコミュニティの仕組みとは何でしょうか?
   そして、私たちの社会の仕組みは??

 なお、"The White Mountains"には、続きがある。"The City of Gold and Lead"(学習研究社版『銀河系の征服者』、ハヤカワ文庫版「トリポッド3潜入」と"The Pool of Fire"(学習研究社版『もえる黄金都市』、ハヤカワ文庫版「トリポッド4凱歌」だ。

 さらに、ジョン・クリストファーは、これらの3部作を書いた20年後の1988年に"When the Tripods Came"(ハヤカワ文庫版「トリポッド1襲来」)を書いている。ウィルが旅を始める100年前の出来事として。だから、ハヤカワ文庫の順番どおりに読むか、著者が書いた順番どおりに読むかは、読者に選択がある。("The White Mountains"だけを読むだけでも十分に価値があると、私は思っています。)

 また、1984年には、イギリスBBCによってテレビドラマ化もされており、画像で見ることさえできます。(URLを書いてしまうとまずいかもしれないので、「the tripod, BBC, TV series, online free」などの単語を入力して検索してください。)

 ちなみに、私はハヤカワ文庫に描かれている登場人物たちのイラストが嫌いです。(本全体を台無しにしていると思っているぐらいです。訳自体は、学習研究社のも踏まえた形なので、親切だとは思いましたが。)

2011年10月24日月曜日

あえて争点を扱う

 「記憶と歴史」(Doing Historyの連載)の第5回目=最終回は、まだ記憶に新しい原発を含めて捉え方に争点のあるテーマをあえて扱う事例です。紹介されているのは、東電の原発をイメージして書かれたものではもちろんありません。アメリカでも争点の筆頭に上がるものとして存在しているのでしょう。


第11章 あえて争点を扱う

129  原発があることによるプラス面とマイナス面

● プラス面               マイナス面

 安くてクリーンなエネルギー    事故の危険がある
 新しい職の提供           仕事も危険
 炭鉱よりも安全?          学校や住宅に近すぎる
 安全面の努力をしている      宅地の価値が下がる
 天然資源を守る           廃棄物の安全な処理法がまだ
                     見つかっていない
● 以上がもたらす結果:

 原発があると            原発がないと

 1すべていいことが起こる    1天然資源を使い果たす
 2ワシントンもチェルノブイリ   2石油のコストが上がり続ける
  のようになる            3資源がなくなる前に、安全な
 3廃棄物が地下水を汚染する  エネルギー源を科学者が発見する


130 Conflict is fundamental to democracy. (対立は民主主義には欠かせない)

131 従来の授業法のInitiation-Response-Evaluation(=教師が尋ねて、生徒が答えて、教師が評価する)と言う流れでは、話し合い(対立を解消する)の練習にはならない。
  Teach for as well as with discussion.(話し合える能力)が求められている時代。

132 その際、小グループでの話し合いは重要。
  Agency refers to the power to act/to make history. ←第1回目に紹介したAgencyです。We are all participants in the ongoing drama of history. We are both the subjects of history and its agent.  しかしながら、日本の歴史教育はこれまでこの大切なAgencyという考えを放棄し続けている。歴史の観客であり、参加者とは位置づけてこなかった。

133 One option for teaching history is to begin with controversies that are still unresolved. 歴史教育を始める一つの有効な方法は、まだ解決されていない対立を扱うことです。 ~ それは、過去、現在、未来をつないでいるから。

135 Historical agency is an important concept because it is the aspect of historical thinking that helps students see themselves as historical actors. Just as the actions of people in the past produced history, so too do students’ actions today and tomorrow make history. History is real and current.

136 それに対して従来の歴史教育は、history seems inexorable ~ a train moving along a track of someone else’s devising. ~ 私たちが習ってきた歴史は、すべての結果が出ているものばかり。

 A variety of factors, including individual choices, influence historical outcomes.

 Speculating about alternative outcomes helps students recognize that particular events are not inevitable. ~ ある出来事を不可欠と捉えるのではなく、それも個人(たち)の選択と判断の結果である、と捉えられることは、歴史の見方や、いまのアクションの仕方、未来の見方を大きく変える力になる。

 “What if…”で、議論したり、ロールプレイをしてみたりする。

137 When history challenges our world view, it can be discomforting ~ and compelling. ← そのぐらいでないと、歴史を学んでいるとは言えない。極めてエキサイティングな体験としての歴史(教育)

138 IT ISN’T FINISHED YET: YOU CAN MAKE A DIFFERENCE ← 歴史に対してこの感覚をもてたらすごいこと!!(歴史はまだ終わっていない。自分は何か貢献することがあり得る。)

  Dicisions made in the past can be changed in the present. (過去の決断したことは、いま変えることができる!!)

 3回の具体的な事例紹介以外にも、この本の中にはたくさんの効果的な歴史の扱い方(教え方)が紹介されていました。いったい日本で行われている歴史教育は何なんだ、とつくづく思わされました。

 私たちが常日頃当たり前にしていることは、決して当たり前ではありません。ちょっと見方を変えてみるだけで、そのことがわかってしまいます。

2011年10月21日金曜日

学んだことは表現する!

 「記憶と歴史」Doing History連載の第4回目 は、学んだことを表現することの大切さです。その時、対象を設定することも。ちなみに、教師は最悪の対象である場合が多いです。理由は、答えをすでにもっていると本人も生徒たちも思っているから。


第7章: 世界史を探究を通して学び表現する

74 音楽、ビデオ、マルチメディアを作成するという課題は、今の生徒たちには難しくないし、受ける課題。

76 Engaging students in creative activities that ensure meaningful learning. 創造性を引き出す意味のある活動に生徒たちを巻き込む。 ← これが、教師の役割。 どれだけやれている教師がいるでしょうか?
  Activities provide the means by which students construct knowledge, and so they are indispensable part of lesson structure. 活動は生徒たちが意味を作り出す手段で、授業の欠かせない一部。
  必要は資料や情報に生徒がアクセスできる環境を整えることも、教師の役割。
 生徒が読んだり、聞いたり、見たり、体験した後は、they still have to do something with that content in order to understand and remember it. This is the purpose of activities. 何らかの形で「出版」(表現)するのが効果的。 ボード・ゲームを作ることなども含めて。
  Research has shown that when students try to recall information from class, they don’t just think about the content itself; they also think about the way in which they learned it. 内容は、学んだ方法と同じぐらい重要!

77 20ぐらいの活動を身につけていればいい。扱うテーマ(内容)によって、使う活動を決める。いい教師は、常に集め続ける。★ 20のリストに興味のある方は、連絡ください。

  選択すること、生徒がオウナーシップを持つこと、学ぶ責任を生徒が担うこと = 自立した学習者になってもらう仕組みが大切。 単に知識を暗記するのではなく、自分にあった学び方を身につけることも。

78 選択することは、関連づけることにつながる。
  比較することも、とても大切。 比較することは、理解する助けになる。

86 ランディ・パウシュの『最後の授業』で紹介されていたようなマルチメディアを大学生が作り出すプロジェクトは、高校生(中学生?)も十分に可能な時代


第8章: 歴史博物館をつくる

88 過去100年の移り変わりは、物を展示する形で示す。あるいは、写真。
  各生徒が、自分のテーマを2つか3つ決めて追いかける。その後に、ペアで相談して一つのテーマに絞って追及する。そして、歴史博物館に展示できるものをつくる。
→ サザエさんのまんが、さくらももこ、パナソニック・キッズスクール(くらしと家電の歴史1900~2000)、50年前の延岡~家に眠っている写真。他にも、
・ 『ニッポンの風景 ~ 住吉大社の千年のくすの木』 島田アツヒト、あすなろ
・ 『はらっぱ』 神戸光男、童心社
・ くらべてみよう100年前と 全5巻  本間昇
・ 学習に役立つくらしのうつりかわりシリーズ 全8巻 本間昇 など。
★ 他に、いい参考文献や資料があったら、ぜひ教えてください。

  総合学習が失敗しているように、単に子どもたちに調べさせるだけではダメ。本当に発表するから、本気で調べられるし、調べたい疑問・質問も出せる!!

  歴史博物館(家族史)のアプローチは、移り変わりを理解するだけでなく、ask questions. collect information, draw conclusions, and present their findingsという方法を身につける。

89 Teachers must help students learn how to conduct inquiry. 要するに、上の4つ。

90 Historical inquiry stems from students’ interests and experiences.
  Authentic projects involve learning beyond school boundaries. 本当のプロジェクトは、学校の枠を越えた学びを可能にする。
  Students are not accustomed to generating researchable questions.
  Observation and discussion of historical artifacts lead to specific questions.
  さらには、Time for exploration leads to better questions.

  興味・関心を、調査できる質問に転換する ~ 調べるためのいい質問づくりは容易じゃない! 繰り返しの練習で身につける

92 教師は、コンセプトに迫るような問いかけができるように生徒たちをサポートする。
  What happened to James Watt?
       ↓
  Why didn’t trains run on electricity?/ Why did they stop making electric trains?
       ↓
  How has the power used for trains changed?

  教師の言ったことをやらせるか、生徒任せにするかの二者択一ではなく、第三の道。生徒に主体的になってもらいながら、教師はサポートし続ける。

92 Information in inquiry projects comes from a variety of sources. 多様な情報源を使う。

93 Students need to learn to read selectively for information.
  調べ方、答えの見つけ方は、ライフスキル ~ その際、人の果たす役割は重要。

94 In history, conclusions are based on evidence. 歴史では証拠が重要。
  Important questions rarely have simple or direct answers.
  Teachers need to model how to draw conclusions from evidence.

95 Teachers need to model the use of notes to draw conclusions and organize reports.
  あまりにも、モデルを示さない日本の教師。教えることに熱心すぎて。教えることとモデルを示すことは違う。どちらに時間をかける方が効果的かを考えるべき。

歴史博物館アプローチのまとめ:
100  3つの特徴:①身近に感じられる、②本当の歴史の探究を行える、③本当にいる対象に向けて発表できる
   participatory democracy(民主的な社会)への貢献としては:
① find relevant information and draw own conclusions based on evidence. Citizens have to be able to develop ideas based on the careful consideration of evidence.
② It helps other people learn. Sharing information in this way makes democratic participation richer and more complete.
~ こういう努力をし続けてこそ、民主的な社会はつくられていくんだと思います。「三権分立」などと言っているだけでは、何ごとも前に進まないわけで・・・

2011年10月17日月曜日

記憶と歴史 第3回

 これまで2回は原則的なことだったので、これからは具体的なこと(=実践例)を紹介します。今回は、自分と家族についての歴史です。『ギヴァー』の世界は、これらがとても弱いのですが、日本社会は大丈夫でしょうか? Doing Historyの連載第3回。

第4章 自分史

  歴史を理解することは、自分史からスタート!! → 小学校の低学年でやっているかもしれませんが、高学年ないし中・高でやる必要があるんだと思います。
  自分の過去が現在(そして、未来)にどれだけ影響しているかを知る。
  もっとも重要な5つのエピソードを選ぶ
  歴史は、過去の現在への影響を知ること → だけじゃないでしょう! 未来まで視野に入れないと!!!) Agencyという概念は、現在のアクションを大事にしたもの? それとも未来??

  多くの生徒たちは、他の生徒の大切な出来事を聞くまで自分のがわからないこともある。

  自分の記憶が出発点だが、それだけじゃ不十分なので、親や祖父母や親戚たち、あるいは写真などにあたる(要するに、多様な情報源に当たる)必要性が生じる。

35 自分の見方とは異なる視点を提供してくれることもある。

36 単に教師のためにするような課題では、子どもたちは本気に取り組まない。自分にとって価値が見出せない限りは。おもしろさを感じられなければ。「本当」の課題の価値。

  ここで紹介されているのは、「自分の歴史」を自伝(物語)にして友だちに紹介するという課題。→ 詩やエッセイ等、他のジャンルでも可能。
  全員が同じようにやれるわけではない → 選択を提供することの大切さ
  教師は、子どもたちがもっている知識やスキルを応用できるように助ける。
  クラスメイトの助け(見本)でもいい。

37 自伝を書くことは、何は重要で、何は重要でなかったのかを判断することを含んでいる。

40 厳しい境遇にある子の方が、自伝プロジェクトは書ける。
  自分自身に自信をもつきっかけにもなる。
  違いを尊重する態度を教師がモデルで示すことの大切さ。

41 自分について書かない選択も提示する。他の誰かを選んでもいい。
  また、発表しない選択も。
  目的は、過去が現在にどう影響を及ぼすかを知ることだから。

42 自伝プロジェクトの応用: 市販されている自伝を批判的に読む。その際の問うべき質問の例
  究極は、自分たちで誰かの自伝を書く。(自己満足じゃなくて、設定した読者に向けて)

43 自分との関係がまったく見出せない歴史を学ぶことは意味がない! → 関連づけられる形で提示してあげないと!! それができないと受け入れられないし、単なる暗記になってしまう。

  子どもたちは、自然界の中で生きているのと同じように、個別の歴史をもっており、歴史の中で生きている。


第5章 家族の歴史 ~ 祖父母にインタビューして綴る

45 世代の違いを認識することだけでも大きい。
  インタビューの仕方、ノートの取り方も身につける。そして、インタビューの結果を共有し合う。 → 教科書で、子どもたちとの関連付けを意識しているものはあるの??? 関連づけられないと、学べないのに。

46 関連づけられるのは、教師。それを生徒自身に委ねてはダメ。 → 教科書は、子どもたちを知らないので、できるはずがない!! それとも、できる?

47 生徒たちは、個人的な、人間的な側面に興味を示す。たとえば、写真、音楽、ドレスなど。

48 経済や社会などの抽象的なレベルでは受け入れられない。手伝い、余暇の過ごし方、学校など具体的なレベルじゃないと。 ~ これって、教える時の原則

54 発展: 地域の歴史

2011年10月13日木曜日

過去、現在、そして未来

 前回に引き続いて、Doing History連載第2回目です。

 今日は、「過去、現在、そして未来」というタイトルのついた第1章。

1 connects to the present ← 現在とのつながりこそが大切
 we are still in the middle of the story. ← 「私たちはいままさに物語の真っ只中にいる」という感覚の大切さ!
 History forces us to consider what it means to be a participant in this human drama ← 歴史は、人間ドラマの中で参加者であることはどういうことかを考えさせてくれるもの。これを放棄している『ギヴァー』の社会、そして、とても弱い日本社会。

2 4つのスタンスの紹介
  ① Identification involves looking for connections b/w present and past.
  ② Moral responses to history involve judgments about the people and events of the past.
  ③ Historical analysis involves identifying patterns or examining causes and consequences of events.
  ④ Exhibition involves the display of historical information, whether in school or out.
 → 日本の歴史教育には、すべてが欠けているというか、とても弱い気がします。

2 History helps us picture possible futures. → 歴史が未来を描き出してくれる。

3 Shifting the focus of the history curriculum to a pluralist perspective presents a more inclusive and authentic vision of the futures available to all students. → 多様な視点で見られるようになることこそが、真の未来のビジョンにつながる。以下の5つの特徴も、日本の歴史教育では押さえられていないと思います。
  - Focus on enduring human dilemmas
  - Focus on human agency
  - Focus on subjecting interpretations to scrutiny and skepticism
  - Connect to the microlevel
  - Connect to the macrolevel

3 History is about significant themes and questions. → 価値のあるテーマと質問こそが歴史である!
 If history helps us think about who we are and to picture possible futures, → 歴史は、自分たちが何であるか、そしてどこに向かっているのかを教えてくれる。単に年号を覚えたり、時代の流れを理解するだけではダメ!! 基礎・基本の後に、応用というアプローチもダメ。自分たちの役割を感じられないようなものではダメ。学校の歴史は、幅の狭い解釈/視点しか提供していない。
 その代わりに、we need a vibrant history curriculum that engages children in investigating significant themes and questions, with people, their values, and the choices they make as the central focus.

