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2012年12月29日土曜日

名前から見えてくる「ギヴァー」


協力者の鎌田さんは毎年、自分の担当している演習の授業で『ギヴァー』を使ってくれています。ブッククラブをする形で。それを受けた学生の一人が、自分が興味をもった内容でフォローアップの研究レポートを以下のようにまとめてくれました。


名前から見えてくる「ギヴァー」
                 帝京大学 教育学科2年10組 竹内周平

はじめに

 私は鎌田和宏先生の教育研究リテラシーの講義にてクラスの友人たちと「ギヴァー」のブッククラブを行いました。物語を皆で読み進めていき、随所にてそれぞれの意見や感想を述べることで本を十二分に楽しむことを趣旨として活動だったのですが、あまりにもギヴァーが興味深い本でしたので個人的に研究をさせていただきました。そうして読んでいくなかで、いくつかの隠された意図を発見しました。

【1】女性と花言葉

 まず始めに私が発見したのが、劇中に登場する主要キャラクターの女性の名前が「花」に由来しまたその花言葉と人物の特徴が著しく一致しているという点です。

・ リリー(ジョナスの妹)=百合の別称 花言葉:「純潔」「無垢」
 妹リリーの性格はまさに純粋、無垢と言えるため一致。

・ フィオナ(ジョナスの友人)=白薔薇 花言葉:「恋」「恋の吐息」
 ジョナスが密かに想いをよせる女性。これまた花言葉と一致。

・ ローズマリー(前回のレシーヴァー)=万年蝋 花言葉:「記憶」「思い出」
 記憶、思い出というキーワードで思わず鳥肌が立ってしまうほど一致。

【2】ゲイブリエル(ガブリエル)という名前

 ゲイブリエル(ガブリエル)は旧約聖書にその名を記された神であり、失楽園においてはエデン(楽園)の門番として描かれている。またユダヤ教では「終わりの日」に関する人物として描かれており、ギヴァーにおいてものその役割を担っていると言える。さらにキリスト教では白百合を携えて描かれることが多く、先ほど述べた花との関連にてリリー(百合)との関係性も結びつけることができる。

【3】ジョナスという名前

 旧約聖書の一つ、預言書に分類される「ヨナ書」に登場する主人公ヨナから来ていると考えられます。
 ヨナ書の中のヨナは預言者であり、ニヴェの街へ予言を伝えにゆく姿が描かれている。一方でジョナスもラストシーンにて見知らぬ地へ行く姿が書かれているため、ヨナのオマージュと解釈できる。

終わりに

 この物語において名前というのは数少ない個性の一つ。そんな一人一人の名前にしっかりと意味が込められているところにロイスローリーさんは素敵な人柄を感じました。また児童文学家で知られるロイスローリーさん、今回教育学科生の私たちがブッククラブをするにあたって登場人物である子どもたちをについて深く考えさせられたのは紛れもなくロイスローリーさんの意図であるように思えました。ギヴァーを通してまた新たに子どもたちの大切さや教育のあり方なども考えることができとても感謝しております。これからもますますのご健闘をお祈りしております。

 以上が私の見つけたギヴァーの隠された意図です。もちろん私の憶測にすぎませんが、一学生の意見としてギヴァーがより興味深くそして魅力的な作品であり続けるちょっとしたスパイスになれば光栄です。

2012年12月28日金曜日

選挙


去年の3.11の後遺症は大きかったです(もちろん、いまだに続いています)が、今回の衆議院選挙の後遺症も大きなものがあります。それも、前回の衆議院選挙の結果を引きずる形で。

あなたは、今回の選挙結果にハッピーですか?

別に、民主党に政権を維持してほしかったわけではありません。
政権与党としての体は最初から最後まで為していませんでしたから。

それじゃ、自民党は為しているか?
維新の党は?

日本の有権者は、お灸をすえるのが好きなんですね。
というか、基本的に「保守」なのでしょうか?

未来の党にいたっては、とんだ茶番でした。

というか、単なる選挙対策に過ぎなかったことが明らかになってしまいました。

ギヴァーのコミュニティとの関連で考えると、あそこには「選挙」はなさそうです。それがいい仕組みとは、思っていないからなのではないかと思います。
今年最初の書き込みでは、50年以上も村長選で投票がない自治体として大分県の姫島村を紹介しました。人口は、2200人です。
ギヴァーのコミュニティは、約3500人ですから似たような状況が考えられるわけです。

選挙よりも効果的な方法は、あり得る!!!!

人口が多くなっても??

日本未来の党の代表の嘉田さんは、「いまのままでは選挙できる政党がないので、急きょ立ち上げました」と言っていました。しかし、その状態は日本未来の党が結党されても、まったく変わりませんでした。(逆に、その動きが自民党に有利に働いてしまった、という声も。)有権者に、真の選択肢を提供されていたでしょうか?

投票率は、混迷極まる状態であるにもかかわらず、最低でした。

2012年11月30日金曜日

コントロールについて


さらにコントロールについてのTさんとのやり取りの続きです。


Tさん:

そうですね。
コミュニティの人たちはコントロールされている気がします。
特にお薬が不気味です。
「高揚」を抑える薬ということですが、本当は他の作用も
いろいろあるんではないか、という気がしています。

日本も同じなのでしょうか?
そう言われると、私たちはコントロールされていないと思って
いますが、気付いてないだけでされているのかもしれませんね。
薬ではなく、メディアなどで。
同じコントロールされるなら良い方にコントロールされたいです。

ここ何日か考えていて、私がコミュニティに行きたいと思っていた
理由も少し分かってきました。
一つには「将来に対する不安」がないからです。
人に敬意を払われなくとも、寿命を迎えるまでとり合えず
普通に生活できますよね、コミュニティでは。
私自身は、現在仕事についていますが、高給なわけでもなく
この先ずっと働いて生きていけるのか、とても不安なんです。
現実に仕事をなくして住むところもなくして飢えて死んでしまう
人たちがたくさんいます。
私もそうなる気がして不安なんです。
(だから、任命してもらって自分にできる仕事をし続けられる
のがうらやましいと思います)
そして「不安」とは何かを考えてみるとそれは「明日も無事に
すごしたい」という欲から出て来ているのではないかと
思いました。
コミュニティの人たちは「欲」が全然ない気がします。
それも私がコミュニティに行きたい理由です。
欲がないのはみな平等であり、手に入れている物以外を
知らないからだと思いますが。

小さなコミュニティに暮らせば、私も平穏に過ごせるのでしょうか?

とても個人的な問題になってしまい、恥ずかしいです。


私:

先が見えない不安というのは、日本に住む多くの人(特に、
若い人たちが★)が抱えている大きな問題だと思います。

そんな悲しい問題をなぜ作り出してしまっているのこそを
解明し、改めていかなければいけないのですが、そのことに
注目している人はそう多くありません。

アレックス・カーという日本に住んだ年数がとても長い人が
書いた『美しき日本の残像』と『犬と鬼』を読んでみてください。

日本流のコントロールの仕方というのが、よくわかると思い
ます。する側もされる側も「コントロール」という意識はほとんど
もっていないと思うので、「洗脳」と言ったほうが正しいかも
しれません。(する側に「洗脳している」という意識もないと
思います。まさに、第二次世界大戦に突入していったのと
同じことが、歴史上何度も繰り返されているのが、この日本
という国なんだと思います。)

吉田新

追伸: 「小さなコミュニティなら平穏に過ごせるか?」
    もちろん、理想郷をこの地球上で探すのは難しい
    かもしれませんが、個人の自由の部分とコミュニティ
    の維持のバランスを図って努力しているところは
    この日本(の中の市や町や村など)よりは他のところ
    にたくさん見いだせるのではないかと思います。

    顔の見える関係というのは、とても大切だと思います。
    それがあるだけで、原発をつくるということも、できなく
    なります。電力会社、役所、地元が顔の見えない関係
    になっているので、つくられてしまっていると思います。
    そして、結果に誰も責任をもたなくてもいい構造にまで
    なっています。
    顔の見えるレベルでの判断と、見えないレベルでの判断
    は自ずと違うと思うんです。大分県の姫島村のような
    判断が成り立つわけですから。

    個人的な問題と社会的な問題は、常にコインの裏表
    の関係でつながっています。その意味で、両方が同じ
    レベルで大切だと思います。

★     40代、50代以上の人は、なんとか自分たち
       ぐらいまでは大丈夫だろうと・・・
          ましてや、60代以上が多い政治家たちは
    何をしようが関係ない世界の人たち、という
    気がします。

2012年11月23日金曜日

個々の特性をみいだし、いかす

その後も、Tさんとの観察についてのやりとりが続いています。


Tさん:

ブログを拝見いたしました。

カンファランスが観察になるんですね。
私が想像していたのと、ずいぶん違います。
カンファランスの実際を私が知らないので、
思いつきませんでした。

ということは、今の日本の学校でカンファランスを実行している
先生方は子どもたちの適性が分かったりするのでしょうか?
(それはすごいですね。私にもカンファランスして
もらって、適性を教えてほしいです。私はいまだに
自分の適性が分からず人生をうろうろしています)

でも、コミュニティの子どもたちはいろんなところで
統制されたりしているので、こちらの世界のカンファランスと
少し違ったものになるのではないでしょうか?
長老といってもやはりコントロールされているんですよね。
うーん。


私:

日本で、観察を含めたカンファランスができる教師は、
残念ながらライティング・ワークショップを実践している
ごく少数の先生だけにとどまっています。

ほとんどの先生は、一斉授業をするのに忙しく、
生徒の話を聞いたり、様子を見たりする必要性すら
感じていないのが現状です。

相手のことを知らない限りは、よく教えることなどできる
はずがないのに。

「コミュニティの人たちは統制されている/コントロール
されている」という意識が、Tさんは強いですか?

私は、ほとんど日本と同じだな~、と読んでいました。
3500人の小さなコミュニティなので、それぐらいしないと
生き延びれないという意味でも。
たくさんの中に埋もれてしまえませんから、自分のいい
ところを開花させるためには、いまの日本よりははるかに
いい仕組みになっていると思うぐらいですが、いかがでしょうか?

小さく閉じた社会の宿命みたいな部分もある気もします。
大きくないなら、かえってその方がいい????
日本の中にも、まだそういうところは結構あるのかも
しれません。

2012年11月15日木曜日

『ギヴァー』は、ディストピア小説?


もちろん、何をどう読むかは読み手それぞれの自由であるという大前提のもとで★、

『ギヴァー』をディストピア小説やSFと捉えて読んでいる人が結構多いことに驚きます。(単に、そう捉え方をする人たちが書評を書くタイプの人たちなのかもしれませんが。)
もちろん、そういう色眼鏡を通して見ることの面白さや得るものもあるとは思いますが、私のようにその色眼鏡がかけられない者からすると、「もったいないな~」と思うばかりです。(少なくとも、書評を読む限りは。)

著者本人がSFもディストピアも描くつもりはまったくなかったのですから。★

そもそもジャンルに分けることの意味は何なのでしょうか?

読み手にとって、それはプラスになるのでしょうか? それとも、マイナスになってしまうのでしょうか?


★ このことからも、読むものというのは、著者本人の思惑とは別次元のものであることがよくわかります。読者の自由なわけです。なのに、私たちは国語の授業では「作者の意図は?」ばかりを考えさせられます。授業ですることと、私たちが実際にすることは、ほとんど逆さまです。

  話が逸れてしまいました。別に学校の授業が正しい、と言いたいのではありません。

  色眼鏡を通して読むことの是非について考えたかったのです。
  それは、社会を色眼鏡で見ることにつながってしまう可能性もあるからです。

  もちろん、人は何らかの色眼鏡でしか読めないし、見られない部分は否定できませんが、できるだけ色眼鏡の色を薄くする努力はし続けたいものです。

2012年11月10日土曜日

くらし


 詩が続きます。
 とはいっても、前回の詩よりも、谷川俊太郎の「生きる」の方により近い詩かもしれません。
 それは、石垣りんの「くらし」という詩です(『石垣りん詩集』ハルキ文庫・1998年)。

くらし

食わずには生きてゆけない
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

 これを読み返していたら、『ギヴァー』よりも、『こども東北学』(山内明美著)の中に書いてあったことを思い出してしまいました。

2012年11月6日火曜日

『ギヴァー』に通じる詩?


 めには みえない

 ためいきって めにはみえない
 かぜと おんなじ
 よるって めにはみえない
 あさが きてしまうと・・・
 めにみえないの
 なくしたものは
 もう みつからないの
 でも
 めをつぶれば
 あたまのなかに
 なんでも みえる

 この詩は、『だいすき ~ そんな きもちを つたえてくれる ことば』というタイトルの絵本(ハンス&モニック・ハーヘン作、マーリット・テーンクヴィスト絵)に載っていました。
 マリット・テーンクヴィストは、『愛に ついての ちいさな おはなし』というのもかいています。

2012年11月3日土曜日

『ギヴァー』のコミュニティにおける評価/観察 2



Tさんの選考の際の観察についての疑問(=斜体の字)を
私なりに考えてみました。

①長老たちが入念な観察を行っているという記述
はあるが、具体的にはどのようにしているのか?
②子どもたちの行動を物かげから探偵のように
こっそり調べて、その場で手帳にペンで書き込んで
いるのか?
③でも子どもたちは観察されているのは気付いて
いるので、隠れたりせず堂々と観察しているのか?
④子どもたちは観察されると、それを意識しての
行動になったりしないのか?

→ 私が思うに、基本的にはライティング・ワークショップや
リーディング・ワークショップで教師たちがカンファランス
の時間にしていることだと思います。
(ただ、カンファランス=直接話すことはせずに。)
あるいは、私が『校長先生という仕事』を書く時に使った
シャドーイングという方法を使っているのかもしれません。
それは、本人の了解を得て、ひたすら影になってあとをつける
という方法です。1日あとをつけていると、すごいたくさん
のことがわかります。

⑤ひょっとしたら写真などを撮っていたりするのか?
それとも監視カメラがあったりするのか?
(スピーカーはあった気がする)
⑥毎日の行動をずっと尾行したりしているのか?
その場合、老人なのに子どもの動きについていけるのか?
(長老って何歳なの?)
⑦1人の長老が1人をずっと観察するのか、数人が
数人を観察するのか、それともある分野ごとに観察
するのか?
⑧観察して得たデータはやっぱりコンピュータにでも
入っているのか?

本を読んだ時に私の中では、よぼよぼのおじいさんおばあ
さんが、こっそり子どもたちを観察し、疲れて息が上がっ
ている様子が浮かび、コミカルに思えました。

→ 監視カメラを使って、という可能性もなくはないと
思いますが、その確率は低いように思います。画面を通じて
見えるものと、直接眼で、全体の雰囲気というか関係性まで
含めて見られるものとはかなり違いますから。
そうでないと、ジョナスをレシヴァーに選んだり、アッシャー
をレクリエーション副監に任命することは難しい気がします。

カンファランスやシャドーイングをした経験から言えば、
毎日尾行する必要はありません。
また、基本的には一人が数人を担当しているんだと思います。
たとえば、10人の長老がいたとして、一つの年齢層が50人
いますから。5人です。
しかし、観察は11歳のときだけではなく、最低でも3~5年
間はしています。(ひょっとしたら、もっと長い期間)
従って、一人の長老の担当は20人とか30人ぐらいはいるの
かもしれません。
学校の先生のことを思い出せば、そのぐらいの人数は大して
多いとは言えません。
判断をしかねる難しい対象(たとえば、ジョナス)の場合は、
複数の長老が観察に当たった可能性はありますが、フィオナ
のように極めてシンプルな場合は一人でも十分だと思います。

「長老」というタイトルはついていますが、いいところ50代
ぐらいまでの人たちだと思います。
日本の政治家や経済人たちのように70代、80代になっても
がんばっているという姿はないと思います。(日本においては、
公害ならぬ、老害と言ってほぼ間違いないのですが。)
欧米の政治家やビジネスマンは、60歳ぐらいになったら第一線
から身を引く人が多いです。ライフ・ステージというのをわきまえ
ているからです。従って<老年者の家>も、日本の老人ホームのように
暗いイメージよりも、第一線を引いた人から死を迎えるまでの
幅広い層を対象にしている感じがします。
要するに、欧米には結構多く存在する「リタイアメント・ビレッジ」
の感じです。(いたって元気の人から、介護を必要とする人まで
その幅は広いです。それに対して、日本の老人ホームは残念ながら
「介護施設」になっています。そのあり方はまったく違います。)

そういえば、<主席長老>は女性ですね。
そして、あまり年齢を感じさせない話し方だったと思います。
ジョナスの<リシーヴァー>への選択の説明を聞いていて、そう感じ
ました。

Tさんの質問のおかげで、いろいろなことを考えることができました。
ありがとうございました。

2012年11月1日木曜日

『ギヴァー』のコミュニティにおける評価/観察


このテーマについて、Tさんから以下のメールを
もらいました。

『ギヴァー』の長老たちによる任命のための選考の
観察について、私が思いついた疑問点(感想)を書
き連ねてみました。

①長老たちが入念な観察を行っているという記述
はあるが、具体的にはどのようにしているのか?

②子どもたちの行動を物かげから探偵のように
こっそり調べて、その場で手帳にペンで書き込んで
いるのか?

③でも子どもたちは観察されているのは気付いて
いるので、隠れたりせず堂々と観察しているのか?

④子どもたちは観察されると、それを意識しての
行動になったりしないのか?

⑤ひょっとしたら写真などを撮っていたりするのか?
それとも監視カメラがあったりするのか?
(スピーカーはあった気がする)

⑥毎日の行動をずっと尾行したりしているのか?
その場合、老人なのに子どもの動きについていけるのか?
(長老って何歳なの?)

⑦1人の長老が1人をずっと観察するのか、数人が
数人を観察するのか、それともある分野ごとに観察
するのか?

⑧観察して得たデータはやっぱりコンピュータにでも
入っているのか?

本を読んだ時に私の中では、よぼよぼのおじいさんおばあ
さんが、こっそり子どもたちを観察し、疲れて息が上がっ
ている様子が浮かび、コミカルに思えました。

2012年10月29日月曜日

『時代を変えた科学者の名言』 3



99 アレクサンダー・グラハム・ベル (スコットランド→米国 電話機の発明)
・ 一つのドアが閉まると、別のドアが開く。しかし私たちは閉まったドアをずっと後悔して見つめているので、新しいドアがすでに開いていることに気づかない。
・ 生きていることは素晴らしい。この世界は面白いことでいっぱいだ。
・ 時には踏みならされた道を離れ、森の中に入ってみなさい。そこでは、きっとあなたがこれまで見たこともない何か新しいものを見出すに違いありません。

101 トーマス・エジソン
・ どんな機械でも同じだが、具合が悪くなったときに、無理やり油を注いでも効果はない。悪くなった油を全部出してしまうのが先だ。

115 マリー・キュリー
・ 希望は人を成功に導く信仰である。
・ 一人ひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能です。
・ 私どもはただ一つの関心、むしろただ一つの夢の中に生きております。

126 アルベルト・アインシュタイン
・ 過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことです。
・ 成功という理想は、そろそろ奉仕という理想に、取って替わられてしかるべき時だ。

149 レイチェル・カーソン
・ 私たちは、いまや分かれ道にいる。
・ 長いあいだ旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり破滅だ。
・ もう一つの道は、あまり「人も行かない」が、この分かれ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。
・ 地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。
・ 自然がくりかえすリフレイン
“夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ”のなかには、限りなく私たちを癒してくれる何かがあるのです。

157 エリザベス・キューブラー=ロス
・ 自分自身の「やり残した仕事」を片付けること、それが世界に変化をもたらす唯一の方法です。

165 スティーブン・ホーキング
・ 期待値が「ゼロ」まで下がれば、自分にいまあるものすべてに、間違いなく感謝の念が湧く。
・ 今の仕事を好きになって一生懸命やったとき、次なる道が見えてくるものだ。

2012年10月27日土曜日

『時代を変えた科学者の名言』 2



53 ベンジャミン・フランクリン
・仕事を追え。仕事に追われるな。

64 ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
・ 青年は教えられることよりも、刺激されることを浴す。
・ 自分一人で石を持ち上げる気がなかったら、二人でも持ち上がらない。
・ お前の本当の腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは断じて出来ない。
・ 行動がすべてだ。栄誉に価値はない。

78 チャールズ・ダーウィン
・ 原因を探求し続ける力が、人を発見者にする。
・ たとえ自分ではどんなに気に入っている仮説でも、それに反する事実が明らかになれば、すぐにその仮説をすてられるよう、つねに心を自由にしておく努力を重ねてきた。
・ 1時間の浪費を何とも思わない人は、まだ、人生の価値を何も見つけていない。
・ もしミミズがこの世からいなくなったら、植物は滅亡に瀕するだろう。 → 人間も!?

