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2010年6月30日水曜日

なぜ児童書は読まないの?

 「あなたは、児童書は読まないそうですが、どうしてですか?」

 「私がおもしろいと思える物語は、自分が主人公とつながりを感じれるものです。それは、私が抱えているような問題や抱えるであろう問題に遭遇している人たちで、私の年齢に近いことが多いです。もちろん、私自身子どもでしたし、子ども時代のたくさんのいい思いでも持っていますから、児童書も楽しめます。しかし、読む時間には限りがあるので、大人向けの本を読んでいるわけです」とローリーさんは答えています。

  (出典: A Reading Guide to The Giver, by Jeannette Sanderson, Scholastic, p. 15)


 私自身は、絵本をはじめ、児童文学のほうをたくさん読んでいます。

 一番読むのは大人向けのノンフィクションで、次が絵本、そして児童文学の順です。大人向けのフィクションは、ほとんど読みません。

 以上の選択は、趣味と実益の両方からの判断です。「趣味」は「おもしろいと思える」ことが欠かせませんし、「実益」は仕事に関係します。その両方に当てはまらず、さらには、自分の頭のレベル(=理解レベル)を超えている大人向けのフィクションは、おもしろいと思えませんし、時間の無駄だと捉えてしまっているので、手にとれません。★


★ ちなみに、私がノンフィクションに入れ込むのは、立花隆さんと同じ理由(=フィクションを読んでいる時間がもったいない!)なのですが、その背景にあるものはまったく違います。立花さんは、小さいときから名だたるフィクションを総なめにした上での発言なわけですが、私はほとんど読んでいないのに、そうしています。

2010年6月29日火曜日

書くことと読むことの関係

 ロイス・ローリーさんへのインタビューの続きを紹介します。

 「あなたが書くことにとって、読むことはどれほど大切なのですか?」

 それに対して、「読むことは極めて重要です。いい物を食べた経験がないなら、料理をつくる楽しみは味わえません。読まなかったり、読むことを楽しめないなら、書くことができるでしょうか? 作家にとって、読むことは継続的な学びでもあります。悪い作家から学ぶことはありますし、優れた作家からは大きな刺激を受けます」と答えています。

  (出典: A Reading Guide to The Giver, by Jeannette Sanderson, Scholastic, p. 14)


 本を読まない、あるいは本を読むことが嫌いな作家はいるでしょうか?

 読むことと書くことは、切り離せないと思います。
 作家にとってだけでなく、本来は、私たち一般人にとってもです。

 しかし実態は、みごとなぐらいに切り離されています。どうして、そうなってしまったのでしょうか? どうもかなりの部分は、学校での国語教育に由来している気がします。少なくとも、私自身の経験はそうでした。

 それを統合しようというのが、『ライティング・ワークショップ』『作家の時間』『リーディング・ワークショップ』(すべて、新評論)の方法です。

 書くことや読むことを、単に勉強のため(あるいは、テストのため)ではなく、よりよく生きるために使い始めると、まったく違った個人や社会の可能性が拓けます。


 いま、『「考える力」はこうしてつける』と『リーディング・ワークショップ』の2つの本の続編的な位置づけの『「読む力」はこうしてつける』の下書きを書いているのですが、以下はそのまえがきの一部です。
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10年ほど前に、「優れた読み手が使っている方法」を紹介してくれている(Strategies That Workというタイトルの)本に出会いました。

 その方法を紹介する前に、「読む」とはどういうことか、についても簡潔にまとめてくれていました。

・ 考えること、意味を作り出すこと
・ 読んでいる時は、思考が脳の中をかけめぐっている
・ 見方/視点を作り出している
・ 場合によっては、生き方まで変わるときも...
・ 読み手は、部分的には書き手でもある

 「まったく、その通りだよな~」とうなってしまったのを、今でもよく覚えています。少なくとも、私自身が体験した国語教育には、まったく欠落していた点ばかりでしたし、日々(とはいっても、20年ぐらい前から)、本を読むことを通して自分自身が実感していることでもあったからです。

 紹介してくれていた「優れた読み手が使っている方法」は、次の7つです。

・ 自分や、他の読み物や、世界とのつながりを見出す
・ イメージを描き出す
・ 質問をする
・ 著書が書いていないことを考える(つまり「行間」を読む)
・ 何が重要かを見極め、他の人に説明できる
・ さまざまな情報を整理・統合して、自分なりの解釈や活かし方を考える
・ 自分の理解をチェックし、修正する

 皆さんも、これらの方法を意識せずに使っていると思います。

 このリストを最初に見たときの私の印象は、「なぜ、小・中学校時代に紹介してくれなかったの?」というものでした。紹介してくれていたら、自分で苦労せずに、もっと楽しく読むことができたと思ったからです。と同時に、これまでに読んだたくさんの読書術に関する本では得られなかった興奮を覚えました。

 しかし、その後もいろいろ考えていると、これらは「読むとき」だけでなく、「聞くとき」に間違いなく使っていますし、「話すとき」や「書くとき」にも使っていると思います。「考えるとき」は必ずです。
 そして、「世界を読むとき」「世の中を見るとき」にも使っています。

2010年6月28日月曜日

もっとも獲得してほしいこと

 「この本を読む読者が、一つのことしか獲得できないとしたら、それは何であってほしいですか?」という質問に対して、ローリーさんは「選択の大切さ、いい選択をすることの大切です」と答えています。

  (出典: A Reading Guide to The Giver, by Jeannette Sanderson, Scholastic, p. 13)


 私なら、まず「何でもいいです」と答えます。多様であっていいと思いますし、それが大切でもあると信じていますから。

 でも、何回も聞かれた時は、ローリーさんの答え(=選択)を踏まえたうえでの「アクション」と答えると思います。

2010年6月27日日曜日

コミュニティの魅力は?

「あなたがジョナスの住むコミュニティに最も魅力を感じることは何ですか?」

ローリーさん自身にとっては、安心・安全だそうです。より具体的には、犯罪、貧困、欠乏、偏見などがないことです。(でも、職業面での偏見は歴然とあるような気がしましたが...)

