★本ブログへのご意見・ご感想などは giverprojectjapan@gmail.com までどうぞ。


2013年9月29日日曜日

ブログ開始、4周年



なんと、このブログがスタートして今日で4年です。
こんなに長く書き続けられるとは、思いませんでした。
本が出てから、いいところ数か月と思っていました。
(普通は、そんなものでしょう!)
それが、1年、2年、3年、そして4年です。

なんといっても、1冊の本に限定したブログですから。
書けることは、それなりに限られているはず。

しかし、面白いことに、
『ギヴァー』を通すと、見えないものがいろいろ見えてくるから不思議です。

たとえば、「哲学」。
自分ほど、哲学的でない人間はいないと思っていましたが、
ギヴァーで扱っているほとんどのテーマが哲学のテーマと同じとは?! 
なんという偉大なる(というか、あっけない)発見でした。
おかげで、哲学関連の本が読めるようになってしまいました!!
哲学から真っ向から攻めては、何も読めなかったのが、
かなり読めるようになりました。
(かなり限定付きですが。やはり、退屈なのは退屈で、頭が受け付けません。
ほとんど言葉遊びしょ、というものは。
「極めて単純なことを、あえて難しく考え、かつ書くのが哲学」という印象
はいまだに拭えません!)

まだ発見していない色々なつながりも見出したいと思っています。

でも、あとどれだけ続けられるかは、常にクエスチョン・マークです。★

みなさんの協力にかかっています!!!

よろしくご支援のほどを。


★ すでに2年半ぐらい前から、相当おかしんじゃないかと、自分でも思い始めています。1冊の本のために、これだけのことをするアホがいるかな~、と。

2013年9月28日土曜日

「聞くこと」関連で



 教師の役割は、一般的に「教えること」と捉えられていますが、私にまったくそうではないことを教えたくれた本が2冊あります。

 1冊は、私が教育に関わり始めるきっかけをつくってくれた『ワールド・スタディーズ』という本の中で、「教えることは、問いかけること」と言い切っていたのです。1986年のことでした。それまでは、私も研修等では、一生懸命がんばって講義をしていましたが、この本を読んでからは、話ができなくなってしまいました。何せ、「教えることは、問いかけること」ですから。
 日本の授業でも「発問」が大切にはされてきましたが、「問いかけ」と「発問」の違いは大きいです。前者には答えがないのに、後者には正解があるニュアンスがあります。前者にはシナリオはありませんが、後者は教師のシナリオの一環として行われます。

 もう1冊は、Donald Murrayという人の『Learning by Teaching』。タイトルからは想像できませんが、これは主には書き方の教え方について書かれた本です。その中で、なんと、書くのを教えるベストの方法は「聞くこと」とあったのです。
 日本の作文教育しか体験していない私にとって、書く教え方のベストの方法が「聞くこと」とは目からうろこでした。日本の先生がいまでも固く信じ、かつ実行している添削をしている限り、生徒たちは書くことを嫌いになったり、書く力をつけられないのです。がんばってつぎ込んでいる時間とエネルギーが、マイナスにしか機能していないのですから、できるだけはやくやめるべきです!!! その代わりに、生徒たちが書いている間に「聞くこと」が教師の役割だというのです。それしか、生徒たちが書くことを好きになり、書く力をつける方法はない、と言い切っています。
 興味のある方は、残念ながら上記の本は英語のみなので、『ライティング・ワークショップ』と『作家の時間』を参照してください。それを読みに応用したのが『リーディング・ワークショップ』です。(いま、それの日本での実践版と、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップをさらに進化させた教え方のTo Understand『理解するってどういうこと?』仮題, by Ellin Keeneを翻訳中です。両方とも、おすすめです。読むことは、聞くこと、話すこと、書くこと、考えること、世界を見ること、そして生きることと切り離せんから。)
 なお、このアプローチは、国語だけで効果的なのではなく、他の教科すべてで求められています。教師が話し続けている限りは、生徒たちがよく学べない(教科が嫌いになる)ことを確約しているようなものですから。