82 フローレンス・ナイチンゲール
・進歩のない組織でもちこたえたものはない。

87 ルイ・パスルール
・ 若者は、自分達が教えを受ける教師の光輝に駆り立てられ、鼓舞されるものだ。
・ 青年に神聖な火を伝えるためには、自分自身が聖なる火に充ちていなければならない。

88 アンリ・ファーブル
・ 見ることは、知ることだ。
・ まず考えること、辛抱強く考えつくすこと。人間は自分で探し求め、発見したことしかよく覚えていることはできない。

2012年10月26日金曜日

『時代を変えた科学者の名言』 1

『時代を変えた科学者の名言』藤嶋昭著の中から『ギヴァー』との関連(というか、私がおもしろいと思ったもの)を3回の連載で紹介します。

17 ヒポクラテス
・ 知りながら害をなすな。

19 プラトン
・ 自分の人生の主人公になりなさい。あなたは人生で自分の臨むどんなことでも出来るのです。

24 アルキメデス
・ 生きる、それは自分の運命を発見することである。

32 レオナルド・ダ・ヴィンチ
・ どこか遠くへ行きなさい。仕事が小さく見えてきて、もっと全体がよく眺められるようになります。

39 ガリレオ・ガリレイ
・ 人にものを教えることはできない。できることは、相手の中にすでにある力を見出すこと、その手助けである。

42 デカルト
・ 信じなさい。あなたの人生は、あなたの思い描いたとおりになると。
・ すべてよき書物を読むことは、過去のもっともすぐれた人々と会話をかわすようなものである。

44 ブレーズ・パスカル
・ 無知を恐れるな、偽りの知識を恐れよ。
・ 想像力は万事を左右する。
・ 隠れた高潔な行いは、最も尊敬されるべき行為である。

2012年10月23日火曜日

『ギヴァー』のコミュニティにおける評価と選考



 「選ぶ・選ばれる・選ばない」の続きです。
 このテーマは、私たちの社会の評価と選考と同じレベルで面白いと思います。
 基本的には、社会というのは評価と選考/選択で成り立っていると思わされます。

 前にも書いたように、「ギヴァー」のコミュニティは一つの年齢は50人しかいません。したがって、評価と選考もそれだけの規模が対象で成り立っています。長老たちの観察が行き届いたなかで行われているさまが、12歳の儀式の選考結果でよく伝わってきます。

 それに対して、私たちの社会(日本レベルであろうと、世界レベルであろうと)は自由な選択があるようで、実際は果たしてどれだけの選択が提供されているでしょうか? 自分がやりたいことを、どれだけやれているでしょうか? 夢見た結婚/家族生活が、どれだけおくれているでしょうか?


2012年10月21日日曜日

日本の入試のおそろしさ



前回の「選ぶ・選ばれる・選ばない」の関連で、『待つしかない、か。二十一世紀身体と哲学』(木田元&竹内敏晴)の中に、日本の大学(院?)入試のおそろしい光景が描写されています。(128~129ページ)

竹内さんは、演劇家だった人が請われて宮城教育大学の先生になった人です。

演劇も、教育も、人間関係が極めて大事だと思っていた竹内さんは、教育界の人たちが人間関係を無視していることを知って愕然としているのです。

もちろん、これは教育学部に限定されず、医学部をはじめ他の学部でも同じことが言えてしまうと思います。人を選考する際の極めて大切な要素を、まったく見ることなく、目をつむってしまうというか、テストの点数だけで評価するという習慣が根強い証拠でもあります。 (下の画像をクリックすると、少しは読みやすくなります。)



 
他の教員たちの「教育者になるならそれは欠かせないだろうが、研究者なら必要な能力ではないだろう」という説得に、竹内さんは「オレは責任取らんけど認める」と折れたそうです。
日本の入社試験では、どれだけ人間関係を重視しているでしょうか? 少なくとも、大学入試のようなことはないと思います。


『ギヴァー』のコミュニティも、人間関係を含めてよりトータルに選考しているように思われます。アッシャーですら、それなりに適材適所のポジションを得ているのですから。

でも、選考で何か欠けている部分/おかしな部分はあるでしょうか?

2012年10月18日木曜日

選ぶ・選ばれる・選ばない


Tさんとのやりとりが続いています。

◆Tさんからのメール:

「選ぶ」という行為は難しいな~と最近思っています。
私は優柔不断なので、食事のメニューを選ぶときなど
「おすすめ」とか「本日の日替わり」などをつい選んで
しまいます。
すべてのメニューから選ぶのが面倒なので。
私の今の人生もそんな感じで選んできたようで、
何かぞっとします。


◆私からのメール:

「選ぶ」「選ばれる」「選ばない」は、『ギヴァー』の
テーマのような気がしますので、私も考え続けたいと思います。

幼稚園・保育園や小学校時代から、選ぶ練習というのは
ほとんどしないのが、日本の学校の一大特徴だと思います。

たとえば、書く時や読む時も、作文のテーマは先生から
提示されるし、何を読むべきかも先生から提示されます
(教科書教材や課題図書の形で)。
作家のサイクルや読書のサイクルで、一番大切なのは、
最初の題材選びや選書(自分が読みたい本を選ぶ)なの
ですが、日本ではこの書き手や読み手が自分で選ぶ練習
というのは一切やりません。
これらが書く時や読む時の8~9割を占める大事な能力
なのに。

まさに、『ギヴァー』のコミュニティと同じ?!

2012年10月17日水曜日

生と死を考える 2+

Tさんから、以下のようなメールをもらいました。


10月15日のブログを拝見して思い出しました。

1ヶ月くらい前にNHKのテレビドキュメンタリーで
出生前診断の事が取り上げられているのを見ました。
何気なく眺めていましたが、出生前診断をして
障害の疑いがあると診断された子どものお父さんが
産むかどうかの判断を強いられていて
「(障害があるから)産むかどうかを選べるのが不思議だ」
と言っていました。
要するに生まれて来て障害があればそれはそれで
受け入れられるのに、生まれる前に「選択する」という
状況?行為?に違和感を感じていたのだと思います。

それを見て私は、『ギヴァー』でジョナスが「着る服を
選びたい」と言っていて、さらに「自分達で選んで間違った
判断をしては大変だ」というような事も言っていたのを
思い出したんです。

ジョナスが言っていたのはこういうことかな~と。

でも間違った判断かどうかの判断もできないよな、と。

そのお父さんは結局、お母さんと話し合って生む判断を
していました。
テレビで取り上げていた夫婦はみんな産みました。
でも、産まない判断をする夫婦の方が数は多いそうです。

2012年10月15日月曜日

生と死を考える 2



 『ギヴァー』と『往復エッセイ「いのち」についての60の手紙 ~ 十代の君たちへ』(山折哲雄+中村桂子著)の関連するところの続きです。

 子どもは「授かるもの」と長年思われてきたが、近年は「作るもの」と思われ始めています(58ページ)。しかし、男女を選べたり、健常児と障害児を選べたり、さらには自分達が作れない場合は「代理母」に依頼したり、と言った具合でもあります。

 一方で、「先祖」が死語になりつつもあります(158ページ)

 

2012年10月6日土曜日

生と死を考える 1



『往復エッセイ「いのち」についての60の手紙 ~ 十代の君たちへ』山折哲雄+中村桂子著を読み、『ギヴァー』と関連すると思ったところを紹介します。

この中に、幼稚園の子で草は生き物じゃない、と言い張る子が紹介され、でも引き抜いて根から何か汁みたいなものが出てきて、生き物だったのか、とこぼすシーンや、

    散る桜 のこる桜も 散る桜

の俳句を紹介しながら、咲く桜を見るときと散る桜を見るときのいずれもが桜を一番感じさせてくれる時であることを思い出させてくれますと書いた後で、

それは、「無常」の2つの意味につながっていきます。(山折:44ページ)

 一つは、形あるものすべて滅すということです。この世に永遠なものは一つもないという原理ですね。ところが、この無情にはもう一つ、それにもかかわらずすべてのものは蘇る、という考え方も同時に含まれているということにご注意いただきたいのです。
 たとえば、植物は冬に枯れはてて花や葉を落としても、翌年の春を迎えるとふたたび花や実をつけ、葉を茂らせます。人もまたこの世に死んで、つぎの世に子孫をのこします。
 仏教の無常観は、そういう自然の摂理と人間の運命を見据えたところに生まれた知恵だったと思うのです。

これに対して、中村さん(47ページ)は、以下のように反応しています。

 植物の場合、鉱物ほど生と死の区別がはっきりしていません。山折先生が、無情のもつ二つの意味としておっしゃった、形あるものはすべて滅するということと、すべてのものは蘇るということとは、まったく反対のことですから、それを一つの言葉の中に入れてしまうのは矛盾以外のなにものでもないわけですが、植物を見ていると何のふしぎもなく、この二つが一つのこととして受け入れられます。
 一方、動物の場合、確かに子孫に続いてはいきますが、死んでしまったイヌやネコが蘇ってきてという気持ちは持ちにくいのではないでしょうか。ですから、もう一度あの可愛い私のネコを取り戻したいと思うと、クローンをつくりたいという気持ちの方へ動きがちです。しかしこれは、すべて滅するという生きものの本質を否定することになり、結局、本当の意味の生を楽しむのとは違うことになってしまうと思います。

2012年10月4日木曜日

月島



 先日、二十数年ぶりで、月島(東京都中央区)を訪ねてきました。

 1984年まで約5年間、田町(港区)に住んでいたことがあるので、自転車でよく通っていました。「この姿は、いつまでもつかな?」と、当時から心配していましたが、その変わりようにビックリしました。

 前と同じように勝鬨橋から渡って行ったのですが、すでにその時点で高層マンション群が目の前にたくさん見えました。以前は、佃島の先に二~三棟あっただけでした。

 商店街は残っていましたが、シャッターで閉じられているか、もんじゃ屋になっているかのいずれか、という感じです。(もちろん、昔ながらの店もチラホラ残っていました。こういう店が残れるには、コミュニティの存在が不可欠なのですが、それが確実に崩壊しているとしか思えません。)

 商店街から入るとあった長屋は、まだ残っているといっていいのか、お店屋さんに変わっていると言ったらいいのか、それとも、3階建てぐらいの新居も建ち始めていると言ったらいいのか、変化は確実に起こり始めています。

 たまたま高齢化社会におけるサービスのあり方についてのワークショップを開くためにアメリカから来日していた2人を案内していたので、テーマと訪問した場所がピッタリあっていて、よかったかもしれません。

 月島と『ギヴァー』に共通点が多いかなと思い、このブログでも紹介する気になりました。でも、月島で起こりつつあることは、日本中で起こっている気はします。

2012年10月1日月曜日

Alone



Alone ひとりぼっち
もともとは、All + one の合成語。
すべてと一つであること。
背景に何かに包まれている感覚がある。
たんにひとりという「孤立」とは違う感覚。


まさに、ジョナスがコミュニティを抜け出してからの感覚。
でも、ジョナスにはゲイブリエルが常に一緒にいましたが。

Understandと同じ出典の『日常を変える! クリエイティヴ・アクション』プラクティカ・ネットワーク編(フィルムアート社)、p.61でした。


2012年9月29日土曜日

続 Understand


「下 (under) に立つ (stand)」で思い出したのは、

 いま紹介しているライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップをする時、授業中に一番長い時間を確保するのは、子どもたちがひたすら書いたり、読んだりことです。その時、教師はカンファランスといって個別に相談に乗ることをします。

 ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップは、別名を「カンファランス・アプローチ」というぐらいですから、生徒たちは書いたり、読んだりをし、教師はカンファランスをすることが中心と言えます。(そうなんです、日本では伝統的に行われているような書くことや読むことを子どもたち相手に一斉に教えることが中心ではないのです。その時間もありますが、全体の中の5分の1ぐらいしか割きません。教えることと学ぶことは「イコール」ではないからです。)

 そのカンファランスで何をするかというと、子どものいい点やまずい点を把握して、いい点は褒めて伸ばし、まずい点は改善できるようにサポートします。要するに、書き終わったり、読み終わった後に、それをやっても意味がないので、それを子どもたちがしている最中に、やってしまおうというわけです。ある意味で、サッカーや野球などで、練習中にそうしたことをして、チームを価値につなげることに似ています。練習(や試合)が終わった後で、何を言ったり、したりしても結果には何ら影響はありませんから。

 そのカンファランスをするときのポイントはいくつかあるのですが、たとえば改善点は、基本的には一つしか扱いません。たとえ、それ以上改善点を見つけても、一度にたくさん指摘してしまっては、子どもが修正できないからです。

 前段が長くなってしまいましたが、「下 (under) に立つ (stand)」で思い出したのは、カンファランスをする時に、教師は目線を子どもよりも下にさげた方がいい、というのもあることです。

 それは、両者の関係を表しています。
 主役は、子どもなんだ、という。
   そして、教師はあくまでもサポーターなんだ、という。
 子どもよりも目線を下にすることで、子どもの安心度はまったく違ったものになります。
 目線の高さは、きわめて重要であることを再認識させられます。

 ギヴァーとレシーヴァーのジョナスの関係は、どうだったでしょうか?

 ジョナスと家族の関係は?

2012年9月27日木曜日

Understand


前に、色について触れたときに、プラス・アルファで理解する(understandとsee)についても触れました

色 → see → understand という関係で。


そしたら、今日、understand(理解する)について、こんなのを見つけてしまいました。

「下 (under) に立つ (stand)」と書いて「理解する」
上から世界を見下ろしている限り、具体的にものを理解することはできない

盲点でした。考えたことなかったです!

出典: 『日常を変える! クリエイティヴ・アクション』プラクティカ・ネットワーク編(フィルムアート社)、p.41

2012年9月23日日曜日

郡山のみどり書房桑野店の東野さん


『ギヴァー』をつねにサポートしてくれている郡山のみどり書房桑野店・東野徳明さんが、今回も自分の書店以外でのサポートをしてくれました。

書店の売り場の方々が、自身のお薦めの1冊を紹介するという本、『THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』(ミシマ社、2012.8)の中で紹介してくれているのです。

「読み始めたとき もうひとつの人生がはじまり それは、読み終えても終わらない」 と、東野さんの自筆で書いてあります。

そして、本文には、
「世界を眺めるとき、私たちは五感の受け取るすべてを自覚しない。世界のように豊穣なこの本も、書かれている以上を読ませ、受けたと思うより深く衝撃を残す」とも。

2012年9月21日金曜日

『ギヴァー』と関連のある詩


 しばらく前に、「何も心配する必要のない社会」を描きたくて『ギヴァー』の前半というか、3分の1ぐらいは書いた、というようなことを著者のロイス・ローリーさんが語っていたことを書きました。

 そこで描かれている社会と、谷川俊太郎さんの有名な詩「生きる」を比較しておもしろいことがわかりました。

 谷川さんの詩にあるものが、何一つジョナスのコミュニティには存在しないのです。

 谷川さんの詩には書いてありませんが、ジョナスのコミュニティにあったのは「川は流れる」ということ、ぐらいです。

 ということは、「何も心配する必要のない社会」=生きていない社会。

 なんと恐ろしいこと!!!



2012年9月18日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 85


 しばらくぶりの「関連のある本」です。

 研修会の参加者から『海にはワニがいる』ファビオ・ジェーダ著を紹介してもらい、そのつながりで読んだのが『脱出記』スラヴォミール・ラウイッツ著です。

 『海にはワニがいる』の中で、主人公のエナヤットは、10歳の頃にお母さんが本国のアフガニスタンからパスキスタンに逃してくれ(そんなことをされたこと自体、お母さんがいつの間にか姉と弟の待つ本国に帰ってしまってから気づいたのですが)、その後パキスタンとイランで数年働いた末に、イタリアに行くまでの全長5000キロ以上の旅を語っています。著者は、それを聞き書きしたイタリア人。

 一方、『脱出記』は著者が、第二次世界大戦が始まる前の1939年、無実の罪で25年間の強制労働の刑が下され/シベリアの強制収容所に流され、そこから7人の仲間と脱出して、インドまでを歩ききる実話です。距離にして、極寒のシベリア、ゴビ砂漠、そしてヒマラヤ山脈という難所越えを含めた約6400キロ。(こちらは、有名なジャーナリストのロナルド・ダイニングが聞き書きしたもの。初版は、1956年。)
  過酷な状況の中で、笑いとユーモアの大切さが心に残ります。もちろん、自分(たち)を信じることも。★
 2010年に「ウェイバック」のタイトルで映画化されています。

 両方とも、自由を求めた過酷な旅です。


★ ここまで書くと、あの有名なヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』も思い出さざるを得ません。

2012年9月16日日曜日

『ギヴァー』の4冊目


 ローリーさんは、『ギヴァー』は明確に、12~14歳の読者に対して書いたそうです。それ以上の年齢の人たちに読んでもらうことは、まったくと言っていいほど想定しなかったといいます。

 しかし、たくさんの手紙やメールがあらゆる年齢層の読者から届き続けたので、4冊目の『Son(息子)』は、そういう読者にも応える形で書いたそうです。

 一層、読んでみたくなりましたか?

 ちなみに、上記のことは4冊全部をプロモートするサイトで知りました。

2012年9月12日水曜日

社会(世界)を変える


 『ギヴァー』のテーマ(の一つ)は、確実にこれ ~ 社会(世界)を変える、です。
 著者本人が言っていますから間違いありません。
 これは、私ですら読めました!!!

 これがテーマであるからか、他にも理由があるからなのか、ご本人もよくわかっていないようですが、学校や図書館等での購入・推薦リストを作る会議では、必ずと言っていいほど問題になるリストに含まれている一冊が『ギヴァー』のようです。

 ローリーさんにとっては、おかしいことがあったら、それを変えようとすることは至極当たり前のようなのですが、読む人の中にはそうは捉えない人が少なくないようです。
 何も変えてほしくないから??

2012年9月10日月曜日

お金のない社会


 前回紹介した「『ギヴァー』はSF(サイエンス・フィクション)ではない」と当人が語っていたインタビューの中で、もう1点気づかされたことは、「何も心配する必要のない社会」を描き出す中に、ローリーさんは「お金も必要ない」と言っていました。

 しかし、ジョナスが住むコミュニティーでお金が使われていない、とは一言も書いていなかったと思います。

 これが、行間を読む、ということなのでしょうか?

 中・高時代に先生から「行間を読みなさい」と言われても、「行間は白いです」としか答えられなかった私は、『ギヴァー』で描かれている社会では「お金が必要ない」は読み取れませんでした。

 でも、言われてみると、ガッテンです。

 基本的には、「何も心配する必要のない社会」なのですから。

 他に、どんな「行間が読」めるでしょうか?

2012年9月9日日曜日

『ギヴァー』はSF?

 『ギヴァー』の新訳が出たとき、「近未来SF(サイエンス・フィクション)の名作」と本の帯に書かれていたのを見てビックリしたのを、いまだに鮮明に覚えています。

 いったい誰がこのレッテルを貼ったの? と叫んだものです。

 『ギヴァー』を知ってから5年半、いまだかつてSFと思ったことは一度もないのですが、今日、ローリーさん本人がSFと位置づけて書いていない、と明確にインタビューで語っていたのを見ました。彼女が生で『ギヴァー』について語っているところを見てみたいという方は、ぜひご覧ください。

 著者の名前を間違えるのと同じレベルで、失礼だと思うので、著者の了解なしに勝手にレッテルを貼るのはやめましょう!!! 

 私自身、SFの定義がよくわかっていませんが、舞台が未来に設定されると、自動的にSFになってしまうのでしょうか? ちなみに、『ギヴァー』に科学的な部分は一切登場しません(と、ご本人が言っていました)。そして単に、場面を未来に設定しただけだ、と言っています。何も心配する社会を描きたかったから。(もちろん、その社会は大きな問題も孕んでいたのですが・・・そして、それへの対処の仕方こそをローリーさんは描きたかったわけで・・・)

2012年9月5日水曜日

『ギヴァー』の4冊目

友人からの便りです:

英語が全くダメな私ですが、 Gathering BlueとMessenger
は、翻訳が待ちきれなくて原書で読みました!

英語で読んで、Messengerでは、最後はオイオイ泣きました。
英語で読んで、泣いた自分にプチ感動しました。

Sonにも挑戦しようと思います。
楽しみです。ワクワク・・・

2012年9月4日火曜日

『ギヴァー』の4冊目

『ギヴァー』の4冊目、すごく読みたいです。

実は、中学2年生になる娘が、家で『ギヴァー』を読み
学校の図書館で先生に2冊目と3冊目を読みたいと相談したそうです。

司書の先生は調べてくれて、日本語になっているのはまだ1冊目だけのようだから、それを図書館に入れておくわね。という話になったようです。娘は続きを楽しみにしているようです。英語で読めるとよいのですが……。娘にも私にもちょっとハードルが高いです。

2冊目から最新の4冊目までも日本語に訳すという動きはありますか?

2012年9月2日日曜日

『ギヴァー』の4冊目が登場


 てっきり3冊目でおわりか、と思っていたのですが、4冊目が出ます。
 (というか、アメリカではすでに「出た」みたいです。)

 2冊目はGathering Blue、3冊目はMessengerでしたが、4冊目のタイトルはSon(息子)です。

 いったい誰の息子?

 1冊目、2冊目、3冊目とどうつながるのでしょうか?

 The Giverが出版されたのが、1994年。
 Gathering Blueが2000年で、Messengerが2004年。
 そして、Sonが2012年10月。

 著者のロイス・ローリーさんは、20年間この物語を考え続けていることになります。

 このブログは、来月で3年目が終わります。こんなに続けられるとは、はじめたときは夢にも思っていませんでしたが、ローリーさんに比べると17年も少ないのですから、その半分(=7年)ぐらいはいけるような気になってきました。(ほんとかな?)

