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2010年10月23日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 48

 トマさんが紹介知れくれたレオ・レオーニの『どうする ティリー』です。

 レオ・レオーニの作品は、これに限らず『ギヴァー』のジョナス的な役割を主人公が担っているものが少なくないと思いますが、ティリーは大きな壁(それは、誰がいつ作ったものかわからない!)の存在をまったく意識しない他のねずみたちと違い、強く意識し、そして壁の向こう側に何とかして行きたいと強く願う存在です。ティリーは、クリシュナムルティが言っていた「絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいる」存在でした★。実際に、仲間たちの協力も得て、のぼってみたり、くぎでさしたり、そして夜は眠らずに壁の向こう側の世界を夢見たりしました。

 そんなある日、壁の近くでミミズが地面に潜っていくのを見かけました。「これだ!」とティリーは思い、夢中で穴を掘り始め(一人でというよりは一匹で)、そして壁の向こう側にたどりついたのです。壁の向こう側にも、自分の同じ普通のねずみたちがいました。そして、壁のこちら側と向こう側のねずみたちの交流が始まったというお話。

 さて、ジョナスは自分がいたコミュニティと「よそ」との間の交流を作り出すことはできるのでしょうか?

★ これは、「探究のサイクル」であり、これができる人を「自立した探究者」ないし「自立した学習者」と言えると思います。残念ながら、これらも日本の教育の目標には掲げられていません。ですから、12年あるいは16年以上学校や大学で過ごしても、「自立した探究者/学習者」「自立した市民」は期待できない状態が続きます。ほとんど、ティリー以外のねずみたちを育てることが目的になっているかのようです。それこそ、『ギヴァー』で描かれている世界と言ってもいいかもしれません。

2010年10月20日水曜日

英知の教育 5

しばらく続いてきたクリシュナムルティの2冊の本の紹介は、今日で終わりです。
以下は、短い引用が続きますが、それぞれ大事なことを投げかけてくれていると思います。全部とまでは言わないまでも、『ギヴァー』と関連するものがほとんどでもあります。


139 精神が、言葉の真の意味において学びはじめるのにふさわしい土台を確立できるのは、比較することの愚かしさに気づいて、比較していない状態にあるときです。

143 共感をどう行動に移すかは、ひとえにその思いの強さにかかっているのです。競争は、極めて破壊的なもの。

148 全体を見ることの大切さ

170 私たちが必要としているのは、むしろ指導者からの自由だ。

171 どんな種類の理想も非常に雄大だからだ。理想は事実を見ることを妨げる。しかるに、正しい方向への運動となるエネルギーを解放するのは、事実への関心と事実の理解のみである。理想は単に様々な種類の逃避を生むだけだ。
  これは大きなものから小さなものに目を移すことではない。なぜならこの学校は、世界で起こっていることの縮図だからだ。

173 もし何か新しいものを発見したければ、古いものを手放さなければならない。

177 思いやりの関係

179 他人と分かち合いたいと望む精神の状態
  共にある経験をしつつあるということ。教師と生徒の間の信頼関係

198 観察し、考えること、鋭敏な精神、静謐な精神を持つこと、感じやすく、鋭敏で、強健な身体を持つことが必要だ。

→ これらのどこまでが今の学校でやれているかな~、と思ってしまいます。

  もちろん、学校だけに問題があるわけではなく、社会全体にここに書かれているような関係や状態が希薄というか、ないことが問題なわけで...まさに「学校は、世界で起こっていることの縮図」です。


217 反抗には2種類ある。一つは暴力的反抗。これは、単なる反発にすぎない。もう一つは、英知の反抗。それは自分自身の思考と感情を理解することから生ずる自己認識の道である。体験を素直に直視し、いやなことも避けて通らないようにすれば、われわれの英知は大いなる覚醒を維持できる。このような高度に目覚めた英知こそは直感であり、それが人生のおける唯一の導きの杖である。

→ 『子供たちとの対話』の13~14ページに出てきた「反逆」よりは、「反抗」の方がいいですが、まだそれでも...という気がします。

  英知を可能にする教育を提供する場としての学校がいかに少ないことかを考えさせられます。担っている人たちのほとんども、そして一度はそこを通過したことのある人たちも(要するに、すべての人たちが)、英知の必要性を認識していないという大きな問題が横たわっています。

  『ギヴァー』の中で、レシヴァーの求められるのは、「知性」「正直さ」「勇気」そして「叡智」でした。そして、「愛」も。
 (ちなみに、英知と叡智は同じことを指すようです。)

2010年10月19日火曜日

英知の教育 4

106 思うに正しい教育とは、決まりきった習慣 ~ いかに立派で気高いものであれ、いかに技術的に必要なものであれ ~ にはまらないように精神を養うこと、知識や経験によってではなく、それ自体としてとてつもなく生き生きした精神を養うことなのである。

107 私は知識に反対しているのではない。しかし学ぶことと知識を習得することとは違う。知識の蓄積しかないところでは、学びはやむ。少しも獲得がないときにのみ、学びがあり得る。もっぱら知識が重要になるとき、学びはやむのだ・・・世界中で行われている教育は単なる知識の習得に過ぎない。それゆえ精神は鈍化し、学ぶことをやめてしまう。そして、その獲得物が生き方を指示し、それゆえ経験を限定するようになる。これに反して、学びは限りない。

111 目先のことしか関心を示さず、長期展望を持とうとしない教育関係者。

121 私の関心は、精神を目覚めさせ、精神をとてつもなく生き生きとさせておくことにあるのです。精神は知識によって生き生きとさせておくことができると私たちは言います。それゆえ、私たちは知識を詰め込むのですが、それはかえって精神を鈍らせるのです。時間の中で働く精神は、依然として限られた精神です。しかし時間の中で働かない精神は、とてつもなく機敏で、とてつもなく生き生きしているので、その生気を、まだ捜し求め、探究している無垢な精神に与えることができるのです。・・・学びは時間の外になるのです。

→ 結果的にやってはいけないことを教育システムとしてやり続けている、ということ。取り返しがつかなくなることはさけなければ!!!