逆に、最も残念な側面は創造性や想像性が出せないこと、と言っています。

  (出典: A Reading Guide to The Giver, by Jeannette Sanderson, Scholastic, p. 12)


 私にとっては、①自由・選択のないこと、②巧妙に管理されることに慣れきっていること、③コミュニケーションも表面的なレベルでしか存在しないことなどです。

 魅力的な部分は、確かに「安心・安全」とローリーさんと同じようにしか言えませんが、それを得るために、①~③や、他のもろもろの「同一化」の過程で失ったもの(自然、動物、気象、色、本など)のことを考えると、それらを失ってまで得られる「安心・安全」(表面的な平和?)は割に合わないというか、「怖い」とさえ思ってしまいます。

2010年6月26日土曜日

『ギヴァー』を書き始める前、考える材料はどこから来たのか?

 前日「ローリーさんは、書き始める前に長い間考える」と書きました。それも、「主人公を中心に登場人物たちが躍動するようにイメージでき」るぐらいまで。

 でも、『ギヴァー』の場合、その考える材料になっている体験はどこから来ていたのでしょうか?

 最初の体験は、彼女が戦後すぐの日本に家族と来たときでした。

 いまの代々木の旧オリンピックの選手村があったあたりはワシントンハイツと呼ばれ、米軍疎開になっていたようです。いまの厚木界隈や沖縄など米軍基地が点在しているところをイメージすればわかると思います。いわゆる広い芝生に大きな家が点在しているアメリカ式の住環境が整っているところです。その周りはフェンスで囲まれ、当時の渋谷界隈は戦後すぐですから雑念としていたと思います。

 当時まだ9歳だったローリーさんは、その囲いの中から出て、彼女にとってはまったくの<よそ>の世界である渋谷に来ることが好きだったようです。囲いの中は言葉も通じるし、安全です。囲いの外は、言葉も通じないし、危ないかもしれない場所でした。

 次の体験は、アメリカの大学で寮生活をした時のことだったそうです。

 14人の女子学生が一緒に暮らしていたらしいのですが、13人は同じような格好をし、同じように話をしていました。しかし、一人だけまったく違っていたのです。13人がしたことは、その一人があたかもそこに存在していないかのように無視し続けたそうです。異質なものは排除し、なじめる仲間だけで安全に、波風を立てない過ごし方を選択したわけです。この体験も、考える材料の核の一つになっているようです。

 講談社版の表紙の男との出会いも、ローリーさんにとっては大きな体験だったようです。色の感覚が違うことの発見でした。プロには、見える色が普通の人とは微妙に違っていることの。その人がのちに目が見えなくなってしまったことが、彼女に表紙に使わせてしまう判断までさせたぐらいですから。

 他にも書ききれないぐらいたくさんの体験が考える材料になっているわけですが、彼女が本を執筆するころ、自分の両親の死が間近に迫っていたことも、「記憶」ということにこだわる材料を提供したようです。お母さんの方は、最後まで記憶が鮮明だったのに対して、お父さんの方は若くして亡くなった長女(ローリーさんにとってはお姉さん)のことも定かでないようなおぼつかない記憶しか持ち合わせていなかったからです。

 このようなさまざまな個人的な体験を構成しなおして、深みと広がりのある一つのストーリーを作り出していく作家の仕事は、すごいものだとつくづく思いました。

  (出典: A Reading Guide to The Giver, by Jeannete Sanderson, Scholastic, p. 9-11)

2010年6月25日金曜日

小説をどう書くのか

 『ギヴァー』の著者ロイス・ローリーさんの小説の書き方は、書き始める前に長い間考えるそうです。主人公を中心に登場人物たちが躍動するようにイメージできた時、そして書き出しが書けると思ったときが、実際に原稿を埋め始める時です(実際は、マックの愛用者のようですが)。

 その段階で、主人公に起きていることはすべて頭に描けるので、どこからでも始められるそうです。

 「いいストーリーは途中から始まる」とローリーさんは固く信じているようなので、例えば『ギヴァー』の場合は、ジョナスが11歳の時から、それも12歳になる直前からはじめたわけです。

 そして、本はちょうど13歳になるころで終わっています。その意味では1年間の物語なわけです。

  (参考: A Reading Guide to The Giver, by Jeannete Sanderson, Scholastic, p. 14)

2010年6月24日木曜日

『ザ・ギバー』の感想 ⑤

『ザ・ギバー』の感想(=マーケティング調査の段階のもの)の最後は、小学校の先生のTさんのです。



「当たり前」を疑うことの大切さ



人類が居心地のよさをだけを追い求めて行き着いた先。

そこは、人間が人間らしく生きていくために必要な感情を否定する画一化された社会だった。
記憶を受け継ぐ者として、コミュニティーが抱える大きな問題に気付いたとき、ジョーナスがとった行動とは・・・

苦痛や不快を取り除くことだけを目指した社会。


実は私たち自身も情報を遮断され、自由を制限された閉ざされたコミュニティーの一員なのかもしれない。

人類が選んだのは画一化。それと引き換えに多くの価値あるものを失った。

「愛」のような抽象的な概念はことごとく排除された社会。言葉でいい表せないものを否定する。

実態のないものは一切認められることはない。


「知らない」ことは恐ろしいこと。


世界を変えるために、一人の人間ができることとは何だろう?


