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2011年5月31日火曜日

時間について ~『哲学者とオオカミ』2

 後半は、時間についてのメモが中心です。おそらく、他のことも書いてあったんだと思いますが、私のメモに残っているのは時間に関連したものばかりでした。『ギヴァー』にひきつけて読んでいるからでしょうか?

220 わたしたちが欲望、目標、計画をもっているからこそ、わたしたちには未来がある。未来は、わたしたちの誰もが現在の時点でもっているものだ。死は、未来をわたしたちから剥奪することで、わたしたちに害を及ぼすのである。

  未来を失うというのは、考えてみれば、とても奇妙な考え方だ。この奇妙さは、未来という概念の奇妙さからくる。未来はまだ存在しない。それをどう失うというのだろう。

221 わたしたちに未来があるのは、わたしたちを未来へと方向づけたり、未来へと結びつける状態に、わたしたちが(本当に今)あるからだ。このような状態が欲望、目標、計画である。わたしたちの誰もが、マルティン・ハイデガーが指摘したように、未来に向かっている存在だ。誰もが本質的には、まだ存在していない未来に向けられている。それで、この意味では少なくとも、私たちは未来をもっていると言える。

222 何かを飲みに部屋を横切るのと、自分が望む将来のヴィジョンをめぐって人生を計画するのとは、別物である。

 人間は、近い将来に満たされる欲望ではなく、未来のいつかに満たされるかもしれない欲望に向かって努力をし続ける。

223 私達は2つの意味で、未来をもつことができるようだ。一つは暗黙の意味でのそれだ。自分は欲望をもっているが、それを満たすには時間がかかるという意味で、わたしたちには未来がある。もう一つは、明示された意味でのそれだ。未来がこうあってほしいと言うヴィジョンに合わせて、自分の人生を方向づけたり、計画したりするのだ。

 人間では、この2番目の意味で未来をもつという点が、はっきりしているようだ。

224 生きている間の投資(欲望、目標、計画、努力)が大きい分だけ、死ぬ時に失うものも他の動物たちより大きい、と信じられてきた。

226~227 時間の概念をもっているのは人間だけ? イヌやオオカミは?

 わたしたち人間は時間を理解しようとする。時間を、過去から現在を通って未来へと飛ぶ矢として考える。あるいは、川、航海する船と。

 わたしたちは、死に向かっている存在でもある。

228 わたしたちは死と結びついた生き物だ。 イヌやオオカミは違うの?

 イヌやオオカミなら、同じえさを毎日出されて、満足している。少なくとも、「いい加減、他のものにしてくれよ」とは言わない。しかし、人間は、すぐに言う。

236 オオカミの時間は線ではなくて、輪なのではないかと思う。オオカミの生涯のそれぞれの瞬間は、それ自体で完成している。そして幸福はオオカミにとっては、同じことの永劫回帰に見出される。時間が輪なら、「二度とない」はない。「二度とない」の感覚がないところには、喪失の感覚もない。オオカミやイヌにとっては、死は本当に生の限界、終わりなのだ。

238 オオカミとは時間の感覚が違っている。

 ハイデガーによると、彼が時間性と呼ぶものこそが人間の本質だという。(しかし、時間が本当は何であるのか誰も知らないし、知ることはないだろう。)

239 わたしたちの内なるサルは、あらゆる違いをすぐに自分の利益に結び付けようとする。だからあらゆる記述的な違いは、すぐに評価の違いへと変わる。わらしたちの内なるサルは、人間は瞬間を透かしてみることに熟達しているから、オオカミよりもすぐれているのだと説明する。好都合なことに、瞬間を見ることではオオカミの方が人間よりすぐれていることを忘れているのだ。

 時間性、すなわち時間を過去から未来へと伸びる一つの線として経験することは、一定の利益をもたすだけでなく、一定の不利益ももたらす。

243 オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいとかんじることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に異動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ。

244 フッサールは、現在の経験すらも、過去と未来の経験と分かちがたく結びついていると述べたのだ。

245 わたしたちが現在とよんでいるものは、部分的には過去であり、部分的には未来なのだ。

  時間的な動物であることには、多くの短所がある。明白な短所もあれば、それほどはっきりしない短所もある。明白なそれは、わたしたちが多くの時間、たぶん不釣合いに大量の時間を、もはや存在しない過去やこれから起こる未来に関わることに使うという点だ。記憶にある過去や望まれる未来は、わたしたちがお笑い草にもここ、現在とみなしているものを決定的に形づくる。時間的な動物は、瞬間の動物ができないような形で、神経症になることがあるのだ。

  人間は瞬間を見るよりも、瞬間を透かして見ることの方がうまいから(時間的な動物だから)、人生に意味をもたせたがるのだが、同時に、どのようにすれば自分の人生が意味をもてるかを理解する能力がない。時間性がわたしたちにくれた贈り物は、わたしたちが理解できないことへの欲望なのである。