135 私たちは、教師と生徒との間の適切な意思疎通の確立について話し合い、共感の状態においてはじめて、生徒が学びはじめるのにふさわしい、従来とは異なった雰囲気や環境が作り出されることを知った...思うに、学びは、教師と生徒が共感の状態があるときにのみ存在しうるのだ。それは私と皆さんとの間にも言える。「コミューニオン」=意思疎通すること、触れ合うこと、ある気持ちを伝え、それを分かち合うこと。そしてその状態で、その一体感の中ではじめて、教師と生徒が共に学ぶことができる。

→ 教える/学ぶにおいては、関係性がとても重要。
  というよりも、何事にもこの関係性、意思疎通、コミュニケーションが成り立つかどうかが鍵のような気がします。これが成り立たないことによる弊害は計り知れないものがあると思います。
  それは、ジョナスのコミュニティにも言えることですし、私たちにも。

2010年10月18日月曜日

英知の教育 3

72 教育に終わりはない。教科書を読み、試験に合格すれば、それで教育が終わるというものではない。人生の全部、生まれてから死ぬまでが学びの過程なのだ。学びは終わりを持たず、それが学びの超時間的性質である。

73 イメージなしで(言葉なしで)見る。ものごとがそのあるがままにある。

75 好きですることを、見つけ出す

→ この捉え方の違いによって、失っているものの多さに頭が行ってしまいます。


77 正しい教育とは、教科書をカバーすることではなく、問題が起こるたびに君たちがそれを理解するのを助けることであって、それには優れた精神が必要だ。すぐれた精神とは、論理的に考える鋭い精神、何の信念も持たない精神のことだ。なぜなら信念は事実ではないからだ...君たちがほんとうに心から好きでできることを君たち自身が見つけるのを助けることだ。

→ 単なる「問題解決能力」とは違うようです?!


78 自分自身を知るにはどうしたらいいのか? → 瞑想??


80 愛とは何か知っているだろうか? 人々を愛するとはどういうことか知っているだろうか? 思いやること。
  面倒を見る気持ちが愛情の始まりである。ものごとの面倒を見れば見るほど、それだけ君たちは感受性豊かになる。そのように、愛情、優しさ、親切心、寛大さがなければならない。

81 思うに、子どもたちはそれを持っている。

82 君が誰かを愛していれば、責任も義務も犠牲もない。愛するからこそ君はものごとをする。

84 愛は、その中に優しさ、安らかさ、親切、思いやり、そして美がある感情である。愛には何の野心も嫉妬もない。 学ぶことと愛は同じか??

86 まず第一に、機械的な人生を送らないこと。機械的な人生とは、誰かに言われたとおりに何かをすること。
   第二に、他人に対し非常に優しく親切にし、傷つけないこと。人々を見つめ、助け、寛大で思いやり深くなければならない。

87 愛がなければならない。さもなければ君の人生は空しい。
  人々を愛するとはどういうことか、犬、空、青く霞む丘や川を愛するとはどういうことかを見出すようにしなさい。愛し、感じなさい。
  そのとき君は、瞑想とは何か、非常に静かな精神、オシャベリでない精神を持つとはどういうことかを知るに違いない。そして真に宗教的な精神を知ることができるのは、そのような精神だけである。そして宗教的精神、宗教的感情なしには、人生は香りのない花、さざなみ立つ水をけっして知らなかった川床、けっして木ややぶや花を育まなかった大地のようなものである。

→ 「愛」の大切さが繰り返し出てきます。
  教育の場で「愛」を扱うことはあるでしょうか? 戦争前・中に「祖国愛」は叩き込みましたが。
  愛も含めて、感情的な部分・精神的な部分は弱いままであり続けているのが学校教育です。
  そして、他の場でも補われていません。

2010年10月16日土曜日

英知の教育 2

『英知の教育』のつづきです。


40 技術的知識に閉じこもった人生は、非常に狭くて限られた人生である。それは、いずれは多大の悲しみや不幸を招く。

→ 英知が必要ということ。感受性が必要ということ。

41 教師の役割は、部分的な精神だけでなく精神の全体を教育することである。正しい教育は君たちの全存在、君たちの精神の全体を養う。それは、君の精神と心に深さ、美に対する理解を与える。

→ あまりにも知識偏重の現在行われている教育。英知、感受性、精神全体へアプローチする方法をもっていない教育。その結果が、細川さんが『魂のランドスケープ』で書いていたような嘆きにつながっている。

46 他に何かあるかどうかを見出すには、いますがりついているものを手放さねばならない。もし川を渡りたければ、こちら岸から離れ去らねばならない。一方の岸に座ったままではいけない。不幸を免れたいが、しかし川を渡ろうとはしないのが世の常である。君たちは自分が知っているものにすがりつく ~ それがいかにみじめであろうと。そして川の向こう岸に何があるか知らないので、それを手放すことを恐れるのだ。

→ ここでもunlearning(間違って身につけてしまった悪い習慣を手放すこと)の大切さが強調されている。そうしない限りは、一つの物事のやり方(往々にして悪習である場合が多い)からもう一つのやり方(より効果的・効率的・生産的である場合が多い)に移行できない。慣れたいつものやり方の方が安心だから。たとえ、それが効果的・効率的ではないことは薄々知っていても。

50 学びは、恐怖がなく、いかなる権威もないときにのみ起こりうる。

→ イコールなレベルでコミュニケーションが取れるとき!!! それだけでもないような気がする。手放す決心ができた(unlearnした)ときに、新しい学び(learn)も同時にやってくるような気がする。

65 どうしたら自分を変えられるのか?

 人はこれからそれへと変わることはできる。が、それは少しも変化ではない。彼らがしたことは、自分はこうあるべきだという観念の投影である。

 変化とは、まず実際に「ある」がままのものに気づき、それと共に生きることである。すると人は、<見る>ことそれ自体が変化をひき起こすことがわかるだろう。

→ この辺はまさに、ドロシー・ギルマンさんが体験し、そして『一人で生きる勇気』の中で書いてくれていること。ジョナスも体験したかな?