ここに描かれている社会には、我々が住む社会にはあって当然というモノや概念が欠如している。

一部の者(権力者)だけが都合よく管理する社会。管理される者はそこに何の矛盾も感じていない。

生きている喜びもなければ、生きることのつらさもない。

「生きがい」を感じることがない。

話し言葉も規制されている。

情報がない社会の不自由さ。

学ぶことを制限された社会。


物事を批判的に見る目を持たない限り、その社会の矛盾を見つけることはできない。

そして大切なのは、その矛盾に気付いたときに、どんな行動を起こせるか。

自分がジョーナスだったら、どんなことを考え、何をするだろう・・・

2010年6月23日水曜日

『ザ・ギバー』の感想 ④

以下は、長年勤められた会社を定年退職されて、悠々自適な生活を送っているMさんの感想というか、想像できない点と疑問点です。


非常に感想を書くのが難しいと思います。何故なら、あまりにも現実離れしているからだと思います。

◇想像できない点

 特に自然大好き人間にとって、自然現象のない世界、色のない世界は想像できません。一昨日(8月5日)九重の花牟礼山にキツネノカミソリとヒゴダイというこの山でしか見られない花を見にいってきました。鮮やかな黄色と紫色を、もし、牛と同じでモノクロでした見えなかったら感動も感激もないのではないかと寂しく思いました。しかし、反面はじめから色がわからないのなら、どうなんだろうとも考えさせられますが、現実には考えられません。


◇疑問点

 ・コミュニテイの範囲はどの程度なのたろうか。また、どのようにして決めたのであろうか
 ・なぜ徹底的に、このような管理社会にする必要があったのか
 ・小さな単位でも過去にこれに似た例はあったのだろうか
 ・未来に起こりうる可能性はあるのだろうか(人類存続のため ? )
 ・記憶を伝える必要性は、知恵だけであろうか
 ・指導者の選択基準はどうなっているのだろうか

 この答は自分で、今までの体験を通じて、自分なりの答えをだす必要がありそうです。

 また、別の視点で見れるようになったらメールいれます。

2010年6月22日火曜日

『ザ・ギバー』の感想 ③

今日は、中学校の英語の先生のKさんの感想です。ちなみにこれは、雑誌『新英研』の書評にも載ります。


『ザ・ギバー』は、とても示唆に富んだ本でした。面白かったです。

あのコミュニティに住んでいたら、私はボーっとした子どもだったので早めにリリースされていたかもしれませんね。(ハハッ)

全体的には、未来への警告 という印象を持ちましたが、一番、感じたのは、「人間の幸福とは」、「記憶を語りつぐこととは」 ということです。たとえ深い苦悩や悲しみがあっても、喜怒哀楽あっての人生です。感情をもたず思考せずでは、ロボットでも代役可能だと感じます。

認めたくはありませんが最近の日本と重なる部分があることが気になりました。格差社会、少子高齢化、「生む機械発言」「赤ちゃんポスト」「高校生のボランティア必修体験」、「理想の家族~両親+子ども2人発言」、減らない自殺 ・・・・。これらの行きつく先を考えると、作品のコミュニティの様子と重なり、複雑な心境になりました。このコミュニティは異常で、恐ろしい社会です。当然、否定されるべき社会なのですが、誤解を恐れずに言うと、極端な考えですが、日本でこのままさらに格差社会や、欲、不満が広がれば、ぞっとするこんなコミュニティを肯定する人が出ててもおかしくありません。でも、実社会には、豊かな喜怒哀楽の感情や、愛、希望、知恵が沢山あり(あるはず)、ただ悲観したり、架空の社会と同一視するよりも、もっと人の力を信じた方が希望がもてます。

「あとがき」には、作者は子どもの頃に、戦後直後に日本で生活した体験があり作品を書くヒントになった とありました。少し穿った見方をすれば、日本社会を揶揄した部分や、ザ・ギバーになれる人は、目の色の薄い人 等に、アメリカ人としての作者の視点を感じます。「鏡」がでてくる箇所が、いくつかありましたが、あれは自己確認の比喩でしょうか。和訳を読みましたが、言葉を吟味して書いているはずですから、原書で読んだほうが、もっと面白いのではと思います。

あと、「雪」の記憶を思い出す場面がありました。確かイヌイットの人たちには、雪を表す言葉が何十もあると聞いたことがあります。現在、減っているなら、それは失われた記憶ですし、すでに人間が沢山の豊かな文化や自然を失ってしまった ことへの警告と受け止めました。

中学生以上対象に参加型ワークショップの教材にできそうな気がしますが、一番考えたほうがいいのは大人ではないでしょうか。

大雑把ですが、今考えたのは以上です。
何度も読むたびに、感想や、発見がありそうな作品ですね。

2010年6月21日月曜日

『ザ・ギバー』の感想 ②

中学校の理科の先生のIさんの感想です。


「ザ・ギバー」読みました。陰鬱といった感情が渦巻いています。


近未来のユートピアなのか。超共産主義的な社会なのか。オウム真理教的な世界なのか。

人間はただの機械なのか、感情を持った生き物なのか。

社会とは一体何なのか、家族とは、

今の学校がやっているのはこんな画一的な教育なのか。それとも個を生かす教育なのか。

いろんな事が頭の中を渦巻いています。作者は何を言いたかったのか、そして何故吉田さんはなぜこの本を私たちに勧めたのか、・・・。


日本語訳よりも安いといって原著を読んだ英語の先生がいます。私はアマゾンの古本屋で買いました。他の人にも勧めてみて、何人かでディスカッションしてみたいなと考えています。


また、なぜか映像で見たくなりました。色や音楽のない世界をどう表現するのか、とても興味があります。


リリース、始めから想像していた通りですが、背筋が寒くなりました。

昔の姥捨て山に通じるものがあるのか。

主人公が最後にとった行動は、・・・。よくわかりません。でもまるでマッチ売りの少女の最後のような感覚が残りました。

きっと死に顔には安らかな笑みがあるのではないか、・・・。でも本当にそれでいいのか。

自分自身混乱しています。

2010年6月19日土曜日

『ザ・ギバー』の感想 ①

 『ザ・ギバー』を読んで、復刊しようと思ったのは2007年の春でした。
 手始めにしたことは、自分だけで興奮していてもしかたがないので、知り合いの人たちに読んでもらって感想を聞いたことです。これは、「マーケティング・リサーチ」とも言います。
 復刊するのであれば、講談社がした過ちを犯し続けたくなかったので、読者対象を「ユース」以外にも広げることでしたから、読んでもらった人たちは20代~70代までの人たちでした。従って、読んでもらったのは、『ザ・ギバー』の方で、その時はまでできていない『ギヴァー』ではありません。

 今日から何回かにわけて、その人たちが書いてくれた文章を紹介していきます。

 まずは、小学校の教頭さんをしているSさんから。Sさんは、送ってくれた感想に、「快適で安全であれば、自由はいらないか」というタイトルもつけてくれていました。

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 すごい科学技術が出てくるわけでも、恐ろしい怪物が出てくるわけでもない。しかし、ぞっとする世界を、作者は創り出している。