 考え続けてきた、といえば、私がこの本を読んで、復刊に向けて動き出したのは2007年の春でしたから、すでに5年半になろうとしています。(そうなると、あと残り4年半? もちろん、その間にローリーさんが5冊目を出さないことが条件ですが・・・)

2012年9月1日土曜日

前回の「色」の続き

色がらみで、前回の続きです。

私が、なぜ『心のなかの身体』(マーク・ジョンソン著)という本を手に取ったのかは、いまとなっては覚えていないのですが、最初に読み始めたときは、チンプンカンプンですぐに図書館に返してしまいました。

でも、「わかりにくい文章を繰り返し読むことで、ひょっとしたらわかるかもしれない」事例というか、そういう文章を読んでいる時に頭の中で考えていることを口に出して考えてみる題材として使えるのではないかと思って、また借りてきました。

繰り返し読んででも、まだなかなかわかりません。私の理解力不足です。想像力不足です。(←これらこそが、まさにこの本のテーマなのですが・・・)


さて、色についてです。

195 カンディンスキーは色の一つひとつに働く力を説明している。黄色は「せっかちでうるさい」。赤色には「限りない暖かさがある」が、黄色がもつ「無責任な訴えかけ」はない。青色がもたらすのは、「無限への呼びかけ」であり、「純粋な超越の希求」である。説明はまだまだ続くのだが、われわれの目的からすれば、カンディンスキーの個別的な分析が正しいかどうか、あるいは色の効果は普遍的なのかという天は重要ではない。決定的に重要なのは、色は孤立して存在するのではなく、他の色との関係で存在するという点である。これが、力の複雑な相互作用を成り立たせているのである。

→ ジョナスがまずは見た赤色の分析を著者のローリーさんは知っていたのでしょうか?
確かに、一つだけ見ても、大きな意味はない! そして、その色をあえて消し去った社会をどう解釈すればいいのでしょうか? 相互作用を成り立たせなくしている社会?


さきほどの「わかる」「理解する」「想像する」に関連して、

英語では、当たり前というか、普通に使われることなのですが、
Understanding is seeing. (理解するとは見ることである。) 226ページ が出てきます。

I see. という言葉を英語圏の人はよく使いますが、意味するところは「私は見えます」より「私はわかりました/私は理解できます」の方が圧倒的に多いです。それぐらい、わかる=見える=理解する、なわけです。

日本語には、これに類する使い方はあるのでしょうか?

ジョナスのコミュニティーで、色を見ないという選択をしたということは、理解力を制限することにつながっていないでしょうか? それとも、意図的に理解力を低く押さえるため??

2012年8月31日金曜日

色と記憶のない世界は高齢者の世界?


ある人と話していたら、かなりの年齢になると色や記憶が薄れやすいという話をしていたので、ビックリしてしまいました。(信憑性を確認したわけではありませんが、ここではあくまでも知人の体験談として紹介します。)

もちろん、高齢者の人がみんなそうなるわけではないと思いますが、その話を聞いていて、「それって、『ギヴァー』の世界そのもの!!」と思ったのです。

作者のローリーさんは、色や記憶が薄れる高齢者にとってやさしい世界を描いたのでしょうか? 上のような事実を知った上で??


「では、高齢者がリリースされる原因というか、根拠はいったい何なのかな~?」とも考えてしまいます。

2012年8月23日木曜日

本(読むこと)の排除 = 思考停止



 日本子どもの本研究会編の『集団読書のすすめ』(1974年)の最初の10ページを読みながら、考えたこと(「考え聞かせ」)です。

10 “読書は本来個人のもの”なのか

 「読書は本来個人のものである」という考え方は、今日、日本における読書関係の研究者たちが、口をそろえて語るところである。
 まず、著者の書いた作品を、自律的にしろ他律的にせよ、読者が、読むという行為を行ったとき、読書は成立する。
 ところが、著者の書いている文章、読書の読んでいる文字に投影された“ことば”の規定は、決して著者や読者によって創造されたものではない。

11 これは、人類や民族が長い年月を経て、営々と築きあげてきた文化遺産なのである。
 したがって、われわれが一冊の本に接する場合、直接的には、ある著者の作品や論文に接しているわけだが、その背景では、間接的に、歴史的な文化遺産による媒介に依存し、媒介にひそむ歴史的思考とも対置している。 ← これを、意図的に廃止した『ギヴァー』の世界。
 とくに、この“ことば”を創造したり、質を高めたりする“場”を考えてみてもわかるとおり、集団の中から生まれている。いや、人間が集団的な生活を不可避的に要求されるからこそことばが生まれたともいえる。
 つまり、ことばは人間が時代とともに新しい発明や発見をして獲得した生産方法や、生活のちえ、あるいは創造した有形無形の文化遺産を維持・伝達する仕事を果たすかたわら、ことばを通して、より高い文化を多様に創造した。また、ことば、そのものをつかうという頭脳労働を歴史的継承してきたことによって、人間が、他の動物にみられない、考える力、想像し創造する力を集団的に蓄積してきたのではなかろうか。 ← 何不自由なく、それなりに高い文化を作り出し、そして維持しているかのように見受けられる『ギヴァー』のコミュニティだが、ことばやコミュニケーションの停滞や本を読むことの放棄などにより、「考える力、想像し創造する力」はかなり弱まっていると言える。せっかく蓄積されたものを、自らの判断で捨て去っている社会。
 したがって、人間が読書をするという行為は、一見、著者対読者の対話にみえても、それはもう一歩、ほりさげて考えると、単なる両者の平面的な対置の関係ではないように思う。
 論文や作品の創造とは、著者が常に先人たちの創造物にふれる中からある一定の認識を、著者自身が、自己の独創力と結合することによって、獲得することである。したがって、論文・作品の創造は、常に先人たちの文化遺産の継承として存在している。即ち、文化創造はいかほど有能な人間でも、たとえば狼に養われていて、他の人間と全く孤立した生活では決して生み出し得ないのである。 ← ある意味では、このような文化創造をストップし、ある段階で止まったままの状態を維持する社会としての『ギヴァー』のコミュニティ。

12 同様に、読者も人間である以上、歴史的空間的には、著者同様な過程を経て、多様な認識を獲得しているわけである。それゆえに、読書という行為は、現象的には、著者と読者という個人対個人の対置の形をとるが、読書を人間の本源的ないとなみとして捉えるならば、一個人の作品も集団的歴史的な“所産”になり、読書もまた歴史的集団的な“所産”のひとつのあらわれである。 ← その歴史的集団的ないとなみを、あえて排除する選択というのは、どういうことを意味するのか? それに至る決定を下す過程で、どのような議論が戦われたのかが、とても興味がある。
 単に、「家庭読書20分運動」に参加したり、その運動から抜けるような選択ではなく、自分たちの社会から読むという行為全般(ということは、書くという行為も??)を排除したのだから!!

 では、逆に、「読書は本来集団のものである」と果たして単純に言い切れるであろうか。
 私は、この即断についてもいささか疑問視せざるを得ない。
 なぜならば著者は、歴史的空間的な先人の所産を継承したに違いないが、やはり、その中で著者自体が、暗中模索の中で生み出した部分が加わって、新しい論文や作品=創造物を生み出している。それゆえ、この作品は、たとえよかろうが悪かろうが、けっして、他の人によって、とってかわることのできない、全く、著者自身の創造物なのである。← 作品一つひとつの個別性、というか個性がある。コピーしたものでない限りは。同様に読者の持つ思考形態は、だれもがとってかわることのできない存在である。だから、ある著者とある読者の出合いというものは、まったく、この世に一度しか存在しないという、特殊な出合いということになろう。← 二人の人が同じものを読んでも、異なる出合い/解釈が存在することを意味する。ということは、学校の国語の授業で正解が一つしかない授業というのは、いったい何なのか? 同じ人でさえ、時を変えれば、同じものを読んでも、解釈は違うのだから。

13 一言でいうならば読書という行為は、歴史的空間的には一般性=集団性をもちながら、一方では、著者と読者の出合いという特殊性=個別性をもった、二重構造の上で、はじめて成立するのである。 ← 「書く」という行為にも、まったく同じことが言える。「聞く・話す」も? 「考える」も? 「見る」も? 「感じる」も? 「つくる」も? ・・・・・

2012年8月22日水曜日

続・うっとうしい「残暑」


「残暑」「残暑」の連呼は、一層激しさを増しています。
当然です。昨日も、今日も、ほぼ年間最高気温が続いています。
「猛暑」「酷暑」です。熱帯夜も続いています。
「残暑」などという生易しいレベルではありません。(言っている人たちにとっては、これらは全部同じことなのかもしれませんが・・・)

なぜ、「残暑」を使う人たちは、違和感なく使っているのか、と思って「旧暦」について調べてみました。

日本の旧暦は天保暦である。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は改暦前の天保暦とわずかに異なる。
天保暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われていた。その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる。今なお占いや伝統行事や水産業[2]などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている(改暦にともなう混乱の詳細は、「日本におけるグレゴリオ暦導入」の節を参照)。

ということで、ここでも政府のご都合主義が、原因でした。
後始末を一切しない、ところも今と同じです。
日本人の季節感を、少なくとも29日間ずらしたままが、もう140年も続いたままなのです。
それに対して、誰も何も言わないという極めておめでたい国なわけです。従順な国というか。(もちろん、「従順な国づくり」も国策として延々行われてきているのですが。)

そういえば、「旧正月」や「旧盆」と言って、前の暦に合わせたお祝いにこだわった風習は今でも残っています。ちなみに、私たちのお盆休みは「新盆」です。「旧盆」は約1ヶ月前の7月15日です。(旧盆は、まだ梅雨の真っ最中です。一番暑い時に休みを取りたいということで、みんなで「新盆」に日本中の休みを移動してしまったのでしょうか?)

お盆の方はみごとなぐらいに変えてしまったのですが、「立秋」「残暑」に関しては無頓着です。「残暑」に関しては、「新立秋」にあわせて言うのではなく、「旧立秋」=8月8日ごろのまま言い始めるので、おかしいことが続いているわけです。

ですから、「残暑」は1892年以前の人たちにとっては、立秋(8月8日頃)+29日ですから、今の9月6日以降になります。9月6日が立秋というなら、私たちが体感している季節感にかなりぴったりマッチしています。

この計算であっているでしょうか?

もし、「残暑」「残暑」と8月8日頃から連呼し続けたい人は、「夏休み」を「秋休み」に改名する運動を起こさないといけないと思うのですが、もちろん、そんな意識はありません。
ごちゃごちゃ何でもOKというのが、この日本という国です。

でも、役人の一か月分の給料のために、私たちの季節感をグチャグチャにされたままで、本当にいいのでしょうか? (個人的には、新暦・西暦しか頭に入っていないので、その問題はありませんが、「うっとうしい」問題は続きます! 29日も季節感がずれたままの多数の人たちと付き合わないといけないのですから。特にニュースのキャスターや気象予報士には閉口します。自分で考えることなく、誰かが書いた原稿を読み上げているだけなんでしょうから。)

2012年8月21日火曜日

「残暑」の連呼 で思い出したこと


「うっとうしい」プラス迷惑をこうむり続けていることが、他にもいくつか・・・・

① 選挙 ~ これこそ最大の「うっとうしい」プラス「迷惑」です。あれで投票行動を決める人がいたら教えてほしいです。やっている側も、そんなことがあり得ないことは知っているはず。
 確実に、「迷惑行為を平気でやり続ける候補者には、投票しない」という選択しかありえませんから!!!
 投票に結びつかないことが分っていて、なぜやり続けるのか? 
 不思議でなりません。防災行政無線の子どもの見守り放送=官制騒音公害と同じで、「予防行為」なのかな? 
 結果的に、自分たちのイメージを悪くしているだけなのに。
 本来、やるべきことを、やらなくしているだけなのに。

② 粗大ゴミ ~ あのボリュームを放置し続ける役所は、「癒着」とまでは言わないまでも、何らかの関係があることは明らかだと思います。

 しかし、もっとも頻繁なのは、「防災行政無線による子どもの見守り放送」です。(学校の長期期間中および土・日は解放されますが、他の平日は毎日2時半です。)
 ちなみに、府中市のHPには、これに関して以下のように書いてありました。

この呼びかけにより、放送の音量等でご迷惑をおかけすると思いますが趣旨をご理解いただきご協力をお願いします。

 これに、「協力はできません」「したくもありません」という選択肢は一切ありません。
 私は戦中派ではありませんが、戦時中はこういう放送も含めて、一方的な「協力のお願い」=「命令」がそれこそ頻繁に行われ、ちょっとでも受け入れない人や「反対」の「は」の字を言った人は「非国民」のレッテルを貼られたんだろうな~、と思ってしまいます。
 気をつけなくっちゃ!!

★ うちの自治体は、そんなアホなことはしていない、というところは、ぜひ教えてください。

 そういえば、『ギヴァー』のコミュニティは戦中の日本に似ているところがあるかもしれません。常に、住人は行動を監視しされ、ちょっとでもしてはいけないことをしたりすると、すぐコミュニティ放送でその行為がアナウンスされます(誰がしたかを言うことなく)。
 現代は、「防犯ビデオ」の名のもとにあらゆるところで、人の行動はウォッチされていますから、『ギヴァー』化は着々と進んでいると言えるかもしれません。

2012年8月19日日曜日

リーディング・ワークショップとの関連 8


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。最終回です。

166 自分の考えをほかの人に伝えることをスタート地点にし(それは、あくまでもスタート地点にすぎません)、そこから元々の考えをより良いものにしたり、自分の元の考えを変えたりすることが大切だ、と教師はしっかり強調しておきましょう。

ここに書かれていることの大切さは、教育界はもとより、日本社会全体がおろそかにしていることだと思います。習慣や悪循環がはびこり過ぎているので。その点、今回の増税/消費税に関しては野田さんはじめ民自公は珍事件と言えます。現実は、2周遅れぐらいで遅すぎたのですが。教育界の場合は、その閉鎖性という体質のゆえに、2周~3周遅れがざらにあります。

それもこれも、「自分の考えをほかの人に伝える」というスタートを、ほとんどの人が切らないから、していることの見直しも、修正も起こりません。

ジョナスとギヴァーは、それをし合うことで、これまでには考えられなかったアクションに出ました。
しかし、それはコミュニティのほかの住民たちには、考えられないことでした。

私たちも、後者で行くのか、それともジョナスたちのアプローチで行くのか?

2012年8月17日金曜日

うっとうしい季節の到来


今日も暑かったです。

何がうっとうしいか?
梅雨よりも、猛暑や酷暑よりも、うっとうしい「残暑」「残暑」の連呼を聞かされる時期になりました。

熱中症で倒れる人がいたり、猛暑日だったり、熱帯夜が続いたり、7月から8月の一番暑い時期とまったく代わり映えがしない中、「暦の上で」を理由に、この時期から「残暑」を連呼するマスコミ人(アナウンサーや気象予報士)が少なくありません。

毎年、少なくとも8月末までは、この暑い状態が続きます。
9月も中旬までは暑いものです。

もう少し、「暦」ではなく、自分が体感している「季節」に応じた言葉づかいをしてほしいものです。
連呼する人たちの常識を疑ってしまうだけでなく、聞かされること自体「うっとうしい」ので。

連呼する人たちは、言うことで涼しくなるとでも思っているのでしょうか?
それとも、忠実に「暦」に反応しているだけなのでしょうか? 目の前の「季節」や「自分の体感」は脇において?
いったい何を目的に、連呼しているのでしょうか?
それとも単に、「習慣」で言っているだけなのでしょうか?
(聞かされる側も、黙っているところをみると、違和感はないのでしょうか?
それほど、「暦」というのは私たちの生活に根付き、かつ大切なものなのでしょうか? 体感している、この不快ともいえる暑さの中でも。)

これも、自らの判断を放棄したギヴァーの世界に通じてしまう一つのエピソードです。
それが、「うっとうしい」最大の理由です。

2012年8月16日木曜日

リーディング・ワークショップとの関連 7


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

188 私は、読んだ本について再話する(本の内容を自分の言葉で言い表す)のは「レベルの低い」理解だと以前は考えていました。しかし、「単に思い出すだけ」だと思っていたことを行う過程で、読み手がしなければいけない、この意味の再構築するという活動の複雑さに目が開かれてくるようになりました。当然、読んでいる内容をまとめたり、質問をしたり、解釈をしたりもしますが、実は読みながら意味をつくりだしているのです。

 子どもたちの理解(と誤解)を教師がしっかりと見据えていくと、子どもたちに読む時間と理解できる本、そして本の理解を促進するための話し合いを提供することは極めて重要なことだ、ということがすぐにはっきりします。本に夢中になって興味をもって読む読書家は、誰でもびっくりするような多くのスキルを必要としているのですが、実際に読むことで、それらのスキルを培っているのです。


→ 自分なりに解釈する、自分なりの意味をつくりだす、ということは読む時も、国語教育の中でも大切なことは言うまでもありません。でも、どうも日本の国語教育には「正解」の解釈が歴然と存在するようなのです。しかしながら、文学作品には(科学論文でさえ)、一つの正しい解釈は存在しません。読み手の知識や読むタイミングに、解釈やつくりだされる意味は大きく左右されるからです。

 しかし、よりよい解釈や理解は常に存在しますから、それを得るために話し合うこと、読み直すこと、そして自分の解釈や理解に修正を加えることがとても大切になります。

 そういうことが練習できる場としての学校であってほしいです。誰が決めたのか定かでない正解を得られた量で評価され続ける場ではなく。★ 


★ 私は、この「正解あてっこゲーム」は得意ではありませんでした。そもそも聞いたことや読んだことの記憶力がよくありませんし、教師の思惑を読むのも合わせるのも得意ではありませんでしたから。さらには、このゲーム自体意味を感じられませんでしたから、必然的に熱心には取り組めませんでした。いまの仕組みには、私のようにゲームに熱心に取り組めない子どもたちが、少なくとも半分以上はいる気がします。(ひょっとしたら、8~9割がた?)そんな状態で、ゲーム(今の学校教育あり方そのもの)をやり続けていいのでしょうか? 点数を上げられない人たちや参加すること自体を拒否する人たちを、「負け組」ということでレッテルを貼り、排除してしまっていいのでしょうか? 私には、究極の人材の無駄づかいというか、社会的な資源の無駄づかいとしか思えません。

2012年8月13日月曜日

説明文に正解はある?

そういえば、前回との関連で、今月はじめにある小学校の先生と以下のようなやりとりをしていました。(少し長くなります。)

Sさん:

きのう、T大附属の先生が、説明文の段落をバラバラにして、段落を正しく並び替えさせるという授業を実践していました。
指導目標は、「筆者の意図に気づく」で、すでに学習した説明文の文章構成や、前後のつながりを考えながら、段落を組み立てていく授業でした。

その先生は、「作者の意図を正しく読むことは大事。」「自由に読んで考えて、【何でもいいよ】と認めてしまう、今までの国語は変えなきゃいけない」と主張していました。
説明文においては、読み方に正解がある、でいいのでしょうか?


私:

説明文には正解があると思いますか?
子どもたちにとっては、どちらのアプローチで提示してあげるのがいいと思いますか?

説明文の段落をバラバラにして、段落を正しく並び替えさせるという授業を実践していました。
は、おもしろかった/参考になりましたか? 自分でもやりたくなりましたか?

(以下は、あえてコメントしませんでした: 本当に、実態は「自由に読んで考えて、【何でもいいよ】と認めてしまう、今までの国語は変えなきゃいけない」でしょうか? そうなら、私も国語嫌いにならなくて済んだのですが・・・・)


Sさん:

説明文に正解があるかは、どうか明確な答えはできません。
物語文と違って、正しい読みはあるようにも感じます。

T大附属の先生の、今回の授業は、やってみたいとは思いません。でも、児童の説明文を読み取る力や考えを根拠をもって伝える力は、かなり高いと感心しました。


私:

説明文に「正解」はあるか? 
物語、詩、絵本等のフィクションには「正解はない」、は学校では本当に受け入れられていることでしょうか? 説明文を含めて、ノンフィクションには「正解がある」はどうですか?

単純に、授業がしやすい、テストに出しやすい、というレベルではないでしょうか?

何を正解と捉えるかによると思います。
「筆者の意図」=「正解」であるならば、そうとしか言いようがないかもしれません。

でも、筆者がそもそも誤解している場合は、どうなるのでしょうか?
日本の教育書を読んでいると、そういうのばかりが目立ちますから、筆者の考えや意図=正解と言われても、私は納得できません。
書いていること自体が「間違いでしょう」、としか言えないものがほとんどですから。執筆者たちの「勉強不足」としか言いようがないもの、です。

その意味でも、読者側のもっている知識や体験に大きく依存するのが「読む」という行為ではないでしょうか?
すべての答えが、紙に書かれたインクにあるのではなく!!
『「読む力」はこうしてつける』の第3章で書いたことは、フィクション、ノンフィクションに限らず、すべてのこと(書いてあること以外のものも含めて)に言えると思います。

そして、限りなく「正解」を求めてというか、正解がある題材で行われるのが国語の授業です。
正解のないものは、授業にならないというスタンスで。

新聞記事の多くは、説明文ですから、実際に実験してみてはいかがですか?
子どもたちは、みんな同じ解釈をしてくれるか、どうか。
小2が読める新聞というのは存在しませんか?
説明文の題材として、使えるものにはどんなものがあるでしょうか?

私は、基本的に正解か、正解でないか、という議論は意味がないと思っています。
「読む」って、そんな単純なものではないと思っているので。
少なくとも確実に言えることは、「正解があっては、成長がない」ということです。
それで思考が止まってしまいますから、その先がないことを意味します。

そんなおもしろくないことに「読む」という行為をおとしめたくありません。


Sさん:

ずっと、学習指導要領や教科書ばかりを考えてきてしまったので、読書の価値観もつまらないものになっていました。

たしかに、書かれていること自体が正しいかを判断しながら読むことは、小学校ではしません。
そして、質問に答えながら読むことはあっても、質問しながら読むこともほとんどありません。


◆ ここまでのやり取りを読まれて、どんなことを考えられましたか?



