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2012年6月29日金曜日

『うさぎの島』に関連のある本


『ギヴァー』と関連のある本 85としても、はずれてはいないのですが、今回は『うさぎの島』の人間版として『アマゾン・ドット・コムの光と影』(横田増生著)を紹介します。(『ギヴァー』とこの本を直接比較しても、関連づけられないことはありませんが、『うさぎの島』が間に入っていたことで、鮮明になった部分がなくもありません。)

私もアマゾン・ジャパンの愛用者です(過去形にすべき!?)から、考えさせられました。

26日に書いた自動車とも呼応する内容です。
両者とも、あくなき便利さと経済性を追求した産物です。そして、この本がその配送センターに潜入して書いたルポなのに対して、鎌田慧の『自動車絶望工場』(なんと、ほぼ40年前の作品!!)はタイトルの通り自動車工場に季節工として働いた日記形式のルポでした。

コンビニ、ファースト・フード、スーパー、宅配などなど、私たちの生活のほとんどがすでにアマゾン化しているというか、自動車工場化していると言えます。

私を含めたアマゾンの利用者は、その光=便利な部分だけを見ているわけですが、それを可能にしている影=非人間的な部分は「よく見ないと見えてきません」。努力しても、見えないようにしていると言ったほうがいいかもしれないぐらいです。

あたかも、ジョナスのお父さんがニュー・ベビーをリリースしていたように。

2012年6月27日水曜日

『ギヴァー』と関連のある本 84


『うさぎの島』(イエルク・シュタイナー文/イエルク・ミュラー絵)をしばらくぶりに読み直しました。

そして、びっくり!!!

これって、『ギヴァー』の世界!(ということは、わが国・日本!!)


うさぎたちが、養鶏場のケージ飼いと同じように飼育されている。大きくなったうさぎはどこかに連れ出されることになっている。小さいうちにケージに入れられ、外の世界をまったく知らずに大きくなっていく。

そこに、一匹の茶色いうさぎが連れてこられ、大きな灰色うさぎと同じケージに入れられる。一緒に養鶏場ならぬ養鶏工場の外に脱出して、外の世界を二匹でいろいろ体験するが、大きい灰色うさぎは安心できる元の場所に戻りたいという。


この2人による他の絵本も、似たようなテーマを扱っているような気がしてきた。

2012年6月26日火曜日

自動排気ガス製造車 兼 自動殺人車


今日も、大阪市で「ワゴン車暴走、はねられ6人ケガ」というニュースが流れました。 
ここ1~2ヶ月ぐらいの間に、この種の暴走事故がいくつ報道されたでしょうか?
連鎖反応を起こしてしまうのか、と疑いたくなるぐらいに。
(それとも、これまでにも起こっていたのに、単に報道されなかっただけなのでしょうか?)

これらの事故を耳にするにつけ、「自動車」という名称は、理想的過ぎるような気がします。
これまでは、しっかり「自動排気ガス製造車」と称してほしかったとは思っていましたが、最近のニュースで、「自動殺人車」も併用するようにしたらいいと思うようになりました。

ここ1年ちょっと原発への風当たりは相当なレベルまで上がっていますが、確実にそれよりも多くの死者(やけが人)を出している自動車に対しては、そういうことはありません。
「慣れ」の恐ろしさというか、「放射能」の恐ろしさゆえなのか?

『ギヴァー』のコミュニティは、自転車優先社会です。★
車がないわけではありません。
最後に、ギヴァーが運転して、ジョナスを逃がす予定だったぐらいですから、車は確実にあると書かれていましたし、おそらく朝夕の食事も係によって宅配されていましたし、食器も回収されていたように記憶しています。それをどのような手段でしているかは書かれていなかったように記憶していますが、車以外には困難だと思います。
ですから、必要最低限の車は使っている社会です。

それに比べて、私たちの社会はどうでしょう?

