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2012年9月29日土曜日

続 Understand


「下 (under) に立つ (stand)」で思い出したのは、

 いま紹介しているライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップをする時、授業中に一番長い時間を確保するのは、子どもたちがひたすら書いたり、読んだりことです。その時、教師はカンファランスといって個別に相談に乗ることをします。

 ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップは、別名を「カンファランス・アプローチ」というぐらいですから、生徒たちは書いたり、読んだりをし、教師はカンファランスをすることが中心と言えます。(そうなんです、日本では伝統的に行われているような書くことや読むことを子どもたち相手に一斉に教えることが中心ではないのです。その時間もありますが、全体の中の5分の1ぐらいしか割きません。教えることと学ぶことは「イコール」ではないからです。)

 そのカンファランスで何をするかというと、子どものいい点やまずい点を把握して、いい点は褒めて伸ばし、まずい点は改善できるようにサポートします。要するに、書き終わったり、読み終わった後に、それをやっても意味がないので、それを子どもたちがしている最中に、やってしまおうというわけです。ある意味で、サッカーや野球などで、練習中にそうしたことをして、チームを価値につなげることに似ています。練習(や試合)が終わった後で、何を言ったり、したりしても結果には何ら影響はありませんから。

 そのカンファランスをするときのポイントはいくつかあるのですが、たとえば改善点は、基本的には一つしか扱いません。たとえ、それ以上改善点を見つけても、一度にたくさん指摘してしまっては、子どもが修正できないからです。

 前段が長くなってしまいましたが、「下 (under) に立つ (stand)」で思い出したのは、カンファランスをする時に、教師は目線を子どもよりも下にさげた方がいい、というのもあることです。

 それは、両者の関係を表しています。
 主役は、子どもなんだ、という。
   そして、教師はあくまでもサポーターなんだ、という。
 子どもよりも目線を下にすることで、子どもの安心度はまったく違ったものになります。
 目線の高さは、きわめて重要であることを再認識させられます。

 ギヴァーとレシーヴァーのジョナスの関係は、どうだったでしょうか?

 ジョナスと家族の関係は?

2012年9月27日木曜日

Understand


前に、色について触れたときに、プラス・アルファで理解する(understandとsee)についても触れました

色 → see → understand という関係で。


そしたら、今日、understand(理解する)について、こんなのを見つけてしまいました。

「下 (under) に立つ (stand)」と書いて「理解する」
上から世界を見下ろしている限り、具体的にものを理解することはできない

盲点でした。考えたことなかったです!

出典: 『日常を変える! クリエイティヴ・アクション』プラクティカ・ネットワーク編(フィルムアート社)、p.41

2012年9月23日日曜日

郡山のみどり書房桑野店の東野さん


『ギヴァー』をつねにサポートしてくれている郡山のみどり書房桑野店・東野徳明さんが、今回も自分の書店以外でのサポートをしてくれました。

書店の売り場の方々が、自身のお薦めの1冊を紹介するという本、『THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』(ミシマ社、2012.8)の中で紹介してくれているのです。

「読み始めたとき もうひとつの人生がはじまり それは、読み終えても終わらない」 と、東野さんの自筆で書いてあります。

そして、本文には、
「世界を眺めるとき、私たちは五感の受け取るすべてを自覚しない。世界のように豊穣なこの本も、書かれている以上を読ませ、受けたと思うより深く衝撃を残す」とも。

2012年9月21日金曜日

『ギヴァー』と関連のある詩


 しばらく前に、「何も心配する必要のない社会」を描きたくて『ギヴァー』の前半というか、3分の1ぐらいは書いた、というようなことを著者のロイス・ローリーさんが語っていたことを書きました。

 そこで描かれている社会と、谷川俊太郎さんの有名な詩「生きる」を比較しておもしろいことがわかりました。

 谷川さんの詩にあるものが、何一つジョナスのコミュニティには存在しないのです。

 谷川さんの詩には書いてありませんが、ジョナスのコミュニティにあったのは「川は流れる」ということ、ぐらいです。

 ということは、「何も心配する必要のない社会」=生きていない社会。

 なんと恐ろしいこと!!!



