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2011年7月31日日曜日

主役は誰?

 2週間前の「服従」「同一化・画一化」から始まって、「老年の家」にまつわる諸々のことも併せて考えると、『ギヴァー』で描かれているコミュニティと日本社会のことがよく見えてきます。

 老年の家の住居人たちは、あくまでも「お客さん」でしかないんですね。
 施設を運営する側も、そのように見ています。「あくまでもサービスの対象」として。
 「一緒に場をつくっていく仲間」とは、間違っても捉えていません。
 主役は、あくまでも管理・運営者側です。

 同じことは、学校や大学、政治や行政、会社でも言えてしまいます。
 主役は子どもたち・学生、選挙民・市民、社員とはいっても、それはあくまでも言葉のみで、実際に実現しているところはどれだけあるでしょうか?
 家庭も、同じことが言えるかもしれません。

 私たちのこの家庭、保育園・幼稚園、学校・大学、そして会社や役所等での長年の主役が逆転している経験が、服従・依存、同一化・画一化、バラバラ、受け身・主体性のなさ等と深く結びついています。さらには、いいコミュニケーションやいい人間関係が築けないこととも。

2011年7月29日金曜日

いいコミュニケーション/関係のつくり方

 「老年の家」訪問以来、ずっと考え続けていることです。

 『ギヴァー』のコミュニティは、友達関係も、職場でのやりとりも、そして家庭内も含めてすべて表面的なコミュニケーションしか成り立っていないようです。一方で、ビデオですべての行動は収録されているという社会です。そんなところでは、真のコミュニケーションというか関係など築けるはずがないと思えてしまいます。

 翻って、自分たちの社会を見ると、
 いいコミュニケーションやいい人間関係の築き方を学校や大学の授業で体験したり、習ったりした経験があるでしょうか?
 授業では扱わなくてもいいほど、価値のないものなのでしょうか?
 それでは、授業以外の休み時間や部活動等で学んでいるのでしょうか?
 大学のゼミでは、自然と含まれていると思われますが、それは果たしてプラスの面とマイナスの面のどちらが多いでしょうか?
 会社、そしてPTAや町内会・自治会などではどうでしょうか?
 さらには、家庭では?

 指導的な立場にある人たちも、いいコミュニケーションや人間関係を築きたくないわけではないと思います。単に、自分たちが経験していないし、方法ももっていないだけかもしれません。それとも、あまりにも深刻な悪習の中にドップリ浸り過ぎているのでしょうか。(後者ではないことを期待します。前者ならいくらでも体験して、方法さえ身につけられれば、可能性はありますから。)


 今日の悲しいニュースです。
 九州電力ばかりでなく、まったく機能しているとは言えない原子力安全・保安院が中部電力四国電力にやらせ質問要請していたというのです。
 そういえば、小泉政権時代には同じようにタウンミーティングのやらせが、安倍政権時代には教育改革タウンミーティングでのやらせがありました。
 どうも、いいコミュニケーションや人間関係は最初から放棄しているようです。

2011年7月28日木曜日

JR西日本に620万円賠償命令=日勤教育

 JR西日本福知山線脱線転覆事故当時(2005年4月25日)から、取りざたされていた問題の決着がついたようです。この件は、あの悲惨な事故に会社の体質として深く関係していたと言われていました。以下は、その記事です。

 JR西日本の懲罰的な「日勤教育」で精神的苦痛を受けたとして、運転士ら258人が同社に1人100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁の中村哲裁判長は27日、61人については違法だったと認め、1人5万~30万円、総額620万円の支払いを命じた。
 原告は大阪や神戸、広島各支社などの運転士と車掌。訴状などによると、乗務中のミスのほか、点検中に帽子をかぶらなかったなどの軽微な理由でリポートを書かされたり、トイレ掃除や除草作業をさせられたりしたという。
 原告側は「きちんとした教育体制を敷かずに、原因と関連性のない日勤教育を受けさせるのは人格権の侵害」と主張。JR西は「事故や規律違反などの再発防止に必要で、会社の裁量範囲内」と反論していた。                
                    時事通信 7月27日(水)10時29分配信

 もちろんすべての企業がこんな状態とは思いません。しかし、少なからずこのような要素をもっていることは否定できないとも思います。なんといっても、天下のJRがしていることですから。

 授業や部活の罰則に通じる部分はないでしょうか?

 「老年の家」でも、これに近いようなことが報じられたことも一回や二回ではありません。

 すべては、つながっています。

2011年7月27日水曜日

バラバラ・依存の方が楽?