2012年8月11日土曜日

リーディング・ワークショップとの関連 6

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

187 ほかのどんな効果的な読み方よりも、読み手は(ちょうど、書き手が書いたものを修正していくのと同じように)自分の理解を修正することを学ぶことが最も必要なのです。本を読んでいる時も、人生においても、私たちはみんな遭遇したことの第一印象に基づいて様々な解釈を行います。それをくつがえすような新しい面が現れても、第一印象から離れることのできない人がたくさんいます。もちろんこれは、本を読む時だけでなく、生きていくことにおいても理想的なこととは言えません。

→ 日本の国語教育の「読むこと」の領域の中に、この「解釈を修正する」や「読み直す」という考え方は含まれているでしょうか。
 国語の世界には「正解」が存在しています。でも、現実にはそんなものはありません。読む人により、読む時期により、解釈はどんどん変わります。
 第一印象に固執することのまずさと同じレベルで、「正解」に固執することは問題があります。
 『ギヴァー』の中で、それを唯一まぬがれたのが、ジョナスということだったかもしれません。
 私たちの社会の場合は、どうでしょうか?

2012年8月6日月曜日

リーディング・ワークショップとの関連 5


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。(今回は、ちょっと長くなります。)

 日本中で読み聞かせが相変わらず流行っています。
 相当数のボランティアが学校や学校外で活躍しています。
 それ自体はとてもいいことなのですが、この本や『「読む力」はこうしてつける』を読んでいただけると、それだけではまったく不十分であることも理解していただけます。

 今回取り上げるのは、139~141ページで紹介されている語り合いの大切さです。

 あるゲストの教師がKaren Barbour作の『Little Nino’s Pizzeria(ニノのピザ屋さん)』という絵本の読み聞かせをしました。あらすじは、ニノはお父さんのピザ店で手伝いをするのが大好きでした。でもある日、スーツ姿のビジネスマンが店に現れ、その後しばらくして、お父さんの店はチェーンのピザ店に変わってしまいました。その新しい店で、ニノが手伝うことはできませんでした。

 しかし、最後にはお父さんは昔のピザ店を再開することに決めました。以前はお父さんの名前がついていたのを、今度は息子の名前にして・・・という、それなりにハッピー・エンディングのストーリーです。

 読み聞かせをした教師も、ストーリーのとおりを子どもたちが理解してくれればいいと思って読んだのだと思います。

 ところが、あるところまで読んだ時に、女の子が絵本のところまで来て、頭の上の部分がハート型にくり抜かれた小さな揺りかごが部屋の片隅に置かれていたのを指しました。その教師は、これまでに何回もこの絵本を読んできたにもかかわらず、はじめて気づかされました。「赤ちゃんの妹がいるのね?」と驚きました。

 そこから、自分の家でもお父さんは女の子とはまともに話そうとしないこと、息子の名前にはしても、娘の名前はまったく考慮しないこと、チェーン店に加盟する時お母さんに相談したような感じはなかったこと、もし相談していたら違った結果になっていたかもしれないことなどについて話し合われたのです。

 片隅でこのやり取りを聞いていた担任の教師は、「子どもたちは、どうしてこんなに夢中になって話をしているの? たかが本の話についてなのに」と反応しました。

140 しかし、本について語り合い、そこに書かれていることを考えるということは、まさに人間が人間であることの基本的な部分ではないのでしょうか?
 太古の昔、人間は話すことで地球を語り、太陽や星や雨を説明してきたのです。何世代にもわたり、親は子どもたちを集め、自分たちの物語を話してきました。話を理解し、それに意味を吹き込んでいくことがなければ、宗教や科学や歴史とはいったい何なのでしょうか?

→ 『ギヴァー』で描かれているコミュニティーは、このことがまさに欠落している社会なのでした。そして、いまの日本も限りなく弱まっている気がします。そうしないためにも、たんに読み聞かせっぱなしにせずに、読んだことについて語り合うことが大切ですし、不可欠なのです。

141 日々の様々な局面において、「なぜ、このことが起こったのだろうか? 他の方法はなかったのだろうか? これは、他のこととどのようにかかわっているだろうか? これが世界にとって、また自分にとってどんな意味があるのだろうか?」と考えて問いかけてみることは、まさに人間が生きていくことそのものではないでしょうか。
 子どもたちが本について考えられるようにしていくことは、まさに生きていくこと全体にかかわることであり、読むことを教えていくことの本質とも言えます。そして、本を読んで考えていくことを教えていく極めて効果的な方法として、読み聞かせを使っての話し合いがあります。

→ 繰り返しますが、読み聞かせだけでは抜け落ちてしまうことがあるので、それを話し合いによって拾うことが大切なのです。気づけるようにするというか。

 子どもたちが本と一緒に考え、本に書かれていることと自分とのつながりを見いだし、場合によっては本に書かれていることに反対することもできるようになるために、教師は本についての話し合いを使い、最終的には自分の考えたことを表現できるようにサポートしていきます。

→ 本についての話し合いぬきの読み聞かせで、これを実現しようと思っても、難しい部分があります。聞いたことを受け入れるだけの受け身的な人間を作り出しているだけとさえ言えるかもしれません。(さらに言えば、聞いていてどれだけのことが理解できているのかは、読み聞かせた人はもちろん、聞いている本人すらわからない、といった状況かもしれないのです。) 『ギヴァー』のコミュニティーでも、これはやられていません。だからこそコミュニティーのルールに服従する人間を再生産しているわけです。しかし、ジョナスはギヴァーのサポートのもとに、話し合いをし、自分の考えももってしまいました。そしてそれを表現までしてしまったのです。

2012年8月3日金曜日

リーディング・ワークショップとの関連 4

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

111 もし子どもたちが読んでいるときに、教師がいつも横についてサポートできるのであれば教えてもよいかもしれません。しかしながら、結局のところ子どもたちは、教師のサポートなしに自分のベストを尽くして読めるようになっていかなければならないのです。

 読むことに限らず、すべてにおいて同じことですね。
 なでしこのオリンピック初戦で先制点をたたき出した川澄奈穂美選手の記事が上のこととも関連します。

 カンファランスとは、子どもたちが自立した読み手になるようにサポートしていくことです。子どもを自立した読み手にするためには、自分でできる範囲(をちょっと超えた部分)のことを教え、少しずつコーチングをして自ら行うように促し、子どもたちが上手に読めるようになるために考えたり、習慣にしたりするようにお手本を見せていく必要があります。

 熟練工はただ見本を見せてくれるだけで、カンファランス(聞き出すことを中心にした会話を通して教えること)やコーチングはほとんどしてくれませんが、読むことを教える時も、書く時を教える時も、体育や音楽や家庭科や情報などの実技を教える時も、そして他の主要教科を教える時も、①いい見本、②カンファランス、③コーチングは、教えることと同じかそれ以上に重要なはずですが、ほとんど存在しないのが現状です。

 『ギヴァー』のコミュニティーでは、12歳であてがわれた職種で、みんながインターンシップをしているような気がします。実は、12歳の前からかなりやっています。

2012年7月28日土曜日

リーディング・ワークショップとの関連 3

前回との関連で、読むことの「メンター」「よき先輩」としての教師についてです。

78 本のある生活を豊かなものにし、子どもたちに命を吹き込む最良の方法は、教師自身が本との関わりを深め、教師自身の本を読む生活に息を吹き込むことです。本の世界に浸ったり、気になりながらもベッドの横にある小さなテーブルに埃をかぶったままの本を取り出したり、新聞を読んだり、6歳のときに大好きだった絵本を見つけ出したりしましょう。

日本の教育にもっとも欠落していることの一つが、この見本ないしモデルの存在です。子どもたちが真似したいと思える教師の存在です。

 それは、プロである必要はありません。子どもたちよりは「少しは先を歩み続けている」存在です。学校に入る前の親たちが、その役割を見事に果たしているように。

 見本やモデルになることをまったく考えずに、教科書をカバーすることしか考えないのでは、子どもたちにとって魅力に感じられる存在にはなれません。

 教師自身が楽しい、おもしろい、ワクワクしていることでないと、子どもたちに伝わることは「退屈なもの」「カバーしないといけないもの」というメッセージだけです。子どもたちが心底取り組めるものになるはずがありません。

 このことは国語の読むことだけに限定されません。すべての教科で言えてしまいます。

2012年7月25日水曜日

リーディング・ワークショップとの関連 2

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

 教師を対象にした講演等に限らず、広く一般対象にも作家が話をするというのは当たり前に行われていることです。でも、残念ながら読書家(そういう言葉が使えれば、ですが)の話を聞くチャンスは皆無の状態が続いています。もちろん、プロとしての職業としては成り立ちにくいわけですが、読むことを生きがいにしている人たちはたくさんいます。

62 私たちも、子どもたちも、それぞれの生活の中で本を読むことについて「メンター」と呼ぶべき人、つまり「よき師匠」として導いてくれるような読書家にはなかなか出会うことがありません。ちょうど、弟子入りした見習い工が熟練者に学ぶように、子どもたちが教師という熟練した読書家に弟子入りして読むことを学ぶとすれば、教師の読むことの教え方も根本的に変わっていくと思います。

 読むことに限らず、書くことも、話すこと・聞くことも、他の教科も、スポーツや趣味ですることも、そして仕事でも、構造は変わらないのだと思います。

 ある意味では、学校に入る前に私たちが話すことを学んだり、書くことを学んだり、読むことを学んだり、立って歩けるようになったり、箸を使えるようになったり、自転車に乗れるようになったり・・・すべてがすべて、この学び方で身につけていると言っても過言ではないぐらいです。

 それが学校というスペースに入った途端、このもっとも大切な見本となる「メンター」「よき先輩」がいなくなって、登場するのは教科書をカバーする教師という存在です。その人たちの多くは、カバーする内容が好きでも、得意でも、こだわりがあるようでもなさそうですから、多くの子どもたちにとっては、何のためにするのかわからないままの時間が続いてしまいます。「ぜひ真似したい」という動機づけは、ほぼゼロなのです。

 『ギヴァー』のコミュニティーでは、ジョナスも同じ年代の他の子たちもそうであったように、かなり適正を把握されつくして職種が選ばれています。12歳からは「よき先輩」の下で仕事を始めますし、それ以前もインターンシップ的な形で見本から学ぶことを中心に据えた社会になっています。
 ジョナスの場合は、ギヴァーからすべてを受け継ぐ形で。

2012年7月23日月曜日

リーディング・ワークショップとの関連 1


『リーディング・ワークショップ』については、これまで何回が紹介してきました が、あらためて読み直し、気づいた点がいくつかあるので共有したいと思います。

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がしたからです。

21 子どもたちが、ほかの子どもが話すことに耳を傾けたり、ほかの人がいった言葉に影響を受けたりするということは、読むことの教えていく際の根幹に関わっているものと言えます。というのは、今日のアメリカ社会の問題として、単に子どもたちが言葉を知らないということではなく、ほかの人の言葉に対して、自分の心の中や生活の中において創造的に反応できないということがあるからです。言葉や話、そして様々な考えが子どもたちの心に響くことがなく、子どもたちの生活に影響を与えることもない状態では、本に書かれたことについてよく考えたり、そこからよりよく生きていくための術を生み出すことはできません。


これって、日本の社会でも、まったく同じように起こっていることであり、そして『ギヴァー』のコミュニティの中でも起こっているように思います。(もちろん、『ギヴァー』のコミュニティでは、本自体読みません/読めません。会話も表面的なもので、「創造的に反応する」とか「心に響く」とか「よりよく生きていくための術を生み出す」といったこととは無縁のレベルで行われている気がします。

日本でも、国語教育がこのレベルで行われているかというと、まったく期待できません。あえてそうしたことを避ける方法で行われている、とさえ言えるかもしれません。ひたすら学力向上の名の下の点数をあげるために。

2012年7月21日土曜日

『ギヴァー』の読書クラブ


もう1年以上前のものですが、『ギヴァー』の読書クラブの記録を見つけました。

私はまだ『ギヴァー』どころではない時期だったので、開催するだけでもすごい、と思ってしまいました。2時間、みっちり話し合われたことが伺われる記録です。

2012年7月5日木曜日

長老たちの右往左往


長老たちの右往左往ぶりについては、以前にも書きましたが、またここ数日、民主党内のドタバタ劇を見せつけられています。(野党も似たようなものですが)

『ギヴァー』の長老たちもドタバタはしますが、ここまではひどくない気がします。
「国のため、国民のため」と言いながら私利私欲しかないことが透けて見えてきてしまうわが国の政治家たちとは大違いだと思います。

こんなことになってしまう原因は何でしょうか?

私たちが、ちゃんと選ぶべき人を選んでいない?

なるべき人がそもそも立候補していない?

そもそも選挙自体が機能していない?

見えない関係こそが原因?

どう考えても、国会、県会、市会等の議員が(首長も!)給料に見合うだけの仕事をしているとは思えません!!★

『ギヴァー』の長老たちは、どのくらいの給料をもらっていると思いますか?
ギヴァーも含めて、どうももらっているようには感じられません。
基本的に現物支給で、給料などが存在するとは思えないぐらいです。

★ もちろん、給料のおかしさは政治の世界だけに止まらず、スポーツの世界など、経済界全体を覆いつくしている問題です。このことは、6月29日に扱ったテーマに直結しています

★★ ちなみに、1月9日に紹介した大分県・姫島村は、今年の村長選も無投票の確率大だそうです。 少なくとも、選挙という税金の無駄遣いをしていないことだけは確かです。

2012年7月1日日曜日

ローズマリーの存在

ローズマリーは、ジョナスの前任者の女の子の名前です。
 実際に、本には登場しない存在です。
記憶としてのみ登場します。(ギヴァーの中に残る記憶として。そうでした、ギヴァーは記憶を消し去りたくても、消せないなのでした! レシーヴァーに伝えない限りは。)
コミュニティの中ではその名前を使うことも、存在を偲ぶことも許されません。

しかし、ローズマリーが死を選ぶというアクションがあったればこその今回のジョナスのアクションとも言えます。

もちろん、それがギヴァーにも大きな影響を与えました。
ジョナスに対して、ローズマリーがしたことと同じことはさせられないというプレッシャーもあったでしょうし、また、ギヴァーに「自分の娘で、彼女のために自分はここに残る義務がある」と言わせたのですから。

そして、それまでの歴代のギヴァーとレシーヴァーたちが考えたこともなかったことを、この二人は起こしてしまったという意味でも。

ある意味では、生きてこの世にある人(ジョナスにとっては、父や母やリリーやガールフレンドのフィオナや友だちのアッシャーなど)よりも、すでにこの世にない、会ったこともない人との絆のほうが深い場合もあり得るということか、大切にすべき場合もあるということでしょうか?

2012年6月29日金曜日

『うさぎの島』に関連のある本


『ギヴァー』と関連のある本 85としても、はずれてはいないのですが、今回は『うさぎの島』の人間版として『アマゾン・ドット・コムの光と影』(横田増生著)を紹介します。(『ギヴァー』とこの本を直接比較しても、関連づけられないことはありませんが、『うさぎの島』が間に入っていたことで、鮮明になった部分がなくもありません。)

私もアマゾン・ジャパンの愛用者です(過去形にすべき!?)から、考えさせられました。

26日に書いた自動車とも呼応する内容です。
両者とも、あくなき便利さと経済性を追求した産物です。そして、この本がその配送センターに潜入して書いたルポなのに対して、鎌田慧の『自動車絶望工場』(なんと、ほぼ40年前の作品!!)はタイトルの通り自動車工場に季節工として働いた日記形式のルポでした。

コンビニ、ファースト・フード、スーパー、宅配などなど、私たちの生活のほとんどがすでにアマゾン化しているというか、自動車工場化していると言えます。

私を含めたアマゾンの利用者は、その光=便利な部分だけを見ているわけですが、それを可能にしている影=非人間的な部分は「よく見ないと見えてきません」。努力しても、見えないようにしていると言ったほうがいいかもしれないぐらいです。

あたかも、ジョナスのお父さんがニュー・ベビーをリリースしていたように。

2012年6月27日水曜日

『ギヴァー』と関連のある本 84


『うさぎの島』(イエルク・シュタイナー文/イエルク・ミュラー絵)をしばらくぶりに読み直しました。

そして、びっくり!!!

これって、『ギヴァー』の世界!(ということは、わが国・日本!!)


うさぎたちが、養鶏場のケージ飼いと同じように飼育されている。大きくなったうさぎはどこかに連れ出されることになっている。小さいうちにケージに入れられ、外の世界をまったく知らずに大きくなっていく。

そこに、一匹の茶色いうさぎが連れてこられ、大きな灰色うさぎと同じケージに入れられる。一緒に養鶏場ならぬ養鶏工場の外に脱出して、外の世界を二匹でいろいろ体験するが、大きい灰色うさぎは安心できる元の場所に戻りたいという。


この2人による他の絵本も、似たようなテーマを扱っているような気がしてきた。

2012年6月26日火曜日

自動排気ガス製造車 兼 自動殺人車


今日も、大阪市で「ワゴン車暴走、はねられ6人ケガ」というニュースが流れました。 
ここ1~2ヶ月ぐらいの間に、この種の暴走事故がいくつ報道されたでしょうか?
連鎖反応を起こしてしまうのか、と疑いたくなるぐらいに。
(それとも、これまでにも起こっていたのに、単に報道されなかっただけなのでしょうか?)

これらの事故を耳にするにつけ、「自動車」という名称は、理想的過ぎるような気がします。
これまでは、しっかり「自動排気ガス製造車」と称してほしかったとは思っていましたが、最近のニュースで、「自動殺人車」も併用するようにしたらいいと思うようになりました。

ここ1年ちょっと原発への風当たりは相当なレベルまで上がっていますが、確実にそれよりも多くの死者(やけが人)を出している自動車に対しては、そういうことはありません。
「慣れ」の恐ろしさというか、「放射能」の恐ろしさゆえなのか?

『ギヴァー』のコミュニティは、自転車優先社会です。★
車がないわけではありません。
最後に、ギヴァーが運転して、ジョナスを逃がす予定だったぐらいですから、車は確実にあると書かれていましたし、おそらく朝夕の食事も係によって宅配されていましたし、食器も回収されていたように記憶しています。それをどのような手段でしているかは書かれていなかったように記憶していますが、車以外には困難だと思います。
ですから、必要最低限の車は使っている社会です。

それに比べて、私たちの社会はどうでしょう?

必要最低限をはるかに越えている気がします。
飽くなき利便性の追求の象徴という気もします。
そして、少なくとも原発と同じレベルで考え直してもおかしくないと。

★ 鍵は、コミュニティのスケール(規模)です

2012年6月16日土曜日

姫田さん絡みで考えたこと

昨日の姫田さん絡みで・・・

姫田忠義編の『伝える (1)』を読みました。その中から2つ。

高田宏さんの「島で見たことから」は、五島列島の小値賀島、隠岐の中ノ島、八重山諸島の竹富島を訪ねて、見知らぬ人に挨拶をする文化を紹介してくれています。

→ 昔、電車の中でも見知らぬ人と話し合う文化があった。それは、スペースと大きく関係していたように思う。向かい合って4人掛けで座る配置になっていたのである。いま、そのような配置にしているのはよほど田舎な路線でしか見られない。というか、一緒に座った人と話し合う文化が残っているところというか。 島で(あるいは、田舎の山村等で)見知らぬ人にも挨拶をする文化というのは、人口密度と比例関係にあるような気がする。少ないと、人恋しくて挨拶をする、という習慣があるというか。
日本でも車が走り始め、たまに対向車に出くわすとうれしくて互いにクラクションなどを鳴らしあったのを覚えている。大分前の話である。1960年代の初頭の。しばらく経つと、車の数は急激に増え、そんなことはしていられなくなった。
そういえば、山登りをする時は、互いにすれ違う時は、必ずといっていいぐらいに「こんちは」と挨拶をする。場合によっては、「あと、頂上までどのくらいですか?」などとも問いかける。
電車の中でも、お年寄りなどに席を譲るということも、もともとは当たり前に行われていたことなのだと思うが、人口密度が高くなってしまったところでは、そんなことはされなくなってしまったので、シルバー・シートなるものを設けて制度的にやらざるを得ないわけだが、あれを見るたびに失ったものの大きさを感じる。
人口密度/スケールが、どのような人間関係を維持するのかの決定的な要因の一つになっている気がする。
『ギヴァー』のコミュニティは、挨拶がまだ存在する社会なのだろうか?
それとも、挨拶はしない社会?