2013年9月25日水曜日

『半沢直樹』



見ましたか?
『あまちゃん』以上の脚光を浴びたドラマですが・・・、


私が注目したのは、この部分です。
ある意味、『ギヴァー』の終わり方に通じる部分です。

しかし、おもしろいのは、『ギャザリング・ブルー』には、ジョナスもゲイブリエルも登場しないことです。それで、続編と言えるのか? ロイス・ローリーさんの方がドラマの定番のはるか上をいく手法を使っているのかもしれません。

2013年9月23日月曜日

政治家は「まず人の話を…」




 これは河村さん個人の問題というよりも、政治家全般、もっと言えば自分で「上」のポジションについていると思っている人たちに共通の課題です。(いまは少なくなりつつあるかもしれませんが、学校の先生たちの中にもいるタイプです)
 その人たちが、「まず人の話を聞くことから」スタートしたら、世の中大きく変わっていきます。現実的には、極めて期待薄ですが。

 これは、実は、(明治時代に栃木県会議員と衆議院議員を約20年間務めたことのある)田中正造が人生の最後に気づいたことでもありました。

 以下は、林竹二の『田中正造の生涯』(講談社現代新書)からの引用(200ページ)です。田中正造は72歳でなくなりましたが、これを書いたは70歳です。
 本人の文章ですから、ちょっと読みにくいですが、読みきれば、感動は何倍か大きいと思うので、そのまま載せます。
 「凡を物事を教えんとせ」(199ページ)の続きが以下のコピーです。


   <メルマガからの続き>




 こういう日本のリーダーたちにこびりついている体質と比べると、『ギヴァー』のコミュニティのリーダー(長老)たち ~ その中にはギヴァーを含めてもいいのかもしれませんが ~ は、ひたすら観察し、聞くこと/様子を見ることを第一に考え、実践している気がします。その上で、ベストの判断を下すべき努力している。わが国の長老たちとはまるで違う感じがします。

2013年9月20日金曜日

オリンピック



 昨日登場いただいたフランスから一時帰国中の人から「オリンピック東京に決まったね。どう思う?」と聞かれたので、建前ではなく、本音を言わざるをえませんでした。

 私は、石原さんが最初に言い出したときから「反対」です。
 もちろん、今も。
 都民としては、税金の使い道として大いに疑問であること。
 世界平和や国際交流に貢献、などという幻想ももっていません。
 それらが本当に目的なら、他に山のようにより効果的な方法がありますから。

 最大の問題は、日本だけの視点でなく、グローバルに見たときです。
 日本は確かに、経済的に問題を抱えています。景気づけがあった方がいいに越したことがないことは認めます。しかし、それは比較の問題で、日本にとって1964年のオリンピックが価値があったのと同じレベルで、おそらくトルコ/イスタンブールのオリンピックの方がはるかに価値があったと思います。
 スペイン/マドリードにしても、日本が抱えている経済問題のレベルではありません。
 そういうわけで、本当に国際貢献を叫ぶのであれば、辞退すべきだと思っています。いまでも。

 そして、オリンピック委員会が東京を選んだ理由は、確実にできる確率が高いところ(=オリンピック委員会側を潤すところ) だということではないでしょうか。

と。

 『ギヴァー』のコミュニティは、ほとんど国交断絶状態(コミュニティだけで完結している)なので、最初から物事をグローバルに見る必要もなく、従って、このようなおかしなこともおきません。

2013年9月19日木曜日

自分を消す社会・日本



フランスからしばらくぶりに帰ってきた人が、「東京を歩くのはこわい」と言っていました。携帯/スマホを見ながら歩いている人が多いからです。「周りの人のことなど、おかまいなしで、よくもまあ、ここまで自己中心になれるね!」と。確かに、読みながら歩きますから、周りのスピードと波長が合いませんし、前から来る人も見えていません。

そういえば、スマホで忙しくなって、電車の中で、耳栓から音楽の音がガンガン聞こえてくる人は大分少なくなったのはいいことですが、電車に乗っても乗客の半数以上は、スマホをいじっている昨今です。本など読んでいようものなら、奇人・変人扱い!