 日本でも、『ギヴァー』のコミュニティでも、「老年の家」を管理運営する側にとっては、住人たちがバラバラで依存した状況にある方が楽のようです。

 「バラバラ」で「依存」したままで「受け身/主体性のなさ」は、日本の「老年の家」だけに存在するのではなく、あらゆる組織に蔓延しているのではないでしょうか。保育園・幼稚園にはじまって、学校や大学の各クラス。
 そういえば、もう30年ぐらい前の話ですが、ある大学では学内で学生たちが数人集まって話し合うことすら禁止していたような記憶があります。
 「自治」は管理運営する側からは、毛嫌いされるようです。コントロールする際の阻害要因でしかないと捉えているのでしょう。

 「バラバラ」で「依存」したままで「受け身/主体性のなさ」は誰のせいか、というともちろん当人たちのせいでもあるのですが、より多くの責任は保育園や幼稚園、学校や大学には先生たちの側に、会社や国や自治体の政治の場合は経営者や行政や政治家の側にあります。(『ギヴァー』の中では、長老たち。)なんといっても「その他諸々」はバラバラにされ、そして受け身で依存したままに置かれ続けていますから、自分たちが主体的に動くのは至難の技です。
 どうも、指導的な立場にある人たちは「その他諸々」に「自立して主体的に動かれては困る」と思っているようです。

 そんな中で、行動を起こしたジョナスはすごい!!!

2011年7月26日火曜日

日本の「老年の家」

 先週、日本のある「老年の家」を訪ねてきました。
 『ギヴァー』の中に「老年の家」のシーンも少しですが、描かれていたからです。
 施設は、両者とも立派です。(後者に関しては、私のイメージでしかありませんが。)

 何が一番印象的だったかというと、先週追いかけ続けていたテーマの「服従」と「同一性・画一性」が日本の場合は、家を離れて保育園や幼稚園に入ったときにはじまり、そして死の直前まで続くのか、という発見でした。
 テーマは上の2つだけでなく、「バラバラ」「依存」「受け身/主体性のなさ」なども含めてです。

 保育園・幼稚園にはじまり、学校や大学、そして企業で、先生や経営側に依存する/服従する体質が長年培われてきていますから、終の棲家である「老年の家」でもまったく同じ構造が存在します。
 主体的に構成員が行動してコミュニティを作ることの難しさです。

 いろいろなアクティビティというかクラブ活動もあることはあるのですが、「全員を差別することなく扱う」ので、結果的に誰にも主体性がなく、運営側がやっているから、そして「暇だから」「時間をもてあましているから」「お付き合いで」参加している状態なのです。

 「老年の家」とは違う健常者対象の老人クラブなどはどうなのでしょうか?
 そして、学校や大学のクラブや部活やサークルは? 選択がある分、主体性は保証されているでしょうか?

 たまたま私の両親が20年以上前から海外(オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ等)のリタイアメント・ビレッジ★に興味を持っていたので訪ねたことがあるのですが、構成員(入居者)が主体的にコミュニティを作るという部分が根本的に違っていました。それは、単にそこに入ってからの問題というよりも、保育園や幼稚園から長年培われた経験というか教育の産物とも思いました。


★ なんとか、そういうのを日本でもつくりたかったのです。
  しかし、残念ながら日本社会の方がまだ用意ができていません。
  あと、少なくとも20~30年。ひょっとしたら50年はかかるかもしれません。

2011年7月24日日曜日

従う/従わない、同じがいい/同じになりたくない (=『ギヴァー』と関連のある本 69)

 服従と同一化/画一化をテーマにした第3弾は、ジェリー・スピネッリの『ひねり屋』です。
 前にも読もうと努力したことがありますが、3章か4章で脱落してしまいました。
 今回は、3分の1ぐらいまでなんとかがんばったので、その後はスムースに読めました。
 著者のユーモアのセンスもなかなかいいです。

 主人公のパーマーの住んでいるのは、公園の管理費を捻出するために、毎年五千羽の鳩を撃つ射撃大会を行っているとてもおかしな町。そこで活躍するのが、死んだ鳩を回収したり、まだ死んでいない鳩の息の根を止める「ひねり屋」と呼ばれる子どもたち。この町の子どもたちは10歳になってひねり屋になれることを夢見て育つ。でも、パーマーだけは違っていた。

