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2010年12月25日土曜日

『教師教育学』 2

 前回は、本の内容については何も書かなかったことに気づきました。

 私にとっては、あまりにも身近な内容ばかりだったことが理由かもしれません。★

 大切なことがたくさん書いてありますが、本のポイントを私になり捉えると、これまで主流であり続けている「理論→実践」のアプローチが機能しないことはすでに証明されているので、「実践→振り返り→自分なりの理論構築」を可能にするアプローチでやっていきましょう、ということになります。

 その際の主役は、これまでのアプローチとは逆に、教師や講師ではなく、生徒や学生や受講者になります。従って、従来の決め決め(と同時に、バラバラ・ブツギリ)のシラバスやカリキュラムをこなすアプローチは取れなくなります。臨機応変に柔軟に、主役である生徒や学生や受講者のニーズや関心等をベースにしながら(かといって、野放図にやりたい放題ではなく、結果的に押さえるべきことはすべて押さえた上に、身につくレベルは従来のアプローチをはるかに越える形で)展開していきます。

 そんなこと可能なのか、と思われるかもしれませんが、可能なのです。「ボタンの掛け違え」や「悪循環や悪習」に気がついて、修正/転換さえできれば。(下で紹介する作文の授業→ライティング・ワークショップや、読解の授業→リーディング・ワークショップ、暗記になってしまう理科や社会→探究=科学者のサイクルを回し続ける理科や社会、単なる正解あてっこゲーム化している算数・数学→問題解決=数学者のサイクルを回し続ける算数・数学などですでに証明されています。)

 そのためには、年間を通して「実践→振り返り→自分なりの理論構築」のサイクルを何度も体験して、自分のものにすることで、どんな状況でも活用できるまでにしていきます。そうすることで、生徒の立場に立つことができ、教科書をカバーすることや一斉授業(要するには、一方的な教え込み)から解放された「自立した教師」が育ちます。

(このサイクルは、たとえば、
●作文版では「作家のサイクル」=①題材探し→②下書き→③修正→④校正→⑤出版が、
●読書版では「読書家のサイクル」=①選書→②下読み→③修正(読み直し、ペア読書、ブッククラブ)→紹介が、
●理科や社会版では「探究のサイクル」=①自らの疑問・質問→②探求・発見→③解釈・修正→④発表等になり、
いずれも年間を通してこのサイクルを繰り返すことで「自立した書き手」「自立した読み手」「自立した科学者」「自立した市民」が育ちます。大人になってからではなく、学校にいる間に十分練習ができるし、また「本物の作家・読書家・科学者・市民など」になる体験を通して学び続けないと、大人になってからでは「もう遅い!」という部分が多分にあります。)

 残念ながら日本の教育の中には、いまだ「自立した教師」「自立した書き手」「自立した読み手」「自立した科学者」「自立した市民」・・・「自立した学び手」を育てるという発想はありません。「ひたすらたくさんの知識をつめこめば何かの役には立つだろう!」の発想で展開しています。バラバラ・ブツギリで提供された知識や技能や態度を、自分のものにできないのは生徒や学生が悪い、という姿勢です。


★ 大学での教員養成は、私の対象外です(マーケットとして捉えにくいという理由がありました?)が、子どもや教師や親や会社員等を対象にしたものは、基本的に同じ内容の情報を過去20年ほど提供し続けてきています。要するには、授業も、教師教育/現職教員研修も、会議の運営も、学校や会社経営も、PTAを含めたNPO運営も、構造的には変わりありません。対象によっては、『教師教育学』よりもはるかに読みやすいし、活用もしやすく書いてありますので、紹介します。

● 教師+子ども向け
 『「考える力」はこうしてつける』『ライティング・ワークショップ』『作家の時間』『リーディング・ワークショップ』『読書家の時間』『「読む力」はこうしてつける』『ドラマ・スキル』『マルチ能力が育む子どもの生きる力』

● 教師向け
 『「学びの責任」は誰にあるのか』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』『理解するってどういうこと?』『たった一つを変えるだけ』『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』『PBL ~ 学びの可能性をひらく授業づくり』『算数・数学はアートだ!』『効果10倍の教える技術』『「学び」で組織は成長する』『テストだけでは測れない!』『効果10倍の学びの技法』『いい学校の選び方』『校長先生という仕事』『会議の技法』『エンパワーメントの鍵』

● 親/PTA向け
 『いい学校の選び方』『ペアレント・プロジェクト』『会議の技法』『好奇心のパワー』『たった一つを変えるだけ』『「学びの責任」は誰にあるのか』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』『理解するってどういうこと?』『算数・数学はアートだ!』

● 会社員/一般向け
 『エンパワーメントの鍵』『効果10倍の教える技術』『「学び」で組織は成長する』『校長先生という仕事』『会議の技法』『好奇心のパワー』『たった一つを変えるだけ』『「学びの責任」は誰にあるのか』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』『理解するってどういうこと?』

 他にも、1989~95年に関わっていたERIC(国際理解教育センター)で出している出版物のほとんどが、同じ考え方の基に作られているものです。
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2010年12月24日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 54

 F・コルトハーヘン著の『教師教育学』というタイトルの本です。

 教育の世界は、「ボタンの掛け違え」「偉大なる悪循環・悪習」「誤った神話」で成り立っている部分が多分にあります。(最大の問題は、その中にいる人たちが、その事実に気づいていないことかもしれません。そのことは、この本の中での最大のポイントの一つと言っていいのですが、自分が体験をしたことは、たとえそれが効果的な方法ではなくとも、すべてのベースになってしまうからです。)

 問題は、授業レベル、学校レベル、教育行政レベル(文科省と教育委員会)、そして教員養成レベル(要するに、大学)、マスコミ・レベル、政治レベル、会社等の組織レベルで渦を巻いています。(要するに、すべてです。)
 一言でいうと、主役の逆転現象が起こっているということです。学び(学ぶこと)を置き去りにしたままで教えることの横行がおき続けている、と言い換えてもいいかもしれません。

 この本は、ジョナスがコミュニティの人たちのためを思い、そしてゲイブリエルのことも思って、アクションを起こしたことと同じ価値があります。

 この本は、教育の世界での「最初のボタン」をちゃんと付け直しましょう、と提案しています。しかし、実態はボタンを掛け違えていますから、「がんばればがんばるほど、うまくいかなくなる」(162ページ)構造に、いまの教育界は陥っています。

 この本が、日本から出てくればよかったのですが、先に書いたように気づいている人はほんの一握りですから、残念ながら最先進地の一つであるオランダの手を借りなければなりませんでした。(オランダは、私自身1980年代の中ごろから親近感をもっているところです。いろいろ学ばせてもらいました。★)

 教員養成(=大学)レベルでしていることは、そのまま筒抜けで、小中高の授業レベルでしていることや、会社や社会全般でしていることにつながっています。
 大学での教員養成は「最初のボタン」であり、とても大切なのですが、壁はどこの国にもまして厚いのが日本です。でも、ジョナスのような人が何人か出てくることを期待せざるを得ません。そうしない限りは、この本に紹介されているように、大学での教育も、小中高で行われる教育も変わっていかないことを意味しますから。そして、会社や社会や政治も変わらないことを。


★ オランダのよさの一つは、国民のほとんどが英語を使いこなせることです。(この本も、オランダ固有に開発されたものというよりは、英語やドイツ語の文献や経験なども踏まえながら、長年の実践に裏打ちされて考え出されたものです。) 成熟した社会というか、成熟した人間関係の持ち方も、オランダのよさです。

2010年12月19日日曜日

『聖なる地球のつどいかな』 3

240 すでに私たちはあまりにも多くの情報を持ちすぎているんです。問題は情報が多ければいいということではなくて、今ある情報をいかに理解するかということですよ。

 情報革命によって失いつつあるものは、自分たちの時間のような気がしますね。個人的な経験、肉体的な経験が、ひじょうに抽象的なものにとってかわってきている。具体的で肉体的な経験というものを失いつつあるんです。情報の質ということからすれば、ハイクオリティーな情報というのはひとつ以上の感覚を通して手に入れるものなんですよ。たとえば見たり、聞いたり、嗅いでみたり、感じてみたり、ですね。

 たとえ愛も、ひとつ以上の感覚を通して得るものです。

→ 俳句や詩をつくろうとすると、ひとつ以上の感覚を通して手にすることがよくわかります。

242 手紙 vs. Eメール

243 コンピューターは自分の心、気持ちがなければ動かないし、キーボードは自分の言葉がないと打てません。なにより言葉は我々の最高のテクノロジーなんです。私たちはまだそれを認識していないだけなんですよ。

→ 『ギヴァー』の中でも、「言葉」は一つの大切なテーマだったように思います。でも、それが描かれているコミュニティの中では、なんか通じ合っているという感覚よりも、ブツブツ切れているという感覚をもちますね。

243 『亀の島』の詩の中に、「科学は美しい、美である(Science walks in beauty)」という一行がありますが、どういう意味ですか?

  これは、ナバホから来ています。「生きるための、そして精神的な修業のための大事なポイントは美の中を歩むことである」とナバホは言っているんですよ。つまり世界の中に存在する美を見出すこと、世界を美しいものとして見なさい、ということです。

244 つまりここで言う美とは、世界をよく見ることができるのであれば、それは美しいものとして見ることができる、ということです。実際そうなんですよ。科学の世界というものは、世界の美の多層性を見せてくれるような情報をたくさん持っているんです。

245 私はこれからの21世紀の詩は科学を吸収しないといけないと思っています。

 確かにそうですね。詩と科学は姉妹のようなものですね。

246 科学をたくさん取り入れていた宮沢賢治の詩。それから仏教も。

→ 科学と宗教は、『ギヴァー』のコミュニティはあえて排除していたのかな??

260 今後どういう時代を迎え、どういう暮らし方をしていくべきか?

  地球を尊敬して生きていくということが基本だと思います。具体的に言えば、「土」「水」「森」「空気」「時間」それから「心」に対する尊敬です。

2010年12月18日土曜日

『聖なる地球のつどいかな』 2

185 街であれ、田舎であれ、自分の場所を見つけるポイントは何でしょうか?
 そのポイントはその場所に深い喜びがあるかないかだと思います。
 もうひとつは、それが有益かどうかです。自分にとっても社会にとっても。人間だけでなく、すべての存在にとって。
 そしてもうひとつには、同志がいることです。ようするにコミュニティーです。
187 心から話せる人たちの存在。

199 一生の場、あるいは仕事が十代の後半とか、二十代の前半で決められるのはむろん善いことですが、空気はどこにでもあり、人生は変えられるのだから、急いで自分をこれと限定する必要はない。むしろ二十代の後半、三十代の前半、くらいを目安にして、いい加減にではなく自分に誠実に、自分の場と仕事を探し求めていった方がよいとさえ思います。それは、三十代の後半であっても、四十代でも五十代であってもいいんです。

→ 私もこの考え方に賛成です。『ギヴァー』の12歳は、早すぎます!! 人生、70年、80年の時代ですから。

202 重要なことは、想像力だと思います。

203 もうひとつは、傷つけるな(不殺生)ということです。

206 空間的に見れば、地球という場所の中には学ぶべきいいところがたくさんあるのですから、それを僕たちは学んでいけばいいんです。そして時間のスケールで見れば、古くなった過去のことでも、そこから学ぶことはたくさんあるんです。歴史というものの知恵に学ぶことができるということです。

→ そういえば、ジョナスのコミュニティではギヴァー以外は、他の場所からも過去からも学べない人たちの集合体??

  今までの歴史観にとって過去は終わった世界でしょう。そして進歩こそが価値なんです。だけどやはり歴史というものの見方が変わってきて、過去は生きているんですよね。

  3つの時間。一つは、一日一日、春夏秋冬と回帰してくる時間、地球の時間、太陽系の時間、永遠に進歩せず、ただ回帰・循環する時間、生まれては死ぬことの循環であり回帰です。自然時間。
  ふたつ目の時間は、歴史的な時間、まっすぐに過去から未来に向かって進む時間です。
  第三の時間は、ふたつの時間の背後にあって、それを生み出している、(大宇宙という)母なる無の時間とでも呼べる時間です。

→ 2つ目までの時間はピンときますが、3番目は......これは、何を見たりする時に感じるのでしょうか?

211 クリスマスツリーの歴史について紹介 = 本来は、キリスト以前のヨーロッパでの春が来る再生の儀式だったんです。クリスマスというのは本来は夏至のお祭りなんです。モミとかの常緑の木の枝を折ってきて、お互いにたたきあうんです。みんなでたたきあう。その緑の枝は生命の再生を象徴しているからです。そして、蝋燭に火をつけた。蝋燭に火は高いところにつけて立てるんです。太陽なんです。

→ そういえば、『ギヴァー』の中にもクリスマスツリーが象徴的に描かれていました。

217 ある時、友だちとふたりで囲炉裏で火を焚いていた時のことでした。その火が実は縄文時代の人まったく同じ火であるということに気がついたんです。~その時、ひじょうにうれしく思ったことを覚えています...回帰する時間のそれは現成している姿です。

→ この火を見ることを放棄した『ギヴァー』のコミュニティ。スナイダーは、テレビが現代人にとっての焚き火だと指摘しますが、それは違う気がします。テレビが、人と人の心をつなぐことは稀にできるとは思いますが。なかなかそういう番組は放映してくれません。さらには、「火だけを燃やしているチャンネルがあってもいいんじゃないか」と冗談まで言ってくれます。

2010年12月16日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 53

 『野性の実践』の著者であるゲーリー・スナイダーの山尾三省との対談集『聖なる地球のつどいかな』です。最初の3分の2近くは、メモを取らずに読み進んだのですが、残りは結構取りましたので紹介します。対談なので、『野性の実践』よりもはるかに読みやすくもありました。

 長くなるので、3つぐらいに分けます。

171 「場所」の力 ~ 今いるところが己の場所とわかる時修行がはじまる(道元の「現成公案」 ~ それは自分が誰かを深く探すことがテーマ ~ 「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」)

175 人間であるというのは何であるのか?

・ 人はあまりにも大きな力を持ってはいけない、あまりも多くの華やかさ、栄光を持つことはできない。
・ 正気でなければいけない。
・ 質素でなければいけない。
・ 権力を持ちすぎてもいけない。
・ いつも心を開いてなければいけない。

 また、近代社会においては、人間であるための条件の大きな要素がいくつか欠けています。

・ 自分の場所を持たない
・ 家族を持たない
・ 家族の歴史を持たない
・ 共同体にも属さなくなっている
・ 自分の仕事についても、確固とした信念が持てない

176 ですから、まず、自分の場所に腰を落ち着けることです。
  修業というのは本当の生活のことなんです。なにも一日中座禅をしているだけが修業じゃないんです。修業とは、一生懸命生きること。

→ 読み方によっては、『ギヴァー』との関連が感じられると思います。

  対談している両者にとって、場所は新しい場所であることがおもしろいとも思いました。故郷的なニュアンスはまったくないのです。私が結構気に入っているテレビ番組のイタリアの『小さい村の物語』は、もろ故郷をテーマにしていますから、対談者の二人を含めた、日本の今やアメリカとの違いを感じます。

177 もうひとつ別な表現もできるんです。たとえば、アメリカ先住民は、グレート・スピリット(宗教における主神)が一人ひとりの個人に対して、それぞれ決まった仕事を与えていると考えています。ですから、まず何をしなければならないのかと言うと、自分の仕事はいったい何かということを見つけることなんです。...難問ですが、本当の仕事を見つけなければならない。人生のはじめのうちにそれを見つけなければならないのです。自分の真の仕事を見つけるのは難しいかもしれないが、一度見つけてしまえばあとは簡単なんだね。

→ この辺に書いてあることは、確実に『ギヴァー』との関連がありますね。

2010年12月15日水曜日

『野性の実践』 3

358 スナイダーは、「惑星本来の姿を求めて地球を見る訓練」を「精神の浄化」(p81)と呼ぶ。そして、遠くから離れて見ることが、そのまま最も近くの自己を凝視することにつながる、と言う。このように、物と心、現象と本質、裏と表、個別性と普遍性、差異性と同一性とを自由自在に見てゆく柔軟性が、スナイダーの生き方の特質である。

 実際、この柔軟性こそ禅修業の眼目にほかならない。

 そのほか、「雑用はまさに道である」(p277)とか、「本当に道をきわめた人、心の洗練された人は、日常的な事柄の中に喜びを見つける」(p277)とか、「誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ」(p280)といった言葉は、(十数年間におよび日本での禅修業中に)師匠や先輩から繰り返し聞かされたアドバイスの、スナイダー流の表現だろう。

359 山登りは「歩く禅」なのだ。歩くリズムによって、心身を一つにし清めてゆく修行である。スナイダーは言う。

 「それに必要なのは、ある種の自己放棄と直観力を養う術、つまり自分自身を空っぽにする訓練だ。優れた洞察力が身につくのは、持てるものすべてを失ったそのあとのことだ」(p50)

 こうした自覚に基づいて生活するなら、どんな営みもすべて修業である。問題は、まさにその生き方、ライフスタイルなのだ。

→ 私にとっては、週末の農作業です。まだ、「修業」とまでは言えませんが。

360 スナイダーは、「場所」の詩人でもある。しかし、その「場所」は単なる物理的空間ではない。「いま、ここ、わたし」の場所なのだ。臨済の言う「即今目前聴法底」(いま、私の目の前で耳を傾けているお前さん自身)はどうなのか、という問いである。だから、場所はただの客観でもなく、ただの主観でもない。それは、野性と同じで、「主体にも客体にもならない」(p329)とスナイダーは言う。

 最後は、スナイダー自身の言葉です。

10 私自身の仏教は、だいぶ古い形のものとなって、アニミズムやシャーマニズムにきわめて近くなりました。アメリカ先住民の宗教は、一種に民間神道と言えます。生きとし生けるものへの畏敬の念は、神道の考えから明らかに読み取れる部分です。もっと視野を広げると、さらに別の組織体が見えてきます。植物や動物の共同体、つまり「野生システム」として知られているものです...究極的には言葉自体も一種の「野性システム」であり、詩も同じ秩序をもつと私は信じています。

→ 限りなく、『アボリジニの世界』(や縄文時代の日本、アメリカ先住民たちが元気だったアメリカ)に近づいています。

2010年12月14日火曜日

『野性の実践』 2

351 近代西欧合理主義には、自我主義とならぶもう一つの特質、人間中心主義がある。つまり、人間は自然界の司会者という考え方である。これは近代西欧の自然観に明快に表れており、キリスト教的世界観から大きな影響を受けている。
 ・・・それが医学の進歩、機械文明、物質文明の発展、そして人類の幸福に貢献してきたのは確かである。しかし同時に、そうした生き方が世界各地に自然破壊をもたらし、地球の環境がいちじるしく悪化したのも事実だ。

352 デカルトの物心二元論は、心と物、見るものと見られるものを分離する。そして切り離したものを対象化する。森羅万象の有機的関連を断ち切り、部分とみなし、観察の対象とする科学的態度である。ただし、部分に注目しすぎると、全体を見失う。

 東洋的智慧の一つとして、「縁起」の思想があげられるだろう。つまり「相依相関」「関わり」の視点からものを見る態度である。

→ これは、近代西欧合理主義とは対極にある視点で、スナイダーはしっかり『華厳経』を読み込んでいたそうです。

 次に、スナイダーの特質である「視点」に触れておきたい。

 スナイダーの思想、ライフスタイルを貫く二極の視点がある。ユニヴァーサリティ(普遍性)とインディヴィデュアリティ(個別性)である。これは、スナイダーの先天的な資質に、修業で得た禅の智慧が裏打ちしたものだろう。

356 スナイダーは、「離れてみる眼」(巨視的視点・ユニヴァーサリティ)と「近づいてよくみる眼」(微視的視点・インディヴィデュアリティ)という2つの眼をもつ。そして、何より肝心なのは...一方的見方を排して、もう一つの立場から見ようとする。視点を一方に固定せず、二極のあいだを自由自在に動かすのだ。

 「視点を変えて、前景と背景とを逆にし、条件と生命を支えるものの側から見るならば、他の何百という目を通して、無数の相互関係が見えてくる」(p202)

→ ここで、訳者の重松宗育さんは、立花隆著の『宇宙からの帰還』を紹介し、「いつか宇宙飛行が禅の修業にとって代わる時代が来るかもしれない」と書いています。

2010年12月13日月曜日

『野性の実践』 1

 というわけで、昨日紹介した2冊の本は両方とも自分なりの「読み」を作り出していかないといけないわけです。しかし、その宿題が終わるまで、両方とも紹介できないというのではもったいないので、ゲーリー・スナイダーの本については、訳者が書いてくれていることを中心に紹介します。(長くなるので、3つに分けます。)


 まず、タイトルについて、

348 スナイダー自身が序文や本文中で説明しているとおり、「野性の修業」という訳が真意に近い。しかし、あえてそれを『野性の実践』としたのは、修行という言葉を古くさく感ずる読者がいるのを懸念したからにすぎない。

→ スナイダー自身の説明では、「実践の意味は、ものごとをよく見る努力、そして自己自身や現実に存在する世界にうまく適応するためのたゆみない努力、と解釈できます」(p11)になります。

349 スライダーにとって、野性とは「仏法」(ダルマ)に近いものだ。
  スナイダーは、早くから、近代西欧合理主義に対して強い違和感を抱いていた一人である。彼が疑問を感じたのは、その自我主義と人間中心主義に対してだろう。
  人間の理性を信頼するかぎり、「個」は確実な基本単位として重要な意味をもつ。そして、その個にそなわる意識は自我と呼ばれる。しかし問題は、その「自我」の中身である。

350 自我の情欲は自己中心性をもつ。それが自己主張を始めると、自我と自我との衝突に至る。それは個人と個人の対立から、団体と団体、民族と民族、国家と国家の衝突へとつながり、最終的には不幸な戦争へとエスカレートする。悲惨な歴史的事実が数々の証拠を残している通りだ。

  スナイダーはいう。「自我が占める領域はごくわずかなものだ。それは精神の入り口近くにあって出入りを監視する小さな部屋」(p41)にすぎないと。こうした自我の限界を知っていたからこそ、スナイダーは、近代西欧合理主義を超える新しい生き方を模索してきたのだ。その手掛かりは、表面的な近代的自我ではなく、その深層、無意識の領域にひそむ主体性にある。そして、その「無我」の主体性こそ本来の自己であり、真の主体だとスナイダーは気づいていた。だからこそ、禅の修業に長い時間をかけたのだ。

 「危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元では決してなく、もっと本質的な、精神と魂の次元なのだ。人間たちは、自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ」(p323)

 それゆえ、この精神と魂の危機を克服するための実践的な原理を、スナイダーは指し示す。「コスモポリタン的な多元主義と地域に深く根ざした意識、この二つの調和こそ重要である」(p84)と。これは、禅の精神を代弁するあの有名な言葉、”Think globally, Act locally”(思いは地球に、行いは地域に)を思い出させる。

→ 私自身、”Think globally, Act locally”が禅の精神を代弁している言葉とはまったく知らずに、80年代から90年代にかけては、そのことを実現するための一つの方法を提供するための活動をしていました。『地域からの国際化』という本の翻訳や国際理解教育センターを通した情報提供活動です。
 でも、スナイダーに言わせると、「『野性の実践』は、わくわくする野性体験でも、環境保護運動の努力でもなく、エコロジーの理論でも、役立つ行動主義でもなく、それ以上のものに携わることを示唆しています。自我の奥底に自分自身を自覚する方法を見つける努力をなすべきなのです」(p11)ということになります。

351 これは、「人間の本来の場所に帰ってゆくという感覚」(p280)なのだ。地域の「サンガ」の活動を大切にするライフスタイルである。

→ この辺は、まるで『アボリジニの世界』の中で書かれている内容とオーバーラップします。

2010年12月12日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 

 今日は、2冊紹介します。
 一冊は、ロバート・ローラー著の『アボリジニの世界』。
 もう一冊は、ゲーリー・スナイダー著の『野性の実践』。
 前者は、「夢」で引っかかった本でした。サブタイトルに、「ドリームタイムと始まりの日の声」とありましたから。
 でも、どうもこの2冊をほぼ同時に、『ギヴァー』のことを念頭におきつつ読んだことは何かの関連を感じずにはおれません。

 アボリジニは、オーストラリアの原住民のことです。
 世界最古の生活様式をもった民と言われています。
 何と言っても、定住せず、持ち物も最小限、近代人から見れば、異様な/信じられない生活スタイルを何万年も持続した民です。創世記(ドリームタイム)の語りと日常がかなり密接につながる形で生きてきた民です。“不幸にも”ヨーロッパ人が200年以上前に来て以来、殺戮と同化が図られ、伝統的な生活スタイルで生きているアボリジニは皆無でしょうが。

 500ページ以上の厚い本であることも理由の一つかもしれませんが、いつものように鍵となる文章をピックアップして紹介するには私の頭の中が整理できていません。(それは、私が『ギヴァー』との関連を整理しかねている、ということかもしれません。あらゆることがつながっているようにも思えるし、もっとしっかり選び抜く必要性も感じるし...)