2012年9月18日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 85


 しばらくぶりの「関連のある本」です。

 研修会の参加者から『海にはワニがいる』ファビオ・ジェーダ著を紹介してもらい、そのつながりで読んだのが『脱出記』スラヴォミール・ラウイッツ著です。

 『海にはワニがいる』の中で、主人公のエナヤットは、10歳の頃にお母さんが本国のアフガニスタンからパスキスタンに逃してくれ(そんなことをされたこと自体、お母さんがいつの間にか姉と弟の待つ本国に帰ってしまってから気づいたのですが)、その後パキスタンとイランで数年働いた末に、イタリアに行くまでの全長5000キロ以上の旅を語っています。著者は、それを聞き書きしたイタリア人。

 一方、『脱出記』は著者が、第二次世界大戦が始まる前の1939年、無実の罪で25年間の強制労働の刑が下され/シベリアの強制収容所に流され、そこから7人の仲間と脱出して、インドまでを歩ききる実話です。距離にして、極寒のシベリア、ゴビ砂漠、そしてヒマラヤ山脈という難所越えを含めた約6400キロ。(こちらは、有名なジャーナリストのロナルド・ダイニングが聞き書きしたもの。初版は、1956年。)
  過酷な状況の中で、笑いとユーモアの大切さが心に残ります。もちろん、自分(たち)を信じることも。★
 2010年に「ウェイバック」のタイトルで映画化されています。

 両方とも、自由を求めた過酷な旅です。


★ ここまで書くと、あの有名なヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』も思い出さざるを得ません。

2012年9月16日日曜日

『ギヴァー』の4冊目


 ローリーさんは、『ギヴァー』は明確に、12~14歳の読者に対して書いたそうです。それ以上の年齢の人たちに読んでもらうことは、まったくと言っていいほど想定しなかったといいます。

 しかし、たくさんの手紙やメールがあらゆる年齢層の読者から届き続けたので、4冊目の『Son(息子)』は、そういう読者にも応える形で書いたそうです。

 一層、読んでみたくなりましたか?

 ちなみに、上記のことは4冊全部をプロモートするサイトで知りました。

2012年9月12日水曜日

社会(世界)を変える


 『ギヴァー』のテーマ(の一つ)は、確実にこれ ~ 社会(世界)を変える、です。
 著者本人が言っていますから間違いありません。
 これは、私ですら読めました!!!

 これがテーマであるからか、他にも理由があるからなのか、ご本人もよくわかっていないようですが、学校や図書館等での購入・推薦リストを作る会議では、必ずと言っていいほど問題になるリストに含まれている一冊が『ギヴァー』のようです。

 ローリーさんにとっては、おかしいことがあったら、それを変えようとすることは至極当たり前のようなのですが、読む人の中にはそうは捉えない人が少なくないようです。
 何も変えてほしくないから??

2012年9月10日月曜日

お金のない社会


 前回紹介した「『ギヴァー』はSF(サイエンス・フィクション)ではない」と当人が語っていたインタビューの中で、もう1点気づかされたことは、「何も心配する必要のない社会」を描き出す中に、ローリーさんは「お金も必要ない」と言っていました。

 しかし、ジョナスが住むコミュニティーでお金が使われていない、とは一言も書いていなかったと思います。

 これが、行間を読む、ということなのでしょうか?

 中・高時代に先生から「行間を読みなさい」と言われても、「行間は白いです」としか答えられなかった私は、『ギヴァー』で描かれている社会では「お金が必要ない」は読み取れませんでした。

 でも、言われてみると、ガッテンです。

 基本的には、「何も心配する必要のない社会」なのですから。

 他に、どんな「行間が読」めるでしょうか?

2012年9月9日日曜日

『ギヴァー』はSF?

 『ギヴァー』の新訳が出たとき、「近未来SF(サイエンス・フィクション)の名作」と本の帯に書かれていたのを見てビックリしたのを、いまだに鮮明に覚えています。

 いったい誰がこのレッテルを貼ったの? と叫んだものです。

 『ギヴァー』を知ってから5年半、いまだかつてSFと思ったことは一度もないのですが、今日、ローリーさん本人がSFと位置づけて書いていない、と明確にインタビューで語っていたのを見ました。彼女が生で『ギヴァー』について語っているところを見てみたいという方は、ぜひご覧ください。

 著者の名前を間違えるのと同じレベルで、失礼だと思うので、著者の了解なしに勝手にレッテルを貼るのはやめましょう!!! 

 私自身、SFの定義がよくわかっていませんが、舞台が未来に設定されると、自動的にSFになってしまうのでしょうか? ちなみに、『ギヴァー』に科学的な部分は一切登場しません(と、ご本人が言っていました)。そして単に、場面を未来に設定しただけだ、と言っています。何も心配する社会を描きたかったから。(もちろん、その社会は大きな問題も孕んでいたのですが・・・そして、それへの対処の仕方こそをローリーさんは描きたかったわけで・・・)

2012年9月5日水曜日

『ギヴァー』の4冊目

友人からの便りです:

英語が全くダメな私ですが、 Gathering BlueとMessenger
は、翻訳が待ちきれなくて原書で読みました!