 最初の衝撃は、ジョーナスが橇を疑似体験する場面における、老人とジョーナスの会話で味わった。

「斜面は?そのことばもなんのことだかわからないな?」「ぜんぜんわかりません」

斜面を知らない?斜面を学習していない社会。どういうことだろうか。「画一化」のために丘、斜面は捨てられたという。

 さらに追い討ちをかけるように、何とこの世界には「色」もないという。

 そして、明らかになる画一化できないものは抹殺するという「リリース」の実態。

 これらの理解しがたい事実が、ごく自然に日常生活に組み込まれた形で、物語は進行していく。このようにエンターテインメントとしても面白い。

 しかし、それだけで終わらない。「幸せとは何か」ということを、つい考えさせられる物語でもある。

 「すべて他者によって決定されるが、快適で安全な生活」と、「どうなるか分からない危険な面があるが、自由のある生活」どちらが本当に幸せか、という問題だ。

 これは、教育における今日的な問題だ。現代の日本では、「怪我をしないように」「困らないように」、家庭も、学校も、国も、大変気を遣っている。「転ばぬ先の杖」どころか、「転ばぬために歩かせない」といった感さえある。それが本当に幸せにつながるのか。この物語は、大きな問題提起をしているように思う。

 ジョーナスは、<いずこ>を目指して、コミュニティーを飛び出した。子ども達は、本来活動的で、未知なるものにチャレンジする生命力にあふれているものだ。そうでないのは、それを阻害する何かがあるからだ。

 その意味で、教師をはじめ、教育に関わる多くの人に読んでほしい物語である。

 もちろん、小学校高学年になれば、十分に楽しめると思う。

 聞くところによると、続編もあるという。ぜひ、続きを読みたいものだ。

2010年6月18日金曜日

読者アンケート

 『ギヴァー』を読んでくれた読者から、新評論に戻されたアンケートを紹介します。
 最初のは、すでにPR誌で紹介済みなので、名前が入っていますが、後のお二人はまだなので、名前が抜けています。

● 中学生の頃に学校の図書館で、この本に出会いました。その時の表紙が「怖い老人」の写真だったので、ギョッとしたのですが、パラパラと読んでみると、すご~く心に響く内容で、そのまま借りて…。大学生になって、久しぶりに故郷の本屋に行くと、この本がキレイになって売り場にあり、即購入しました。 (城陽市 大学生 磯野史子 21歳)

● 前半で描かれる、管理・操作され、白痴化された人びとの暮らす近未来に救済感は無い。ジョナスが目覚めていく物語は素晴らしい。三部作の結末を読んでみたい。(和歌山県日高郡 男性 74歳)

● 読み進む間じゅう、ワクワクして止められませんでした。最後があっけなかったので、少し残念でしたが、SFとしては良い作品です。(伊勢市 男性 会社役員 53歳)

2010年6月17日木曜日

ローリーさんの趣味

 作者であるローリーさんは、どういう人か?

 彼女のブログを覗くのが、一番いい方法かもしれません。
 しかし、英語で困るという方のために、彼女の趣味を紹介します。(彼女のバックグランドについては、『ギヴァー』の252~3ページをご覧ください。)


 何よりも好きなのは、書くこと。しかも、子どものときから。

 読むことも大好き。「新鮮なあんずを食べながら、本を読むことは、自分にとっての天国」だそうです。

 他には、庭いじりをすること、料理をつくること、子どもや孫たちのために編み物をすること、写真を撮ることです。

2010年6月16日水曜日

書物 その2

 作者のローリーさんにとっては、記憶=書物のようです。

 ローリーさんはインタビューの中で、「子どもたちは、本を開くたびに<よそ>の世界への扉を開けることになります。子どもたちに選択と自由を与えます」と言っています(A Reading Guide to The Giver, by Jeannette Sanderson, 2003, Scholarstic)。

 そして、その選択と自由を提供する書き手であるローリーさんは、読み手の人生や考え方に影響を与えているので、自分の責任は決して小さいものではない、と認識しています。


 そこで思い出したのは、司馬遼太郎さんが晩年の数年に書いていたことです。

 その中の一つに、「21世紀に生きる君たちへ」という教科書に掲載された文章がありました。★ローリーさんの思いととても近いものがあるような気がしますので、ぜひ読んでみてください。


★ 「21世紀に生きる君たちへ」は、大阪書籍の『小学国語』6年下(平成元年用)として掲載されました。ちなみに、5年下には、「洪庵のたいまつ」が載っていました。どちらもいい内容の文章です。これらは、いまは『十六の話』の中で読めます。

 その中に、「なによりも国語」というのも入っています。日本人が国語を学習している歴史は極めて浅いこと、そして“国語はいかに人間(特に日本人)にとって大事か”を、司馬さんが現場の先生たちに、祈るような気持ちで書いた文章です。

2010年6月15日火曜日

スピーカー

 今回は、スピーカーという存在と、それをオフにできるという立場というか権限について。

 数年前、児童殺傷事件が各地で起こった時に、自治体の中には子どもたちの登校日にスピーカーで「間もなく、子どもたちの下校時間となります。地域の皆さまの見守りで、子どもを災害から守りましょう」と役所がスピーカーで流しはじめたところがありました。私が住んでいる東京都の府中市は、いまだに1時半にスピーカーから流れるそのアナウンスが続いています。(1時半に下校する子どもは、本当にいるのでしょうか? もしいるとしたら、その数は全児童の何割でしょうか? アナウンスによって動き出す保護者や地域住民はいったいどのくらいいるのでしょうか? もし、アナウンスが潜在的な犯罪者を対象にしたものであるなら、この時間に決まって流すことによる抑制効果というのはどのくらいあるのでしょうか? などなどについて考えたことはあるのでしょうか?)

