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2010年5月31日月曜日

The Giverを使った映像プロジェクトの例 その2

マークさんが、The Giverを使った映像プロジェクトを2月16日に紹介してくれましたが、これは読んだ生徒たちのプロジェクトとしては結構盛んに行われているようで、他にも以下のようなものを見つけました。(youtubeには、他にもたくさんあります。)

http://www.youtube.com/watch?v=pmd2f5JCB4w&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=BzbDRPMg6qc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=_zRErlKXgF8&feature=related

2010年5月30日日曜日

存在の謎 2

 「存在の謎」の第2弾(ページ数は、池田さんの本)です。

199 生きているということ、自分がいるということの謎は、そのまま、宇宙があるということの謎だ。謎は、それが、「ある」ということだ。「ない」のではなくて、「ある」ということだ。最も当たり前なことこそが、最も驚くべき謎なんだ。そのことに気がついた君は、まったく当たり前に思っていた日常、君が生きている毎日の光景が、少し違って見えるようになってきているのじゃないだろうか。

 残念ながら、そうはなっていません!! 
 本を読んで考えるぐらいではダメなんでしょうね。本なしで、もっと考えないと。
 ひたすら宇宙に思いを馳せればいいのでしょうか?

200 謎は、漠然と感じているだけでも十分だ。なんとなく変な感じがする、ひょっとしたらそれはそうじゃないのじゃないか、そんなふうに感じ続けているだけでも、君の人生は十分な幅とふくらみを持つだろう。でも、もしも君が、考えること、わからないとわかるからこそ考えるのだと、考える人生をあえて選ぶのなら、君は、冒険者だ。永遠の謎に臨む冒険者になるんだ。

201 生きるも死ぬもじつはない、生きるも死ぬも言葉にすぎないとわかった君は、生きるの死ぬのを超えた冒険に乗り出すことになるんだ。これは、まったく途方もない冒険なんだ。

 まさに、ジョナスの冒険!!!

  君は、内的宇宙の冒険者になるんだ。

202 考えるということには果てがない。謎に果てがないからだ。謎に果てがあったら、それは謎ではなくなってしまうのだから、謎というものには果てがないんだ。でも、謎の入り口はいたるところにある。「ある」ことの当たり前に驚くなら、「ある」ことのすべてが謎の入り口になっているんだ。

 『ギヴァー』の終わり方もその一つかもしれない気がしてきます...

 1ヶ月半以上続いた哲学シリーズは、これで終わりです。
 楽しめたのか、どこまで理解できたのかは自分でもよくわからないのですが、いろいろ考えたことだけは、確かでした。
 とにかく、『ギヴァー』に書かれていることが、それらのテーマにうまくマッチしていることは、新鮮な驚きでした。『ギヴァー』がなければ哲学について読むなどということは、私にはあり得ないことだと思いますから、『ギヴァー』様々です。
 でも、『ギヴァー』に限らず小説というものは、そういうものなのでしょうか? (哲学のテーマを扱っているものなのでしょうか?) 私だけが気づいていないだけで。

2010年5月29日土曜日

存在の謎

 いよいよ池田さんの本(『14歳からの哲学』)の最後のテーマです。
 最初に読んだ時には、こんなテーマが『ギヴァー』と関係あるとは思えませんでした。しかし、他の章もそういうところがあったので、「ちょっとは関係あるかな」と、2回、3回と難しい内容を繰り返し読むうちに、徐々につながりを感じてきました。

192 そもそも、「わかる」ということは、どういうことなのだろう。
195 自分で考えて知ることだけが「知る」ということの本当の意味で、知識を覚えて知っているだけのことを「知る」とは言わないと言ったね...もし君が、この本に書いてあることを自分で考えて、自分の知識として確実に知ったのなら、君の生き方考え方は、必ず変わる。変わるはずなんだ。本当に知る、「わかる」とは、つまり、そういうことなんだ。

 最後のテーマは、タイトルでは「存在の謎」になっていましたが、内容的には「わかる=変わる」なんですね。哲学は、難しい本を読むことではなくて、極めて行動的なもんなんですね。しかし、圧倒的多数の「哲学者」のイメージは、「考える人」ではあっても、「行動する人」というイメージはないのはどうして? 私が実態をちゃんと捉えていないから? 職業化してしまっているから?