2010年10月15日金曜日

『ギヴァー』の感想

A.F.さんが、読んですぐの感想を送ってくれましたので、掲載します。


「ギヴァー」、いい本ですね。設定が面白い。

12歳の儀式のところまでは、現代社会への風刺としての舞台設定を強く感じながら読みました。物語の世界(コミュニティ)は極端な管理社会であるけれども(愛さえないとは恐れいった)、現代社会にも通じる面はありますね。というか管理されたがる人たちもいる?例えば現代でも、結婚サービス会社はデータを元に相手を紹介するし、職業だって適性テストとかある。誰かにこれがいいよと言ってもらえると楽ですもんね。物語の世界では、快適さという束縛と引き換えに選択する自由は失われている。現実の社会では、かつて選択の自由がない時代もあった訳で、それが当たり前とも言えない。自分で選択できるということはときに痛みを伴うけど、幸せなことですよね。

中盤のレシーヴァーの訓練のあたりは、生きる喜びを感じながら読みました。

前に何かの本に、現代の若者は強い刺激(暴力的な映像とかゲームとか、激しい音楽)がないと満足できないが、もっと日常の感覚を研ぎ澄ませた方がいいようなことが書いてありました。今食べている食べ物の味とか、歩くときに頬をなでる風とか…。今日は途中から晴れましたけど、地面には湿り気が残っていて、土のにおいを強く感じることができましたね。私も病気になって前より、日常のささいなことを意識するようにはなったんですけどね。でも、若い人の中には、陽光の暖かさとか家族と過ごすことの喜びとか気付かない人もいるでしょう。この本は児童文学ですが、やはり小学校高学年~中学生くらいに読んでもらいたい本だと思います。あ、こんな見方で世界を見ることもできるんだって。

小学校高学年に読ませたい割には、タイトルがちょっとわかりにくいかな~。もう少しSFっぽいタイトル(サブタイトル)だったらいいのに、と思います。(たとえば「はてしない物語」なんかはタイトルも装丁もワクワクさせてくれましたもんね)

脱出の計画を立ててからは急展開ですね。二人ぼっちの革命。勇気と強さの物語。最後にたどりついた場所はどこなんでしょう。ジョナスがゲイブリエルに与えた記憶はどう作用するのか。ちょっと消化不良の終わり方でした(だからこそ、ああでもないこうでもないと話合うことができて面白いんでしょうけどね)。3部構成になっているようなので、残りの2部が読みたい!いつ邦訳されるんでしょう?!(洋書は手に入りますが…)

この年で読んだからか、人生が変わったとまでは参りませんが(期待はずれだったらごめんなさい)、良書だと思うし、今の日本の子どもたちが読むことができるようになってよかったです!「伝達者の会」は具体的に誰にどんな働きかけをされたのでしょう?○○小にも置いてあるのかな?

2010年10月14日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 47

 クリシュナムルティさんは、結構同じようなことを異なる本で繰り返し言っています。そんな中で、私自身の関心から2冊目に読んだのは、『英知の教育』でした。1冊目とオーバーラップする部分もありますが、何度強調しても強調したりない部分が多いです。


17 科学の精神と宗教の精神の調和がとれた人間、それこそがほんとうの人間だ。

19 非常に明晰で、緻密に考え、機敏になることが科学の精神、自分の精神の真相をあばき、言葉を超越し、○○教徒を含めて自分の様々なレッテルをはがすことが宗教の精神。それらを可能にする学校/教育が求められている。

20 英知とは明晰に、客観的に、正気に、健全に考える力のことであり、そのために知識を用いる。英知は、そのなかにどんな個人的感情も、どんな個人的意見も、偏見も、性向も含まれていない。英知は、直接に理解する力である。

 次々と付け加えられていく過去としての知識。

 英知は、非常に鋭敏で、機敏で、よき気づく精神の性質である。

24 感受性が豊かなことも求められる


→ 「科学の精神」と、知識とは違う「英知」についてはわかりますが、「宗教の精神」についてはまったくといってピンときません。



32 自由は、秩序なしには存在しない。ふたつは一緒になっている。

33 もし君が真に自由でなければ、決して開花できないし、よい人間でありえないし、そして何の美しさもありえないのだ。

34 鳥や花と同じく、人間も自由をもたねばならないのだ。が、人間は自由を恐れている。鳥、川、木などすべてのものは自由を求めており、人間もまた中途半端にではなく、徹底的に自由を求めなければならない。自分が思っていることを表現し、自分が真に望むことをする自由、自主性は、人生においてもっとも大切なことのひとつである。ほんとうに怒り、嫉妬、冷酷、残忍さから自由であること、自分自身の内部で真に自由であることは、もっともむずかしく危険なことのひとつである。

 しかし、自分の望みどおりにすることが自由ではない。なぜなら、人間は自分だけでは生きられないからである。自由であるにはとてつもない英知、感受性、理解が必要である。自由は秩序なしにはありえない。


→ 自由の大切さ、しかし自由は秩序とのセットで機能。
       ジョナスは、自由と共に英知、感受性、理解をもっていたでしょうか?
       この質問は、自分にも跳ね返ってくる質問です。

2010年10月13日水曜日

子供たちとの対話 4

82~83 学生の務めとは  ~ 学ぶこと 自らの自覚によって学び続ける。

 この地球は私たちのものなのです。

94 何に時間を費やすことが求められているのか ~深刻な問題を考えること。自らの自覚によって学ぶこと。

95 本当の生とは、愛してすることを自分のすべてをかけてやることなのです。

→ 再び、「自覚」そして「愛」。



99 見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つような環境を子どもたちに提供するのが教師の役割であり...

100 君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。 

143 なぜ勉強は楽しくないのか?

 先生たちが教え方を知らないという、とても単純な理由のせいなのです。それだけです。先生が数学や歴史や何であろうと教えるものを愛しているなら、そのとき君もまた、その教科を愛するでしょう。なぜなら、何かへの愛は伝わるからです。

144 それで、教師を教育することがとても重要であるわけです。それはとても困難です....生きること自体が教育の過程、学びの過程です。試験には終わりがありますが、学びには終わりがありません。そして、心が興味を持ち、機敏であるならば、あらゆるものに学べるのです。

→ 学び手であり続ける教師の役割。日本の教師も教育制度も、残念ながらこのようには理解されていません!