 パーマーは、その気持ちを隠し続け、遊びたくもない子たちと友だちづきあいをするのに時間と知恵を使い果たす。そんなパーマーのことをもっともよく知っていたのは、前の家に住んでいる幼馴染のドロシーだけ(両親も、どうやら知っていたようだが、隠れてサポートしていた)。

 しばらく鳩をペットに育てた後、パーマーは射撃大会の会場でアクションを起こす。


 パーマーとジョナスの共通性、そして2人が所属するコミュニティの共通性(と私たちの社会との共通性)は、結構あるかもしれません。


付録: ライティング・ワークショップ/「作家の時間」を実践している方を中心に、書くことに関心のある方には、特に105~7ページ当たりが、鳩をテーマにして作家になれる気にさせてくれます。

2011年7月23日土曜日

わが国の長老たちと電力会社との強い絆

 自民個人献金、72%が電力業界 09年、役員の90%超 の見出しで、共同通信のネット版に載りました。(2011/07/23 02:02) 記事の内容は、以下のとおりです。

 自民党の政治資金団体「国民政治協会」本部の2009年分政治資金収支報告書で、個人献金額の72・5%が東京電力など電力9社の当時の役員・OBらによることが22日、共同通信の調べで分かった。当時の役員の92・2%が献金していた実態も判明した。電力業界は1974年に政財界癒着の批判を受け、企業献金の廃止を表明。役員個人の献金は政治資金規正法上、問題ないが、個人献金として会社ぐるみの「組織献金」との指摘が出ている。福島第1原発事故を受け、原子力政策を推進してきた独占の公益企業と政治の関係が厳しく問われそうだ。

 ということは、民主党は原発事故の尻拭いだけをやらされている、という構図になるわけです。
 自民党も、民主党も、本腰を入れて事故処理に乗り出さない理由が、こんなところにあったわけです。

 ウ~ン、なんという国!!!

『ギヴァー』と関連のある本 68

 一昨日紹介した『ウェズレーの国』との関連、およびすでに『ギヴァー』と関連のある本の48として、レオ・レオーニ作の『どうする ティリー』を紹介していますが、今回は有名な『フレデリック』です。副題に、「ちょっとかわったのねずみのはなし」と書かれています。

 フレデリック以外ののねずみたちは、冬食べるものを集めて昼も夜も働いた。
 しかし、フレデリックはみんなと一緒には働かず、じっと動かずに光や色や言葉を集めていた。みんなと働き方が違うというか、向いている方向が違うだけ。
 食べ物がなくなってから、のねずみたちの救いになったのは、それらフレデリックが集めた光や色や言葉だった。

 前回のウェズレー同様、従わないこと、同じことをしないこと(テーマとしては「服従」と「同一化(画一化)」)の大切さをティリーも、フレデリックも、ジョナスも教えてくれています。

2011年7月21日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 67

 今日から学校は夏休みというところが多いので、おすすめの本です。
 『ギヴァー』と関連のある本の49でも紹介した、ポール・フライシュマン作の『ウェズレーの国』です。

    仲間はずれにされていた少年が、
    夏休みの自由研究に「自分だけの文明」
    つくりだすという壮大な物語。
    自分だけの作物を育て、自分だけの服を作り、
    「遊び」を考えだし、「文字」まで発明する。

 このうちの一つでも(あるいは、これに似たようなことが)やれたら、すごい自由研究になると思いませんか?

 『ギヴァー』との関連では、共通に扱っているテーマとして「服従」と「同一化(画一化)」が含まれていると思います。 ← これらのテーマは、日本にとっての永遠の課題でもあります。

 ウェズレーは、従うことや友だちと同じに振舞うことを拒否し、自分のやりたいこと/やりたい道を進み続けた結果、夏休みが終わって、学校が始まるときには、仲間はずれにしていたみんながウェズレーの国の住人になっていた、というハッピーエンドのお話です。

2011年7月19日火曜日

名前の付け方

 『青い馬の少年』を読んでいて気づいたことの2つめは、ネイティブ・アメリカンの名前の付け方のこだわり具合が、『ギヴァー』の中での名前の付け方と対照的だと思えたのです。

 『青い馬の少年』の主人公は難産で、その結果として目が見えなくなったと思われます。

         一晩じゅう
    声を、あげることもなく
           目は、とじたままで
    息はあさく、弱く
    泣き声さえ、あげられなかった・・・

  ストーリーテラーのおじいちゃんが、その子を外に連れ出したところ、二頭の大きな青い馬がかけてきて、馬は立ちどまって、その子をみつめた・・・
    するとおまえは
    おおきな、青い馬にむかって
    腕をひらいた。
    わしはいった。
    「馬が、この子に、話しかけている。
    この子の、兄さんたちなんだ。
    暗い山をこえて、やってきたんだ。
    この子は、死んだりしない」