 2冊目のゲーリー・スナイダーの本は、いまとなってはどういう経緯で手にしたのかは覚えていません。80年代の前半から、彼の名前は知っていました。アメリカ・ポートランド(オレゴン州)在住の私の友人でエコロジー運動というかエコライフを普及する活動をしていた人が、スナイダーの詩や考え方や生き方を活動の支柱のように位置づけていたからです。★
 スナイダーは、1956年から1968年までは、日本に生活の拠点(禅の修業を中心に、詩を書くことなど)をおいていた人です。
 こちらの本も、訳者が本の最後のページ(363ページ)で「本書はかなり難解だから、通常のように最初から頁を追って読むと、途中で挫折の恐れがなくもない」と書いていたことを実践してしまいました。

★ バイオ・リージョナリズム(Bio-region=生態地域)やウォーターシェッド(Watershed=流域・分水界)などがキーワードでした。両方とも、一つの流域(川や海?)を生活圏として、それを大切にする、ということだと思います。

2010年12月11日土曜日

明日からちがったあなたにであえるかも!!?

 協力者でもある横浜の渡邉美江さんが、以下の紹介文を送ってくれました。


読んだ後、暖かい気持ちでいっぱいになり、最後の情景が頭からはなれませんでした…

この本を読むうちに、どんどんひきこまれ、いつのまにか主人公ジョナスとともに、考え、悩み、冒険に踏み出していくような気もちになっていきます。

ジャンルとしては、近未来のSF小説ですが、毎日繰り返され、自分にとって当たり前に思っている世界を外から見たら?そんなことを考えさせてくれます。この本にあるようなことは、いつでも、どこの世界でも起こっていることかもしれません。

たくさんの人が、『ギヴァー』を読んで語り合うことが、これからの豊かで平和な未来をつくることにつながると思います。

2010年12月10日金曜日

『ギヴァー』と関連のある映画

 NHKのラジオビタミンの「暮らしスパイス」(2010/12/03 放送)で、映画エッセイストの永千絵さんが紹介していた映画についての紹介です。

 紹介された映画名は、「君を想って海をゆく」。クルド人★の青年が歩いてフランスまで来、海の向こうのイギリスまで泳いで渡ろうとする映画。

 永さんは、この映画を見て、「心の片隅に引っかかると、これからの人生違うんじゃないか。私も変わるかもしれない。みんなも変われるかもしれないというかすかな期待が持てる映画」だと思ったそうです。

 さらに、「楽しい映画もいいけど、“これは何だ!”と感じる映画。感じた後でゆっくり考えればいい」と言っていました。


 『ギヴァー』は、私にとってまさにそういう本です。

 感じたのは、最初に出会った2007年の3月6日でした。なんとか3年近くかけて再刊し、そして今年は丸々1年かけて考え続けています。その本が投げかけてくれるいろいろなことについて。

★★ まだ私が見えていない部分で、皆さんが気づいていることを、ぜひ教えてください。★★

 なお、映画「君を想って海をゆく」は12月18日から上映が始まるそうです。


★ クルド人は、国を持たない最大の民族と言われています。イラク、イラン、トルコを中心に住んでいます。

2010年12月9日木曜日

『ギヴァー』と関連のあるビデオ

 以下は、たまたま英文の『ギヴァー』の関連サイトで見つけたビデオです。実際(1967年)にアメリカのある高校で行われたことをベースに作られたものだそうです。タイトルは、「The Wave」。

パート1: http://www.youtube.com/watch?v=BVRXXbU-z7U
パート2: http://www.youtube.com/watch?v=GXi71XBdh1o&feature=related


 これを見ていて「青い目、茶色い目」を思い出しました。

http://video.yahoo.com/watch/1412566/4857610


 そういえば、昨日は「開戦記念日」でした。メディアでは、ほとんど扱われなくなって久しいです。 日本では、8月6日、9日、15日が事のほか大事にされ続けています。もちろん、それ自体が大切なことであることは否定しませんが、それらはすべてが始まってしまったことの結果です。その始まった原因の方を考えない限り、「2度と繰り返しません」を何度言ったところで、「再び繰り返す」ことは確実のような気がします。

 The Waveのビデオにあったように、その方が楽ですから。自分を持たない方が楽ですから。

 ジョナスのコミュニティのように職業から、結婚相手から、家族のメンバーまですべて決めてくれた方が楽ですから。


 ちなみに、12月4日~10日は、人権週間だというのはご存知でしたか?

 政府レベルの取り組みは、http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.htmlで見られます。各都道府県や区市町村レベルでもいろいろ取り組んでいるようではありますが、このチラシや扱うテーマを見るだけでも、「違うな」「ズレテイル」と思ってしまう人は少なくないのではないかと思います。(もちろん、そもそもチラシや内容まで見る人が圧倒的に少ないのが現状だとは思いますが。) いったい、このための公費はどれくらい使われているんでしょうか?? より効果的な方法は多様にあるにも関わらず......

2010年12月8日水曜日

『夢に迷う脳』 5

 今回のテーマは、夢はカオス(論理立てできるものではない!)であり、脳の健康にも、身体の健康にも一番いいのは十分な睡眠をとる、ということです。

313 非意識的な心は自分の内面を見つめるだけでは永久に知るすべがないのだ。この原則は、フロイト一派の浅はかさをいっそう浮き彫りにする。フロイトは「無意識」が内省によって観察されえると信じていた。自由連想法に熟達した精神分析家の助力があれば、人は奇妙な夢の起源を、抑圧された本能的な欲望にさかのぼることができるとされた。今では夢が単に脳の化学作用から生じるとわかっているが、フロイトは夢に取って付けたような説明(そのほとんどは性的なもの)を与えて、野蛮なよろいを着せてしまったのである。フロイトは、夢を「無意識へ至る王道」だと言い切り、実際に夢に関与するもののうち、意識上に現れるのはごくわずかな部分でしかないという事実を認識し損ねてしまった。

→ かなり強いフロイト批判ですね。

317 もし聖書の宇宙論、ニュートン力学、フロイトによる精神分析 ~ これらはすべて厳格な決定論の形式を保持しているが ~ を放棄するとしたら、その後釜に何を据えればよいのだろうか? ひとことで答えるなら、創造性と自由はどちらも無秩序性に依存している、ということになる。とりわけ無秩序は、脳機能の本質的な側面である。

319 夢のどの部分が決定論的であって、どの部分がそうでないのだろう? 唯一の答えはカオスである。複雑系 ~ 心脳はまさに複雑系である ~ はすべて、カオス(予測不可能性)と自己組織化(秩序)の狭間の、不断かつ劇的な相互作用によって特徴づけられる。

322 心脳パラダイムによって、心理学、精神分析、神経生物学の統合が進む。

328 心脳が自己治癒能力を持っており、心身の状態を変えることで治癒能力を操れるということだ。

330 健康の実践としては、睡眠がもっとも基本的だ。健康促進のためにまずできることは、自分がどれだけの睡眠を必要としているかを見定め、実行することである。心脳は常に自らを調整すべく変化する。あなたにできる最善策は、心脳の自己調整機能を働かせること。実際に睡眠がどれほど必要なのか正確に見きわめ、その分ぐっすり寝ることだ。

352 睡眠の話を要約すると、結局は脳がいちばんよくわかっているのだ。何が必要で、それはどうすれば得られるのか、そしてその要求が満たされたらどうすればいいのか、脳は知っているのである。脳の、脳による、脳のための睡眠なのだ。同様に睡眠は身体にもよい。

411 薬はできるだけ使わない!!

2010年12月7日火曜日

『夢に迷う脳』 4

 今回は、情動(感情)の大切さについてです。

216 ヒトは生まれる前にレム睡眠に似た状態の中でかなりの時間をすごすものである。最新の技術を用いれば、わずか20週齢の胎児でさえ、その眼球運動を観察することができる。

219 赤ん坊は生まれながらに情動を示すさまざまなレパートリーを持ち合わせている。こういった行為は生まれるよりもかなり前から、レム睡眠の間、自己活性化した脳によってプログラムされているのだ。

220 夢を見るからこそ学習できる

227 なぜ、科学が情動と向かい合うことが重要なのか? それは、感情が思考に影響を与えるだけでなく、知性とは独立した世界を知る非常に大事な手段だからだ。

 (この後の部分で、夢にまつわるフロイト批判が書かれている。)

233 感情は自分だけに向けた信号ではなく、私たちの心脳状態を他人に伝えるメッセージであり、メッセージは行動としてコード化されているのである。情動は、近づきやすさ、親しみやすさ、愛想のよさを、言葉よりもしばしばはっきりと直接的に伝える。親しい関係になると、情動を抑制するものはなくなる。情動こそ親しい人間関係を築く要素なのだ。

 情動の種類:怒り、不安‐恐怖、恥じらい‐罪の意識、悲しさ、喜び‐高揚感、愛情‐性愛、驚きなど。

238 情動はどこからやって来るか? 情動はあらゆる活性化した心脳状態にとって欠くことのできない、独立した部分なのだ。夢の情動をもっと慎重に調べていけば、人間性の基盤となる側面への理解は一段と深まるだろう。

243 情動は何の役に立つのか? もしダーウィンが『種の起源』(1859年)の著者として名を馳せていなければ、『人間及び動物の表情』(1872年)と題された別の著書で認知され評価されたことだろう。情動は動物が他の動物に心脳状態を正確に伝える大切な信号だということを、ダーウィンははっきりと見抜いていた。

246 生物学におけるダーウィン進化論は、その後、大きく2つの道へと分かれていった。ひとつは分子遺伝学。もうひとつは、動物行動学だ。

→ 学ぶ時、情動・感情は無視されています。あたかも関係ないものが如く。でも、実際は大きく影響しています。そのことがわかっているなら、うまく活用した方がはるかに効果的な学びが得られます。
  なお、科学も情動を遠ざけてきたようです(226ページ)。

2010年12月6日月曜日

『夢に迷う脳』 3

 今回の主なテーマは、記憶と夢との関係についてです。

158 1960年代、精神分析を信奉する人たちの多くは、生とは、あらかじめ心の中に書き込まれたシナリオを演じることだと信じていた。しかし今日となっては、ほとんどの精神分析学者は次のように主張するだろう。私たちは、生を持続していく中で新たな場面に対処するために過去の場面を引き出しながら、自分自身でシナリオを書いているのだ、と。ここで参照されるこの場面こそ、私たちの記憶そのものである。フロイト自身が主張したように、重要なのは、実際に何が起こったかではなく、起こったことのうち何を覚えているか、なのだ。

→ 意識的に(あるいは、無意識も含めて?)自分が覚えている(=記憶している)ことこそが重要!!

171 記憶それ自体を観察することはできない。記憶は一連の電気パターンとして脳の中に蓄えられる。想起とは、ひとつの行為 ~ つまりその一連の電気パターンを活性化することである。

 記憶は潜在意億と顕在記憶とに分けられる。潜在記憶は認識のみに関係している。顕在記憶は活発な想起と関係している。ほとんどすべての記憶は、常に完全な無意識状態にある。記憶とはほとんど無意識な行為である。この、いわゆる「手続き記憶」というものは、運動パターンのように比較的に自動的なのである。

 ならば記憶を思い起こせない時、それらはいったいどこに蓄えられるのだろうか? 記憶は脳全体に広く分散した神経活動のパターンとして表れるということがわかっている。これを裏付ける例として、たとえ脳の特定の部位に障害がおきても、ヒトや動物の手続き記憶までが消えてしまうことはない。

172 記憶を分散して蓄えることにかんして、もっと積極的な理由がある。情報をできる限り多くの文脈や技術と関連づけることができるのだ。どの文脈が将来的に必要となるかはいつも明らかとは言えないから、新しい情報をできる限り関連のある文脈と結びつけることが有益なのだ。

→ 人が記憶する仕組みは、図書館やコンピュータのファイリングとは根本的に異なるシステム。

177 夢の記憶機能とはいったいどんな点であろうか? 私たちは記憶を強化しようとして夢を見ているのだろうか? それとも忘れるために見るものなのか?

 まだ証明には至っていないものの、心脳がノンレム睡眠とレム睡眠の2つの状態を行き来する理由のひとつは、記憶を強化し再編成することだと私は考えている。

178 記憶を長期的に符号化するために睡眠を必要とする、という説はまだ確定的ではない。とはいえ、このことを支持する証拠は数多くある。私たちは、眠ることによって、夢を見ながら一日の記憶を再活性化する。その時、心脳状態に変化が生じる。夢は記憶を短期記憶から長期記憶へと変化させる。これはおそらく、睡眠中に偏在するアセチルコリンによるものだろう。

180 夢には、記憶の「固定」「分散」「超連合」「手続き化」の機能を強化する特徴がある。

2010年12月5日日曜日

『夢に迷う脳』 2

135 見当識 ~ 「自分はどこにいるのか?」「自分は何者か?」 ~ は、極めてもろいもの ← これがアルツハイマーや痴呆症の原因になっている。

136 心と身体は、社会とは完全に異なる時計によって管理されているのだ。適切な方向づけを行うためには、外的な社会時間と内的な脳時間とを、はっきり区別する必要性がある。社会時間とはきわめて専制的とも言える。一方、内的な時間である脳時間は生得的なものだ。気分、やる気、創意なども、内的な時計が時間を計っているのである。

→ この2つの時間をしっかりわきまえることは、とても大切なことだと思いました。

 心脳が場所、時間、行為を表現することは、心脳がどのような状態にあるかによって、完全に左右される。ドラマの筋立てのように、この3つの要素が一致した状態を維持するためには、ドラマの演技よりもずっと、繊細な技術が必要だ。心脳は見当識を供えるよう私たちに働きかけるばかりか、意識やふるまいのどんな些細な局面にも、もっと重要な[生存に不可欠の]奥行きを与えているのである。私たちは場所と時間を正しく把握せずして何事もはじめることはできないのである。

141 フロイトの主張は正しかった。要するに夢は、本能(性や攻撃性)、感情(恐れや怒り、愛情)、生活(場所や、人物、時間)について、何か重要なことを物語っているのである。覚醒、睡眠、夢の研究を通じて、もっとも基本的な機能 ~ 見当識 ~ を使えば、生命に重要なこうしたデータが、どのようにプログラムされ、統合され、維持されるかという理論を導き出せるはずである。

147 フロイトの間違い ~ フロイトは異常な夢ほど意味があると考えていたので、夢を理解するには自由連想による解釈が必須だとした。結果フロイトは、夢のデータを誤った方法で扱うことになってしまった。私たちが掲げる新しい理論では、顕在内容(フロイトは軽視し、私たちは価値があると見るもの)と潜在内容(フロイトは賛美し、私たちは雑音だと見るもの)を区別する必要はない。

148 夢のどんなところが、最も夢らしいといえるか? 夢の何がいちばん奇妙なのか? 不連続、不調和、不確実なところ...これらはみな見当識が混乱している時の特徴である。場所、人物、時間の設定に混乱が生じている。その理由とは、夢状態の心脳が、覚醒状態の心脳とは異なるからである。夢は器質的な精神疾患だ。

153 夢を見ている時、私たちは精神疾患者の心脳状態を体験しているわけである...夢を見るとは、心脳にやがて生じる老化や衰退という一種の精神錯乱を、前もって体験していることなのだ。

2010年12月4日土曜日

『夢に迷う脳』 1

 これも、『ギヴァー』の内容に関連した本とは言いがたいので、書名で紹介する形を取ります。サブタイトルは、「夜ごと心はどこへ行く?」です。書いた人は、J・アラン・ホブソンで、睡眠研究界の第一人者だそうです。
 読んでもわからないところが結構あり、飛ばし読みもありますが、ヒットしたところを抜書きしました。


22 脳と心を切り離して考えることはできない、私はそう確信している。頭蓋骨の中にある物体としての脳と、誰にも観察できない第五次元に自分を漂わせている霊妙な心に、違いなどない。脳と心は分かつことのできないユニットなのだ。

 脳と心はひとつであるという私の考えは、自分が主観的に経験する、あらゆる意識状態の性質が、脳の状態によって決定されている、という認識から生まれるものだ。脳内の神経細胞の間で何か特定の活動が起きているために、私は夢を見るのだ。そして、脳の活動がこれまた特殊な方法で突如として変化するため、私は目覚めるのである。そこで私はこのユニットを「心脳」と呼び、その主要な活動様態 ~ 夢を見たり目覚めたりすること ~ を「心脳状態」と呼ぼうと思う。

 この考えは論理的で問題がないように思えるにもかかわらず、科学と人文科学の双方で異端とされている。多くの科学者は、脳を生物学的な中枢処理装置と見なし、心の存在を否定している。そして多くの人文科学者は、心をある輝かしい実体 ~ それ自体で存在するもの、つまり、いかなる物理的存在をも超越した、自覚を持った精神 ~ であると記述する。このように、人間は心なき脳、または脳なき心として描かれ、その二つは相容れることはないと考えられている。脳は身体を操作する ~ つまり、脳は見ること、歩くこと、食べ物を消化することを可能にする。一方、心は思考や人格を操作する ~ つまり、周囲の状況は人を考え、感じ、判断を下すことを可能にしている、といったように。

→ 『ガリバー旅行記』を思い出してしまいました。ガリバーは自分が来たもとの場所に戻りたくて、アカデミーの先生たち(いまの大学の教授たち)に尋ねます。しかし、みんな自分の狭い専門領域にこだわるだけで、ガリバーのほしい情報を提供してくれる人は一人もいませんでした。「専門バカ」の弊害は、すでにスウィフトの時代からあったのですね。(ちなみに初版は1726年ですから。17世紀の後半~18世紀の初頭にはそういう風潮はすでに風刺に価する状態としてあったことが伺えます。)そして、300年経ったいまも見事なぐらいに引きずっているのですから、すごいことです。

35 心脳状態という概念を用いることの最大の利点は、覚醒、睡眠、夢という経験を包括的に扱えることだ。 → 111ページの図を参照

54 睡眠研究により、もっとも深い眠りについているような時でさえ、脳は休むことなく情報処理を行っていることがわかっている...脳の大方の神経細胞は昼でも夜でも、四六時中発火しているのである。

55 まだまだ理解しなければならないことが山ほどある。脳内にはおよそ1千億個もの神経細胞があり、神経細胞一つひとつは一万個の相手と接触し、それぞれ一秒間に100個の情報を送り出している。情報の総量を控えめに見積もっても一秒間に10の27乗ビット分のデータ量に達する。気がおかしくなりそうな値である。

