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2014年2月28日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 100



 記念すべき100冊目の『ギヴァー』と関連する本です。(実質は、1回で複数冊紹介したり、間接的に関連のある本という形でも紹介してきたので、130~140冊になるのですが・・・・)

 『みんなおなじでもみんなちがう』得能通弘氏の写真の絵本。

 たとえば、アサリは模様も大きさも、みんな違います。カタツムリも。ヒマワリの種も。ウズラの卵も。
 ショウガの形は、みんな違います。梅干も。
 サクランボは色も大きさも、みんな違います。ソラマメも。クワガタも。ニボシも。マツタケも。紅葉の葉も。

 この絵本を見ていると、自然に同じものはあるのかな?と思わされます。
 当然、人間も自然の一部です。

 しかし、色をなくして、同じにしようというか、違いを見えなくしているのが『ギヴァー』のコミュニティ。
 でも、歴然と、コミュニティの一人ひとりは特性が違います。

 ジョナスは、次期ギヴァーに選ばれました。

 私たちの社会も、違いをできるだけ出さない方向で動いているような気がします。

2014年2月26日水曜日

親への愛



2014年哲学連載30回目。

  「ひとは自分の両親を愛する
   たとえ ときにそれが困難なことであっても
   それが義務だから
   と考えるひとがいます

   他のひとは
   自分の両親を愛するかどうかは自由だ
   と思っています
   いてほしいと頼んだわけではないからです」

  両親は、兄弟や姉妹にも置き換えられますね。
  友だちや隣人にも?

  ジョナスは、どっち?
  あなたは?

  でも、愛というのは、一方向もあり?
  それとも、双方向でないと機能しないもの?

2014年2月25日火曜日

愛すること 3



  2014年哲学連載29回目。

  「愛のおかげで わたしたちはわたしたちでいられる
   愛のおかげで わたしたちは存在する
   と考えるひとがいます

   他のひとは
   愛はわたしたちを惑わせ
   わたしたちが生きることを妨げるものだから
   ひとりぼっちの方がいい
   と思っています」

 前者の考えがジョナスで、ジョナス以外の人たちは後者。
 
 私たちは??

2014年2月23日日曜日

愛すること 2



  2014年哲学連載28回目。

  「愛されることなしに愛することはできない
   と考えるひとがいます
   そうでなければ意味がなく
   わたしたちを苦しめるだけだからです

   他のひとは
   愛するということは
   見返りを期待せずに 自分の愛を与えることだ
   と思っています
   与えることが 幸せだからです」

 ジョナスとゲイブリエルとの関係は後者?
ギヴァーとの関係は?

 コミュニティの他の人たちに「愛」という概念はありません。

2014年2月22日土曜日

愛すること



 はじめての哲学シリーズの第4弾は、『愛すること』です。2014年哲学連載27回目。

 「どんな年齢でも ひとは愛することができる
  愛には さまざまな愛し方があると
  思っています」

 ゲイブリエルにも赤ちゃんなりの愛し方があったのかな?

 ジョナスはジョナスなりの。

 そして、ギヴァーはギヴァーなりの?

2014年2月21日金曜日

生きる意味 4



 2014年哲学連載26回目。

  「生きることは 退屈で
   なにも変わったことがなく
   ひとはいつも同じことばかりしている
   と考えるひとがいます

   他のひとは
   生きることは刺激的で
   ひとはなんでも創り出すことができる
   と思っています」

 前者がジョナス以外のコミュニティの人たちで、後者がジョナス。
 私たちの社会では、割合はどんなものでしょう?
 あなたは、どっちですか?

2014年2月20日木曜日

生きる意味 3



  2014年哲学連載25回目。

  「生きる意味は
   どんなにばかげたことであっても
   自分の夢を実現しようと努力することにある
   と考えるひとがいます

   他のひとは
   生きる意味は 現実をそのままに受け入れ
   毎日をあるがままに生きることだと思っています」


  「生きる意味は
   やりたいことをやり
   自分にとっていいと思えるところに行くことだ
   と考えるひとがいます

   他のひとは
   生きることは
   決まりに従い
   責任をもつことだと思っています」

両方とも、ジョナスは、前者?
ジョナス以外のコミュニティの人たちや多くの日本を含む、この地球上に住む人たちも後者?


