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2016年5月31日火曜日

現首相の安倍さんという人??


何もしなかった/できなかった民主党から政権を奪取してから、いったい何をしてきたのかな~、と考えましたが、結局何も浮かびませんでした。
しなくてもいいことや、景気のいいことは繰り返し言っていたようには思いますが(それに、国民の多くは踊らされ/ごまかされ続けたわけですから)、結果的にはゼロないしマイナス?という感じです。(ということは、前政権時代と同じ?)

そして極めつけは、消費税の棚上げ。延期はやむなし、という部分もありますが、自分がそれを決断することから逃げました。

となると、安倍晋三という人 ~ 結局、政権にしがみついているだけで、何もせず、そしてこれからも何もしない人と言うしかないように思うのです。

2016年5月10日火曜日

ガイドブックをもった旅行者と探検家の違い


『旅する哲学』by アラン・ド・ボトンには、『理解するってどういうこと?』byエリン・キーンの中でも扱われたなつかしい2人が登場します。エドワード・ホッパーとヴィンセント・ヴァン・ゴッホです。
それらもおもしろかったのですが、私が今回紹介するのは、「未知なるものの魅惑」というタイトルの第4章で、著者自身がスペインのマドリッドを訪問していたエピソードと、類稀なる探検家+博物学者のアレクサンダー・フォン・フンボルトの旅を対比しながら書かれたものです。

ガイドブックの有り無しが、旅を面白くもするし、面白くなくもする、とド・ボトンは書いています。
南米中を調べてヨーロッパに帰ったとき、フンボルトは関心のあるグループに取り囲まれて、お祭り騒ぎになりました。そして著者はこうも書いています。「フンボルトがサボテンの周りを回ったり(なんと、周囲が1.54メートルもあった!)、温度計をアマゾン河に突っ込んだりしたとき、彼自身の好奇心も他の人たちの関心に導かれている感じがあったに違いない。そして気だるさや体調の悪さにおびやかされる避けようのない瞬間にも、他の人たちの関心が支えになったに違いない」と。

さらに147~148ページにかけては、以下のように書いています。
「もうひとつ、問題がある。先に来て事実を発見した探検家たちは、同時に何が重要で何が重要でないか、区別する線を引く。区別は何度も繰り返されるうちに固定化され、マドリッドではどこに価値あるものが存在するかについて、ついにはほとんど動かし難い事実となってしまう。ラ・ヴィリャ広場は一つ星、王宮は二つ星、ラス・デスカルサス・レアレス修道院は三つ星、オリテンテ広場は無印といったふうに。
 区別は必ずしも間違いではないが、区別の効果となると、これはもう有害だ。ガイドブックはある場所を褒めるとともに、訪問者に権威ある熱狂ぶりを共有するようプレッシャーをかける。ガイドブックが沈黙している場所については、歓びも関心も抱いてはいけないみたいない気にさせてしまう・・・
 フンボルトは、こんな脅しに悩むことなどなかった。彼の旅路を辿ったヨーロッパ人はほとんどいないし、先行者がいないことが彼に想像の自由を与えた。自意識にじゃまされることなく、自分は何に興味があるか決めることができた。他人の積み重ねに従うことも故意に反抗することもなく、自分自身の価値の区分を創り出すことができたのだった。
 リオ・ネグロ河畔のサン・フェルナンド伝道会に着いたときにも、フンボルトはすべてが興味深いか、それとも興味を惹くものなどないか、考える自由を持っていた。彼は好奇心のおもむくままに従って、彼の旅行記の読者にとっては別に驚くほどのことでもないが、植物の許へと行き着く」

 この辺を読んでいて、ガイドブックと教科書の関係や、旅行者と探検家の違いについて考えてしまいました。後者は、科学者、歴史学者、地理学者、数学者と言い換えることもできると思います。
 それは、『算数・数学はアートだ!』の21~28ページで紹介されている「三角形の面積」についての旅行者アプローチと探検家アプローチの違いとも言えます。
 ガイドブックつきの旅行者(=数学者としてではなく、教科書を突きつけられた教室の中の生徒たち)にワクワクした発見などは何もなく、すでにすべてが明らかにされているものを覚えるしかない苦役しか残っていないのか、と。

 さらに、ド・ボトンはとても大切なことを書いてくれています。
 「フンボルトの興奮が証言するのは、世界について正しい質問を持つことの重要さである・・・
 不幸なことに、旅行者にとってほとんどの対象は質問をともなわない。問いかける姿勢さえあれば、対象に価する興奮も生まれようものを・・・
 (ガイドブックの)この情報は、どうやったら好奇心が目覚めるのか、何のヒントも与えてくれない。
 (大きな問い)とは、フンボルトにとっては「なぜ自然には地域による変化があるのか?」というものだった。イグレシア・デ・サン・フランシスコ・エル・グランデの前に立つ人にとっては、大きな問いとはこういうものではないだろうか ~ 「なぜ、人々は教会を建てる必要を感じたのだろう?」さらには「なぜ、私たちは神を拝むのか?」
 このようなナイーヴな出発点から、好奇心の連鎖は成長するチャンスをもつのではないか」(157~160ページ)

 ガイドブックを片手に、カメラを片手に持った旅行者には、こういう問いを発する暇は与えないようです。教科書を片手に、鉛筆(チョーク)を片手に持った生徒たち(や教師たち)にも持たせないのと同じように。

 ちなみに、「1802年の6月、チンボラソ山の10インチ幅の尾根で蠅に好奇心を持つところまでフンボルトを導いた質問の連鎖は、遥かに遡って7歳の時に始まる」というのです。「ベルリン育ちの少年は、ドイツのほかの地方に親せきを訪ねたとき、自問したのだった ~ 「なぜ、どこでも同じものが育たないのか?」と。なぜ、ベルリン近郊の木々はバヴァリアで育たないのか? その逆の現象も、なぜなのか? 少年の好奇心は、外からも励ましを受けた。自然に関する本をまとめて与えられ、顕微鏡を買ってもらい、植物学を理解している家庭教師も付けてもらった。家族のなかでは「ちっちゃな科学者さん」と呼ばれるようになり、母は息子の植物画を自分の書斎の壁に貼った」(156ページ)


 こういうことをするところが学校であり、教室であり、授業であり、教師の役割のような気がするのですが・・・