 そして名づけの祝いの儀式で、おじいちゃんは、「青い馬の力をさずかった少年」という名前をつけました。
    力強い名前でなくちゃ、いけなかったのおじいちゃん。
    子どもは、だれだってみんな
    力強い名前が、必要なんだ。
    じょうぶに育たなくちゃいかんからな。

 そして、その子は、生まれたての子馬に、「虹」という名前をつけます。自分の目となる馬に。

 それに対して、ジョナス、リリー、フィオナ、ゲイブリエルといった名前は誰が、どういう意味をこめてつけていたのでしょうか?
 そういえば、使ってはいけない名前も一つか、二つありました。

2011年7月17日日曜日

ストーリーテリング

 絵本の『青い馬の少年』は、以前に読んだことがあります。
 ある本の中で、作者の一人へのインタビューが載っており、その中でこの絵本が書かれる過程についての紹介があったので、その部分を確認することを主な目的に再度読んでみました。
 最初の時は(ギヴァーとの関連で)読めなかったものが、今回はいくつか読みとれましたので紹介します。 → ここ2~3年事あるごとに確認させられることですが、人は読むタイミングで読めるものが違うことを痛感します。

 その前に、普通、絵本は文と絵を一人がかくか、それぞれを分担してかくかのいずれかですが、ビル・マーティンという人は、あえてジョン・アーシャンボルトという人と二人で文を書く形で何冊かの絵本を出しています。(ちなみに、二人の出会いは、大学での講演にビルが来た時の送り迎えの運転手を学生だったジョンが担当したのが縁だそうです。)二人で書くことで、見落としがちなところをおさえたり、深まりや広がりを持たせられると、上のインタビューでビルは語っています。
 作家であり、詩人であり、編集者であるビルは、「読書は、目で読むだけでなく、声に出して、ことばの響きを楽しむことも含まれると考え、朗読やストーリーテリングを子どもたちに教えてい」ます。
 なお、この『青い馬の少年』はまさにストーリーテリングの形式で書かれている絵本なのです。

 それで思い出したのが『ギヴァー』でした。
 ギヴァーからジョナスに記憶が注がれることを、一種のストーリーテリングと捉えられないか、と思ったのです。
 ストーリーテリングは、確実に記憶に残り、そして伝承されていく方法です。
 それに対して、ジョナスが学校で受けている授業は、残らない/役立たない象徴のようなものとして描かれていた気がしないではありません。(日本中で行われている授業のほとんども?? いったい記憶にしっかり残り、しかも役に立つように変えていくにはどうしたらいいのでしょうか?)
 今の世の中、テレビがストーリーテリングの代役をつとめている気がしないではありませんが、それでいいのでしょうか?

2011年7月16日土曜日

『Beフラット』

 本の内容は、国会議員へのインタビューが中心なのかと思っていたら、どちらかといえばそれは付け足しで、教育問題、少子化問題、日本のアジアを中心とした外交問題などを扱いながら、それらに対して国会議員がどういう考えをもっているのか(結構ズレテイルているというか、何のアクションも期待できない正論だけを言う)を紹介する形になっています。

 基本的に、日本は再チャレンジを許さない社会/システムというふうに捉えています。→ これって、まさに『ギヴァー』の世界??

 学校ごっこ(こどもごっこ)をやらせ続ける学校、同じレベルで入試や入社に重きを置きすぎ(学生や社員の視点に立てない)大学や会社、人工中絶年間29万件を抱えながらの少子化問題、そして実社会のことをしっかり見、考え、そして行動できない政治家たちによる「政治家ごっこ」等を浮き彫りにする形で日本を描き出しています。 ← この最後のごっこ遊びには、あまりにも無駄なお金が費やされ続けています。コストに見合う仕事をしている人は、いったい何人いるでしょうか? それは、東電の幹部たちも同じですが。あちらの方は、「会社ごっこ」です。

 著者のアメリカで自分がやりたいように生きている友人(女性)への一言に、「残念だけど、もう帰ってこないほうがいいよ、こんな国」(206ページ)にすべて言い尽くされている気がします。

2011年7月15日金曜日

政治家たちを別の星に移送

 昨日紹介した日本の政治家に関する私のコメント(②の部分)を、もう一人別のオーストラリアの友人に送ったところ、以下のようなメッセージが届きました。

I agree with you on politicians (as you are well aware). I'd like to ship the lot of them to another galaxy permanently. (Not a lot of future for any life forms in that galaxy.)