196 考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。どうしてそうなると君は思う。

 「問いそのものと化す」??? ひたすら考え続けるということ?

197 謎が存在するからだ。謎が謎として存在するから、人は考える、考え続けることになるんだ。だって、謎に答えがあったら、それは謎ではないじゃないか。

 なるほど、謎を考えているのだから、考えても、さっぱりわからないとはっきりわかるだけだ。

 それじゃ、「わかる=変わる」は、どうなってしまうのですか???

だから考えたってしようがないかというと、まさかそんなことはない。謎とは、自分の人生、この生き死に、この自分に他ならないのだったね。さっぱりわからないものを生きて死ぬということが、はっきりわかっているということは、自覚すること、人生の覚悟だ。だから、とても力強く生きて死ぬことができるんだ。さあ、君はどうする。

 「考えても、さっぱりわからない」中で、「自覚し、覚悟を決めて」もがき続ける、ということ???

 「読む」ということは、それ自体が、「考える」ということなんだ。
 「本を読む」ということは、わからないことをともに考えてゆくということなんだ。

  読む=考えるはわかりますが、でも、読み続ければ/考え続ければ「わかり」、そして「変わる」というふうにつながるでしょうか?  つながるような、読み方・考え方をしないとまずい気はしますが...

2010年5月28日金曜日

人生の意味 2 =         『ギヴァー』と関連のある本25

 「人生の意味」の第2弾です。(ページ数は、池田さんの『14歳からの哲学』)

188 仮に、君の人生、君のあらゆる選択は、君のDNAによってすべて決定されているとしよう。それでも、なぜ君のDNAは、そのDNAとして決定されているのかという問いは残る。それを決めたのは、「誰」もしくは「何」なのか。
  君が君であるところのもともとの君は、誰でもない。何でもない。何でもないのだから、完全に自由だ。完全に自由であるところの君は、その自由によって、肉体をもってこの世に生まれることを選んだ。ある特定のDNAをもって生まれることを選んだんだ。だから、運命として決定されているDNAとは、君が君の自由で選んだものなんだ。さあ、運命と自由とは、どこが違うものであるだろう。運命と自由とはまったく同じもの、運命とは、君の自由で創るものだとわかるだろう。

 ほとんど禅問答!!


189 人は、何でも、「思う」ことができる。これは本当に不思議なことだ。これが自由の原点だ...何もかも、思った通りになる。人生は、自分が思った通りの人生になっている。人は、思うことで、人生の運命を自由に創造することができるんだ。これは、なんて素晴らしく、かつ、なんて厳しいことだろう。
  人生が存在することには、意味も理由もないと述べた。存在するということ自体が、意味も理由もない奇跡的な出来事だからだ。けれども、肉体をもって現実にこの人生を生きる限り、人は様々な出来事に出会い、そのつどの選択を迫られることになる。身近なところでは、学校に行こうか行くまいか、極端なところでは、相手を殺すか殺されるか、自覚してみれば、一瞬一瞬が自分の自由による選択なんだ。その時、人は、何を基準にその選択を為すだろう。自由を制限する社会も規則も、そして「神」も、存在していないとしたら、人は何を基準に自分の行為を選択すればいいのだろう。

  自分の選択、それ以外に基準はない。したいことを為し、したくないことを為さないだけだ。よいことを為せば、よいことになり、悪いことを為せば、悪いことになる。何もかもが、思った通りになる。それなら、基準は明らかじゃないか。善悪という基準、価値の基準は、自分の中に、自分の心に、明らかに存在しているじゃないか。だから、人生を生きるための価値は、やっぱり明らかに存在しているんだ。

 日本の道徳の授業は、こういうふうに教えてくれましたっけ?
 倫理はどうなんでしょうか?