255 人生で一番大切なもの(望むなら、人生の意味と考えてもよいだろう)は、まさしくわたしたちが所有できないものに見出せるのだ。

 サルにとっては、何かを所有することが重要。オオカミにとって重要なのは、何かをもつことではなく、存在することである。

 人生の意味は、まさしく時間的な動物が所有できないもの、すなわち瞬間に見出されるのだ。しかし、瞬間はわたしたちサルが所有できないものの一つだ。物事の所有は瞬間の消去にもとづいている。

256 人生の意味は瞬間に見られる。いくつかの瞬間があり、こうしたいくつかの瞬間の陰の中にこそ、人生で一番大切なものを見つけ出せる、と言いたいのだ。つまり、最高の瞬間というものを。

261 時間はわたしたちの力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべてを奪う。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、最高の瞬間にあったときの自分なのである。


おまけとして、「訳者あとがき」から: 本章の第一章に「もっとも大切なあなたというのは、自分の幸運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ」とあり、最後の章には、「人生で一番大切なのは、希望が失われたあとに残る自分である」という文章がある(276ページ)。

2011年5月30日月曜日

『哲学者とオオカミ』

 マーク・ローランズが書いたおもしろいタイトルの本です。サブタイトルは、「愛・死・幸福についてのレッスン」と書かれています。哲学者である著者がペットのオオカミとアメリカ、アイルランド、そしてフランスでともに暮らし、そして考えた記録です。
 「『ギヴァー』と関連のある本」とはしませんでしたが、2回に分けて掲載する次回は大いに関連する気がします。


9 「人間とは、自分自身について自分が語る所説を信じる動物である。人間というのは、根拠なしに軽々しく信じやすい動物なのだ」

44~5 フレードリヒ・ニーチェがかつて述べたように、自分自身を規律正しく制御できない者は、この使命を自分のために果たしてくれる者をすぐに見つける、というのは厳しい真実なのだ。ブレニン(ペットにしたオオカミの名前。ちなみに、ブレニンの身長は、90数センチ、体重は60数キロ。足だけで立てば、普通の人間よりも大きい)の場合、この使命を課せられたのはわたしだった。規律と自由の関係は深くて重要だ。規律は自由の対極にあるのではなくて、もっとも貴重な形の自由を可能にしてくれる。規律なしには自由はなく、あるのは放縦さだけだ。

46 この言語はブレニンの生活に、もしこの言語がなかったら存在しなかったはずの、ある構造をもたらした。その構造のおかげで彼の生活には、この構造なしでは存在しなかったはずの、多彩な可能性が開けた。ブレニンはある言語を学んだ。この言語は人間の世界、機械的というよりも魔法のような世界に暮らすブレニンに、自由をもたらしたのである。 ~ いったいどういう言語??

47 (人間と他の動物の違いを強調したいのは、)人間の傲慢さの表れ

56 記憶にはいろいろな形がある。記憶というものを考えるとき、もっとも明らかなものに気をとられて、もっとも大切なものを見落としてしまう。(だから、羽ばたく飛行機をつくってしまった。)鳥は羽ばたきによって飛ぶわけではない。羽ばたきは前方への推進力となるだけだ。

 思い出の理解も似たところがある。思い出が意識的な経験の集まりで、これによって過去の出来事やエピソードを呼び戻すことができると思っている。心理学者はこれをエピソード記憶と呼ぶ。

 エピソード記憶は鳥の羽ばたきと同じで、いつも最初にわたしたちを裏切る。

 けれども、もっと深くて、もっと重要な形の記憶もある。誰もそれに名前すらつけるに値するとは考えなかった形の記憶だ。あなたの上に書き残された過去の記憶、あなたの性格やその生活がもたらした人生の中に刻み込まれた過去の記憶だ。人は少なくともふつうは、このような記憶を意識しない。気づかないことすら多い。しかし、これらの記憶は他の何よりもわたしたちを、わたしたちたらしめている。これらの記憶は、わたしたちが下す決定、わたしたちがなす行為、行為を通して営む生活の中に姿を現す。

57 消え去った者たちへの記憶は、わたしたちの生活の中に見られるのであって、根本的にはわたしたちの意識的な経験に見られるわけではない。わたしたちの意識は気まぐれで、思い出すという作業をするだけの価値はない。誰かを思い出すもっとも重要な方法は、その誰かによってつくられた(少なくとも部分的に)人物に自分がなり、その誰かの助けで形づくれた人生を歩むことだ。ただし、記憶に値しない者もいる。その場合には、生存に関わるもっとも重要な課題は、そのようなものを自分の生活史から消し去ることだ。けれども、誰かが記憶に値するなら、その人が作り上げてくれた人物となり、その人の助けを借りて作り出した生活を営むことは、その人を思い出すためだけではなく、その人に敬意を表すためでもある。

