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2011年2月26日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 55

 しばらくぶりの『ギヴァー』と関連のある本です。
 タイトルは、『ネイティブ・マインド』。
 サブタイトルは、「アメリカ・インディアンの目で世界を見る」。
 書いた人は、北山耕平。

31 ネイティブの人たちがよくいう「白人の道」を私たちは生まれながらに歩かされていたのだ。私たちはそれがあたりまえだとして育てられた日本で最初の世代である。(著者は、1949年生まれ。)外見はともかく中身は見事に「白人」だった。しかしこの構造はなかなか見えにくい。私の目には日本は、インディアンのリザベーションのように見える。四方を大海で囲われた大きなリザベーションのなかにいて、もし自分のことを自由だなんて思っているようなら、その人はけして真の自由を知ることはないと言える。アメリカ・インディアンを消えた野蛮人のように考えていたりすると、かえす刀で自分が切られかねない状況をよく考えてみなくてはならなくなったのだ。

 世界でおそらくいちばん土地に対する敬意を失ってしまった人々。おそらく白人たちよりもライフ・スタイルの上ではもっと白人化してしまい、いつしか人間であることにプライドを失ってしまった巨大部族日本人。

→ まさに『ギヴァー』で描かれている世界??に住んでいる私たち。

83 「インディアンの宗教は口で説明できない。インディアンは宗教を生きているからだ。どうやって生きたらいいかという話を聞くだけのためにインディアンは教会に行く必要もない。毎日の生活がインディアンには宗教なのだ」

  これを、「聖なる道」や「スピリチュアルな生き方」と呼ぶそうです。

95 聖なる道は、日々の暮らしと切っても切れない関係にある。 ~ 「一日24時間が宗教だ」

→ この辺の宗教観、いいですね。

97 「大昔の人たちは、自らの生命を、宇宙のバランスをとるために、偉大なるものに、神秘的なるもののために捧げたものだった」

→ 北米のネイティブの人たち、アステカ、マヤ、インカの人たち、そしてそれ以外の日本も含む大昔の人たちにも通じる宇宙観というか、生命観でしょうか?

99 宇宙の力を生活のなかではっきりと知覚し、その力との並ならぬ関係を、ある時は特別な木の彫り物を作ったり、お守りをこさえたり、歌を作ったり、獲物をたくさん捕まえたりすることで表現し、人生を生きる価値のあるものに、そして生きることに意味を与えてきた。

  したがって、この「毎日の生活における知覚」のことを、彼らネイティブな人たちの宗教と定義することができるかもしれない...それをあえて宗教と呼ぶよりも、私は「生命の探求」と呼びたいと考えるに至っている。

→ 宗教=生命の探究

253 通過儀礼(誕生、成人、結婚、離婚、熟年、老年、そして死)を大切にしてきたネイティブな社会

→ 日本でも江戸時代の終わりまでは確実にネイティブ社会(ひょっとしたら、それ以上!)だったことが、『武士の家計簿』(磯田道史著)でわかります。地域によっては、明治以降も、ひょっとしたら昭和に入っても続いていたところはあるような気がします。
  『ギヴァー』の世界では、1歳から12歳までのお祝いが大切にされていました。それ以外で大切にされているのはありましたか? 12歳が日本でいう成人に近いでしょうか?

260 中年から年寄りの域にはいることを象徴的に「引退」と呼んでいる。このことは大相撲を見てみるとよくわかる。お相撲さんが土俵の上で相撲が取れなくなると、髷をきる儀式をする。彼は引退して髷を切った時から「年寄」と呼ばれるようになるのだ。そして彼は以後後進の教育に精を出す。

261 このことを見ると、日本の一部にはまだ、少しは伝統的なものが残されているなと思える...しかし、わずかな例外をのぞいて、年寄がその深い知恵と精神の力で自分の属するコミュニティに参加するようなことは、まずなくなってしまったといっていい。

→ ウ~ン、ここ数年いろいろと問題が多い相撲界です。ちなみに、この本が出版されたのは、1988年。

 そして、人生の最終段階の儀式である「死」が次に控えている。

 いつの頃からか私たちは死を「汚れたもの」と見るようになった...今でこそ「葬式仏教」と陰口を叩かれるように、その仏教がジャパニーズ・トライブから死の、人生の最後の通過儀礼のリアリティを取り上げてしまって、すでに1500年近い年月が流れている。

→ 日本に伝来した仏教が悪かったのでしょうか? なんか違う気がします。 チベット仏教は、同じ仏教でも葬式仏教じゃありません。 いつ頃からなんでしょうか「葬式仏教」化してしまったのか?