4 engage students I thinking about who they are, where they came from, and where they might go in the future. → 私たちがどんな者であり、どこから来、そしてどこに向かっているのかということに取り組ませる。
 History is Interpretive. No historical account can be entirely objective….history is always someone’s history. → 歴史は解釈でなりなっている。客観的な解釈は不可能。歴史は常に誰かの歴史であり続ける。
  If our students are to be visible – able to see themselves as participants in the ongoing drama of history – then we have to rethink the ways in which we conceive of history.
  - Begins with the assumption of a pluralist society. → 社会は多様であること。
  - Recognize that no single story can possibly be our story. → 一つの物語がすべてを言い表すころはできないこと。
  - Remember that history is alive, constantly changing as we speak and act. → 歴史は生きていて、私たちが話したり、行動したりすることで常に変化していくこと。
→ この辺のことは、『ギヴァー』の中で、ジョナスがとったアクションに通じると思われませんか?

5 単なる年譜じゃない! 関連を表すストーリーとして表現される。

6 羅生門現象 ~ 誰の視点で語られているのか
  だからと言って、すべての解釈がいいとか、正しいと言っているのではない。
  確実に言えることは、教科書の解釈はあまりにも狭すぎるということ。
  歴史は、極めて政治的!
  当然の如く、国益/国家史観の観点から書かれている。時の権力者の視点で書かれた歴史を参考にして書かれている文献中心主義の歴史。

7 あくまでもhistory(彼の物語)であって、herstory(彼女の物語)ではない。
  誰が書いたのか、誰/何については書いていないのか?
  Interpretation is an inseparable part of historical understanding. → 解釈と理解は切り離せない。
  歴史は、とてもcontroversial矛盾をはらんだもの。

8 Attempts to tell a more inclusive story of history are met with fierce resistance. → 多様な視点(あるいは、異なる視点)を入れようとする、とても大きな抵抗にあう。それが、固定的な見方に埋没してしまう理由。
 歴史教育の目的 → 目的をしっかり持つことが大切 (どの教科にも言えること)
 ・ The purpose is to prepare students for participation in a pluralist democracy.民主的な社会への参加を可能にすることが目的。
 ・ 実際に参加すること
 ・ より多くの人にとっていいこと

 3つのより具体的な目標:
 ・ The study of history can give students experience reaching conclusions based on evidence. 証拠にもとづく結論を導く練習
 ・ The study of history can engage students in deliberations over the common good. これは、どう解釈したらいいんでしょう??
 ・ The study of history can help students understand perspectives different than their own. 異なる視点の理解

10 要するには、正解のないアプローチ。一つ(ないし狭い)見方しか提示していない教科書を使わないアプローチ ~ あるいは、たくさんの資料のうちの一部に位置づけるアプローチ 一つの見方しか提供できない教科書は、他のたくさんの資料の中の一つとして扱う必要がある/扱わなければならない。

2011年10月11日火曜日

記憶と歴史

 Doing History連載第1回。
 
 記憶と歴史は、それらを消し去っているがゆえに、『ギヴァー』の重要なテーマの一つです。これらについては、最初にこの本読んだ時(もう、5年近く前)から引きずっています。引きずってきた大きな理由の一つは、この歴史大好きの日本でも、『ギヴァー』のコミュニティと同じように記憶と歴史を軽んじている部分が多分にあると思っていることにあります。それは学校での歴史教育に顕著に表れています。(そして、長く続いている歴史ブームにも未来志向の欠如を痛切に感じます。)

 ずっと引きずっていたことが、DOING HISTORYというタイトルの極めて効果的な歴史の教え方に関する本に出会って、いろいろなことがスッキリしました。まさに、私が考えていたことを明快な言葉で書いてくれていただけでなく、それを実現させる歴史教育の実践例までたくさん紹介してくれていたからです。

 エピローグに、この本がどんなスタンスで書かれているのかが完結にまとめられています。(以下は、私のメモからそのまま書き写します。申しわけありませんが、原書が英語なので、そのままコピーしています。カッコ内の日本語は、私のコメントです。)

193 Being human means thinking and feeling(actingも含めたい気分); it means reflecting on the past and visioning into the future(この後者の未来志向の部分が極めて弱いのが日本の歴史の扱い方であり、日本の歴史教育なのでは?). We experience; we give voice to that experience; others reflect on it and give it new form. That new form, in its turn, influences and shapes the way next generations experience their lives. That is why history matters.(なかなか、こういう捉え方をしていないです。特に、暗記科目としての歴史では。)

History always derives from the present ~ from the ways in which individuals at a given moment in time reflect on and give form to times past. Teaching and learning history is also about imagining a future in which we understand ourselves and others better, and that is the point of this book. (現在と未来のウェートをこんなにも大事にした形での歴史教育ないし歴史というのは、日本に存在するでしょうか?)

Thinking historically is fundamentally about judgment ~ about building and evaluating warranted or grounded interpretations. (この捉え方も大切だと思います。歴史は判断と解釈であるという。単に誰かがすでにしてくれている判断や解釈を覚えることではないんです!!)History, then, is not just opinion: It is interpretation grounded in evidence ~ hence the emphasis throughout this book on helping students learn how to gather and analyze information about the past. (判断や解釈をしっかりするためには、その証拠というか情報収集が大事であり、さらにそれらの分析も大事ですから、そうした力を身につけることにこの本は焦点を当てています。この種の歴史教育を受けた人は、日本にいるでしょうか? 大学院レベルなら当然いると思いますが。)

Always take place in a social context….(これらのことは孤独にするものではなく、仲間とするもの、というのもいいです。多様な視点が得られますから。) In a community of inquiry, where they are responsible for explaining their thinking to interested others. (単に覚えた/わかったで終わりにするのではなく、相互に教え合ったり、あるいは周辺の人に学んだことを発信する形で学んでいきます。自分が知ったり、発見した内容を伝える相手がいますから、相手に理解してもらえる形にしっかり加工して提示する必要があります。この過程で、学びが一段も二段もランクアップします。なんと言っても、他人に教えることが一番いい学び方ですから。)

This sort of agency ~ of believing in one’s ability to take action ~ is crucial to our approach throughout this book. Agency in history is something we want students to learn about, but they are also agents in their own learning and in their own lives. They should be prepared to do something with what they learn. (ここまでにすでに、いいことがたくさん書いてあったのですが、窮めつけはこのagencyという考え方です。★いい日本語にできる方は、ぜひ教えてください。★ 一人ひとりが知ったことをアクションに移せる力をもっていると信じることの大切さです。従って、知ることは手段に過ぎません。また、生徒を学びや自分たちの暮らしの中での主体的なアクターとも位置づけています。それは、常に指示されることで動く人間ではないということです。何らかのアクションに移すことを前提に歴史を学ばれた体験のある方はいますか?)

194 “a meaningful connection with the past demands, above all, active engagement…(過去と意味のある形でつながるためには、主体的に取り組むことが不可欠です。そんな環境が私たちの歴史の授業にはあったでしょうか?)We must enter past worlds with curiosity and with respect.(それには、好奇心と尊敬も不可欠です。特に、小学校~高校で歴史を学ぶ際に、これらは歴史上の事実を知ることだけからはなかなか得られませんから、教師の役割が極めて大きいことを意味します。そのために存在するといってもいいぐらいに。)” Knowing about the past then, is never enough ~ we must also care about the past, and care enough to use what we discover to make a better future.(そして、過去を大切にすることは、未来を大切にすること!)

Their willingness to work toward this kind of teaching and learning grows from a shared vision of their students (and themselves) as historical agent ~ reflecting on the past in order to act more wisely in the present, making more intelligent choices for the future, and expanding their vision of what it means to be human and humane. (要するに、どこかの権威が書いたものをカバーしていればいい、受け身な人間として生徒や教師を位置づけていては、どうしようもない、ということです。)

History is an exciting and ever-changing process of investigation and reflection.(最後は、歴史はとても興奮するもので、探究と熟考によって繰り返し行われ続けるものだ、と。こういう歴史を体験した方はいますか? まさに、「歴史をする」というか「歴史家になる」体験を通して学ぶという本のタイトルそのものです。)

2011年9月10日土曜日

世の中や他の本を『ギヴァー』の視点でみる

過去2年間ブログを書き続けている間(というか、『ギヴァー』に出会ってからだと、約4年間になりますが)、私は世の中で起きていることや他の本を『ギヴァー』の視点でみる習慣がついてしまったようです。
 あなたには、そんな本がありますか?
 そんな本を持つことは、そもそもいいことなのでしょうか? それとも、危険なことでしょうか?

 少なくとも、この習慣を身につけたことで、これまでなら出会うことのなかった分野の本にまで出会えました。中でも最大のヒットは、哲学関連の本です。
 私は、哲学書は一切読んだことがありませんでしたが(というか、トライしてもおもしろくなくて読めませんでしたが)、『ギヴァー』を読んだ後は、かなりスムースに読めましたし、頭に入ってきました。というのも、『ギヴァー』に盛り込まれている多くのテーマはすべて哲学のテーマだったからです。 

 過去2年間に『ギヴァー』と関連のある本として紹介した本は、すでに80冊を超えていますし、間接的に関連あるとした本も30冊ありました。(テーマも、ジャンルも、極めて多様です。「こんな本まで関連があるのか!」と思うようなものがたくさん含まれています。)
 『ギヴァー』の中だけに閉じこもっていたくないので、これからも関連のある本探しを楽しみたいと思っています。

 私一人では見出せないのもありますから、関連のある本をご存知の方は、ぜひ教えてください。

2011年9月8日木曜日

いま、18世紀の自給自足の生活営むアーミッシュ

倉本さん(?)関連で、3冊の本を読みました ~ 本当は、歴史の多様性、社会の多様性に関心があって読んだのですが、結果的には倉本さんを扱った2回の書き込みと『ギヴァー』にも関連する内容でした。

  『カレジの決断』アイビーン・ワイマン
  『アーミッシュの謎』ドナルド・B・クレイビル
  『プレイン・ピープル ~ アーミッシュの世界』栗原紀子・文、長谷川朝美・写真

 『カレジの決断』は、「現代アメリカで、移民当時の農耕や牧畜によって自給自足の生活を営むアーミッシュの人々。ペンシルバニア州の美しい自然やあたたかい家族にかこまれて育った少女カレジ(Courage=勇気という意味)は、大人に近づくにつれ、アーミッシュのしきたりに疑問をもちはじめる。その中には、「高等教育を受けてはいけない」が含まれており、アーミッシュのおしえと、自分の意志のどちらにしたがえばいいのだろう」と悩む少女の物語。結果的に、カレジはジョナスと同じように、家とコミュニティを出ます。

 しかし、後の2冊を読むと、カレジのように自分の家族やアーミッシュのコミュニティから抜け出す決断をする人は5人の一人もいないようです。実際、アーミッシュ・コミュニティは人口が減っているどころか増え続けています。それを取り巻くアメリカおよびカナダ社会はすごい速度で便利になり続けているにもかかわらず。この多様性がなんとも素晴らしいです。残念ながら、日本にはその多様性がありませんから。

 『プレイン・ピープル ~ アーミッシュの世界』の著者の栗原さんはエピローグで、1997年秋にアメリカのABCテレビが放映した特別番組「幸福の秘密」を紹介しながら、再びアーミッシュ社会の特殊性について触れています。

 「各界の著名人や一般人の声を集めて、幸せとはなにか、何が幸せをもたらすかを討議するという内容だった。
 アメリカ人で最も幸福度が高いのは誰かという質問に対し、多くの研究者がアーミッシュの名前をあげたと司会者は語った。
 最後に司会者はこう締めくくった ~ アーミッシュのように幸福でありたいとすれば、私たちは快適で便利な現代生活を捨てなくてはなりません。私は自分がそうすることはないと思います。なぜでしょうね。幸せより大切なことはないとは思うんですけどね・・・。」
 これを受けて、栗原さんは、「私にはその理由が少しだけわかるような気がする。・・・この半世紀に起こった技術の進歩はものすごいものだった。いつのまにか私たちはこのような変化に適応し、あたりまえのものだと思うようになった。豊かになることはいいことだし、便利になるのもいいことだ。でもたぶん、私たちはその代償を支払っている。」(206ページ)

 「アーミッシュになりたいか、と問われれば、それは無理だと私は答えるしかない。時計の針を戻すことができないように、知ってしまった知識を忘れ去ることはできず、植え込まれた価値観を白紙に戻すことはできないからだ。
  それでもアーミッシュのような人びとがこの地上に生きているということは、とてもすばらしい。」(207ページ)

→ 『ギヴァー』と通じる部分が多分にありますし、倉本さんが描いている「北の国から」にも、そして山田洋次監督が「寅さん」で描き続けた妹・桜の柴又のコミュニティにも。

 なお、アーミッシュの子どもたちは、8年生(14歳)までしか学校に行きません。それも、昔のアメリカの農村地帯そのままのワンルーム・スクールです。要するに、1年生から8年生まで同じ教室で学びます。
 1930年代の後半には多くの州で、16歳(日本の高校1年)までが義務教育になりましたが、アーミッシュは強く抵抗しました。その結果、1972年に連邦最高裁はついにアーミッシュの主張を認めたのです。
 <高校およびそれ以上の高等教育は、アーミッシュの価値と生活様式に著しい変化をもたらすものであるがゆえに、アーミッシュは反対する。高等教育は知的業績や科学の知識、自我の育成、競争、社会的成功、そして他の生徒との社交能力の育成を重視する傾向がある。アーミッシュの社会は、体験と通して学ぶことを重視しており、知的な生活よりも善良な生活を、技術的知識よりも賢さや知恵を競争よりも共同体の幸福を求め、現代社会との統合よりも分離を重視するのである>(『プレイン・ピープル ~ アーミッシュの世界』の143ページ)

 アーミッシュ・コミュニティの絆と、日本社会(“世間”)の絆の違い についても大いに考えさせられます。(151ページ) 

 なお、ハリソン・フォード主演の映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』の舞台のほとんどは、アーミッシュの村なので、彼らがどのような生活をしているのかよくわかります。しかし、この映画の最大の被害者は映画の撮影に協力したアーミッシュの人々でした。映画のおかげで来てほしくない観光客が飛躍的に多くなってしまったのです。

 ちなみに、アーミッシュが多く居住するペンシルバニア州のランカスターは、あのスリーマイル島原子力発電所からわずか南東に40kmほどの位置にあります。結果的には健康被害はなかったとされる原発事故ですが、電気の使用を拒否しているアーミッシュの社会も巻き込む形で起こってしまったことは皮肉です。

2011年9月5日月曜日

『ギヴァー』届きました

5日に、荻野聡さんからいただいたメールです

この本はいろいろと考えさせらえれる物語ですが、おもしろくて一気に読ませてくれました。
本書を読んで今の当たり前にある社会や日常生活について考えずにはいられません。
画一された社会はどうなっていくのかを思うとぞっとします。
そんな中で『ギヴァ-』の存在が生きてくるのですね。
「与える人」になれるようなスタンスでこれから生きていこうと思わずにいられませんでした。
本書は3部作シリ-ズの1作目だそうで、次の翻訳を是非お願いいたします。

2011年8月22日月曜日

不便か豊かか?

 『北の国から』放映30周年記念特別番組の中で、富良野塾の元塾生たち(確か、9人)には事前に「どんな電気製品は必要か」をアンケートで聞いていました。皆さん、30品から50品を挙げていたように記憶しています。   それが、倉本さんとの昨日紹介したような話し合いした後で、同じ質問をしたら、ほとんどが一桁に下がったのです。

 電気製品が少ない生活(=電気の消費量を少なくおさえた生活)は「不便」で、電気製品がたくさんあり、従って電気の消費量も多い生活は「豊か」なのでしょうか?