 役所としては、「うちもちゃんと対処しています!」というジェスチャーを示す一貫としてやり始めたのでしょうが(他にも、各校に守衛を夕方配置していますから、相当の予算を当て続けています)、それが何のチェックもなく習慣化して続いています。「悪習化して」と言い切れると思います。まさに、「官製騒音公害」です。

 ジョナスのコミュニティでは、似たようなことが起こっているんだな~、ととてもわかりやすかったです。

 そして、「ジョナスはいつもそのアナウンスを無視していた...彼を含めてほとんどの市民は、<告知者>が告げる指令や注意事項の多くを無視していた」『53ページ』というところまで、そっくりだと思いました。(残念ながら、府中市のスピーカーは無視できるほど低音では流してくれません。だから「騒音公害」としか言いようがないわけです。こういうことをいい加減にやり続けることが、住民の中に役所への評価を下げる要因になっているとも知らずに。)

 ジョナスのコミュニティでは、各家にスピーカーがついているらしいのですが、それをオフにすることは許されません。しかし、それをオフにする権限をギヴァーが有していることをジョナスは見てしまったのです(110ページ)。各家にあるスピーカーには、オフにできるスイッチ自体がないのですから、オフにしたくても、できないわけです。

2010年6月14日月曜日

感情がないのに、感情共有をする人々

 ギヴァーは、感情があるのは、君と私だけだよ、とジョナスに言いました。

 ジョナスが愛するフィオナも父親も、解放を自分の手で下すことをなんとも思っていないことを知ってしまい、いてもたってもいられなくなってしまいました。

 183ページから、感情共有で語らわれるものは、短気さやいらだちなど底の浅いレベルのもので、深いレベルのものが語り合われることはないことがわかります。

 また、「愛」という感情を知ったジョナスが、父母に「ぼくを愛してる?」と尋ねました。その反応は、「きみらしくもない。言葉は正確に使いなさい」「あなたがすごく抽象的な言葉を使ったといっているのよ。今では意味がなくなって、ほとんど使われない言葉ですもの」「言葉を性格に使わないとコミュニティがうまく機能しなくなってしまうわ。あなたはこう聞けたでしょう。『ぼくといて楽しい?』と。答えは『楽しい』よ」(176~8ページ)

 しかし、ジョナスにとっては「意味がない? あの記憶ほど意味にあふれたものはそれまでなかったのに」という体験だったのです。

 ジョナスにとって、記憶を注がれれば注がれるほど、感情が研ぎ澄まされていき、ギヴァー以外のコミュニティの人たちとの接点を見出すことができなくなっていきます。

 ローリーさんは、この状態を『ギヴァー』の中で極端に描いてわかりやすくしてくれたんだと思います。私たちの社会の中では、それがとてもゆっくりしたスピードで、しかし確実に進行している気がします。そのことに警笛を鳴らすために。

2010年6月13日日曜日

書物

 ジョナスのコミュニティで、書物を読めるのは、記憶を受け継ぐものだけで、ギヴァーの部屋にしかおかれていません。一般家庭には、本はまったく存在しないわけです。

 でも、ジョナスたちは学校に通って勉強はしています。
 何を使って勉強しているのでしょうか?
 教師が作っているプリントの類い?
 あるいは、教科書を使っているのかもしれませんが、それらを書物とは位置づけていないのでしょう。短期的な(暗記を前提にした)勉強以外のために、教科書を読む人は皆無に等しいですから。

 ちなみに、アメリカやオーストラリアなどでは、教科書は教室についているもので、個人のものではありません。
 オーストラリアで小学校の5~6年をした娘に聞いてみましたが、「教科書があった記憶はない」と明言していました。私も、もう25年ぐらい前にオーストラリアの指導主事に「教科書を使う先生はダメな先生」と聞いたことがあります。「できる先生は、目の前の子どもたちといっしょにカリキュラム(=何を、どのように学習するか)を決めながら進める」というのです。要するに、教科書はカリキュラムを自分で作れない先生のためにあるのです。日本での位置づけの違いの大きさに驚いたものでした。

 それにしても、ジョナスのコミュニティの人たちは余暇の時間にいったい何をしているのでしょうか? テレビを見ているようには思えませんし、楽しい語らいの場があるようにも思えませんし、インターネットで交信しているようにも思えません。

 少なくとも、本なしの生活はいまの私には考えられませんし、社会として成り立っていくのかも疑問です。

2010年6月12日土曜日

動物

 ジョナスのコミュニティには、人間以外の動物は存在しないようです。

 ジョナスは、違法な象狩りをしている人たちの記憶をギヴァーから受け継いだことも(140ページ)、「歓喜に満ちたある記憶の中では、輝く毛並みをした栗毛の馬にまたがり、湿った草の匂いのする草原を疾駆した。小川のほとりで馬の背から降り、馬といっしょに冷たく澄んだ水でのどをうるおした。今では動物のことがよくわかった。その記憶の中で馬は小川から首を上げると、ジョナスの肩を親しげに頭でこづいた。ジョナスは動物と人間の絆というものを理解した」(170ページ)ともあります。

 この感覚を共有できるのは、ギヴァーとジョナスの二人だけです。

 他の住人たちは、それが本当に生きていた動物たちであることを理解することなく、安眠アイテムとしての関わりしかもっていません(29や33ページ)。

 この事実が象徴していることはいったい何でしょうか?

 かけがえのないものを「もっと大切にして!」という著者のメッセージというか、悲鳴のような気がします。

 <よそ>に近づいた時、ジョナスは鳥を見、そして自分のコミュニティには存在しないたくさんの植物や魚なども見ます。

2010年6月11日金曜日

 赤、明るい瞳、鏡、ニュー・チャイルドのゲイブリエル、飛行機、雪、そり、川と『ギヴァー』の中で何らかの形で象徴的なものについて扱ってきましたが、もう思い当たりません。
★他に何か気づかれた方は、ぜひ教えてください。

 逆に存在しないことで象徴しているものとしては、音楽、動物、日の光・雨・風・雪(要するに、天気の変化)、火、丘や山、感情(愛)、書物などがあります。

 今回は「火」について。

 何ページに書いてあったのか、見つからないのですが、確か「火は危ないから使わなくなった」というふうにありました。従って、家で食事を作ることもありませんし、暖炉も、ろうそくも存在しません。料理の匂いがたちこめることもないと思います(171ページ)。ジョナスのコミュニティでは、食事は給食センターのようなところで作られて、各家に配布されるのですが、いったいどのように作られているのでしょうね?