 「生物が生きていく望みがない星に送ってしまいたい」というのです。
 (このオーストラリア人のユーモアのセンス、いいですね。)

 3月11日以降はもちろんのことですが、はるかそれ以前からも、「税金の無駄づかい」ということでは突出した存在であり続けていますし、選挙という制度を介した間接制民主主義が機能していないことは明らかです。
 しかしながら、機能しないシステムの上に乗っかっている人たちが、その機能しないシステムを改変するということは残念ながら期待できません。いまのままほど楽なものはありませんから。


 『ギヴァー』の方の「長老制」は機能しているのでしょうか?
 機能していないからこそ、ジョナスはアクションを起こしたんだと思います。


 中村安希さんの『Beフラット』を、昨夜から読み始めましたが、ちょうどここで書いている内容とシンクロとしています。

2011年7月14日木曜日

長老たち=政治家たちがいない方がいいのは国際的な状況?

 オーストラリアの友人と最近あったやり取りです。

 日本の状況をとても心配してくれています。
 それに対して、「悪い状況から脱したとは言えない。最悪なのは、政治家たち(特に、国レベルの)が物事を前に進めようとは思っていないこと。彼らなしの方が、物事がスムースに進むと思う」と返事を出したところ、オーストラリアの政治状況も同じだ、というメールが戻ってきました。

① I have been thinking about you and all folk in Japan who have been affected by the terrible earthquake, tsunami and the drastic situation with the nuclear power plant.
   I can't believe how much heart ache and devastation the events of the last few months have brought upon Japan and the people.
   I do hope that everyone feels supported and that they know that people around the world, and specifically Australia, are still donating to appeals and praying for a speedy recovery to normal. Although how can anything ever be the same when so many people have lost loved ones, their homes, their livelihoods etc?

  ↓

② Thanks for your very kind words.

  Yes, Japan (especially in the northern half of Honshu, the main island) is in quite terrible shape.
  But, unfortunately, the worst part is the national-level politicians. They cannot and don't seem to be interested in moving things forward. We are much better off without them.
  We are better off without them any time, but especially in this time of crisis.

  ↓

③ Your comments about your politicians match my thoughts on our current national government here in Australia.
    Thank goodness our politicians haven't had the same devastating natural and nuclear disasters to deal with. We have had terrible floods this year and awful bush fires but on a lesser scale than your dreadful events and resulting effects.

2011年7月10日日曜日

こだわりの生き方 2

 自分自身、こんな本を読むとは思っていなかったのですが、『ギヴァー』から発した関心はついにここまで来てしまいました。(「大分遠くまで来たもんだ!」という感じです)

 『デカルトの旅/デカルトの夢』(田中仁彦著)。
 サブタイトルは、「『方法序説』を読む」

 デカルト著、谷川多佳子訳の『方法序説』(岩波文庫)や、谷川さんが書いたというか、講演した記録の「デカルト『方法序説』を読む 」(岩波セミナーブックス) ★にも目を通しましたが、一番面白かったのが田中さんの本でした。以下、メモです。


12 学校教育への異和感、ずれが、すべての出発点
19 当時得られるベストの学問への失望
39 失望したイエズス会教育からデカルトが唯一得たものは、数学への興味だけ。(それも、デカルトが数学を学ぶ確率は、極めて低かったとか。)
41 それが、「本当の使い道」を発見する=彼の「方法」に他ならない。
60 のちにオランダでベークマンと出会い、刺激を受ける。
   デカルトは、問題の誤った処理の仕方をしたが、結果的にその中に、デカルトが「近代科学=哲学革命」の主役となることを必然的にした根本的な直観があった。
72 デカルトの極めて広義の数学への関心

190 夢の後の、9年間(1619年~1928年)の放浪の旅 ← この期間中には、自分の実家に戻り、父の死に伴う遺産相続をしっかりもらって換金したことも含まれています。それによって、以後自分の死まで何の職業にも就かず、哲学/研究/執筆活動に従事することができるようになりました。こだわりの生き方を貫くためには、必要なことだったわけです。