 私のお薦めは、『わたし、あなた、そしてみんな』(国際理解教育センター翻訳・発行)です。「わたし、あなた、みんな」は、道徳の4本の柱のうちの3本です。
 この辺に書いてあることは、いまだにピンと来たとは言えませんが、『わたし、あなた、そしてみんな』の方はすでに20年前にその必要性/重要性にピンと来て翻訳していました。
  しかし、「20年前」もある意味では遅すぎです。(当時の私は、34~5歳!!)この辺で扱っているテーマを池田さんも「17歳から」と設定していますし、『わたし、あなた、そしてみんな』も中学・高校で使える教材として開発されたものですから。
 でも、まったく触れることもないよりは、いくら遅くても接点があった方がいいと前向きに解釈したいと思います。
 今回も、『ギヴァー』が(「哲学」ということを通して)接点を見出してくれました。

2010年5月27日木曜日

人生の意味

  1ヵ月半近く前から続いている哲学アプローチも、そろそろ終わりです。
 池田さんの本(『14歳からの哲学』)の中でも、最後の2つのテーマ(「人生の意味」と「存在の謎」)しか残っていません。
 内容的には、かなり難しいです。ある意味ではこれまで1ヶ月半扱ってきたいろいろなテーマの行き着く先みたいなところですから。(ページ数は、池田さんの本)

180 無は「ない」のだから、死は「ない」、だから死を前提にして生きることはできないという真実だ。
   この真実に気がつけば、多くの人たちがそれを時間だと思っている「時間」というもののあり方が、まったく違ったものになることもわかるはずだ。死はないのだから、生の時間は、終点としての死へ向かって前方へ直線的に流れるものではなくなるんだ。でも、世の人は、時間は前へ流れるものだという間違った思い込みで生きている。それで、いろいろな予定したり計画したりして、忙しいとか時間がないとか文句言ってるわけだけど、それはすべて自分でそう思っている思い込みに過ぎない。時間というものは、本来、流れるものではないんだ。過去から未来へ流れるものではなくて、ただ「今」があるだけなんだ。だって、過去を嘆いたり未来を憂えたりしているのは、今の自分以外の何ものでもないんじゃないか。

 なんかわかったようで、キツネにつままれたような...


  「今」があるだけ、「今」しかないのだから、今やりたいことをやろうというのは、だから、その意味では正しい。でもそれは、どうせ死んでしまうからじゃない。なるほど人は死ぬけれども、死はないのだから、嘆いたり憂えたりしないで、今やりたいことをやる、やることができるんだ。これは素晴らしいことじゃないだろうか。生きることが空しいというのは、間違った前提から出てくる、間違った考え方なんだ。

181 むろん、間違っているからといって、他人のそれを正すことはできない。間違いに気づくのはその人でしかないし、気づくために考えるのも、どこまでもその人がするしかないことだからだ。

182 生きる苦しみや死ぬ怖れに出合って、人はそのことの意味や理由を求める。そうしなければ、その苦しみを納得できないと思うからだ。でも、いいかい、納得できないということなら、宇宙が存在する、なぜ存在するのかわからない宇宙がなぜか存在するというこのこと以上に、納得できないことなんかあるだろうか。宇宙が存在するということは、

神が創ったのではない宇宙が、しかし存在しているというこのことは、とんでもないこと、ものすごいこと、まったく理解も納得もできないことではないだろうか。これは、奇跡なんだ。存在するということは、存在が存在するということは、これ自体が驚くべき奇跡なんだ。存在するということには意味も理由もない、だからこそ、それは奇跡なんだ。

183 自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ。なぜだかわからないけれども存在する自分がこの人生を生きているんなんて、なんて不思議でとんでもないことだろう。まさか今さら両親から生まれたなんてことで、この不思議が納得できるわけがないよね。だって、その両親が存在するということだって、やっぱり同じ奇跡なんだから。

 こう書かれてしまうと、ジョナスのコミュニティの「ニュー・チャイルドの配属」も同じ奇跡という意味では、不思議と違和感を感じなくなります。


   人生が存在するということ自体が奇跡なんだから、そこで味わう苦しみだって、奇跡だ。なぜあるのかわからないものが、なぜかあるんだから。そんなふうな、あること自体の驚きの感情を失うのでなければ、苦しみの意味や理由を求めて悩むことは少なくなるだろうし、人生が空しいだなんて思うこともなくなるだろう。なぜか宇宙が存在して、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているなんて奇跡的な出来事が、どうして空しいことであるはずがあるだろう!