193~4 死 ~ 心配からの恐怖

 心配を持ち越さない。すべて手放してしまいなさい。とてつもない生が訪れるでしょう。

 死は何かの終わりにすぎません。そして、まさにその死によって、新たになるのです。

199 人間の真の仕事とは? 自らの自閉的な活動に囚われるのではなく、愛することなのです。何が真実かの発見にこそ愛があるのです。人と人との関係におけるその愛が、違った文明、新しい世界を創造するでしょう。

→ 上の「死」の引用と、下の「愛」が創造する世界との関係がいまいちよくわかりませんが...でも、『ギヴァー』の中で描かれていることと関連する気はしました。

2010年10月12日火曜日

子供たちとの対話 3

43 見出すために聴いているのなら、心は自由で、何事にも傾倒していません。とても鋭く冴えて生きていて、探究して知りたがり、それゆえに発見することができるのです。それで、君はなぜ聴くのか、何を聴いているのかを考えることが、とても重要ではないですか。

44 聴くということの真髄

→ この辺、細川さんが『魂のランドスケープ』の中で言っていたことと通じますね。


49 真実の教育とは、何を考えるのかではなく、どのように考えるのかを学ぶことなのです。どのように考えるのかを知って、本当にそうする力があるなら、そのとき君は自由な人間で、教義や迷信や儀式から自由です。したがって、何が宗教かを見出すことができるのです。

55 創造性は、深い不満がある時にだけ生じてくる創意に根ざしているのです。

56 それで、この完全な不満を持たなくてはなりません。しかし、喜びを持ってです。理解できますか。不平を言わず、喜びや快活さや愛を持って、完全に不満でなくてはなりません。不満を持っているほとんどの人たちは、ひどく退屈な人たちです。彼らはいつも、あれやこれやが良くないと不平を言ったり、自分がもっと良い地位にいたなら、もっと環境が違っていたならと願っています。なぜなら、彼らの不満は極めて表面的であるからです。そして、まったく不満を持たない人たちはすでに死んでいるのです。

59 受け入れたり従ったりすることなく、質問し、究明し、精通するとき、そこには洞察があり、そこから創造性や喜びが生じてくるのです。


→ 創造の源としての「不満」。そして、服従や妥協の排除。
  質問、究明、精通、洞察は、「問いかけのサイクル」を持つことで可能になる。


62 時の枠組みから超える状態があるのかないのかを本当に見出したい人は、文明から自由でなくてはなりません。つまり、集団的意志から自由で、一人立たなくてはなりません。そして、これが教育の不可欠な役割です。一人で立つことを学び、そのため大勢の意思にも一人の意思にも囚われず、したがって何が真実なのかをあなた自身で発見する力があるということなのです。


→ まさに、「自立した学び手」ということ。

2010年10月11日月曜日

子供たちとの対話 2

20 美しいものを眺め、観察し、注意のすべてを向けるには、心は心配事から自由でなくてならないでしょう。問題や悩みや思索に囚われていてはなりません。本当に観察できるのは、心がとても静かな時だけです。自由の問題への手がかりは、たぶんここにあるでしょう。

21 自由とはほんとうは、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。

22~23 教育とは、ありのままの自分を理解すること

25 心は過去のすべての知識を保持しているからです。そこで、智慧は君自身を理解することによって生じてきます。そして、人々、物事、考えという世界との関係の中でだけ、君自身を理解できるのです。智慧は学問のように習得できるものではありません。それは大いなる反逆によって生じます。

29 子どもが自分で自覚する環境づくりが、教師と親の役割


→ 「自由」「自覚」「智慧」などについてまったく意識することもなく展開しているのが、私たちの教育であり、ジョナスも受けた教育です。



32 依存からの自由の大切さ。

33 自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えているとさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。


→ 「愛」も抜けていますね。



38 教育は生徒とともに教師を教育する過程でなくてはならないわけです。


→ 自分も常に学び続ける必要があると認識している教師は、果たしてどのくらいいるでしょうか? 同じことは、上司にも。そして親にも言えてしまうのでしょうが。


  知識だけはあっても、学びの存在しない社会の成立!



41 すべては生の一部です。それで、もし君が本を読むことを知らないで、歩くことを知らないで、木の葉の美しさを堪能できないなら、君は生きていないのです。君は生の片隅だけではなく、その全体を理解しなくてはなりません。それゆえに、本を読まなくてはならないし、空を見なくてはならないし、歌い、舞い、詩を書き、苦しみ、理解しなくてはならないわけです。というのは、そのすべてが生であるからです。


→ この辺は、holistic education(ホリスティック教育)と通じますね。

2010年10月10日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 46

  前の本のドロシー・ギルマンさんが『一人で生きる勇気』の中で紹介し、かつ引用もしていた(69ページ)哲学者の一人だったので読み始めました。まず借りてきたのは、『子供たちとの対話』(クリシュナムルティ著)です。

 この本も、『ギヴァー』との関連がこんなにあるとは思っていませんでした。

 基本的には教育に関する本です。


10~11 「生」を理解する手助けとなるのが教育

13~14 この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える ~ 成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんなほろんでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず変化している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすことの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。

→ 「反逆」という言葉が浮いている気がしますが、それ以外はジョナスのコミュニティにも、私たちの世界にも求められている教育の機能だと思います。

15 君自身が野心なく、欲がなく、身の安全にすがりついていないとき、そのときにだけこの挑戦に応答し、新しい世界を創造できるのです。 → 竜馬、ジョナス

17 教育は、君がほんとうに何を愛してするのかを見出し、生の始めから終わりまで、価値があると思える、君にとって意義のあることに取り組んでいるように、助けるべきではないでしょうか。そうでなければ、一生みじめになるでしょう...君が若いうちに本当に何を愛してするのかを見出すことが、とても重要であるわけです。そして、これが新しい社会を生み出す唯一の道なのです。

→ こんな教育の捉え方はなかなか存在しませんし、実行されていません。単に「理想」で片付けてしまっていいのでしょうか?

