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2012年3月25日日曜日

『鋼鉄の巨人』を読みました

以前、『ギヴァー』のコミュニティのサステイナビリティ(持続可能性)について一緒に考えてくれたTさんから、以下のメールをもらいました。

やっと『鋼鉄の巨人』を読むことができました
学研の方です。

三本足や白い山脈よりも、主人公3人の友情?の微妙な
動きに感情移入してドキドキしながら読みました。

三本足って何なのでしょう?
「人間狩り」をして楽しむなんて、人間が狐を狩って楽しむのと
同じな気がしました。
そういえば、三本足が人間を従順にさせるのも、
人が犬を飼って避妊させたり、吠えないように口輪をさせたり、
尻尾や耳の形を変えたり、猫の爪を抜いたりするのと似ています。
(私も飼っている猫を避妊させています。できることならGPSでも
つけて猫が迷子になってもすぐに探せるようにしたいとさえ
思っています。磁石を埋め込むのと同じ行為です)

でも、人間はそうしておいてさえペットを平気で捨てているので、
よりたちが悪い気がします。

本を読んだ後に、たまたま石炭についてのレポートを読んでいると
「蒸気機関」によって産業革命が進んだ、とありました。
本の中でしきりと「蒸気やかん」が繰り返されていたのを思い出し
ました。
レポートにはさらに、「蒸気機関」のエネルギーや材料が
「鋼鉄」であったと書いてありました。
本のタイトルの「鋼鉄の巨人」って何のことだろうと思ってましたが、
このことでしょうか?
作者は産業革命以前と以後を比べているのでしょうか?
レポートを読まなければ、全然気づかないことでした。
他にも気づけていないところがたくさんあるのかもしれません。

続編も借りて読もうと思います。
紹介して下さりありがとうございました。
ブログに載っている他の本も読んでみるつもりです。

2012年3月14日水曜日

趣味のない世界?

伊能忠敬の道楽について書きましたが、道楽は言葉を変えれば趣味です。

 『ギヴァー』のコミュニティには、それが存在しないと思います。

 理由は、趣味が人と人の違いを生み出すからです。

 均一性/画一性を何よりも大事にする社会においては、違いを生む原因になる趣味はリリース(解放)されているはずです。

2012年3月12日月曜日

一日遅れの3.11

    「過去は変えられないが、現在と未来は変えられる」
  これは、よく言われることですが、本当でしょうか?
  今回の東日本大震災+津波、そして東電の原発事故について、言えるでしょうか?

  日本語の頭ではここ2~3日あまり3.11関連のことは考えていませんでしたが、英語の頭では5日ぐらい前から考え続けていました。私は年末に、その年一年を振り返って、年賀状に代わる挨拶メッセージをメールで送るのが過去10年ぐらいの習慣になっています。昨年末は、日本語のは何とか出したのですが、英語のは出せませんでした。
 ひっかかっていたのが3.11だったので、それを中心に書いて10日から11日にかけて海外にいる友人や知人たちに出しました。

 被災者や東電の原発事故で被害を受けている多くの人たちが、納得するようなスピードでの救済はまったく行われていないことを、知らせることを中心に。★
 いったい東電や役所は何を考えているのでしょうか? どうせ出費することがわかっていることなのですから、スピーディーに出さないと回復できるものも回復できなくなってしまうのに・・・

 このような現状が、最初の引用に対して持ってしまった疑問の理由でした。


★ そしてもうひとつは、このブログでは繰り返し書いている私たちが「当たり前、普通」と思っていることの中には、視点を変えれば「当たり前、普通」でないものがたくさんあり、また「自分たちには変えられない」と思い込んでいるものも、視点を変えれば「変えられる」ことが結構あることを。それは、私がジョナスから学んだ最大のレッスンです。

2012年3月11日日曜日

『四千万歩の男』が許されない社会

すでに、このブログでは井上ひさしさんの『吉里吉里人』と『ボローニャ紀行』は関連のある本として紹介しました。

 『ボローニャ紀行』はタイトルを挙げただけで、内容にはまったく触れていませんでしたから、一言。
 井上さんが30年の長きにわたって憧れの地だったところをようやく訪問した記録です。市民社会の営みを垣間見せてくれます。(なんと、NHKのロケ班と一緒にボローニャの飛行場に着いたとたんに、井上さんのボストンバッグが盗まれるハプニング付き。確か、本はNHKスペシャルの副産物です。2010年の1月の段階では、この映像見ていませんでしたが、2011年の1月に行われたイタリア・スペシャル月間の中で再放送をしっかり見ることができました。)

 今日のテーマは、『四千万歩の男』です。

 この本は、井上さんの視点から見た伊能忠敬の評伝です。隠居してから道楽で日本全国の地図づくりをして歩き回った人です。それも、1回ずつ回ったのではなく、複数回行っているところ数知れず、です。そんなことをしたので、忠敬隠密説まであるぐらいです。

 こういう道楽をたくさんの人がやっている社会が、ひょっとしたらボローニャに凝縮されているのかな~、と思ったりもしました。(読んだ順番は逆ですが。)

 そして、『ギヴァー』との関連で言えば、ジョナスが所属するコミュニティは「隠居してから他のコミュニティも含めて地図づくりをして歩き回るような道楽」をまったく許さない社会です。

 それに比べると、我が日本はボローニャまでとは言わないまでも、まだ細々かもしれませんが、江戸時代に忠敬が実行したことが残っている社会ではあります。

 これを、もっと盛んにしていくにはどうしたらいいのでしょうか?