 このことを、動物社会学で有名なコンラート・ローレンツの『ローレンツの世界 ~ ハイイロガンの四季』という写真集をたまたま読んで考えさせられてしまいました。
 ガンを含めて動物たちは、極めて少ないベーシックなもの(基本的なもの)さえ満たされていれば十分に幸せだと主張しているように思えました。
 人間だけが(それも、全員ではないのですが)飽くなき便利さの追求にまい進しており、人間以外の動物たちは、基本的なものさえ手に入れば(不満はあるのかもしれませんが)、豊かに幸せに暮らし続けているかに見えます。

 私たちには選択する力と義務の両方があります。ジョナスがそうしたように。
 もちろん、それは電気の消費量についてだけでなく、他のいろいろなことについてもです。


★ 不便さを感じないで、楽しく豊かに、使う電気製品の数を減らし、消費電力を下げるコンテストのようなものがあってもいいかもしれませんね。

2011年8月21日日曜日

『ギヴァー』と関連のあるドラマと劇

それは、『北の国から』と『歸國』です。 両方とも、倉本聰の代表作です。
共通点は、いまの日本のあり方をいろいろな角度から問うていること。

前者は、高度成長も終わり安定期に入り、豊かさを享受する日本社会(倉本さん流に言えば「使い捨て社会」と「家族の絆を失った社会」)に対して「ほんとうに今のままでいいんですか?」と問いかける内容です。
後者は、60数年前に南方の海で散った日本兵たちが、8月15日の深夜に東京駅に到着し、短い時間東京や自分が知っている人たちの今を見て、南方で散った戦友たちに今の日本を伝えるという内容。★

「『北の国から』放映30周年記念特別番組 今、五郎の生き方 ~2011夏 倉本聰~ 」の中で、富良野塾の元塾生たち(9人)に、①原発前の不便な状況に戻る覚悟があるか、あるいは②原発事故の危険を受け入れる覚悟があるかと、投げかけました。元塾生たちは富良野塾での2年間の不便な生活体験をもっているので、全員①を選択しました。
同じ質問をある町の講演会でしたところ、年齢が上の世代の人たちは約9割が①を、しかし高校生たちは約7割が②を選択したそうです。不便な生活体験をもっているか否かが大きな選択の分かれ目になっていたわけです。

当たり前と思い込んでいるものが、本当に当たり前なのかどうかを考え続け(そして、その判断にもとづいて行動す)ること が、自分のため、家族のため、社会のため、地球のために求められている思います。ジョナスや黒板五郎さんがしたように。


★ 『歸國』は過去数年毎年夏(?)に上演されているらしいのですが、今年は東日本大震災の地震や津波と東電の原発事故を見ている人たちがお客さんなので、それを意識した演出になっている(いた)とのことです。

2011年8月13日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 71

 最近、あまり更新していないブログを見かねて、娘が書いてくれました。

 本は、『アルケミスト ~ 夢を旅した少年』 パウロ・コエーリョ著。

ギバーとの類似点は、まず、当たり前な日々の生活の枠から出ると決めること。

ただし、アルケミストはそこからストーリーが始まり、ギバーはそこでストーリーが終わっている。

ギバーの中で色が見えず、与えられた仕事を12歳の時から続けている人々はアルケミストの中では少年サンチャゴの父であり、途中で出逢うクリスタル屋の店主であり、途中に出逢う商人たち。彼らは何の疑問も持たずにその日々をこなしている。あるいは、疑問を持っても、それを深く追求しない。

少年サンチャゴは羊飼いの家に生まれ育ったけれども、もっと広い世界が見たいという想いから旅立ち、エジプトのピラミッドに彼を待つ宝物を探しに出発する。

ここで「何かを強く欲望めば宇宙の全てが協力して実現するように助けてくれる」ということ「前兆に従うこと」という錬金術師のセリフを少年は体験していくことになる。

錬金術師はある意味、ギバーに出てくる長老と同じような位置づけで少年を導くガイド役なところも似ている。

まだ見ぬ大切なものを探しに旅立つ、その中に人生が凝縮されている感じも似ている。それをサンチャゴは実体験として体験し、ギバーの主人公は長老の話を通して体験する。どちらも少年が様々な体験をしながら成長していく過程が描かれていて、最終的には答えは自分の中にあると気づく。

メッセージとして印象的なのは、自分の心に耳を傾けること。そして、自分の意志を持つことの重要性。

2011年8月11日木曜日

自分探し・絵本編

 大分前になりますが、『ギヴァー』のテーマの一つである「自分探しの旅」に関連する本を3冊と映画を紹介しました。今回は、その絵本編です。

 シェル・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』と『続ぼくを探しに』、レオ・レオニの『ペツエッティーノ ~ じぶんを みつけた ぶぶんひんの はなし』、そして今日読んだシャーロット・ゾロトウの『あたらしい ぼく』の4冊です。

 前の3冊はすべて私の好きな本なのですが、その当時は思い浮かびませんでした。

 まだ読まれていない方は、ぜひどうぞ。

 ちなみに、私はシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』よりも、こちら2冊のほうが好きです。でも、一般的には『おおきな木』のシェル・シルヴァスタインとして有名なようです。『「おおきな木」の贈りもの―シェル・シルヴァスタイン』マイケル・ボーガン著(名作を生んだ作家の伝記シリーズの1冊)が出ているぐらいですから。

2011年8月4日木曜日

ジェフ・ブリッジズが『ギヴァー』の映画化!?

 これまでにも『ギヴァー』の映画化の話(うわさ)は何回となくありました。  著者のロイス・ローリー自身も、何回となく期待はずれを味あわされ続けているようです

 しかし、今回は映画会社ではなく、ジェフ・ブリッジズ本人が乗り気とか。ブリッジズは、09年の「クレイジー・ハート」でアカデミー賞主演男優賞を手にしています。
 彼は、前から『ギヴァー』のファンだったようで★、自分の父をギヴァー役に考えていたようですが、いまや自分も61歳なので、自分がやってもいいんじゃない、と言っているそうです。

 このニュースは、「信憑性の定かでないウワサ」として日本語でも報じられています。


★ 娘が高校時代に読んでおもしろかったので、紹介してくれたそうです。

2011年8月2日火曜日

ハト → 鳥、スズメ

 ジェリー・スピネッリの『ひねり屋』については、すでに紹介しました。
 その中で主役のパーマーはハトをペットとして飼い始め、ハトを知る必要性に迫られて、図書館で本を借りてきて読んだり、ハトを観察しました(学校から帰ってから翌朝学校に行くまで、自分の部屋の中で飼っていたので)。その結果「ハトをテーマに本が書ける」と言っていたのが気になって、鳥やスズメの本を読み始めました。

 例によって、いろいろ読んだ中から、私が面白いと思った本の紹介です。
 『鳥のいるけしき ~ 詩前を見つめる目』中村登流
 『わたしのスズメ研究』佐野昌男
 『中学生のフィードルワーク』山岡寛人

 『鳥のいるけしき ~ 自然を見つめる目』の「あとがき」には、以下のように書いてありました。

 それは詩の世界とも科学の世界とも区別のつかない中間地帯を、もっとたっぷりとさまようことではないかと思う。ゆたかな詩情的な経験である。鳥と自分との心情的な対話もその一つであろう。また、鳥の姿や鳥の動きをあくことなく、いつまでもながめつづけることもその一つであろう。

 すべては、ここから始まる気がします。疑問をもつ前段としても。まさに『ひねり屋』の主人公のパーマー君がしたように。

 『わたしのスズメ研究』は、ペットと野性の鳥の違いというか、観察と研究の違いに気づかせてくれました。さらには、「たかがスズメ、されどスズメ」であることも。人間にもっとも身近な野鳥なんですね。(でも、野鳥ではあるんですが、人間との関係でしか存在できないのです。)

 『中学生のフィードルワーク』は、観察の手法として読んでみました。他に面白い本がありましたら、ぜひ教えてください。

 ジョナスの『ギヴァー』のコミュニティは、色がなく、鳥も飛んでいない(動物はぬいぐるみだけの)世界ですから、ちょっと考えただけでも(考えなくても?)恐ろしいです。それらがないことによって人間に与える影響とはなんなんだろう、とも考えてしまいました。

2011年8月1日月曜日

今年の流行語大賞は・・・

 今日は、知人から受け取ったメルマガの一部を紹介します。
 ここ数ヶ月問題★になっている原発事故および日本社会の歪みがテーマです。


今年の流行語大賞は・・・

「直ちに影響を及ぼすものではありません」

すぐに悪影響は見えないから気にするな、という意味で官房長官は使ったのですが、実は「長時間続けると恐ろしいことになる」という言葉と表裏一体になっていたことを国民はあとで知りました。

たとえば、微量★★の放射線、あるいはタバコ、排気ガス、毎日の無駄遣い、有害物質の入った食品、甘い缶コーヒー、愛のない家族、使命感のない会社などなど。

そして、極めつけは「なくなんとなく過ごしている毎日」です。


原文を覗いてみたい方は、http://www.mag2.com/m/0000138967.htmのバックナンバーの「すべて公開」をクリックし、2011/08/01の最初の部分です。


★ 話題になっているのは、まだ数ヶ月ですが、問題は長~く引きずります。
★★ 微量か、少量か、大量かは、ちゃんと発表してくれていないので、定かではありません。

2011年7月31日日曜日

主役は誰?

 2週間前の「服従」「同一化・画一化」から始まって、「老年の家」にまつわる諸々のことも併せて考えると、『ギヴァー』で描かれているコミュニティと日本社会のことがよく見えてきます。

 老年の家の住居人たちは、あくまでも「お客さん」でしかないんですね。
 施設を運営する側も、そのように見ています。「あくまでもサービスの対象」として。
 「一緒に場をつくっていく仲間」とは、間違っても捉えていません。
 主役は、あくまでも管理・運営者側です。

 同じことは、学校や大学、政治や行政、会社でも言えてしまいます。
 主役は子どもたち・学生、選挙民・市民、社員とはいっても、それはあくまでも言葉のみで、実際に実現しているところはどれだけあるでしょうか?
 家庭も、同じことが言えるかもしれません。

 私たちのこの家庭、保育園・幼稚園、学校・大学、そして会社や役所等での長年の主役が逆転している経験が、服従・依存、同一化・画一化、バラバラ、受け身・主体性のなさ等と深く結びついています。さらには、いいコミュニケーションやいい人間関係が築けないこととも。

2011年7月29日金曜日

いいコミュニケーション/関係のつくり方

 「老年の家」訪問以来、ずっと考え続けていることです。

 『ギヴァー』のコミュニティは、友達関係も、職場でのやりとりも、そして家庭内も含めてすべて表面的なコミュニケーションしか成り立っていないようです。一方で、ビデオですべての行動は収録されているという社会です。そんなところでは、真のコミュニケーションというか関係など築けるはずがないと思えてしまいます。

 翻って、自分たちの社会を見ると、
 いいコミュニケーションやいい人間関係の築き方を学校や大学の授業で体験したり、習ったりした経験があるでしょうか?
 授業では扱わなくてもいいほど、価値のないものなのでしょうか?
 それでは、授業以外の休み時間や部活動等で学んでいるのでしょうか?
 大学のゼミでは、自然と含まれていると思われますが、それは果たしてプラスの面とマイナスの面のどちらが多いでしょうか?
 会社、そしてPTAや町内会・自治会などではどうでしょうか?
 さらには、家庭では?

 指導的な立場にある人たちも、いいコミュニケーションや人間関係を築きたくないわけではないと思います。単に、自分たちが経験していないし、方法ももっていないだけかもしれません。それとも、あまりにも深刻な悪習の中にドップリ浸り過ぎているのでしょうか。(後者ではないことを期待します。前者ならいくらでも体験して、方法さえ身につけられれば、可能性はありますから。)


 今日の悲しいニュースです。
 九州電力ばかりでなく、まったく機能しているとは言えない原子力安全・保安院が中部電力四国電力にやらせ質問要請していたというのです。
 そういえば、小泉政権時代には同じようにタウンミーティングのやらせが、安倍政権時代には教育改革タウンミーティングでのやらせがありました。
 どうも、いいコミュニケーションや人間関係は最初から放棄しているようです。

2011年7月28日木曜日

JR西日本に620万円賠償命令=日勤教育

 JR西日本福知山線脱線転覆事故当時(2005年4月25日)から、取りざたされていた問題の決着がついたようです。この件は、あの悲惨な事故に会社の体質として深く関係していたと言われていました。以下は、その記事です。

 JR西日本の懲罰的な「日勤教育」で精神的苦痛を受けたとして、運転士ら258人が同社に1人100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁の中村哲裁判長は27日、61人については違法だったと認め、1人5万~30万円、総額620万円の支払いを命じた。
 原告は大阪や神戸、広島各支社などの運転士と車掌。訴状などによると、乗務中のミスのほか、点検中に帽子をかぶらなかったなどの軽微な理由でリポートを書かされたり、トイレ掃除や除草作業をさせられたりしたという。
 原告側は「きちんとした教育体制を敷かずに、原因と関連性のない日勤教育を受けさせるのは人格権の侵害」と主張。JR西は「事故や規律違反などの再発防止に必要で、会社の裁量範囲内」と反論していた。                
                    時事通信 7月27日(水)10時29分配信

 もちろんすべての企業がこんな状態とは思いません。しかし、少なからずこのような要素をもっていることは否定できないとも思います。なんといっても、天下のJRがしていることですから。

 授業や部活の罰則に通じる部分はないでしょうか?

 「老年の家」でも、これに近いようなことが報じられたことも一回や二回ではありません。

 すべては、つながっています。

2011年7月27日水曜日

バラバラ・依存の方が楽?

 日本でも、『ギヴァー』のコミュニティでも、「老年の家」を管理運営する側にとっては、住人たちがバラバラで依存した状況にある方が楽のようです。

 「バラバラ」で「依存」したままで「受け身/主体性のなさ」は、日本の「老年の家」だけに存在するのではなく、あらゆる組織に蔓延しているのではないでしょうか。保育園・幼稚園にはじまって、学校や大学の各クラス。
 そういえば、もう30年ぐらい前の話ですが、ある大学では学内で学生たちが数人集まって話し合うことすら禁止していたような記憶があります。
 「自治」は管理運営する側からは、毛嫌いされるようです。コントロールする際の阻害要因でしかないと捉えているのでしょう。

 「バラバラ」で「依存」したままで「受け身/主体性のなさ」は誰のせいか、というともちろん当人たちのせいでもあるのですが、より多くの責任は保育園や幼稚園、学校や大学には先生たちの側に、会社や国や自治体の政治の場合は経営者や行政や政治家の側にあります。(『ギヴァー』の中では、長老たち。)なんといっても「その他諸々」はバラバラにされ、そして受け身で依存したままに置かれ続けていますから、自分たちが主体的に動くのは至難の技です。
 どうも、指導的な立場にある人たちは「その他諸々」に「自立して主体的に動かれては困る」と思っているようです。

 そんな中で、行動を起こしたジョナスはすごい!!!

2011年7月26日火曜日

日本の「老年の家」

 先週、日本のある「老年の家」を訪ねてきました。
 『ギヴァー』の中に「老年の家」のシーンも少しですが、描かれていたからです。
 施設は、両者とも立派です。(後者に関しては、私のイメージでしかありませんが。)

 何が一番印象的だったかというと、先週追いかけ続けていたテーマの「服従」と「同一性・画一性」が日本の場合は、家を離れて保育園や幼稚園に入ったときにはじまり、そして死の直前まで続くのか、という発見でした。
 テーマは上の2つだけでなく、「バラバラ」「依存」「受け身/主体性のなさ」なども含めてです。

 保育園・幼稚園にはじまり、学校や大学、そして企業で、先生や経営側に依存する/服従する体質が長年培われてきていますから、終の棲家である「老年の家」でもまったく同じ構造が存在します。
 主体的に構成員が行動してコミュニティを作ることの難しさです。

 いろいろなアクティビティというかクラブ活動もあることはあるのですが、「全員を差別することなく扱う」ので、結果的に誰にも主体性がなく、運営側がやっているから、そして「暇だから」「時間をもてあましているから」「お付き合いで」参加している状態なのです。

 「老年の家」とは違う健常者対象の老人クラブなどはどうなのでしょうか?
 そして、学校や大学のクラブや部活やサークルは? 選択がある分、主体性は保証されているでしょうか?