   君もこれからの人生で、苦しいことにであったり、死への怖れに捉われたりした時には、空気の澄んだところへちょっと出かけて、星空を見上げてみるといい。きっと、恐ろしく不思議で、妙に懐かしいような感覚に浸されるはずだ。そして、どうしてこんなものがあるのだろうという問いが、そのまま、どうしてこんなもの、この自分のこの人生があるのだろうという問いへと返ってくるのに気がつくはずだ。苦しみですら奇跡だ、そう納得できたとき、その苦しみが消えていることにも気がつくだろう。宇宙は存在する、存在しないのではなくて存在する、じゃあどうして自分が存在しなくなるなんてことがあるだろう、何のことを自分だと思い込んでいたのだろう、不思議の感覚は、さらなる問いとなって、どこまでも深まってゆくはずだ。

 ハァ~ン??!!

184 この不思議の感覚、奇跡だという感情は、おそらく、敬虔な信仰をもつ人が神様★に捧げる祈りに似ている。自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ。人は、驚きと同時に、深い畏れを知る。そして、この苦しみは神から与えられたものだと、ごく自然に思えるようになるのだろう。このような信仰こそ美しいものだ。それは、考える精神が、考えに考えた果てに至り着く感覚と同じものだ。

 これが、神であり、信仰!!!


  感謝という感情があるね。君は、人に何かをしてもらった時、感謝して「ありがとうと言うね。あの「ありがとう」とは、もともとは、この奇跡の感情を言うものなんだ。在る理由のないものがなぜか在る。この驚きに発するものなんだ。だから、存在への驚きを知る人や敬虔な信仰をもつ人は、苦しみにすら感謝して、「在り難う」と言うだろう。苦しみや、むろんのこと喜びという経験を、この身に経験することができるのは、宇宙が、自分が、なぜか存在するからこそだ。やっぱりこれはものすごく在り難いことだと思わないか。

 すべては、奇跡的な存在である自分、宇宙を受け入れ、感謝するところからスタートするしかない、ということ??!!


★ 「宗教」の章で、池田さんは「この意味での神は、民族や宗教によって違わないし、信じる信じないとも関係がない。なぜならそれは、自分や宇宙が「存在する」ということそのものだからだ。「存在する」ということは、信じることではなくて、認めることだ。それを事実として認めることだ(177ページ)」と言っています。

2010年5月26日水曜日

おもしろい動画

アメリカの『ギヴァー』関連情報を流してくれているマークさんから、以下のメールが届きました。
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同僚から面白いPalindromeが回ってきたのでShareします。
アメリカの退職者協会AARPが主催したYouTubeビデオのコンテストの2位の作品らしいです。
http://www.youtube.com/watch_popup?v=42E2fAWM6rA

前から読んでも、後ろから読んでも読めます。しかし意味は完全に逆になります。巧妙です。

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http://www.youtube.com/watch?v=MWSYPDh7O5Q という、ちょっと編集の違うバージョンがあることもつきとめました。

ちなみに、1位の方は、
http://www.youtube.com/watch?v=jgbPwHBK7Ag&feature=player_embedded でした。

コンテストのテーマは、「When I'm 50 (私が50歳の時)」です。
アメリカでは、「50歳で退職」という価値観があるんですね!!

そうなると、私もとおの昔に退職というかリタイアーしている年齢です。
でも、「生涯現役」でありたいとも思っていましたから、なんか複雑です。
「仕事とは」で書いたように、私は「遊びが仕事、仕事が遊び」を目指していますから。