2014年2月16日日曜日

生きる意味 2



  2014年哲学連載24回目。

  「ひとは他人のために生き
   他人を愛し
   やさしくするために生きるものだ
   と考えるひとがいます」

  「他のひとは
   他人はしまいには私たちのじゃまをする
   だから 私たちのなかにこそ私たちの生きる意味がある
   と思っています」

 ジョナスは前者?

 わたしたちの場合は?
 問題は、どのレベルで考えるか、のような気がします。
 家族。自分が属する組織。地域社会。
 曲者なのが、国という存在です。
 「世間」というのも、不思議な存在です。

2014年2月15日土曜日

生きる意味



 はじめての哲学シリーズの第3弾は、『生きる意味』です。2014年哲学連載23回目。

 最初のページは、

  「生きる意味について
  ひとはそれぞれとてもちがった考えをもっています
  ときにはそれが正反対のこともあります」からはじまっています。

 まさに『ギヴァー』の中で描かれていたこと?
 そして、いまの日本の社会を表す言葉?

 「人生がとても充実していて
  たくさんのもので満たされるとき
  生きる意味はより大きくなる
  と考えるひとがいます」

 「他のひとは
  人生のじゃまをするものがなにもないとき
  生きる意味はより大きくなる
  と思っています」

 後者は、ものはなくても、自分のやりたいことがやれているときが、生きる意味がある、と言っているのでしょうか?
 まさに、ジョナス!!
 それに対して、日本人の多くが志向しているのは前者?

 そういえば、私が依然関わっていた団体で、『地球家族―世界30か国のふつうの暮らし』の使いかたガイドを出したことがあります。

少なくとも、日本人家族がもっているものの量は、突出しているのです!!

 でも、果たしてどれだけの人が、自分のやりたいことをして生きているでしょうか?

2014年2月14日金曜日

原因と結果を考える



 2014年哲学連載22回目/『哲学してみる』の13回目=最終回のテーマです。
最後のページには、

 「わたしたちは日々行動し、
  たえず自分のまわりに結果を生じています。

  でも、その結果を意識することはほとんどありません。」 

~ ジョナスは、その結果を意識して、原因となるアクションをあえて起こしました!! 勇気ある行動? それともコミュニティに対する反逆?

 「おなじように、自分を生みだしたもの、自分を生かしているもの、自分を変えてしまうもののことをかえりみません。あまりに多くの原因、あまりに多くの理由がわたしたちの存在、わたしたちのあり方にかかわっているからです」 

~ これは『ギヴァー』のコミュニティも私たちの社会も同じ??

 「しばしば自由はどこにあるのかと自問したくなるほど、ひとはみな、ものや他者の行為を必要としているのです」 

~ これも、『ギヴァー』のコミュニティも私たちの社会も同じ?? それとも、違う?

2014年2月13日木曜日

客観的と主観的を考える



 2014年哲学連載21回目/『哲学してみる』の12回目。

 「たったひとりの人間が客観的な真理を表現できるのでしょうか?」

 ジョナスは、コミュニティを代表してアクションを起こしたと考えられるのでしょうか? それとも、とんでもないことをしでかしただけでしょうか?

 ジョナスの行動を、私たちの社会や組織などに当てはめるとどんな行為になるでしょうか?

2014年2月12日水曜日

能動的と受動的を考える



2014年の哲学の連載に戻ります。20回目/『哲学してみる』の11回目です。

 「待つことは能動的なのでしょうか?
  それとも受動的なのでしょうか?」

と書かれていますが、それなら、ジョナスのように、行動を起こすことは能動的なのでしょうか? それとも受動的なのでしょうか? と問いたくなります。

 それとも、「すべては能動的であり、同時に受動的だとみなすことができる、と」いうことでしょうか??

2014年2月11日火曜日

「美しい国・日本」が復活




再就任の1年目は封印していたのですが、建国記念日を期に再び、です。

これを言うなら、まずは道路に落ちているタバコの吸殻とゴミを拾ってから言ってほしいです。
おそらく、道路を歩くようなことはしないのでしょうから、どれだけゴミが一杯かお気づきでないようです。

彼の発言は、日本中の地域が「自然の美しさ」を売りにしているのに呼応しているのだとは思いますが、いずれも見たくないところには目をつぶるアプローチなわけで(カラ元気?)・・・しっかり見るべき所を見て行動しないと、物事がよくなっていくことはないのですが・・・きれい事を言うばかりでは。


『ギヴァー』のコミュニティで「美しいコミュニティ○○」と言うと思いますか?