19 何でも真に革命的な物事は、何が真実なのかを見て、その真実に従って生きようとするわずかな人々が創造します。しかし、何が真実なのかを発見するには伝統からの自由が必要です。それがすべての恐怖からの自由ということなのです。

→ まさにジョナスが実行したことですね。そして、歴史上で名を残した人たちも。

2010年10月9日土曜日

一人で生きる勇気 7

続いてきた『一人で生きる勇気』、今日は最後です。



181 畑仕事 ~ 一度に、発明家、科学者、ランドスケープデザイナー、溝掘り、調査係、問題解決者、芸術家、悪魔退治の祈祷師。 しかも、そのうえ、成果をディナーで食するなんて。


→ 私も週に一日だけですが、畑仕事を手伝っていますが、上のリストの「体力の維持」という要素も含まれます。


195 一人行く者は今日出発できる。だが他の人と旅する者は相手の用意が整うまで待たなければならない。 ~ ソーロー


→ 確かに。発見も、一人旅の方がありますね。旅の楽しさや得るものや出会いは、一人旅の方がはるかに多いものがあると思います。すべてを自分で判断もしますし。


197 本当の四季はカレンダーで区別することはできない。

→ この本を読んでいたのは、9月の中旬。「残暑」を含めて、暦にこだわっている人たちは、ぜひこの引用をしっかりと読んでいただきたいです。


198 人生において動かぬものはない。潮は絶えず動いている。地球はその軌道を動いている。わたしたちの身体は毎秒2千万の赤血球を作り出している。そして、今日はすでに今日なので昨日のまちがいは許すことができる。

 わたしが学んだもの、それは、なにもないところから一日を作り出すこと、形とバランスを作り出すことである。

→ この赤血球の数字を見たときはビックリでした。そして、単に「なにもないところから一日を作り出す」だけでなく、「形とバランスを作り出すこと」の大事さも。


199 また、こういうことも学んだ。わたしたち一人ひとりの心の内には、山や平野や深い淵、嵐や静かな海のある国が存在するということ。その国は、資本の投入がないために弱っているのだ。

→ この終わり方が、なんとも言えません。

2010年10月8日金曜日

一人で生きる勇気 6

144 いまでは人に会えば必ずなんらかの影響を受けることを承知している。そしてもはやわたしはそれを偶然とは呼ばない。意識しているかどうかにかかわらず、わたしたちはみんな伝達の基地なのだ。そこでわたしたちは目に見えないシグナルや周波数が高すぎて、普通の耳ではとらえられないシグナルを送信したり受信したりしている。意識する、しないにかかわらず、それが私たちの人生の舵であり帆となる。

→ この発想というか考えも、とても共感します。まさに、日本に古くからあった「一期一会」の発送そのものとも言えるわけで...
  しかし、どうも都会の生活というか、時間に追いまくられる生活を送っていると、こういう感覚は持ちにくいわけです。


160 「不可欠なもの」とは、本質と関係する、あるいは本質を構成するもの、と定義される。あるいは、「個々の、本当のあるいは究極の、ものごとの性質」とも。

161 使えるものは何でも使う。古いものを使いこなす。無駄をしない生活。

162 禅の修行僧の生活 ~ 最小限のもので生きるという意味で。

164 生活によけいなものがないと、頭の中までよけいなものがなくなる。積もり積もったものを剥がし、捨てて、ものごとの核に近づいていたとき、わたしは不必要な習慣、感情や反応をも捨て始めた。なによりも、わたしは感謝することを教わったと思う。小さなものごとの「性質、価値、資質、意義」を把握すること。感謝は、わたしたちの暮らしの中であまり評価されてこなかった感情である。

→ 私たちがいかに必要のないものをたくさん持つことで生きているか、必要のない習慣に縛られているかを考えさせられました。


  メモを取り忘れましたが、本の最後の方に、最悪の時に自分がもっていくものをバッグの中につめるとしたら、というような設定で、自分自身にとって必要なものというか、欠かせないものをリストアップしているところがありました。他のものがなんだったかは忘れましたが、哲学関係の本を10冊あげていたのがとても印象的でした。それらについては、一応調べてみたのですが、古い本が多いこともあって、半分ぐらいは日本語で入手できないこともわかりました。



167 自分の全人生の基礎は怒りと反抗だったと理解するようになった。それはときにはものすごい憤りや憎しみさえも起こさせたにちがいなかった....振り返ってみると、わたしに反抗心があったから助かったのだ。

  怒りは服従や諦めよりも健康的なのだ。


→ 一見、「愛」とは正反対のような生き方に思えるが、ところがどっこい、結構「怒り」や「反抗」は「愛」をベースにしている気さえしてきました。


168 突然、わたしは反攻するものがなくなった。自分以外には。

  一人で生きることは学習のプロセスである。なかでも、一度学んだことを捨てるプロセスである。ある意味では、他の人と一緒に生きる方が簡単であると言える。すべてを自分一人で決める必要がないからだ。


→ 人に頼らない生き方をするためには、相当学ばないといけないということ。そして、面白いのは、依存していた時/服従していた時/諦めていた時に当たり前だと思っていたことを捨てる(unlearn)プロセスだということ。


  そして、当然のことながら一人で生きる=人に頼らない=すべての判断も他人に委ねない生き方ということ。

2010年10月7日木曜日

一人で生きる勇気 5

  中国人は三千年も前に変化の本、『易経』(“Book of Change”)を書いた。これはおそらく人間が書いた初の外なる宇宙と内なる宇宙の記録だろう。『易経』は占いの本として読まれてきたが、その英知は儒教と道教を育てた。そのページをめくるだけで人生の動きをのぞき見ることができる。妨害のあとには救済が、煽動のあとには平和が、出発のあとには帰郷がある。ユングは人生を「流動、未来に注ぎ流れるもの」と呼んだ。サン=テグジュペリは「人生は動きによって持続する。土台によってではなく」と言っている。

→ いわゆる陰陽の世界観。しかし、それがユングとサン=テグジュペリを引用している人生につながるとは思っていませんでした!!


129 <優しさ>と<友情>こそが、契りには必要。それは相手が男であれ、女であれ。

 友情とは、共通の理解、共通のユーモア、ある種の率直さと正直さを意味する。

→ 日本での友情の定義とは若干違うでしょうか? 私はとても共感を感じます。


133 わたしは空費が嫌いである。悪、あるいは罪、あるいは邪悪を定義せよと言われたら、わたしはむだに費やすことと答える。才能、可能性、自由の空費、食べ物であれ地球の資源であれ、空費ほどもったいないものはない。刑務所、貧困、孤立、劣悪な教育、汚染、それに日の光よりも暗闇を好むとき人々に起きることもここに含まれる。

→ これらが彼女の行動の原動力!?