さらには、「横断歩道では、赤信号で、車が通らないのがわかっているのに、ご丁寧に青になるまで待っている人の多いこと」。昔、一時期はやった「赤信号、みんなで渡ればこわくない」のまさに反対で、忠実にルールを守り続けています。

しかし、上記のスマホを見ながら歩くという、ある意味ルール違反のほうは、どうなるのでしょうか? 一貫性がないというか・・・

そして、通勤時間帯の電車の中の人の動きについてもおもしろい指摘をしてくれました。「数人は吊り輪などにつかまっているけど、圧倒的多数の人は隣の人に寄りかかっているだけ。そうする方が楽だから。(中には手すりに手が届かない人がたくさんいる問題もあるけど。)でも、急にスピードを緩めたり、早めたりすると、みんなで揺れてしまう。これって、日本社会や組織の縮図じゃない?」と。まったく! ある意味で、他人任せ。

いずれも、「自分というものを消す」という共通点が見出せるでしょうか?
自分というものをもつのがきわめて億劫な社会・日本です。
吉田兼好さんの時代から?

 『ギヴァー』のコミュニティと似ている点?
 それとも、『ギヴァー』のコミュニティの方が自分を出している?

2013年9月18日水曜日

汚染水、1年8か月間流出



福島第一原子力発電所の貯蔵タンクから漏れた汚染水中の放射性物質が、雨水とともに約1年8か月間にわたって、周辺の地中や港湾外の海に流出し続けていた可能性があると、東京電力が明らかにした。

 東電の説明では、2012年1月と2月に、2区画のタンクからの汚染水漏れを見つけ、漏水部分をふさぐ補修工事を行ったが、タンクを囲む汚染水の外部流出を防ぐせきの排水弁は当時から開きっぱなしにしていた。先月に300トンの汚染水漏れなどが見つかったタンクがある2区画とは別だった。

 東電は15日、台風18号の接近に備えてせき内にたまった雨水を採取し、検査を実施。その結果、この計4区画のせき内の雨水には、ストロンチウムなどの放射性物質が1リットル当たり17万~2400ベクレル含まれ、国の放出基準値(同30ベクレル)を大幅に上回っていた。東電は17日、「せき内に残っていた放射性物質が雨水と混ざり、排水弁を通じてせきの外に流出した可能性がある。外洋への流出も否定できない」と話した


日本を代表する企業のはずが、今回の事故を含めて、大分前から(少なくとも3.11以降)組織としての体裁をなしていないことが明らかになっています。いつまで、税金を使ってそういう企業を守り続けなければならないのでしょうか?
これは、明治政府が足尾鉱毒事件を続けた古河鉱業を擁護し続けた構造とまったく同じです。大きいものには優しく(というか「癒着」の構造!★)、一方小さきものには厳しく(鉱毒避難民は、強制撤去でした!)、です。


★ 前回の書き込みとの関連で言えば、当時の政府も古河鉱業も、そして田中正造に代表される反鉱毒運動をした人たちも「愛国心」はもっていました。片や「富国強兵」の。そしてもう一方は「人民一人ひとりと自然・環境の保全」こそが国の基盤と考えていました。今の世も、まったくこの対立は変わっていません。もう100年以上も経つというのに。

2013年9月16日月曜日

愛国心、歴史、自由



 テッサ・モーリス-スズキさんはイギリス生まれで、いまはオーストラリア国籍・在住、日本人の男性と結婚した歴史学者(日本近代史が専門の人)です。もともとの名前がテッサ・モーリスで、鈴木さんという男性と結婚したので、上のような表記になります。
 彼女の3冊の本を読みました(というか、全部はちゃんと読んでいません。すべて、岩波から出ていますから、難しくて!?)。
 タイトルに惹かれて、です。
 ①『愛国心を考える』、②『過去は死なない ~ メディア・記憶・歴史』そして③『自由を耐え忍ぶ』です。
 これらは、すべて『ギヴァー』の扱っているテーマだと思ったからです。
 (しかも、中心的な。日本社会にとっても極めて重要な。しかし、かなりいい加減というか、危ない形でしか扱われていないというか・・・これらは、確実に私が『ギヴァー』を再刊しなければ、と思った大切な要因として含まれていました。)

 ①についての私の興味は、「愛国心」ではなく、「コミュニティ心」というか「コミュニティ愛」です。
 いずれにしても、極めて難しい代物です。
 日本は、明治維新から戦前まで、さんざん苦労しました。
 そして、いまだに、その亡霊に引きずられています。
 どう表現するかは、極めて難しい!!