→ 宇宙と脳は、似ているというか同じだと言った人がいたと思いますが、まさにその通りなんですね。

56 睡眠の機能のひとつは、心脳が故障する可能性を減じていることにあるのではないか、ということだ。心脳も、ばね式機械と同じように故障がつきものだからだ。

→ ばね式機械と同じなのかどうかは疑問ですが、「故障はつきもの」というのは納得いく気がします。それを起こさないためにも睡眠がとても大切なんですね。

  「決定論」は、心脳とは葛藤のシナリオを必然的に再現するように運命づけられたものだとする、フロイトの誤った予測を招いてしまった。心脳パラダイムは決定論の本質は認めるものの、心脳は非常にやっかいなシステムのため、単純に繰り返すことなどできないと主張するものだ。心脳は絶えず新しい状態へ変化している。

57 私たちの脳と履歴は刻一刻と変化するため、まったく同じ情報を持った状態になることは二度とない。良かれ悪かれ、私たちは表象の内部貯蔵(これを記憶と呼んでもよい)を絶えず更新していく必要があるのだ。

→脳の状態は刻一刻と絶えず新しい状態に変化している、という認識はとても大切な気がします。固定化してしまうことによる弊害が、確実に教育の場で起こっていると思いますし、他の領域でも起こっていると思います。

 それをどのように処理しているのだろうか? 覚醒から睡眠、そして夢へと心脳が絶え間なく繰り返すことで処理しているのである。そこには情報を収集する面と、情報を処理する面がある。この情報サイクルは呼吸と同じように無意識に行われる。私たちはこのことをいちいち意識に留めておく必要はない。ただ起こっているのである。 →111の図

 精神医学は深刻な危機に陥っている。精神分析とは明らかに不首尾に終わった万能薬であり、また、薬物頼みの精神医学も明らかに万能薬のなり損ねである。そう、私たちは失敗に向かって突き進んでしまっている。 → いまこそ、精神分析と薬理学と脳の認識と科学の統合が求められている、とホブソン氏は強調しています。

111 心脳空間プロット = AIMモデル


 → この図は、この本の中の一つのハイライトと言えるかもしれません。
 右上の覚醒状態と右下のレム睡眠の間を行ったりきたりするというモデルです。詳しくは、ぜひ本文をご覧ください。

2010年12月3日金曜日

『やさしくわかる夢分析』

 ここしばらく夢をテーマにした本を読んでいるので、気分はジョナスの夢の中です。と同時に、自分の夢についても考える機会になっています。

 前回は、80ページの図だけしか紹介しなかった『やさしくわかる夢分析』(山根はるみ著)でヒットした部分を、今日は紹介します。(秋山さと子著の『心って なに?』もそうでしたが、『ギヴァー』と関連のある本とは位置づけていません。夢から発展した私のブック・プロジェクトのメモ代わりに書き出しているという感じです。しかし、完全に関係がないとも言い切れない部分があるので、このブログに書いています。またこれらだけを読んで感じたことや考えたことと、アラン・ホブソンなどの夢を脳科学の視点で見ている人たちやロバート・ローラーの『アボリジニの世界』などを読んだ後で受ける印象はかなり違ったものになることも書き添えておきます。)


11 将来の夢も、睡眠中の夢も、共通なのは「イメージ」です。イメージが大切にされることで、何か新しい現実が生み出されます。ここに同じ字を当てる共通性があるのかもしれません。夢の構成要素はイメージであり、イメージには不思議な力が備わっているといえるでしょう。

→ 前向きでとてもいいです! 最近流行っているイメージ・トレーニングもこの範疇に入るのでしょう。

16 夢は生きていて、私たちの心のあり方に伴ってたゆまず変化をとげています。
 ユングによれば、私たちが生きていくうえで、夢は必要不可欠な存在です。
 意識することすらまれですが、私たちは“人工”ではなく“自然そのもの”です。だから生物的生命体として、日の出とともに起きて、暗くなったら寝る、あるいは食べたいときに食べるという野生動物と同じライフスタイルが本来の自然の姿なのです。
 ところが文明を築き、脈々と文化や伝統を受け継ぎながら私たちは、いつの間にか時間に合わせて暮らすようになりました。目覚ましがけたたましく響けば、起きたくなくても起きて仕事をし、昼時になればお腹がすいたような気にすらなります。外を歩けば信号や横断歩道の表示に従って歩かざるを得ず、「この道路は本来は誰のものなのか?」と叫ぶことすら忘れてしまったようです。
 こうして、自然に暮らすことができなくなってしまっている人間が、もっとも自然な状態に戻れるのが睡眠です。横になって身体を休め、自然を取り戻します。そして私たちは夢を見ることで、一日のがんじがらめにしばられた人工的思考方法から解放されて、何とかバランスをとっているというわけです。
 それが証拠に、夢の中での思考は、日常のものとはまったくかけ離れたものですね。

→ 日常のものとはまったくかけ離れているかどうかは疑問がないではありませんが、本来のあり方にいちばん戻っている状態であることは確かな気がします。そして、その部分も日中の「がんじがらめにしばられた人工的思考法」の影響で大分おかしくなりつつあるという感じです。両者はつながっていると思います。

20 ユングは言っています。「夢を見させられている。だから問いかけなさい。『この夢は意識のあり方の何を補おうとしているのか』」と。(さらには、「夢は私たちついて何かを語っていて、自分自身を見つめるための手がかりであり、そして内的に成長するためにあるのだ」と ~ 43ページ)こうした経験から、夢には贈り主がいるのだと、今となっては確信を持っていうことができます。そして、どんな夢を贈り届けてくれるのかについては、私たちの意識のあり方に左右されています。

→ この辺については、後で紹介しようと思っているアラン・ホブソンの説などとは大分違っています。

22 意識と無意識
 現実の生活を送るに当たって、欠かせないのが意識です。意識があればこそ、人間はいつも真なるもの、善なるもの、美なるものを求めて生きているのであり、社会の調和が保たれているわけです。
 しかし、人間そのものはまったく真である、善である、また美であるとはいえません。しかも諸行無常、人間を取り巻いている現実はいつも流動的です。そうした中にあって、その人の意識的な態度とは相容れないもの、知的には容認しがたいものについては、そのときの感情体験とともに無意識下に落とし込まれます。
 この個人の意識としては認めることのできない、無意識に閉じ込められた心の内容物を、臨床心理学者ユングは「個人的無意識」と呼びました。無意識に抑圧されてしまった内容物がコンプレックスの正体であり、夢では「影」となって他人の姿で表されるわけです。

→ この辺に関しても、ユング移行の脳研究(科学)の解明によって新たに提示されているアラン・ホブソンらの主張が気になってしまいます。
 ひとつの考え方を受け入れてしまった方が楽なのかもしれませんが、複眼思考でいきたいと私は思います。自分がよりよい選択を下せるためにも。

30 夢を記録することの難しさ
 書き取らないと、夢は雲散霧消してしまうのです。
 記憶ならば、何か手がかりがあれば、そこからたどっていくことで目的のことが泥縄式に引っ張り出せます。記憶がこのような仕組みを持つのは、記憶が意識の産物であり、意識は時間や空間でつながっていて“直線的”だからです。
 これに対して夢の世界は、時間も空間もない“アナログの世界”です。
 夢の世界は四方八方へどんどん広がっていきます。そうした意味で、夢を書くのは、なかなか骨の折れる作業となります。記憶のようなストントした一方向での完結ではないのですから、無理もありません。

→ この点は、私自身が常日頃感じていたことと同じですから書き出しましたが、どうも人によっては結構覚えていて、容易に書き出すことができる人もいるようです。慣れというか練習の部分もあるようで...

204 ユングの夢の公式
① 夢は、意識的状況に対する無意識の反応を示す
② 夢は、意識と無意識の葛藤から生じた状況を示す
③ 夢は、意識的態度の変容を目指す無意識の傾向を表す
④ 夢は、上記以外の意識との関係ではなくて、まったくの無意識の過程を示す

→ このユングの名詞形の「夢(Dream)」と異なり、いま読んでいるアラン・ホブソンの『夢に迷う脳』やロバート・ローラーの『アボリジニの世界』は、現在進行形の夢見(Dreaming)がテーマなんです。前者は脳研究の最先端の部分を紹介してくれている本であり、後者は(現代人には想像もできない)人類最古の生き方を貫いていた人たちのあり方を紹介している本です。

2010年12月2日木曜日

『心って なに?』 2

『心って なに?』 の続きです。

23 自分の秘密の部屋を持つこと、そして、その大切な心の部屋を抱えて、自分の考えと判断で生きること、それが2本の足で大地をふみしめて生きる、自立した人間のあり方なのだと思います。だから自分の秘密を持つことを恐れないでください。それはあなたの心なのですから。そして、いつもその心をふり返って、自分を失わないようにしてください。
 大人になるということは、ただ正直に、いつもあけっぱなしで裸のまま生きることではありません。大人は嘘つきで、適当に妥協して生きているようですが、それは自分と他人の区別を知っているからです。
 しかし、もう一度、ただペルソナだけの心のない大人にはならないでくださいね。

→ 秋山さんも再確認してくれていますが、仮面の部分を本当の自分と思い込んでしまうと、いろいろな悲劇を生み出すわけでしょうね。

27 男性が心の奥に、自分の魂のようなアニマのイメージを秘めているように、女性もまた、心の奥の暗い無意識の世界にとり残された男性のイメージを持っています。それがアニムスです。アニマという言葉は、魂、風、息吹などを意味するラテン語ですが、アニムスはその男性形です。
 アニマは普通、男性には欠けているやさしさや愛の心をもたらしますが、アニムスはその反対に、女性に決断力や勇気を与えるのです。(以上のようなプラス面だけでなく、マイナス面も同時に兼ね備えているようです。たとえば、アニマには気の弱さ、アニムスには疑い深さや横暴さなどが含まれます。物事には、すべてプラス面とマイナス面の両面があるのでしょう!)そして、男性も女性も、それぞれのアニマ、アニムスに導かれて、より完成した自分自身に近づきます。

33 私たちが自分の心を知り、人格のすべてを生かして毎日を送るためには、これらアニマ、アニムスを無意識の世界からひき出して、明るい意識のもとでよく見つめ、その性質や役割を知らなければなりません。そうして初めて、人はなぜ生きているのか、生きがいとはなんなのか知ることができるでしょう。そして愛の神秘に触れることができるでしょう。
 心の中に住む異性を大切にしてください。そして、愛とよろこびに満ちた人生を送ってください。

→ 「心の中に住む異性」という捉え方は、私にはピンときません。多様性や異なる視点を大切にするというなら賛成ですが。

45 人はよく心にもないことを言ったり、したりしています。自分の知らないところで、何かが起こっているからです。私たちがふつう心とよんでいるものは、全体の心の動きのほんの一部ではないでしょうか。
 ユングは、自分ではっきりわかっているところを意識の領域とよび、その中心にはエゴ(自我)があって、わかっている分だけをコントロールし、自由な意志によって、ものごとを選択したり、決定するものと考えました。
 自分のうちの無意識の世界に住み、エゴの意志を超えて働きかけてくるもう一人の自分。ユングはこれをセルフ(自己)とよびました。セルフは、意識も無意識も含む心全体であり、その全体を司る中心であり、しかも心の外と内との2つの領域のバランスをはかる役割をもつものです。

47 セルフは、ふだんは無意識の中に隠れていて、見ることも感じることもできませんが、意識の世界と、夢となってあらわれる無意識の世界とのバランスをとり、人間に生命力を与え、秩序ある生活に導く役割を持っています。

→ これまでに登場したシャドウ(影)、ペルソナ、アニマ・アニムス、意識と無意識なども含めて、この辺の関係をわかりやすく図化すると、『やさしくわかる夢分析』(山根はるみ著)の80ページ(=以下)の図になります。


 人間はその生涯の中で、しだいに心の動きを明確に知るようになり、中心核のセルフに近づこうとするのです。
 仏教では、この心全体の秩序を悟った人を如来とよびます。如来という言葉は、ものごとがかくの如く来たり、かくの如く去る、という原理を知る人のことを言うのです。

→ この最後のところ、なんかわかったようで、わからない部分が残ります。いっこうに、自分がセルフにも、悟りにも近づいていないからかもしれません。

2010年12月1日水曜日

『心って なに?』 1

 『ギヴァー』と関連のある本と位置づけられるのかどうかは定かでありません。
 タイトルは、『心って なに?』(秋山さと子著、ほるぷ出版)です。

 ちょっと夢とは関係のないタイトルのようですが、夢についてたくさん書いている人のわかりやすい本(絵本仕立て)だったこともあり、最初に読んでみました。

 長いので、2つに分けて紹介します。


5 シャドウ ~ 自分になれなかった自分
 夢の中にでてくる...あなたにとってこわくていやな連中を、ユング心理学では、シャドウ(影)とよんでいます。
 「なんだか自分が思うようにならない」「心の中にもやもやしたものがある」 それはきっと心の中の薄暗いところにひそんでいるシャドウ(怪獣たち)のせいではないでしょうか。

→ モーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』を思い出してしまいました。

7 誰でもいやなもの、嫌いなものについては考えたくないので、シャドウはいつも忘れられています。よくわからないことや、自分に都合の悪いものは、できるだけ意識の世界から追い出して、いつまでも忘れていられる無意識の領域に押しこもうとするのです。
 心の旅をすると、たいてい1番先に出合うのが、これら無意識の世界で、日の目も見ずにうごめいているお化けのようなシャドウたちです。(それらは、あなたがよく知らないもの、苦手なもの、不得意なものなどです。)

→ 夢の中には、そういうものも現れるとされているようです。

11 自分ではなかなか気がつかない、自分自身の欠点でもあるシャドウを知る手がかりの一つは、神話や昔話に親しむことです。
 シャドウの中には鬼のような敵ばかりではなく、自分を助けてくれる味方もいるのです。
 たとえば、桃太郎のお供をする犬や猿や雉は、まだ十分に発達していない桃太郎の心の働きが昔話の中で動物の姿をとってあらわれたものと考えることもできるでしょう。桃太郎はまわりのものをよく見分ける感覚は持っていましたが、これにやさしく暖かい感情をあらわす犬や、人間になるには毛が3本足りないけれど、どれでも動物の中では思考的な猿、そして、矢のように飛んで敵を偵察する直感を示す雉に助けられて、鬼ヶ島を征伐しました。犬も猿も雉も、それぞれこれから育つ心の働きで、桃太郎のシャドウであるといえるでしょう。

→ こういう解釈もあり得たんですね。 私がこれまでにおもしろいな~と思った桃太郎の解釈というか解読は、外山滋比古著の『「読み」の整理学』(ちくま文庫)のエピローグ「モモタロウ」解読(214~218ページ)でした。

15 大人になるということは、それぞれ違う環境に育ち、違う考えを持った人たちの間で暮らすことです。
 子供時代には、みんな一緒に楽しく遊べたのに、大人になるとそう簡単にはいきません。自分と他人の区別がますますはっきりしてくるからです。誰もが自分の考えを押し通そうとすれば、そこら中で他の人とぶつかります。そこで大人は社会を上手に動かすために、それぞれ仮面をかぶって生きているのです。
 ユングはこのような仮面をペルソナとよびました。いつも自分をむきだしにして自分を傷つけたくないし、また、他人も傷つけたくない。そんなときに人はペルソナをつけます。それは他人との距離のとり方です。

19 ペルソナは人生ドラマの小道具として仮面や衣装です。それは社会の中でうまく生きていくために必要なもので、役割が変わるたびにとりかえるものです。しかし、大切なのは、そのうしろにいるあなた自身の心であることを忘れないでください。

→ この辺、納得する部分もあるし、また全面的に賛成してしまうと、疲れるよな~、とも思います。仮面であるペルソナはたくさんあっても、心はぶれない方がいいということですね。

19 心の奥からまいあがる感情というものは、なかなか言葉ではいいあらわせません。筋をおって説明することもできません。
 夢はその気持ちを、ドラマの形にしてあらわします。悲劇や喜劇のように、涙や笑いを誘い出し、一口にはいえないような矛盾した心の内容を、ストーリーの形で感動をまきおこしながら伝えてくれるのです。
 夢は自分一人で、いろいろな役を演じるドラマです。自分が作者で脚本家、演出家で配役も自分で決めます。そしてしばしば自分が主役を演じ、他の自分の分身たちを相手にドラマを作りだします。そのうえ、それを自分で見るという観客の役割までする、自分の一人芝居です。そこで演じられる主題は、日常のちょっとした気持ちの行き違いからくる心の揺れから、壮大で神話的な雰囲気をもった古典演劇のようなものまであります。

→ この夢の捉え方、誰でもうなずける部分があるのではないでしょうか。

2010年11月28日日曜日

夢について

 『ギヴァー』の中でジョナスたちは毎朝、「夢の共有」(49ページ~)をしています。
 5月18日に紹介した『神話の力』の88~92ページを読んで(あるいは、ジュリア・キャメロンの『あなたも作家になろう』だったか、ナタリー・ゴールドバーグの『魂の文章術』だったかもしれません)、自分で見た夢を書き起こすという作業を何日かしたことがあるのですが、残念ながら続きませんでした。

 夢についての本を調べたところ、すごくたくさんあることを知りました。

 『夢を知るための109冊』とその続編の『夢を知るための116冊』では、それら(の一部?)が紹介されています。その中と、「夢」で検索した中から、おもしろそうなのを読み始めています。


 『夢を知るための109冊』の「まえがき」には、以下のように書いてありました。

 文明が発達し、文化的生活を享受できるようになり、飢餓がなくなった現代の日本で人々は本当の幸せを得たであろうか。機械化が進み、仕事が楽になった現在、昔夢見ていたこと、空を飛べ、早くひとりでに目的地に着け、勝手に洗濯ができ、ご飯が炊け、行きたい人は学校で学べ、夜も明るく、等々のことが現実になった。身の回りのことに人々の夢が少なくなった。夜が明るくなった分だけ、星に思いをはせることが少なくなった。仕事が楽になった分だけ、仕事を完成させた喜びが少なくなった。学校へ誰でもいけるようになった分だけ、学校へ行くことができなくなった子どもが増えた。夢がかなった分だけ、夢を失った。そして、不思議なことに夢を失った分だけ、本当の夢に関する関心が高まった。

→ ジョナスのコミュニティも、似たようなところがあるのかもしれないと思ってしまいました。

 夢に関する書物はここ数年うなぎのぼりに刊行されている。それだけ夢に対する人々の関心が高まっている証拠である。
 夢は昔から関心をもたれてきたのも確かである。昔の人々は夢と現実の区別を現代人ほど区別しなかった。子どもたちは夢と現実の区別を大人ほどつけないし、動物や玩具が人間と同じように世界に住んでいる。昔の人の方が現代人より子どもの素直さを持っていたのかもしれない。おとぎ話は昔は大人のための本であったのが、今では子どもの本である。これと反対にひと昔前は子どもの本であったマンガが今は大人も子どもも読んでいる。大人も子どもも夢の世界がどこかにないと現実が活き活きとしないのであろう。現実の変化に従って、夢の持ち方や夢の世界のあり方が変わるのかもしれない。

→ この最後の部分は、「言えているな~」と思いました。そして、ここでも私たちの現実とジョナスたちの現実は妙に似ているとも思いました。

2010年11月27日土曜日

詩「選ばなかった道」との共通性

ロバート・フロストの詩「The Road Not Taken」を見つけました。以下のような詩です。


The Road Not Taken


Two roads diverged in a yellow wood,

And sorry I could not travel both

And be one traveler, long I stood

And looked down one as far as I could

To where it bent in the undergrowth;



Then took the other, as just as fair,

And having perhaps the better claim,

Because it was grassy and wanted wear;

Though as for that the passing there

Had worn them really about the same,



And both that morning equally lay

In leaves no step had trodden black.

Oh, I kept the first for another day!

Yet knowing how way leads on to way,

I doubted if I should ever come back.



I shall be telling this with a sigh

Somewhere ages and ages hence:

Two roads diverged in a wood, and I-

I took the one less traveled by,

And that has made all the difference.

(Robert Frost, 1916)



この訳はいくつかネットで見つけましたが、以下のを掲載します。

http://pparanoiaa.blogspot.com/2005/11/robert-frost.html


選ばなかった道


森の中で道が二つに分かれていた

残念だが両方の道を進むわけにはいかない

旅をする私は、長い間そこにたたずみ

一方の道の先を見透かそうとしていた

その先は折れ、草むらの中に消えている



それから、もう一方の道を歩み始めた

一見同じようだがこちらの方がよさそうだ

なぜならこちらは草が生い茂り

誰かが通るのを待っていたから

本当は二つとも同じようなものだったけれど



あの朝、二つの道は同じように見えた

枯葉の上には足跡一つ見えなかった

あっちの道はまたの機会にしよう

でも、道が先へ先へとつながることを知る私は

再び同じ道に戻ってくることはないだろうと思っていた



いま深いため息と共に私はこれを告げる

ずっとずっと昔

森の中で道が二つに分かれていた。そして私は、、

私は人があまり通っていない道を選んだ

そのためにどんなに大きな違いができたことか。

                       ロバート・フロスト


この詩は人気があるようで、ビデオも、http://www.youtube.com/watch?v=vz34R1sTqkM やhttp://www.youtube.com/watch?v=w62ptBOsc7U&feature=relatedなど、たくさん作られています。

2010年11月24日水曜日

読者の感想

 出版社の新評論に送ってくれ、新刊案内(2010年11・12月号)に掲載されたものです。

 ふくしまFMの番組で知った。
 みどり書房桑野店の東野さん の紹介が素晴らしかった。
   そして読んだ結果、彼の紹介のコトバ「あなたの人生を変える一冊」に嘘はなかった。
 私はこれからも自分の心の命ずるままに生きようと思った。                               
                              (郡山市 菊地美一さん)

2010年11月23日火曜日

「ランキング」

 前回は、コミュニケーション力をアップするための方法として「大切な友だち」を紹介しましたが、今回は「ランキング」を紹介します。
 ランキングとは、複数の項目(文字や文章だけでなく、写真や絵でもOK)をランク付けすることです。

 たとえば、「私にとって大切なこと」をテーマにした場合、以下の9つの項目を用意したとします。

a. 自由
b. お金
c. 幸せな家庭生活           1
d. 平和な世界             2 2
e. 真の友情              3 3 3
f. 健康                     4 4
g. 楽しいこと                 5
h. 職業で成功すること
i. よき市民になること

① 各自でa~iの中から、一番大切なものを1に、次に大切なもの二つを2に、三番目に大切なものを三つ3に、四番目は4に二つ、そしてもっとも大切ではないものを5に一つ当てはめる形でダイヤモンド・ランキングをつくります。

② 二人一組で、二人が合意する「私たちにとって大切なこと」を順番に並べます。そのとき、“合意する”を強調します。

③ 二人組が二つか三ついっしょになって、四人ないし六人が“合意する”「私たちにとって大切なこと」を順番に並べます。その際、間違っても多数決では決めないように言います。

 テーマは、なんでも扱えます。

別にダイヤモンド型に並べる必要もありません。1~3でも、1~5に並べるのでもOKです。

 とにかくトコトン話し合って合意を得る体験をしてもらうことが目的です。

 その意味では、結果よりもプロセスの方に価値があるとも言えます。

 表7-3は、これを実際に体験した人たちに、終了後、合意を形成するために使ったこと(知識や技能や態度など)を出してもらった結果です。

   (表にカーソルをあわせて2回クリックすると大きな文字で見られます。)

 これだけのものが培われてしまうのですから、使わない手はないと思われませんか?