140 わたしは目に見えないものの蒐集家だ。目に見えないものはわたしを魅了する....私たちが知っていること、見えるものはごくわずかだ....たとえば、愛がそうだ。考え、神、未来、時間、信頼、希望がそうだ。わたしたちに明るさをあたえる電気だって目に見えないものだ。

 わたしたち自身、本来は目に見えないものなのだ ~ ほかの人たちには大事な部分は見えないという意味において。わたしたちは氷山のような。ほんのわずかな一角だけが見え、残りは隠されている。だが隠されている部分もまた活発に生きているのだ。

→ とても哲学的?


142 自分を知ることができるのは、自分だけ。

→ 上とも関係しますが、自分自身で自分を知ることのできない人の方が多いのかも?

2010年10月6日水曜日

一人で生きる勇気 4

117 わたしたちは変化の引き算や掛け算をそのまま受容するよりほかないのだ。毎日、毎時間、わたしたちは時計のチクタクという音とともに人生の一部を失っていく。両親を失い、妻、夫、友人、子ども、夢を失う。だが、一つだけ言い足さなければならないことがある。なにかが終われば必ずなにかが始まるということだ。これもまた、人生の法則である。

→ なんと前向きな捉え方!!

119 肝心なことは、変化しなければ...同じところをぐるぐる回り、外に足を踏み出すこともできず、動くことも成長することもできなくなる...わたしたちのまわりには、思っている以上に死んだまま生きている人たちがいる。

→ ジョナスのコミュニティだけでなく、この私たちの社会にもそういう人たちが結構多いかも???

   また、わたしたちは変化を速めることができない。変化はそれ自体の暦をもっている。人生における最良の、ユニークな曲がり角は、決して強いられたものではない。その根はわたしたちの中に長い時間をかけて育つのだ。わたしたちが気づかないうちに、ユングが呼ぶところの<意味のある偶然>の時を待って。それは遭遇の機会、耳に響く一節、出会い、招待、洞察、啓示などのかたちをとる。人生がわたしたちに求めることは、ただ一つ、ヒントに対して目を開け胸を開くこと。真に関心があることを、無理に、あるいはでたらめに為す人はいない。振り返ってみれば、イーストのようになにかがわたしたちの中で膨らんだのがわかるはず。よくよく注意してみると、成長する方向に私たちは従っているのだ。

→ ジョナスがアクションを起こしたのも、長いコミュニティの蓄積の中でタイミングを見計らったもの?


120 わたしはかつて自分の人生には変化がないと思っていた。すべてがすでに決まっていて、わたしにはまったく手を出すこともできない、と思っていた。そして日記にこう書いた。

  「なにも変わらないのか?人生は永久にこのままなのか?」そしてわたしは欲求不満と絶望から“永久に”という単語をページのいちばん下の罫まで繰り返し書いた。わたしはもう人生を終わらせようと思って、屋根裏の古いとランクからピストルを引っ張り出すところまでいった。「あと数ヶ月待ってみよう。もしあと一時間生きられたら、一日生きられるかもしれない。もし一日生きられたらカレンダーのその日に×印をつけるのだ。そんなふうにして一週間生きられるかもしれない」

  十日後、わたしは×印をつけるのを忘れてしまっていた。そして二ヵ月後にはすっかり元気になっていた。そして希望に満ちていた。人生はいつも動いている。そして出来事や状況はもちろんのこと、わたしまでを変えてしまっていた。死のうかと思うほどのところまでわたしを運んだ流れはまた、その時点をも越えるところまでわたしを運んでいった。人生は決して留まらない。もしそうと知っていたら、わたしはもっと信念をもって生きただろうと思う。

  しかし、あの日わたしが向き合ったのは死ではなかった。それは人生だった。そして変化と成長だった。

 → この辺、なんとコメントしていいか戸惑いますが、ジョナスにも似たようなことが言える気がしないではありません。

2010年10月5日火曜日

一人で生きる勇気 3

続いて、72ページまでは、孤独、不幸、精神の働きについて。

68 孤独には、ほとんど官能的といってもいいようなものがある。引き込まれるような、ある種の充実感と喜びの感覚である。また、厳格で抑制の利いた、幸福ではないが不幸ではないといったような種類のものもある。むずかしい問題には一人で立ち向かわなければならないとか、特別な経験はけっして人と分かち合うことができないとかいうことがわかったときに感じる孤独感である。

 これらとは別に、慰めようもない、厳しい、みじめな孤独感もある。これはじつは悲しみと言ってもいいとわたしは思う。これが孤独と呼ばれるものである。

 一人でいることは必ずしも孤独を意味しない。

 孤独とは、失われたもの(それは人だったり、歳月だったり、かつて抱いていた希望だったり、達成されなかった夢だったり)を惜しむこと、あるいはこの地球上で自分はごくごく小さな蝿のフンのシミだという気がして、人生の意味に疑問をもったりすることである。それは充実ではなく欠乏である。残酷で、寒々とした不幸である。


69 クリシュナムルティは不幸を、<どうあるべきか>と<どうあるか>との間の距離と定義している。

 精神は常に活発に活動している!! 

 精神は見、推し量り、疑問を抱き、あこがれ、失ったものを探し、悲しむ。→これは、読んだり、聴いたりしている時にしていること?! 精神は人生がどうあるべきかのシナリオを作りあげる。→これは、書くとき、話すときにしていること?! 「精神はけっしてとどまらない」とクリシュナムルティは指摘する。「それはつねに動いている」


70 わたしたちは<どうあるべきか>にこだわり続け、わたしたちを拒絶するものとして人生を見る。

   いっぽう、<どうあるか>は精神を鎮め、リラックスさせる....<げんじつがどうあるか>に注意を向けたとき、もはやわたしたちは孤独ではない。過去も、未来も、不幸も恐怖もない。ただ<どうあるか>と、完璧な受容があるのみである。精神が鎮まり、エゴと痛みばかりの思考から離れたとき、初めてわたしたちは、苦しみのあまりどれほど本来の自分を失っていたか、どれほど四角い檻の中に自分を閉じ込めていたかに気づく。電気の利用を思いつき、原始を発見し、月旅行を実現した人間の精神は、人間の敵にもなりうる。このトリックを理解しないと、精神は容易にわたしたちを十字架に磔にするものにもなりうるのだ。

71 自分を今という時点に据えることを、P.D.ウスペンスキーは「自分自身を思い出すこと」と呼んでいる。

72 「子ども時代の記憶とは、いくつかの瞬間における自分を思い出すことにすぎない」


→ 116ページまで、都会暮らしと田舎暮らしの比較と、プライバシー考


83~85 「人とつきあうことや観察されることのない状態、あるいはその特質」

 田舎暮らしは、その対極にある生活。常に観察されている状態。プライバシーのない状態。

 一方で、都会ではプライバシーがある状態ができている。隣で人が死んでいようと関係ない社会が。

107 出合いによって、変わる。「私の存在のしかたは変わり、もっとゆるやかなものになった」

116 出会い/語らい(互いの夢を交換し合ったこと)で、温かい気持ちで分かれることができた。 

← でも、それは未来に生きていること? それとも今?