197~8 時代(夢)の崩壊 → 新たなものの創造のきっかけ

 キリスト教(宗教)を受け入れ続けていたデカルト


★ でも、この本から森有正のデカルト論は読んでみたくなりました。

2011年7月6日水曜日

こだわりの生き方

 ジョージア・オキーフという人についての本や画集を何冊か読みました。
 作品はスゴイのです(ヨーロッパの影響をまったく受けない作品と言われました)が、人となりを理解するという意味では『ジョージア・オキーフ ~ 崇高なるアメリカ精神の肖像』ローリー・ライル著が、一番よかったです。あれらの作品は、こういう人だからつくりえたのか、と納得です。

 オキーフは、1887年に生まれ、98歳で1986年に亡くなりました。これだけでもスゴイことです。絵を描くために、食べるものにこだわり、からだも大切にし続けました。何よりも、歩くのが大好きだったそうです。

 以下は、本からの抜書きです。(数字は、ページ数)


51 時間の使い方にはとても気を配っていた。
   絵を描くことが明らかに他のすべてのことに優先した。
   「彼女の色はいつも一番鮮明で、パレットは一番きれい、そして筆は最高のものでした ~ でもそのために彼女は、他のことをほとんど何もしていなかったのです」

60 自分の方法に気づいた瞬間 ~ これらの絵はあの教授、あちらの絵はもうひとり別の教授を喜ばせるために描いたものだ。それに残りの絵だって、何人かの有名な画家の影響を受けている、と。ジョージアは椅子に座り、しっかりと目を見開き、考え込んだ。すると突然、彼女の中で一つの考えが閃いたのである。彼女の頭の中には、それまで人から教わったどんなものとも違う、彼女自身の想像力と直結したいくつもの抽象的なフォルムが存在していた。
   1915年に、自分自身のために絵を描こうと決心した

75 美術教師としてのオキーフ ~ 毎日の辛い生活の中でいかに芸術が重要であるかということを、生徒たちに理解してほしかった。後に彼女が述べているように、絵を描く技術ではなく、ものの見方を教えることに重点を置いたのである。「私は私の生徒たちに、芸術とは本当は誰もが活用せねばならぬものである、と教えました」と彼女は語っている。ジャケットのラインや衿の形にも、封筒の宛名の書き方や髪の梳かし方にも、また家の窓をどこに付けるかということにも芸術は存在する。何が美的に優れているのか、もっと端的に言えば、何が一番よく見えるかということが、人生におけるあらゆる決断の基礎になるのである。

79 オキーフにとって師であり、人生のパートナー/夫だったアルフレッド・スティーグリッツに推薦されて、ゲーテの『ファウスト』をはじめ、ニーチェ、イプセン、フェミニストたちの著作、美術評論、そして何冊もの小説を読み漁った。

101 オキーフとスティーグリッツの共通点: 虚偽を心底軽蔑していた、並外れた正直さと絶対的純粋さ、自分たちの経験から得た真実をクリエイティブに表現したいという強い気持ち、すべてにおける最高のものを求めるのに熱心、頑固さ

151 オキーフの「直截」的な絵

158 絵を描くために雑念のない澄み切ったマインドを保つために、オキーフは自分の周りも可能な限りシンプルにしておく必要性を感じた。彼女のクリエイティブなプロセスは、まず、自分の心を強烈に揺さぶる何物かの存在を常に突き止めようとしていること、そしてそれを探求し、キャンヴァスに表現することによって、より完全にその物の正体を把握することから成り立っていた。

228 病(神経超過敏症、鬱病)を抱えたオキーフ ~ 宮沢賢治にしても、並をはるかに越えた創造活動をする人と、この病は切り離せないのか??

270 旅が好きだったオキーフ。常に新しい刺激を求め続けたオキーフ。 「それがそのひと自身の世界の一部 ~ 自分が真にコミュニケーションの出来る世界の一部 ~ にならなければならないのです。やがてそれからゆっくりと、それを絵にすることが出来るようになるのです・・・」

289 「自分が本当に欲しくて欲しくてたまらない物であれば、それは絶対に手に入れることが出来るものだ」と信じたオキーフ

308~311 オキーフの描き方

326 彼女は他の芸術家の作品を見ることを好まなかった。というのは他の画家たちの視点を自然に受け止めて楽しむというより、むしろ彼らの技術のひとつひとつを厳しき日違反的な目で分析してしまうからである。マドリッドのプラド美術館ではしかし、エル・グレコやヴェラスケス、そして特にゴヤの作品を見ることに大きな喜びを感じ、彼女自身驚いてしまった...西洋の画家の中で彼女はゴヤが一番気に入った。