 わたしはいつも、私の兄弟オオカミ(ブレニンのこと)を思い出すだろう。

74~5 サルは、陰謀と詐欺のために脳を肥大化した → 芸術・文化・科学を生み出した

86   年中セックスするサル。(陰謀と詐欺と裏腹の関係にある)暴力

139~147 社会契約
 契約という考え方全体が意味をもつのは、契約を結ぶ両者が少なくともほぼ同じ程度の力をもっていると推定される場合だけなのである。

 人は自分よりもはるかに弱い人に対しては、道徳的な義務を負わないのだ。

 道徳の目的は、より多くの権力を集めることにある。これが、社会契約の理論が示す第一の点である。

 二つ目の隠された過程に突き当たる。契約は、予想される利益を見込んだ上での犠牲にもとづいている。 大事なのは、ほかの人が、あなたがその人のことに気をつけてくれるものと信じることである。あなたの犠牲が真実であるかどうかは重要ではないのだ。契約では、イメージ、見た目がすべてである。 → 詐欺師

152 なぜわたしたちは、イヌが好きなのだろうか。私たちがサルになる前に存在していた部分 ~ オオカミだったころの魂だ。このオオカミの魂は、幸せが計算の中には見出せないことを知っている。本当に意味のある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。そこでは、忠誠心が最初にある。このことは、たとえ天空が落ちても、尊重しなければならない。計算や契約は常にその後に来るのだ。わたしたちの魂のサル的な部分が、オオカミ的な部分の後に来るように。

168 一番幸せなのは、セックスをするとき。一番不幸せなのは、上司と話すとき。

170 永遠に続く、むなしい感情の追求だ。これは人間だけに見られる特徴だ。人間だけが、感情がこうも大切だと思っているのだ。

171 このように感情に執拗に集中する結果、人間はノイローゼになる傾向がある。これは、意識の集中が幸福感の創出からその検討へとシフトするときに起こる。

  人類は感情を崇拝する動物なのだ。

2011年5月28日土曜日

学校って? 

 たくさんの人たちの働きかけで、文部科学省が学校の運動場や幼稚園の砂場や園庭等の年間被曝線量を20ミリシーベルトから1ミリシーベルトに下げました。
 これは、もともと1ミリシーベルトだったものを、何を根拠にしているのかさっぱりわからないのですが、福島原発の事故の後、急に20ミリシーベルトに上げていたものでした。

 まさに、「基礎・基本」が大切だと言っていた文部科学省が、ある時は3割を削り(それは、単純には教科書のページ数に表れます)、そしてあまり根拠があるとは言えない、そしてそれを上げるための方法も定かでない中で、「学力低下」の大合唱に抗しきれずに、また増やすのに似ています。

 以下も、3月11日以前に書きためておいたものです。


 学校とはどんなところか、私たちみんなの中にそれなりのイメージがあります。
 『ギヴァー』の著者のロイス・ローリーさんも含めて。
 そして彼女のイメージは、前回紹介したように、それなりにこの本の中に書いてあったと思います。

 皆さんは、どんなところだと考えていますか?
 あるいは、あってほしいですか?

 それがどんなものであれ、確実に言えることは、いまの学校は大人たちがこうあるべきだというものを、子どもたちに押し付けているということです。「大人たち自身が体験した学校」をそのまま押し付けている、と言ったほうがいいかもしれません。体験していないものを提供するのは難しいですから。

 でも、長年やられ続けてきたそのアプローチのままでいいのでしょうか?

 それは、何をどう教えるのか(専門用語では、カリキュラムとかシラバスと言います)や、意図していなくても学校の中にいるだけで身につけてしまうもの(教科書や時間割の形で「見えるカリキュラム」に対して、後者は「隠れたカリキュラム」と言われます。ちなみに多くの子どもたちにとっては本来身につけないといけない教科の内容であるカリキュラムよりも、こちらの隠れたカリキュラムの方がきっちり学ばれてしまいます。前者が押し付けがましく、かつ暗記力が勝負を決めるような形でやられ続けていますから、その多くを忘れてしまうのに対して、後者は洗脳される形で刷り込まれるからです。具体的な例としては、たとえばコミュニケーションの取り方や人間関係の築き方があげられます)などすべてをひっくるめてです。