2012年3月7日水曜日

すでにあるものを見据えることの大切さ

ある本を読んでいて、以下の引用を見つけました。

  The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes but in having new eyes.                                  Proust
  (真の発見の旅は、新しい景色を求めることではなく、新しい目(見方)をもつことによって得られる。)

 これは、マルセル・プローストの本からの引用と察せられます。出典は明らかにされていませんが。

 これは、『ギヴァー』の主題と大きく関わるとても大切な文章のように思えました。

 ギヴァーの世界は、色のない世界です。
 しかし、ジョナスは以前からずっとそこにあった赤をてはじめに様々な色が見え出しました。それによって世界観が変わっていったのです。
 私たちの周りには、これと同じ現象が渦を巻いているのではないでしょうか?

2012年3月4日日曜日

原子力ムラ=年金ムラ の構図

3.11が近づいています。 明治以来3度目の開国に匹敵する大きな変革の時(チャンス)とも言われましたが、残念ながら、そうはならないようです。

3.11の天災の部分は別にしても、人災(原発事故)に関しては、次々にその対応や準備の甘さが明るみに出てきています。「安全神話」が覆いつくしていましたから、事故などが起こるという前提自体が考えられていなかったわけです。

今の首相は、「福島の復興なくして、日本の復興なし」と声高に繰り返していますが、福島を中心に原発による/放射能による大きな被害を克服する道筋はまったくと言っていいほどついていません。関係者たちは、まだ「安全神話」の呪縛から解かれていないかのようです。(震災復興の方も、上のほうの役所が足枷になっているようです。しっかり復興や元に戻ることのさらに上をいく発展が求められる/可能な部分はたくさんあるというのに、です。なかなか実現できないのは、下のことと関連します。)

根本的な問題が「構造」にあるからです。
それは、日本社会を覆いつくしていると言ってほぼ間違いないでしょう。
具体的には、以下のような構図に象徴されます。

AIJ、社保庁OB会社と顧問契約 人脈を通じ営業 (朝日新聞・ネット版)
旧社会保険庁OBを通したAIJの勧誘例

これに、大手証券会社なども絡んでいたようですから、まさに構造的な問題です。 ごく少数の関係者=身内が甘い汁を吸えれば、コツコツと年金用の基金を積み立てている一人ひとりの社員や従業員が結果的にどんな目に会おうと関係ない、というわけです。

未来への視点のかけらもありませんから、常にその場しのぎです。50代、60代、70代の人たちに、次の世代、次の次の世代、次の次の次の世代・・・・のことに想いを馳せ、かつアクションを起こせる人は極めて稀です。(やるべきことというか、価値のあることは、ほとんどそれしかないというのに!) 

極めて危ないことがわかっている原子力発電所、元金も戻せないような投資、テストを武器に生徒や学生の学びのレベルを低く押さえる学校・大学教育、的確な情報が流せないマスコミ等々、してはいけないことが残念ながら横行しています。

これらたくさんのおかしい部分を修正・改善する努力なしに、「がんばろう、(東)日本!」だけでは、できあがるものは前と同じで「見た目はいい」かもしれませんが、実態は極めて「もろく、かつ危険」ものであることは明らかです。

2012年3月3日土曜日

ずさんな「原子力ムラ」

昨夕、NHKの「私も一言!夕方ニュース」を聞いていたら、元「原子力ムラ」の住人だった飯田哲也さん(環境エネルギー政策研究所所長)が、日本の原子力ムラをケチョンケチョンにけなしていました。


 聞きながら、「なぜそれを3.11以後でなく、10年前、20年前に言ってくれなかったんですか?」と思いました。でも、ムラの中にいる人には締め付けが厳しくて、出てからじゃないと内部告発は言えるような状況ではないことは想像がつきます。

 もちろん、原子力ムラは、政界、官界、経済界、学界、マスコミ界等の連携・協力があって存在できる『砂上の楼閣』です。 → この辺、『ギヴァー』のコミュニティに酷似している気がしないではありません。それぞれの担当は、あたかもすべてが順調に進んでいるかのごとく装うためにうそで固めている(?)ような部分がありますから。 そうなると、原子力ムラで起こっていたことは、同じレベルで政界、官界、学界、マスコミ界等でも起こり続けているわけで・・・私たちに求められているのは、以下のような状況かもしれません。(ビデオは、学校の先生たちがしないといけないことを、ユーモアと皮肉を込めて描いています。)



 でも私たちには、飛行機ではなく、『ギヴァー』や『トリポッド』の中でそうだったように自転車や馬や船を中心にした社会にしていくという選択肢も持っているわけです。(一度、飛行機やリニアモーターカーや、ハイリスク・ハイリターン=ギャンブルに慣れてしまった人たちにとっては、後戻りするという選択肢は存在しないかのようです。)

2012年3月1日木曜日

何処

「何処」は、確実に『ギヴァー』のテーマの一つだと思うのですが・・・

今日、しばらくぶりにアレン・セイの『おじいさんの旅』を読み直しました。
表紙の裏に、こう書いてありました。

    ぼくたちは何処にいようと、ほかの何処かが恋しい。
    誰といようと、ほかの誰かが恋しい。

セイの他の作品(絵本)も、どこか『ギヴァー』に通じる部分があるような気がします。