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2011年3月30日水曜日

地震・津波

 3月11日の地震と津波、そしてその後の原発事故以来、しばらく書けませんでした。

 こんなことが起こってしまうんだ!

 3月11日の2:46の前と後では、確実に違います。
 そして、違くしていかなければなりません。

 ギヴァーとの絡みでは、あのコミュニティでは土地の凹凸をなくし、天気も制御しているようですが、地震への備えはあったのかな、と考えました。
 おそらく、少女時代に東京を体験していた著者によって書かれた作品ですが、地震のこわさは書いたときは忘れていたようです。
 また、内陸に舞台は設定されているようなので、津波の危険もありません。

 いったいジョナスのコミュニティのエネルギー源は何なんだ、とも考え続けました。
 あまりエネルギーの無駄づかいをしているようには思われませんが、何なのかはわかりません。天気の制御ができるくらいですだから、自然系のエネルギーなのかな、と思ったり...

 今回の地震と津波は天災でしたが(いろいろな形で準備はしていたのにも関わらず、それをはるかに上回る規模だったという意味で)、その後のいろいろな報道で、原発事故はどうも人災の部分が否定できないようです。

2011年3月10日木曜日

評価について 2

 前回、「評価について」書いてから、ずっと考え続けています。
 最近、京大をはじめ複数の大学でカンニングがあった事件も、この問題が噴出した一つの形態だと思います。もちろん、あってはいけないことですが、システムがおかしいのですから、今後も起きるでしょう。根本的な方向転換が求められています。そのための具体的な資料として、



表を2回クリックすると、拡大で見られます。

 評価というと、テストという方法しか思い浮かばず、従って、「私たちは評価をされる者」「評価をするのは教師」という構造ができあがっていると思います。ちなみに、点数や点数に基づいた成績をいくら出されようが、それが学びの向上を招くことはないことがすでに研究の結果わかっているようです。少なくとも、評価はイヤなものであり、私たちを受動的な立場のままにします。

 それに対して、右側の「学びのための評価」は、学習している間にその質と量を改善することが、そもそもの目的になっています。あくまでも良くすることがねらいです。そのためには、生徒たち自身が主役であることが前提になります。もちろん、教師にとっては教え方の改善が求められますから、同じように主役であることが求められます。(しかし、左側の評価=テストでは、点数や成績をつけることで、教師が行う授業が改善されることはありません。)

 同じ時間を費やすなら、どちらに費やした方が、個々人にとって、そして社会全体にとって得るものが多いと思われますか?

 もう一つは、多様な評価の方法についての表です。
 

2つの表とも、出典は『テストだけでは測れない!』(NHK生活人新書、絶版)で、下の表の右側の方法について詳しく紹介したのが、その本の内容でした。

2011年3月5日土曜日

評価について

 前回、学校について比較してみましたが、その中で

24 適正評価は、絶えず行われていること。つまり、一発のテストではないこと

と書きました。より詳しくは「去年はずっと、観察の目が強まっているのに気づいていた。学校でも、レクリエーションの時も、奉仕活動の時間も、<長老>たちはジョナスを含む<11歳>の子たちをじっと見つめていた。ジョナスはかれらが記録をとっているのも見たし、ジョナスら<11歳>の子どもたちを学校で受けもったすべての教官と、長い時間をかけて面談しているのも知っていた」です。

 『ギヴァー』のコミュニティでは、適性検査を観察と面談(残念ながら、本人に対しては行っていませんが)を中心にやっており、日本でよく行われる入試や入社試験(後者には面談は含まれる)は「一発」という意味でした。ほとんどプロセスを見る時間をとりませんから。 

 しかし、日本の学校でも昔から主要教科の指導は、教科書をカバーすることと一体となった業者テストをすることとセットになっていた、と言えなくもありません。その「適正」や「効果」は、はなはだ疑問ですが、継続的な評価は行われていたわけです。これに関しては、ジョナスの学校でも、宿題や小テストもしょっちゅうあることが64ページに書いてありましたので、違いはありません。

 評価の方法として、何に重きを置くかは、決定的に大切です。
 日本は、その公平さを盾にしてテストにこだわり続けているわけですが、それによるプラス面とマイナス面をしっかり認識すべきです。

2011年3月2日水曜日

『ギヴァー』の中の学校、私たちの学校

 『ギヴァー』の中には学校に関することが描かれているシーンがいくつか出てきます。たとえば、

8 遅刻したアッシャーが教室に駆け込んできて謝罪をしているシーン
10 リリーの遊び場でのシーン
39 奉仕活動が組み込まれていること
52 学校に行くことと教科書は切り離せないこと。遅刻をしてはいけないこと
64 宿題や小テストもしょっちゅうあること
72 「調和」をことのほか大切にしていること
123 教科に、言語とコミュニケーション、商業と工業、科学と技術、民事訴訟と市政があること。そして、当然のことながら「休み時間」や「昼食の時間」もあること

以上の点に関しては、私たちが体験している学校と何ら変わりないと思います。

しかし、大きく違うところは、

24 適正評価は、絶えず行われていること。つまり、一発のテストではないこと
107 過去の記憶を抜きにして教育が行われているという事実。傷つく記憶(=知識や体験)を排除しているコミュニティ
143 記憶が詰まっている「書物」を手にすることを禁じられていること

などです。
そして、最大の発言はギヴァーが発した以下の言葉です。

147 「やつら(科学技術の教官のこと)は何もわかっていない」
148 「そりゃ、きみの先生がたはちゃんと訓練を受けているさ。科学的事実ってやつを理解している。つまりだね・・・記憶なしには、それらの知識には何の意味もないということだ」

これは、私たちの学校というか教育に対する痛烈な批判のようにも聞こえてしまったのですが...勘ぐりすぎでしょうか?

そういえば、181ページには学校教育の役割を考えさせられるくだりもありました。

さらには、どうも記憶=感情=愛の関係で成り立っているらしいのですが、それをもっているのはギヴァーと新しくレシーヴァーに選ばれたジョナスの二人だけなのです。 ということは、学校でも、家庭でも、愛なしでの営みが行われている、ということになります。 私たちの学校や家庭は大丈夫でしょうか?