265 ヴィジョン・クエスト → ??

2011年2月22日火曜日

『ギヴァー』読みました

Nさんには前から紹介してあったのですが、なんと日本を離れる当日に、それもわずか2時間で読み終えてしまったそうです。(その間、6歳の娘はいったいどうしていたのかな、と心配になってしまいました!)


家から成田、成田空港内で読み終えたから、2時間くらいかな。

ハクスリーの「すばらしい新世界」的な印象を受けた。

逆ユートピアをシニカルに描いている近未来SF。

感情を抑制する薬も、「ソーマ」みたいだなと思った。

ただ、記憶を中心的テーマにおいたのが面白いなぁと思った。

多くの人で記憶を共有できれば、レシーバーが痛むことも

なくなるわけで。

これって世界平和に繋がる壮大な話だなぁと。

ただ、後半、主人公ジョナスが脱走を決意した時点で、残りの

ページ数が少ないのにびっくりした。

え、え、このページ数でコミュニティの問題に対する答えは出るの?

って。

で、案の定、コミュニティと主人公との対立などは描かれることなく。

フランダースの犬っぽい、主人公ジョナスにだけ焦点があてられた

終わりとなってました。

うーん、欲を言えば、コミュニティに対するもっと核心的な答えが

欲しかったかな。

でも、本自体はすごく読みやすくて、テンポよくて、読んでて

きもちよかったです。おもしろかった!

Yさん、サンクス!!!

2011年2月21日月曜日

ユーモア

 『ギヴァー』はたくさんのテーマが盛り込まれている本ですが、ユーモアは欠けているような気がします。「哲学書」だからでしょうか? でも、哲学ではユーモアというテーマは扱わないのでしょうか?

 『ギヴァー』の中でも「老年の家」のシーンが何回か出てきますが、『オールド・フレンズ』(トレーシー・キダー著)が扱っているのも老人ホームでたまたま同室になった2人のやり取りでした。そして何よりも印象に残ったのが、ユーモアのセンスだったのです。

 この本で書かれているようなユーモアを実行しながら、老いを迎えたいものだとつくづく思いました。(ユーモアはどこでも大切だと信じていますが、特にホームなどの場での必要性は高いと思います。)しかし、そのための準備はホームに入ってからでは遅すぎます。はるか前から準備を始めないと。

 いずれにしても、日本の老人ホームではちょっと考えられないと思いました。ホーム以外でも考えられないでしょう。ユーモアのセンスを養う機会は日本という社会においてはとても少ない気がします。 (ユーモアのない文章で失礼しました!! なお、ユーモアは日本で盛況な「お笑い」の文化とは根本的に違います。)

 ちなみに、この本は同じ著者の『国境を越えた医師』が面白かったので読みました。両方とも、ノンフィクションの作品です。

2011年2月15日火曜日

大人のブッククラブ②

新評論のニュースレター(=新刊案内)の前号に続き、『ギヴァー』と『リーディング・ワークショップ』の主題をむすぶ試みについて、RWの実践に取り組んでおられる小学校教員の広木敬子さんに語っていただきました。

 「大人ブッククラブ(BC)」で二度目に『ギヴァー』を読んだ時には、5人のリーディング・ワークショップ(RW)・チームのメンバーが集まりました。それぞれのテーマは次の通り。T―自分にとって当たり前になっていること、大切なことを見直す。N―自分と関連づけて読む。I―いつも主人公の立場で読んでしまうので、もう少し客観的に読む。A―子どもたちがしているように付箋をつけながら読む。H―主人公ジョナスはどうして“脱藩”できたのかを考えながら読む。

 ストップウォッチを用意し、一人約七分間で、自分のテーマとそれについての自分の読みを語っていきます。

 今回はこんな「読み」が発表されました。「結婚というシステムを今まで疑ったことはなかった」「死を遠ざけていたり、心から愛することができなかったりと、『ギヴァー』のコミュニティは人間に本来備わっている力や苦悩を否定する社会だ。人間本来の欲望や葛藤が認められないのは怖い。実際、私たちの周りにもこのようなことが生じているのではないか」「ジョナスは知性・正直さ・勇気をもち、人として大切な資質を身につけていたために、自分たちが井の中の蛙であることに気付けた。だからジョナスだけは脱出できたのではないか」「真実に気付いたなら『同一化』の中にはいられない。ギヴァーも後押ししてくれる。だから飛び出すのだ、この世界から」…。