ちなみに私は、50を前にしてリタイアーした友だちをオーストラリア人とアメリカ人でそれぞれ一人ずつもっています。二人ともIT産業のエンジニアでした。

2010年5月25日火曜日

私の好きな絵本

 私が『ギヴァー』を知ったのは、2007年3月2日に参加した研修会だったのですが、その同じ時に知ったのが『てん』(ピーター・レイノルズ作、谷川俊太郎訳)でした。

 両方とはもう3年以上の親密なお付き合いをしています。しかし、両者の関連にはここ数日のブログの書き込みをするまで気がついていませんでした。

 「自由」「自立」あたりと共鳴してきたのです。

 私も、最初に『てん』を読んだ時は、この絵本に登場する先生の「すばらしい投げかけ」「ユーモアのセンス(嵐の中の北極熊ね!)」「演技(金色の額縁に飾る)」に痛く感心しました。(「感動した」と言ったほうが正しいかもしれません。)

 その後10回ぐらい、研修等で読み聞かせをしても下の図には至りませんでした。15回ぐらい読んだ時、下の図に気がつきました。(おそらく、1回で下の図に気づいてしまう方もいるかもしれませんが、いい本 ~それがたとえ絵本であっても~ は、繰り返し読むことに価値があると思います。)


 上の図を説明します。

 やはり、教師や親からのいい問いかけ/投げかけ、それも「クリティカルな投げかけ」が決定的に大切です。絵本の主人公のワシテのように子どもによっては、それがないと動き出せない子も少なくないからです。(大人対象の研修や仕事でも、同じだと思います。)“クリティカル(critical)”は、“批判的な”という意味で知られていますが、同時に“とても重要な”“大切な”という意味もあります。日本では「クリティカル・シンキング(critical thinking)」を「批判的思考力」と一般的に訳していますが、それも含めて、「大切なものを選び抜く力」だと私は思っています。

 その「クリティカルな投げかけ」が先生から発せられたことによって、ワシテにはビジョンができました。点を描くという。

 その際に大切なのが、イニシアティブおよびオウナーシップとコミットメントです。全部カタカナですみません。ある意味では、全部似ています。イニシアティブ(initiative)は、自分の選択で主体的に動き出す、という意味です。オウナーシップ(ownership)は、自分のものと思えることです。言われたからするのではなく、主体的にするということです。コミットメント(commitment)は、自分が主体的に決めて、心底打ち込むという意味です。人から与えられたものは、ほどほどのレベルでしかやれませんが。

 ビジョンと、これら3つがそろったので、ワシテにはインスピーレーション(inspiration)が止め処もなくわいてきました。インスピレーションは通常「ひらめき」と訳されますが、語源は「息を吹き込む」「命を吹き込む」という意味です(『エンパワーメントの鍵』)。ワシテは、まさにそんな状態で、いろんな点を描きました。点を描かないで点を描くことまでしてしまいました。

 それ自体が、ワシテのエネルギーを引き出していたと思います。まさに、元気になっていたのです。

 そして、展覧会で発表するチャンスをもらって評価を得ると、それらを次の子に提供する立場になっていたのです。今度は、自分が「クリティカルな投げかけ」をし、「ビジョン」(=線を描いていく)を提供する側です。

 こうして、どんどんエンパワーメントのサイクルが回って/増えていったらすごいことだと思いませんか? ワシテのような変化の担い手が、学校や社会にドンドン増えるということです。

 私は、こうした多数のサイクルを作り出す要のポジションに教師や校長をはじめリーダー的なポジションの人たちはいると思います。ぜひ、「ビジョン」「インスピレーション」「エネルギー」を持ってもらえるような「クリティカルな投げかけ」をいろいろな人たちにしていっていただきたいと思います。

 もちろん、こんな解釈は、作者のピーター・レイノルズさんも、訳者の谷川俊太郎さんも、ありがた迷惑かもしれません。しかし、これが現時点での私のこの本の解釈です。あと10回ぐらい読むと、また変わるかもしれません。(そうあってほしいと思っています。)

 ジョナスの世界では、この「クリティカルな投げかけ」ができる人が決定的に少ないというか、システムとして排除している気がしましたし、たまたまギヴァーとの出会いと過去のたくさんの記憶という形でジョナスだけはそれが提供された気がします。