 たまたま私の両親が20年以上前から海外(オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ等)のリタイアメント・ビレッジ★に興味を持っていたので訪ねたことがあるのですが、構成員(入居者)が主体的にコミュニティを作るという部分が根本的に違っていました。それは、単にそこに入ってからの問題というよりも、保育園や幼稚園から長年培われた経験というか教育の産物とも思いました。


★ なんとか、そういうのを日本でもつくりたかったのです。
  しかし、残念ながら日本社会の方がまだ用意ができていません。
  あと、少なくとも20~30年。ひょっとしたら50年はかかるかもしれません。

2011年7月24日日曜日

従う/従わない、同じがいい/同じになりたくない (=『ギヴァー』と関連のある本 69)

 服従と同一化/画一化をテーマにした第3弾は、ジェリー・スピネッリの『ひねり屋』です。
 前にも読もうと努力したことがありますが、3章か4章で脱落してしまいました。
 今回は、3分の1ぐらいまでなんとかがんばったので、その後はスムースに読めました。
 著者のユーモアのセンスもなかなかいいです。

 主人公のパーマーの住んでいるのは、公園の管理費を捻出するために、毎年五千羽の鳩を撃つ射撃大会を行っているとてもおかしな町。そこで活躍するのが、死んだ鳩を回収したり、まだ死んでいない鳩の息の根を止める「ひねり屋」と呼ばれる子どもたち。この町の子どもたちは10歳になってひねり屋になれることを夢見て育つ。でも、パーマーだけは違っていた。

 パーマーは、その気持ちを隠し続け、遊びたくもない子たちと友だちづきあいをするのに時間と知恵を使い果たす。そんなパーマーのことをもっともよく知っていたのは、前の家に住んでいる幼馴染のドロシーだけ(両親も、どうやら知っていたようだが、隠れてサポートしていた)。

 しばらく鳩をペットに育てた後、パーマーは射撃大会の会場でアクションを起こす。


 パーマーとジョナスの共通性、そして2人が所属するコミュニティの共通性(と私たちの社会との共通性)は、結構あるかもしれません。


付録: ライティング・ワークショップ/「作家の時間」を実践している方を中心に、書くことに関心のある方には、特に105~7ページ当たりが、鳩をテーマにして作家になれる気にさせてくれます。

2011年7月23日土曜日

わが国の長老たちと電力会社との強い絆

 自民個人献金、72%が電力業界 09年、役員の90%超 の見出しで、共同通信のネット版に載りました。(2011/07/23 02:02) 記事の内容は、以下のとおりです。

 自民党の政治資金団体「国民政治協会」本部の2009年分政治資金収支報告書で、個人献金額の72・5%が東京電力など電力9社の当時の役員・OBらによることが22日、共同通信の調べで分かった。当時の役員の92・2%が献金していた実態も判明した。電力業界は1974年に政財界癒着の批判を受け、企業献金の廃止を表明。役員個人の献金は政治資金規正法上、問題ないが、個人献金として会社ぐるみの「組織献金」との指摘が出ている。福島第1原発事故を受け、原子力政策を推進してきた独占の公益企業と政治の関係が厳しく問われそうだ。

 ということは、民主党は原発事故の尻拭いだけをやらされている、という構図になるわけです。
 自民党も、民主党も、本腰を入れて事故処理に乗り出さない理由が、こんなところにあったわけです。

 ウ~ン、なんという国!!!

『ギヴァー』と関連のある本 68

 一昨日紹介した『ウェズレーの国』との関連、およびすでに『ギヴァー』と関連のある本の48として、レオ・レオーニ作の『どうする ティリー』を紹介していますが、今回は有名な『フレデリック』です。副題に、「ちょっとかわったのねずみのはなし」と書かれています。

 フレデリック以外ののねずみたちは、冬食べるものを集めて昼も夜も働いた。
 しかし、フレデリックはみんなと一緒には働かず、じっと動かずに光や色や言葉を集めていた。みんなと働き方が違うというか、向いている方向が違うだけ。
 食べ物がなくなってから、のねずみたちの救いになったのは、それらフレデリックが集めた光や色や言葉だった。

 前回のウェズレー同様、従わないこと、同じことをしないこと(テーマとしては「服従」と「同一化(画一化)」)の大切さをティリーも、フレデリックも、ジョナスも教えてくれています。

2011年7月21日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 67

 今日から学校は夏休みというところが多いので、おすすめの本です。
 『ギヴァー』と関連のある本の49でも紹介した、ポール・フライシュマン作の『ウェズレーの国』です。

    仲間はずれにされていた少年が、
    夏休みの自由研究に「自分だけの文明」
    つくりだすという壮大な物語。
    自分だけの作物を育て、自分だけの服を作り、
    「遊び」を考えだし、「文字」まで発明する。

 このうちの一つでも(あるいは、これに似たようなことが)やれたら、すごい自由研究になると思いませんか?

 『ギヴァー』との関連では、共通に扱っているテーマとして「服従」と「同一化(画一化)」が含まれていると思います。 ← これらのテーマは、日本にとっての永遠の課題でもあります。

 ウェズレーは、従うことや友だちと同じに振舞うことを拒否し、自分のやりたいこと/やりたい道を進み続けた結果、夏休みが終わって、学校が始まるときには、仲間はずれにしていたみんながウェズレーの国の住人になっていた、というハッピーエンドのお話です。

2011年7月19日火曜日

名前の付け方

 『青い馬の少年』を読んでいて気づいたことの2つめは、ネイティブ・アメリカンの名前の付け方のこだわり具合が、『ギヴァー』の中での名前の付け方と対照的だと思えたのです。

 『青い馬の少年』の主人公は難産で、その結果として目が見えなくなったと思われます。

         一晩じゅう
    声を、あげることもなく
           目は、とじたままで
    息はあさく、弱く
    泣き声さえ、あげられなかった・・・

  ストーリーテラーのおじいちゃんが、その子を外に連れ出したところ、二頭の大きな青い馬がかけてきて、馬は立ちどまって、その子をみつめた・・・
    するとおまえは
    おおきな、青い馬にむかって
    腕をひらいた。
    わしはいった。
    「馬が、この子に、話しかけている。
    この子の、兄さんたちなんだ。
    暗い山をこえて、やってきたんだ。
    この子は、死んだりしない」

 そして名づけの祝いの儀式で、おじいちゃんは、「青い馬の力をさずかった少年」という名前をつけました。
    力強い名前でなくちゃ、いけなかったのおじいちゃん。
    子どもは、だれだってみんな
    力強い名前が、必要なんだ。
    じょうぶに育たなくちゃいかんからな。

 そして、その子は、生まれたての子馬に、「虹」という名前をつけます。自分の目となる馬に。

 それに対して、ジョナス、リリー、フィオナ、ゲイブリエルといった名前は誰が、どういう意味をこめてつけていたのでしょうか?
 そういえば、使ってはいけない名前も一つか、二つありました。

2011年7月17日日曜日

ストーリーテリング

 絵本の『青い馬の少年』は、以前に読んだことがあります。
 ある本の中で、作者の一人へのインタビューが載っており、その中でこの絵本が書かれる過程についての紹介があったので、その部分を確認することを主な目的に再度読んでみました。
 最初の時は(ギヴァーとの関連で)読めなかったものが、今回はいくつか読みとれましたので紹介します。 → ここ2~3年事あるごとに確認させられることですが、人は読むタイミングで読めるものが違うことを痛感します。

 その前に、普通、絵本は文と絵を一人がかくか、それぞれを分担してかくかのいずれかですが、ビル・マーティンという人は、あえてジョン・アーシャンボルトという人と二人で文を書く形で何冊かの絵本を出しています。(ちなみに、二人の出会いは、大学での講演にビルが来た時の送り迎えの運転手を学生だったジョンが担当したのが縁だそうです。)二人で書くことで、見落としがちなところをおさえたり、深まりや広がりを持たせられると、上のインタビューでビルは語っています。
 作家であり、詩人であり、編集者であるビルは、「読書は、目で読むだけでなく、声に出して、ことばの響きを楽しむことも含まれると考え、朗読やストーリーテリングを子どもたちに教えてい」ます。
 なお、この『青い馬の少年』はまさにストーリーテリングの形式で書かれている絵本なのです。

 それで思い出したのが『ギヴァー』でした。
 ギヴァーからジョナスに記憶が注がれることを、一種のストーリーテリングと捉えられないか、と思ったのです。
 ストーリーテリングは、確実に記憶に残り、そして伝承されていく方法です。
 それに対して、ジョナスが学校で受けている授業は、残らない/役立たない象徴のようなものとして描かれていた気がしないではありません。(日本中で行われている授業のほとんども?? いったい記憶にしっかり残り、しかも役に立つように変えていくにはどうしたらいいのでしょうか?)
 今の世の中、テレビがストーリーテリングの代役をつとめている気がしないではありませんが、それでいいのでしょうか?

2011年7月16日土曜日

『Beフラット』

 本の内容は、国会議員へのインタビューが中心なのかと思っていたら、どちらかといえばそれは付け足しで、教育問題、少子化問題、日本のアジアを中心とした外交問題などを扱いながら、それらに対して国会議員がどういう考えをもっているのか(結構ズレテイルているというか、何のアクションも期待できない正論だけを言う)を紹介する形になっています。

 基本的に、日本は再チャレンジを許さない社会/システムというふうに捉えています。→ これって、まさに『ギヴァー』の世界??

 学校ごっこ(こどもごっこ)をやらせ続ける学校、同じレベルで入試や入社に重きを置きすぎ(学生や社員の視点に立てない)大学や会社、人工中絶年間29万件を抱えながらの少子化問題、そして実社会のことをしっかり見、考え、そして行動できない政治家たちによる「政治家ごっこ」等を浮き彫りにする形で日本を描き出しています。 ← この最後のごっこ遊びには、あまりにも無駄なお金が費やされ続けています。コストに見合う仕事をしている人は、いったい何人いるでしょうか? それは、東電の幹部たちも同じですが。あちらの方は、「会社ごっこ」です。

 著者のアメリカで自分がやりたいように生きている友人(女性)への一言に、「残念だけど、もう帰ってこないほうがいいよ、こんな国」(206ページ)にすべて言い尽くされている気がします。

2011年7月15日金曜日

政治家たちを別の星に移送

 昨日紹介した日本の政治家に関する私のコメント(②の部分)を、もう一人別のオーストラリアの友人に送ったところ、以下のようなメッセージが届きました。

I agree with you on politicians (as you are well aware). I'd like to ship the lot of them to another galaxy permanently. (Not a lot of future for any life forms in that galaxy.)

 「生物が生きていく望みがない星に送ってしまいたい」というのです。
 (このオーストラリア人のユーモアのセンス、いいですね。)

 3月11日以降はもちろんのことですが、はるかそれ以前からも、「税金の無駄づかい」ということでは突出した存在であり続けていますし、選挙という制度を介した間接制民主主義が機能していないことは明らかです。
 しかしながら、機能しないシステムの上に乗っかっている人たちが、その機能しないシステムを改変するということは残念ながら期待できません。いまのままほど楽なものはありませんから。


 『ギヴァー』の方の「長老制」は機能しているのでしょうか?
 機能していないからこそ、ジョナスはアクションを起こしたんだと思います。


 中村安希さんの『Beフラット』を、昨夜から読み始めましたが、ちょうどここで書いている内容とシンクロとしています。

2011年7月14日木曜日

長老たち=政治家たちがいない方がいいのは国際的な状況?

 オーストラリアの友人と最近あったやり取りです。

 日本の状況をとても心配してくれています。
 それに対して、「悪い状況から脱したとは言えない。最悪なのは、政治家たち(特に、国レベルの)が物事を前に進めようとは思っていないこと。彼らなしの方が、物事がスムースに進むと思う」と返事を出したところ、オーストラリアの政治状況も同じだ、というメールが戻ってきました。

① I have been thinking about you and all folk in Japan who have been affected by the terrible earthquake, tsunami and the drastic situation with the nuclear power plant.
   I can't believe how much heart ache and devastation the events of the last few months have brought upon Japan and the people.
   I do hope that everyone feels supported and that they know that people around the world, and specifically Australia, are still donating to appeals and praying for a speedy recovery to normal. Although how can anything ever be the same when so many people have lost loved ones, their homes, their livelihoods etc?

  ↓

② Thanks for your very kind words.

  Yes, Japan (especially in the northern half of Honshu, the main island) is in quite terrible shape.
  But, unfortunately, the worst part is the national-level politicians. They cannot and don't seem to be interested in moving things forward. We are much better off without them.
  We are better off without them any time, but especially in this time of crisis.

  ↓

③ Your comments about your politicians match my thoughts on our current national government here in Australia.
    Thank goodness our politicians haven't had the same devastating natural and nuclear disasters to deal with. We have had terrible floods this year and awful bush fires but on a lesser scale than your dreadful events and resulting effects.

2011年7月10日日曜日

こだわりの生き方 2

 自分自身、こんな本を読むとは思っていなかったのですが、『ギヴァー』から発した関心はついにここまで来てしまいました。(「大分遠くまで来たもんだ!」という感じです)

 『デカルトの旅/デカルトの夢』(田中仁彦著)。
 サブタイトルは、「『方法序説』を読む」

 デカルト著、谷川多佳子訳の『方法序説』(岩波文庫)や、谷川さんが書いたというか、講演した記録の「デカルト『方法序説』を読む 」(岩波セミナーブックス) ★にも目を通しましたが、一番面白かったのが田中さんの本でした。以下、メモです。


12 学校教育への異和感、ずれが、すべての出発点
19 当時得られるベストの学問への失望
39 失望したイエズス会教育からデカルトが唯一得たものは、数学への興味だけ。(それも、デカルトが数学を学ぶ確率は、極めて低かったとか。)
41 それが、「本当の使い道」を発見する=彼の「方法」に他ならない。
60 のちにオランダでベークマンと出会い、刺激を受ける。
   デカルトは、問題の誤った処理の仕方をしたが、結果的にその中に、デカルトが「近代科学=哲学革命」の主役となることを必然的にした根本的な直観があった。
72 デカルトの極めて広義の数学への関心

190 夢の後の、9年間(1619年~1928年)の放浪の旅 ← この期間中には、自分の実家に戻り、父の死に伴う遺産相続をしっかりもらって換金したことも含まれています。それによって、以後自分の死まで何の職業にも就かず、哲学/研究/執筆活動に従事することができるようになりました。こだわりの生き方を貫くためには、必要なことだったわけです。

197~8 時代(夢)の崩壊 → 新たなものの創造のきっかけ

 キリスト教(宗教)を受け入れ続けていたデカルト


★ でも、この本から森有正のデカルト論は読んでみたくなりました。

2011年7月6日水曜日

こだわりの生き方

 ジョージア・オキーフという人についての本や画集を何冊か読みました。
 作品はスゴイのです(ヨーロッパの影響をまったく受けない作品と言われました)が、人となりを理解するという意味では『ジョージア・オキーフ ~ 崇高なるアメリカ精神の肖像』ローリー・ライル著が、一番よかったです。あれらの作品は、こういう人だからつくりえたのか、と納得です。

 オキーフは、1887年に生まれ、98歳で1986年に亡くなりました。これだけでもスゴイことです。絵を描くために、食べるものにこだわり、からだも大切にし続けました。何よりも、歩くのが大好きだったそうです。

 以下は、本からの抜書きです。(数字は、ページ数)


51 時間の使い方にはとても気を配っていた。
   絵を描くことが明らかに他のすべてのことに優先した。
   「彼女の色はいつも一番鮮明で、パレットは一番きれい、そして筆は最高のものでした ~ でもそのために彼女は、他のことをほとんど何もしていなかったのです」

60 自分の方法に気づいた瞬間 ~ これらの絵はあの教授、あちらの絵はもうひとり別の教授を喜ばせるために描いたものだ。それに残りの絵だって、何人かの有名な画家の影響を受けている、と。ジョージアは椅子に座り、しっかりと目を見開き、考え込んだ。すると突然、彼女の中で一つの考えが閃いたのである。彼女の頭の中には、それまで人から教わったどんなものとも違う、彼女自身の想像力と直結したいくつもの抽象的なフォルムが存在していた。
   1915年に、自分自身のために絵を描こうと決心した

75 美術教師としてのオキーフ ~ 毎日の辛い生活の中でいかに芸術が重要であるかということを、生徒たちに理解してほしかった。後に彼女が述べているように、絵を描く技術ではなく、ものの見方を教えることに重点を置いたのである。「私は私の生徒たちに、芸術とは本当は誰もが活用せねばならぬものである、と教えました」と彼女は語っている。ジャケットのラインや衿の形にも、封筒の宛名の書き方や髪の梳かし方にも、また家の窓をどこに付けるかということにも芸術は存在する。何が美的に優れているのか、もっと端的に言えば、何が一番よく見えるかということが、人生におけるあらゆる決断の基礎になるのである。

79 オキーフにとって師であり、人生のパートナー/夫だったアルフレッド・スティーグリッツに推薦されて、ゲーテの『ファウスト』をはじめ、ニーチェ、イプセン、フェミニストたちの著作、美術評論、そして何冊もの小説を読み漁った。

101 オキーフとスティーグリッツの共通点: 虚偽を心底軽蔑していた、並外れた正直さと絶対的純粋さ、自分たちの経験から得た真実をクリエイティブに表現したいという強い気持ち、すべてにおける最高のものを求めるのに熱心、頑固さ

151 オキーフの「直截」的な絵

158 絵を描くために雑念のない澄み切ったマインドを保つために、オキーフは自分の周りも可能な限りシンプルにしておく必要性を感じた。彼女のクリエイティブなプロセスは、まず、自分の心を強烈に揺さぶる何物かの存在を常に突き止めようとしていること、そしてそれを探求し、キャンヴァスに表現することによって、より完全にその物の正体を把握することから成り立っていた。

228 病(神経超過敏症、鬱病)を抱えたオキーフ ~ 宮沢賢治にしても、並をはるかに越えた創造活動をする人と、この病は切り離せないのか??