高木譲さんの「人間だから」は、以下のような内容です。

どこから、どうなってしまったのだろう。
おのれをふくめて、人間を見ていると、ぞっとしてくる。
人間とて生きものだから、生きて行く上での欲も見栄もあるだろう。ところが、一人分の糧や財産を得るのならまだしも、一人なのに二人分も三人分もどころか、百人分も千人分も横盗りしても、へいちゃらである。一人分以上は人様の分だということが判らないらしい。なんでも横盗りする奴らに限って、えらいといわれているのやら、成功者といわれているのやら、学問を身につけたのやらが多い。こんな奴らは身分、地位、財産、教養、知識をひけらかして、おのれよりも先輩になる人たちを呼び捨てにしても、へいちゃらである。大きな家に住んでいながら、小さな池や辺りを陰にしていても、へいちゃらである。大きな車なのに、小さな道に乗り入れても、へいちゃらである。小さな道だからと、歩いている心ある人たちが避けてくれていても、「すみません」と会釈するどころか、俺はおまえたちよりもえらいのだから、頭を下げろといわんばかりの態度である。彼らはクルマから降りて、歩くということさえ知らないらしい。職業でいうと、大企業の幹部らはいうにおよばないが、国会議員や役人らが、そうである。彼らは公僕のはずなのに、そんな当然の心得さえないどころか、おのれの役職にお手盛りで、「長」や「高級」なんていうのをつけて、へいちゃらである。

→ こちらも、スケールが大きくなりすぎた結果起こっている問題のような気がする。少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティではこうはなっていない。なにしろ「画一化」(誰もが平等)を選択した社会なのだから!!
  そういえば、ロシアや中国なども、それを志向したはずなのに、結果的に作り出したのは、資本主義社会で作り出した構造と同じか、それ以上の格差を生み出しているかもしれない。

2012年6月15日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 83


 紹介するのは、姫田忠義著の『ほんとうの自分を求めて』。
 筆者は、民俗学者の宮本常一との出会いで、民俗学の道に入る。日本各地に残る貴重な民俗文化を映像に残す活動を1960年代の半ばから続けている。
 本は、1977年に出版されたもの。


20-21 青ヶ島のタビヤマ(=女性がお産をするためにこもる小屋)はタビ(他火)
23~25 他火と旅は、同義? よりよく生きるための手段 → 旅の語源はおもしろい

42~3 軍国少年だった「私」
  当時をふりかえって私はつくづく思う。私が生まれた時代の日本には、じつに巧妙に少年たちを戦争へかりたてるしくみと、それを正当化する理屈が用意されていた。そしてそれは、なにも私が生まれて育った時代にあたらしく思いつかれ、考案されたというようなものではなく、はるか千数百年前に、あるまとまりのある統一国家のすがたをとりはあめたころからの、日本の政治や社会制度の歴史に根ざしたひじょうに根深いものであった。その根深さを話すために、私はまた別な本を書かねばならないと思っているが、とにかくそういう根強いものを、当時の日本の指導者たちはうまうまと利用し、まとめあげ、私たち少年はもちろん日本の国民全体を戦争へかりたてていったのである。
 → しくみをつくったり、それを活用する側と、それに乗せられる側との違いは???
   これって、戦争だけじゃなくて、いろいろなことに通じてしまいますね!
   『ギヴァー』の世界も同じようなもの

44 満16歳で志願兵として予科練へ。高知に駐屯。
46、49 米軍の沖縄上陸も、広島への原爆投下も、町の人たちから聞いた。(見事に情報操作している軍隊!) → 情報統制は、いつの世も(どこの世も)同じ??

100 工場時代は、千円二千円の計算ばかり。本社では、数百万円数千万円の計算。

 ひとが、どこかの場所で働き、生きてゆくには、まずそこに「なれ」なければならない。そこで生きぬくつもりなら、はやく「なれ」たほうが得だし、また「なれ」ることはその気にさえなれば、意外に簡単なことかもしれない。よくいえば人間の適応力のはやさ、わるくいえば「いきあたりばったりさかげん」。私は、そういうものが自分にもあることを知った。そしてべつなそらおそろしさを感じたのだ。「あれだけ実感がないと思い悩んだくせに、1年もたたないうちにおれはもうなれてきている、平気になってきている。あの思い悩んだことはうそか」。 → 『ギヴァー』や『茶色い朝』も同じような繰り返しによって「なれ」ていく。私たちの生活もまるで同じように。パソコンや、携帯やスマホにも、あっという間になれたように。

109 スタニスラフスキーの『俳優修業』
    「自分の注意点を1点に集中すること」と書いている。
110 座禅の「想をこらす」と同じ!!

136~7 「歴史というものは、ひょっとしたらこの海(対馬海峡)のようなものかもしれない」、とつぜんそんなことも思った。父は木の葉のような小船でこの海をわたった。私は鋼鉄船でわたっている。私たちだけではない、それこそ無数のひとたちがわたった。乗る船も、乗っているものも思いもそれぞれにちがうが、この海をわたることはおなじだ。つまり、この海は、そういう無数のひとたちの思い、喜びや悲しみ、苦しみやなげきのとおりすぎた旅路なのだが、歴史というものもこれと似てはいないか。歴史というものもまた、無数のひとたちの思い、喜びや悲しみ、苦しみやなげきがそこをとおりすぎる旅路のようなものだ。しかも、この海の旅路は、陸上のそれとはちがって、その上に一個の道しるべも一本の記念碑ものこすことはない。すべてを知っておりながら、なにものも残さず、永遠のうねりをつづけている。この動きのなんとぶきみで非情なことか。そして歴史というものもまた、こういうぶきみさや非情さをもっている。たとえば私の家の歴史がそうだ。私は、父母や祖父母のことは知っている。けれど曽祖父母のこととなると、ほとんどなにも知らない。 → 『ギヴァー』のテーマである記憶、歴史

151 昭和40年代の対馬への韓国からの密航者(そして、いまでも続く、北朝鮮からの密航者たち)の存在について ~ そのひとたちには、それぞれ密航しなければならない理由があるはずだ。その願いをなぜはたさせてあげられないのか。国境とはなにか。また国境というものをつくった国家というものはなにか。

152 パキスタンとアフガニスタンの国境の自由さ ~ ふるい生活的なつながりの歴史を、両国政府がおたがいにみとめあっている結果

173 奈良時代の行基の行いを真似た江戸時代初頭の円空の存在。それも北海道で。 → 円空さんや姫田さんたちのような「旅」をすることができない時代になっている。する側も受け入れる側も躊躇してしまう。ジョナスも、その旅に出た。

184~5 昭和30,40年代 = 高度成長期 ~ ゆくさきざきに、日本という国での政治や経済や社会制度がゆきついた深刻な危機があらわれていた。 → それが50年経ったいまも続いているというか、深刻度は一層増している状態。もちろん多くの人は「なれ」で気づかないというか、気づいていても気づかない振りをしている??

198~9 「国有林」という思想

223 アイヌをはじめ北方系の人たち、沖縄の人たち、小笠原に住む人たち、韓国・朝鮮の人たち、中国・台湾の人たちの日本での存在

2012年6月13日水曜日

いろいろな切り口で捉えられる本


齋藤孝著の『読書力』(岩波新書)の中には文庫100冊+1冊が紹介されているそうです。

私にはそれらを読もうなんていう気はもうとうありませんが、気をひいたのはそれらの本をくくっている項目立てでした。

『ギヴァー』を、それらの項目で評価してみたらどうなるかな、と思ったのです。
(◎よくあてはまる、○ほどほどあてはまる、△あまりあてはまらない、×まったくあてはまらない の4段階評価で)

あなたの採点は、私のと違いますか?
                                                                                               私の評価

1.まずは気楽に本に慣れてみる                 ◎
2.この関係性は、ほれぼれする                  ◎
3.味のある人の話を聴く                      ○
4.道を極める熱い心                         ○
5.ういういしい青春・向上心があるのは美しきことかな     ◎
6.つい声に出して読みたくなる歯ごたえのある名文               △
7.厳しい現実と向き合う強さ                     ◎
8.死を前にして信じるものとは                   ○
9.不思議な話                            ◎
10.学識があるのも楽しいもの                  △
11.強烈な個性に出会って器量を大きくする          ○
12.生き方の美学・スタイル                     ◎
13.はかないものには心が惹きつけられる                             ◎
14.こんな私でも泣けました・感涙は人を強くする                   ○
15.全人類必読の一冊  (これが+1冊です)                        ◎

かなり甘い評価でしょうか?
なんと、×なしでした。(△は怪しいかな、とは思いつつ。)

ぜひ、あなたの評価を私の隣に書き込んでみてください。

もちろん、すべての項目に満遍なく高い評価だから「いい本」ということにはならないと思います。また、これらの項目が押さえられたら「読書力」が向上するかというと、そうも思えません。

2012年6月8日金曜日

『親鸞』激動篇

五木寛之の『親鸞』上・下の続編の『親鸞』激動篇の上・下を読みました。

本人が、あとがきで「登場人物、背景など、物語作者としてかなり自由に想像力を駆使する結果となったが、あくまで小説として読んでいただければ幸いである」と、書いているように、この本は人物評伝的なノンフィクションではなく、あくまでもフィクションです。

前回の『親鸞』上に続き、『ギヴァー』と関連のあると思ったところを抜書きしました。

今回は、前回のようなインパクトは感じなかったので、扱いは「『ギヴァー』と関連のある本」とはしていません。壮年期に入っている親鸞が主人公だからでしょうか?




138 300年、500年かかって人の心に根づいたものは、一挙には変わらない。<世のならい>に妥協するわけではないが、自分の考えを一方的に押し付けただけでは世の中は動かないのである。

204 親鸞は、人に語ることは、自分の問いかけることなのだ、と、はっきりと感じた。人に語ることは、教えることではない。それは、人にたずねることなのだ。もっと話したい、と親鸞やつよく思った。

226 野焼き、ということがございますね。いったん焼いてしまう。その焼野原から、新しい芽が生まれてくる。・・・民、百姓も、役人たちも、みな思いちがいをしているのです。それを根底からくつがえして、本当の念仏の意味を語られるには、まず、壊すことが先。こわして、焼野原になった跡に、ちいさな問いが生まれてくる。それでは一体、念仏とはなんだろう、という疑問です。それが第一歩ではありませんか。




148~9 ストーリー(それも自分の過去をさらけ出す)と歌の力

243 自力では さとれぬものと さとりたり
    他力にすがる ほかにみちなし

309~310 「もし嵐で船が難破したとする。逆巻く波の夜の海で、おぼれそうになっているときに、どこからか声がきこえた。すくいにきたぞ! お~い、どこにいるのだ~、と、その声はよんでいる。さて、そなたならどうする?」
 「ここにいるぞ~、お~い、ここだ、ここだ、たすけてくれ~、と声をあげるでしょう」
 「そうだ。真っ暗な海に聞こえてくるその声こそ、阿弥陀如来がわれらに呼びかける声。その声に応じて、ここにおります、阿弥陀さま!とこたえるよろこびの声が南無阿弥陀仏の念仏ではあるまいか。この末世にわれらが生きるということは、春の海をすいすいと渡るようにはいかない。私自身も、これまで何度もなく荒れ狂う海の浪間で、自分の信心を見失いそうになったことがある。そんなとき、どこからともなくきこえてくるのが、阿弥陀如来のはげましの声だ。お~い、大丈夫か~、とその声がひびく。は~い、大丈夫で~す、ありがとうございま~す、と思わずこたえる。それが他力の念仏であろう。わたしはそう考えている」
 「では、わたくしども呼びかけられる阿弥陀如来のその声は、いつでも、だれにでも、きこえるものなのでしょうか」
 「いや、いつでも、だれでも、というわけにはいくまい。波間にただようわれらをすくわんとしてあらわれたのが、阿弥陀如来という仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。信じれば、その声がきこえる。信じなければ、きこえないだろう」
 「では、まず。信があって、そして念仏が生まれるということでございますか」
 「そう思う。いまのわたしに、わずかにわかっていることは、まことの信を得るために自分自身を見つめることの大事さだ。このわが身の愚かさ、弱さ、頼りなさ、それをとことんみつめて納得すること。それができれば、おのずと目に見えない大きな力に身をゆだねる気持ちもおきてくるのではあるまいか」

2012年6月6日水曜日

自分こそが自分の人生を書き記す書き手



ある本を読んでいたら、こんな引用を見つけました。

If you want your life to be a magnificent story, then begin by realizing that you are the author and every day you have the opportunity to write a new page. (Mark Houlahan)

自分の人生をすばらしいストーリーにしたいなら、自分がその作品の書き手であることと、日々新しいページを書く機会をもっていることを認識することから始まる。

2012年6月5日火曜日

2012年6月4日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 82


しばらくぶりの『ギヴァー』と関連のある本です。
『ギヴァー』の協力者のHさんから以下メールをいただきました。

「茶色い朝」 Franck Pavloff著 、原作はフランス語 Matin Brun、大月書店から邦訳:2003年

1998年に、ファシズムについての学会向けに書かれた短編の寓話ですが、その後、口づてに広がり、今ではフランスでベストセラーになっています。 ルペン率いる移民排斥の極右政党国民戦線がフランスで支持を広げていることへの危機感が背景にあります。 ストーリーはジョージオーウェル風の未来国家像についてです。 茶色以外の猫をペットとして飼っている場合、餌に毒を混ぜて安楽死させることが政府の方針になります。友人のチャーリーと「私」は多少違和感があるものの、さして重大なこととは思わず、無関心なまま日々の生活に追われます。 次に茶色以外の犬が同様に標的にされます。 そしてじわじわと 次は「茶色系」新聞以外は発禁に。気が付いたら、以前茶色以外のペットの飼い主だった「私」にも逮捕の危険が迫ってきています。  これを読んで、「ギヴァー」を思い出した次第です。 「世間」の流れに身をまかして、事なかれ主義で保身に走り、思考停止していると、じわじわと 危機が音をたてて近づいてくるかもしれません。 「茶色い朝」は 風刺という手段の鋭いパンチです。 こういう短編の寓話(わずか11ページ)がヨーロッパで現在競って読まれている背景には、ホロコーストを止められなかった歴史への強い反省が流れているからだと思います。 批判精神を枯れさせない、ヨーロッパ市民の健全さを感じます。 果たして日本はどうでしょうか?

  内容については、まったくHさんが書いてくれているとおりなのですが、私がこの本を読んで思ったことは、本国フランスでは1ユーロ(今は約百円)だったのが、日本では1050円で売られたこと。そして、本文よりも長いメッセージ(解説)がついていることでした。

2012年6月1日金曜日

小6のブッククラブ (クラス全員版)

『ギヴァー』を使って、クラス全員(小6・男子17人女子16人の計33人)のブッククラブをしたF先生のレポートです。

○『ギヴァー』を選んだ理由は?

 自分が読んで、読み出したら、止まらなくなってしまった本で、この不思議な話をぜひ読んでほしいと思っていたこと。子供たちにとって、易しすぎず難しすぎず、程よいチャレンジレベルだということ。自分も読んでいて、いろんなことをイメージしたり、予想したり、疑問に感じたりと、ぼーっと読んでいられない!?内容なので、グループで語り合うときに、話題に事欠かないんじゃないかと思ったこと・・・で、(卒業間近な年度末に)みんなでチャレンジしました。

○実際にやってみた結果は?

 実際読み進めていくと、本によっては、こちらの選書ミス?で、語り合うことがなくて、暇になってしまうことがたまにあるのですが、ギヴァーに関してはそれはまったくなかったです。時間がたりないくらいでした。想像力をかき立てられるんでしょうね。話が盛り上がることで、読解力が厳しい子たちの内容理解にもつながっていたので、みんなで読み通せたのではないでしょうか。そして、最後のまとめ/振り返りでは、子供たちなりに家族のあり方、 理想の家族とは・・・平和とは・・・社会のあり方あたりに、話が及んだりして、学びの多い、読んでもらってこちらも大満足の一冊でした。


★ 本は、『ギヴァー』をたくさんもっている知り合いの先生たちから借りて、33冊をちゃんとそろえた上で実施したそうです。

2012年5月30日水曜日

20代の女性たちのブッククラブ 第5回(最終回)


 20代の女性たち4人によるブッククラブの最終回です。


Cさん

p233 ゲイブ解放があっさりと決まっている。抑揚のない声だった、とあるけど感情を表すことなんてないだろうし もはや感情さえないだろうからね。。

p233 そして過去のない世界。過去から学ぶってことがどれだけ大事かってことを考えさせられたな。人とのつながりも過去があるから学んで考えて深い繋がりになるんだと思うし。身近なことだけども、そうじゃない場合もあるのね。

p234ついにゲイブリエルを盗んだ!!発覚したあとが気になるけども、何事もなかったかのようになりそう。

p236 背中をさすって疲労の記憶を注ぐとあるのが、逆に、元気な記憶を注ぐのもありえるんだよね。
それで実際元気になるのかな。やってもらいたい…
でも、それは肉体だけで、感情が伴うのだったら、乗り越えないといけないですわね。

p251最後はどうなっちゃったのかしら。ただの、こだまだったかもしれないってあるから、やはりよそには行けなかったのかな。
やっぱ少年一人の力じゃあ コミュニティはどうにもならないのか。うーんこんな世界 いやじゃ!


Dさん

P232 ゲイブリエルの解放
長い間一緒に過ごして家族のようだったゲイブリエルに対して「さっさとかたづけたほうがいい」なんてひどいね。まるっきり情はないんだね。

P233 そこでは予期せぬことは何も起こらない〜
不便や異常・痛みのない世界って一見理想的に聞こえるけれど、この社会が理想だとはとてもいえない気がする。安定と引き換えに色んなものを失ってしまってるよね。

P234以降は自分を犠牲にして必死にゲイブリエルを守ろうとするジョナスに感動。
つらいこと・苦しいことって嫌だけれど、そういう時があったからこそ乗り越えた時の嬉しさは倍になるし、楽しいことや嬉しいことがあるから、乗り越える力になる気もする。どっちも必要なんじゃないかなと思うな。

P247ぬくもりを独り占めしたい〜
ただ一人の人間と分かちあいたい
どっちも分かるけれど、他の人と共有するこることで一人で経験したのでは得られないものを得ることができるよね。一緒に何かをする、分かち合うって大事だね。

ラストは含みをもたせた感じだったけれど、幸せになっててくれてたら良いなと思いました。なんとなくパトラッシュとネロに重なったよ。


Eさん

ついに完結したね。結局、コミュニティにそぐわない、手におえない人は解放によって生を奪われ、そこから抜け出そうと英知をもってしたジョナスも本当の自由は手に入れることができなかったようだね。

最後のそりの先に何が見えたのだろう。制限された自由=日常で、同時に保護でもあったということを強く感じました。

ジョナスのようにすべてを知覚することができても、自分の身を自分だけで守ることはできなかった。

だけど、最後の力を振り絞ってゲイブにあたたかい感情を伝えることができてよかった。どこかで彼が生き続け、いつか世の中に変化をもたらすことはあるのかな。「愛」で通う世界を作り上げていけるのかな。

飢えというのは、お腹がすくことだけではなく、きっと世間から完全に切り離された孤独の極限状態がうむものなんだね。

深い終わり方だった。。ジョナスを失ったコミュニティに新しい気づきがあることを期待してしまう。。


Fさん

余韻を残すラストだったなぁ。

P233 お父さんはやはり「解放」することに悪気も抵抗もないんだねぇ。。。事実を知ってしまったジョナスの心境が分かって辛い。。。
「色彩のない、痛みの無い、過去のない、感情も無い、愛に飢える世界」はどのように作り出したのだろう??
と原点に戻ってしまうけど、そういう世界を作る最中、コミュニティの人々は、原発を抱えるところで住民が賛成派と反対派に分かれてしまったようなことは起きたのかな?
同一化した方が良いと思う人と、そうじゃない人で対立はあったんだろうな?
そして、推進派じゃない人たちを「よそ」に追いやったのかも??

P234 ゲイブはずっと自転車の後ろでおりこうさんだね☆

P238 ジョナスの記憶が淡くなり、コミュニティの人々に記憶が戻るということ。そのコミュニティの様子は描かれてないけど、相当パニックだろうね。ジョナス以外にゲイブもいなくなってしまったし!
でもゲイブは元々「解放」される予定だったから、いなくなってもあまり探さないのかな?

P241 初めて出会う「滝、動物」はそれは感動だろうなぁ☆自然への畏敬の念を抱くこと、都会にいると忘れがちだけど、やはりそういう時間を持たないと、人間がすべてコントロール出来ると錯覚起こすし、共存するという思想がなくなってしまう。。。

P247 「ぬくもりを分かち合いたい」と思う感情に感動。やはりそういう感情や守りたい存在を持てると人は強くなれるのかな。それがないコミュニティの人たちは自分で感じられないし、考えられないし、本当に言われたことをやるしか出来ないんだろうなぁ。。。改めてそんなのってむなしい。。。

P250 ジョナス自身の記憶の認識!なぜ雪のそりのシーンはそうやって自分の中に留まっていられるの?最後のシーンはよく分からない結末だったけど、結局どうなったんだろ?そりの記憶と共に雪の中で力つきてしまったということ??それとも実際「よそ」について、人々の歌が聞こえたの??
希望としては最後の力を振り絞って、「よそ」の人と出会えたということであってほしい!
そして、「よそ」でコミュニティをどうにかしようと立ち上がる人々と共にコミュニティに帰り、色彩や感情、幸せや愛を感じれるような社会に戻して欲しい!