 4月22日にも紹介した角野栄子さんの『魔女のひきだし』という魔女に関するエッセイ集を数日前に読みました。

 その中に「魔女と火」という章があって、以下のように書かれていました(59ページ)。

 「昔といってもほんのちょっと前、いつも身近に火、それも炎があった。枯れ枝や落ち葉を燃やす焚火、子どもの役目だったお風呂たき、ストーブの炎。私は生きもののように踊る炎を見るのが好きだった。目が真ん中によってしまうほどじっとじっと見つめていると、次第に心が一点に集中して不思議と思えるような空間にさまよい出ていく。すると色々なものが見えてくるのだった」

 私たちの社会も、火を確実に排除してきています。

2010年6月10日木曜日

 川は何回となく登場します。

 5ページや7ページでは、川沿いに滑走路や道があることもわかります。
 ガールフレンドのフィオナとサイクリングをするところでもあります。(187~8ページ)

 従って、日常的な風景の一部なわけです。

 でも、ケイレブという子が川に落ちて死んでしまったことが書いてあります(62ページ)。

 川には橋が架かっていて、許可をもらえば渡ることもできるようです(149ページ)。

 そして、ある程度の記憶をギヴァーから注がれたあとのジョナスは「この川が流れてくる<よそ>があることも、この川が流れていく<よそ>があることも、もうわかっていた」(182ページ)のです。

 最後には、自分たちが生き延びるために、ジョナスは小川で魚をとることもします(242ページ)。

 このように、ごく日常的なものであると同時に、生や死とつながっているものでもあり、さらには<よそ>、つまりは世界とつながっている存在でもあるのが川ということになります。当たり前といえば、至極当たり前のことではありますが、そのことを象徴的に使っていると思いました。

2010年6月9日水曜日

雪とソリ

 雪とソリは、切り離せないので一緒に扱います。

 それらは、ジョナスがギヴァーから最初に注がれた記憶でした。(109~ 115ページ)

 そして最終章に、あのクリスマスの家族団欒のシーンと一緒に再び登場します。

 最初に『ギヴァー』を読んだ時に、ちゃんと布石を置いておくんだと感心したものです。


 しかし、よく読みなおすと、雪とソリはその間に2回も登場しています。

 1回は、赤の色をソリに見るところ(127ページ)と、はじめて耐えられない痛さを体験するシーンです(152~4ページ)。

 これだけ何回も出てくるのですから、相当のこだわりを感じます。

 楽しさとこわさの両面を表している気がします。快感と恐ろしさ、あるいは希望と破滅と言ったほうがいいかもしれません。

 最終章の第23章は、実際に起こっていることなのか、すでにジョナスが幻覚を見ている状態に入っているのかわかりません。私は、前者をとりたいです。そんな中で、象徴的に出てくるのが雪であり、そしてソリなのです。ジョナスとゲイブリエルを<よそ>に導くために。ある意味で、記憶や夢が現実のものとなるのです。

 そういえば、ジョナスは自分のコミュニティにいる限りは、天気は制御されているので雪など降るはずもないのでした。

2010年6月8日火曜日

飛行機

 飛行機は、本のはじめの部分と終りの部分に2回登場しますが、いいイメージでは描かれていません。いずれも、不安と恐怖の対象として描かれています。

 調べてみたら、著者のローリーさんの息子さんが執筆時にはジェット戦闘機のパイロットで、ローリーさん自身とても心配していたようです。悲しいことに、1994年に『ギヴァー』で2度目のニューベリー賞をとった翌年に飛行中に亡くなりました。

 ちなみに、ローリーさんの父親、夫、そして息子と三世代が軍人でした。父親と夫が軍人だったことは、彼女が小さいときから若い時は、基地を転々と移動していたことも意味します。1948年から50年にかけて、彼女が東京の代々木に住んでいたのは、その一環でした。

2010年6月7日月曜日

ゲイブリエル

 ゲイブリエルは、まだ赤ちゃんなので話はできませんし、性格的なものも表すことはできません。
夜泣きするというか、夜にグズルというのは性格と捉えられるでしょうか? それが主な理由で、解放されてしまうことになってしまいますから。

 でも、そもそもは前年発育が遅くて解放されそうなゲイブリエルを気にかけて、特別に家に連れてきて夜世話をするようにしたのはジョナスの父の提案でした。

 同じ「明るい瞳」を持っていたことで特別な絆を感じたのか、ジョナスが一緒に寝るようになり、そしてギヴァーからもらった記憶の一部をゲイブリエルに注ぎ始めました。注いだ記憶が好ましい記憶だったからか、ゲイブリエルは夜の間中よく眠るようになりました。

 ゲイブリエルが象徴しているのは何か?

 自由、希望といったところでしょうか。

 ジョナスは、それを行動で示してくれましたが、ゲイブリエルはその存在で表している気がします。夜泣きさえ、自由の象徴のように思えるぐらいです。まだリリーをはじめ、その年齢以上の人間と違い、コミュニティによって管理されていない存在という意味で。

 ジョナスは、最初は自分一人でコミュニティを脱出することでギヴァーと計画を立てていたのですが、急に翌朝ゲイブリエルが解放されることになってしまったので、急きょ予定を変更して、ゲイブリエルを連れての脱出になりました。

 しかし、結果的にはそれがジョナスをより一層強くする結果になったとも言えます。自分だけではくじけてしまったかもしれないのに、「ゲイブリエルのため」ということで、がんばり続けることができたのかもしれません。

 昨夜寝る前に、たまたま読んでいた藤本朝巳著の『絵本はいかに描かれるか』の中で、ゲイブリエルの名前の由来もわかってしまいました。出典は、『新約聖書』ルカによる福音書第1章31節に、処女マリヤのもとに現れ、彼女は神の子イエスを身ごもるということを告げ知らせるのが天使ゲイブリエルなのです。

 『ギヴァー』の中でもゲイブリエルは、言葉はまったく発しませんでしたが、それに似た役割を担っていたのではないでしょうか。新しいジョナスが誕生すると!