 なお、『会議の技法』には、これ以外にもたくさんの会議(コミュニケーション)をスムースにするためのアイディアや方法が満載です。ぜひ参考にしてください。

2010年11月18日木曜日

「大切な友だち」

 これまでにすでに何回か「言葉」そして「コミュニケーション」について扱ってきています。たとえば、4月15日4月25日、そして4月27日などです。

 コミュニケーションの欠乏は、現在、あらゆる組織の最大の課題といっても過言ではありません。それは、学校、教室、会社、家庭や政治の世界などはもちろんですが、国と国の間のコミュニケーションもまったくといっていいほどうまくいっていません。どこもあたかもうまく行っているかのごとく装う努力はそれなりにしていますが。

 『ギヴァー』の中でも、ジョナスたちは毎日、朝には「夢の共有」(49ページ~)、そして夜には「感情共有」(10ページ~)を課されています。でも、それをしたからといって互いの相互理解が進んでいるようには思えません。もちろん、ないよりはいいのかもしれませんが、本当にかける時間に値するだけの効果があるのかははなはだ疑問です。

 ここにも、私たちが家庭や学校や会社で日々抱えている問題を、そのまま移行してやっているかのように思えてしまいます。とにもかくにも、「形式」と「習慣」だけは守っているという意味で。


 今日はその形式や悪習を脱するための効果的な方法を紹介します。
 「大切な友だち」(Critical Friends)という方法です。
 私自身、彼これ15年ぐらい前にはじめて体験して、これまでに私が出した本のほとんどで紹介しているぐらいです。その流れは、次の通りです。

① 発表されたこと(聞いたこと)で不明確な点やよくわからない点をはっきりさせるための質問をする。
② いい点をできるだけ指摘する
③ もっとも価値が高いと思われる改善点を一つか二つ指摘するのではなく、質問の形で投げかける。
④ ①~③の中で自分が一番相手に伝えたいこと(相手に元気になってもらうために/場合によっては改善したり、実行してもらうために)を一つか二つ選んで、「ラブレター(=愛のこもったメッセージ)」を書く。

 この順番がとても重要であることに、気づいていただけると思います。
 ①~④は、いずれもよく聞かないとできないものばかりです。
 これまでの会話というかコミュニケーションの多くは、自分が話すほうに熱心で聞くことを軽視しすぎています。それを、意図的に聞くことを大事にしてやろうというのが、この方法なわけです。

 ①~④を順番に出すことは、発表してフィードバックを受ける側にとってはもちろん、「大切な友だち」としてわからない点やいい点や改善点等を提示する側にとっても、そしてその場にいる全員にとって(もちろん、発表者以外全員が「大切な友だち」になったほうがいいに越したことはありません!)学ぶことがたくさんあります。

 ぜひ会議の場などではもちろんのこと、会話やメールのやり取りなどでも、試してみてください。相互理解が深まるだけでなく、扱う内容も深まっていくはずです。

 その際は、誰かが発表したり、話し始める前に、①~④のステップをあらかじめ説明しないと、ちゃんと聞いてくれません。説明しても、なかなかいい点やいい質問ができない人がほとんどかもしれません。単に、そういう習慣をもっていないからです。でも、練習と思ってやってみてください。(小学生も、ちゃんとできます!)

2010年11月15日月曜日

アリューシャン・マジック

アラスカ沖のアリューシャン列島で夏に起こる現象を、テレビで見ました。
地元の漁師たちも見たことのある人はいないという幻の現象。

数万の鳥たち、ニシン、そして鯨たちがオキアミを食べる現象です。

鳥たちはオーストラリアのタスマニアから、鯨はメキシコのカリフォルニア半島沖や小笠原諸島から、そして現象が終わったころにおこぼれに預かりにやって来るアホウドリは伊豆諸島の鳥島から来るそうです。

それだけのオキアミが大発生するのは、アリューシャン列島が火山島であり、雪解けの水がミネラル豊富な土を削って海に流れ落ち、豊富な植物性プランクトンや動物性プランクトンが大発生するからだそうです。

数日前に紹介した『サルが木から落ちる』で紹介されていた熱帯林の中の「つながり合い」や「絆」とはスケールが違う、地球規模の「つながり合い」と「絆」を感じました。



 とは言っても、つながりや絆の規模が問題なのではないと思います。



 ジョナスが、最終章の雪の山に至る前に、自然の森に遭遇したのは、何か象徴的なことのような気がしています。

2010年11月13日土曜日

「生物多様性」について

 スーザン・クインランの『サルが木から落ちる』(さ・え・ら書房)を読みました。サブタイトルは、「熱帯林の生態学」です。

 人間には、なかなか理解できないような関係を熱帯林の植物と動物が築いていることが、この本で紹介されている10のストーリーからわかります。単に「植物と動物の関係」というよりは、「生き物たちがほかのたくさんの生き物たちとのつながりのなかで生きていることが理解できる」と言ったほうが正しいと思います。
 そのことも含めて、最近は「生物多様性」という言葉で表していますが、人間にとっても極めて大切なことです。

 しかし、『ギヴァー』の中のジョナスのコミュニティは、どちらかというとその対極にある社会です。つまり、同一化/画一化を志向した結果できた社会なわけです。
 そして、私たちの社会も好むと好まざるとにかかわらずその方向で動いていると言えます。

 この本の中で、人間などが生まれるはるか前から、考えもつかないような「つながり合い」や「絆」を熱帯林の生き物たちが築いてきたのかを知ることになるのですが、それは感動的ですらあります。
 この本の前には、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)を読んでいたのですが、私にとっては、その人間の“偉大な”歩みが霞んでしまったように思えたぐらいです。

2010年11月10日水曜日

『ギヴァー』の紹介記事

岩手在住の恒川さんが、岩手日報に『ギヴァー』を紹介してくれた記事(11月6日)を送ってくれましたので、紹介します。
(記事の部分にカーソルを合わせてクリックし、さらにもう一度記事をクリックすると字が大きくなって読めるはずです。)


2010年11月8日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 50

 俳句と詩の本を読み続けています。
 そんな中で、『ことばと深呼吸』川口晴美+渡邉十シ子著に出合いました。

 とても軽い感覚で詩に触れさせてくれるのがいいです。
 たとえば、①「好きなものやことを20個リストアップ」したり、②その中の一つについて具体的に書き出したり、③詩や文章をタイトルなしで示し、タイトルを考えて出し合ったり(みんな違うのがおもしろい!)、④椅子にタイトルをつけてみたり、椅子と会話をしたり、⑤言葉の組み合わせ遊び(たとえば、北原白秋の「赤い鳥」を切り刻んで並べ替えたり)といった具合です。


 『ギヴァー』との関連は、以下のような点(ページ数)です。

95 さきほど、同じ文章を読んでもどこに感応するかは人それぞれだ、ということを書きました。それは、わたしたちがいま生きているこの世界そのものについていえることです。同じ空間、同じ時間、同じ場面を体験したとしても、どの部分を印象に刻むかは、人によってまるで違います。あなたは、あなただけの感覚で、常に世界を濾過しているはず。たとえ特異な体験をしなくても、気に入った何かをピックアップする感覚自体がオリジナリティなのです。
  言葉というものの数は有限です。あたなが新しく想像するわけではなく、あらかじめ存在しています。すでにある言葉をどう選んで、どう組み合わせるかが、大切になってくるのです。

→ ジョナスとジョナスの家族や友だちは同じ空間や時間を共有しているにもかかわらず、見えているものや感じていることはまったく別物でした。


98 現代詩はむずかしくて読んでもよくわからないと言われることが多いのですが、そんなふうに身構えなくても、自由に言葉と触れ合って自分なりのイメージや受けとめ方を自分のなかにつくっていけばいいのだと、感じ取っていただけたのではないかと思います。そう、詩は国語のテスト問題のように“作者の言いたかったこと”という“正解”をさぐりあてるような読み方をしなくてもいいのです。詩人が言葉の組み合わせによって描こうとしたことがそこにあったとしても、それを頭で理解できたら詩を読んだことになるかというと、そうではありません。ふつうの文章と詩とはそこがちがいます。
 ひとつの言葉の世界に触れ、自分なりの感覚と想像力を駆使しながら読んだとき、それはあなただけの固有な体験になり、あなたのなかで一篇の詩のイメージが息づきはじめます。詩は詩人が書いたときではなく、誰かが読んで受けとめたときに初めて完成するのだと言えるかもしれません。目の前の詩を完成させるのは、あなたです。詩を読むことで得られるのは、“正解”ではなく、“体験”。それは、あなたの「生きている」という感覚を新鮮に蘇らせることにつながっていくはずです。

→ であるにもかかわらず、延々と学校でやり続けていることは、すでにある“正解”を覚えること? ということは、「死ね」といっているようなものでしょうか???


99 では、どうしてそんなことが起こるのでしょう。言葉というのは、そもそもどういう働きをするのでしょうか。
  言葉は、意味を乗せて運ぶ道具としてつかわれている、と言ってもいいでしょう。
  一方で、場の雰囲気や気分をつくり、その気分を共有して一体感を得るために言葉をつかっていることも多いと言えそうです。そこでは、意味よりも声(音)の調子やリズム、反復、間、タイミングが重要になってきます。
  意味を担い、雰囲気をつくる。言葉の持つふたつの役目です。
  他人に向かえばコミュニケーションの機能になるし、詩を含めて文章を書くうえでも、これは重要な働きです。
  ですが、それだけではありません。言葉には不思議な力があります。
  言葉には、見えなかったものを見えるようにする力があるのです。

→ これをジョナスはまさに体験したのでしょうか? 言葉と記憶の関係は?


100 たとえば、引越ししたいと思い始めて、やたらと不動産屋さんが目に入ってくるとか。ということは、逆に、アンテナがないために見逃していることも、無数にあるのではないでしょうか。
  世界のなかに「わたし」はいる。「わたし」は五感をつかって世界を感じ取り、世界と関係を結んで生きているのですが、感覚というのは意外とすぐにすりきれて、弱まってしまいます。あまりにもいつも当たり前に目にしているものや、当たり前に繰り返しおこっていることは、次第の新鮮に感知できなくなってしまいます。

→ 別な言葉で言えば、「麻痺してしまう」ということ。これは、残念なことであると同時に、継続して感じていたら大変なこと!! 疲れちゃう。


  ちょっと目を閉じて、いま自分がいる部屋の様子を思い描いてみてください。
  目を閉じたままでも歩けるくらい当たり前に覚えてしまっているはずの部屋を、どのくらい細かいところまで思い浮かべられますか。ふだんどのくらいちゃんと見ていたのでしょうか。
  それから目を開けて、もう一度あらためて見ると、違ったものが見えてくるのではないでしょうか?
  大学生たちには、授業中に教室の外へ出て、そこにあるものをあらためてみてきてもらいました。皆、1年や2年あるいは3年間を過ごしてきたキャンパスで、普段はもうほとんど意識して何かを見ることもなくなっていたと思います。でも、あとで文章作品に書くのだと思って歩けば、ぜんぜんちがうはず。教室に戻って書いたくれた作品には、いつもとちがうことをした、新しい意識を持った(=アンテナを立てた)からこそ取りもどせた新鮮な目が発見したものが、いくつか息づいていました。

→ 詩人や小説家やノンフィクション・ライターの人たちは、こういうことを日ごろからやっている人たちということですね。プロの詩人や俳人やライターではなくても、詩や俳句を日々書いている人はかなりいるわけで、そういう人たちには、世の中の見え方が違っている!! でも、そういう体験を学校教育の中で、あるいは仕事の中ですることは奨励されていませんし、必要性も感じられていないようで...いいんでしょうか?


150 感受性が鋭い人が詩人になるのではなく、むしろ詩を書いていることで感受性が磨かれていくのだと思います。言葉を使うと、感覚のアンテナが立つ。つかい続ければ、鍛えられ磨かれて、アンテナの感度はどんどんよくなっていきます。世界や、自分自身を、くっきりととらえられるようになるのです。
  また、逆に、言葉をつかわなければ、わたしたちは自分の周りにある世界や、自分のうちにある想いさえ、しっかりとらえることができません。いろいろなものごとを言葉でつかまえることなしに生きていくのは、漠然と広がる世界を地図なしでぼんやり歩いているようなもの。まずは単純な言葉でもいい、世界を意識してみることから始めましょう。
  言葉はあなただけの地図、あなたが生きるための感覚そのものとなっていくのです。

→ この視点、とても大切だと思います。しかし、実際に学校やマスコミ等がしていることはみんなが同じ地図をもって、自分だけの独自の感覚を持たないようにする努力??


184 新しい言葉を書き、読むことで、新しい自分をかたちづくっていきましょう。人は何どでも、生まれ変わることができるのですから。

→ 9月24日から長年の念願だった俳句(というよりは川柳のレベル)や詩を書き始めた私としては、まだそこまでの感覚はもてません。でも書く前の状態とは違う何かが生まれだしている感覚はあります。単なる自己満足という錯覚かもしれませんが。

2010年11月1日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 49

 今日、紹介するのはポール・フライシュマン著の『種をまく人』です。

 話の舞台は、アメリカ五大湖のエリー湖に面するオハイオ州クリーブランドの貧しい人たちの住む(移民たちが多い地域の)一角の空き地です。そのギブ・ストリートに接する建物の間に挟まれた空き地は、生ごみ、古タイヤ、使えなくなった家具など、あらゆる廃棄物が捨てられていました。

 ある年の春(とはまだとても寒い4月に)、ヴェトナムからの移民の少女がそこにマメを蒔きました。そのあと、それにつられるようにして、ひとり、またひとりと(描かれているのは全部で12人)、年齢、人種、境遇の異なる人たちが、こだわりの種を蒔き、畑をつくるようになったのです。

 やがてゴミは消え(役所にかけあって、撤去させた人もいたのです!)、そこにはみずみずしい菜園が出現しました。まさに殺伐とした都会(それもスラム街的な地域)のオアシスです。菜園づくりにかかわった人たち ~ 中には、やさしい目線で見守るだけの人も含まれていました ~ の間には、連帯感が生まれ、話し合える仲間、助け合える、つくったものを交換し合える、収穫を互いに喜び合える「仲間」になっていったのです。

 私にとってもっとも印象的だったのは、脳卒中で口がきけなくなり、身体の自由も奪われているミスター・マイルズの介護をしているノーラの話です。

 空き地の前の通りを散歩していたら、畑の方に行けとミスター・マイルズが合図をしたので中に入っていくと、「ミスター・マイルズは、目をしっかり開けてまわりを眺め、土の香りをかいでいました。土にまつわる思い出が、遠くから呼んでいたのかもしれません。そのときの彼は、言ってみれば、なつかしい故郷の川を遡上するサケでした」(64~5ページ)

 このように、何人もの人に生きることの価値を思い出させたり、思い起こさせもしたのです。


 『ギヴァー』とは、設定も、ストーリーの展開もまったく違うのですが、「関連」を感じました。

 一人の少女の六粒のライマメを蒔くというとても些細な行動が、たくさんの人の野菜や花づくりに火をつけ、ゴミ捨て場になっていた空き地を緑のオアシスに変え、コミュニティをつくってしまったのです。

   登場する12人一人ひとりには、それぞれすごい物語があるのですが、その人たちが交差することでもまた違った物語を作り出す予感も感じます。

 ポール・フライシュマンはスゴイ作家なのですが、「残念ながら」日本ではあまり評価が高くありません。それも、ロイス・ローリーと似ているところかもしれません。

2010年10月23日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 48

 トマさんが紹介知れくれたレオ・レオーニの『どうする ティリー』です。

 レオ・レオーニの作品は、これに限らず『ギヴァー』のジョナス的な役割を主人公が担っているものが少なくないと思いますが、ティリーは大きな壁(それは、誰がいつ作ったものかわからない!)の存在をまったく意識しない他のねずみたちと違い、強く意識し、そして壁の向こう側に何とかして行きたいと強く願う存在です。ティリーは、クリシュナムルティが言っていた「絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいる」存在でした★。実際に、仲間たちの協力も得て、のぼってみたり、くぎでさしたり、そして夜は眠らずに壁の向こう側の世界を夢見たりしました。

 そんなある日、壁の近くでミミズが地面に潜っていくのを見かけました。「これだ!」とティリーは思い、夢中で穴を掘り始め(一人でというよりは一匹で)、そして壁の向こう側にたどりついたのです。壁の向こう側にも、自分の同じ普通のねずみたちがいました。そして、壁のこちら側と向こう側のねずみたちの交流が始まったというお話。

 さて、ジョナスは自分がいたコミュニティと「よそ」との間の交流を作り出すことはできるのでしょうか?

★ これは、「探究のサイクル」であり、これができる人を「自立した探究者」ないし「自立した学習者」と言えると思います。残念ながら、これらも日本の教育の目標には掲げられていません。ですから、12年あるいは16年以上学校や大学で過ごしても、「自立した探究者/学習者」「自立した市民」は期待できない状態が続きます。ほとんど、ティリー以外のねずみたちを育てることが目的になっているかのようです。それこそ、『ギヴァー』で描かれている世界と言ってもいいかもしれません。

2010年10月20日水曜日

英知の教育 5

しばらく続いてきたクリシュナムルティの2冊の本の紹介は、今日で終わりです。
以下は、短い引用が続きますが、それぞれ大事なことを投げかけてくれていると思います。全部とまでは言わないまでも、『ギヴァー』と関連するものがほとんどでもあります。


139 精神が、言葉の真の意味において学びはじめるのにふさわしい土台を確立できるのは、比較することの愚かしさに気づいて、比較していない状態にあるときです。

143 共感をどう行動に移すかは、ひとえにその思いの強さにかかっているのです。競争は、極めて破壊的なもの。

148 全体を見ることの大切さ

170 私たちが必要としているのは、むしろ指導者からの自由だ。

171 どんな種類の理想も非常に雄大だからだ。理想は事実を見ることを妨げる。しかるに、正しい方向への運動となるエネルギーを解放するのは、事実への関心と事実の理解のみである。理想は単に様々な種類の逃避を生むだけだ。
  これは大きなものから小さなものに目を移すことではない。なぜならこの学校は、世界で起こっていることの縮図だからだ。

173 もし何か新しいものを発見したければ、古いものを手放さなければならない。

177 思いやりの関係

179 他人と分かち合いたいと望む精神の状態
  共にある経験をしつつあるということ。教師と生徒の間の信頼関係

198 観察し、考えること、鋭敏な精神、静謐な精神を持つこと、感じやすく、鋭敏で、強健な身体を持つことが必要だ。

→ これらのどこまでが今の学校でやれているかな~、と思ってしまいます。

  もちろん、学校だけに問題があるわけではなく、社会全体にここに書かれているような関係や状態が希薄というか、ないことが問題なわけで...まさに「学校は、世界で起こっていることの縮図」です。


217 反抗には2種類ある。一つは暴力的反抗。これは、単なる反発にすぎない。もう一つは、英知の反抗。それは自分自身の思考と感情を理解することから生ずる自己認識の道である。体験を素直に直視し、いやなことも避けて通らないようにすれば、われわれの英知は大いなる覚醒を維持できる。このような高度に目覚めた英知こそは直感であり、それが人生のおける唯一の導きの杖である。

→ 『子供たちとの対話』の13~14ページに出てきた「反逆」よりは、「反抗」の方がいいですが、まだそれでも...という気がします。

  英知を可能にする教育を提供する場としての学校がいかに少ないことかを考えさせられます。担っている人たちのほとんども、そして一度はそこを通過したことのある人たちも(要するに、すべての人たちが)、英知の必要性を認識していないという大きな問題が横たわっています。

  『ギヴァー』の中で、レシヴァーの求められるのは、「知性」「正直さ」「勇気」そして「叡智」でした。そして、「愛」も。
 (ちなみに、英知と叡智は同じことを指すようです。)

2010年10月19日火曜日

英知の教育 4

106 思うに正しい教育とは、決まりきった習慣 ~ いかに立派で気高いものであれ、いかに技術的に必要なものであれ ~ にはまらないように精神を養うこと、知識や経験によってではなく、それ自体としてとてつもなく生き生きした精神を養うことなのである。

107 私は知識に反対しているのではない。しかし学ぶことと知識を習得することとは違う。知識の蓄積しかないところでは、学びはやむ。少しも獲得がないときにのみ、学びがあり得る。もっぱら知識が重要になるとき、学びはやむのだ・・・世界中で行われている教育は単なる知識の習得に過ぎない。それゆえ精神は鈍化し、学ぶことをやめてしまう。そして、その獲得物が生き方を指示し、それゆえ経験を限定するようになる。これに反して、学びは限りない。

111 目先のことしか関心を示さず、長期展望を持とうとしない教育関係者。

121 私の関心は、精神を目覚めさせ、精神をとてつもなく生き生きとさせておくことにあるのです。精神は知識によって生き生きとさせておくことができると私たちは言います。それゆえ、私たちは知識を詰め込むのですが、それはかえって精神を鈍らせるのです。時間の中で働く精神は、依然として限られた精神です。しかし時間の中で働かない精神は、とてつもなく機敏で、とてつもなく生き生きしているので、その生気を、まだ捜し求め、探究している無垢な精神に与えることができるのです。・・・学びは時間の外になるのです。

→ 結果的にやってはいけないことを教育システムとしてやり続けている、ということ。取り返しがつかなくなることはさけなければ!!!