そういえば、あちらは色がない世界でした!

2014年2月10日月曜日

続・機能していない選挙=民主主義




もちろん、大雪の次の日という理由は多少あるとは思いますが、単純に、半分以上の人が「そっぽを向いた」ことになります。候補者に期待が持てないというか・・・

そして、投票した人の半分以下が舛添さんを知事に選びました。ということは、実質2割の人の支持を得ているに過ぎません。8割の人は、支持は表明していないわけです。 ← こんなこと、『ギヴァー』のコミュニティであり得ると思いますか? もしあったら、コミュニティの崩壊を意味するのではないでしょうか?
しかし、日本で信じられ続けている「民主主義」では、これで首長はかなりの部分、やりたい放題になります。投票率が何%であろうと、何票で勝とうが、とにもかくにも勝ったには変わりありませんから。(自民党=安倍さんも、「これで信任された」と錯覚を起こしています! 選択肢がないのですから、信任も何もあったもんではないというのが、投票者の立場なのですが・・・)

開票結果も、ほぼ予想通りでした。

宇都宮さんと細川さんが両方出ては、単に互いの票を食い合うだけですから!
もちろん、協力できたとしても、この数字では及ばなかったわけですが・・・
しかし、協力し合っていれば、相乗効果が得られた可能性はあります。
(それとも、単純に読みが甘かった? それなら、そういう人が選挙に出る資格はないのですが・・・)

いずれにしても、舛添さんが勝つことは選挙前から分かっていたことでした。反原発派が共闘できないのであれば、確実に。

選挙の結果で一番恐ろしかったのは、田母神さんが61万票も得たという事実だと思います。これは投票者の10人に一人もいるのです。右傾化の方向が加速化する兆候でしょうか? ← これも『ギヴァー』のコミュニティでは起こりえると思いますか??
報道によると、20~30代の女性に浸透する方法をとったのが、主な理由とか・・・
一層恐ろしくなりました。情報操作がいくらでもできるわけですから。


2014年2月9日日曜日

進歩が見られない三つの分野



東京は、「台風一過」ならぬ、「大雪一過」です。ただし、台風の時とは違って、たくさんの雪が残っていますが。でも、ほとんど快晴になってきました。

今回も、3回ほど続けた選挙・政治がらみです。(とても大切なことですから!)

私がはじめて書いた単独の本の『会議の技法』(中公新書)のあとがきに書いたことですが、大学時代(ということは、もう40年も前!!)に読んだ本の中に、人間の歴史上、進歩の見られない分野が少なくとも三つあると書いてありました。それは、「政治」と「環境」と「空間の利用の仕方」です。それら三つを全部扱う仕事として、私は「都市地域計画・まちづくり」を当初自分の専門分野として選びました。(他に、進歩していない分野は何かあるでしょうか?★)

残念ながら、同じことは40年経った今でも言えてしまえます。

ちなみに、三つの分野がそれぞれプロセスで欠かせないのが「会議」でもあります。そうなると、人間が進歩できないのは「意思決定のプロセス」と言えるかもしれません。

『ギヴァー』のコミュニティでは、この問題を抱えていると思いますか?


★ 日本においては、「教育」が確実に上げられると思います。
  おそらく100年前の日本人が、いまの教室にタイムスリップしても、違和感を感じないのでは! こと授業ということに関しては。
  そして、学校が始まる前の徒弟制度の教育の方が身につけられるものが、はるかに多かったのではないでしょうか? 
暗記を前提にした教育に価値はあるのでしょうか?
  学校(それも義務教育)ができる前の日本では、「教育」に困っていたでしょうか?
  学校(義務教育)ができたことのいい点とは、いったい何でしょうか? 悪い点は?

2014年2月7日金曜日

候補者も、勝ちたいとは思っていない!!



選挙に出ることに価値を見出していて、自分の政策を実現することには関心をもっていないことの表れがここに。

もちろん、都知事選ですから、反原発が唯一の焦点ではありませんが、大きいことだけは確かな(というか、大きくないと困る)わけで・・・・

票が割れてしまうのですから、石原・猪瀬都政の継承者に楽勝を提供する行動をあえてとっているわけです。

候補者がこのレベルなわけですから、選挙が機能するはずがありません。そんなことに巨額な税金を無駄にして、みんながつき合わされているのがいまの選挙です。

2014年2月6日木曜日

マスコミは、公正中立か?