必要最低限をはるかに越えている気がします。
飽くなき利便性の追求の象徴という気もします。
そして、少なくとも原発と同じレベルで考え直してもおかしくないと。

★ 鍵は、コミュニティのスケール(規模)です

2012年6月16日土曜日

姫田さん絡みで考えたこと

昨日の姫田さん絡みで・・・

姫田忠義編の『伝える (1)』を読みました。その中から2つ。

高田宏さんの「島で見たことから」は、五島列島の小値賀島、隠岐の中ノ島、八重山諸島の竹富島を訪ねて、見知らぬ人に挨拶をする文化を紹介してくれています。

→ 昔、電車の中でも見知らぬ人と話し合う文化があった。それは、スペースと大きく関係していたように思う。向かい合って4人掛けで座る配置になっていたのである。いま、そのような配置にしているのはよほど田舎な路線でしか見られない。というか、一緒に座った人と話し合う文化が残っているところというか。 島で(あるいは、田舎の山村等で)見知らぬ人にも挨拶をする文化というのは、人口密度と比例関係にあるような気がする。少ないと、人恋しくて挨拶をする、という習慣があるというか。
日本でも車が走り始め、たまに対向車に出くわすとうれしくて互いにクラクションなどを鳴らしあったのを覚えている。大分前の話である。1960年代の初頭の。しばらく経つと、車の数は急激に増え、そんなことはしていられなくなった。
そういえば、山登りをする時は、互いにすれ違う時は、必ずといっていいぐらいに「こんちは」と挨拶をする。場合によっては、「あと、頂上までどのくらいですか?」などとも問いかける。
電車の中でも、お年寄りなどに席を譲るということも、もともとは当たり前に行われていたことなのだと思うが、人口密度が高くなってしまったところでは、そんなことはされなくなってしまったので、シルバー・シートなるものを設けて制度的にやらざるを得ないわけだが、あれを見るたびに失ったものの大きさを感じる。
人口密度/スケールが、どのような人間関係を維持するのかの決定的な要因の一つになっている気がする。
『ギヴァー』のコミュニティは、挨拶がまだ存在する社会なのだろうか?
それとも、挨拶はしない社会?


高木譲さんの「人間だから」は、以下のような内容です。

どこから、どうなってしまったのだろう。
おのれをふくめて、人間を見ていると、ぞっとしてくる。
人間とて生きものだから、生きて行く上での欲も見栄もあるだろう。ところが、一人分の糧や財産を得るのならまだしも、一人なのに二人分も三人分もどころか、百人分も千人分も横盗りしても、へいちゃらである。一人分以上は人様の分だということが判らないらしい。なんでも横盗りする奴らに限って、えらいといわれているのやら、成功者といわれているのやら、学問を身につけたのやらが多い。こんな奴らは身分、地位、財産、教養、知識をひけらかして、おのれよりも先輩になる人たちを呼び捨てにしても、へいちゃらである。大きな家に住んでいながら、小さな池や辺りを陰にしていても、へいちゃらである。大きな車なのに、小さな道に乗り入れても、へいちゃらである。小さな道だからと、歩いている心ある人たちが避けてくれていても、「すみません」と会釈するどころか、俺はおまえたちよりもえらいのだから、頭を下げろといわんばかりの態度である。彼らはクルマから降りて、歩くということさえ知らないらしい。職業でいうと、大企業の幹部らはいうにおよばないが、国会議員や役人らが、そうである。彼らは公僕のはずなのに、そんな当然の心得さえないどころか、おのれの役職にお手盛りで、「長」や「高級」なんていうのをつけて、へいちゃらである。

→ こちらも、スケールが大きくなりすぎた結果起こっている問題のような気がする。少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティではこうはなっていない。なにしろ「画一化」(誰もが平等)を選択した社会なのだから!!
  そういえば、ロシアや中国なども、それを志向したはずなのに、結果的に作り出したのは、資本主義社会で作り出した構造と同じか、それ以上の格差を生み出しているかもしれない。

2012年6月15日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 83


 紹介するのは、姫田忠義著の『ほんとうの自分を求めて』。
 筆者は、民俗学者の宮本常一との出会いで、民俗学の道に入る。日本各地に残る貴重な民俗文化を映像に残す活動を1960年代の半ばから続けている。
 本は、1977年に出版されたもの。


20-21 青ヶ島のタビヤマ(=女性がお産をするためにこもる小屋)はタビ(他火)
23~25 他火と旅は、同義? よりよく生きるための手段 → 旅の語源はおもしろい

42~3 軍国少年だった「私」
  当時をふりかえって私はつくづく思う。私が生まれた時代の日本には、じつに巧妙に少年たちを戦争へかりたてるしくみと、それを正当化する理屈が用意されていた。そしてそれは、なにも私が生まれて育った時代にあたらしく思いつかれ、考案されたというようなものではなく、はるか千数百年前に、あるまとまりのある統一国家のすがたをとりはあめたころからの、日本の政治や社会制度の歴史に根ざしたひじょうに根深いものであった。その根深さを話すために、私はまた別な本を書かねばならないと思っているが、とにかくそういう根強いものを、当時の日本の指導者たちはうまうまと利用し、まとめあげ、私たち少年はもちろん日本の国民全体を戦争へかりたてていったのである。
 → しくみをつくったり、それを活用する側と、それに乗せられる側との違いは???
   これって、戦争だけじゃなくて、いろいろなことに通じてしまいますね!
   『ギヴァー』の世界も同じようなもの

44 満16歳で志願兵として予科練へ。高知に駐屯。
46、49 米軍の沖縄上陸も、広島への原爆投下も、町の人たちから聞いた。(見事に情報操作している軍隊!) → 情報統制は、いつの世も(どこの世も)同じ??