270 旅が好きだったオキーフ。常に新しい刺激を求め続けたオキーフ。 「それがそのひと自身の世界の一部 ~ 自分が真にコミュニケーションの出来る世界の一部 ~ にならなければならないのです。やがてそれからゆっくりと、それを絵にすることが出来るようになるのです・・・」

289 「自分が本当に欲しくて欲しくてたまらない物であれば、それは絶対に手に入れることが出来るものだ」と信じたオキーフ

308~311 オキーフの描き方

326 彼女は他の芸術家の作品を見ることを好まなかった。というのは他の画家たちの視点を自然に受け止めて楽しむというより、むしろ彼らの技術のひとつひとつを厳しき日違反的な目で分析してしまうからである。マドリッドのプラド美術館ではしかし、エル・グレコやヴェラスケス、そして特にゴヤの作品を見ることに大きな喜びを感じ、彼女自身驚いてしまった...西洋の画家の中で彼女はゴヤが一番気に入った。

378 過去を振り返ってオキーフは、彼女が人生の中でやりたかったことはみなすべてやり、それもすべてみな大変うまくいったと話すのが好きだ。しかしオキーフの芸術家としての勝利は、明らかに持って生まれた豊かな芸術的才能の他に、物事の核心を見透かして宇宙のある真理を把握することできる鋭い目と、何者もけして屈することのない強靭な意思の結果である。「私はいつでも自分が何を望んでいるかを知っていました。多くの人はそれがわからないのです」と彼女は、一度はっきりと述べている。

訳者にとって、オキーフが教えてくれたことは ~ 「大切なこと」とは、本当の自分を発見し、愛し、生涯をとおして勇気を持って、可能な限り成長させつづけるということ。(382ページ)

 2~3年前に、ジャネット・ウィンターが描いた『私、ジョージア』という絵本を読んでいましたが、残念ながらここまでのこだわりは伝わってきませんでした。ちなみに、ウィンターさんは、こだわりの生き方をした人を描くのが好きな絵本作家のようです。他にも何人か描いています。

2011年7月5日火曜日

科学者はどう考えるか 3

パターン

29 ここでは、新発見とは、すなわち期待したパターンからのはずれに出会うことである。新発見があると、理論家は、より広く包括的なレベルで、再びパターンを見出さなければならない。よい音楽をつくることだって、聞き手と一緒に理論づくりのゲームをすることだといえるだろう。われわれはパターンによって生活している。

フィードバック

 ここでは、とてもわかりやすいフィードバックの事例を紹介してくれています。(私たちが日常、誰に教わるのでもなく使いこなしている事例を)

88 友だちやその子どもたちと一緒にピクニックに行く。
   海が見渡せる絶壁のてっぺんで、昼食の用意をしていたら、棒で遊んでいた二人の子どもが崖ぷちすれすれのところにいる。落ちた棒が拾えないかとしているのだ。それを見たあなたは危険だ、と思った。子どもたちにかけよって手を伸ばす。のばしながら考える。子どもを驚かしてはいけない。叫んだりせずに平静に言おう。「サンドイッチが並んだよ。おいで、食べようよ」
89 子どもが崖のふちではねまわっている。惨事がおこりそうだ。それを見てひるむ。子どもが今のままいったらどうなるか。想像力は半歩先にいく。そのイメージはあまりに鮮明だ。結果は致命的だろう。あなたの体はひきつり、後ずさりする。
   もちろん一瞬の後、創造した未来を変えるために行動をおこす。叫ぶために息を吸い込み、腕を大きく伸ばす。子どもを捕まえなければ! しかし想像力はもっと先を見る。子どもを驚かしたら、もっと危険だ。腕をひっこめながら「子どもを引き戻すより、むしろ呼び戻そう」と未来を修正する。想像力の描く情景によって行動を修正する。それによって心の中の情景をまた修正する。・・・・
   このように、行動と結果がお互いを修正しながら進む、これがフィードバックのパターンである。

93 1920年代になると、フィードバックの原理は、まったく違った方面に立ち現れた。ジョン・デューイの同僚だったジョージ・ヘルベルト・ミードによって創られた心理学の基本パターンとして。
  彼のこだわりは「言葉は、どんなふうにして人間関係の骨格として機能するのか?」「子どもはどんなふうにして言葉の使い方をおぼえるのか?」だった。
  自分の話を聞いてくれるのは<自分と違った他の人間>。いいかえると<他者>なのだということ。
  そして、その人の想像力が ~ 自分と一緒になって ~ 自分の言葉を完成するのだ、ということである。
  ミードはいう。<他者>という感じがはっきりしてはじめて<自己>という認識も生まれ成長する。そもそもの初めから<アイデンティティ>は言葉によって形づくられ、言葉によって焦点をむすぶ。
  子どもがいろんな人といろんな時に出会っては、個々に形づくってきた<他者>という観念は、あるとき急にもっと永続的で強力な何か、いわゆる<一般化された他者>になる。ミードのこの言葉はぎこちないし、広く使われはしなかったが、その意味するところは興味深い。<一般化された他者>とは、心のなかの標準として心のなかにイメージされている人々の集まりのこと。あるいは、自分の話を自分でもう一度聞きなおす能力 ~ これは簡単のようにみえて一番大切な能力である。
94 ものを書く人間は特に<一般化された他者>に敏感でなければならない。
 ← 以上からも、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことはとても重要なのですが、残念ながらいまの学校の授業では、あまりにも軽視(無視?)されすぎています。一つには、教師ががんばって話し続ける時間が長すぎますし、まともに書いたり、読んだりする時間をとっていません。

100 遺伝子の「メッセンジャー」

予言

137 天文学と物理学は、モデルつくり・理論つくり
139 ニュートンは数学を、天体力学を表現する言葉として発展させた。そして、やがて物理全体に広がった。

証拠

173 プラシーボ効果(偽薬の効果)
180 科学における技術の重要性

 本のタイトルや章立てからは、引用したり、メモしたところが偏っているかもしれません。(『ギヴァー』の視点で読んでいるのがその理由のような気がします。) 全体像をしっかりおさえたい方は、ぜひ直接本に当たってみてください。

2011年7月4日月曜日

科学者はどう考えるか 2

 前回は、タイトルしか紹介しませんでしたが、今回は内容を。
 以下は、本からの引用です。

まえがき

V 現在、私たちの生活にあらわれたもっとも明瞭な目に見える影響は、良きにつけ悪しきにつけ科学のもたらした技術によるものです。科学は良いとか悪いとかいう今日の大方の議論は、技術の価値に関するもので、科学のそれに関するものではありません。
  ・・・しかし、技術は科学の一側面にすぎません。長い目でみれば、重要性のもっとも少ない側面ということになるでしょう。
  科学は、私たちの生存と安楽、娯楽と滅亡の道具をもたらしたのと別に、私たちの考え方に大いに影響しています。
  人の考え方への影響はゆっくりと現れるのです。それはしばしば微妙で、かつ意識下でおこります。知識が改まると世界観が変わるでしょう。私たちが宇宙の中心なのではないと考えるようになったのも科学のせいです。私たちは迷子になった。少なくとも、まだ自分をとりもどしていない。宇宙における役割について、何世紀か前に知らされていたほど確かな知識は、いまはありません。人口は増えましたが、私たちは以前より孤独です。しばしば恐れすくんでいます。科学というものは、未来を知るための人間の努力のなかで最も頼るべきものといわれています(とどのつまり、予言が科学の最大の仕事です)。しかし、科学の時代に生きている私たちは、歴史上かってないほど未来に不安をいだいているのです。これこそ、現在までに科学が人の意識にもたらした最大の皮肉であります ~ 少なくとも、西欧世界ではそうです。 (ルイス・トーマスという人による「まえがき」は全部引用したいぐらいです。)

探究

2 「うまくいった」という感じが心の中に広がる瞬間がある。
 私の友人の数学者は、ある日、8歳になる娘が偶然に<素数>を見つけたのをわきで見ていた。素数というのは、11,19,83,1023などのように、ほかのどんな整数(1は除く)でも割り切れない数のことである。
 もちろん彼が教えたわけではない。「娘はそのことを“不公平な数”っていうんだ」と彼は言った。
 「ぼくが“どうして不公平?”と聞いたら、彼女は“だって、公平にわける方法がないんだもん”だってさ。」
 彼が喜んだのは、娘のチャーミングな話し振りや頭の回転のよさ(17個のペパーミントを友達に分けるとしたら?)ではない。むしろ彼女が<真実を科学的にさぐりあてる瞬間>を体験したことだ。彼女は独力で、ものごとの成り立ちを発見したのだ。
 その瞬間わきおこる激しい満足感を言葉で表すのは簡単ではない....いま手にした世界の真理の美しさ! これこそが、科学者をゆり動かす魅力の源なのだ。 ← こんな瞬間こそを学校の授業で体験するようにできないもんでしょうか? 十分にできるのですが・・・

3 マサチューセッツ工科大学の理論物理学者であるフィリップ・モリソンは言った。「違いは考える対象にある。科学者たちはね、たいていの人々が本気に考えない、注意深く考えてみようとしないもろもろの領域に、日常の思考方法をぶつけてみるんだよ。
  哲学者たちは科学のもつこの日常性にも、多様性 ~ 多様な考え方、多様な障害、そして落とし穴、多様な道ゆき ~ にも目を向けない。
  ・・・・とにかく、科学者たちが実際やっている仕事を見ることだよ。」
ところが哲学者や歴史家は本にとらわれている。
いや本によって目隠しされているというべきか。

11 「科学的な推論とは、<こうかもしれない>と<本当はこうだ>との対話である。

2011年6月30日木曜日

科学者どう考えるか

 前回の数学に続いて、今回は理科です。
 紹介するのは、『科学と創造』(H.F.ジャドソン著)。
 サブタイトルの「科学者はどう考えるか」の方が、本の内容をよりよく表していると思いました。原タイトルは、The Search for Solutionsです。

 この本の特徴の一つは、使われているたくさんのいい写真とその解説のよさです。それらだけを見たり、読んだりするだけでも、内容のかなりの部分が伝わってきます。「科学」とは関係のない日本の芸術や日ごろの風景までが使われているのに(「こんな写真、よく見つけたな~」と)驚いてしまいます。
 もう一つの特徴は、人(科学者たち)の紹介の仕方がうまいことです。

 写真は、章立てと連動しています。
 それらのタイトルも、科学および科学者を理解する大きな助けになっている気がします。
 以下のとおりです。

   探究
   パターン
   スケール
   偶然
   フィードバック
   モデル
   予言
   証拠
   理論

 子どもたちが嫌いになる教科書を中心にした理科の授業の代わりに、これらこそを中心に据えた形で理科の授業を考えていくべきだと思います。なんと言っても、「これらこそが科学と科学者の考え方」なのですから。

2011年6月26日日曜日

オフライン思考

 ちょっと経路の違った本を読んでいます。
 『数学する遺伝子』(キース・デブリン著)です。

 この本の主な主張は、脳の機能はパターン認識ですが、数学は「パターンの科学」なので、人は誰でも数学する遺伝子を持ち合わせているというものです。

 では、なぜ嫌いな人やできない人がいるのでしょうか?
 マラソンと同じだそうです。
 マラソンも、40年より前は長距離選手の中のごく一部が走るもんだと思われていました。普通の市民が走れるものとはまったく思われていませんでした。それが健康ブームで、今では誰でもやる気にさえなれば走れてしまうのです。数学もまったく同じだというのです。ですから、ぜひ「やる気になりましょう!」と著者は提唱しています。

 私がこの本で一番面白いと思ったのは、「オフライン思考」ということでした。

 それは、ひとことで言うと「内的に生じたシンボルの世界についての思考」(294ページ)のことです。これだけでは、まだわかりにくいので、さらに説明すると「過去の出来事をくわしくかえりみたり、未来の行動をずっと前から計画して、様々な選択肢について考えたりできる」(295ページ)能力です。そして、オフライン思考ができる動物は人間のほかにはいない(295ページ)そうです。

 オフライン思考に対して、オンライン思考の開始と維持に必要なのは、物理的環境というか刺激です。(301ページ)こちらは、基本的に「動物的」思考というか反応です。もちろん、人間も依然としてもち続けています。危ない状況などに遭遇した時は、ほぼ自動的に作動します。

 脳は、オフライン思考が可能になる前に、きわめて多様な活性化のパターン(すなわち、いくつかの組み合わせ、意味のある活性化の連鎖を開始し、維持するのに十分なだけのパターン)を生み出す能力を獲得していなくてはならなかった(302ページ)、と著者はビッカートンという人の主張を紹介してくれています。

 それらのパターンを蓄えることができたおかげで、オフライン思考が可能となり、それによって「人間が ~ そして人間だけが ~ できるようになったことはたくさんある。私たちは、遠く離れているものも含めて、さまざまなものや場所、状況や出来事について語り合うことができる。過去や未来の出来事について、考えられる。時間の経過についても考えられる。架空の物語を作ることもできる。様々な道具や、機能的な人工物や、純粋に象徴的な人工物も作れる。複雑な未来の行動プランを立ててそれにしたがうこともできる...そして、論理的推論によって世界に対する理解を深め、行動の意思決定をすることもできる。」(311ページ) ← 『ギヴァー』の中で、これらができているのはほとんどギヴァーとジョナスだけと思えてしまいます。私たちはせっかく身につけているこれらの能力をしっかり使わなくては、とも思いました。特に、3月11日以降のような状況では。


 デブリンは、これからの数学・科学教育ということでは(340~343ページ)、

① 数学や科学がどんなものであり、暮らしの中での役割を明確にすること と
② 論理的思考/科学的に考える習性を身につけること

に集中すべきであると提言しています。従来の忘れてしまうことが約束されているようなスキルの練習に無駄な時間を割くべきではないとしています。
 論理的思考/科学的に考える習性はどうやって身につくかというと、「数学や科学をすること」であり、それにはスポーツや演劇などをすることを参考にすべきだとしています。★それには、上に書いたように必然性というか「やる気」になる決意のようなものが前提として必要になります。それなしで厳しい練習をするだけだと、あまり生産的ではないスキルのドリルになってしまいますから。


★ そういえば、まさにこの視点で開発されたのが『ライティング・ワークショップ』と『リーディング・ワークショップ』でした。

2011年6月25日土曜日

「貢献」と「異和感」

 先日、ある人と話していたら、組織改善で大切なのは、「貢献」と「異和感」と言っていました。ウ~ン、まったくその通り、と思いました。
 あえて、「違和感」ではなく、「異」を使いたいそうです。確かに、「違」には「そむく」を含めて否定的なニュアンスが色濃くただよっているのに対して、「異」の方は「異なる」「疑う」など「オルターナティブ」なニュアンスが濃いと思います。

 それを聞いて、すぐに両方とも『ギヴァー』の代表的なテーマだと思いました。
 ほとんどそれらについて書いた本とも言えなくはないぐらいに。★

 さらには、授業というか、授業改善にも、この2つは欠かせないと思いますし、人と人との出会いにも欠かせないと思います。

 菅さんはじめ、いま政治に関わっている人たちも、震災地の復興とこれまでとは「違う」日本をつくり出すのに、この2つのキーワードを実行してほしいところですが、どうもあるのは「自分のことだけ」と「保身」としか思えません。(東京都の知事さんは、他にすること/考えることがないらしく、またオリンピックの招致活動に税金の無駄づかいをしたいようです。)