135 私たちは、教師と生徒との間の適切な意思疎通の確立について話し合い、共感の状態においてはじめて、生徒が学びはじめるのにふさわしい、従来とは異なった雰囲気や環境が作り出されることを知った...思うに、学びは、教師と生徒が共感の状態があるときにのみ存在しうるのだ。それは私と皆さんとの間にも言える。「コミューニオン」=意思疎通すること、触れ合うこと、ある気持ちを伝え、それを分かち合うこと。そしてその状態で、その一体感の中ではじめて、教師と生徒が共に学ぶことができる。

→ 教える/学ぶにおいては、関係性がとても重要。
  というよりも、何事にもこの関係性、意思疎通、コミュニケーションが成り立つかどうかが鍵のような気がします。これが成り立たないことによる弊害は計り知れないものがあると思います。
  それは、ジョナスのコミュニティにも言えることですし、私たちにも。

2010年10月18日月曜日

英知の教育 3

72 教育に終わりはない。教科書を読み、試験に合格すれば、それで教育が終わるというものではない。人生の全部、生まれてから死ぬまでが学びの過程なのだ。学びは終わりを持たず、それが学びの超時間的性質である。

73 イメージなしで(言葉なしで)見る。ものごとがそのあるがままにある。

75 好きですることを、見つけ出す

→ この捉え方の違いによって、失っているものの多さに頭が行ってしまいます。


77 正しい教育とは、教科書をカバーすることではなく、問題が起こるたびに君たちがそれを理解するのを助けることであって、それには優れた精神が必要だ。すぐれた精神とは、論理的に考える鋭い精神、何の信念も持たない精神のことだ。なぜなら信念は事実ではないからだ...君たちがほんとうに心から好きでできることを君たち自身が見つけるのを助けることだ。

→ 単なる「問題解決能力」とは違うようです?!


78 自分自身を知るにはどうしたらいいのか? → 瞑想??


80 愛とは何か知っているだろうか? 人々を愛するとはどういうことか知っているだろうか? 思いやること。
  面倒を見る気持ちが愛情の始まりである。ものごとの面倒を見れば見るほど、それだけ君たちは感受性豊かになる。そのように、愛情、優しさ、親切心、寛大さがなければならない。

81 思うに、子どもたちはそれを持っている。

82 君が誰かを愛していれば、責任も義務も犠牲もない。愛するからこそ君はものごとをする。

84 愛は、その中に優しさ、安らかさ、親切、思いやり、そして美がある感情である。愛には何の野心も嫉妬もない。 学ぶことと愛は同じか??

86 まず第一に、機械的な人生を送らないこと。機械的な人生とは、誰かに言われたとおりに何かをすること。
   第二に、他人に対し非常に優しく親切にし、傷つけないこと。人々を見つめ、助け、寛大で思いやり深くなければならない。

87 愛がなければならない。さもなければ君の人生は空しい。
  人々を愛するとはどういうことか、犬、空、青く霞む丘や川を愛するとはどういうことかを見出すようにしなさい。愛し、感じなさい。
  そのとき君は、瞑想とは何か、非常に静かな精神、オシャベリでない精神を持つとはどういうことかを知るに違いない。そして真に宗教的な精神を知ることができるのは、そのような精神だけである。そして宗教的精神、宗教的感情なしには、人生は香りのない花、さざなみ立つ水をけっして知らなかった川床、けっして木ややぶや花を育まなかった大地のようなものである。

→ 「愛」の大切さが繰り返し出てきます。
  教育の場で「愛」を扱うことはあるでしょうか? 戦争前・中に「祖国愛」は叩き込みましたが。
  愛も含めて、感情的な部分・精神的な部分は弱いままであり続けているのが学校教育です。
  そして、他の場でも補われていません。

2010年10月16日土曜日

英知の教育 2

『英知の教育』のつづきです。


40 技術的知識に閉じこもった人生は、非常に狭くて限られた人生である。それは、いずれは多大の悲しみや不幸を招く。

→ 英知が必要ということ。感受性が必要ということ。

41 教師の役割は、部分的な精神だけでなく精神の全体を教育することである。正しい教育は君たちの全存在、君たちの精神の全体を養う。それは、君の精神と心に深さ、美に対する理解を与える。

→ あまりにも知識偏重の現在行われている教育。英知、感受性、精神全体へアプローチする方法をもっていない教育。その結果が、細川さんが『魂のランドスケープ』で書いていたような嘆きにつながっている。

46 他に何かあるかどうかを見出すには、いますがりついているものを手放さねばならない。もし川を渡りたければ、こちら岸から離れ去らねばならない。一方の岸に座ったままではいけない。不幸を免れたいが、しかし川を渡ろうとはしないのが世の常である。君たちは自分が知っているものにすがりつく ~ それがいかにみじめであろうと。そして川の向こう岸に何があるか知らないので、それを手放すことを恐れるのだ。

→ ここでもunlearning(間違って身につけてしまった悪い習慣を手放すこと)の大切さが強調されている。そうしない限りは、一つの物事のやり方(往々にして悪習である場合が多い)からもう一つのやり方(より効果的・効率的・生産的である場合が多い)に移行できない。慣れたいつものやり方の方が安心だから。たとえ、それが効果的・効率的ではないことは薄々知っていても。

50 学びは、恐怖がなく、いかなる権威もないときにのみ起こりうる。

→ イコールなレベルでコミュニケーションが取れるとき!!! それだけでもないような気がする。手放す決心ができた(unlearnした)ときに、新しい学び(learn)も同時にやってくるような気がする。

65 どうしたら自分を変えられるのか?

 人はこれからそれへと変わることはできる。が、それは少しも変化ではない。彼らがしたことは、自分はこうあるべきだという観念の投影である。

 変化とは、まず実際に「ある」がままのものに気づき、それと共に生きることである。すると人は、<見る>ことそれ自体が変化をひき起こすことがわかるだろう。

→ この辺はまさに、ドロシー・ギルマンさんが体験し、そして『一人で生きる勇気』の中で書いてくれていること。ジョナスも体験したかな?

2010年10月15日金曜日

『ギヴァー』の感想

A.F.さんが、読んですぐの感想を送ってくれましたので、掲載します。


「ギヴァー」、いい本ですね。設定が面白い。

12歳の儀式のところまでは、現代社会への風刺としての舞台設定を強く感じながら読みました。物語の世界(コミュニティ)は極端な管理社会であるけれども(愛さえないとは恐れいった)、現代社会にも通じる面はありますね。というか管理されたがる人たちもいる?例えば現代でも、結婚サービス会社はデータを元に相手を紹介するし、職業だって適性テストとかある。誰かにこれがいいよと言ってもらえると楽ですもんね。物語の世界では、快適さという束縛と引き換えに選択する自由は失われている。現実の社会では、かつて選択の自由がない時代もあった訳で、それが当たり前とも言えない。自分で選択できるということはときに痛みを伴うけど、幸せなことですよね。

中盤のレシーヴァーの訓練のあたりは、生きる喜びを感じながら読みました。

前に何かの本に、現代の若者は強い刺激(暴力的な映像とかゲームとか、激しい音楽)がないと満足できないが、もっと日常の感覚を研ぎ澄ませた方がいいようなことが書いてありました。今食べている食べ物の味とか、歩くときに頬をなでる風とか…。今日は途中から晴れましたけど、地面には湿り気が残っていて、土のにおいを強く感じることができましたね。私も病気になって前より、日常のささいなことを意識するようにはなったんですけどね。でも、若い人の中には、陽光の暖かさとか家族と過ごすことの喜びとか気付かない人もいるでしょう。この本は児童文学ですが、やはり小学校高学年~中学生くらいに読んでもらいたい本だと思います。あ、こんな見方で世界を見ることもできるんだって。

小学校高学年に読ませたい割には、タイトルがちょっとわかりにくいかな~。もう少しSFっぽいタイトル(サブタイトル)だったらいいのに、と思います。(たとえば「はてしない物語」なんかはタイトルも装丁もワクワクさせてくれましたもんね)

脱出の計画を立ててからは急展開ですね。二人ぼっちの革命。勇気と強さの物語。最後にたどりついた場所はどこなんでしょう。ジョナスがゲイブリエルに与えた記憶はどう作用するのか。ちょっと消化不良の終わり方でした(だからこそ、ああでもないこうでもないと話合うことができて面白いんでしょうけどね)。3部構成になっているようなので、残りの2部が読みたい!いつ邦訳されるんでしょう?!(洋書は手に入りますが…)

この年で読んだからか、人生が変わったとまでは参りませんが(期待はずれだったらごめんなさい)、良書だと思うし、今の日本の子どもたちが読むことができるようになってよかったです!「伝達者の会」は具体的に誰にどんな働きかけをされたのでしょう?○○小にも置いてあるのかな?

2010年10月14日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 47

 クリシュナムルティさんは、結構同じようなことを異なる本で繰り返し言っています。そんな中で、私自身の関心から2冊目に読んだのは、『英知の教育』でした。1冊目とオーバーラップする部分もありますが、何度強調しても強調したりない部分が多いです。


17 科学の精神と宗教の精神の調和がとれた人間、それこそがほんとうの人間だ。

19 非常に明晰で、緻密に考え、機敏になることが科学の精神、自分の精神の真相をあばき、言葉を超越し、○○教徒を含めて自分の様々なレッテルをはがすことが宗教の精神。それらを可能にする学校/教育が求められている。

20 英知とは明晰に、客観的に、正気に、健全に考える力のことであり、そのために知識を用いる。英知は、そのなかにどんな個人的感情も、どんな個人的意見も、偏見も、性向も含まれていない。英知は、直接に理解する力である。

 次々と付け加えられていく過去としての知識。

 英知は、非常に鋭敏で、機敏で、よき気づく精神の性質である。

24 感受性が豊かなことも求められる


→ 「科学の精神」と、知識とは違う「英知」についてはわかりますが、「宗教の精神」についてはまったくといってピンときません。



32 自由は、秩序なしには存在しない。ふたつは一緒になっている。

33 もし君が真に自由でなければ、決して開花できないし、よい人間でありえないし、そして何の美しさもありえないのだ。

34 鳥や花と同じく、人間も自由をもたねばならないのだ。が、人間は自由を恐れている。鳥、川、木などすべてのものは自由を求めており、人間もまた中途半端にではなく、徹底的に自由を求めなければならない。自分が思っていることを表現し、自分が真に望むことをする自由、自主性は、人生においてもっとも大切なことのひとつである。ほんとうに怒り、嫉妬、冷酷、残忍さから自由であること、自分自身の内部で真に自由であることは、もっともむずかしく危険なことのひとつである。

 しかし、自分の望みどおりにすることが自由ではない。なぜなら、人間は自分だけでは生きられないからである。自由であるにはとてつもない英知、感受性、理解が必要である。自由は秩序なしにはありえない。


→ 自由の大切さ、しかし自由は秩序とのセットで機能。
       ジョナスは、自由と共に英知、感受性、理解をもっていたでしょうか?
       この質問は、自分にも跳ね返ってくる質問です。

2010年10月13日水曜日

子供たちとの対話 4

82~83 学生の務めとは  ~ 学ぶこと 自らの自覚によって学び続ける。

 この地球は私たちのものなのです。

94 何に時間を費やすことが求められているのか ~深刻な問題を考えること。自らの自覚によって学ぶこと。

95 本当の生とは、愛してすることを自分のすべてをかけてやることなのです。

→ 再び、「自覚」そして「愛」。



99 見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つような環境を子どもたちに提供するのが教師の役割であり...

100 君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。 

143 なぜ勉強は楽しくないのか?

 先生たちが教え方を知らないという、とても単純な理由のせいなのです。それだけです。先生が数学や歴史や何であろうと教えるものを愛しているなら、そのとき君もまた、その教科を愛するでしょう。なぜなら、何かへの愛は伝わるからです。

144 それで、教師を教育することがとても重要であるわけです。それはとても困難です....生きること自体が教育の過程、学びの過程です。試験には終わりがありますが、学びには終わりがありません。そして、心が興味を持ち、機敏であるならば、あらゆるものに学べるのです。

→ 学び手であり続ける教師の役割。日本の教師も教育制度も、残念ながらこのようには理解されていません!



193~4 死 ~ 心配からの恐怖

 心配を持ち越さない。すべて手放してしまいなさい。とてつもない生が訪れるでしょう。

 死は何かの終わりにすぎません。そして、まさにその死によって、新たになるのです。

199 人間の真の仕事とは? 自らの自閉的な活動に囚われるのではなく、愛することなのです。何が真実かの発見にこそ愛があるのです。人と人との関係におけるその愛が、違った文明、新しい世界を創造するでしょう。

→ 上の「死」の引用と、下の「愛」が創造する世界との関係がいまいちよくわかりませんが...でも、『ギヴァー』の中で描かれていることと関連する気はしました。

2010年10月12日火曜日

子供たちとの対話 3

43 見出すために聴いているのなら、心は自由で、何事にも傾倒していません。とても鋭く冴えて生きていて、探究して知りたがり、それゆえに発見することができるのです。それで、君はなぜ聴くのか、何を聴いているのかを考えることが、とても重要ではないですか。

44 聴くということの真髄

→ この辺、細川さんが『魂のランドスケープ』の中で言っていたことと通じますね。


49 真実の教育とは、何を考えるのかではなく、どのように考えるのかを学ぶことなのです。どのように考えるのかを知って、本当にそうする力があるなら、そのとき君は自由な人間で、教義や迷信や儀式から自由です。したがって、何が宗教かを見出すことができるのです。

55 創造性は、深い不満がある時にだけ生じてくる創意に根ざしているのです。

56 それで、この完全な不満を持たなくてはなりません。しかし、喜びを持ってです。理解できますか。不平を言わず、喜びや快活さや愛を持って、完全に不満でなくてはなりません。不満を持っているほとんどの人たちは、ひどく退屈な人たちです。彼らはいつも、あれやこれやが良くないと不平を言ったり、自分がもっと良い地位にいたなら、もっと環境が違っていたならと願っています。なぜなら、彼らの不満は極めて表面的であるからです。そして、まったく不満を持たない人たちはすでに死んでいるのです。

59 受け入れたり従ったりすることなく、質問し、究明し、精通するとき、そこには洞察があり、そこから創造性や喜びが生じてくるのです。


→ 創造の源としての「不満」。そして、服従や妥協の排除。
  質問、究明、精通、洞察は、「問いかけのサイクル」を持つことで可能になる。


62 時の枠組みから超える状態があるのかないのかを本当に見出したい人は、文明から自由でなくてはなりません。つまり、集団的意志から自由で、一人立たなくてはなりません。そして、これが教育の不可欠な役割です。一人で立つことを学び、そのため大勢の意思にも一人の意思にも囚われず、したがって何が真実なのかをあなた自身で発見する力があるということなのです。


→ まさに、「自立した学び手」ということ。

2010年10月11日月曜日

子供たちとの対話 2

20 美しいものを眺め、観察し、注意のすべてを向けるには、心は心配事から自由でなくてならないでしょう。問題や悩みや思索に囚われていてはなりません。本当に観察できるのは、心がとても静かな時だけです。自由の問題への手がかりは、たぶんここにあるでしょう。

21 自由とはほんとうは、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。

22~23 教育とは、ありのままの自分を理解すること

25 心は過去のすべての知識を保持しているからです。そこで、智慧は君自身を理解することによって生じてきます。そして、人々、物事、考えという世界との関係の中でだけ、君自身を理解できるのです。智慧は学問のように習得できるものではありません。それは大いなる反逆によって生じます。

29 子どもが自分で自覚する環境づくりが、教師と親の役割


→ 「自由」「自覚」「智慧」などについてまったく意識することもなく展開しているのが、私たちの教育であり、ジョナスも受けた教育です。



32 依存からの自由の大切さ。

33 自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えているとさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。


→ 「愛」も抜けていますね。



38 教育は生徒とともに教師を教育する過程でなくてはならないわけです。


→ 自分も常に学び続ける必要があると認識している教師は、果たしてどのくらいいるでしょうか? 同じことは、上司にも。そして親にも言えてしまうのでしょうが。


  知識だけはあっても、学びの存在しない社会の成立!



41 すべては生の一部です。それで、もし君が本を読むことを知らないで、歩くことを知らないで、木の葉の美しさを堪能できないなら、君は生きていないのです。君は生の片隅だけではなく、その全体を理解しなくてはなりません。それゆえに、本を読まなくてはならないし、空を見なくてはならないし、歌い、舞い、詩を書き、苦しみ、理解しなくてはならないわけです。というのは、そのすべてが生であるからです。


→ この辺は、holistic education(ホリスティック教育)と通じますね。

2010年10月10日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 46

  前の本のドロシー・ギルマンさんが『一人で生きる勇気』の中で紹介し、かつ引用もしていた(69ページ)哲学者の一人だったので読み始めました。まず借りてきたのは、『子供たちとの対話』(クリシュナムルティ著)です。

 この本も、『ギヴァー』との関連がこんなにあるとは思っていませんでした。

 基本的には教育に関する本です。


10~11 「生」を理解する手助けとなるのが教育

13~14 この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える ~ 成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんなほろんでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず変化している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすことの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。

→ 「反逆」という言葉が浮いている気がしますが、それ以外はジョナスのコミュニティにも、私たちの世界にも求められている教育の機能だと思います。

15 君自身が野心なく、欲がなく、身の安全にすがりついていないとき、そのときにだけこの挑戦に応答し、新しい世界を創造できるのです。 → 竜馬、ジョナス

17 教育は、君がほんとうに何を愛してするのかを見出し、生の始めから終わりまで、価値があると思える、君にとって意義のあることに取り組んでいるように、助けるべきではないでしょうか。そうでなければ、一生みじめになるでしょう...君が若いうちに本当に何を愛してするのかを見出すことが、とても重要であるわけです。そして、これが新しい社会を生み出す唯一の道なのです。

→ こんな教育の捉え方はなかなか存在しませんし、実行されていません。単に「理想」で片付けてしまっていいのでしょうか?

19 何でも真に革命的な物事は、何が真実なのかを見て、その真実に従って生きようとするわずかな人々が創造します。しかし、何が真実なのかを発見するには伝統からの自由が必要です。それがすべての恐怖からの自由ということなのです。

→ まさにジョナスが実行したことですね。そして、歴史上で名を残した人たちも。

2010年10月9日土曜日

一人で生きる勇気 7

続いてきた『一人で生きる勇気』、今日は最後です。



181 畑仕事 ~ 一度に、発明家、科学者、ランドスケープデザイナー、溝掘り、調査係、問題解決者、芸術家、悪魔退治の祈祷師。 しかも、そのうえ、成果をディナーで食するなんて。


→ 私も週に一日だけですが、畑仕事を手伝っていますが、上のリストの「体力の維持」という要素も含まれます。


195 一人行く者は今日出発できる。だが他の人と旅する者は相手の用意が整うまで待たなければならない。 ~ ソーロー


→ 確かに。発見も、一人旅の方がありますね。旅の楽しさや得るものや出会いは、一人旅の方がはるかに多いものがあると思います。すべてを自分で判断もしますし。


197 本当の四季はカレンダーで区別することはできない。

→ この本を読んでいたのは、9月の中旬。「残暑」を含めて、暦にこだわっている人たちは、ぜひこの引用をしっかりと読んでいただきたいです。


198 人生において動かぬものはない。潮は絶えず動いている。地球はその軌道を動いている。わたしたちの身体は毎秒2千万の赤血球を作り出している。そして、今日はすでに今日なので昨日のまちがいは許すことができる。

 わたしが学んだもの、それは、なにもないところから一日を作り出すこと、形とバランスを作り出すことである。

→ この赤血球の数字を見たときはビックリでした。そして、単に「なにもないところから一日を作り出す」だけでなく、「形とバランスを作り出すこと」の大事さも。


199 また、こういうことも学んだ。わたしたち一人ひとりの心の内には、山や平野や深い淵、嵐や静かな海のある国が存在するということ。その国は、資本の投入がないために弱っているのだ。

→ この終わり方が、なんとも言えません。

2010年10月8日金曜日

一人で生きる勇気 6

144 いまでは人に会えば必ずなんらかの影響を受けることを承知している。そしてもはやわたしはそれを偶然とは呼ばない。意識しているかどうかにかかわらず、わたしたちはみんな伝達の基地なのだ。そこでわたしたちは目に見えないシグナルや周波数が高すぎて、普通の耳ではとらえられないシグナルを送信したり受信したりしている。意識する、しないにかかわらず、それが私たちの人生の舵であり帆となる。

→ この発想というか考えも、とても共感します。まさに、日本に古くからあった「一期一会」の発送そのものとも言えるわけで...
  しかし、どうも都会の生活というか、時間に追いまくられる生活を送っていると、こういう感覚は持ちにくいわけです。


160 「不可欠なもの」とは、本質と関係する、あるいは本質を構成するもの、と定義される。あるいは、「個々の、本当のあるいは究極の、ものごとの性質」とも。

161 使えるものは何でも使う。古いものを使いこなす。無駄をしない生活。

162 禅の修行僧の生活 ~ 最小限のもので生きるという意味で。

164 生活によけいなものがないと、頭の中までよけいなものがなくなる。積もり積もったものを剥がし、捨てて、ものごとの核に近づいていたとき、わたしは不必要な習慣、感情や反応をも捨て始めた。なによりも、わたしは感謝することを教わったと思う。小さなものごとの「性質、価値、資質、意義」を把握すること。感謝は、わたしたちの暮らしの中であまり評価されてこなかった感情である。

→ 私たちがいかに必要のないものをたくさん持つことで生きているか、必要のない習慣に縛られているかを考えさせられました。


  メモを取り忘れましたが、本の最後の方に、最悪の時に自分がもっていくものをバッグの中につめるとしたら、というような設定で、自分自身にとって必要なものというか、欠かせないものをリストアップしているところがありました。他のものがなんだったかは忘れましたが、哲学関係の本を10冊あげていたのがとても印象的でした。それらについては、一応調べてみたのですが、古い本が多いこともあって、半分ぐらいは日本語で入手できないこともわかりました。



167 自分の全人生の基礎は怒りと反抗だったと理解するようになった。それはときにはものすごい憤りや憎しみさえも起こさせたにちがいなかった....振り返ってみると、わたしに反抗心があったから助かったのだ。

  怒りは服従や諦めよりも健康的なのだ。


→ 一見、「愛」とは正反対のような生き方に思えるが、ところがどっこい、結構「怒り」や「反抗」は「愛」をベースにしている気さえしてきました。


168 突然、わたしは反攻するものがなくなった。自分以外には。

  一人で生きることは学習のプロセスである。なかでも、一度学んだことを捨てるプロセスである。ある意味では、他の人と一緒に生きる方が簡単であると言える。すべてを自分一人で決める必要がないからだ。


→ 人に頼らない生き方をするためには、相当学ばないといけないということ。そして、面白いのは、依存していた時/服従していた時/諦めていた時に当たり前だと思っていたことを捨てる(unlearn)プロセスだということ。


  そして、当然のことながら一人で生きる=人に頼らない=すべての判断も他人に委ねない生き方ということ。

2010年10月7日木曜日

一人で生きる勇気 5

  中国人は三千年も前に変化の本、『易経』(“Book of Change”)を書いた。これはおそらく人間が書いた初の外なる宇宙と内なる宇宙の記録だろう。『易経』は占いの本として読まれてきたが、その英知は儒教と道教を育てた。そのページをめくるだけで人生の動きをのぞき見ることができる。妨害のあとには救済が、煽動のあとには平和が、出発のあとには帰郷がある。ユングは人生を「流動、未来に注ぎ流れるもの」と呼んだ。サン=テグジュペリは「人生は動きによって持続する。土台によってではなく」と言っている。

→ いわゆる陰陽の世界観。しかし、それがユングとサン=テグジュペリを引用している人生につながるとは思っていませんでした!!