 全員が語り終わると、質問や意見交換が続々となされ、90分間話がとぎれることはありませんでした。前回のBCで読んだ『獣の奏者』(上橋菜穂子著のファンタジー小説、講談社刊)との関連も話題になりました。『ギヴァー』におけるコミュニティのルールや性的動揺を抑えるための錠剤は、『獣の奏者』の「王獣規範」や「特滋水」に通じるものがある…。そして、何通りもの解釈が可能な『ギヴァー』のラストシーンに希望と絶望のいずれを感じるかについては意見が分かれ、それぞれ自分の根拠を熱く述べ合いました。

 二度の“『ギヴァー』@BC”を通して、今まで自分が当然視してきた授業観を見直さねばと切実に思いました。ジョナスのように勇気をふるい、子どもたちが輝くことのできる新しい授業のあり方を求めて、既存の授業観を打ち破って飛び出していかねば、と感じています。(ひろき・けいこ 横浜市立稲荷台小学校主幹教諭)

★写真キャプション:「子どもたちのBC」の模様

2011年2月13日日曜日

マッチ・メイカー

 私が無料購読しているニュースレターの一つに、アメリカの読み・書き事情を報じてくれているものがあります。その最新号は、消えゆく本屋さんが巻頭記事のテーマでした。

 書店が受難時代に入っているのは、日本もアメリカも変わりないようです(おそらく、アメリカの方が先をいっていると思います)。

 そこで生き残っている本屋さんの特徴を見ると、お客さんと本のマッチングができる店員(この記事の中では、あえて「キュレーター」を使っている)の存在をあげています。本屋さんは、アマゾンなどの通信販売や、本という媒体なしの電子書籍とすでに競合関係にあります。
 そんな中で、単に品揃えの多さでは太刀打ちできなくなりつつあるというわけです。
 個々のお客さん(本の読者)と、その人たちが求めている本とをうまくマッチングさせてあげることができる、単なる店員以上の「キュレーター」が必要だと。

 キュレーターは、「欧米の博物館(美術館含む)、図書館、公文書館のような資料蓄積型文化施設において、施設の収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職、管理職を指す」(ウィキペディア)ですが、ここでのイメージは「マッチ・メイカー」です。
 ということは、それぞれの本について詳しい情報を持っていることは当然なのですが、お客の読書に関連する情報ももっていることも必要不可欠になる気がします。

 大阪に絵本バーがあるそうです。そこの店長は絵本が大好きで、絵本を介した出会いの場を作りたくてバーを開いたそうです。お客さんには、その日の気分等に応じて、200~300冊ある絵本のストックの中から選んで、お客さんに飲み物と一緒に渡して読んでもらうというスペースです。そして、その絵本についてお客さん同士、お客さんと店長や店員の間で話が盛り上がります。

 そういうマッチ・メイカーやキュレーターがいるところには、人は集まる、というわけです。

 そんなことを考えていると、教室で教えている先生たちは、まさにマッチ・メイカーでありキュレーターだろうし、親も多分にその役割を担っている部分があるだろうし、そして『ギヴァー』のテーマでもあるような気がした次第です。

2011年2月9日水曜日

脳と心と宗教

 シャロン・ベグリー著の『「脳」を変える「心」 ~ ダライ・ラマと脳学者たちによる心と脳についての対話』を読みました。

 先に紹介した『自分を見つめ直すための108のヒント』のジョン・カバットジンも、この本ができるきっかけになっている「心と生命研究所」の対話の常連のようですが、脳学者と話せる宗教家は、仏教徒だけのようです。

 しかも、これまでは両者に接点があるとは思えなかったのですが、ここ10年ぐらい大きく接近して、まだよくわかっていない「心」が脳を左右しえることを認める脳学者も出てきているのです。

350 その人が何者であるかは本人の選択によって決まるのですから、本人の責任であるということです。

352 脳は五感によって外界から運び込まれる信号と外界に送り返す思考や運動に反応して「絶え間なく変化している」、「脳の回路の変化が行動の変化をもたらすように、行動も脳の回路に変化をもたらす」。

 そういえば、仏教のこと(たとえば、10年4月12日)、心のこと、脳のことはこれまでにもこのブログで取り上げてきました。