★ そういえば、これも前に訳した『エンパワーメントの鍵』(クリスト・ノーデン-パワーズ著)も、この2つのキーワードをテーマにした本でした。残念ながら本屋さんでは買えないので、図書館で借りて読んでみてください。

2011年6月23日木曜日

12歳で「二度目の誕生」は無理

 「ちくま少年図書館」の第3弾として『銀河鉄道をめざして ~ 宮沢賢治の旅』(板谷英紀著)を読みました。  なんといっても、日本のゲーテ、あるいはヴァン・ゴッホですから、焦点の当て方次第では、いろいろなことが書ける人ですが......ここでは『ギヴァー』との関連で。

 その宮沢賢治でさえ12歳までの経験で、これまで、今、そしてこれからの多くの人たちにインパクトを与え続ける作品群(や彼の生き方)は可能だったかというと「無理」と言わざるを得ません。



 宮沢賢治にとって、

・ 故郷を離れて盛岡中学校に入り、岩手山との出合い。そして文学と宗教への打ち込み。(13~18歳)
・ 中学校卒業と同時に起こり、その後自分をときどき襲う幻覚<青い波>との出合い
・ 法華経との出合い (18歳)
・ 盛岡高等農林での教師や友人たちとの出会い ~岩手山での誓いも含めて (19~22歳)
・ 法華経の布教活動のために上京し、本格的に童話を書き始める。のちに自分の作品を「法華文学」と位置づける (24歳の約7ヶ月間)
・ 花巻農学校の教師になり、生徒たちとの様々な活動や授業 (25~30歳)
・ 自分の最大の理解者だった妹・トシ子の死
・ 羅須地人協会の設立(賢治30歳)

 これだけの多様な出会い/出合いとアクションがないと「二度目の誕生」というのは実現しないというか、つくづく難しいと思った次第です。


 その意味では、『ギヴァー』のコミュニティは、「ひと」として生まれることを最初から否定している社会、二度目の誕生を制度として廃止している社会なんだとも思いました。たくさんの記憶によって生まれ変わることが可能なギヴァーおよびギヴァーの卵であるジョナス以外は。


 テーマ以外に、本を読んでいてマークをつけた箇所は、以下のとおりです。

130 偉大な才能ほど周囲から多くものを吸収し、それをすばらしいものに変えることができるのです。

132~3 生徒を無視して教科書をカバーする授業から、わかりやすく、生徒たちがけんめいに勉強する、(教師がモデルとして示し続ける)授業への転換をアッという間に成し遂げた宮沢賢治の才能。

2011年6月21日火曜日

田中正造が「生まれる」

 実は、田中正造に入れ込んでいたころ(80年代の中ごろ)は、何本かの論文を書いたこともありました。中には、ルソーの『エミール』をベースにしながら田中正造の生き方、成長、教育などを分析したものまでありました。

 前回紹介した『ひとが生まれる』との関連で言えば、田中正造以外の4人は20歳ぐらいまでに、二度目の誕生を終えているのですが、田中正造の場合は3度の牢獄生活も含めて少なくとも35~6歳までは(ひょっとしたら死ぬまで)何度も生まれ変わり続けた人のような気がします。足尾鉱毒以外のたくさんの経験を背負っているというか、逆に言えば、それらがあったからこそ、そこに必然的にたどり着いた気もします。

2011年6月20日月曜日

二度目の誕生

 『日本史との出会い』があまりによかったので、「ちくま少年図書館」を継続して読んでいます。今回紹介するのは、彼これ30年前に読んだことのある『ひとが生まれる』(鶴見俊輔著)です。

 なぜ読んだかというと、30年ぐらい前に数年間、田中正造に入れ込んでいた時期があり、彼に関する本を全部読んだことがあったのです。あまりの入れようで「全集」まで購入しましたが、それはまだ一部しか読んでいません。

 「人間はいつ自分になるのか。
  人間は、生まれた時に、いきをする。手足を動かす...そんなふうにして、なんとなく私たちはことばを覚え、人間としていろいろなしぐさを覚えてしまう。それでけっこう暮らせる。
  ところがそのうちに、なにか変なことが起こる。いままで自然に覚えたことでは、どうにもそこをこえられない。
  今まで自分にそなわった力では、それとかくとうしても、組みふせることができない。そういう恐ろしさの中から、あたらしい自分が生まれる。
  そういう自分の誕生の時は、生まれてから何年目にくると言えない...
  自分が、どういう時代のどういう世の中に生きているのかというふうに、自分を社会の中の一人としてとらえることが、いつある人にとって起きるかには、いろいろな場合がある。だが、人間が、隣の人と違うからだとこころをもって個人として生きているからには、社会の中の一人として自分をとらえる時が、いつかは、やってくる。」(はじめに)

 まさに、ジョナスにもギヴァーとの出会いによって、12歳か13歳でそれがおとずれました。

 鶴見さんが自分自身の誕生の記録(記憶?)に残っている5人として選んだのは、田中正造以外に、ジョン万次郎、富岡製糸工場について書いた横田英子、関東大震災直後の朝鮮人、社会主義者、無政府主義者たちに対する弾圧によって獄中で自殺した金子ふみ子、学徒出陣で徴用され1945年7月28日に四国沖の偵察飛行中に通信を断った林尹夫です。

 すごい人選です。 『日本史との出会い』に引けを取らない。

 ところで、ジョナス(ギヴァーになる人)以外のコミュニティの人たちには、この二度目の誕生はあるのでしょうか? ない方が幸せとも言えるのでしょうか?

2011年6月17日金曜日

出会い

 「愛と家族と死」の3つ以外に、「出会い」というのも『ギヴァー』と『メイおばちゃんの庭』の両方に共通したテーマだったと思います。

 その「出会い」を中心に据えた本として、秦恒平著の『日本史との出会い』を見つけました。「ちくま少年図書館」に収録されている1979年に出版された本ですが、内容的にはまったく古さを感じさせない、しかも50歳を過ぎた私が読んでも読み応えのある本です。

 本のタイトルは「日本史との出会い」ですが、4組の出会いが紹介されています。いずれも、日本史を代表するような出会いです。①後白河院と乙前、②法然と親鸞、③足利義満と世阿弥、④豊臣秀吉と千利休。

 これら4組の出会いを、ジョナスとギヴァー、『メイおばちゃんの庭』のサマーとメイおばちゃんやオブおじちゃん、そしてクリータスとの出会いのことも考えながら読みました。そして、日本史に存在する他のたくさんの出会いや、自分のこれまでの出会いにも想いを馳せながら。

 おもしろいとはお世辞にも言えない日本史の教科書を読むよりも、この本を読んだ方がはるかに考えますし、歴史好きになります。(そして、いまの時代についても、自分についても考えます。~ 歴史の教科書から「いまの時代」や「自分の行動について」考えることなんてあるのかな??)


193ページには、「室町時代の特に前半は、他のどの時代より手ひどい飢饉に人民がくりかえし苦しみぬいた時代でしたが、必ずしも天災とばかりはいいきれない。むしろ天災は、いつもいくらかは政治の無策と背をあわせていたことを、ぼくらはにごりない目で見きわめていなければなりません」   とありますが、これはまさにいまの時代にも言えてしまいますね。




メモ: 146~7、170、204~209、229ページ。

2011年6月16日木曜日

愛と家族と死

 これらの3つは、確実に『ギヴァー』のテーマに含まれていましたが、それらを真っ向から扱った本が、『ギヴァー』の前年にニューベリー賞を受賞したシンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』です。しかし、それらの扱い方はあまりにも対照的です。ぜひ、ご一読を。すぐ読めてしまいます。

 シンシア・ライラントさんの本がもっと日本語で読めるようになることも祈っています。

2011年6月14日火曜日

『ギヴァー』の感想・書評サイト

 アマゾンのカスタマーレビューでは、複数の本の感想・書評が読めます。
 新評論社の『ギヴァー』講談社版(すでに絶版)の『ザ・ギバー』 、そして原書のThe Giverです。ありがたいことに、原書のレビューも含めて全部日本語です。

 さらには、アメリカ・アマゾンのレビューもあります。なんと、その数3344も。★ もちろん、全部英語です。
 その中で、私の気をひいたのを一つ紹介します。

This book I read first in 5th grade, and I loved it. Then I read it again in 7th grade, understood more, and then finally the last time I read it was in 8th grade, 3 years ago, but I loved it. I try to read it about every three years because it is the kind of book that you'll love the first time you read it, but the more you read it, the more you understand. This book is touching, and it makes one think about our own society and where our future might be. If taken seriously, this book is a work of art, written so both children and adults can enjoy it. Definitely I recommend this to anyone who wants to see a different point of view on where technology and the media might be leading us! (December 29, 1999, By A Customer)

 これを書いた人は、1999年当時、11年生=高校2年生でした。計算してみると、3年前の1996年は8年生。7年生の時は1995年。そしてはじめて読んだ小学校5年生の時は、『ギヴァー』が出版された1993年だったわけです。

 いまは29歳前後のはずですが、いまでも3年おきに読み続けているか、聞いたみたいものです。「3年おきに読むようにしている」と書いているからです。また、「読めば読むほど、理解が深まる」とも。

 さらには、「これは心に響く本で、自分たちの社会のことを考えさせてくれる」し、「この本は一級の芸術作品で、子どもも大人も楽しめます」と、高校2年生当時に書いています。★★


 他にも、読書メーターAllReviews読書感想文を見つけました。


◆紹介した以外の感想・書評サイトがありましたら、ぜひ教えてください。◆


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★ こんなに桁違いのレビューが書かれている理由は、確か2年前の段階で、530万部も本が売れているのと、その内容のよさだと思います。

★★ この人は、高校2年生でこんなことを書いていますが、50歳を過ぎて読んだ私も同じように感動しました。それが、講談社が版権を放棄した本の復刊に私を駆り立てました。『ザ・ギバー』が残念ながらあまり売れなかった理由の一つは、「ユースコレクション」という形で中・高生に対象を限定したことだと思ったので、マーケット調査を日本でもしたところ、小学5年生から79歳までが確実におもしろいと思ってくれたことで復刊にこぎつけることができました。

  「一級の芸術作品」かどうかは、私はあまり多くの小説を読んでいないのでわかりませんが、「自分たちの社会のことを考えさせてくれる」ことは同感です。それが、このブログを(一冊の本をテーマに)こんなにも長く続けられる理由ですから。

2011年6月12日日曜日

『逆説の日本史』第17巻

 テーマは、「アイヌ民族と幕府崩壊の謎」です。

 私たちは、1853年のペリーの黒船による浦賀来航によって開国したと思っていますが(それは、日本の歴史教育の結果!)、実は、そのはるか前からその予兆はあったにもかかわらず、時の政権担当者たちが、その無能さゆえに全部それらを握りつぶしていたのが原因だったというのです。

 どれだけの予兆があったかというと、

・ 1786年:田沼意次によって行われた「蝦夷地調査」「蝦夷開発計画」が松平定信によって中止される(「葬り去られた」という方が正しいぐらい)

・ 1792年:林子平の『海国兵談』の出版禁止。ロシア船エカテリーナ2世号が漂流民の大黒屋光太夫らを伴い、根室に来航。これも、松平定信の「業績」。

・ 1804年:ロシア使節レザノフが巨大戦艦ナデジュタ号で長崎に入港。愚劣な外交でレザノフを激怒させ、その部下フヴォストフが択捉島、礼文島、利尻島などを攻撃し略奪する。

・ 1808年:オランダ国旗を掲げて長崎に来航したイギリス船フェートン号が、やりたい放題をして去る。(なお、この時点で地球上にオランダ国旗がなびいていたのは、長崎の出島のみ) ~ この事件がきっかけで、佐賀藩は教育、財政建て直し、火薬製造、蒸気船の開発などを発展させることになるが、幕府は動かず。

・ 1837年:アメリカ人の民間人チャールズ・キングがモリソン号で江戸湾に来航。フェートン号の反動で、砲撃を加えて追い返してしまう。

・ 1839年:蛮社の獄。高野長英の『戊戌夢物語』(モリソン号を打ち払ったことがいかに無謀であるかを夢中での知識人との討議という形で記し、江戸幕府の対外態度を批判した内容)。渡辺崋山の『慎機論』(幕府の年来の対外政策への不満を記した内容)。


   これらすべてを当時の幕府の政権担当者たちは、握りつぶしていたのですが、上に書いた佐賀藩をはじめ、長州藩と薩摩藩は目が覚めて、財政再建に動いたことが倒幕につながるきっかけになりました。 (1)

 スリーマイルやチェルノブイリから、いったい原発に携わる人たち(政府、電力会社、研究者、自治体等)は何を学び、どのようなアクションをとっていたのでしょうか? (2)

 同じことは、教育や学校についても言えてしまいます。 (3)

   (1) は、鎖国神話。
   (2) は、安全神話。
   (3) は、教科書神話、テスト神話、教えること=学ぶこと神話がはびこっています。

 過去と現実から学ぶ大切さと同時に、神話にまどわされない勇気を持ちたいです。
 (1)~(3)以外の分野では、どんな神話があるでしょうか?

2011年6月11日土曜日

教育の目的のそもそものズレ

 ピアジェの『教育の未来』が出たのは1972年ですが、日本の教育は彼が「してはいけない」と書いていたことをやり続けてきた(逆に、「やるべきだ」と書いていたことはまったくやれていない)ことに気づかされます。

 いったい何が問題なのでしょうか???

 これは単なる教育や学校関係者の問題というよりも、深く社会のあり方の問題とつながっていると思います。(教育や学校関係者だけがおかしいはずはありませんから!)『ギヴァー』で描かれている学校や教育のあり方もコミュニティのあり方と深くつながっていたように。

 この問題が象徴している点について、ピアジェに関する他の本を読んでわかりやすい図を見つけました。下の図です。

    出典: Young Children Reinvent Arithmetic, 2nd Edition, by
    Constance Kamii, p.63(Originally in “To understand is to
    invent” by Jean Paget 邦訳は、『教育の未来』)

 AとBには、大きなズレがあります。Aは自立した学び手を育てることを目的とした部分です。それに対して、Bは現時点での教育の目的です。それは意図してはいないのかもしれませんが、結果的には「依存」や「従順」を養っている部分の大きい教育です。各人が自分なりの知識や意味を作り出すのではなく、すでにある既存の知識を覚えることに時間とエネルギーを割く教育です(その大半は、テストや試験の後しばらくして忘れられる運命にある知識です。)それでも、少ないですがオーバーラップしているところ(青の部分)はあります。

 ピアジェは、右側のBの公的な教育の部分で「自立」に貢献していない部分を減らし、すでにオーバーラップしている部分を広げていく形で、Aの「自立」を促進するようにBを転換していく必要がある、と提唱していたわけです。

 この2つの円がずれているのは、ピアジェが指摘した教育の分野だけでなく、政治や環境や福祉など他の分野でも同じように言えることです

2011年6月9日木曜日

受身と依存の教育から、自立の教育へ

 ピアジェの『教育の未来』の最終回です。

 タイトルは、「受け身と依存の社会から、自立の社会へ」でもよかったのですが...コインの裏表の関係ですから。


104 一人の個人が知的な面で何らかの束縛にしばられている場合には、精神的・道徳的な面でも自律的な人格をつくることは不可能になります。自分自身の力で真理を見出すのではなく、命令に従って学ぶように義務づけられた個人は、自律的な人格を形作ることができません。知的な面で消極的受け身的な立場に陥った人間は、精神的・道徳的に自由であることはできないでしょう。 → 権威主義的な教育をしている限り、自立した人間葉育たない! 権威に従う人間を再生産するだけ。

 生徒の自発的活動を重んじる教育法は、人格の知的発達を可能にする唯一つの方法です。 ← 言い切ってくれています!!