英語で読んで、Messengerでは、最後はオイオイ泣きました。
英語で読んで、泣いた自分にプチ感動しました。

Sonにも挑戦しようと思います。
楽しみです。ワクワク・・・

2012年9月4日火曜日

『ギヴァー』の4冊目

『ギヴァー』の4冊目、すごく読みたいです。

実は、中学2年生になる娘が、家で『ギヴァー』を読み
学校の図書館で先生に2冊目と3冊目を読みたいと相談したそうです。

司書の先生は調べてくれて、日本語になっているのはまだ1冊目だけのようだから、それを図書館に入れておくわね。という話になったようです。娘は続きを楽しみにしているようです。英語で読めるとよいのですが……。娘にも私にもちょっとハードルが高いです。

2冊目から最新の4冊目までも日本語に訳すという動きはありますか?

2012年9月2日日曜日

『ギヴァー』の4冊目が登場


 てっきり3冊目でおわりか、と思っていたのですが、4冊目が出ます。
 (というか、アメリカではすでに「出た」みたいです。)

 2冊目はGathering Blue、3冊目はMessengerでしたが、4冊目のタイトルはSon(息子)です。

 いったい誰の息子?

 1冊目、2冊目、3冊目とどうつながるのでしょうか?

 The Giverが出版されたのが、1994年。
 Gathering Blueが2000年で、Messengerが2004年。
 そして、Sonが2012年10月。

 著者のロイス・ローリーさんは、20年間この物語を考え続けていることになります。

 このブログは、来月で3年目が終わります。こんなに続けられるとは、はじめたときは夢にも思っていませんでしたが、ローリーさんに比べると17年も少ないのですから、その半分(=7年)ぐらいはいけるような気になってきました。(ほんとかな?)

 考え続けてきた、といえば、私がこの本を読んで、復刊に向けて動き出したのは2007年の春でしたから、すでに5年半になろうとしています。(そうなると、あと残り4年半? もちろん、その間にローリーさんが5冊目を出さないことが条件ですが・・・)

2012年9月1日土曜日

前回の「色」の続き

色がらみで、前回の続きです。

私が、なぜ『心のなかの身体』(マーク・ジョンソン著)という本を手に取ったのかは、いまとなっては覚えていないのですが、最初に読み始めたときは、チンプンカンプンですぐに図書館に返してしまいました。

でも、「わかりにくい文章を繰り返し読むことで、ひょっとしたらわかるかもしれない」事例というか、そういう文章を読んでいる時に頭の中で考えていることを口に出して考えてみる題材として使えるのではないかと思って、また借りてきました。

繰り返し読んででも、まだなかなかわかりません。私の理解力不足です。想像力不足です。(←これらこそが、まさにこの本のテーマなのですが・・・)


さて、色についてです。

195 カンディンスキーは色の一つひとつに働く力を説明している。黄色は「せっかちでうるさい」。赤色には「限りない暖かさがある」が、黄色がもつ「無責任な訴えかけ」はない。青色がもたらすのは、「無限への呼びかけ」であり、「純粋な超越の希求」である。説明はまだまだ続くのだが、われわれの目的からすれば、カンディンスキーの個別的な分析が正しいかどうか、あるいは色の効果は普遍的なのかという天は重要ではない。決定的に重要なのは、色は孤立して存在するのではなく、他の色との関係で存在するという点である。これが、力の複雑な相互作用を成り立たせているのである。

→ ジョナスがまずは見た赤色の分析を著者のローリーさんは知っていたのでしょうか?
確かに、一つだけ見ても、大きな意味はない! そして、その色をあえて消し去った社会をどう解釈すればいいのでしょうか? 相互作用を成り立たせなくしている社会?


さきほどの「わかる」「理解する」「想像する」に関連して、

英語では、当たり前というか、普通に使われることなのですが、
Understanding is seeing. (理解するとは見ることである。) 226ページ が出てきます。

I see. という言葉を英語圏の人はよく使いますが、意味するところは「私は見えます」より「私はわかりました/私は理解できます」の方が圧倒的に多いです。それぐらい、わかる=見える=理解する、なわけです。

日本語には、これに類する使い方はあるのでしょうか?

ジョナスのコミュニティーで、色を見ないという選択をしたということは、理解力を制限することにつながっていないでしょうか? それとも、意図的に理解力を低く押さえるため??