 中・高・大学生はもちろんのこと、小学生ですら、もっと学校や大学の中で起こることに参加し、意思決定に関われる仕組みにした方が、誰にとってもいい結果を生むと思うのですが...(これまでのアプローチが効果的であることは、まったくもって証明されているとは言えませんから) はじめから学校や大学レベルで取り組むことは難しいというのであれば、教室レベルというか授業レベルで練習することはいくらでも可能です。個々の先生の判断で十分に可能なことですから。(今日書き足した部分 ~ 学校レベルでさえ、今回の年間被曝線量の値と同じように保護者や関心をもっている人たちの働きかけで十分に可能だと思います。学校側、教育委員会側、文部科学省側にそれほど確固としたものなど何もないのですから。)

 ギヴァーとジョナスのように気がついてしまった人が行動を起こさない限り、これまでの状態が続くことは約束されているわけで、何も変わりません。

2011年5月27日金曜日

ジョナスのコミュニティの長老たちと私たちの社会の長老たち

 後者は、もちろん政治家たちのことを指しています。

 意思決定者という意味ではどちらも同じですが、ジョナスのコミュニティの長老たちはどうやって選出されているのでしょうか? (わたしの記憶では、どこにも書かれていませんでした。)それに対して、私たちの社会の長老たちは選挙で選ばれています。

 ジョナスのコミュニティの長老たちは、えたいの知れない飛行機が上空を飛んだだけで、まごついてしまいました。今回の被災や原発事故への対処、そしてその後の国民を無視した与党と野党や与党内のやり取りを見るにつけ、その右往左往ぶりはジョナスのコミュニティの長老たち以下としか言いようがありません。(国レベルよりは、自治体レベルの長老たちの中にがんばっている人が何人もいるように思えます★が、それも今回は国レベルの意思決定が一向に前に進まないことで、足踏み状態にされています。政治家だけでなく、日本においては、意思決定の一端を担っている役所=役人についてもかなりの程度同じことが言えてしまえそうです。)


 こうした状況というか問題はいったい何に原因があるのでしょうか?


★ 多分にスケールの違いが、そうさせている部分は否定できないと思います。ジョナスのコミュニティはわずか3500人しかいません。

2011年5月26日木曜日

自己評価能力

 前回に引き続き、3月11日以前に書いておいたものです。


 評価のことをずっと考え続けてきて、やはり大切なのは、自己評価能力としかいいようがありません。

 その中には、自分で振り返れる能力や自己修正・改善能力、さらには主体的に行動することも含まれます。

 残念ながら、今日本で行われている教育の中には、この考え方は含まれていません。評価は教師(や上司)がするもんで、自分がするものとは思っていません。ましてや、アクションを起こすことなどは。知識をひたすら溜め込むことが目標ですから。(テストが終わってしばらくしたら、そのかなりの部分も消えてなくなってしまうことを多くの人が体験を通じて知っていることでもあります。)

 評価の仕方は、前回も触れたように、教え方と密接に関係しています。

 コインの裏表の関係にある、といった方がいいぐらいです。


 ジョナスのコミュニティでも、私たちの社会でも、振り返ることや、自己評価・修正・改善できる人、自ら考え、判断し、そして行動する人を育てることの大切さは認識されていません。ジョナスに起こったことは、「特別変異」と思えるぐらいです。それを可能にしたのは、いったい何だったのでしょうか?

2011年5月25日水曜日

福祉、環境、そして教育

  再開します。

 3月11日に放送される予定だったものが、たまたま今晩、放送されたのがきっかけです。
 
 以下は、確か3月9日と10日のを踏まえて、11日にこのブログに載せようと思っていたものですが、あの地震、津波、そして原発事故が起こってしまいました。


 NHKのラジオ番組「私も一言、夕方ニュース」で、「介護教育になにを求めるか」と「神奈川県丹沢山地の自然保護」が2晩続けてありました。それを聞いていて思ったことは、福祉や環境で直面していることは、教育でも同じだ、ということでした。

 どういうことかというと、「介護される側の視点があまりにもなさすぎた」というのです。教育も、教えられる側というか学ぶ側の視点が決定的に欠落しています。横行しているのは、教える側(さらに言えば、管理する側)の視点や論理ばかりです。

 自然保護では「日本にはレインジャーのような自然保護のプロがいません」だったのですが、日本には教員研修のプロも存在しないのです。それは、「教員になってからも磨き続けるべき力は? その磨き方は?」の質問に対する回答を知っている人のことです。講義形式をワークショップ形式に変えたからと、満足していては研修のプロとは到底言えません。そういうことも含めて「幸せで、イキイキしていて、成長し(学び)続けている教師」を増やすことのできる人のことです。研修のプロには、今の教育行政が前提にしている2~5年の人事異動では到底なれるものではありません。

 福祉、環境と来たので、教育の内容を期待していたのですが、マスコミも触れられないテーマのようです。


 ちなみに、3月11日の分は、農業でした。
 今となっては、これに地震・防災、原子力も、そして政治はいつの時代も加えられます。