100 工場時代は、千円二千円の計算ばかり。本社では、数百万円数千万円の計算。

 ひとが、どこかの場所で働き、生きてゆくには、まずそこに「なれ」なければならない。そこで生きぬくつもりなら、はやく「なれ」たほうが得だし、また「なれ」ることはその気にさえなれば、意外に簡単なことかもしれない。よくいえば人間の適応力のはやさ、わるくいえば「いきあたりばったりさかげん」。私は、そういうものが自分にもあることを知った。そしてべつなそらおそろしさを感じたのだ。「あれだけ実感がないと思い悩んだくせに、1年もたたないうちにおれはもうなれてきている、平気になってきている。あの思い悩んだことはうそか」。 → 『ギヴァー』や『茶色い朝』も同じような繰り返しによって「なれ」ていく。私たちの生活もまるで同じように。パソコンや、携帯やスマホにも、あっという間になれたように。

109 スタニスラフスキーの『俳優修業』
    「自分の注意点を1点に集中すること」と書いている。
110 座禅の「想をこらす」と同じ!!

136~7 「歴史というものは、ひょっとしたらこの海(対馬海峡)のようなものかもしれない」、とつぜんそんなことも思った。父は木の葉のような小船でこの海をわたった。私は鋼鉄船でわたっている。私たちだけではない、それこそ無数のひとたちがわたった。乗る船も、乗っているものも思いもそれぞれにちがうが、この海をわたることはおなじだ。つまり、この海は、そういう無数のひとたちの思い、喜びや悲しみ、苦しみやなげきのとおりすぎた旅路なのだが、歴史というものもこれと似てはいないか。歴史というものもまた、無数のひとたちの思い、喜びや悲しみ、苦しみやなげきがそこをとおりすぎる旅路のようなものだ。しかも、この海の旅路は、陸上のそれとはちがって、その上に一個の道しるべも一本の記念碑ものこすことはない。すべてを知っておりながら、なにものも残さず、永遠のうねりをつづけている。この動きのなんとぶきみで非情なことか。そして歴史というものもまた、こういうぶきみさや非情さをもっている。たとえば私の家の歴史がそうだ。私は、父母や祖父母のことは知っている。けれど曽祖父母のこととなると、ほとんどなにも知らない。 → 『ギヴァー』のテーマである記憶、歴史

151 昭和40年代の対馬への韓国からの密航者(そして、いまでも続く、北朝鮮からの密航者たち)の存在について ~ そのひとたちには、それぞれ密航しなければならない理由があるはずだ。その願いをなぜはたさせてあげられないのか。国境とはなにか。また国境というものをつくった国家というものはなにか。

152 パキスタンとアフガニスタンの国境の自由さ ~ ふるい生活的なつながりの歴史を、両国政府がおたがいにみとめあっている結果

173 奈良時代の行基の行いを真似た江戸時代初頭の円空の存在。それも北海道で。 → 円空さんや姫田さんたちのような「旅」をすることができない時代になっている。する側も受け入れる側も躊躇してしまう。ジョナスも、その旅に出た。

184~5 昭和30,40年代 = 高度成長期 ~ ゆくさきざきに、日本という国での政治や経済や社会制度がゆきついた深刻な危機があらわれていた。 → それが50年経ったいまも続いているというか、深刻度は一層増している状態。もちろん多くの人は「なれ」で気づかないというか、気づいていても気づかない振りをしている??