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ありがとうございました。

本来のブッククラブは、それぞれの感想や疑問などをもとに話し合うこと(メールだと、相互にフィードバックし合うこと)なのですが、メールでは難しかったようです。

2012年5月25日金曜日

20代の女性たちのブッククラブ 4回目からの気づき


4回目のブッククラブで、4人のメンバーが繰り返しあげたキーワードは、



記憶

感情のない世界

記憶と感情の関係

勇気 (ローズマリーの選択)

でした。

2012年5月23日水曜日

20代の女性たちのブッククラブ 第4回

Cさん

p174
アイ。愛ってことばさえもなかったんだね、今まで。いろんな形があるだろうけど、 両親だったり友人だったり恋人だったり、怒るのもイラつくのも喜ぶのも悲しむのももちろん楽しいのも 全部対。
愛する人がいるから出来ると思うんだよねー。
そしてそれを 感じないといけないし 感じられてないから 意味のない言葉ってなったんだろか。

p178 で、楽しい? たのしい。誇りに思う? 思うよ。って言うのは ただ単にオウム返しじゃん。
愛とは 抽象的な言葉なのかもしれないけど、だからこそ言葉にして、どのくらいっとかどんなふうに、っていうのを伝えることができるよと 思うな、人それぞれ感じ方も違って だから問題もあるんだろうけど 考えながら成長もできる。コミュニティがうまく 機能するのが最優先なのな。ま、そりゃそーか。

p179ゲイブリエル には愛もあるんだよと伝えてんだね。

p187~188
過去を知らないってのは、ほんとに悲惨なことだね。確かにわかるはずもない。記憶って 普段なんとも思わず心に留めてるけど、何をするのも、人とどう接するのかも、記憶や過去を参考にしたりするから、それができないって悲しいね。人を傷つけないように、とか、こうだったから喜ぶだろうな、っていうのも記憶や感情を頼りに 考えて接するけども、できないんだね。

でも、周りもそうなんだから、このコミュニティでは当たり前か…

解放、きっとどこかに行く と見せかけて死んだことになってんのかな、と思ってたけど、まさかの父の手によって 殺されてたなんて。こざっぱりさせてやるって 嘘くさいとは思ったけど。

でもその記憶もないのよな? 感情もなければ記憶もない。だから 躊躇なくできんの?感情ないって 悲しいし怖い。

そして娘がローズマリーだったのね。まさかの親子でレシーバー…。辛いね、衝撃でした。


Dさん

P184 戦争ごっこ
戦争の記憶を持ったジョナスがこのゲームを受け入れられなくなる気持ちは分かる。私も人を殺すゲームは嫌いでやりたくないもん。
でも知らないと分からないんだろうな。特に子どもは、善悪よりも楽しいかどうかのほうが大きいだろからね。

P207 解放の儀式
解放=死なのかなっていう気はしていたけれど、こんな形だったとは!お父さんとってもいい人そうだったのに。
感情がないって恐ろしい。

読んでて思いだしたのだけど、人を殺して精神的におかしくなってしまうアメリカ兵が多いらしいのだけど、その一方で、内乱の地域の少年兵はすごく残忍で機械化してしまうんだって。テレビに出てたまだ10歳になってないような子も、小さいころから当たり前のように人殺しを繰り返してるから殺すことを何とも思っていなかったよ。

つらいことやいいこと、全部ひっくるめて、人の感情や記憶って大切なんだと思う。

そして、そもそもおかしいのはこのコミュニティの仕組みだよね!間違えをおかしたり、仕事に適合出来なかった人を、殺すことで解決するのなんてひどい。

ギヴァーとジョナスの計画とか、色々動きもあって衝撃的な展開だったね!それと最後(p229)の娘の名がローズマリーっていうのは、前レシーヴァーのローズマリーが娘ってことだよね?ってことは行くべき場所=死ぬことだよね。

娘を失ってすごくショックなのに社会のためにたった1人で痛みを背負っていかなきゃいけなかったなんて、すごく切ないね。死以外の形でギヴァーさんが幸せになったら良いなと思う。

嬉しい記憶も辛い記憶も全員でわけあっていくように変わったらいいなと思うけれど。。あと2章どんなエンディングなんだろう。


Eさん

20章まで☆

衝撃の5章だった^^;

P.176 ぼく、愛という感情が好きです
「愛」という感情として人々は認識していないのかな?後でも「愛」という言葉は正確ではなく、楽しいとか誇りに思う、という言葉に置き換えられていたけれど。家族に対して感じている感情がどんなものなのか、今いちわからなかった。自分たちで産んだ子どもではない、というのが大前提で、法律の範囲内で「供給」をされた存在なのかな。。結局は。たとえばほかの家族ユニットに対する感情と自分の家族に対する感情の違いが「愛情」なのでは?と私は思うけれど。

う〜ん、ジョナスの心の中がもう少しみたいね♪

P.184心の奥にある感情は、語る必要はない。感じるものなのである。
大切な人であれば、感じることができる。大切な人だからこそ言葉にしないと伝わらない感情もある、言葉にするから伝わる想いがある、と私は思う。深いね。
一言や二言で埋められるものではないものね。

解放について
・・もしかしてリリーがいうように双子ばかりで、誰も知らないコミュニティが形成されて顔も形も同じ人ばかりが暮らしているのもあり得るのかも、と思っていたけれど、まさか殺してしまっていたなんて・・・。
衝撃すぎる。しかも、処置をする人たちにはそういったことへの感情を持ち合わせていないから「嘘」を平気でつける、とは。わからない。子どもを与える「調整」ができるのなら、双子が生まれてこないように(片方を解放しなくてすむように)できないのか、憤りを感じるな。
規則違反や老齢者を人為的に殺しているなんて、、もっとも不幸なのは、ほとんどの人がその事実を知らずに幸せだと思って暮らしていること。

ローズマリーがギヴァーの娘さんだったのね:: 深い悲しみと痛みにたえてきているギヴァーの苦悩が少し伝わった気がしました。。


Fさん

P169 ジョナスが痛みを伴う記憶がいらない。というのは、戦争映画などを見たくない自分と重なった。
色々なことを知り、視野を拡げるということはやはり受け入れがたい内容はあるにしろとても大切なことで、過去や歴史から学ぶことは大切なんだなぁ。
歴史も何も存在せず、ただコミュニティがあっても深みやぬくもりがない。

P172 祖父母と会ったことないのも驚き!やはり命の繋がりとか家族の繋がりが希薄なんだね。きっと個と個という認識で、絆とか芽生えないんだね。
ほかのやり方、在り方を想像したこともないって、本当にすごい洗脳だ。。。
「愛」という概念がないのもビックリ。これはやはり家族という最小のコミュニティでその概念が共有されないからだろうね。動物もいないし。。。愛情を抱く相手がいないのか。抽象的と捉えられて、死語扱いされてるなんて。。。
彼らのコミュニティはどういう概念が一番大事にされてるのだろう?秩序を守ること?問題を起こさないこと?信頼??

P183 浅い感動しか抱けないのはなぜ?錠剤がそういう風に感性を鈍らせてる作用もあるのかな?
言葉は感情を表すには少ないとは思うけど、実際深く感動しないのが普通の生活を想像するとつまらない。。。
「心の奥深くにある感情は語る必要はない。感じるものなのである。」
感じられない感性の人々に囲まれていたら、それは孤独に苛まれるね。

P188 記憶がないと深い愛情を感じれないとは言い切れない?ジョナスはアッシャーもフィオナも愛情は返してくれないと思ってるけど、言葉や概念として分からないだけで、そういう感情は抱けると思うけどな?

P197 ギヴァーがローズマリーの笑い声を聞けて嬉しい気持ちに共感。普段、誰の声もしないのは寂しいよね。

P201 渡した記憶は失われるのに、受け取った記憶が永遠に生き続けるのは不思議!そして、レシーバーがいなくなったらその記憶がコミュニティに共有されるのも謎だけど面白い。

P206 「解放」のシーンは衝撃!お父さんが殺す行為をしていたなんて。。。でも、お父さんは命が尊いと思う概念がないのだから、悪気はないのだろうね。むしろ、見た目が同じ人を存在させないようにする行為として、良きことだと洗脳されてるんだろうな。

P212 ローズマリーが「解放」を選択したのはなぜだろう。辛い記憶に耐えられなくなったのではなさそうだし、「解放」という行為も知っていながら命を断つというのはどうしてだろう。

勇気とは何か? 難しい。彼女は記憶を渡され、彼女なりの信念を持てるようになっての選択だろうけど、どうしたかったんだろう。コミュニティを変えるため??

P216 感情をもっているのは、ギヴァーとジョナスだけというのも衝撃!記憶がなければ本当に感情をもたなくなるのかな。
感動しにくい人っているけど、そういう人との差って何だろう?
やはり色々経験したり知ってると感情移入したりして、感情を感じる幅が広がりそう。

記憶を分かち合えなかったら、確かに辛い場合、心が張り裂けて精神的におかしくなるね。ローズマリーは、感受性豊かすぎて、そういう状態になってしまったのかな?

P229 まさかギヴァーの娘がローズマリーだったなんて!!衝撃的!!!

これからジョナスは脱出してどうなるんだろう??

人々が記憶を担うようになって、コミュニティが良き方に変わると良いな☆

2012年5月21日月曜日

20代の女性たちのブッククラブ 3回目からの気づき



P115 記憶を伝達出来るなんてすごすぎる!!でもこれは今もアフリカの先住民たちなどは伝承という形で事実や神話という形で何世代にも渡る記憶を語り継いでるのかもしれない。ギバーとジョナスのようにリアルな感覚は体感出来なくても、本を読むだけではなく、伝える人(ギバー)の感情がこもっていれば、受け取る側(レシーバー)もある程度、共感して理解出来るはず。丁度近々おばあちゃんの家に行くから、おばあちゃんの色んな記憶を受け継いで来ようと思う。前にも聞いたことあるけど、忘れてしまってるから今度はメモも取ろう。
P129 記憶を呼び覚ますこと、これ、頻繁にしないと忘れてしまう。。。記憶力じゃなくて、記憶を呼び覚ます力鍛えたい!
記憶って改めて考えると本当に不思議!
P159 記憶を分けもつようにしたい!不公平!協力して変えたい!て賛成賛成!
P168 戦争映画とかも嫌いで見れないから、ジョナスがリアルにそれを体感したのはすごく辛そう。戦争って本当に理不尽。。。現代はまだ存在する争いごと。。。見たくないからってグロテスクな映像は見なくてもちゃんと戦争や歴史について知らないといけないって気になってきた。。。
→ 記憶、歴史、神話の大切さ・・・
  この辺の記憶や歴史については、年齢を重ねているからいい選択ができるということとイコールではないことは明らかです。
  また、文字のない時代は、語りや絵や踊りなどで、その記憶を伝えてきたんだと思いますが、映像媒体等の普及で(他にも理由があるんでしょうが)、それらが不活発になっています。
  テレビやラジオ等とは比較にならない記憶を受け継ぐ媒体としての本の役割は大きい気がしますが、それが『ギヴァー』のコミュニティには、ギヴァーとレシーヴァーにのみ読むことが許されています。(もちろん、二人しか読めないということは、マーケットがないので、ここ数十年・数百年は新しい本が出版されていないことも意味していると思います。)

P117 気候制御 同一化
実用的なのは良いことだけれど、不便があるからこそ便利なものがすばらしく思えるんじゃないかな。全部なくさなくても良い気がする。雪遊び楽しいのにな。
あと陽光を知らないってことはこの世界に光はないのかな?どうやって農作物育ててるんだろう
同一化に向かった未来。そのきっかけはやはり戦争や貧富の差なのだろうか?丘もなくし平地にしてしまうって地球への負担が多すぎる気もするけど。。。そんなことまでして、色まで無くしてしまうほど同一化に向かわざるを得なかった原因は何だろう?
P118 陽光も知らなかったの!?てことは、太陽もなく、常に曇り空ということ??
雪もないということは雨もない??
→ 同一化を便利さとイコールで捉えてしまってはまずいでしょうか?

P124 言葉の正しい用法
「謝罪します、受け入れます」のやりとりは正しい言葉使いかもしれないけれど、形骸化している気がする。
こう言わなくてはいけない=これさえ言えば良いみたいな。自分の思いを伝えるのって難しいから決まったことを話す方が楽だけれど、自分の言葉で伝えることをなくしてしまうのは残念。
→ チェーン店に入ると、すでにこればかりの気がしますが。そういえば、学校や企業や役所の研修等でも「規律・礼・着席」でした。

P136 選ぶということが重要
P136 選択したい!ジョナスの欲求。これは最も!やはり何もかも同一化って不自然すぎる。
選ぶことが出来ない世界を当たり前と思って日々生きている状況は、想像しようとしても想像出来ない。。。
ただ日々をこなす感覚になりそうで、やはり幸せって感じれないと思うけど、そう思うのは今自由に選べる世界にいて、その世界の幸せを感じれるからかな?この世界の幸せを知らなかったら、選べない世界で幸せを感じられるのかな?
P138 間違った選択から人々を護る
間違えても失敗しても、自分で決めたことなら受け入れられるし、そういう経験も大事な気がする。時には護ることも必要だけれど、全部じゃなくて良いと思う。アドバイスをしっかりして見守るっていう選択肢はないのかな。
→ 私たちの社会では本当に「選択」できているのでしょうか?

P145 変化を望まない人々−現状維持しかしない、チャレンジ精神もないんだね。ビジネスもお金も遊びも旅行も存在しなそうだし、本当に狭い世界で生きているんだねぇ。。。
→ まさに。



2012年5月19日土曜日

20代の女性たちのブッククラブ 第3回


Cさん

p115  記憶をなくした って!ジョナスに渡すことによって、老人さんの記憶がなくなるのか。そりの件は いくつもあるから大丈夫だとされてるけど たった一つの記憶だったら それはもう無くなったり存在しないことになったり、なんだかさみしい。
人と人は 共通の共有できる思い出や記憶があって 一緒に作っていって記憶に留めて、っていう過程で深まると思うのだ。なくなるの、さみしい。。
最近さみしがりだし すごく気性荒いからますますそう思っちまう。

p117  同一化、は一見過ごしやすく効率的。だけども、変化もなく刺激もなく 慣れちゃったら不思議に思わないんだろうな。

p130  !!びっくり!赤を認識! 色の概念なかったのね?! いやぁ衝撃だった。白黒の世界? 色のない世界…

p143  こちらも書物が禁止されてるんだね。そして、いろいろな知識や経験を家族や仲間と分かち合うことが出来ないなんて。

p145 146で レシーバーがしくじった時 記憶が放出されて混沌が生じ非常に苦しんだ。とは、、、それこそ戦争?

p154 つぶした指とは。

15章が衝撃。短いけどびっくりしたわ


Dさん

P115 記憶をなくす
伝えたらなくなってしまうんだね!不思議な仕組み

P117 気候制御 同一化
実用的なのは良いことだけれど、不便があるからこそ便利なものがすばらしく思えるんじゃないかな。全部なくさなくても良い気がする。雪遊び楽しいのにな。
あと陽光を知らないってことはこの世界に光はないのかな?どうやって農作物育ててるんだろう

P124 言葉の正しい用法
「謝罪します、受け入れます」のやりとりは正しい言葉使いかもしれないけれど、形骸化している気がする。
こう言わなくてはいけない=これさえ言えば良いみたいな。自分の思いを伝えるのって難しいから決まったことを話す方が楽だけれど、自分の言葉で伝えることをなくしてしまうのは残念。

P126 彼方を見る力
色の認識だったんだね!っていうか色がないっていうことがびっくり!!
なんておもしろみがない世界なんだろう

P136 選ぶということが重要

P138 間違った選択から人々を護る
間違えても失敗しても、自分で決めたことなら受け入れられるし、そういう経験も大事な気がする。時には護ることも必要だけれど、全部じゃなくて良いと思う。アドバイスをしっかりして見守るっていう選択肢はないのかな。

P145 完璧な秩序 いっさい痛みをともなわない
理想なのかもしれないけれど、それを得るために色々なものを失っている気がする。

P159 本当の理由
みんなが楽になるために1人に重荷や痛みを全て背負わせるなんて、すごく酷だと思う。

P165 船遊びの記憶
ゲイブリエルにも特別な力があるのかな?これからどうなってくんだろう


Eさん

15章まで☆

待たせてしまったことを謝罪します。
謝罪を受け入れます。
⇒ところどころ出てくるけれど、合言葉のようにいうんだね。形だけにも聞こえるけれど、。謝罪を受け入れない場合もあるのかね?

P.137
人々に自分で選ばせるなんて、とてもじゃないけどできませんよね。
⇒すべて決められていることが当然、なんだね。カッシアのときにも感じたけど、そもそも私たちが普段考えている「常識」は概念から存在しないのかな・・自分で選ぶ必要がないから色彩、というものを感じる必要ないのか。ひどく無機質な気がするけれど。
ただ、昔は色こそあれ、人々に選択の自由はなく、ごく一部の人によってすべてを決められ、統治されていたのだもんね・

P154
ジョナスは規則を忘れていなかった。訓練による病気やけがに、薬物を使用してはならない。
⇒P96レシーヴァーの規則に、
六 訓練にかかわりのない病気やけが以外で。薬物を使用してはならない
とあるので、訓練でともなった痛みには薬物を使用していいということだよね?矛盾している気がしましたー。

P162
生まれたときの体重で決まるから。二人のうち、小さい方を解放するんだ。
⇒体重で決まってしまうとは><;解放された方がどのように育ち、くらしていくのか・・もしかして、コミュニティからは見放されても、自分で考え決断できる世界にいきられるのか。。後半で明かされるといいな。


Fさん

P115 記憶を伝達出来るなんてすごすぎる!!でもこれは今もアフリカの先住民たちなどは伝承という形で事実や神話という形で何世代にも渡る記憶を語り継いでるのかもしれない。ギバーとジョナスのようにリアルな感覚は体感出来なくても、本を読むだけではなく、伝える人(ギバー)の感情がこもっていれば、受け取る側(レシーバー)もある程度、共感して理解出来るはず。丁度近々おばあちゃんの家に行くから、おばあちゃんの色んな記憶を受け継いで来ようと思う。前にも聞いたことあるけど、忘れてしまってるから今度はメモも取ろう。

記憶を渡したら、その記憶がなくなってしまうのは良くも悪くもあるね。楽しい記憶はもちろんとっておきたい。辛い記憶も持っていないと、ジョナスのコミュニティのように一生痛みを感じないで生きる幸せは本当に幸せなのか分からない。相反する感情を感じれるから、より一方の感情を感じれるだろうからね。

P117 気候制御とはどういう仕組みなのだろう?都市伝説では既にそういうことも可能らしいけどね?そう考えると、地震も仕掛けられたという都市伝説もあるし、最近の日本の気候は去年の台風や昨日の竜巻も天災ではなく人災かも?なんて想像も出来る!そうでないと願たいけど!

同一化に向かった未来。そのきっかけはやはり戦争や貧富の差なのだろうか?丘もなくし平地にしてしまうって地球への負担が多すぎる気もするけど。。。そんなことまでして、色まで無くしてしまうほど同一化に向かわざるを得なかった原因は何だろう?

P118 陽光も知らなかったの!?てことは、太陽もなく、常に曇り空ということ??
雪もないということは雨もない??

P123 言葉は本当に同じ体験を共有していない人へ描写するには全然足りない表現なんだなぁ。だから今も日本語は微妙な描写が多くて、それらを体験してるから分かるけど、海外に存在しない描写はたくさんある。犬の鳴き声一つでも、何でわんわんが英語ではbow wowになるのか分からないし伝わってこない(笑)woof woofならまだ分かるけど。にわとりなんてクッカドゥードゥルドゥーだし、もはや鳥の鳴き声じゃない(笑)

P125 老年者に懲罰棒が使われてるって信じられない!同一化されてるのに体罰が存在しているのが意味分からない。

P126 彼方を見る力は先見の目ということかな?色を認識出来るようになる感動って見たこともない色に遭遇した時だよね。テレビやネットで大体の事象は見れてしまうから想像出来てしまうけど、オーロラはやはり実際に見るとその色、光に感動した☆

P129 記憶を呼び覚ますこと、これ、頻繁にしないと忘れてしまう。。。記憶力じゃなくて、記憶を呼び覚ます力鍛えたい!
記憶って改めて考えると本当に不思議!

P136 選択したい!ジョナスの欲求。これは最も!やはり何もかも同一化って不自然すぎる。
選ぶことが出来ない世界を当たり前と思って日々生きている状況は、想像しようとしても想像出来ない。。。
ただ日々をこなす感覚になりそうで、やはり幸せって感じれないと思うけど、そう思うのは今自由に選べる世界にいて、その世界の幸せを感じれるからかな?この世界の幸せを知らなかったら、選べない世界で幸せを感じられるのかな?

P143 記憶について家族にも話せないのは辛すぎる。一人で抱え込むなんて荷が重すぎるね。しかも普段は隔離じゃないけど、孤立したポジションにいるって余計辛い。。。

P145 変化を望まない人々−現状維持しかしない、チャレンジ精神もないんだね。ビジネスもお金も遊びも旅行も存在しなそうだし、本当に狭い世界で生きているんだねぇ。。。

P146 記憶にみんなが触れて苦しんだから、その記憶を消したって、根本的解決にはならないと思うんだけど、最初のレシーバーとして、一人だけ記憶を残された人はよく耐えれたね。。。もし自分一人だけ急にそういう立場になったら耐えられなそう。。。

P159 記憶を分けもつようにしたい!不公平!協力して変えたい!て賛成賛成!

P162 双子が存在しないようどちらか一人を解放って横暴すぎる判断!やはり命や生と死に対しての意識が麻痺してそうだね。。。

P165 ゲイブに記憶を渡せた!素敵だ〜♪

P168 戦争映画とかも嫌いで見れないから、ジョナスがリアルにそれを体感したのはすごく辛そう。戦争って本当に理不尽。。。現代はまだ存在する争いごと。。。見たくないからってグロテスクな映像は見なくてもちゃんと戦争や歴史について知らないといけないって気になってきた。。。

2012年5月17日木曜日

年齢による考え方の違い

前回の最後の部分
今の日本も過去から学び、未来に生かすべきことがたくさんある。特に今は原発に関して、学んで未来をつくらなければいけないのに、政府は再稼働する気だなんて何も学んでいない証拠。。。
については、考え続けていました。

原発も含めて、年金にしても、介護等の福祉にしても、教育にしても、決定権をもっているのは、『ギヴァー』の社会も、日本も、そして地球上のほとんどの社会も、ほとんどが50歳以上の男たちで構成される長老たちです。

そうである限りにおいては、いまの子どもたちや女たちが望んでいることとは違う決断が下され続けることは明白です。

長い間生きているということは、本当に知恵を蓄積していることとイコールでしょうか?
たくさんのことを体験したり、教えられたことは、たくさんのことを学んだり、会得していることとイコールでしょうか?
悪い習慣をたくさん引きずっていることとイコールではないでしょうか?