 ちなみに、『絵本はいかに描かれるか』には、私の好きな絵本作者の本がたくさん紹介されていました。ジョン・バーニンガム、デイヴィッド・ウィーズナー、モーリス・センダック、クリス・ヴァン・オールズバーグ、アンソニー・ブラウン、ウィリアム・スタイグ、レオ・レオニ、H.A.レイなどです。
 彼らの本は、私がいずれは『ギヴァー』との関連で扱おうと考えていた本ばかりです。

2010年6月6日日曜日

 「赤」や「明るい瞳」以外にも象徴的なものが『ギヴァー』にはいくつかあります。鏡、川、雪、そり、ニュー・チャイルドのゲイブリエル、飛行機...

 逆に存在しないことで象徴しているものもあるかもしれません。たとえば、音楽、動物、日の光・雨・風(要するに、天気の変化)、火など...

 ジョナスのコミュニティにとっての鏡の存在は、「鏡は、コミュニティにはめったになかった。禁じられているわけではなかったが、実際に必要がなかった。ジョナスも、気づいたらそばに鏡があったという時ですら、自分自身の姿を何度も見ようなどという気はまったく起きなかった」(32ページ)

 もう一つ鏡が登場するところは、祖父母についての説明がされるところです。

 「<祖父母>だよ。『両親の両親』を意味する言葉だったのだ、ずっと昔ね」

 ジョナスは笑いだした。「前へ、前へ、果てしなく前へ、ですか。それじゃ、両親の両親の、そのまた両親の両親がいるってことになりますね」

 <ギヴァー>も笑った。

 「そのとおりだ。合わせ鏡にちょっと似ているね。鏡に映った自分が背後の鏡に映っていて、その背後の鏡にはまた鏡に映った自分が映っている」(172~3ページ)

 「鏡」が、この後にギヴァーと話し合う「愛」ということには直接つながっていかないと思いますが、少なくとも祖父母の存在を含めた家族のぬくもりにはつながっていく気がしました。

 知り合いで、『ギヴァー』の読後感を送ってくれた人の中には、「鏡は、自己確認の比喩でしょうか」と書いていた人もいました。確かに、それは確かにあると思いました。

 ということは、ジョナスのコミュニティは自己確認をしない社会であるのに対して、私たちの社会は自己確認の連続の社会(=自己確認を絶えず迫る社会)ということになりますか?

2010年6月5日土曜日

明るい瞳

 色といえば、瞳の色も気になります。

 明るい瞳が象徴しているものは何か?

 妹のリリーに「もしかしてあの子(ゲイブリエルのこと)、お兄ちゃんと同じ<出産母>なんじゃないの」と言わせた後で、著者はこう書いています。

 「明るい瞳は、たんにめずらしいというだけじゃない。その持ち主にある特別な表情を与えるのだ ~ どんな? 深みだ、と彼は確信した。まるで、河の澄んだ水に見入っていると、深い水底に、まだ発見されていない何かがひそんでいるのではないかと感じる時のような。ジョナスは自分のことが気になりだした。ぼくもそんな表情をしているのだろうか。」(32ページ)

 さらに、ジョナスがギヴァーと最初に近くで会ったときに、「ジョナスはおずおずとその明るい瞳に見入った。それは彼自身の瞳とよく似ていた」(104ページ)とも書いてあります。

 この3人は全員が記憶を受け取ることができる人たちですから、明るい瞳とレシーヴァーであることは相関関係にあるようです。リリーにも記憶を伝えようとしましたが、ジョナスは失敗した経験を持っていますから。

 その意味では、ジョナスはレシーヴァーになることが運命づけられていたとも言えなくはありません。

 また、明るい瞳が「彼方を見る」力、普通の人には見えない何かが見える力、色も含めて異なるものを見る力とも関係があるようです。

 さらには、感情をもてるということとも関係があるのかもしれません。

 ジョナスがゲイブリエルに対して特別な絆を感じていました。その理由は、明るい瞳をもっているだけでなく、記憶を受け取れることや解放寸前の身になってしまったことなどが複合したものではあったと思いますが。

2010年6月4日金曜日

引き続き「色」について

 色について考え続けています。

 レシーヴァーになって数週間が経ち、「ジョナスは記憶を通して、さまざまな色の名前を覚えた。今ではそれらの色をみな、ふだんの生活(もうふだんどおりではないことも、二度と以前の日常が戻らないことも彼にはわかっていたけれど)の中でも、知覚することができるようになっていた。(135ページ)

 そして、ジョナスはギヴァーに向かって言いました。

 「でも、ぼくはいつも色を見たいんです! ...おかしいですよ、世界に色がないなんて! ...すべてが同じなのであれば、選択のしようがないですよ! ぼくは朝起きて、どうするか決めたいんです! たとえば、今日は青い上着を着るか、それとも赤の上着にするか...なのに、ぜんぶ同じなんだ。いつだって...わかってます、何をきるかなんて重要じゃないって。そんなのたいしたことじゃない。でも...」(135~136ページ)

 それを引きとってギヴァーが「選ぶということが重要なのだ、と。そういうことかね?」

 それに対して、ジョナスはゲイブリエルにいろいろな色のおもちゃをさしだして選べるようになったらどんなにいいだろうと語った後で、ギヴァーが再度質問します。

 「ゲイブリエルがまちがった選択をする可能性もあるよ」

 それに対するジョナスの答えは、「そうですね、わかります。ニュー・チャイルドのおもちゃならたいしたことではない。でも成長したらそうはいかない。そういうことでしょう? 人々に自分で選ばせるなんて、とてもじゃないけどできませんよね...とんでもなくぶっそうです。仲間を自由に選べるなんてことになったら、どうなります? しかも選びまちがったら? あるいは、もし自分の仕事を選べるなんてことになったら?」(137ページ)
 「ものすごく恐ろしいです。想像すらできません。ぼくたちは何としても、まちがった選択から人々を護らなければならない」(138ページ)そのほうが、ずっと安全だから。

 色がないことは、記憶や選択や感情・気持ちがないことの象徴のようにも捉えられます。(赤がないことは、愛や興奮・情熱がないことですから。)
  それは、思考停止や判断停止も意味します。

 安全と引き換えに、色=記憶、選択、感情・気持ち=考えることを排除する選択をしたと。

2010年6月3日木曜日

赤は何のシンボル?