 ミディア・リテラシーは、80年代の終わりごろから関心をもっていました。
 カナダあたりが最先端だったのですが、日本でもようやく紹介され始めています。

 『世界を信じるためのメソッド』森達也著を読みました。本の内容は、サブタイトルの方がよく表しています。「ぼくらの時代のメディア・リテラシー」。森さんはテレビを中心としたメディア界で仕事をしていた人。(書いていることは、何も新しいことはないのですが、当事者が日本の題材で書き始めることに価値があると思って紹介します。)

「(僕は番組制作会社を解除され、しかたなく、友人に借りたデジタルカメラを自分で回して撮ることにした。)そのとき気がついた。撮影という行為は、ちっとも客観的じゃないし、ましてや公正でも中立でもないってことを。」(97ページ)

「僕の周りには世界がある。あなたの周りにもある。360度すべてにある。でもカメラはまず、この無限な世界を、四角いフレームの枠の中に限定する。その瞬間、区切られたフレームの外の世界は、存在しないことになってしまう。

 何かを撮るという行為は、何かを隠す行為と同じことなのだ。

 ファインダーに片目を当ててカメラを回しながら、僕は自分が世界を選び直していることに気がついた。取捨選択している。僕の目の前には、三人のオウムの信者がいる。ひとりはパソコンの画面を見つけている。ひとりはご飯にゴマをかけただけの質素な夕食を食べている。そしてもうひとりは、裁断に額づいて祈りを捧げている。

 三人を同時には撮れない。だから誰かを選ばなければならない。選ぶのは僕だ。そして誰かを撮るかで、見る人の印象は全然違う。」(97~98ページ)

101 テレビ・ニュースを観る人のほとんどは、ニュースは客観的に作られているものと思い込んでいる。事実だと思い込んでいる。確かに画面に映るのは事実の断片だけど、その集積は事実とは違う。
・・・多くの人は、この仕組みを知らない。ニュースの映像に、撮る人や編集する人の感情が反映されていることや、視聴率を上げるために刺激的に見える工夫をしていることなど、想像すらしていない。

102~112 中立も、公平もあり得ない。すべては相対的なもの。

118 世界をアレンジする方法が、メディア
121 メディアは最初から嘘だ
128 だからあなたに覚えてほしい。事実は限りない多面体であること。メディアが提供する断面は、あくまでもそのひとつでしかないということ。もしも自分が現場に行ったなら、全然違う世界が現れる可能性はとても高いということ。 → 145 世界は複雑で多面的だ
131 間違いは強引につくられる
136 市場原理に基づいて、読者や視聴者が望む記事や番組を流す
    テレビの場合、この市場原理から解き放たれることを約束されたのが、公共放送であるNHKだ。
137 でも今のNHKは、確かに視聴率は民法ほどには気にしていないけれど、その代わり、政府の意向をとても気にするようになってしまった。これでは困る。独裁国家の国営放送になってしまう。時には政府をちゃんと批判してほしいのだけど、今のNHKは、なかなかそれができない組織になってしまった。

この本が出されたのは2006年12月でしたが、この最後の件に関連した報道は最近、後を断ちません。ほとんど末期的症状です。



http://mainichi.jp/opinion/news/20140206k0000m070121000c.html


『ギヴァー』のコミュニティで、これに類する問題は起こっているのかな??



2014年2月5日水曜日

機能してない選挙=民主主義



選択肢が提供されない選挙は、選挙制度として機能している?
そして、民主主義としては?

この件は、これまでも何度かこのブログで扱ってきました。
選挙のたびに。(それ以外でも)
それほど問題は大きいのですが、政治家、マスコミ、政治学者たちの当事者は、当たり前のものになっている(習慣化している)ので、問題とも思えないのでしょうか? というか、少なくとも自分の生活の糧にはなっているから、今のままでいい??