考え続けていた中で思いついたことの一つは、残りの人生(予想生存年数)に応じて投票権を少なくしてみてはどうかな、というアイディアです。つまり、たとえば60代の人が1なら、40代は2、20代は4(10代は5?)という具合のウェート付けです。ちなみに、こう書いた本人はもうすぐ60に手が届こうとしています。
そうしたら、いまよりはマシな社会にひょっとしてなるかも、と思ったりしてしまいました。いまの選挙の制度である限りは、夢想とは思いつつ。

以上のようなことと並行して、「プロとはいったいどんな存在なのか」や「民主主義とはいったいなんぞや」ということも考えさせられ続けました。
例えばですが、こんなことを当たり前にしていますから。
http://www.asahi.com/politics/update/0517/TKY201205170562.html

2012年5月13日日曜日

20代の女性たちのブッククラブ 2回目からの気づき

4人で行われているブッククラブ2回目へのフィードバックです。

P58 ジャケットを着るきまり
決められた物を着るのは嫌だけれど、相互依存を理解させること自体は良いことだと思うな。他のやり方はないのかなとも思ったけれど。
P58 洋服によって否応なしに相互依存を教え込むってどうなの?逆に言えば、否応なしに自立を阻んでいるということ? 4〜6歳の間に自我が芽生えて、何でも自分でやりたいと思うようになった子にとっては、7歳を迎えるまで、すごくじれったく感じるんだろうなぁ。
P72 差異を肯定
良いことだよね!個性は大事!いくらルールを決めたり人と同じことをしても、やっぱり違いは出てくるもんね。それをきちんと認めてくれるのは良いと思う。
P92 未来なのに暗記型の教育なんだ。。。洗脳するため?自発的にどんどん新しい動きを生み出してもらっては困るからかな?
→ 差異を否定から差異を肯定へ。
  この点について、私たちの社会・日本はどうなのかな、と考えてしまう。

P61 2人目の申請をする:子どもをいつ欲しいかも申請するということは、両親にとっては、都合良く? ライフプランが出来る世界。でも、どのように数をコントロールしているのだろう? 少子化とかも存在しなそうだけど、希望を申請してからタイミングが合わなくて結構赤ちゃんが来るのを待つこともあるのかな?
→ これについては、予約生産形式で、申請があってから出産母に生んでもらっている感じ。しかし一方で、毎年50人の新生児の誕生を原則にしている感じもする。
p74 出産母は 名誉とは無縁… そうなの?そうなのね。。子供を産むってゆうのは あまり重要じゃないのね。女性なら誰でも出来るからかしら。
P74 「出産母」が敬意を払われない任命って、命について、生や死についてあまり意識させないようにしているからだろうか?動物がいない世界だから良いのかもしれないけれど、命を大切にするという発想とか、このコミュニティの人々は共通に想っているのかな?
→ 毎年50人を生む、ないし申請に応じて生むという、あくまでも「係」として捉えている。
 この点は、下の点とはコインの裏表の関係にある?
P63 & p74 この社会の死や命に対する考えがよくわからない…

P102 自転車修理課がしょっちゅう移転するのはなぜ?おもしろい(笑)
→ 確かに!!

P102 鍵かけない 本がない
泥棒いないのかなと思ったけれど、すべてが規格化されてるならみんな同じのもってるのかな。見た目も気にしないんだから持ち物へのこだわりもなさそう。楽だけどおもしろみに欠ける気もするな
本がないのもびっくり!
この社会は無駄がないというか、目的や意図がはっきりきっちりしすぎてる気がするな。時には無駄なものや寄り道が楽しかったりするのに
P103 たった3冊の本しか普通は存在しないだなんて!しかもその3冊は本と呼べる内容??
→ この社会では、「レジャー」として人々は何をしているのか?
  ジョナスも含めて(というか、ジョナスが違和感を持った)戦争ごっこをガールフレンドのフィオナも含めてやっていたところは描かれていたが・・・

P99 嘘か本当(真実)か?
しかしジョナスには、返ってきた答えが真実かどうかを知るすべはないのである。
嘘をつくことを許される=今までは嘘をついてこなかった、人が嘘をつくという前提がなかったということ。
しばられているからといって嘘をつかないでいられるのだろうかね。12歳になるまでについた嘘は、例えささいなことでも、罰せられてきたのかな? 必要な嘘も、人生にはあるけれど、それを学んでいきなさい、でもその意味がわかる(12歳)までは正直に生きなさい、という暗示なのかな。
でも、いつだって自分には正直でありたいって思う。
→ このテーマは以前にこのブログで扱ったような気がしたが、まだまだ足りなかったことに気づきました。

P108 何世代もの記憶を受け渡してもらうって壮大だなぁ。でも、実際、おじいちゃん、おばあちゃんの話/記憶は受け渡してもらわないとだね。過去から学んで未来を形づくるということには共感。今の日本も過去から学び、未来に生かすべきことがたくさんある。特に今は原発に関して、学んで未来をつくらなければいけないのに、政府は再稼働する気だなんて何も学んでいない証拠。。。
→ 『ギヴァー』の社会では、おじいちゃん・おばあちゃんは存在しない!!
  過去から学んで未来をつくるという部分が、個々の構成員には求められていない。それが、唯一ギヴァーにだけ求められている社会。
  もうひとつ、未来を見通して今をつくりだす、ということが大切な気がする。
  ジョナスがしたことは、まさにそれ?

2012年5月11日金曜日

20代の女性たちのブッククラブ 第2回


20代の女性たち4人によるブッククラブの2回目は、第6章から第10章(57~111ページ)までです。

Cさん

p54  (?)
ちがっていることを問いただしたりしなくて、同じであることについてしか話さないなんて、成長がなさそうだな。 人を参考にすることなんてたくさんあるし、人のふり見て我がふりなおせだし。

p60  解放とは一体!よそへ送られる。とあるが、死んだという扱いなのかしら。
行く末は誰も知らないんだっけ。

p62  最初のケレイブと後継者のケレイブ! 喪失は、いなくなっちゃって死亡扱いとみた。 でも、同じ名前をつけて新しい子供にするのは、、なんか 良いのかな。違う気もする。

p63  解放は喪失とは違う。ますますわからない、

p74  出産母は 名誉とは無縁… そうなの?そうなのね。。子供を産むってゆうのは あまり重要じゃないのね。女性なら誰でも出来るからかしら。


Dさん

P58 ジャケットを着るきまり
決められた物を着るのは嫌だけれど、相互依存を理解させること自体は良いことだと思うな。他のやり方はないのかなとも思ったけれど。

P60 発育不良
選別して追い出してしまうなんて、恐ろしい

P63 後継者のための祈りの儀式
亡くなった子と同じ名前をつける所が、ちょっと怖いなと思った!今後、前の子の存在はどう捉えられていくんだろう。新しい子がきたら思い出されることもなくなってくのかな?この社会の死や命に対する考えがよくわからない…

P68 配偶者の適合
これも委員会が決めるんだね!
任せてしまえば悩まなくてすむから楽な所もあるだろうけど、他の選択肢を考えることはないのかな

P72 差異を肯定
良いことだよね!個性は大事!いくらルールを決めたり人と同じことをしても、やっぱり違いは出てくるもんね。それをきちんと認めてくれるのは良いと思う。

P78 幼年時代に謝意を表する
色々な失敗があったから学ぶことができるっていう考えは素敵。きちんと意図や目的があって、それぞれの年齢プログラムを決めてるんだね

P84 レシーヴァー
気になるね!

P96 嘘
日本でも道徳的に嘘をついてはいけないっていう教えはあるけれど、こんなに徹底してないもんね。ジョナスが急に周りが信じられなくなるのは分かる気がする

P102 鍵かけない 本がない
泥棒いないのかなと思ったけれど、すべてが規格化されてるならみんな同じのもってるのかな。見た目も気にしないんだから持ち物へのこだわりもなさそう。楽だけどおもしろみに欠ける気もするな
本がないのもびっくり!
この社会は無駄がないというか、目的や意図がはっきりきっちりしすぎてる気がするな。時には無駄なものや寄り道が楽しかったりするのに


Eさん

P61 もし解放されたら、もう会うことはない。絶対に。
解放=追放と同義なのかな。この言葉が出てくる度に思う。どこにいったのか、中心にいるごく一部の人だけが知っているのだろうか。何をしたら、追放なんだろうね。ささいなことであっても解放されそうな感じがして、怖い^^;

P64 じつはリリーの目はずらりと並んだぴかぴかの自転車に釘づけだった。
子供らしくてかわいい^^いくら何歳から乗れる、何歳からでないと乗れないと決まっていても、こういうところはどこの誰の子供だろうと、変わらない無邪気さなのかなぁ?かわいいリリー☆

P99 しかしジョナスには、返ってきた答えが真実かどうかを知るすべはないのである。
嘘をつくことを許される=今までは嘘をついてこなかった、人が嘘をつくという前提がなかったということ。
しばられているからといって嘘をつかないでいられるのだろうかね。12歳になるまでについた嘘は、例えささいなことでも、罰せられてきたのかな? 必要な嘘も、人生にはあるけれど、それを学んでいきなさい、でもその意味がわかる(12歳)までは正直に生きなさい、という暗示なのかな。
でも、いつだって自分には正直でありたいって思う。


Fさん

P58 洋服によって否応なしに相互依存を教え込むってどうなの?逆に言えば、否応なしに自立を阻んでいるということ? 4〜6歳の間に自我が芽生えて、何でも自分でやりたいと思うようになった子にとっては、7歳を迎えるまで、すごくじれったく感じるんだろうなぁ。

P60  1年の猶予でジョナスの家族が面倒を見る際のゲイブの扱いが、まるで盲導犬のパピーウォーカーと同じ感じがした。1年間愛情を持って育てて、それからは盲導犬として、さらに訓練を受けて必要とする人に引き取られる。ゲイブの場合も、1年ジョナスの家族が愛情を持って育てて、違う家族に引き取られるという。。。

P61 2人目の申請をする:子どもをいつ欲しいかも申請するということは、両親にとっては、都合良く? ライフプランが出来る世界。でも、どのように数をコントロールしているのだろう? 少子化とかも存在しなそうだけど、希望を申請してからタイミングが合わなくて結構赤ちゃんが来るのを待つこともあるのかな?

P64 靴を逆にはいたり、宿題やテストでうまくいかないことが違反だなんて!このコミュニティの求める「正しさ」に洗脳する仕組みがたくさんはり巡らされているんだなぁ。

P67 職業が気に入らなかったら、申請して解放してもらえるという噂:これはもし自分がやりたいことが他にあるときに、そのやりたい職業には申請できず、解放してもらうしか選択肢がないということか。。。辛いね。。。

P68 カッシアのメインテーマ「Match」がジョナスの世界では「配偶者の適合」なんだね。カッシアのように儀式的に行われるのかな?

P70 番号で呼ばれること:すごく違和感。でもアメリカでは生まれるときにソーシャルセキュリティナンバーが与えられて、それがずっと身分証明の際とかにつきまとうんだよね。だから、すでに番号で呼ばれはしないけど、仕分けされたりはしているんだろうな。。。

P72 ピエールみたいにささいなことでも疑問を持つのは良いことだね。

P74 「出産母」が敬意を払われない任命って、命について、生や死についてあまり意識させないようにしているからだろうか?動物がいない世界だから良いのかもしれないけれど、命を大切にするという発想とか、このコミュニティの人々は共通に想っているのかな?

P76 「懲罰棒」未来なのに体罰?!しかも痛々しい跡まで残るほどだなんて。。。ひどい!

P84 「記憶の器/レシーバー」になったジョナス!何がそんなに重要なのか、なぜ特別な存在なのか?知性、正直さ、勇気と大きな痛みに立ち向かうこととが求められる、そして叡智。「彼方を見る力」をジョナスが持っていると見抜いてるのはすごいと想う。どういうときにその力を発揮していたのだろう?

P89 人々はどのように変化したのか?? ぽっとほっぺが赤くなっていたんだろう。

P92 未来なのに暗記型の教育なんだ。。。洗脳するため?自発的にどんどん新しい動きを生み出してもらっては困るからかな?

P97 ジョナスだけに与えられた選択する自由。本来であれば万人に与えられるべき権利。

P102 自転車修理課がしょっちゅう移転するのはなぜ?おもしろい(笑)

P103 たった3冊の本しか普通は存在しないだなんて!しかもその3冊は本と呼べる内容??

P108 何世代もの記憶を受け渡してもらうって壮大だなぁ。でも、実際、おじいちゃん、おばあちゃんの話/記憶は受け渡してもらわないとだね。過去から学んで未来を形づくるということには共感。今の日本も過去から学び、未来に生かすべきことがたくさんある。特に今は原発に関して、学んで未来をつくらなければいけないのに、政府は再稼働する気だなんて何も学んでいない証拠。。。

P111 雪の記憶を伝達:不思議体験!楽しそう! なぜこの任務はギバーとレシーバーの関係でしか成り立っていないのか? 一般の人たちにも記憶を渡せば良いのに。

2012年5月8日火曜日

20代の女性たちのブッククラブ 1回目からの気づき

Cさん~Fさんたち4人の1回目のやり取りのふりかえり/発見/再発見を記します。

P5 生活必需品が輸送されてくるということは、スーパーなど物流に関するものは一切ないということ。消費者と生産者の関係性もないということは、ビジネスもない社会なんだね。これはカッシアでもそうだったけど、改めて、そういう社会を想像すると不思議な気がする。競争社会でもないから、より良いモノも逆により悪いモノも開発されず、ただただ同じ日常を繰り返す日々ってどうなんだろう? このコミュニティの人々に取って「生きる」とは?

P6 景観美化係 係っていう表現が小学校みたいでかわいいなと思ったよ

P15 子どもの数が決まってる 衝撃!そして決められた出産母が子どもを産むってことは実子じゃないってことよね。

→ 以上は、『ギヴァー』のコミュニティというか社会を表している根本的な部分だと思います。
確かに、ビジネス的なものが存在するとは思われません。競争を否定していますから。
コミュニティのサイズも産児制限で管理されており、従ってすべての働き手は小学校でするような「係」に任命されて、長老たちが判断してくれた自分に最適な係の仕事をすることになります。
これも、毎年50人×70歳=3500人というコミュニティだからできることです。
逆に言えば、その枠でできないことは最初から除外されている、ということ。


P10 「感情共有」これが必須なのは良いと思う!書かれてないけど、夕飯も家族全員で食べることが規則なのかな?家族間での共有は大事だし、これは規則化しないまでも逆に今の家族にも取り入れた方が良いと思う。忙しくて顔を合わせなくても、感情を共有するためのコミュニケーションはかなり大切☆ ここではお父さんがリリーに相手の立場に立つということを自然と教えていて、これも素晴らしい。

→ 朝食も、夕食も家族全員で食べてコミュニケーションをはかることは確かにいいこと。日本のように規模が大きくなった(そして、時間に追われる)社会においてそれをすることは、とてつもなく難しくなっている。
これも、3500人というコミュニティのサイズが可能にしていること。
大分県姫島村では、できてるかな?


P11 ドウブツ
動物見たことないのかな?いないのかしら!?

→ いないんですね。安眠アイテムとしてしか。
 人間以外の動物を消し去った社会というのは、本当に成り立つのでしょうか?
 『思考する豚』や『エレファントム』をはじめライアル・ワトソンの本を読むと、それは不可能な気がします。
 人間は地球の、宇宙のごくごく一部を占めているにすぎない!


p34 暗い目と明るい目、意味深〜!
リンゴの変化。。。意味深〜!

→ そうなんですね。これは象徴的な現象なんですね。


p40 自慢を禁ずる規則… それ話しあっちゃだめなのねー。自慢じゃなくても 成功談だったり失敗談だったり、聞いて学んだりは重要かと、先人から学ぶ。

→ まったく!! 『ギヴァー』の社会は、あえて停滞を選択しているのでしょうか?

2012年5月4日金曜日

20代の女性たちのブッククラブ 1回目


これまでに高1大人の『ギヴァー』を扱ったブッククラブを紹介しましたが、今回は20代の女性たち4人によるメール(携帯)によるブッククラブです。

1回目は、5章(6ページ)まで。


C さん

p7 感情共有 の日課って大切だなと。話すと 自分のことも整理できたりするし他の人の意見を聞くと 凝り固まってる頭をほぐせたりもするものね。自分の間違いにまた気付けるし。
それが、家族間で行われてるのはいいなー!
そうゆうところは良いけど、なんかこの世界は不思議だ!

p18 毎年12月ってとこらた、生活用品まで支給される世界なのに 月日や年度はあるのかー!

p19 一年たって子どもがそれぞれの家族のところに来るのも不思議だった!
生んだ親は、当たり前の感情なのかしら。ちょっとイマイチ システムがわかってなさそうだから、もっかい目を通してみる!

p27 年齢は重要ではなくなるなんて!20代30代40代 それぞれ感覚も感じ方も違うだろうにー!もったいない! やるべきことは決まってても 成長もないのはつまらない気がするー

p34 この出産システムにこれは驚いた!!うーん確かに子孫は繁栄だけと、なんかねぇ。

p37 リンゴ!リンゴが!!

p40 自慢を禁ずる規則… それ話しあっちゃだめなのねー。自慢じゃなくても 成功談だったり失敗談だったり、聞いて学んだりは重要かと、先人から学ぶ。


D さん

p6 スピーカーの指令
コミュニティのサイズがよく分からないけれど、七つのこみたいな感じで町中に流すのかしら!?
そして聞こえてきたら全員従うんだねー

P6 景観美化係
係っていう表現が小学校みたいでかわいいなと思ったよ

P23任命
自分で決められないのは嫌だけれど、きちんと何がむいているか考えてくれてるのは良いなと思ったよ
でも失敗から学ぶこともあるし、何もかもうまくいくようにあらかじめレールを引いていくのはどうなんだろう…

P7 解放
始めは解放って何?と思ってたけど、P45~を読んで死ぬことなのかなと思ったり

P11感情共用
言葉や制度にしてしまうと変だけど、家族で色々な話をするのは大切だよね。そしてパパいい人だね!

P11 ドウブツ
動物見たことないのかな?いないのかしら!?

P15 子どもの数が決まってる
衝撃!そして決められた出産母が子どもを産むってことは実子じゃないってことよね。

P22 規則の改正
申し立てができるだけ、カッシアよりましだけど、これじゃ意味がないね!
でも日本の政治も似たようなものだね。みなさん自分の政治家生命を守るのが一番でなかなか話しあいが進まないもんね

P27 年齢気にしない

P32 鏡がない
これもびっくり!気にならないんだね!

P51 夢の話
カッシアでも夢と薬がでてきたけれど、この世界でも夢が重要視されてるんだね。潜在意識が現れるってことなのかな。薬は自由な恋愛や子どもをつくることを抑制するものなのかなと思ったよ。
カッシアと共通する所がたくさんあるねー。でも規則がそこまで厳しくなかったり、わりと破られてたり、あんまりきつきつじゃない所が良いね!


E さん

【感情の共有】
食事前にする祈りや、今日あった出来事を話す何気ない会話とはだいぶ雰囲気が違うと思った。秘密にしておきたいことや、自分の中に新たに起こった感情、時には夢の話まで共有をするのは少し怖い気がした。だって、家族だけの会話ではなく結局はPublicに向けて行う儀式のようなものだものね。。

【十二の儀式】
昔でいう元服は15歳だから、12歳の儀式=大人になるための儀式、ということだよね。
十二歳を過ぎると何歳なのかは関係ないし、わからない、知りたくなったら公開文書館で調べられる・・というのはとても違和感が。一年で1つ歳をとる、というのは同じなのかな?

【リンゴが変化した】
ジョナスだけに見えるということは、選ばれたものだけに見えるのかな?
どんなふうに見えたんだろう。

【他人の裸をみることは規則で禁じられていた】
イスラム教とか、宗教によっては肌を公衆の面前で見せるのは禁じられているよね。
とは言え、老女の裸を男性がみるのはOKなんだ?そこには男女間の制約はないのかね?
お風呂の介助とはいえね。男性すらも肌をみせたら謝罪をしなければいけない、というのも想像ができないなあ。純粋に夏とか暑そうだし・・^^


F さん

カッシアと比較しながら読めるし、数年前に一度読んだことがあるのだけど、より深く読めたなぁ。

P5 生活必需品が輸送されてくるということは、スーパーなど物流に関するものは一切ないということ。消費者と生産者の関係性もないということは、ビジネスもない社会なんだね。これはカッシアでもそうだったけど、改めて、そういう社会を想像すると不思議な気がする。競争社会でもないから、より良いモノも逆により悪いモノも開発されず、ただただ同じ日常を繰り返す日々ってどうなんだろう?

このコミュニティの人々に取って「生きる」とは?

P7「おまえなんか解放だ!」発言は、割と言葉に敏感な自分とリンクした。悪口を言ったり、想ったりした後に、心の中で”今言ったことは取り消して下さい!お願いします!”と神様なのか誰かにお願いしてしまう(笑)言霊的思想なのかな?