『ギヴァー』の中で赤という色はどういう意味をもっているのでしょうか? あるいは、シンボルとして使われているのでしょうか? 
Kさんの「色」の指摘から『ギヴァー』の中の色、それも一番強調されている赤について考え続けています。

ジョナスの愛や興奮・情熱を象徴しているのかもしれないと思いはじめました。
ジョナスが赤を見るようになったのは、リンゴ、観衆の顔、そしてフィオーナの髪の色などでしたから。

もちろん、ローリーさんはそんなこととはつなげて考えていなかったのかもしれません。

書かれてはいないことを、勝手に憶測しているだけです。もちろん、著者がそんなことを意図していたのか、それともいなかったのはわかりません。読書の楽しみの一つが、これなんだと思います。読み手が勝手にいろいろ考える自由がある、ということ。(でも、学校の国語の授業では、その「勝手」を許してもらえませんね!)

2010年6月2日水曜日

仏教の「色」

以前(4月12日)、仏教について書いたときに、「色」も登場していましたが、その時は気がつきませんでした。何に焦点を当てているかで、見えるもの/受けるとるものはまったく違うのですね。

昨日のKさんの感想/紹介文に仏教の中の「色」について書かれていたので、ネットで調べてみました。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2053526.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=117012496

五蘊(ごうん)

 人間を中心に五つの集まりからなっているという意。五つとは、色・受・想・行・識が互いに関連し囚われているという。

 色=私たちの身体、それに関連するすべての環境をいう。ものともいう。
 受=感受すること。つまり楽と感受し、苦と感受し、捨と感受する。これを三受といっている。
 想=知覚すること。また知覚したものを表す働きでもある。
 行=為作すること。思うことである。これには意識が加わってくる。
 識=了別する、弁別する働き。つまり意識活動をいう。

 要するに、色は自分の体を含めた、すべての外界環境をいい、受・想・行・識は、それらのものを受け入れる内部環境(つまり、心)をいう。

十二因縁(じゅうにいんねん)

 縁起の教えは、通常十二因縁といわれる、三世(過去・現在・未来)を通して起こる因果の道理を、社会・人生の基本としています。この十二因縁にはいろいろな説があるが、おおよそ次の通りです。

 「無明に縁って行あり、行に縁って識あり、識に縁って名色あり、名色に縁って六処(入)あり、六処(入)に縁って触あり、触に縁って受あり、受に縁って愛あり、愛に縁って取あり、取に縁って有あり、有に縁って生あり、生に縁って老死などの苦が生じる。

 無明の滅に縁って行滅す、行の滅に縁って識滅す、識の滅に縁って名色滅す、名色の滅に縁って六処(入)滅す、六処(入)の滅に縁って触滅す、触の滅に縁って受滅す、受の滅に縁って愛滅す、愛の滅に縁って取滅す、取の滅に縁って有滅す、有の滅に縁って生滅す、生の滅に縁って老死などの苦が滅す。」

 釈尊は現実苦のもとを正して、理想的さとりの世界を教えられた。この十二因縁は、現実苦を肯定的に見て、その因を正す方法と、それを否定(滅)して、さとりの世界を教える方法をとっている。

1.無明 ~ 真実の道理にくらい無知なるもの、知情意が円満にはたらかないもの。
2.行 ~ ちから、はたらき、意思的活動。
3.識 ~ ものを判断するはたらき、知的活動、眼耳鼻舌身意の感覚活動。
4.名色 ~ 名はすべての活動、色は物質、もの。
5.六処 ~ 眼耳鼻舌身意の六根、あらゆる対象(境)を受け入れる場所、六入。
6.触 ~ 色声香味法などの境(対象)を六根の感覚器官が受け入れ、意識によって統一するはたらき。
7.受 ~  外のものを受け入れる感覚感情。
8.愛 ~  渇愛、貪り求める力、財産・色欲・食欲・名誉・睡眠などの五欲の愛。
9.取 ~  固執する、誤った見解に囚われる。
10.有 ~  生きる、生存、欲・色・無色の三界に生きる。
11.生 ~ 生まれている、この世に生まれたこと。
12.老死 ~ 老衰し死滅すること、迷いの人生。
      (出典: http://homepage3.nifty.com/zazen/yougo.htm

2010年6月1日火曜日

「色がない」ことは何を表しているのか?

以下は、ギヴァーの普及協力者のKさんが書いてくれた『ギヴァー』の感想/紹介文です。


 この小説の舞台である社会では、人々は色を見ることができなくなっている。主人公のジョーナスが、友人のアッシャーとリンゴのキャッチボールをしているときに、リンゴがほんの一瞬空中で「変化した」。その時のジョーナスは気づかなかったが、ジョーナスはリンゴの「赤」を見たのである。

 このように、社会の他の人々から見れば、「彼方を見る」ことのできるジョーナスは、社会から選ばれて「社会の記憶を受け継ぐ者」となった。そして、「記憶を注ぐ者The Giver」である老人から、その社会が住民には秘匿してきたさまざまな「記憶」を一つずつ譲り受けていく。その過程で、ジョーナスは、自分がそれまで何の不満や疑問も感じずに生きてきた社会の、底知れぬ不気味さに徐々に気づいていく。

 記憶を受け継ぐ修練の中で、すべての色を獲得したジョーナスは、「記憶を注ぐ者」に向かってこう叫ぶ。「どんなものにも色がないなんて、そんなのひどいです!」「ひどい?どうしてだね?」「その・・・すべてのものが同じなら、選ぶということがないじゃないですか!」

 色こそが多様性を形作るものなのだ。日本語の「いろいろ(色々)」という意味の深さを考えさせられた。そう言えば、仏教の経典の一つでは、「色(しき)」が、この世の事物の根本的ありようを表すことばであった。