198~9 「国有林」という思想

223 アイヌをはじめ北方系の人たち、沖縄の人たち、小笠原に住む人たち、韓国・朝鮮の人たち、中国・台湾の人たちの日本での存在

2012年6月13日水曜日

いろいろな切り口で捉えられる本


齋藤孝著の『読書力』(岩波新書)の中には文庫100冊+1冊が紹介されているそうです。

私にはそれらを読もうなんていう気はもうとうありませんが、気をひいたのはそれらの本をくくっている項目立てでした。

『ギヴァー』を、それらの項目で評価してみたらどうなるかな、と思ったのです。
(◎よくあてはまる、○ほどほどあてはまる、△あまりあてはまらない、×まったくあてはまらない の4段階評価で)

あなたの採点は、私のと違いますか?
                                                                                               私の評価

1.まずは気楽に本に慣れてみる                 ◎
2.この関係性は、ほれぼれする                  ◎
3.味のある人の話を聴く                      ○
4.道を極める熱い心                         ○
5.ういういしい青春・向上心があるのは美しきことかな     ◎
6.つい声に出して読みたくなる歯ごたえのある名文               △
7.厳しい現実と向き合う強さ                     ◎
8.死を前にして信じるものとは                   ○
9.不思議な話                            ◎
10.学識があるのも楽しいもの                  △
11.強烈な個性に出会って器量を大きくする          ○
12.生き方の美学・スタイル                     ◎
13.はかないものには心が惹きつけられる                             ◎
14.こんな私でも泣けました・感涙は人を強くする                   ○
15.全人類必読の一冊  (これが+1冊です)                        ◎

かなり甘い評価でしょうか?
なんと、×なしでした。(△は怪しいかな、とは思いつつ。)

ぜひ、あなたの評価を私の隣に書き込んでみてください。

もちろん、すべての項目に満遍なく高い評価だから「いい本」ということにはならないと思います。また、これらの項目が押さえられたら「読書力」が向上するかというと、そうも思えません。

2012年6月8日金曜日

『親鸞』激動篇

五木寛之の『親鸞』上・下の続編の『親鸞』激動篇の上・下を読みました。

本人が、あとがきで「登場人物、背景など、物語作者としてかなり自由に想像力を駆使する結果となったが、あくまで小説として読んでいただければ幸いである」と、書いているように、この本は人物評伝的なノンフィクションではなく、あくまでもフィクションです。

前回の『親鸞』上に続き、『ギヴァー』と関連のあると思ったところを抜書きしました。

今回は、前回のようなインパクトは感じなかったので、扱いは「『ギヴァー』と関連のある本」とはしていません。壮年期に入っている親鸞が主人公だからでしょうか?




138 300年、500年かかって人の心に根づいたものは、一挙には変わらない。<世のならい>に妥協するわけではないが、自分の考えを一方的に押し付けただけでは世の中は動かないのである。

204 親鸞は、人に語ることは、自分の問いかけることなのだ、と、はっきりと感じた。人に語ることは、教えることではない。それは、人にたずねることなのだ。もっと話したい、と親鸞やつよく思った。

226 野焼き、ということがございますね。いったん焼いてしまう。その焼野原から、新しい芽が生まれてくる。・・・民、百姓も、役人たちも、みな思いちがいをしているのです。それを根底からくつがえして、本当の念仏の意味を語られるには、まず、壊すことが先。こわして、焼野原になった跡に、ちいさな問いが生まれてくる。それでは一体、念仏とはなんだろう、という疑問です。それが第一歩ではありませんか。




148~9 ストーリー(それも自分の過去をさらけ出す)と歌の力

243 自力では さとれぬものと さとりたり
    他力にすがる ほかにみちなし

309~310 「もし嵐で船が難破したとする。逆巻く波の夜の海で、おぼれそうになっているときに、どこからか声がきこえた。すくいにきたぞ! お~い、どこにいるのだ~、と、その声はよんでいる。さて、そなたならどうする?」
 「ここにいるぞ~、お~い、ここだ、ここだ、たすけてくれ~、と声をあげるでしょう」
 「そうだ。真っ暗な海に聞こえてくるその声こそ、阿弥陀如来がわれらに呼びかける声。その声に応じて、ここにおります、阿弥陀さま!とこたえるよろこびの声が南無阿弥陀仏の念仏ではあるまいか。この末世にわれらが生きるということは、春の海をすいすいと渡るようにはいかない。私自身も、これまで何度もなく荒れ狂う海の浪間で、自分の信心を見失いそうになったことがある。そんなとき、どこからともなくきこえてくるのが、阿弥陀如来のはげましの声だ。お~い、大丈夫か~、とその声がひびく。は~い、大丈夫で~す、ありがとうございま~す、と思わずこたえる。それが他力の念仏であろう。わたしはそう考えている」
 「では、わたくしども呼びかけられる阿弥陀如来のその声は、いつでも、だれにでも、きこえるものなのでしょうか」
 「いや、いつでも、だれでも、というわけにはいくまい。波間にただようわれらをすくわんとしてあらわれたのが、阿弥陀如来という仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。信じれば、その声がきこえる。信じなければ、きこえないだろう」
 「では、まず。信があって、そして念仏が生まれるということでございますか」
 「そう思う。いまのわたしに、わずかにわかっていることは、まことの信を得るために自分自身を見つめることの大事さだ。このわが身の愚かさ、弱さ、頼りなさ、それをとことんみつめて納得すること。それができれば、おのずと目に見えない大きな力に身をゆだねる気持ちもおきてくるのではあるまいか」