 ②『ギヴァー』のコミュニティでは、過去をギヴァーだけがもつことになっています。メディアも、記憶も、歴史も葬り去っています。あたかも、平和な現在を過ごすには必要ないかのごとく。しかし、そんなことはあり得ないことを知っているので、一人だけにその役割を担わせているというわけです。
 しかし、これも、「愛国心」「コミュニティ愛」と同じで、難しいです。
 一人ひとりが違った解釈をしますし、それに基づいて、解釈を押し付け始めますから。
 そういうことをしないために、『ギヴァー』のコミュニティでは一人に任せている??

 ③『ギヴァー』の最大のテーマは、ひょっとしたら、この「自由」かもしれないぐらいに大きなテーマです。
『ギヴァー』のコミュニティは、自由があるようでいて、管理されつくされている社会です。職業も、連れ合いも、自分では決められません。しかし、枠の中では自由というか、平和は満喫しています。あたかも、何の心配事もないかのごとく。
そして、ジョナスは、そのコミュニティからゲイブを連れて飛び出すことを選択します。(ほとんど、これまでの住人がしたこともないことを。前任者のローズマリーは「死」という選択をしていました。)
 ちなみに、自由は民主主義ということと対をなしているというか、切っても切り離せない関係にあるような気もします。民主主義も、日本においては、かなりいいかげんになっています。自由のほうは、どうなんでしょうか?

2013年9月11日水曜日

「幸福度ランキング」



「幸せな国」番付、トップ5は欧州が独占 日本は43位

(CNN) 世界各国の国民が日々の暮らしに満足し、幸せを感じているかどうかを調査した新たな報告書が発表され、ランキング首位のデンマークをはじめ、欧州北部の5カ国が上位を独占した。

報告書は米コロンビア大学地球研究所が9日、昨年に続く第2弾として発表した。世界156カ国で2010~12年に調査を実施し、国民の幸福度を10段階で示した。

それによると、上位5カ国はデンマークに続いてノルウェー、スイス、オランダ、スウェーデン。6位~10位は、カナダ、フィンランド、オーストリア、アイスランド、オーストラリアと続きます。

そのほかの主要国では英国が22位、ドイツ26位、日本43位。ロシアは68位、中国は93位だった。


「生活の満足度」と言えるかもしれないこの調査(数字)。
まあ、結構妥当な結果だと思います。

上位を占めている国々(5番目まで+フィンランド)は、20年ぐらい前から、成熟した社会を築き上げている国だと、私が思っていた国々です。それらと日本を比較すると、足元にも及ばない。政治、環境、社会、仕事の仕方、教育、福祉、人間関係の築き方などなど、あらゆる面で。(何か及ぶものはあるかな?)

また、上位10か国は、基本的に「楽しく暮らすために仕事をする」国々です。
したがって、日本のようにストレスが充満した社会ではありません。
仕事は、8時から3時半とか4時まで。ワークシェアリング(週3~4日の勤務)なども当たり前になっています。家族+暮らしを楽しむことが優先されています。そして、それで国が成り立っている国々です。