129 <優しさ>と<友情>こそが、契りには必要。それは相手が男であれ、女であれ。

 友情とは、共通の理解、共通のユーモア、ある種の率直さと正直さを意味する。

→ 日本での友情の定義とは若干違うでしょうか? 私はとても共感を感じます。


133 わたしは空費が嫌いである。悪、あるいは罪、あるいは邪悪を定義せよと言われたら、わたしはむだに費やすことと答える。才能、可能性、自由の空費、食べ物であれ地球の資源であれ、空費ほどもったいないものはない。刑務所、貧困、孤立、劣悪な教育、汚染、それに日の光よりも暗闇を好むとき人々に起きることもここに含まれる。

→ これらが彼女の行動の原動力!?


140 わたしは目に見えないものの蒐集家だ。目に見えないものはわたしを魅了する....私たちが知っていること、見えるものはごくわずかだ....たとえば、愛がそうだ。考え、神、未来、時間、信頼、希望がそうだ。わたしたちに明るさをあたえる電気だって目に見えないものだ。

 わたしたち自身、本来は目に見えないものなのだ ~ ほかの人たちには大事な部分は見えないという意味において。わたしたちは氷山のような。ほんのわずかな一角だけが見え、残りは隠されている。だが隠されている部分もまた活発に生きているのだ。

→ とても哲学的?


142 自分を知ることができるのは、自分だけ。

→ 上とも関係しますが、自分自身で自分を知ることのできない人の方が多いのかも?

2010年10月6日水曜日

一人で生きる勇気 4

117 わたしたちは変化の引き算や掛け算をそのまま受容するよりほかないのだ。毎日、毎時間、わたしたちは時計のチクタクという音とともに人生の一部を失っていく。両親を失い、妻、夫、友人、子ども、夢を失う。だが、一つだけ言い足さなければならないことがある。なにかが終われば必ずなにかが始まるということだ。これもまた、人生の法則である。

→ なんと前向きな捉え方!!

119 肝心なことは、変化しなければ...同じところをぐるぐる回り、外に足を踏み出すこともできず、動くことも成長することもできなくなる...わたしたちのまわりには、思っている以上に死んだまま生きている人たちがいる。

→ ジョナスのコミュニティだけでなく、この私たちの社会にもそういう人たちが結構多いかも???

   また、わたしたちは変化を速めることができない。変化はそれ自体の暦をもっている。人生における最良の、ユニークな曲がり角は、決して強いられたものではない。その根はわたしたちの中に長い時間をかけて育つのだ。わたしたちが気づかないうちに、ユングが呼ぶところの<意味のある偶然>の時を待って。それは遭遇の機会、耳に響く一節、出会い、招待、洞察、啓示などのかたちをとる。人生がわたしたちに求めることは、ただ一つ、ヒントに対して目を開け胸を開くこと。真に関心があることを、無理に、あるいはでたらめに為す人はいない。振り返ってみれば、イーストのようになにかがわたしたちの中で膨らんだのがわかるはず。よくよく注意してみると、成長する方向に私たちは従っているのだ。

→ ジョナスがアクションを起こしたのも、長いコミュニティの蓄積の中でタイミングを見計らったもの?


120 わたしはかつて自分の人生には変化がないと思っていた。すべてがすでに決まっていて、わたしにはまったく手を出すこともできない、と思っていた。そして日記にこう書いた。

  「なにも変わらないのか?人生は永久にこのままなのか?」そしてわたしは欲求不満と絶望から“永久に”という単語をページのいちばん下の罫まで繰り返し書いた。わたしはもう人生を終わらせようと思って、屋根裏の古いとランクからピストルを引っ張り出すところまでいった。「あと数ヶ月待ってみよう。もしあと一時間生きられたら、一日生きられるかもしれない。もし一日生きられたらカレンダーのその日に×印をつけるのだ。そんなふうにして一週間生きられるかもしれない」

  十日後、わたしは×印をつけるのを忘れてしまっていた。そして二ヵ月後にはすっかり元気になっていた。そして希望に満ちていた。人生はいつも動いている。そして出来事や状況はもちろんのこと、わたしまでを変えてしまっていた。死のうかと思うほどのところまでわたしを運んだ流れはまた、その時点をも越えるところまでわたしを運んでいった。人生は決して留まらない。もしそうと知っていたら、わたしはもっと信念をもって生きただろうと思う。

  しかし、あの日わたしが向き合ったのは死ではなかった。それは人生だった。そして変化と成長だった。

 → この辺、なんとコメントしていいか戸惑いますが、ジョナスにも似たようなことが言える気がしないではありません。

2010年10月5日火曜日

一人で生きる勇気 3

続いて、72ページまでは、孤独、不幸、精神の働きについて。

68 孤独には、ほとんど官能的といってもいいようなものがある。引き込まれるような、ある種の充実感と喜びの感覚である。また、厳格で抑制の利いた、幸福ではないが不幸ではないといったような種類のものもある。むずかしい問題には一人で立ち向かわなければならないとか、特別な経験はけっして人と分かち合うことができないとかいうことがわかったときに感じる孤独感である。

 これらとは別に、慰めようもない、厳しい、みじめな孤独感もある。これはじつは悲しみと言ってもいいとわたしは思う。これが孤独と呼ばれるものである。

 一人でいることは必ずしも孤独を意味しない。

 孤独とは、失われたもの(それは人だったり、歳月だったり、かつて抱いていた希望だったり、達成されなかった夢だったり)を惜しむこと、あるいはこの地球上で自分はごくごく小さな蝿のフンのシミだという気がして、人生の意味に疑問をもったりすることである。それは充実ではなく欠乏である。残酷で、寒々とした不幸である。


69 クリシュナムルティは不幸を、<どうあるべきか>と<どうあるか>との間の距離と定義している。

 精神は常に活発に活動している!! 

 精神は見、推し量り、疑問を抱き、あこがれ、失ったものを探し、悲しむ。→これは、読んだり、聴いたりしている時にしていること?! 精神は人生がどうあるべきかのシナリオを作りあげる。→これは、書くとき、話すときにしていること?! 「精神はけっしてとどまらない」とクリシュナムルティは指摘する。「それはつねに動いている」


70 わたしたちは<どうあるべきか>にこだわり続け、わたしたちを拒絶するものとして人生を見る。

   いっぽう、<どうあるか>は精神を鎮め、リラックスさせる....<げんじつがどうあるか>に注意を向けたとき、もはやわたしたちは孤独ではない。過去も、未来も、不幸も恐怖もない。ただ<どうあるか>と、完璧な受容があるのみである。精神が鎮まり、エゴと痛みばかりの思考から離れたとき、初めてわたしたちは、苦しみのあまりどれほど本来の自分を失っていたか、どれほど四角い檻の中に自分を閉じ込めていたかに気づく。電気の利用を思いつき、原始を発見し、月旅行を実現した人間の精神は、人間の敵にもなりうる。このトリックを理解しないと、精神は容易にわたしたちを十字架に磔にするものにもなりうるのだ。

71 自分を今という時点に据えることを、P.D.ウスペンスキーは「自分自身を思い出すこと」と呼んでいる。

72 「子ども時代の記憶とは、いくつかの瞬間における自分を思い出すことにすぎない」


→ 116ページまで、都会暮らしと田舎暮らしの比較と、プライバシー考


83~85 「人とつきあうことや観察されることのない状態、あるいはその特質」

 田舎暮らしは、その対極にある生活。常に観察されている状態。プライバシーのない状態。

 一方で、都会ではプライバシーがある状態ができている。隣で人が死んでいようと関係ない社会が。

107 出合いによって、変わる。「私の存在のしかたは変わり、もっとゆるやかなものになった」

116 出会い/語らい(互いの夢を交換し合ったこと)で、温かい気持ちで分かれることができた。 

← でも、それは未来に生きていること? それとも今?


116 当節、人生はすごいスピードで動く。その速度はますます速くなる。そして逆説的なことに、わたしたちは不変なものを求めて、その中でどんどん速く動くのだ。変化がもたらすものに嫉妬し、不変性に腹を立てる....わたしたちは、変化で人生からなにかが、あるいはだれかが失われるとひどく怒る。それを喪失と呼ぶ。しかし、へんかによってなにかが人生に加えられると、それを当然のことと見なし、これもまた変化であることを忘れてしまう....生きていくうえでできる関係はすべて成長するか、終わるものだ。たまにちょっとの間宙づりの状態にいることもあるが、それもまもなくゆっくりと成長か衰退に向かって容赦なく動いていく。思い出さえも思い出となるやいなや生きてはいない。板の上にピンで留められた蝶のようなものだ。思い出とともに生きるのは、死んだものとともに生きるのと同じだ。経験の衝撃はわたしたちを一度は変えるが、二度変えることはない。


 → 思い出と記憶の違いは???

2010年10月4日月曜日

一人で生きる勇気 2

3日前の 『一人で生きる勇気』の続きです。

→ 以下、51ページまでは、時間についての考察が続きます。

41 なにか理由があって、あるいは信念や目的のため、あるいは単になにか新しいことを試してみるために、自分をそんな群れから切り離し、自立するのはむずかしいものだ。そして、男性と比べて、女性にはそれがもっと面倒だ。

42 家の中の問題は仕事に優先して解決が求められる。そしてわたしたちはいつも罪悪感に悩まされるのだ。あんなことをしたと言っては悔やみ、あれをしなかったと言っては悔やむ。

  自分がしていることへの不安、周囲と隔絶しているということでパニックに陥る。

44 田舎に引っ越して、わたしはものごとを考える時間ができた。それも、ことの真髄まで考えることができた。そしてある日、突然わたしは自分の不安の根源がわかったのである。気分の落ち込み、不安感、憂鬱、心配、これらすべてを集めて揺さぶったところで、結局同じところに落ちるのだ。私を支配していたのは、根本において、自由に対する恐怖感だった。

45 わたしたちは空の時間ができないようにするために、なんと忙しくしていることか!

46 空の定義は、「保有しているものや囲んでいるもののない状態」

   自由の定義は、「縛られないこと、閉じこめられないこと、強制的に引き止められないこと」

 2つの言葉のちがいは、ほんのわずかである。人が毎日数分進む時計に慣れるように、心を少し調整すればいいのだ。心は新しい言語を学ぶ。

 この自由感、外に向かって時が開くという感じ、これが田舎に住んで経験したもっとも大きな発見だった。

47 時間についての考察

   人間が便宜的に決めたシステム。

48 何事かがわたしたちの日常の殻を破るとき、時間は質的な意味合いをもつ。

   マズローは、これを<ピークの瞬間>と呼ぶ。人生が急に新しい意味合いをもつときだ。 解放の瞬間。見えなかったものが見える瞬間。

49 しかしながら、ほんとうの神秘は、わたしたちが時間を量的に経験しようと質的に経験しようと、時間はまったく変わらない、変わるのはわたしたちだということだ。

  いろいろなできごとで揺さぶられ、認識に到らされる。理解に到らされるのだ。決まりきった手順、習慣、自己満足、そして偏った思考に揺さぶりをかけられるのだ。ある意味では、時間に揺さぶりをかけられて、いま生きていること、大きく目を開き、自覚することを認識させられるのかもしれない。

 モーリス・ニコール『リビング・タイム』 ~ 私たちは未来にために生きるように習慣付けられている。われわれはまず、いまを感じるところから始めなければならない。

50 わたしたちの世界は、いまをどう生きるか、教えない。わたしたちの社会では、すべてがそれを巧みに避けている。子どもが学校に上がると、親も教師もさっそく言い始める。つぎはなに? 用意しなさい! 大学に入れば、プレッシャーはさらに強まる。つぎはなに?

 わたしたちは早くから先を考えるように仕向けられる。そしてそれをあらゆる場面に適用するのだ。いまやそう考えるのが習慣になっている。わたしたちはどこかに到着するために前方を見る。目的地がどこかはもはやほとんど問題ではない。わたしたちはすばらしい日々を夢見る。


51 「時間の引き延ばしをすべてやめるのだ。われわれが生きるのは瞬間の深みである。表面的な広がりではない」 エマーソン

  わたしたちが真に躍動するのは、瞬間の中に入り込み、意識を全開にしてその瞬間を生きるときである。

  「死ぬということは、人生の最期に目を閉じることではない。あまりにも少ない次元の中で生きることを選ぶことである」 (J.B.プリーストリー)


→ 最後は、スゴイ引用がつづきました!!

2010年10月3日日曜日

Another student's reaction to The Giver

Hi everyone,

Here is one more reaction regarding the The Giver written by one of my students as part of their assignment for summer reading.

Both these are posted in the original form as submitted by the students without any editing by me.

Enjoy!

Mark
-------------

The Giver

By H. T.

The summer reading book I have read was The Giver written by Lois Lowry. The reason why I decided to read this was that I was interested in “controlled society” for safety after I read comments of this book on the Amazon’s site. Though this book was a juvenile book, the content was thought-provoking.

The world in this story seems to be a utopia because there is no something nuisance and harmful such as weather or warfare. Instead, many things there are controlled. For example, the families in The Community are not “real” families. Their spouses are decided by “Committee of Elders.” It is also decided how many children they may have and these children are all born from “Birthmothers”, which is one of the jobs in The Community. Even jobs are controlled. Each December, all children will grow a year old at “The Ceremony”, which means they don’t have their birthdays. Especially at The Ceremony of Twelve those children who are going to be twelve years old are given “Assignments”, which shows what your jobs are. Jonas got the Assignment of “The Receiver of Memory.” There are only two Receivers in the community, Jonas and The Giver, who is an ex-Receiver. Jonas had to receive the memories of the past and feelings, for example warfare, colors, pain or love in order to advise everyone when something people hadn’t expected happened. At first time Jonas thought this job was excellent but gradually he thought these memories should be shared by everyone. Then he did the plan to spread the memories.


I think the main theme of this story is "what happiness is." After I read this story, I didn't tell which society was good for human, the society of this story or real one. It is true that the controlled society like this story's is not interesting, at least for us, because everything is the same and there is no change. Precisely because in Jonas's world they are doing the same thing again and again every day, I think he said that he thought there was only now. The past and the future can make us feel the purpose of living, for example trying to earn more money to buy a house and so on. Human just living in their whole life seems to be a "robot!" However, "un-sameness" and, the past and the future can make us feel not only happy but also threatened and anxious. These sometimes damage people, for example records or memories of war can lead another war as the revenge. And another reason why I cannot say which society I like better is that I cannot imagine the life in the society like The Community without memory of pain or of happiness.


Today our society are being controlled more and more, so I thought we couldn’t say completely our society will NOT be the society like Jonas’s.

2010年10月2日土曜日

One Japanese college student's reaction to The Giver

Hi fellow Giver fans,

At my university, first year students have a choice of English novels to read over the summer, and they need to write a reaction to the book when they return. Several of my students chose The Giver, and here is one of those reactions. The student gave me permission to post her reaction.

Mark Christianson, ICU
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My Reaction to The Giver
By S. K.

I read The Giver by Lois Lowry this summer. I like reading SF story.
Though SF story must not be realistic in general, it makes us think our real world more deeply. I have read a lot of SF stories, such as Hoshi Shinichi who is one of the most famous SF story writer in Japan. Therefore, I chose The Giver after I read the outline of this book. I guessed how the world looks like in this book.

The main character, Jonas lives in ideal place. People who live there are almost equal. There are no war, fear, and pain. However, there are no sex, real family, color. They are controlled in order to cut differences among people, to give people happy life equality. There are a lot of rules which people have to keep. For example, they cannot boast about one’s special ability. When children become twelve, they assigned each role according to individual interest and aptitude by the council of elders. After selection, they start to training for their roles to be full-fledged. People have to marry with the person who is selected as each appropriate partner. And the people who are old or disabled are released. Jonas is selected as The Giver, who is the only person to know and feel the memories of true pain and pleasure of life. He was told that by The Receiver. As he knows real pleasure, love, and pain, he questions about his community. At least, he decides to open this feeling to everyone. He wants them to know real love, family, pleasure, pain, difficulty as human beings.

After reading this book, I focused two points. The first is “differences”. Before Jonas tells everyone real feelings, they are almost equal. It seems an ideal thing, but can they live as individual? “Because all members differ, they are wonderful.”This passage is quoted from “Me and Small Bids and Bell” by Misuzu Kaneko, who is my favorite poet. To have identity and to choice own way of life are very important things as a person. The second point is “relationship”. I was very impressed about the relationship between The Giver (Jonas) and The Receiver. They suffer their own positions, but they help each others and finally accomplish important thing to make their world wonderful place.

I want everyone to read this book. This book makes us think what is to live with others.

2010年10月1日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 45

 すでに紹介したい本が何冊かラインナップしています。
 今回紹介するのは、ドロシー・ギルマン著の『一人で生きる勇気』です。


 ギルマンさんは、若い時に離婚して、二人の息子を育てました。ある意味ではガムシャラに。そして、二番目の息子が大学へ行くのをきっかけに、慣れ親しんだ住まい(ニューヨークだったか、ニュージャージーだったか)を離れてカナダのノヴァスコーシアに移住することにしました。まさに一念発起です。その顛末を書いたのがこのエッセイ集です。

 この本も最初は、こんなに『ギヴァー』との関連があるとは思っていませんでした。でも、「一人で生きる勇気」は、まさに「個が自立する」「社会が自立する」テーマでもあるんだと思わされます。まさに、ジョナスの勇気と同じです!!

 今回も、取ったメモは相当な量なので、『ギヴァー』との接点があるところだけを切り取って数回に分けて紹介していきます。 (数字は、ページ数です。)


38 思うに、女性は昔から従順さを仕込まれてきたがゆえに、いっそう疑り深くなっているのではないか。生来直感的で、なんにせよ男性よりも控えめでいるように育てられているから、言葉で言われなくても、わたしたちはすべきことやすべきでないこと、あるべき姿を教えるシグナルをめざとくみつける。幼いときから人を喜ばせる術を身につける。魅力的であること、期待どおりに適切な表現をすることを学ぶ。そして不正を受け入れる。


→ 日本にも、ジョナスのコミュニティにも言えてしまう!?


40 正直な自分でいるために、なによりも大切なのはまず自尊心だ。それと、自主性である。自主性は自尊心から育つもの。自主性とは、自分を治めること。他から干渉を受けず、自分の心の正直に。自尊心がないと、かんたんに、魂を略奪された者になってしまう。一緒に暮らしている人を通して生きるのだ。自分自身を考えずに、自分の考えに基づいて行動をせずに、自分で冷酷な現実に立ち向かう判断を下さずに。生きることはすなわち隠すこと、取り繕うこと、反応すること、行動するのではなく、ただ感応することになってしまう。自分をまっすぐに見ずに、近所の人や夫や友だちがどう思うか、どう感じるかを映す鏡を通して自分を見るのだ。だから、可愛らしいといわれればすぐさま可愛らしくふるまい、野性的と言われれば大胆な目つきの野生的なポーズを身につける....それは彫刻であって、もはやわたしたち自身ではない....認められるため、将来の安定のため、安全のため、そして「夫婦はもちつもたれつ。たとえ心の中で相手をどんな馬鹿にしていても関係ない。夫婦とはそんなもの」式の考えに逆らわずに。 


→ まさに、日本!? そして、ジョナスのコミュニティ?