2012年6月6日水曜日

自分こそが自分の人生を書き記す書き手



ある本を読んでいたら、こんな引用を見つけました。

If you want your life to be a magnificent story, then begin by realizing that you are the author and every day you have the opportunity to write a new page. (Mark Houlahan)

自分の人生をすばらしいストーリーにしたいなら、自分がその作品の書き手であることと、日々新しいページを書く機会をもっていることを認識することから始まる。

2012年6月5日火曜日

2012年6月4日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 82


しばらくぶりの『ギヴァー』と関連のある本です。
『ギヴァー』の協力者のHさんから以下メールをいただきました。

「茶色い朝」 Franck Pavloff著 、原作はフランス語 Matin Brun、大月書店から邦訳:2003年

1998年に、ファシズムについての学会向けに書かれた短編の寓話ですが、その後、口づてに広がり、今ではフランスでベストセラーになっています。 ルペン率いる移民排斥の極右政党国民戦線がフランスで支持を広げていることへの危機感が背景にあります。 ストーリーはジョージオーウェル風の未来国家像についてです。 茶色以外の猫をペットとして飼っている場合、餌に毒を混ぜて安楽死させることが政府の方針になります。友人のチャーリーと「私」は多少違和感があるものの、さして重大なこととは思わず、無関心なまま日々の生活に追われます。 次に茶色以外の犬が同様に標的にされます。 そしてじわじわと 次は「茶色系」新聞以外は発禁に。気が付いたら、以前茶色以外のペットの飼い主だった「私」にも逮捕の危険が迫ってきています。  これを読んで、「ギヴァー」を思い出した次第です。 「世間」の流れに身をまかして、事なかれ主義で保身に走り、思考停止していると、じわじわと 危機が音をたてて近づいてくるかもしれません。 「茶色い朝」は 風刺という手段の鋭いパンチです。 こういう短編の寓話(わずか11ページ)がヨーロッパで現在競って読まれている背景には、ホロコーストを止められなかった歴史への強い反省が流れているからだと思います。 批判精神を枯れさせない、ヨーロッパ市民の健全さを感じます。 果たして日本はどうでしょうか?

  内容については、まったくHさんが書いてくれているとおりなのですが、私がこの本を読んで思ったことは、本国フランスでは1ユーロ(今は約百円)だったのが、日本では1050円で売られたこと。そして、本文よりも長いメッセージ(解説)がついていることでした。

2012年6月1日金曜日

小6のブッククラブ (クラス全員版)

『ギヴァー』を使って、クラス全員(小6・男子17人女子16人の計33人)のブッククラブをしたF先生のレポートです。

○『ギヴァー』を選んだ理由は?

 自分が読んで、読み出したら、止まらなくなってしまった本で、この不思議な話をぜひ読んでほしいと思っていたこと。子供たちにとって、易しすぎず難しすぎず、程よいチャレンジレベルだということ。自分も読んでいて、いろんなことをイメージしたり、予想したり、疑問に感じたりと、ぼーっと読んでいられない!?内容なので、グループで語り合うときに、話題に事欠かないんじゃないかと思ったこと・・・で、(卒業間近な年度末に)みんなでチャレンジしました。

○実際にやってみた結果は?

 実際読み進めていくと、本によっては、こちらの選書ミス?で、語り合うことがなくて、暇になってしまうことがたまにあるのですが、ギヴァーに関してはそれはまったくなかったです。時間がたりないくらいでした。想像力をかき立てられるんでしょうね。話が盛り上がることで、読解力が厳しい子たちの内容理解にもつながっていたので、みんなで読み通せたのではないでしょうか。そして、最後のまとめ/振り返りでは、子供たちなりに家族のあり方、 理想の家族とは・・・平和とは・・・社会のあり方あたりに、話が及んだりして、学びの多い、読んでもらってこちらも大満足の一冊でした。


★ 本は、『ギヴァー』をたくさんもっている知り合いの先生たちから借りて、33冊をちゃんとそろえた上で実施したそうです。