こういう面に関しては、『ギヴァー』のコミュニティの方が、日本よりもかなり先を行っている気がします。


追伸: 別の調査では、日本のランクはもっと下でした。 

ここ数年、さまざまな研究機関から、世界の国々の「幸福度ランキング」が発表さ れています。たとえば、ギャラップの2010年の調査によれば、日本の幸福度は81位。そのランキングで上位を独占しているのは、北欧の国々です(デン マーク1位、フィンランド2位、ノルウェー3位、スウェーデン4位)。  

http://diamond.jp/articles/-/19942

2013年9月10日火曜日

学力テストの悲劇は続く



 学力テストに関連して、以下のような記事がありました。
 結果が報道されるたびに、同じようなことが繰り返されています。
 テストの価値をまったく理解していない、文科省、政治家、学者/研究者、そしてマスコミが輪になって、問題を拡大しています。
 そういう意味で、悲劇です。
実は、悲劇を通り越して「犯罪」の領域なのですが。
当事者たちは、そういうことは気づいていません。(だからこそ、その犯罪性は、東京電力★が2年半前に犯した罪と同じか、それ以上に重いのです。学力テストや入試を含めて教育の犯罪性は、気づくのが難しいです。放射能よりもはるかに。)
林竹二の『教育亡国』を最近読み直したのですが、まじめでいい先生たちの多くも、みごとなぐらい(悲劇的)に、この見えにくい「犯罪」に組み込まれています。そして、親たちも、子どもたちも。★★
 このように厳しい状況下で、まっとうな教育(授業)をしていくことは極めて難しいことではありますが、不可能なことではありません。それも、学力テストで測れるレベルをはるかに超えた力を子どもたちにつけさせることも。しかし、それは旧来の枠の中に自分をおき続けていては無理です★★★。枠自体が、すでに悲劇と犯罪を生みだしていますから。

 静岡県の川勝平太知事は9日の記者会見で、今年4月に行われた全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で小学生の基礎的学力を問う国語Aの平均正答率が同県は全国最下位だったことに関連して、「(成績順に)下から100校か、平均点以下の校長先生の名前を公表したい」と述べた。

同県の小学生の国語Aの平均正答率は57・7%。全国平均の62・7%を5ポイント下回った。川勝知事は「絶望的な気持ちになり、強烈な危機感に襲われた。義務教育の責任は先生が持つ。責任を取るべきだ」と語った。

文部科学省が作成した全国学力テストの実施要領では、都道府県や市町村教委は個別の学校の結果を公表しないとされている。川勝知事の発言について、同省学力調査室の柿沢久美子専門官は読売新聞の取材に対し、「校長名の公表は校名を明らかにすることにつながる。実施要領に法的拘束力はないが、公表は控えてほしい」と話した。

 
 こう言われてしまうと、現場はテストのための授業をせざるを得なくなります。
 皆さん、テストのための勉強、覚えていますか?
 教師は、ひたすらカバーし、生徒はひたすら暗記します。
 でも、数日後にはほとんど全部を忘れてしまいます。

  少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティでは、こんな愚かなことはしていません。何せ、一学年たったの50人ですから。必要もありません。


★ こちらも教育と同じで、非があるのは東京電力ではなくて、教育の場合と同じように政治家、官僚、学者/研究者、そしてマスコミの怠慢のなせる業だったように思います。構造は、何事も同じなんだと思います。

★★ 林さんがこの本を出したのは、1983年でした。それから30年、状況は変わっていないというか、悪くなっている感じをもちます。より巧妙になっているというか。浸透しきったというか。

★★★ 「枠」という言葉で理解できなければ、「必要な変化」ないし「変化のスピード」に対応する、というのではどうでしょうか? あまりにも同じ過ちを繰り返しすぎています。誰も、その正当性を証明していないものを、あたかもすべて正しいと思い込んでやり続けているものが、多すぎます。特に、教育の世界では。


◆ 林さんの本の感想も含めて、学力テスト、および今の学校、教育の現状について興味のある方、ぜひ考えをお聞かせください。「画一化」は、『ギヴァー』のコミュニティに負けないスピードで進んでいます。

2013年9月9日月曜日

エコロジー


 エコロジー(ecology)とは、一般的に

「生態学」を意味するが、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方として、「eco」が接頭語としてしばしば用いられている。さらに生態学(ecology)は、生物学の一分野と見なされている。ただし、生態系として生物を取り巻く物理化学的環境を扱う場合もあるので、生物学の範囲を超える場合もあり得る。いずれにせよ、生態学は生物と環境の関係を取り扱う学問である。(以上、ウィキペディア)
 