2010年9月30日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 1

 今年の1月1日に、最初の『ギヴァー』と関連のある本たちとして紹介した中に含まれていたのが、井上ひさし著『吉里吉里人』でした

 井上さんはその時には、まだ生きておられたのですが、今は亡くなられています。

 その時は本の内容にはいっさい触れていませんでしたが、昨日、安野光雅さんが朝日新聞の「本を開けば」のコーナーで、『吉里吉里人』を紹介していたのを見つけましたので、ここに掲載します。(9月5日掲載分で、そのタイトルは「日本国が失った二人」です。)
http://book.asahi.com/reading/TKY201009070271.html


 東北本線一ノ関駅あたりで列車が急停車し、突如「吉里吉里人(ちりちりづん)」が乗り込んできて乗客を外国人として扱い、旅券を見せろと言う。吉里吉里国は独立したと宣言するのだ。

 「俺達(おらだつ)が独立(どぐりじ)を踏み切(ぎ)ったなぁ、日本国(ぬほんのくに)さ愛想(あえそ)もこそも尽ぎ果(はん)でだがらだっちゃ」

 井上ひさし『吉里吉里人』が出たのは30年近く前だが、その本の装丁をするために、わたしは出版社から雑誌連載の分厚い束を持たされて外国をめぐり、先々で読んだ。

 独立の理由を共通語で要約すると、「減反しろ、広域営農団地を作れ、村有林を伐(き)れ、隣の町と合併しろ、上流の工場排水のために川水が少し濁っても我慢しろ」などと「国益のため」の要求を押しつけられることだが、事情はいまもあまり変わっていない。しかしそれはまだ我慢するとしても、自分たちの使ってきた言葉が、方言というゆゆしき言語であって、これを矯正しなければ日本国人になれない。ならば、「日本人をやめるほかないんだっちゃ」という理由が大きかったらしい。

 → ここに書いてくれた内容も含めて、この本は、『ギヴァー』の中でのジョナスの行動とも相まって、私にとってはバイブル的要素をたくさん含んだ大切な本です。

 この本では、「坊っちゃん」でも「雪国」でも吉里吉里語で書けることを例証し、吉里吉里語を学ぶ者のための「傾向と対策」まであって、これが無類におもしろい。山形県は丸谷才一や斎藤茂吉など言葉に関する先人が多い。ああ、わたしは著者自身の口から、「山形県知事」と「山形県地図」の発声の使い分けの困難さを実演してもらったことがある。なんと得がたい体験だったことか。

 テレビの普及は共通語の普及をうながし、今や山形弁の価値の方が高くなっているからおもしろい。

 → 井上さんは、その共通語が誕生した経緯については『国語元年』というおもしろい戯曲を書いてくれています。私自身、テレビでそれを見たのを覚えていますが、とても面白かったです。


  ちなみに、安野さんがタイトルに掲げているもう一人亡くなった方は、日高敏隆さんです(今年でなくて、去年)。安野さんが紹介してくれている日高さんの2冊の本は読みたくなり、早速図書館にリクエストを出しました。


  なお、安野さんは連載の最後(=4回目=9月26日掲載分)を、井上ひさしさんの名言で閉じています。「難しいことを易しく、易しいことをふかく、ふかいことをおもしろく」

  『吉里吉里人』にしても、『国語元年』にしても、まさしくこの言葉を実行している本ですから、とても説得力があります。

2010年9月29日水曜日

魂のランドスケープ 5

143 日々の生活に追われていると、大きな時代の流れや、世界の動きに鈍感になってしまう。日常を生きるのに都合のいい機械の一部のようになり、ものを深く考えたり、感じたりしなくなる。また社会は、組織の中の歯車の一部になることを、知らないうちに人々に要求する。

    多くの情報を処理し、多くのメディアの恩恵にあずかって生きていく現代人は、遠い国の人が飢餓で苦しんでいようが、また隣の人が悲しみに打ちひしがれていようが、そうしたことに一つ一つ心を痛めている余裕がない。世界の悲惨は、毎日、日常の上にメディアを通して情報として届いてくる。しかしそれに対して自分に何ができるか、真剣に考えたり、そのことに対して深く同情したり、あるいは実際に何かをその人たちのために実践できる人はほんのわずかだろう。

144 特に日本のような安全な生活になれてしまった国では、世界の大きな動きに対して鈍感になってしまう。そのうえ、日本の生活の中の異様な慌ただしさ、忙しさは、ものを考えたり、感じたりする時間を奪ってしまう。

 ・・・しかし一人の人間が、生き生きと生きていくということは、その人しかわからないような感情や感覚を、深く味わっていくことではないだろうか。人を深く愛したり、自然や芸術を愛したり、自分の仕事に夢中になって働くこと。その人の時間が、密度の濃い神話的なものになるというのは、どれだけ深く自分に与えられた人生の時間を感じ、味わっていたかによるのだと思う。

146 強く希望を持つこと。時代は決して楽観的な展望では、新しく切り開かれることはないだろう。しかしだからといって、悲壮感と絶望にうちひしがれても、何も生み出すことはできないのだ。人間の善意や、美しさへの憧れを持つ心を、強く信じること。そうした信念に貫かれた力強い響きでないといけない。

→ この辺は、まさに『ギヴァー』の中で書かれていることそのままではないでしょうか?



184 空間は音楽に影響を与える。また、その逆もしかり。スペースはとても重要。

187 領域を超えた専門家がアイディアを出し合うことの大切さ。

 20世紀の音楽は、音を生み出す母体としての身体や、空間(劇場)の問題をあまりにないがしろにしてきたように思われる。


→ このことは、『ギヴァー』にも言えてしまうかな~、と思ったりしました。



211 現代のように環境破壊が進み、異常気象が常に起こりつつあるような世界で、人間の内なる自然が破壊されつつあることを私は感じます。人間も自然の一部であるとしたら、人間の生み出す音楽は、最も根源的な自然の音楽なのかもしれません。現代のように、さまざまな医学の発展によって可能なかぎり死というものを見えなくしている社会の中での、人間の音楽は、その本質的な自然さを失っていくのではないか、という危惧を覚えます。こういう私の考え方は非常に古風に見えるかもしれませんが、現代の作曲家の作品に、どこか根源的な自然の力を感じられなくなっています。

212 私は、シューベルトの音楽が非常に好きなのですが、特に彼の晩年の音楽に、人間の根源的な歌、自然と深く関わっていく人間の根源語としての音楽を感じるのです...人間は、外にある自然も内なる自然も失いつつあることによって、こういった人間の歌の本質を失いつつあるのではないでしょうか。


→ ということで、最初から最後まで関連性を感じないわけにはいかない1冊でした。

2010年9月28日火曜日

魂のランドスケープ 4

104 いまの日本でなかなか優れた芸術音楽が生まれないのは、まずそうした緊張感のある作品を、消費社会では誰もが求めていないことにも原因があるのかもしれない。コンビニエンス・ストアの商品のように、便利で早く手に入り、品質はともかく、その場を何とか乗り切れればそれでいい。深みのあるものなど必要ない。そういう考え方が、日本中に染みついてしまったように思う。ゆとりも余裕もない社会

→ ここでの指摘は、みごとなぐらいにすべての分野に浸透していると思います。細川さんは、日本、そしてそれを象徴する東京の虚構性というか、まがいものぶりに憤りを感じています。虚構性やまがいものという感覚は、ジョナスの住むコミュニティに対して感じることでもあります。


111 何より自分自身を、自分で造り上げた偏見の牢獄から解放すること。過去の体験で、自分を縛らないで、常に開かれた心と耳で、音楽を新しく聴き続けていくことが大切だ。

 自分がどういう音楽を聴く背景を持っているのか。どういう音楽教育を受け、どのような音楽をいつも聴かされて育ったか。そして音楽とはいったい自分にとってどんな意味をもつのか。単なる娯楽なのか。それとも聴くことを通して、より深くこの世界や、宇宙について感じる媒体となるものか。そういったことを音楽を聴く前に少し考えてみる。そうすると、音楽体験はさらに豊かに新しい可能性を広げていくにちがいない。

→ この辺のことは、何の分野でも言えることですね。unlearn(間違って身につけてしまった知識や習慣を拭い去ること)の方がlearn(新しいことを学ぶ)よりもはるかに大切であると同時に、難しいということだと思います。


113 先日バリ島にはじめて行って、ガムラン音楽とダンスを見てきた...ぼくが驚いたのは、そのダンスと音楽の持っている深い静けさだった。音量的に言えば、ガムラン音楽は決して静かなものではなく、かなり賑やかなものなのだが、それがバリ島の野外に響きはじめると、ガムランの金属音は大気に溶けて、空間に見えない精霊たちの声のように、優しく優雅に漂うのだ。そしてその響きは、大地からゆっくりとたゆいながら天に昇って行く。

115  日本に帰ってきて、全国合唱音楽コンクールの優勝団体の演奏するヴィデオを見る機会があった...演奏する子どもたちの見事なアンサンブルに驚いた。一糸乱れぬ演奏というのだろうか。実に訓練が行き届いて、正確でしっかりした演奏。彼らは同じ制服を着て、真剣に歌う顔の表情まで皆よく似ている。そしてその整った演奏は、どの地方の子どもたちもよく似ている。ぼくは、子どもたちのきまじめな演奏にひかれながらも、少しずつ不安がこみあげてきた。その不安は、ちょうど軍隊の一糸乱れぬ行進を見ているときの不安といったらいいのだろうか。そういった秩序ある姿に、確かにぼくたちはある美しさを感じる。しかし、その制度化された秩序は、そこに生きている一人一人の内面の声を実現しているのだろうか。

116 日本の全国の子どもたちを教える現場で、こうした音楽の画一化が進んでいる。そしてそこで教えられる音楽も、西洋の19世紀に作られた音楽を安易にコピーした日本人の音楽が教えられている。明治以降、日本が西洋の近代音楽を取り入れてから、日本の音楽教育は駆け足で西洋近代音楽を受容することに懸命になった。その際、日本人が長い時間をかけて育てていた微妙な音感を切り捨ててきた...日本の伝統音楽が持っていた微妙なずれや揺らぎを表現する音感は、次第に忘れられていく。

 現代生活を営むものの周辺に洪水のようにあふれている音楽...それらの音楽は、一様に西洋の近代に形作られた音システムに基づいている。それは、いわゆるメロディーに調性のあるハーモニーとリズムが付く音楽である...そういった商業主義は、西洋音楽そのものの姿をも歪めていく。19世紀の西洋音楽は、決してわかりやすい音楽でも、安全無害な音楽でもなかった。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ヴァーグナーといったドイツ音楽の流れを見ただけでも、過去の伝統への挑戦と冒険の歴史だった。

117 ガムランも、日本の伝統音楽も、西洋音楽も、そのオリジンの持っていた深く微妙な世界を省みることなく、あまりに安易に流用され、至る所で安易な融合が行われていく。そして、その本来持っている姿が失われていく。

118 音の持つ微妙なニュアンスを忘れていくことは、ぼくたちの持つ固有の言語や文化を失っていくことにつながるだろう。現代のように、簡単に世界中の音楽が聴ける状況にあると、ぼくたちはそれをあまりに表層のレヴェルで捉えて、その音楽の背景や、深層を捉えようとしない。異文化とのほんとうの「出会い」と「融合」は、その文化を徹底的に知って、その深層と出会うことによって、自分自身を客体化し、そして自分の文化をより深く知ることを促す。そしてその出会いが、かつてなかった新しい次元へ自分自身を押し上げるような形で行われたときに、本当の意味のある出来事となるだろう。

→ 113~118ページに書かれている指摘は、とても重いものがあると思いました。

2010年9月27日月曜日

魂のランドスケープ 3

72 ぼくがヨーロッパ音楽の中で最も惹かれるのは、その深く観想的な世界である。中世の宗教音楽ばかりでなく、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトといった人たちの中にも深く流れている観想的な世界。ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏やピアノソナタの中に流れる、観想的、瞑想的な世界は、ぼくにとって音楽を聴く最も大きな喜びである。観想的とは、現実で捉える世界の枠組みがはずれて、より根源的な宇宙の中に素材が解体され、その本来のエネルギーが泉のように流れ始める様を、ぼくは考えている。音楽が、その人の自己を越えてより深いものとかかわり合いながら、流れ始める瞬間といったらいいのだろうか。ぼくは音楽にそういった時間を求めている。どんなによくかけた音楽も、そうした観想的な世界のない音楽は、ぼくには退屈なのである。

 仏教のお坊さんも雅楽の演奏家たちも、舞台の上に座っただけで、存在感がある。深く観想的で、深い静けさを持っている。そこから、千年にわたって伝えられてきた声が響き始める。日本というものに愛想をつかして、日本から離れようとしてヨーロッパに出てきたぼくだが、この日本のお坊さんたちの深く自分に根を下ろした存在と、彼らの存在の奥からの響きである声には、強く感動した。

→ この辺は、なんとコメントしていいかわかりませんが、とてもいいというか、共感できると思いました。

82 歌は、時間と空間を生み出していく。生きていく場所を獲得し、自分の存在を主張する。小鳥が歌うのは、自分の生きる縄張り(テリトリー)を獲得することであり、また他の鳥への求愛のポーズでもあるという。
  音楽は、いやおうなしに相手の空間を占領してしまう力がある。絵画や彫刻のように、目をそらせば作品を拒否することができるわけではない。音楽は人を包み込み、ある一定の時間はその内に人を占領する。
 世界中がメディアの発展で、けたたましく音をまき散らしているのは、誰もが自分をアピールしようとして、また他者の気を引こうとして音を利用するためだ。
 音楽を書いていくことは、自分を主張するエゴイスティックな欲望があるに違いない。しかしぼくは、できたらそうしたエゴを越えた、自己(セルフ)の発見につながる道を音楽を通して見つけていきたい。
 自分の生み出す音楽が、単に自分の感情の表現に終わらず、そうした感情をより高い感情に高め、浄化した世界を持ったものであってほしい。
83 日本の普通の音楽のレベルの低さ → 日本の演歌や歌謡曲は、人を少しも変化させることがない。
 小鳥たちは求愛のために歌を歌うといったが、音楽のほんとうに気高い歌は、人間を越えたものへの憧れの形を持っているのだろう。
84 深い静けさを孕んだ音楽、海のそこのような深い沈黙を内に抱えた音楽が書きたい...世界の喧騒を吸い込んでしまうような力強い音楽空間があることを信じたいのである。
  現代の多くの人が、注意深く音を、また音楽を聴いていないのは残念なことだ。しかし世界中に氾濫している音を一つ一つていねいに聞いていたら、神経が麻痺してしまうだろう。今の時代は、音を聴かない訓練を、誰もがしなければいけないのだろうか。
 京都の石庭に行くと、その庭の説明と尺八音楽が、きわめて悪質な音でスピーカーから流れている。石庭の静けさはどこにいったのだろう。その庭の孕んでいる謎と神秘はどこにあるのか。説明できない部分、その余白の部分にこそ、その庭の美しさの秘密があるのはないのか。どうして日本人は何もかも、親切に説明したがるのだろう。大切なことを玉って味わうことはできないのだろうか。
 禅の教える、すべての説明を拒む厳しい精神はもう死んでしまったのか。そして常に根源的な場所へ還っていくための力強い否定はどこにあるのだろう。

→ 現代人も、ジョナスのコミュニティの住民と同じように、かなり危ない状況におかれつつあるということ。

91 芸術家が自己満足をはじめるとおしまいだ。
   日本から本当に新しい音楽芸術が生まれないのは、ぼくたちが本当の意味での批評精神を持っていないからだろう。

→ 批評精神が求められるのは音楽の世界の中だけでなく、すべての世界でそうだと思います。政治の世界などは皆無に等しいので、それこそひどい状態が続いているんだと思います。そういう意味では、『ギヴァー』のコミュニティとすでに同じ状況ができあがっているとしか言いようがない感じです。

2010年9月26日日曜日

魂のランドスケープ 2

 昨夜、和楽器のAUN J Concertがモンサンミシェル(世界遺産の中でも最も人気のあるフランスの教会)であったという番組を見ました。細川さんなら、どうコメントするのかなと、ふと思いつつ。

56 音楽の表現は微妙で無限である。その微妙な表現は、私たちが生きていく上で経験するさまざまな感情や感覚と共鳴しあい、より深く私たちが世界とふれあうことを促してくれる。私たちの感受性は、より豊かに繊細に変化していく。
57 音楽の喜びは、私たちが思い描いている世界、習慣にがんじがらめになっている世界を変化させ、まだ知らなかった新しい世界を、「聴くこと」を通して体験することだ。それは自分の中に埋もれていた知覚を刺激し、自分の中に眠っている宇宙的な感覚、リズム、響きを呼び覚ます。

→ 吉野弘さんの「詩」と同じですね。
  その意味では、詩が誰でも作れるように、音楽も誰でも作れるような教育はとても大切な気がします。私は、残念ながらどちらも受けていません。というか、私の側に問題があったのかもしれません。教えてくれていたにもかかわらず、私の方がそれを受け取っていなかった、ということで。


59 音楽を聴くことは、単にその人の感情生活を豊かにするばかりでなく、私たちが生きていく上での、世界への関わりを根本的に深めてくれる。虚心になって、音楽を、音を聴く人は、他者からの声を、言葉を深く聴くことだろう。そして私たちの周りに響く自然の声にも、かつまた自分自身の内なる声にも耳を澄ますことができるだろう。聴くことを深めていくことによって、私たちはほんとうの「静けさ」を自分のうちに見いだし、そこからさらに、自分自身の声と言葉を見つけていくことへ歩み始める。


→ 作り出さなくても、聴けるようにすることだけでも価値があるのかもしれません。



65 私は日本の伝統音楽の声明や雅楽、そして能楽と関わることで、それらの音楽のもつ美しさに自分の感覚が深く共鳴していくようになった。とはいえ、私は西洋の偉大な作曲家たちの音楽に向かうように、身も心も日本の音楽にひかれるということはなった。日本の音楽には、何か閉じたもの、閉鎖的な世界を感じてしまう。

 それはなぜだろう。日本の音楽には、どうしてもその音楽が生まれた社会との関わりを強く感じてしまう。そしてその社会は、私にとってきわめて閉鎖的で封建的な社会なのである。

 音楽を求めること、それはそうした閉鎖的な古い人間から解放されて、より自由な世界を摑むことではないのか。がんじがらめになった人間関係を越えて、響きわたるのがほんとうの音楽ではないか。日常の響きを越えて、より高い次元で宇宙に響くのが音楽ではないのか。そういう音楽の形を日本の音楽伝統は知らなかったのではないか。

66 ヨーロッパの高い芸術音楽が響きわたる時空には、生きることの深い喜びと悲しみが同時に存在する。そこでは、喜びを熱狂的にお祭り気分にして騒いだり、悲しみをおどろおどろしく表現することは退けられる。そこには透明な色調が常に流れている。

 日本の音楽の格調の高い独自な世界が、どのようにしたら閉鎖的な世界を越えて、もっと豊かで自由な表現を生みでしていけるのだろうか。


→ 細川さんの悩みは、ジョナスの悩みにとても近いと思ってしまいました。


  また、音楽の分野に限らず、似たような感覚を持っている人は少なくないのではとも思いました。


71 音楽は、演奏する人と、主体的に聴く人とが、共に作っていくのだろう。
→ 書くこと、読むこと、話すこと、聞くことも、同じ気がします。 芸術は皆そう。詩も、絵も、彫刻も。考えることも、生きることも? スポーツも?