 とはいえそこでは、集団の場からの働きかけのあることも、当然の条件とされています。 ← 関係性の大切さ。コミュニティの大切さ。

105 真の知的な活動は、実験的活動と自発的研究にもとづく真に知的な活動は、個人と個人とのあいだの自由な協力がなくては成り立ちません。先生から生徒への上から下への関係ではなくて、生徒同士の間の協力がなくては成り立たないのです。知的活動を行うためには、お互いにたえず刺激し合うことが必要でありますが、そのうえさらに、互いに検討し合い、批判的精神を働かせることが必要です。この2つの行為により、個人は、客観性とは何であるかを知り、証明の必要性を知るようになります。論理による思考作業は...つねに共同的な作業なのです。 ← 「自由な協力」や「共同的な作業」を中心とした授業を体験している人は、日本でどのくらいいるでしょうか? まだまだ教師一人ががんばる授業が続いています。

  伝統的な学校では、社会的関係として、教師と生徒個人との間の縦の関係しかありませんでした。知的・道徳的真理を所有する絶対的権威者としての教師と個々の生徒との間の関係しか考えていませんでした。教室で行う作業においても、家庭で行う宿題においても、生徒たち同士の間の横の直接的コミュニケーションや協力は、まったく考慮されていませんでした。点数だけがものをいい、試験が重くのしかかっていたからです。自発的活動を重んずる学校では、これとは反対に共同作業が前提とされ、個人作業とグループ作業がかわるがわる行われます。人格の発達のためには、そのもっとも知的な部分においてさえ、集団生活が不可欠であることが明らかとなったからです。 ← グループ活動の大切さ。一斉授業が中心で、グループ活動が付け足し程度じゃダメ。

118 相互的尊敬の持つ教育的意味、子どもたちの間に自然発生的に生まれた組織に根ざした教育法のもつ意味は、わからぬうちから出来合いの規律を課されるのではなく、行動の中で規律の必要性を見出しつつ、子どもたちが自分で工夫しながら規律を作ってゆけるようにするところにあります。自発的活動を重んずる教育法が、知的教育と同様道徳教育においてもかけがえのない役割を果たしているのは、まさにこの点にあるのです。単にうわべだけでなく、子どもを中から実際に変えてゆくようないろいろな道具や手段を、自分自身で作り出すように子どもを導いてゆくところにあるのです。 ← おそらく、日本の学校は、子どもたちにそんなことがやれるとは思っていない(同じレベルで、日本の社会は市民に自発的活動がやれるとは思っていない)。

 これは単なる心理学上の理論や論理的帰結ではありません。自治についての教育学的実験がますます豊かな成果をあげていることが、その何よりの証拠です。(私立の全寮制の学校や青少年犯罪者の施設の例などが紹介されているが、いまは学校の例も含めて、他にもたくさんある。)

122 自律性と相互性は、人格と自由の前提

2011年6月8日水曜日

伝統的な教育をやり続ける日本 = 今の社会のあり方

  ピアジェの『教育の未来』の4回目です。


90 伝統的教育を行っている学校の教育法は、子どもや青少年の中に能動的でしかも自律的な理性を育てることに成功している、といってもいいものでしょうか。

   伝統的な学校は、生徒に対して多くの知識を与え、その知識を用いていろいろな問題を解きいろいろな訓練をする機会を与えています。こうすることにより伝統的な学校は生徒の思考を<豊かにし>、いわゆる<知的体操>を行わせます。知的体操は、生徒の思考を強固にし、思考を発達させるものと考えています。誰もが知っているとおり、中等教育を終えてから5年、10年、20年もたつと、学校で習ったこれらの知識の多くは、忘れられてしまいます。 ← 1年もつでしょうか? ピアジェ先生に言われるまでもなく、受験生たちのほとんどは実体験を通して知っていることです。

91 これに対して、自発的活動を重視する教育法を唱える人たちは、次のように言うでしょう。言われるままに記憶した知識はほとんど忘れ去られてしまうのであれば、重要なことは学習プログラムの量を多くすることではなく、勉強の質をよくすることではないか、と。言葉をかえて言えば、自由な研究と自発的な努力により自分自身で獲得した知識のほうが、よりよく記憶されるはずだ、というのです。

92 心理学的な見地からは、自発的活動を重んずる教育方法がよいということが明白になってきます。自発的活動を重視する教育法を唱える人々の多くが想像するよりももっとずっとラディカルに、知的教育を改めてゆかなければならないということが、要求されているのです。 → 何年も前からわかっていることなのに、変えられないのはナゼでしょうか???

93 教育の内容がいかほど高くても、通常の教員に課されている自発性を重視せぬ教育法を取る限りは、よく知られているような難問に突き当たるのです。普通の学級において、教えられた数学をすぐ身につけることのできるのは、一部の生徒に過ぎません。

 数学の出来不出来が、将来の成功・不成功を示している、と思っている人は少なくありません。そのような人々は、数学の成績がよくないのは従来の数学教育法そのものが悪いからではなかろうか、などとは考えたこともありません。 → みんなできないのは自分のせいにしていますね!!

~102 数学教育の無知について、たくさんの事例を踏まえながら紹介

102 数学こそ、人格の発達にもっとも役立つ。知的自律性を確保するところの理性的・論理的な思考法を獲得するための、もっともよい分野です。そして、それにもかかわらず、旧態依然たる教育が行われ、人格の完全な発達と理性的・論理的思考法の獲得をたえず妨げているからです。なぜそのようになってしまったのか。ほかでもありません。大人にとって、幼少期・少年期の子どもから自発的・現実的行動を引き出すことぐらい難しいことは、ほかにないからです。→ だからこそ、自発的活動を重視した教育が求められている? でも、「人格形成に数学がもっとも役立つ」というのはピアジェ先生の偏見では?

103 ピタゴラスの定理を覚えたからといって、自分の理性を自由に行使することができるようになるわけではありません。この定理があることを自分で発見し、その証明を自分で見出し得たときに、はじめて、自己の理性を自由に行使することができるようになるのです。知的教育の目的とするところは、出来合いの真理を記憶したり繰り返しできるようにすることではありません。それというのも、模倣して繰り返された真理は、半心理でしかないからです。現実的・実践的行動を行えば、いろいろ廻り道をすることを余儀なくされ、時間を失うこともありましょう。知的教育の目的は、それを覚悟の上で、真なるものを自分の力で獲得することを学ぶところにあるのです。

さて、数学の方法論について以上のようなことが言えるとすると、言語・地理・歴史・自然科学、その他の科目の教育においても、自発的・実践的活動を重視した教育を行うべきだということを、一層大きな正当性をもって唱えることができるでしょう。 → 単に教えられたことを覚えるのではなく、自らが発見したり、作り出したりする必要性は前から言われ続けていますが、そうならないのはナゼでしょうか?? 常に、質がないがしろにされ、一時的な記憶の量が大事にされ続けています。

2011年6月7日火曜日

テストの弊害

  ピアジェの『教育の未来』の3回目です。


73 学校で行われる試験・テストの価値については、これまで多くのことが言われてきております。試験は教育にとって、まさに傷口であると言えましょう。そしてこの傷は、教育のあらゆる段階にその口を開き、教師と生徒との間の正常な関係を、損ない続けているのです。これは決して誇張ではありません。それは教師と生徒の両方において勉強する喜びを失わせ、お互いの信頼をなくさせているのです。試験のもつ本質的な欠点は、つまるところ、つぎのような二つの点にあります。まず、試験によって得られた結果は一般に客観的なものではない、というのが第一の欠点です。第二点としては、やがては試験そのものが目的となってしまう、ということがあげられます。入学試験とても、実は最終試験となってしまっているのです。中学の入学試験は、小学校教育の目的とされているのが実情です。学校で行われる試験は、客観的なものではありません。試験は生徒の構成的な能力を調べるよりも、むしろ記憶力にかかわるものだからです。学校時代の試験の成績とその後実社会に出てからの活動とがあまり一致しないということは、誰しも知るとおりです。試験は、目的そのものになってしまいます。★

試験を廃止しない最大の理由は、社会の中にある保守主義的傾向と競争原理にあると言えます。 ← 言い切ってくれています。


87 人格の発展とは、いったい何なのでしょうか。また、どのような教育法を行えば、人格の発展を確実に実現することができるのでしょうか。(これまでに、どんな取り組みがされてきているのか???)個人と人格とをはっきり分けて考えることが必要となります。個人とは、心理学においていう自我で、その中心は自分自身にあります。相互性の関係と衝突するものです。これに反して人格は、自分の自由な判断により規律を受け入れ、規律を作ることに協力する個人です。各人の立場を尊重することに自己の自由を従属させる相互的規律の体系に、自分の意志により従ってゆくことのできる個人であります。
88 人格は、相互性との調和をはかりながら自己の自律性を実現するものだからです。もっとはっきり言えば、人格は無秩序の反対であると同時に、外から課された強制に反対するものです...以上のことをまとめると、つぎのようにいうことができるでしょう。<人格の完全な発展ならびに人権および基本的自由の尊重の強化を目的とする>ということは、知的・道徳的な自律性をもって行動できる個人をつくることであり、相互性の規則を重んずるが故に他の人のもっている自立性を尊重する個人をつくることであって、この相互性の規則こそが各人の自律性を正当化するものである、と。
89 教育を受ける権利とは、とりもなおさず、活動的な理性と実生活にもとづく生きた道徳意識とを形作るのに必要なすべてのものを、学校に対して求めることができる、という権利ではないでしょうか。→ということは、まさにそれを提供する方法論の問題になる。自発的活動を重んずる方法に。


★ 以上の2つでテストの欠陥というか弊害を理解するには十分だと思いますが、少なくとももう一つ大きな問題があります。それは、知識として暗記したり、理解する部分の一部は測れるかもしれませんが、ピアジェが言う「構成的な能力」=分析、応用、統合、評価・判断、創造・想像等は測れませんし、社会に出てから(もちろん、その一部である学校の中でも)大切な態度や姿勢の部分=ライフスキルやEQについても測れません。このような観点から見ると、通常教室で行われるテストや、学力テストや、入試は、本来測られるべきものの中で20分の1ぐらい、高く見積もっても10分の1ぐらいしか測ることのできないことをわきまえた上で使った方がいいわけです。(ということは、評価の媒体としては「欠陥商品」として捉えることを意味します。)それが、あたかも個々の生徒のほとんどの能力を把握できるというような間違った認識では、生徒たちがかわいそうです。

2011年6月6日月曜日

『教育の未来』の56ページ

 民主主義の教育は、各個人の持っている能力を最大限に発揮させることによって、すべての人々を豊かにするように務める。だから民主的学校ではそれぞれの児童が集団や社会を豊かにするために、自分のすべての能力を発達させることを学ぶものである。集団の中のものは、他の(人が?)持つ能力、才能に関心を持っている。教育計画は学校内のすべての児童に、個人としての自分の力をじゅうぶんに伸ばし、自分の社会に貢献できるような、あらゆる方法を進める刺激と機会とを与えるように組織されるものである。(カッコは引用者)

 上の文章はどこから来たものか想像できますか?
 昨日のピアジェの『教育の未来』の56ページを思い出してください。
 たまたまある本を読んでいたら、見つけてしまいました。
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 なんと驚くなかれ、日本の文部省です。(いまの文部科学省の前身。)
 1950年に出された『小学校における学習の指導と評価 上』という資料の中の「民主主義においては個人差が尊重されねばならない」という中に書かれています。
 まだアメリカの影響を色濃く受けていた時代だから、こんな文章が書かれてしまったのでしょうか?
 いまも建前的には、同じようなことを言ったり、書いたりし続けているかもしれませんが、それが実現されるような教育、学校、授業になっているかというと、ほど遠い現状にあります。残念ながら、これが書かれた時よりはるかに後退しています。
 時が過ぎるとともに、私たちは進歩するのかな?、と疑問を持ってしまいます。

 「教育計画」は、いまとなってはほとんど教科書をカバーし、行事をこなす(プラス中学以上は部活)になってしまっています。もちろん、その2つ(プラス部活)がそれなりの「刺激と機会」になっているとは思いますが、「あらゆる方法」からすれば少なすぎます。

 その原因は、ピアジェが『教育の未来』の38ページに書いていたことにつきます

2011年6月5日日曜日

何よりも大切な教師の養成と研修

 ピアジェの『教育の未来』の第2回目のテーマは、教育改革の最大のテーマの教師の養成と研修です。
 わが国においても、その方法がわからないことが最大の問題であり続けています。
 文科省や教育委員会(や大学)も、その方法がわからないので、教科書でごまかしている部分が多分にあります。ピアジェが書いているように「いかほど立派な教育計画をたてても何の役にも立たない」のに。エネルギーのかけ方がずれているわけです。しかし、彼らにとっては教育を管理しやすい手段ではあるわけです。(マスコミも、「教科書」「教科書」騒ぎますし、「教科書」を題材にした番組もたくさん作り、「教科書神話」を上塗りするのに大きな負の役割を担い続けています。)

 56ページの部分は、何の疑問ももたないで、すんなり読めてしまうかもしれませんが、「個人のもっているいろいろな可能性を、有効かつ有益な形で社会の中に発現させる」のにいまの学校や授業が合っているかというと、まったく合っていません。それは、ピアジェのこの本の今日紹介する以外の部分に書かれていることからも明らかです。そして、上(=38ページ)との関連では、教師たちがそれができるように養成・研修されていないのですから。


38 教員の養成の問題こそは、これから行われるべき教育改革のすべてに先立って解決されなければならない問題なのです。それというのも、この問題が満足すべき形で解決されぬ限り、いかほど立派な教育計画をたてても何の役にも立たないからです。

43 世界人権宣言第26条  = 教育に関する部分

56 教育を受ける権利とは、個人にとっては、自分のもっている可能性に応じて正常に成長する権利以外の何ものでもないでしょう。またそれは、社会にとっては、個人のもっているいろいろな可能性を、有効かつ有益なかたちで社会の中に発現させる義務以外の何ものでもないのです。
 → と同時に、社会の問題を解決・改善しようとする場合に、基本になるのは教育の質です。そして、それをよくしようと思ったら、教師の質をよくするしかないのですが...

2011年6月4日土曜日

ピアジェの『教育の未来』

   紹介する(関連する)本の内容がガラッと変わります。

 ジャン・ピアジェは「心理学」では有名ですが、日本ではあまり教育の分野では知られていないと思います。でも、欧米ではここ20~30年行動主義に変わる教育の主流になりつつある構成主義の元祖としてレフ・ヴィゴツキーと並んで脚光を浴び続けています。この本はタイトルのとおり、彼の教育への提言をまとめたものです。今でも(教育には永遠に)必要なことをたくさん述べてくれています。
  わが国においてはこれらの原則的なことを、ちゃんとやっていないんだから、よく学べない状態が続くのも当然、と思わせてくれます。ローリーさんも『ギヴァー』の中では伝統的な学校や教育観で描いていたような気がします。従って、ギヴァーには「学校での教育に期待できるものはあまりない」ようなことを言わせていたようにも記憶しています。 (左側の数字は、例によってページ数です。)


●自発的活動や探究の大切さ

13 心しておかねばならないことがあります。それは、ここでも求められている改革とは、単に数学・物理学・化学・生物といった自然科学教育の個々の分野の専門化した教育法を求めることではない、ということです。むしろそれは...自発的活動を重んずる教育法とはどんなものか、といった問題を考え直してみるところにあります。また、子どもや青年の発達に関して得られた心理学的知識を教育に適用する問題など、もっと広範な多くの問題を問うことなのだ、ということです。そしてこのような広い意味を持った問題を、現在まだ世の中を風靡している学問の細分化の傾向に抗して、あらゆる水準で問い直さなければならないということです。

14 そこでまず、心理学上のある基本的事実に注目していただきたいと思います。というのも、一般に認められていることとはかなり矛盾するある重要な事実があるので、そこから出発するのがよいと思われるからです。生徒一人ひとりの間には能力の差があって、その差は年齢とともに開いてゆくということは、一般には自明のことと考えられています。

15 ところが、一般に信じられているような能力差のあることを証明する組織的データは、わずかな数の女児の場合を除き、得ることができませんでした。そして、これらの女児に差が認められたのも、実は知能が劣っていたためではなく、常にこれらの問題に興味がなかったからにすぎませんでした。知能水準が平均以上の生徒はすべて、どの年齢においても、同等の理解力と積極的な取り組みの態度を見せたからです。

 私たちの仮説によれば、知能水準が同等であるのにある生徒は他の生徒に比べて数学や物理に優れているという場合、この生徒が他の生徒と違ってもっているいわゆる適正能力とは、与えられた教育の形式に適応していくことができる能力なのだ、ということです。従って、他の科目の成績はよいがこれらの科目には弱いという生徒も、別の筋道を通って学んでゆけば、理解できないと見えたこれらの問題を充分にこなすことができるはずであります。