116 当節、人生はすごいスピードで動く。その速度はますます速くなる。そして逆説的なことに、わたしたちは不変なものを求めて、その中でどんどん速く動くのだ。変化がもたらすものに嫉妬し、不変性に腹を立てる....わたしたちは、変化で人生からなにかが、あるいはだれかが失われるとひどく怒る。それを喪失と呼ぶ。しかし、へんかによってなにかが人生に加えられると、それを当然のことと見なし、これもまた変化であることを忘れてしまう....生きていくうえでできる関係はすべて成長するか、終わるものだ。たまにちょっとの間宙づりの状態にいることもあるが、それもまもなくゆっくりと成長か衰退に向かって容赦なく動いていく。思い出さえも思い出となるやいなや生きてはいない。板の上にピンで留められた蝶のようなものだ。思い出とともに生きるのは、死んだものとともに生きるのと同じだ。経験の衝撃はわたしたちを一度は変えるが、二度変えることはない。


 → 思い出と記憶の違いは???

2010年10月4日月曜日

一人で生きる勇気 2

3日前の 『一人で生きる勇気』の続きです。

→ 以下、51ページまでは、時間についての考察が続きます。

41 なにか理由があって、あるいは信念や目的のため、あるいは単になにか新しいことを試してみるために、自分をそんな群れから切り離し、自立するのはむずかしいものだ。そして、男性と比べて、女性にはそれがもっと面倒だ。

42 家の中の問題は仕事に優先して解決が求められる。そしてわたしたちはいつも罪悪感に悩まされるのだ。あんなことをしたと言っては悔やみ、あれをしなかったと言っては悔やむ。

  自分がしていることへの不安、周囲と隔絶しているということでパニックに陥る。

44 田舎に引っ越して、わたしはものごとを考える時間ができた。それも、ことの真髄まで考えることができた。そしてある日、突然わたしは自分の不安の根源がわかったのである。気分の落ち込み、不安感、憂鬱、心配、これらすべてを集めて揺さぶったところで、結局同じところに落ちるのだ。私を支配していたのは、根本において、自由に対する恐怖感だった。

45 わたしたちは空の時間ができないようにするために、なんと忙しくしていることか!

46 空の定義は、「保有しているものや囲んでいるもののない状態」

   自由の定義は、「縛られないこと、閉じこめられないこと、強制的に引き止められないこと」

 2つの言葉のちがいは、ほんのわずかである。人が毎日数分進む時計に慣れるように、心を少し調整すればいいのだ。心は新しい言語を学ぶ。

 この自由感、外に向かって時が開くという感じ、これが田舎に住んで経験したもっとも大きな発見だった。

47 時間についての考察

   人間が便宜的に決めたシステム。

48 何事かがわたしたちの日常の殻を破るとき、時間は質的な意味合いをもつ。

   マズローは、これを<ピークの瞬間>と呼ぶ。人生が急に新しい意味合いをもつときだ。 解放の瞬間。見えなかったものが見える瞬間。

49 しかしながら、ほんとうの神秘は、わたしたちが時間を量的に経験しようと質的に経験しようと、時間はまったく変わらない、変わるのはわたしたちだということだ。

  いろいろなできごとで揺さぶられ、認識に到らされる。理解に到らされるのだ。決まりきった手順、習慣、自己満足、そして偏った思考に揺さぶりをかけられるのだ。ある意味では、時間に揺さぶりをかけられて、いま生きていること、大きく目を開き、自覚することを認識させられるのかもしれない。

 モーリス・ニコール『リビング・タイム』 ~ 私たちは未来にために生きるように習慣付けられている。われわれはまず、いまを感じるところから始めなければならない。

50 わたしたちの世界は、いまをどう生きるか、教えない。わたしたちの社会では、すべてがそれを巧みに避けている。子どもが学校に上がると、親も教師もさっそく言い始める。つぎはなに? 用意しなさい! 大学に入れば、プレッシャーはさらに強まる。つぎはなに?

 わたしたちは早くから先を考えるように仕向けられる。そしてそれをあらゆる場面に適用するのだ。いまやそう考えるのが習慣になっている。わたしたちはどこかに到着するために前方を見る。目的地がどこかはもはやほとんど問題ではない。わたしたちはすばらしい日々を夢見る。


51 「時間の引き延ばしをすべてやめるのだ。われわれが生きるのは瞬間の深みである。表面的な広がりではない」 エマーソン

  わたしたちが真に躍動するのは、瞬間の中に入り込み、意識を全開にしてその瞬間を生きるときである。

  「死ぬということは、人生の最期に目を閉じることではない。あまりにも少ない次元の中で生きることを選ぶことである」 (J.B.プリーストリー)


→ 最後は、スゴイ引用がつづきました!!

2010年10月3日日曜日

Another student's reaction to The Giver

Hi everyone,

Here is one more reaction regarding the The Giver written by one of my students as part of their assignment for summer reading.

Both these are posted in the original form as submitted by the students without any editing by me.

Enjoy!

Mark
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The Giver

By H. T.

The summer reading book I have read was The Giver written by Lois Lowry. The reason why I decided to read this was that I was interested in “controlled society” for safety after I read comments of this book on the Amazon’s site. Though this book was a juvenile book, the content was thought-provoking.