2010年9月25日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 44

 前回の「詩」の後は、「音楽」です。
 本のタイトルは、『魂のランドスケープ』。書いた人は、日本を代表する作曲家の細川俊夫さん。
 この本を最初に手にしたときに、『ギヴァー』との接点がこんなに見出せる本とは思っていませんでした。メモを取った量もかなりなので、関連するところに切り詰めたうえで、5回ぐらいに分けて紹介していきます。(数字は、ページ数です)
 詩の本との違いは、詩の本の方はなんとか読んだり、書き始める動機づけになっていますが、音楽の方は私にとってははるかにハードルが高いです。でも、聴くこと、観ることはやっていこうと思います。

12 世界の中で日本人ほど、自然への畏敬を失い、自然を無神経に破壊していく民族も少ないだろう。自然を大切にしない民族は、文化を大切にしない。現在の日本にあって、音と自然、そして人間と音との豊かなあり方を追究していくのは難しい。
16~7 「さわり」「触る」「障り」の排除。人間のもつ自然さ、野生、弱さ、障害、困難、ノイズを切り捨ててきた。そしてその結果、科学の進歩と共に人間社会はさまざまな便利さと合理化を獲得したと同時に、自然破壊や公害、人間の疎外といった問題を抱えるようになった。

→ 大切なものを失っているのは、ジョナスのコミュニティだけでなくて、すでに日本、そして世界も同じのようです。


28 景色は、当然絵に影響を及ぼす。 しかし、音楽にも影響を及ぼす。
33 空間の質 ~ 住む人の精神 ニューヨークの街中で修道女たちが住む空間 = 別世界

→ 視覚や聴覚だけでなく、あらゆる感覚に言えること。その意味では、色のないジョナスのコミュニティでは絵画や音楽をはじめ多くの芸術と共に、感覚的なもののほとんどをすでに失っている気がします。
 「精神」という言葉が、相変わらず分からないままが続いています。「こころ」と置き換えると、分かったような気にはなれますが、ピシャッとはまる感じはしません。

44 自分自身の音楽への取り組みについて ~ 「私の音楽の出発点は、日本で禅を学んでおられる神父さんにこんなヒントをいただいたことから始まった。それは、書道をするとき、彼はいきなり白い紙に線を描くことをせずに虚空の一点に焦点を定め、その一点から運動を起こし、そして紙の上を通ってまたその一点に帰ってくる。そのとき、目に見える白紙に残された「線」は全体の線運動の一部にすぎない。目に見える世界、耳に聴こえる世界は、世界の一パートにすぎない。私の音楽は空間への、また時間への書道(カリグラフィー)であり、聴こえてくる音は、その目に見える「線」の部分だろう。そして聴こえる世界は、聴こえない世界の一部分にすぎない。そのような音楽を創りたいと思っている。」
45 「またそのことは、私のものの捉え方のすべてにかかわってくる。私がここに生きているということは、私の力では動かしがたい目に見えない力が私の背景で私を支えているということだろう。私は、いつもその力を感じて生きていきたい。そして、より深くその力を感じることができるために、また、そういった世界を表現し、暗示するために私は音楽を書いているのかもしれない。私はいつも生の余白、音楽の余白、そして言葉の余白をより深く感じて生きたい。そうするためには、私自身が空白の余白になること。つまり私の存在のうちに潜む目に見えない空白の力を感じるために、自身の沈黙を深めていかねばならない。沈黙し、耳を傾けること。語る前に黙ることを学ばねばならない。自分の内なる声を、そして他者の声を「聴くこと」が音楽家としての最初のステップだと思っている。」

→ ほとんど禅僧という感じです! しかし、芸術にかかわる人たちはこのような感覚を持った人が少なくないことは事実のようです。たとえば、彫刻家は木に語らせる、という感じで。


51 芭蕉の句に「構造」「仕掛け」があるからである。そしてそれが、創造ということだろう。

→ 細川さんは、芭蕉の句は言葉と「構造」と「仕掛け」によって創り出されるものと捉えていますが、音楽は「言葉のない言葉」です(46ページ)。そして、音楽が「私たちの内に眠り、埋もれつつある感性を呼び覚ます。そして私たちの習慣化し惰性となった人間関係を、生き生きとした豊かなものへ変化させていく」役割を担えるものにしていきたいという願いがあるようです(47ページ)。

2010年9月21日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 43

 前回に続いて「詩」です。

 今回のは、『クヌギおやじの百万年』工藤直子・詩、今森光彦・写真です。

 ジョナスのコミュニティを、世界の、そして宇宙の一部として延々と受け継がれてきた(記憶も受け継がれてきた)ではあるのですが、この本の詩や写真で描かれている部分はすでに消えてしまっていると思うのです。

 しかし、ジョナスはコミュニティを離れ、「いずこ」に向かって進む中で、川や森や鳥や動物たちを見ました。ジョナスのコミュニティからはなくなって久しいものが、まだ存在しているところがあることに、ジョナスは驚きました。

 私自身もまだよくわかっていないのですが、『ギヴァー』の続編的な本は2冊あるのですが、現時点では3冊目のシリーズ最後の本の影の主役はひょっとしたら「森」なのかもしれません。(それを読んだ時は、そんなふうには解釈していなかったのですが、今回の詩と写真を読み、そしてその本と『ギヴァー』との関連を考えたことで、いま始めてフッと思ったことです。)


追加: 同じ工藤直子の『おはつ』に書かれている詩や写っている写真の光景も、ジョナスのコミュニティにはないんだろな~、と思ってしまいました。動植物の存在自体が、かなり管理されている社会では想像できませんから。動植物が管理されていて、人間だけが自由であり続けられることが果たして可能なのか、とも思ってしまいます。

2010年9月17日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 42

 今日は、『詩の楽しみ』吉野弘著との関連です。

 この本は、もちろん詩はどういうふうにして作れるのかな、という興味・関心で手に取ったのですが、いつもの常で読んでいる最中、私の頭の中の20分の1か2は『ギヴァー』の視点が占めています。

 以下、私が『ギヴァー』との関連で読み取ったことを紹介します。(詩にこだわりがある人にとっては、いい迷惑かもしれませんが、詩をつくる方法=思考する方法=行動を起こす方法という関係にあることだけは確かなように思えました。もちろん、詩の場合は、言葉の表現を使ってアクションを起こしているとも取れます。)


2 詩とは、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”が私の定義。

 詩は、誰でも書くことができます。詩は、誰の前にも平等に開かれています。

 → 行動(その前提になる思考)も、“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”と言えると思うのですが...まさに、ジョナスのアクションによって示されたように。


8 私たちがある対象を歌ったり描いたりするのは、その対象への関心があるからですが、その関心が働く限り、新しい見方は無限に可能になり、詩が生まれる可能性もあるというわけです。

 → 芸術一般に言えることですが、話すこと、書くこと、考えること、そして行動することについても言えちゃいますね。上のことを、下ではさらに詳しく説明してくれています。まさに、「関心やこだわりの強さ・深さの反映」だということも同じだと思います。


14 ある対象を個性的にほめるというのが、詩の(文学の、と言ってもいいでしょう)方法だといえるでしょう。個性的にということは、定石に頼らずに、その人の流儀で、その人のほめ方で、ということです。
  私には、表現とは対象をほめることだという考え方があります。対象に惚れこむことです。対象は何でもいいのです。心惹かれた対象をほめようと思い、それを明確に意識の中に持ちこもうとしたり、他者に伝達しようとするとき、私たちにできる最高のことは、それを、すでに言われた表現方法によってではなく、個性的に行うということです。それが“詩の方法”です。
 表現の面白さは、関心の強さ・深さの反映です。


Ⅳ 私が詩を書きたくなるとき
168 それまでの私のものの見方や感じ方に“揺れ”ないし“ずれ”が生じて新しいことに気づこうとしている状態、あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの意味に気づく状態= 固定観念(決まりきった物の見方・感じ方・やり方)のズレ現象が起こったとき。

 → “揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”、どれも新たな行動に不可欠な要素だと思います。198ページには、“無知(の認識?)”と“好奇心”も加えられています。


194 めしべとおしべの大きさの違いは、自花受粉を困難にさせ、虫、風、水等の媒体を通した受粉を容易にさせるシステム → 他者の存在の大切さを認識

 → 何よりも、こういう気づきから詩が生まれることに驚いたのですが...
   ジョナスのコミュニティでは、他者の存在がないので、誰も気づけない、揺れない、ずれない、好奇心がもてない状態が続いています。ジョナスだけはギヴァーという他者(仲介者)を得ることで、“揺れ”“ずれ”“気づき”“固定観念のズレ現象”が起こったり、“無知(の認識?)”“好奇心”をもつことができました。
   私たちには「他者」がいるでしょうか?

2010年9月15日水曜日

『ギヴァー』と関連のある本 41

 『仕事ってなんだろう』(佼成出版社)です。

 これは、「子どもだって哲学」シリーズの第5巻で、5人の著者が書いています。

 私が読んだのは、矢崎節夫さん。他の4人は読んでいません。

 シリーズの他の巻は、お馴染みの『ギヴァー』のテーマでもある①いのち、②自分、③家族、④愛を扱っていますが、いまはちょっと読む気がしません。もし読まれた方は、ぜひ『ギヴァー』との関連を教えてください。

 矢崎さんは、童謡や童話を書いたり、詩を編集したり(書いてもいたかな?)する仕事をしている人ですが、あの金子みすゞの紹介者として有名な人です。

 矢崎さんは、「小学校3年までのぼくは、本を読むことよりは外で遊ぶのが大好きな子どもでした。学校は休み時間と体育の時間と給食の時間のためにだけ、行っていたといっていいでしょう」と書いています。これは、私も同じですし(私の場合は、これが大学院まで続いてしまいました。悲劇です!)、世のほとんどの子どもが同じなのかもしれません。ジョナスも同じだったかもしれません。★

 しかし、小学4年の時の担任の先生が、詩が好きな人で、毎週自分の好きな詩人の詩を貼り出してくれていたことが、矢崎少年を詩好きな少年に変えました。そして、おかあさんに「ぼく、詩の本が読みたい」というと、単にたくさんの詩人たちを紹介してくれただけでなく、詩人のすばらしさを語ってくれ(「詩を書くということは、人の心にひびく最高の仕事です」まで言い)、「あなたが詩を書きたければ、自分の心を豊かに育てなければなりません。詩の本だけでなく、たくさんの本を読むといいですよ」と買ってくれましたし、その後、矢崎さんは図書館の本も読み始めたそうです。

 → この辺、ジョナスに対するギヴァーが果たしていた役割に似ています。

   残念ながら、唯一本がたくさんある部屋に毎日通いながらも、それらの本を読んでいるところは、一つも描かれてはいませんでしたが、ギヴァーから記憶を注がれることで、本を読んで得られるのと同じ(似た?)体験をしていたものと思われます。

 大学に入って矢崎さんが最初にしたことは、『日本童謡集』を読むことだったそうです。その中に、日本の代表的な同様三百数十編が納められているのですが、彼は金子みすゞの「大漁」を読んで衝撃を受けました。そして、それ以降16年間、矢崎さんのみすゞの童謡というか詩を探し求める旅が始まりました。

 矢崎さんは、みすゞの作品は、「私とあなた」ではなく、「あなたと私」という視点(まなざし)を提供してくれているといいます。要するに、“大切なことは相手から見ないと、見えてこない”。そしてもう一つ、“すべては2つで一つ”だということ(昼と夜、光と影、喜びと悲しみ、目に見えるものと見えないもの、生きることと死ぬことなど)、“私だけの幸せではなく、あなたの幸せがあって、私の幸せがあって世界は成り立っている”ということも提示してくれていると言います。

 → これも、まさに『ギヴァー』に含まれているメッセージというか、ジョナスの言動から読み取れることのような気がします。


 なお、「私とあなた」ではなく「あなたと私」に関して、矢崎さんは「相手より自分の位置を上に置いていたまなざしを、相手の位置まで下げた時に、初めて相手のことが理解できるのです。だから、理解するとは英語でunderstand、アンダー(下に)スタンド(立つ)と書くのですね」(30ページ)書いています。

 → なんの気なしに使っていましたが、そういうことだったんですね。ちなみに、英語で「理解する」には、seeも使います。「見える」です。見えないと、当然わからないからでしょうが、understandについて上のように書かれると、関係性まで含めて「見える」から「理解する」になるという錯覚を起こしたくなります。


★ しかし、それでいいとは思いません。とてももったいない時間の過ごし方だと思います。矢崎さんの小学4年の担任の先生がしたように、枠にはめられた中でも、教師にできることはいくらでもあると思います。休み時間と体育と給食以外の時間でも。いまは、それを何とかすることに最大の関心があります。理由は、それが矢崎さんの事例が示してくれているように、仕事にも、社会のあり方にもつながっていると思うからです。

2010年9月11日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本 40

 『木を植えた男』(ジャン・ジオノ作、あすなろ書房)です。

 この絵本が出たころ読んだ(というよりは「目を通した」)のですが、今回は『ギヴァー』を読んでいたので、まったく読み方が違いました。今回は、フレデリック・バックの絵のすごさも伝わってきました。

 木を植えた男は、子どもと妻を亡くした後、荒涼とした土地に移り住み、その地を緑に変えるために、何十年もひたすら木を植え続けました。地域の再生のために。水も戻ってきました。そして、誰に知られることなく、養老院で生涯を閉じました。

 それに対して、ジョナスは家族を見放す形でコミュニティを飛び出すことで、木も、水も、鳥も、雪もある<よそ>にたどり着きました。ゲイブリエルだけを連れて。

 アプローチは異なりますが、自分の信じることを貫く強い意志が共通点です。そして自分よりも他者/コミュニティのことを考えた行為であるという点も。

 両方に、荒廃の象徴としての戦争も登場します。人々の無関心・無表情的な部分も。

 『木を植えた男』の中のミツバチは何を象徴しているのでしょうか?

2010年9月2日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 39

 20回連載したレッスン・プラン(『ギヴァー』を使った授業案)の紹介は、昨日をもって終了でした。「本を読んだ後のフィードバックの仕方は、多様にあるんだ」と思ってくれたら、うれしいです。さらに実際試していただけたら、なおうれしいです。

 今日は、しばらくぶりの「関連のある本」の紹介です。

 彼これ30年ぐらい前の本ですが、五木寛之の『戒厳令の夜』(1976年)、『鳥の歌』(1982年)、『風の王国』(1985年)や、60年代後半から70年代半ばにかけてのエッセイ集などは、『ギヴァー』と似たテーマを扱っていると言えないでしょうか?(ちょっと角度というか、視点は違うかもしれませんが...)

 そういうテーマに五木さんが長年こだわり続けていることは、『五木寛之こころの新書』シリーズを読んでもわかります。そして、最近このブログでも紹介した『親鸞』を読んでも。


★ 今年の初めから今日までは、なんとか毎日を原則に書いてきましたが、明日からは「書けるときに書く」に方針転換です。(というか、単純に8ヶ月以上も書いてきて、ネタが切れてしまっただけです。)
  最初は、3~4ヶ月もつかな、と思っていたぐらいですから、8ヶ月というのは自分でも驚いています。(『ギヴァー』が自分の頭の20分の1ぐらいを占める生活を過去8ヶ月間してきたようなもんですから、得がたい経験でした。)
  この間、様々な出合いがありましたが、中でも「哲学」との出合いは大きかったです。それこそ、私の人生観を変えるぐらいに。

2010年9月1日水曜日

⑳ニューベリー賞受賞作品読破プロジェクト

『ギヴァー』は、ニューベリー賞を受賞した本なので、他にニューベリー賞を受賞した本をできるだけ読んでみるというプロジェクトをやってみてはいかがでしょうか。
ちなみに、ロイス・ローリーはもう一冊の本『ふたりの星』でも、この賞を受賞しています。

ニューベリー賞には、どんな基準があるか解明できますか?

日本には児童文学の賞はあるのだろうかと調べてみたところ、なんと23も、ありました。まったく知らずに、失礼しました。読みたくなる文学賞は、どこのかを解明するのもおもしろいと思います。選書能力の大事な柱になりますから。


★ 本を読む総体的な力を考えた場合に、選書能力は極めて大事なのですが、日本の学校教育で扱っている人は、極めて稀だと思います。

2010年8月31日火曜日

⑲著者とのやりとり

 この本を書いてくれたことへの感謝の手紙をローリーさんに書くと同時に(あるいは)、あなたが考えたことや抱いた疑問・質問などを実際に書いてみましょう。 
★実際に書かれた方はお送りください。本人に転送しますので。

 もし、この本を改善するためにアドバイスをもらえませんかという手紙をローリーさん本人からもらったらとしたら、どう答えますか。

2010年8月30日月曜日

⑱著者へのインタビュー

まず、著者になったつもりで、なぜこの本を執筆したのかを考えてみましょう。

その上で、著者にインタビューできるとしたら、どんなことを質問したいか考えてみましょう。

インタビューにはなりませんが、できたらぜひお送りください。著者に送って答えてもらいますから。


どうも、日本の学校ではまだいいインタビューをするためのスキルというのを、ちゃんと教えていないようです。ライフ・スキルの一つなのに。

★子どもを対象に限定しませんが、このテーマでいい本が出ていたら、ぜひ教えてください。

私のお薦めは、『テーマ・ワーク』(国際理解教育センター・発行)で、95ページに極めて簡潔に紹介されています。

2010年8月29日日曜日

⑰『ギヴァー』の紹介文

 もし、『ギヴァー』を読んで面白かった場合は、下の学年の子たちが『ギヴァー』を読みたくなるような、紹介文(書評)を書いて、実際に届けます。 (読んだ反応をもらえるようにも、努力します!?)

 書いた後に、アマゾン等に書かれている大人が書いた書評を見せて、自分が書いたものと似ている部分、違う部分の比較をしてみるといいかもしれません。


付け足し:

 『ギヴァー』が面白くなかった人は、不満な点をリストアップして、ぜひ送ってください。(それを改善する方法まで考えてくれたら、著者に送ります!!)

 『ギヴァー』を友だち、親、校長になぜ推薦したいのか(あるいは、したくないのか)を説明してみるというだけでも価値はあるかもしれません。

2010年8月28日土曜日

⑯難しい問題ついて考えてみる

・ジョナスの父をはじめ、ジョナスとギヴァー以外のコミュニティの人たちには「良心(善悪の観念)」はあると思いますか? 記憶なしでは善悪の観念をもつことはできないのでしょうか?

・安心できること と 選択できることの トレードオフについてはどうでしょうか?

・ジョナスのコミュニティの住民は(ギヴァーとジョナス以外は)、感情がありません。その状態を作り出すために使っている方法にはどんなものがあるでしょうか?  そんなことはいいことなんでしょうか?

・安楽死に対する、あなたの考えは?

2010年8月27日金曜日

⑮与えることと受け取ること

 ギヴァー、ジョナス、そしてゲイブリエルの3者の関係を振り返りながら、「与えること」と「受け取ること」の関係について考えます。

 つまり、「ギヴァー」と「レシーヴァー」に込められている意味を考える、ということです。

 いったい「与える」とはどういうことで、「受け取る」とはどういうことなのでしょうか?

2010年8月26日木曜日

⑭『ギヴァー』のテーマを話し合う

 『ギヴァー』を読んだ後に、①この本で扱われていたテーマにはどんなものがあるかを各自が考え、②互いが考えたテーマを3~5人のグループで紹介し合います。①と②を同じ時間内にするよりは、何日かおいてじっくり考える時間があった方がいいかもしれません。

 さらに、クラス全体で出したテーマのリストの中から、各自が一つずつ担当し、同じテーマを扱った本でいいのを親や他のクラスの先生や図書館の司書等に聞いて(あるいは、ネットで検索したりして)リストアップし、読みたそうなのがあったら実際に読んでみてはいかがでしょうか。

2010年8月25日水曜日

⑬象徴についての考察

「赤」は、何を象徴していると思いますか?

「自転車」は?

老年の家で、ジョナスがラリッサを入浴介助している光景から、著者が伝えようとしたものは何だと思いますか?

他に、象徴しているものはありますか?

2010年8月24日火曜日

⑫色と感情

 多様な色が含まれている色紙を用意し、順番に見せながら、それぞれの色が喚起する感情を書き出してもらいます。小グループになって、互いに書いたものを共有しあった上で、全体でなぜギヴァーのコミュニティには色をなくしてしまったのかを話し合います。

 色の感情については、『最高のプレゼンテーション』の138ページ(以下のリスト)が参考になります。(これは、西洋の観点から見た色と感情ですから、日本人にとっては若干異なる色と感情の組み合わせもあるかもしれません。納得のいく組み合わせを、ぜひ考えてみてください。)
そうなんです、プレゼンの時にも気を配る必要があるのです!!


●色のリスト

赤: 停止、警戒、情熱、戦争、暴力、人生、革命
黒: 死、重要、重力、夜、厳粛
緑: 成長、自然、若さ、健康、生、新しい人生、前進
白: 希望、真理、新しさ、新鮮、手つかず、無菌状態、清潔、純潔
オレンジ/黄色: 温かさ、幸せ、楽観主義、賢さ、注意
青: 献身、信頼、公平、正義、寛大、尊厳、安定性
紫: 精神性、王権、洗練さ、郷愁、富
茶色: 成熟、高潔さ、中立性、慎重さ

2010年8月23日月曜日

⑪記憶、記憶、記憶

 ギヴァーがジョナスに注ぎ込んだ記憶をリストアップした後で、自分がギヴァーだったら、どんな記憶をジョナスに注ぎ込みたいかを書き出します。

 その後で、4人一組のグループになって、5分間ずつリストの各項目に対して反応を書いて、順番に回していきます。15分経ったら、他の3人分の反応つきの記憶のリストが自分に戻ってきます。

2010年8月22日日曜日

⑩ジョナスの悩み

 『ギヴァー』の中でジョナスが抱えていた対外的な(周りの人たちとの)矛盾と、内面的な(自分の中にあった)矛盾について考えてリストアップし、それを互いに紹介し合います。

 そして、それらが自分たちの抱えている矛盾と似ている点と異なる点について考えてみるといいかもしれません。

2010年8月21日土曜日

⑨読み終わった後に...

 本を読んだ後に、各自で以下のことをし、その後にグループで、そして最後にはクラス全体で共有し合います。

① わかりにくい言葉や文章をリストアップする。
② 重要な出来事を選び出す。
③ 大切なモノを選ぶ。
④ 登場人物のうちの誰かについて、250字で書き出してみる。
⑤ 登場人物の中で友だちにしたい(あるいは、したくない)人を一人選び、その理由を述べてみる。

その他: 
・ 本の内容を、150字、400字、800字(のいずれか)でまとめてみる。
・ 友だちへの紹介文を書く。
・ 本とは異なる終わり方を書いてみる。
・ 映画にしたら受けることを説明する。(配役まで考えてみる)
・ もっともおもしろい(興奮した)出来事について話してみる。
・ 本から学んだことをリストアップする。

2010年8月20日金曜日

⑧ジョナスがコミュニティを飛び出さないとしたら...

 昨日のとは逆に、最初からジョナスがコミュニティを飛び出さないという前提だったら、この『ギヴァー』という小説は成立したかどうかを考えてみます。(19章ぐらいまでは、いまのままだとしたら、納得するような終わり方に持っていけるでしょうか?)

 長いストーリーを書くのは大変なのでアウトラインだけを考えて、紹介し合うといいでしょう。

2010年8月19日木曜日

⑦第24章を書いてみる

 読み終わった後に、ジョナスとゲイブリエルが「どこか」にたどり着いたと仮定して、最後の章を書いて、クラスで紹介し合います。

 文章を書く時間を確保するのが大変であれば、アウトラインだけを書いて紹介し合うのでもいいでしょう。

2010年8月18日水曜日

⑥大切なユーモアと遊び心

 ユーモアと遊び心は決定的に大切です。(ニック・ホーンビィの『いい人になる方法』が、それを確認させてくれました。)

 何をするにもです。
 書くとき(読むとき)もです。

 『ギヴァー』の中には、この要素はあったでしょうか? アッシャーが一人で担っていたのでしょうか?
 アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』では、この要素はどこにあったでしょうか?

 『いい人になる方法』のニック・ホーンビィにあやかって、こんなことをしてみてはどうかと考えました。
 たとえば、親鸞★がコミュニティを脱出する前の日の夜遅く、ジョナス宅のジョナスの部屋のドアをノックしたとして、2人の会話を書いてみましょう、という課題です。 もちろん、真面目なやり取りでもかまいませんが、可能なら、ユーモアと遊び心を大切にしたやり取りにぜひ挑戦してみてください。

★ 別に「親鸞」にこだわる必要はありません。対象にとってなじみのある歴史上の人物であれば、誰でもOKです。