378 過去を振り返ってオキーフは、彼女が人生の中でやりたかったことはみなすべてやり、それもすべてみな大変うまくいったと話すのが好きだ。しかしオキーフの芸術家としての勝利は、明らかに持って生まれた豊かな芸術的才能の他に、物事の核心を見透かして宇宙のある真理を把握することできる鋭い目と、何者もけして屈することのない強靭な意思の結果である。「私はいつでも自分が何を望んでいるかを知っていました。多くの人はそれがわからないのです」と彼女は、一度はっきりと述べている。

訳者にとって、オキーフが教えてくれたことは ~ 「大切なこと」とは、本当の自分を発見し、愛し、生涯をとおして勇気を持って、可能な限り成長させつづけるということ。(382ページ)

 2~3年前に、ジャネット・ウィンターが描いた『私、ジョージア』という絵本を読んでいましたが、残念ながらここまでのこだわりは伝わってきませんでした。ちなみに、ウィンターさんは、こだわりの生き方をした人を描くのが好きな絵本作家のようです。他にも何人か描いています。

2011年7月5日火曜日

科学者はどう考えるか 3

パターン

29 ここでは、新発見とは、すなわち期待したパターンからのはずれに出会うことである。新発見があると、理論家は、より広く包括的なレベルで、再びパターンを見出さなければならない。よい音楽をつくることだって、聞き手と一緒に理論づくりのゲームをすることだといえるだろう。われわれはパターンによって生活している。

フィードバック

 ここでは、とてもわかりやすいフィードバックの事例を紹介してくれています。(私たちが日常、誰に教わるのでもなく使いこなしている事例を)

88 友だちやその子どもたちと一緒にピクニックに行く。
   海が見渡せる絶壁のてっぺんで、昼食の用意をしていたら、棒で遊んでいた二人の子どもが崖ぷちすれすれのところにいる。落ちた棒が拾えないかとしているのだ。それを見たあなたは危険だ、と思った。子どもたちにかけよって手を伸ばす。のばしながら考える。子どもを驚かしてはいけない。叫んだりせずに平静に言おう。「サンドイッチが並んだよ。おいで、食べようよ」
89 子どもが崖のふちではねまわっている。惨事がおこりそうだ。それを見てひるむ。子どもが今のままいったらどうなるか。想像力は半歩先にいく。そのイメージはあまりに鮮明だ。結果は致命的だろう。あなたの体はひきつり、後ずさりする。
   もちろん一瞬の後、創造した未来を変えるために行動をおこす。叫ぶために息を吸い込み、腕を大きく伸ばす。子どもを捕まえなければ! しかし想像力はもっと先を見る。子どもを驚かしたら、もっと危険だ。腕をひっこめながら「子どもを引き戻すより、むしろ呼び戻そう」と未来を修正する。想像力の描く情景によって行動を修正する。それによって心の中の情景をまた修正する。・・・・
   このように、行動と結果がお互いを修正しながら進む、これがフィードバックのパターンである。

93 1920年代になると、フィードバックの原理は、まったく違った方面に立ち現れた。ジョン・デューイの同僚だったジョージ・ヘルベルト・ミードによって創られた心理学の基本パターンとして。
  彼のこだわりは「言葉は、どんなふうにして人間関係の骨格として機能するのか?」「子どもはどんなふうにして言葉の使い方をおぼえるのか?」だった。
  自分の話を聞いてくれるのは<自分と違った他の人間>。いいかえると<他者>なのだということ。
  そして、その人の想像力が ~ 自分と一緒になって ~ 自分の言葉を完成するのだ、ということである。
  ミードはいう。<他者>という感じがはっきりしてはじめて<自己>という認識も生まれ成長する。そもそもの初めから<アイデンティティ>は言葉によって形づくられ、言葉によって焦点をむすぶ。
  子どもがいろんな人といろんな時に出会っては、個々に形づくってきた<他者>という観念は、あるとき急にもっと永続的で強力な何か、いわゆる<一般化された他者>になる。ミードのこの言葉はぎこちないし、広く使われはしなかったが、その意味するところは興味深い。<一般化された他者>とは、心のなかの標準として心のなかにイメージされている人々の集まりのこと。あるいは、自分の話を自分でもう一度聞きなおす能力 ~ これは簡単のようにみえて一番大切な能力である。
94 ものを書く人間は特に<一般化された他者>に敏感でなければならない。
 ← 以上からも、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことはとても重要なのですが、残念ながらいまの学校の授業では、あまりにも軽視(無視?)されすぎています。一つには、教師ががんばって話し続ける時間が長すぎますし、まともに書いたり、読んだりする時間をとっていません。