P9 アッシャーが遅刻したことによって、先生と生徒たちの棒読みなマニュアル的なやり取りは、日本のファミレスやコンビニのサービスを思い出した。心がこもってなく、形式的に交わされる言葉。本来は、心をこめて言いましょうと始まったことが、言わなければならなくなると、ただそのセリフを言えば良いという風に目的がシフトしてしまうのは本末転倒。日本のサービスは一番だというし、その「おもてなしの心」は素晴らしいと賞賛されるけど、形式だけ残らないように気をつけないとね。

P10 「感情共有」これが必須なのは良いと思う!書かれてないけど、夕飯も家族全員で食べることが規則なのかな?家族間での共有は大事だし、これは規則化しないまでも逆に今の家族にも取り入れた方が良いと思う。忙しくて顔を合わせなくても、感情を共有するためのコミュニケーションはかなり大切☆

ここではお父さんがリリーに相手の立場に立つということを自然と教えていて、これも素晴らしい。

P18 カッシアの世界より一歩進んだような、子どもまでも配給される仕組みには驚き。血のつながりが重視されてないんだね。でも家族になれるというのは、ある意味進んでる!今の日本で養子はほぼいないだろうけど、アメリカでは結構あって、ホームステイしていた家族も韓国から養子を受け入れていた。その子はトラウマも抱えていたけど、ジョナスのコミュニティでは、ちゃんと養育係が愛情を持って育てるから大丈夫なんだね。(最初は名前じゃなくて番号で呼んでるのは衝撃だけど!)でも、その養育係からいきなり知らない両親に移る際、養育係と離れることでトラウマのようになってしまう子はいないのかな??

P21 「命名者」は楽しそうだなぁ。何を基準に決めるんだろう?

P22 「長老」たちの何年にも渡り、議論し、市民が検討してもらってることを忘れてしまうのは本末転倒すぎる。。。!日本の国会もそんな感じだけど。。。やはりみんな責任を取りたくないからかね?責任やリスクの分配がどうされるかがどの社会でも影響を与えるんだね。

p24 「奉仕活動」を通して、適性を判断するのは良いね。ただそれが、勝手に決められるのが、良いのか悪いのか。お父さんみたいに一致してたり、結局何が適してるか分からない人には与えてもらった方が楽とも言えるけど、やはり自分で選びたいよねぇ。

p27 年齢も重要でなくなるってびっくり!このコミュニティでは、鏡もそんなにない=身だしなみを整えない??みんなちゃんとしてそうだけど、実はかなり外見は乱れてるのかな?(笑)人に色々言えない規則みたいだし、乱れてても指摘出来ないみたいだし〜。

p28 「遊びと仕事」養育係以外は完全に仕事だけになってしまう?!分けてしまうと楽しめるのかな?割り切っても、モチベーション維持とかどうしてるのだろう?「楽しいことに終わりはないさ」ってどういう意味だろう?

「安眠アイテム」かわいい♡みんなはあった?はるかはぬいぐるみを枕の周りに並べていたなぁ。リアルペットがいないとやはりぬいぐるみを側にいてほしくなるのは小さいこどもの本能??友達的存在なのかな?

p34 暗い目と明るい目、意味深〜!

リンゴの変化。。。意味深〜!

p40 「成功についても話せない」って、褒められることも褒めることも無いということかぁ。このコミュニティの人は、どう自分の存在価値を見出すのかな?完全に自己基準の世界??コミュニティから表彰としたら、それだけ?

認め合えないって寂しいね。

p48 「まじりけのない幸福」解放されることが名誉なこと、みたいに洗脳されてるから?

p49 「夢」についてシェアすることは、潜在意識の現れだから?カッシアでは記録までされちゃってたから、まだジョナスの世界はその話をシェアするかどうかの選択は個人に委ねられてるんだね。

2012年5月2日水曜日

『風の星』


『ギヴァー』と関連のある本 81で、ライアル・ワトソンの『水の惑星』を紹介してから、ライアル・ワトソンの本をほぼ全部読み尽くそうとしています。それだけの価値がある本ばかりだからです。(なかなか思うようなスピードで読めていませんが、個別に紹介する価値のあるものは、またこのブログに載せたいと思っています。)

その間、たまたまなのですが、新宮晋の『風の星』という絵本を手にしました。

まるでライアル・ワトソンの『水の惑星』の「風」版といえる内容なのです。(絵本ですから、扱える内容は自ずと限られますが、きれいな絵と詩で極めてシンプルに、しかし奥深く風について、そして地球について想いを馳せさせてくれる本です。それに対して、『水の惑星』はきれいな写真と魅力的な文章で構成されています。)★

それで、新宮さんの本を全部借りてきました。
すべてに貫かれているのは、徹底的な観察です。

『キッピスの訪ねた地球』(たくさんのふしぎ)は、宇宙人の視点から見た地球が紹介されています。
『小さな池の中』『くも』『いちご』『じゃぐちをあけると』はどれも、小さなものの中に宇宙が存在するということ。

『いちご』に推薦の言葉を書いている今江祥智さんは、以下のように書いています。

  「いちご好きでは人後におちるつもりのわたしでしたが、新宮さんの絵本を見て、こちらはただ、食いしん坊からのいちご好きだったにすぎない気持ちにさせられ、しょんぼりしてしまいました。・・・いわゆる科学絵本によくある、知識ばかり押しつけて発見がないやつとは逆に、一つの小宇宙を発見する喜びにあふれたこの一冊に拍手します」

他の本にも同じことが、そしてライアル・ワトソンの『水の惑星』にも同じことが言えます。

『ギヴァー』の中で描かれているコミュニティには、『キッピスの訪ねた地球』で描かれているシーンがひょっとしたら一つもないのでは、と思ってしまいました。


★ そういえば、まだ読めていませんがライアル・ワトソンは『風の博物誌』というタイトルの本も書いています。

2012年4月28日土曜日

3冊の「色」の絵本

① 『色の女王』ユッタ・バウアー

 何色でも呼び出せる女王が、青、赤、黄色と次々に戯れていたところ、灰色に(暗く、元気がなく、悲しく)なってしまいました。そして、泣くしかありませんでした。
 そうしたら、色が戻ってきて明るく、元気に、うれしくなったというお話。
 「あなたが女王なら、何色と遊ぶ?
  あなたが描いた色を呼び出して!」
で終わっています。

 灰色というのは、暗く、元気がなく、悲しいイメージなんですね。
 誰も灰色は呼び出さないでしょうか?
 確か、『ギヴァー』の世界は、灰色のような気がしました。


② 『あかが いちばん』 キャシー・スティンスンぶん/ロビン・ベアード・ルイスえ

 おかあさんは何色だって関係ないでしょう、というけど、わたしは赤が大好き。
 「だって あかは せかいで いちばん すてきな いろだから」
という女の子のお話。

 『ギヴァー』のジョナスにとっても、赤が大好きというか、すべてのスタートでした。
  もしジョナスが3~4歳の時に赤が見えるようになっていたら、この絵本に登場する女の子のように振る舞ったかもしれないと思わせてくれます。


③ 『どうして?』サラ・ヴェルロークン

 「アヒルは、あかいぬいぐるみを つれて あるいています。
  でも、ちっとも たのしく ありません。 あたりが まっくらだから」
で始まるお話。

 ここでも、最初の色は赤です。ジョナスにとっては、リンゴの赤だったように。
 アヒルがもっているぬいぐるみが何なのかは定かでありません。
 『ギヴァー』の中の安眠アイテムを思い起こさせます。

 「そらには はいいろの くも。
  まわりには、 いろのない はな」
と、ここも『ギヴァー』の世界と同じです。

 色を求めたアヒルと同じように、ジョナスも色を見つけに行きました。


★ 他に色の絵本をご存知の方は、ぜひ教えてください。

2012年4月6日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 81

いい本を見つけました。

しばらくぶりの『ギヴァー』に関連のある本です。
『ギヴァー』の中に出てくる川との関連するところを引用します。
限定しないと、紹介したいところが多すぎる本だからです。
本のタイトルは、『水の惑星 ~ 地球と水の精霊たちの讃歌』。ライアル・ワトソンという人が1988年に出した本です。


156 われわれの念頭から川というものを消すことは困難である。想像の中でも川は流れつづけている。つねに動いていながら不変であり、生命をはぐくみ、これを奪う。人間の運命を力強く象徴しているのが川なのだ。

 無常なる世界に身を置く人間にとって、川は安らぎである。たえず同じ方向をめざして流れるからだ。川は、われわれに地理の基礎要素を教えてくれる。川を基準として、何度でもそこに立ち戻ることができる。

159 川は大昔からわれわれの生き方に大きな影響を与えてきた。われわれの指針となり、旅人が遠くに思いを馳せるきっかけともなった。

 川の水は受け身でいるどころか、われわれを挑発する。どこかへ連れていってあげよう、なつかしい昔へ戻るのも、見知らぬ世界へ旅立つも思いのままと、じつに魅惑的な誘いをかけてくるのである。

166 歴史は水の流れのようなもの、思考のなかを漂いゆく川である。時の流れから読みとれるパターンはいかにもうつろいやすく、歴史に名を残そうとするのは、水の面に名を記そうとするのに等しい。 ~ ギヴァーの歴史/記憶は鮮明ですね!!

171 近代の大都市は、いずれも水辺で発展をとげた。産業には水が欠かせなかったからである。100グラムの食肉を清算するには1キログラムの水があれば十分だが、100グラムの紙を作るには25キログラム、同量の肥料を作るには60キログラムの水を要する。 ~ この本が出たのは1988年ですから、データは少し古いと思いますが、とにかくスゴイ量の水が産業には必要であることは間違いないでしょう。

 水(川)の広範な汚染に触れたあとで、こうも書いています。

 また最近とくに懸念されているのが放射性物資による汚染だ。原子力発電所は膨大な量の冷却水を要するものだが、たとえばフランスでは、国内で流去する雨水の総量を越える水を原子力発電に使っている。

175 かなりの水がいまだに農業用水に利用されている。農業が全面的に水に依存することは、昔も今も変わらない。

 水の供給が安定していると、国は富み作物にも恵まれる。今日では、雨量が十分で毎年一定の収穫が見込める温帯地域の国々が、それに当たる。 ~ 『ギヴァー』のコミュニティは、天気もコントロールしているぐらいですから、雨や川の水に依存しないシステムになっているのかもしれません。

180 水は最古の元型である。善の力でありながら悪の力でもある。生命をはぐくむが、洪水や津波となって襲いかかりもする。 ~ 特に、3.11以降は痛切に感じます。

196 水の流れは、いわば想像の流れだ。精神をあえて物質にたとえるなら、水がいちばん近いだろう。英語ではものごとを深く考えることをreflectionと言うが、これは水にものを映す反射や反映の意味にも使われる。とすれば、詩的な精神に映った水を深く見つめることによって、水の心に触れ、その理解に近づけるかもしれない。 ~ ジョナスのコミュニティでは毎日振り返りの時間を設けているにもかかわらず、心に触れること、理解につながることはないような気がします。

199 水は深遠である。水には陰と闇があり、眠りや無意識、あるいは死を連想させる。長くのぞきこむと、ナルキッソスの運命を呼びこむことになる。
    水は純粋である。すべてを潤し、洗い、新しくし、再生の活力を与えてくれる。
    水は新鮮である。水はじかにわれわれを支え、心を慰め、あるいは鎮め、渇きをいやしてくれる。水は心に平和と夢想をもたらす。水は甘味にしてやさしく、われわれの痛みを和らげるのがその本分だ。
    水には、心をそそる何かがある。その何かが人を水辺に引き寄せる。
      ・
      ・
      ・
200 水はこれらすべてであり、またそれ以上のものである。
  そして、この後には、レオナルド・ダ・ヴィンチが見抜いた「水」について紹介されています。本は、この引用で終わっています。知りたい方(知る価値は十分にあります!)は、ぜひ原書をご覧ください。


内容がいいのはもちろんですが、文章もいいです。(翻訳が、いいのかも?)
教科書の文章とは、月とスッポンです。
中学校の理科の指導要領をチェックしたら、この本でかなりの部分がカバーできます。
授業で教科書を使って勉強することで、理科嫌いをつくっているわけですから(去年の5月に教科書をチェックしていますので、この発言は間違いありません。自分の45年前の経験でも)。
代わりにこれを使うことで、理科だけでなく、地球や歴史や社会も好きになり、興味を持ち、さらにいろいろ知りたくなること確実です。

2012年4月5日木曜日

心配、心配

ずさんな「原子力ムラ」のインタビューをラジオで聞いてから、飯田哲也さんと広瀬隆さんの原発関連の本を読んできました。(広瀬さんは、「ムラ」ではなく「マフィア」と呼んでいます。)

広瀬さんの本は、それが事実なら「恐ろしすぎる」という内容です。

現実は、広瀬さんたちが情報発信しているのと、原子力マフィアやムラの住人たちが発信している真ん中あたりにあってほしいと願いたいです。(マスコミも含めて、ちゃんとした情報が流れてこないので、判断のしようがありません!! 信頼性が感じられる情報が得られないことほど、恐ろしいことはありません。)

数日前には、「食品に含まれる放射能の新基準値が1日から適用される」というニュースが流れました。基準は、これまでの5分の1、4分の1となったというのです。
早速、今日のニュースでは、その基準値を超えた食品があると報道されていました。

これじゃ、文科省がポンポン変える「基礎・基本」(学校で教える内容や量)と同じで、「その前に食べてしまったものはどうしてくれるの?」と聞きたくなってしまいます。「誰が責任取るの?」   4月1日を境に、人間の身体が基準値を変換してくれるわけじゃないし・・・

そして、今日は「放射能汚染水、また海へ流出か 福島第一原発」というニュースも
こんなずさんな状況で(それも、これをあと何年も続けることが、ほぼ見え見えの状況で)、他の原発を再開しようと言っても、ほとんど説得力があるとは思えません。極めて大事な「後始末」を含めた日本の原発技術というのは、このレベルでしかないのでしょうから。

心配するだけ無駄でしょうか?

2012年3月25日日曜日

『鋼鉄の巨人』を読みました

以前、『ギヴァー』のコミュニティのサステイナビリティ(持続可能性)について一緒に考えてくれたTさんから、以下のメールをもらいました。

やっと『鋼鉄の巨人』を読むことができました
学研の方です。

三本足や白い山脈よりも、主人公3人の友情?の微妙な
動きに感情移入してドキドキしながら読みました。

三本足って何なのでしょう?
「人間狩り」をして楽しむなんて、人間が狐を狩って楽しむのと
同じな気がしました。
そういえば、三本足が人間を従順にさせるのも、
人が犬を飼って避妊させたり、吠えないように口輪をさせたり、
尻尾や耳の形を変えたり、猫の爪を抜いたりするのと似ています。
(私も飼っている猫を避妊させています。できることならGPSでも
つけて猫が迷子になってもすぐに探せるようにしたいとさえ
思っています。磁石を埋め込むのと同じ行為です)

でも、人間はそうしておいてさえペットを平気で捨てているので、
よりたちが悪い気がします。

本を読んだ後に、たまたま石炭についてのレポートを読んでいると
「蒸気機関」によって産業革命が進んだ、とありました。
本の中でしきりと「蒸気やかん」が繰り返されていたのを思い出し
ました。
レポートにはさらに、「蒸気機関」のエネルギーや材料が
「鋼鉄」であったと書いてありました。
本のタイトルの「鋼鉄の巨人」って何のことだろうと思ってましたが、
このことでしょうか?
作者は産業革命以前と以後を比べているのでしょうか?
レポートを読まなければ、全然気づかないことでした。
他にも気づけていないところがたくさんあるのかもしれません。

続編も借りて読もうと思います。
紹介して下さりありがとうございました。
ブログに載っている他の本も読んでみるつもりです。

2012年3月14日水曜日

趣味のない世界?

伊能忠敬の道楽について書きましたが、道楽は言葉を変えれば趣味です。

 『ギヴァー』のコミュニティには、それが存在しないと思います。

 理由は、趣味が人と人の違いを生み出すからです。

 均一性/画一性を何よりも大事にする社会においては、違いを生む原因になる趣味はリリース(解放)されているはずです。

2012年3月12日月曜日

一日遅れの3.11

    「過去は変えられないが、現在と未来は変えられる」
  これは、よく言われることですが、本当でしょうか?
  今回の東日本大震災+津波、そして東電の原発事故について、言えるでしょうか?

  日本語の頭ではここ2~3日あまり3.11関連のことは考えていませんでしたが、英語の頭では5日ぐらい前から考え続けていました。私は年末に、その年一年を振り返って、年賀状に代わる挨拶メッセージをメールで送るのが過去10年ぐらいの習慣になっています。昨年末は、日本語のは何とか出したのですが、英語のは出せませんでした。
 ひっかかっていたのが3.11だったので、それを中心に書いて10日から11日にかけて海外にいる友人や知人たちに出しました。

 被災者や東電の原発事故で被害を受けている多くの人たちが、納得するようなスピードでの救済はまったく行われていないことを、知らせることを中心に。★
 いったい東電や役所は何を考えているのでしょうか? どうせ出費することがわかっていることなのですから、スピーディーに出さないと回復できるものも回復できなくなってしまうのに・・・

 このような現状が、最初の引用に対して持ってしまった疑問の理由でした。


★ そしてもうひとつは、このブログでは繰り返し書いている私たちが「当たり前、普通」と思っていることの中には、視点を変えれば「当たり前、普通」でないものがたくさんあり、また「自分たちには変えられない」と思い込んでいるものも、視点を変えれば「変えられる」ことが結構あることを。それは、私がジョナスから学んだ最大のレッスンです。

2012年3月11日日曜日

『四千万歩の男』が許されない社会

すでに、このブログでは井上ひさしさんの『吉里吉里人』と『ボローニャ紀行』は関連のある本として紹介しました。

 『ボローニャ紀行』はタイトルを挙げただけで、内容にはまったく触れていませんでしたから、一言。
 井上さんが30年の長きにわたって憧れの地だったところをようやく訪問した記録です。市民社会の営みを垣間見せてくれます。(なんと、NHKのロケ班と一緒にボローニャの飛行場に着いたとたんに、井上さんのボストンバッグが盗まれるハプニング付き。確か、本はNHKスペシャルの副産物です。2010年の1月の段階では、この映像見ていませんでしたが、2011年の1月に行われたイタリア・スペシャル月間の中で再放送をしっかり見ることができました。)

 今日のテーマは、『四千万歩の男』です。

 この本は、井上さんの視点から見た伊能忠敬の評伝です。隠居してから道楽で日本全国の地図づくりをして歩き回った人です。それも、1回ずつ回ったのではなく、複数回行っているところ数知れず、です。そんなことをしたので、忠敬隠密説まであるぐらいです。

 こういう道楽をたくさんの人がやっている社会が、ひょっとしたらボローニャに凝縮されているのかな~、と思ったりもしました。(読んだ順番は逆ですが。)

 そして、『ギヴァー』との関連で言えば、ジョナスが所属するコミュニティは「隠居してから他のコミュニティも含めて地図づくりをして歩き回るような道楽」をまったく許さない社会です。

 それに比べると、我が日本はボローニャまでとは言わないまでも、まだ細々かもしれませんが、江戸時代に忠敬が実行したことが残っている社会ではあります。

 これを、もっと盛んにしていくにはどうしたらいいのでしょうか?

2012年3月7日水曜日

すでにあるものを見据えることの大切さ

ある本を読んでいて、以下の引用を見つけました。

  The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes but in having new eyes.                                  Proust
  (真の発見の旅は、新しい景色を求めることではなく、新しい目(見方)をもつことによって得られる。)

 これは、マルセル・プローストの本からの引用と察せられます。出典は明らかにされていませんが。

 これは、『ギヴァー』の主題と大きく関わるとても大切な文章のように思えました。

 ギヴァーの世界は、色のない世界です。
 しかし、ジョナスは以前からずっとそこにあった赤をてはじめに様々な色が見え出しました。それによって世界観が変わっていったのです。
 私たちの周りには、これと同じ現象が渦を巻いているのではないでしょうか?

2012年3月4日日曜日

原子力ムラ=年金ムラ の構図

3.11が近づいています。 明治以来3度目の開国に匹敵する大きな変革の時(チャンス)とも言われましたが、残念ながら、そうはならないようです。

3.11の天災の部分は別にしても、人災(原発事故)に関しては、次々にその対応や準備の甘さが明るみに出てきています。「安全神話」が覆いつくしていましたから、事故などが起こるという前提自体が考えられていなかったわけです。

今の首相は、「福島の復興なくして、日本の復興なし」と声高に繰り返していますが、福島を中心に原発による/放射能による大きな被害を克服する道筋はまったくと言っていいほどついていません。関係者たちは、まだ「安全神話」の呪縛から解かれていないかのようです。(震災復興の方も、上のほうの役所が足枷になっているようです。しっかり復興や元に戻ることのさらに上をいく発展が求められる/可能な部分はたくさんあるというのに、です。なかなか実現できないのは、下のことと関連します。)

根本的な問題が「構造」にあるからです。
それは、日本社会を覆いつくしていると言ってほぼ間違いないでしょう。
具体的には、以下のような構図に象徴されます。

AIJ、社保庁OB会社と顧問契約 人脈を通じ営業 (朝日新聞・ネット版)
旧社会保険庁OBを通したAIJの勧誘例

これに、大手証券会社なども絡んでいたようですから、まさに構造的な問題です。 ごく少数の関係者=身内が甘い汁を吸えれば、コツコツと年金用の基金を積み立てている一人ひとりの社員や従業員が結果的にどんな目に会おうと関係ない、というわけです。

未来への視点のかけらもありませんから、常にその場しのぎです。50代、60代、70代の人たちに、次の世代、次の次の世代、次の次の次の世代・・・・のことに想いを馳せ、かつアクションを起こせる人は極めて稀です。(やるべきことというか、価値のあることは、ほとんどそれしかないというのに!) 

極めて危ないことがわかっている原子力発電所、元金も戻せないような投資、テストを武器に生徒や学生の学びのレベルを低く押さえる学校・大学教育、的確な情報が流せないマスコミ等々、してはいけないことが残念ながら横行しています。

これらたくさんのおかしい部分を修正・改善する努力なしに、「がんばろう、(東)日本!」だけでは、できあがるものは前と同じで「見た目はいい」かもしれませんが、実態は極めて「もろく、かつ危険」ものであることは明らかです。