The world in this story seems to be a utopia because there is no something nuisance and harmful such as weather or warfare. Instead, many things there are controlled. For example, the families in The Community are not “real” families. Their spouses are decided by “Committee of Elders.” It is also decided how many children they may have and these children are all born from “Birthmothers”, which is one of the jobs in The Community. Even jobs are controlled. Each December, all children will grow a year old at “The Ceremony”, which means they don’t have their birthdays. Especially at The Ceremony of Twelve those children who are going to be twelve years old are given “Assignments”, which shows what your jobs are. Jonas got the Assignment of “The Receiver of Memory.” There are only two Receivers in the community, Jonas and The Giver, who is an ex-Receiver. Jonas had to receive the memories of the past and feelings, for example warfare, colors, pain or love in order to advise everyone when something people hadn’t expected happened. At first time Jonas thought this job was excellent but gradually he thought these memories should be shared by everyone. Then he did the plan to spread the memories.


I think the main theme of this story is "what happiness is." After I read this story, I didn't tell which society was good for human, the society of this story or real one. It is true that the controlled society like this story's is not interesting, at least for us, because everything is the same and there is no change. Precisely because in Jonas's world they are doing the same thing again and again every day, I think he said that he thought there was only now. The past and the future can make us feel the purpose of living, for example trying to earn more money to buy a house and so on. Human just living in their whole life seems to be a "robot!" However, "un-sameness" and, the past and the future can make us feel not only happy but also threatened and anxious. These sometimes damage people, for example records or memories of war can lead another war as the revenge. And another reason why I cannot say which society I like better is that I cannot imagine the life in the society like The Community without memory of pain or of happiness.


Today our society are being controlled more and more, so I thought we couldn’t say completely our society will NOT be the society like Jonas’s.

2010年10月2日土曜日

One Japanese college student's reaction to The Giver

Hi fellow Giver fans,

At my university, first year students have a choice of English novels to read over the summer, and they need to write a reaction to the book when they return. Several of my students chose The Giver, and here is one of those reactions. The student gave me permission to post her reaction.

Mark Christianson, ICU
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My Reaction to The Giver
By S. K.

I read The Giver by Lois Lowry this summer. I like reading SF story.
Though SF story must not be realistic in general, it makes us think our real world more deeply. I have read a lot of SF stories, such as Hoshi Shinichi who is one of the most famous SF story writer in Japan. Therefore, I chose The Giver after I read the outline of this book. I guessed how the world looks like in this book.

The main character, Jonas lives in ideal place. People who live there are almost equal. There are no war, fear, and pain. However, there are no sex, real family, color. They are controlled in order to cut differences among people, to give people happy life equality. There are a lot of rules which people have to keep. For example, they cannot boast about one’s special ability. When children become twelve, they assigned each role according to individual interest and aptitude by the council of elders. After selection, they start to training for their roles to be full-fledged. People have to marry with the person who is selected as each appropriate partner. And the people who are old or disabled are released. Jonas is selected as The Giver, who is the only person to know and feel the memories of true pain and pleasure of life. He was told that by The Receiver. As he knows real pleasure, love, and pain, he questions about his community. At least, he decides to open this feeling to everyone. He wants them to know real love, family, pleasure, pain, difficulty as human beings.

After reading this book, I focused two points. The first is “differences”. Before Jonas tells everyone real feelings, they are almost equal. It seems an ideal thing, but can they live as individual? “Because all members differ, they are wonderful.”This passage is quoted from “Me and Small Bids and Bell” by Misuzu Kaneko, who is my favorite poet. To have identity and to choice own way of life are very important things as a person. The second point is “relationship”. I was very impressed about the relationship between The Giver (Jonas) and The Receiver. They suffer their own positions, but they help each others and finally accomplish important thing to make their world wonderful place.

I want everyone to read this book. This book makes us think what is to live with others.

2010年10月1日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 45

 すでに紹介したい本が何冊かラインナップしています。
 今回紹介するのは、ドロシー・ギルマン著の『一人で生きる勇気』です。


 ギルマンさんは、若い時に離婚して、二人の息子を育てました。ある意味ではガムシャラに。そして、二番目の息子が大学へ行くのをきっかけに、慣れ親しんだ住まい(ニューヨークだったか、ニュージャージーだったか)を離れてカナダのノヴァスコーシアに移住することにしました。まさに一念発起です。その顛末を書いたのがこのエッセイ集です。

 この本も最初は、こんなに『ギヴァー』との関連があるとは思っていませんでした。でも、「一人で生きる勇気」は、まさに「個が自立する」「社会が自立する」テーマでもあるんだと思わされます。まさに、ジョナスの勇気と同じです!!

 今回も、取ったメモは相当な量なので、『ギヴァー』との接点があるところだけを切り取って数回に分けて紹介していきます。 (数字は、ページ数です。)


38 思うに、女性は昔から従順さを仕込まれてきたがゆえに、いっそう疑り深くなっているのではないか。生来直感的で、なんにせよ男性よりも控えめでいるように育てられているから、言葉で言われなくても、わたしたちはすべきことやすべきでないこと、あるべき姿を教えるシグナルをめざとくみつける。幼いときから人を喜ばせる術を身につける。魅力的であること、期待どおりに適切な表現をすることを学ぶ。そして不正を受け入れる。


→ 日本にも、ジョナスのコミュニティにも言えてしまう!?


40 正直な自分でいるために、なによりも大切なのはまず自尊心だ。それと、自主性である。自主性は自尊心から育つもの。自主性とは、自分を治めること。他から干渉を受けず、自分の心の正直に。自尊心がないと、かんたんに、魂を略奪された者になってしまう。一緒に暮らしている人を通して生きるのだ。自分自身を考えずに、自分の考えに基づいて行動をせずに、自分で冷酷な現実に立ち向かう判断を下さずに。生きることはすなわち隠すこと、取り繕うこと、反応すること、行動するのではなく、ただ感応することになってしまう。自分をまっすぐに見ずに、近所の人や夫や友だちがどう思うか、どう感じるかを映す鏡を通して自分を見るのだ。だから、可愛らしいといわれればすぐさま可愛らしくふるまい、野性的と言われれば大胆な目つきの野生的なポーズを身につける....それは彫刻であって、もはやわたしたち自身ではない....認められるため、将来の安定のため、安全のため、そして「夫婦はもちつもたれつ。たとえ心の中で相手をどんな馬鹿にしていても関係ない。夫婦とはそんなもの」式の考えに逆らわずに。 


→ まさに、日本!? そして、ジョナスのコミュニティ?