100 遺伝子の「メッセンジャー」

予言

137 天文学と物理学は、モデルつくり・理論つくり
139 ニュートンは数学を、天体力学を表現する言葉として発展させた。そして、やがて物理全体に広がった。

証拠

173 プラシーボ効果(偽薬の効果)
180 科学における技術の重要性

 本のタイトルや章立てからは、引用したり、メモしたところが偏っているかもしれません。(『ギヴァー』の視点で読んでいるのがその理由のような気がします。) 全体像をしっかりおさえたい方は、ぜひ直接本に当たってみてください。

2011年7月4日月曜日

科学者はどう考えるか 2

 前回は、タイトルしか紹介しませんでしたが、今回は内容を。
 以下は、本からの引用です。

まえがき

V 現在、私たちの生活にあらわれたもっとも明瞭な目に見える影響は、良きにつけ悪しきにつけ科学のもたらした技術によるものです。科学は良いとか悪いとかいう今日の大方の議論は、技術の価値に関するもので、科学のそれに関するものではありません。
  ・・・しかし、技術は科学の一側面にすぎません。長い目でみれば、重要性のもっとも少ない側面ということになるでしょう。
  科学は、私たちの生存と安楽、娯楽と滅亡の道具をもたらしたのと別に、私たちの考え方に大いに影響しています。
  人の考え方への影響はゆっくりと現れるのです。それはしばしば微妙で、かつ意識下でおこります。知識が改まると世界観が変わるでしょう。私たちが宇宙の中心なのではないと考えるようになったのも科学のせいです。私たちは迷子になった。少なくとも、まだ自分をとりもどしていない。宇宙における役割について、何世紀か前に知らされていたほど確かな知識は、いまはありません。人口は増えましたが、私たちは以前より孤独です。しばしば恐れすくんでいます。科学というものは、未来を知るための人間の努力のなかで最も頼るべきものといわれています(とどのつまり、予言が科学の最大の仕事です)。しかし、科学の時代に生きている私たちは、歴史上かってないほど未来に不安をいだいているのです。これこそ、現在までに科学が人の意識にもたらした最大の皮肉であります ~ 少なくとも、西欧世界ではそうです。 (ルイス・トーマスという人による「まえがき」は全部引用したいぐらいです。)

探究

2 「うまくいった」という感じが心の中に広がる瞬間がある。
 私の友人の数学者は、ある日、8歳になる娘が偶然に<素数>を見つけたのをわきで見ていた。素数というのは、11,19,83,1023などのように、ほかのどんな整数(1は除く)でも割り切れない数のことである。
 もちろん彼が教えたわけではない。「娘はそのことを“不公平な数”っていうんだ」と彼は言った。
 「ぼくが“どうして不公平?”と聞いたら、彼女は“だって、公平にわける方法がないんだもん”だってさ。」
 彼が喜んだのは、娘のチャーミングな話し振りや頭の回転のよさ(17個のペパーミントを友達に分けるとしたら?)ではない。むしろ彼女が<真実を科学的にさぐりあてる瞬間>を体験したことだ。彼女は独力で、ものごとの成り立ちを発見したのだ。
 その瞬間わきおこる激しい満足感を言葉で表すのは簡単ではない....いま手にした世界の真理の美しさ! これこそが、科学者をゆり動かす魅力の源なのだ。 ← こんな瞬間こそを学校の授業で体験するようにできないもんでしょうか? 十分にできるのですが・・・

3 マサチューセッツ工科大学の理論物理学者であるフィリップ・モリソンは言った。「違いは考える対象にある。科学者たちはね、たいていの人々が本気に考えない、注意深く考えてみようとしないもろもろの領域に、日常の思考方法をぶつけてみるんだよ。
  哲学者たちは科学のもつこの日常性にも、多様性 ~ 多様な考え方、多様な障害、そして落とし穴、多様な道ゆき ~ にも目を向けない。
  ・・・・とにかく、科学者たちが実際やっている仕事を見ることだよ。」
ところが哲学者や歴史家は本にとらわれている。
いや本によって目隠しされているというべきか。

11 「科学的な推論とは、<こうかもしれない>と<本当はこうだ>との対話である。