機能していない制度に、巨額の無駄な税金を使い続けて維持するという、その気持ちがわかりません。自分の懐が痛むわけではないので、気にもしないのでしょう。

自分の思う通りにならないから出直し選挙に打って出る橋下さん。4期目の都知事選に当選したにもかかわらず、直後に衆議院選に打って出た石原さん。どこかすることが似ています。制度を尊重する姿勢の欠片もなく、単に自分がしたいと思うことをやるための手段と位置づけているだけ。(もちろん、彼ら二人が突出しているわけではなく、結果的に猪瀬さんも含めて、制度を大切にする姿勢に欠けることが、今回の必要のないと知事選につながっていますし、立候補している人たちの顔ぶれを見ても、残念ながら・・・・)
少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティでは、こんなバカなことはやっていません!!

しかし、「清き一票」/「悩める一票」ではあります。
いったいどうしたらいいのでしょうか?


★ ちなみに、今回の都知事選にも、女性候補者は一人もいません。
  これが、制度が機能していない一つのバロメーターと言えるかもしれません。
  「こんなバカなこと、無駄なことには関わっていられません」と宣言しているようなものかもしれません。
  もちろん、女性候補者が一人、二人出たら、機能したと言えるのかというと、そう単純ではありません。でも少なくとも半数が女性になったら、ある程度は機能しはじめていると言えるかもしれません。そんな気はします。

2014年2月4日火曜日

「天皇」という存在



娘に、「いったい、天皇はどういう存在なの?」と聞かれました。

ウ~ン、一言で答えるのは難しい!

ちゃんと、“象徴”であることは知った上での質問です。

「まあ、時の権力者が隠れ蓑にするのに都合のいい存在というところかな」と答えておきました。(それ以外にあるでしょうか?)


なお、幻想的な「万世一系」と対照的なのが、『ギヴァー』の世界です。
誰が自分の親なのかわからないのですから。母親はわかっても父親はわからない?


★ 一国の憲法の最初の八条が天皇についてのものになっているというは、常人が考えると、異常としか言いようがありません。
  第14条には、「すべて国民は、法の下に平等であつて、・・・差別されない」とあるわけですが、天皇がそれを超越した存在であることは明らかです。それは、民主主義を標榜する国にとっていいことなのでしょうか? (標榜するだけで、実態が伴わないので、許されてしまうわけでしょうか? どうも、この2つ=天皇の存在と民主主義を実現できないことはセットのような気がします。)

2014年2月2日日曜日

肉体と精神を考える



  2014年哲学連載19回目/『哲学してみる』の10回目。
 『哲学してみる』は、こういう書き出しではじまります。

 「肉体
  それは、物質的な存在としてのわたしたち。肉と骨からなっています。
  ある限られた時間存在するものであり、誕生ではじまり、死で終わります。
  肉体は必要です。肉体のおかげで、ひとは生命として存在することができるのです。
  わたしたちは肉体を養い、服を着せ、保護し、維持して、肉体からの欲求を満たさねばなりません。

  精神
  それは、非物質的な存在としてわたしたち。わたちたちを人間にしてくれるもの。
  精神がなければ、ひとは他の動物とおなじく一匹の動物にすぎません。
  精神は、わたしたちに理性と良心を与え、わたしたちに美しくて偉大なことをなしとげさせるものです。
  わたしたち自身から生じるものであり、理解したり、発明したり、夢をみたりすることができるようにもしてくれるものです」

 さて、私たちの社会と『ギヴァー』のコミュニティを、この肉体と精神の切り口で比較すると、どんなことが言えるでしょうか?

 このテーマの最後の方に、「ここで問題になるのは、肉体と精神の関係のなかでどちらが支配する側なのかを知ることです」と絵本には書いてあります。(これはとても、子どもを対象にした文章とは思えません!

2014年2月1日土曜日

わたしと他者を考える



  2014年哲学連載18回目/『哲学してみる』の9回目。

 このテーマについて、絵本は「ひとはそれぞれ、たったひとりのわたしなのでしょう?それとも、他のすべてのひととおなじようなわたしなのでしょうか?」と問いかけています。

 このテーマ、『ギヴァー』を読むにあたっては、極めて大きな切り口のような気がします。いろいろな選択の問題に代表されるように。
 でも、わたしたちの社会は、どれだけの選択を幼稚園や保育園にはじまって、学校、大学、そして社会人になっても有しているのでしょうか?

 この絵本では、このテーマの最後は「こうして、ひとは自分がだれなのかをよりよく理解していくのです」で結んでいるのですが、『ギヴァー』のコミュニティの住人と私たちの社会の住人にとって、この自分の理解度はどちらが果して高いのでしょうか?

 単純に、それは「人さまざま」ということでしょうか?