と理解されていますが、おもしろい捉え方を見つけました。
『アイルランドの漂泊民』(ジョージ・グメルク著)を読んでいたら、その中に次のような引用がありました。

 「生態学(ecology)という言葉には、順応とか順応性を示すふるまいといった意味も副次的に含まれている。相手に合わせて変化していくメカニズムであるとか、人とつきあう際のふるまいであるとか、目的を達成したり問題を解決するために利かせる機転といったものを思い浮かべてもらえればいい。(Bennett, 1969, p.11)」

 こっちの方が、上の定義よりも、グッと自分に近づいた気がします。
 これなら、日常的にやっていますから。
 日本社会でも、『ギヴァー』のコミュニティでも。

 もっと頻繁に行われているのは、私たちが日常属している組織の中だと思います。

 そして、ジョナスは、それにあわせることへのおかしさを感じてしまい、コミュニティを飛び出してしまいました。
 私たちも、組織や日本社会から飛び出したいという気持ちは常に持っていますし、実際飛び出してしまった人も少なからずいます。今後は、もっと増え続ける気がします。組織や社会が、許容範囲を超えるルールをつくったり、ふるまいを押し付けてきたら、脱出する選択肢しか残っていませんから。

2013年9月3日火曜日

『ガリヴァー』と『ギヴァー』



この夏は、ユートピア旅行記叢書の『ガリヴァー旅行記』と、そのオリジナル版(英語版)のGulliver’s travel by Jonathan Swiftを図書館から借りてきて、読む気でいたのですが、時間がとれずに、阿刀田高著の『あなたの知らないガリバー旅行記』(新潮文庫)でお茶を濁しました。

以下は、その本からの引用です。

「つまるところ、その歴史は陰謀、叛逆、殺戮、革命、追放の繰り返しではないか。よくもまぁ、そんなにいまわしいことをあきもせず続けて来たものだ。お前の話を聞いていると、無知で、怠惰で、品性のいやしい者が、一番統治者としてすぐれた者になってしまう。法律を勝手にゆがめたり、うまく法の目をかいくぐったりする者が、一番法律をうまく運用したことになるらしい。聖職者は信仰心があついからといって尊敬されるわけでもなく、軍人が勇敢である必要もないらしい。裁判官も法律に忠実でなくてもよいようだ。お前の国の国民は、自然の目こぼしでこの地球上を這いずりまわることを許されている害虫どもの中でも、特に悪辣な種族らしいな」と、ガリバーのイギリスの歴史に耳を傾けた後に、結論づけたのは巨人の国ブロブディンナグ王国の国王。(53~4ページ)
18世紀のイギリスの現状を風刺するためにスウィフトは書いているのですが、いまの日本にも当てはまったしまう内容ではないでしょうか。

以下は、同54~55ページからの引用:
イギリスの歴史以上に国王が愕然と身を震わせたのは、ガリバーが火薬を用いた砲銃を作ることを教えたときであった。
「なぜ、お前たちはそんな恐ろしいものを持とうとするのか・・・それは悪魔の発明であり、断じて人間の考えるべきものではない。そんな発明はいつかは振り返って自分の国をほろぼすものとなるだろう。そういう発明をしないことが、人間の知恵ではあるまいか」
まことにごもっとも。スウィフトは原子爆弾など知るはずもあるまいが、武器の発明が辿りつく先を賢明に予知していたのかもしれない。 ← いまは、「平和利用」の言葉で包んだ原発もです。

 この国王の学問は、道徳、歴史、詩、数学の4つに限られており、数学は実用技術に基礎として発達していた。操正しく生き、みずからの歴史に誇りを持ち、詩歌を楽しみ、そして実用上の便利があれば、なにもそれ以上のものを人生に望むこともあるまい ~ これがこの国の普遍的な思想であった。 ← これも、日本と似ているでしょうか?『ギヴァー』のコミュニティは、少なくとも歴史が排除されています。詩もないかな?

他にも、『ガリヴァー』と『ギヴァー』の接点あるかもしれません。もし見つけられたら、ぜひ教えてください。