17 第一の条件は、当然のことながら、自発的活動を重んずる教育法を取ることであります。幼児や少年の自発的な探究を本筋とし、習得すべき真理をただ単に伝達することを止め、生徒が自分自身ですべての真理を発見したり再構成したりできるようにすることであります。ここでの誤解は、この種の試みにおいては教師の役割はゼロになってしまうというもの、またこの方法を着実に行うためには生徒をまったく自由な立場におき、好きなように勉強させ好きなように遊ばせるようにしなければならない、というものです。(両方とも間違いです。教師はしっかり環境・雰囲気を整備しなければなりませんし、反対の例を挙げたり、様々な問いかけをして子どもたちに考えさせたり、結論を急がぬように自制させたりする役割があります。また、基礎心理学的な知識と実践者になることも求められています。)

21 実のところ、教師が生徒の前でやって見せるだけの実験は、本当の実験とはいえません。また、たとえ生徒たちが自分の手で行ったにしても、すでに定められた方法に従って、言われたとおりにやるのでは、本当の実験ではありません。

 自発的活動を重んずる教育法の基本原理は、科学の発達の歴史をたどる中で考え出されたものであります。それを一言でいえば、次のように表すことができるでしょう。「理解するということは、発見し発明すること、いいかえれば、再発見して再構成することである。」将来、単に教え込まれたことを反復するだけの人間でなく、ものを作りだしたり創造したりすることのできる人間をつくるためには、まずこのような条件を必然的条件として引き受けることが必要です。

2011年6月3日金曜日

『親鸞と道元』 3

 『親鸞と道元』の最終回です。


222 知床に毘沙門堂を建てた立松さん ~ 「スローな宗教」
    自然と合体した人びとの祈り

235 人はなぜ、お遍路に行くのか
236 死とはすなわち旅という感覚
245 旅で死にたい、という五木さん ~ 自然死(五穀を断って成仏する)、自分を殺すのは自殺

251 阿弥陀仏とは、隈なく照らす月の光のようなもの

261 浄土というのは、特別な場所じゃなくて、われわれの現世、生きているいまの時代には、自分自身を相対化する、そういう存在ではないかと思うんです。いまの自分の考え方、いま身をおいている社会を相対化していく、照らし出すものではないかと思うんです。

275 戒律も、懺悔すると許されるというシステムだった。 ~ とても柔軟

280 日光の男体山で経験した足元を照らす一灯の光
    救いになるのは、前を歩く人 ~ 生き方を教えてくれる、死に方を教えてくれる → そういう存在が身の回りにたくさんいたのが戦前まで、という感じでしょうか? いつの間にか前を歩く人を失ってしまった社会をつくってしまいました。

284 何かの信仰に入っていくのは人間を通じてなんですよ。本を読んで、突然目覚めて信仰に入るということは、ありえないことではないと思うけれど、それはあまり続かない信心だと思います。

296 宿業(しゅくごう)は、運命と違って、前向きな思想。いまここで自分がどういう行いをするかによって、あとの結果が決まってくるというわけだから。全部背負わされたということではなくて、自分のいまの選択が、あとの結果を決めるという発想とつながっているのです。前世、現世、来世のつながり。 → なんか『哲学者とオオカミ』のテーマだったような? そして、『ギヴァー』のテーマでもあるような。

298 宿業観というものは仏教の原則の一つで、根本だと思います。人はよき行ないをすれば、よき結果につながるという考え方は、仏教の根本にある考え方です。
    仏教の根本は、「衆善奉行、諸悪莫作」(しゅぜんぶぎょう、しょあくまくさ)といって、よいことを行ない、悪いことはしないという、これにつきるんだと思うんです。

300 すべては変わるという、不変なものはないという考え方が身についている場合には、たとえば自殺しなくてもすむんじゃないかという気がするときがあります。
301 やっぱり逃げ場がないという考え方を否定するのが仏教だと思いますね。逃げ場はあるというか、状況は変わる。ポジティブな考え方。 → これは、救いです。

2011年6月2日木曜日

『親鸞と道元』 2

92 宿業(しゅくごう) → 296と298ページ
93 業縁(ごうえん)
   善とか悪とかいうものは相対的なもの。「業縁あれば、人は状況のなかで常に変化するものだ」 人の善悪は簡単に評価してはいけない。

117 悪人正機という説に出合ったときの衝撃。規制の枠の中(いいことをした人間はいい報いを受け、悪いことをした人間は悪い報いを受けるのは当然!)で考えていたことを粉砕される。 → 今回の原発事故にも言えてしまう??

108 親鸞がしたことは、個人というものを信仰と結びつけたこと。個人の信仰を確立した。親鸞は近代に至る前に個人の自我というものを確立した。それまでの宗教は国のため。

184 法然、親鸞、道元は、個人のための信仰。白衣から黒衣への転換が象徴するもの → 「国のための電気、個人のための電気」と考えてしまいました。まだ、ほとんど後者が考えられていなかったがゆえに起こってしまった今回の悲劇? しかも、営利企業と国が密接につながっているわけですが、個人の存在は単なる「ありがたく分けてもらう対象」でしかなかったし、そうであり続けています。少なくとも、電機が登場する以前は、そういう関係はなかったわけで......

109 アニミズム=自然発生的な信仰観は非常に深くあったと思う。だから人々は祭りをし、いろいろなものを畏れ、敬った。だけどそこにはやっぱりこの思想はなかったと思います。 → 電気や自動車に代表される文明の利器が、そういう部分をドンドン減らしていったんでしょうね。

110 『木喰』立松和平著

119 現世往生説 = この世に生きている間に、いっぺん自らの生を清算して、そして生まれ変わって、そして念仏を信じて生きるという生き方に変わったときに、その人は仏と等しくなるという考え方

138 中国から何もお持ち帰らなかった道元のすごさ → 中国に行くことを考えなかった親鸞のすごさ

143 道元も、法華経を唱えながら亡くなった

 本覚(ほんがく)思想、悉有(しつう)仏性、悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)

156 「仏道を習うということは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり」

160 煩悩は死までつきまとう

203 『歎異抄』 読むたびに変わるもの

207 ブッダも、親鸞も、いまをよりよく生きるために語った人

218 戦争前から戦争中は「思考停止の状態」 → 現代も?! いまの政治や、テレビ等の状況を見るにつけ、そう言わざるを得ないというか、いてもいなくて/あってもなくても同じ状況が、すでに長年続きすぎています。(さらに言えば、いること/あることの弊害が大きくなっています。)

2011年6月1日水曜日

『親鸞と道元』

 『ギヴァー』と関連のある本27で、五木寛之さんの『親鸞』上を紹介しました。その時は宗教的な本というよりも、親鸞の生き様として読みました。ジョナスに引きつけながら。

 今回の本は小説『道元禅師』を書いた立松和平さんとの対談集です。(どちらが発言したのかについては、書き出していません。)二人の問題意識は、「少なくともここ10年以上、日本では命のデフレ、魂の恐慌が起こっている」(16ページ)にあると思います。

 ちなみに、『ギヴァー』と関連がある本なのか、そうでないかの基準は極めてあいまいです。たとえば、今回の本は関連があるのか、前回紹介していた『哲学者とオオカミ』は関連があるのか、自分でもどう位置付けたらいいのか悩んでいます。


29 親鸞、道元、栄西、日蓮、法然 ~ まさに宗教的なルネサンスの時代

49 そして、全員が比叡山の中退組 ~ 規制の枠組みに入っていては大事はできない!

41 面授 ~ 本当に大事なところは、文字や文書では伝えられない。必ず師から弟子へ面と向かって伝えていかないといけない。心から心へ伝えることが大事だと。語られる言葉こそが、実は真実だと思っている。なぜかというと、語られる言葉には表情があり、声という声色があり、それから身振り手振りがあり、その時の目の色があり、感情がこもっている。面授とは、それらをまるごと言葉として伝えるわけです。対面しての面授がなぜ大事かというと、言葉に含まれた諸々の要素を全部、全的に受け取ることができるから。 ~ ギヴァーからジョナスに伝えられたことは、まさに面授によるとも言える気がしました。

42 文字というのはそうではなくて、語り手の本当の全的な真意は伝わりません。
   釈迦(お経)も、キリスト(バイブル)も書かなかった。

190 文章が伝えるものというのは、そのときの自分の声とか全身全霊とともに語る言葉として伝えられるものではないから、真実の半分ぐらいしか伝わらない。

192 真宗ではいまでも聞法(もんぽう)を一番大事にするんです。要するに、直接声で話を聞くということです。文字で読むのではなく、聞法で、人から人へと直接伝えるということです。
    空海にしても最澄にしても、中国に渡って、師匠の正当な教えと向き合って、面授されることが必要だからです。どの本に出合ったかということが大切ではないんです。

44 本来は古典も一回性のものなんじゃないか。詩も、歌も、経も、肉体から肉体に伝えられるものなんです。

45 『ブッダのことば ~ スッタニパータ』中村元訳・岩波文庫

50 道元は、比叡山の修行中に重大な疑義を持ってしまった。親鸞も。法然も。 ~ 疑問、疑いを持つことの大切さ。それが新たな行動のエネルギーに。

 道元と親鸞の共通点: 両者とも比叡山に入った。幼少で母と別れた。貴族の出身。中退して比叡山を下りた。そして比叡山にいるときに非常に大きな疑惑というか疑義にとらわれた、疑いを心に抱いた。

 道元は、すべてのものに最初から仏性があるなら、改めて厳しい修行をする必要があるのだろうかという疑義。 親鸞は、修業しても、仏に出会えない。

55 道元と親鸞を結びつけるもの: 日本の文化、日本の思想、日本人の仏教にした

75 すばらしいことをやっている間に、いかに死ぬかということを考えなくちゃいけない。

79 心身(しんじん)脱落 = 意識しなくてももっている秩序や観念の関係性がバラバラになって、自由自在になるという境地のこと

80 いまのわれわれが生きるためには、数知れない小さい悟りを大切にしていく。 ~ 気づきおよびそれにもとづいた行動

87 宗教的なものに惹かれるのはシックマインド。ヘルシーマインドには宗教は必要ない。 前者は、「病める心」というよりは、「悩める心」。

89 自然とはいったい何か? 私は日記を毎日書いている。だれが来たとか、どこでどうしたとか、箇条書きでそっけもない文章を書いている。余白に、自然の観察もメモしてあり、それを後で見ていくと、ほとんど一緒だ。多少、一週間ぐらいの違いはあるけど、ほとんど一緒といってよい。これが自然だ。 ~ 今回の地震と津波、そして放射性物質による汚染について考えさせられてしまいます。

2011年5月31日火曜日

時間について ~『哲学者とオオカミ』2

 後半は、時間についてのメモが中心です。おそらく、他のことも書いてあったんだと思いますが、私のメモに残っているのは時間に関連したものばかりでした。『ギヴァー』にひきつけて読んでいるからでしょうか?

220 わたしたちが欲望、目標、計画をもっているからこそ、わたしたちには未来がある。未来は、わたしたちの誰もが現在の時点でもっているものだ。死は、未来をわたしたちから剥奪することで、わたしたちに害を及ぼすのである。

  未来を失うというのは、考えてみれば、とても奇妙な考え方だ。この奇妙さは、未来という概念の奇妙さからくる。未来はまだ存在しない。それをどう失うというのだろう。

221 わたしたちに未来があるのは、わたしたちを未来へと方向づけたり、未来へと結びつける状態に、わたしたちが(本当に今)あるからだ。このような状態が欲望、目標、計画である。わたしたちの誰もが、マルティン・ハイデガーが指摘したように、未来に向かっている存在だ。誰もが本質的には、まだ存在していない未来に向けられている。それで、この意味では少なくとも、私たちは未来をもっていると言える。

222 何かを飲みに部屋を横切るのと、自分が望む将来のヴィジョンをめぐって人生を計画するのとは、別物である。

 人間は、近い将来に満たされる欲望ではなく、未来のいつかに満たされるかもしれない欲望に向かって努力をし続ける。

223 私達は2つの意味で、未来をもつことができるようだ。一つは暗黙の意味でのそれだ。自分は欲望をもっているが、それを満たすには時間がかかるという意味で、わたしたちには未来がある。もう一つは、明示された意味でのそれだ。未来がこうあってほしいと言うヴィジョンに合わせて、自分の人生を方向づけたり、計画したりするのだ。

 人間では、この2番目の意味で未来をもつという点が、はっきりしているようだ。

224 生きている間の投資(欲望、目標、計画、努力)が大きい分だけ、死ぬ時に失うものも他の動物たちより大きい、と信じられてきた。

226~227 時間の概念をもっているのは人間だけ? イヌやオオカミは?

 わたしたち人間は時間を理解しようとする。時間を、過去から現在を通って未来へと飛ぶ矢として考える。あるいは、川、航海する船と。

 わたしたちは、死に向かっている存在でもある。

228 わたしたちは死と結びついた生き物だ。 イヌやオオカミは違うの?

 イヌやオオカミなら、同じえさを毎日出されて、満足している。少なくとも、「いい加減、他のものにしてくれよ」とは言わない。しかし、人間は、すぐに言う。

236 オオカミの時間は線ではなくて、輪なのではないかと思う。オオカミの生涯のそれぞれの瞬間は、それ自体で完成している。そして幸福はオオカミにとっては、同じことの永劫回帰に見出される。時間が輪なら、「二度とない」はない。「二度とない」の感覚がないところには、喪失の感覚もない。オオカミやイヌにとっては、死は本当に生の限界、終わりなのだ。

238 オオカミとは時間の感覚が違っている。

 ハイデガーによると、彼が時間性と呼ぶものこそが人間の本質だという。(しかし、時間が本当は何であるのか誰も知らないし、知ることはないだろう。)

239 わたしたちの内なるサルは、あらゆる違いをすぐに自分の利益に結び付けようとする。だからあらゆる記述的な違いは、すぐに評価の違いへと変わる。わらしたちの内なるサルは、人間は瞬間を透かしてみることに熟達しているから、オオカミよりもすぐれているのだと説明する。好都合なことに、瞬間を見ることではオオカミの方が人間よりすぐれていることを忘れているのだ。

 時間性、すなわち時間を過去から未来へと伸びる一つの線として経験することは、一定の利益をもたすだけでなく、一定の不利益ももたらす。

243 オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいとかんじることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に異動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ。

244 フッサールは、現在の経験すらも、過去と未来の経験と分かちがたく結びついていると述べたのだ。

245 わたしたちが現在とよんでいるものは、部分的には過去であり、部分的には未来なのだ。

  時間的な動物であることには、多くの短所がある。明白な短所もあれば、それほどはっきりしない短所もある。明白なそれは、わたしたちが多くの時間、たぶん不釣合いに大量の時間を、もはや存在しない過去やこれから起こる未来に関わることに使うという点だ。記憶にある過去や望まれる未来は、わたしたちがお笑い草にもここ、現在とみなしているものを決定的に形づくる。時間的な動物は、瞬間の動物ができないような形で、神経症になることがあるのだ。

  人間は瞬間を見るよりも、瞬間を透かして見ることの方がうまいから(時間的な動物だから)、人生に意味をもたせたがるのだが、同時に、どのようにすれば自分の人生が意味をもてるかを理解する能力がない。時間性がわたしたちにくれた贈り物は、わたしたちが理解できないことへの欲望なのである。

255 人生で一番大切なもの(望むなら、人生の意味と考えてもよいだろう)は、まさしくわたしたちが所有できないものに見出せるのだ。

 サルにとっては、何かを所有することが重要。オオカミにとって重要なのは、何かをもつことではなく、存在することである。

 人生の意味は、まさしく時間的な動物が所有できないもの、すなわち瞬間に見出されるのだ。しかし、瞬間はわたしたちサルが所有できないものの一つだ。物事の所有は瞬間の消去にもとづいている。

256 人生の意味は瞬間に見られる。いくつかの瞬間があり、こうしたいくつかの瞬間の陰の中にこそ、人生で一番大切なものを見つけ出せる、と言いたいのだ。つまり、最高の瞬間というものを。

261 時間はわたしたちの力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべてを奪う。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、最高の瞬間にあったときの自分なのである。


おまけとして、「訳者あとがき」から: 本章の第一章に「もっとも大切なあなたというのは、自分の幸運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ」とあり、最後の章には、「人生で一番大切なのは、希望が失われたあとに残る自分である」という文章がある(276ページ)。