 私たちの世界も、似たような状況になってしまっては悲しいです。

2010年5月24日月曜日

自由のない世界の「自立」

 ジョナスのコミュニティでは、4歳から6歳までの子どもたちは、背中にファスナーのついたジャケットを着るきまりになっています。親や友だちの手を借りないと着られない服は、子どもたちにいやおうなく「相互依存」を教え込むことになるからのようです。

 そして、7歳からは前ボタンのジャケットは、「自立」を示す最初の印であり、目に見える成長の証にもなっています。(58ページ)

 さらに細かくいうと、8歳になるとボタンは7歳のよりも小さくなり、そして初めてポケットもつくのです。ポケットは、ささやかな持ち物を自分で管理できるまでに成長した証だそうです。(63ページ)

 このように服装で管理とまでは言わないまでも、「依存」と「自立」をコントロールしていることが、とてもおもしろく映りました。私たちも、意識しているか否かは別にして、結構似たようなことはしている気がしたからです。

 さらに、9歳で与えられる自転車は、家族ユニットの保護を離れ、自分でコミュニティの中に入っていく決定的な象徴になっています。

 ローリーさん「よく観察しているな~!」と感心させられました。(ちなみに、この自転車に関しては、ローリーさんが自分の子ども時代に東京の渋谷にいた原体験でもあったようですが。)

 そして、その観察眼というか分析眼は、コミュニティの規則(=私たちの社会の規則)についても冴えています。

65 毎年、9歳が初めて自転車で言える帰る時には、誰もが含み笑いをしながらちょっとしたジョークを飛ばした。「乗りかた、おしえようか!」年上の子どもたちが冷やかしの声を上げる。「今まで自転車に乗ったことなんか、ないもんなあ!」すると、じつはみな規則破って数週間、秘密の特訓をしてきている9歳たちは、きまってニヤニヤする。そしてどの9歳も、サドルにまたがるやさっそうと乗りこなして走り去る。補助輪は地面に触れもしない。

 私たちの多くの規則や法律も、こんなもんかもしれませんね!?

2010年5月23日日曜日

自由とは

 ジョナスの最後の4分の1ぐらいの行動が、「自由」という言葉で表すのがいいのかどうかは、ちょっとおかしいと思いつつ...池田さん(『14歳からの哲学』)の中にある「自由」から、

166 「自由」ということは、「自分がしたいことをする」ということでいいのだろうか。
168 なんであれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。このことはしっかりと覚えておこう。
  自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくとなんだ。自分で判断するのでなければ、どうしてそれが自分の自由であるはずがあるだろう。自由は判断する精神の内にある。精神の内にしかないんだ。現在の自由主義社会の人々は、このことをほとんど理解していない。社会制度がどうなのであれ、精神さえ自由ならば、人間は完全に自由でありえるという普遍の真理についてだ。

 ジョナスのコミュニティの人々は、自由を放棄してしまっている! 判断することを放棄してしまっている! 考えることを放棄してしまっている! そして、自由主義社会の人々も?

169 不正な社会で正しい言葉を語り、そのことで殺されるとしてもそれは自由ですか、と問う人がいるかもしれない。答えよう。そうだ、自由だ。不正な仕方で生きることは、決して自分によいことではない。精神には生存よりも大事なものがある。それが自由だ。自分が自由であることだ。不正なことは精神の死だ。不正な生存が不自由なものであることを、精神は知っているんだ。

 まさに、ジョナスがしたこと!!! というよりは、ローズマリーがしたこと!!


  精神の自由とは、なによりもまず「怖れがない」ということだ。怖れがあるところに自由はない。

 みごとなジョナス!!


170 死への怖れが、人間の中では一番の大きな怖れだ。これが人生を最も不自由にしているものだ。死ぬことを怖れて、人がどれだけ人生を不自由にしているかを想像してごらん。

 ここで、賞賛すべきはローズマリー???

  人間はあらゆる思い込みによって生きている。その思い込み、つまり価値観は人によって違う。その相対的な価値観を絶対だと思い込むことによって人は生きる指針とするのだけれども、まさにそのことによって人は不自由になる。外側の価値観に自分の判断をゆだねてしまうからだ...自分で考えることをしない人の不自由は、まったく同じなんだ。

 ジョナスのコミュニティにおいては、レシーヴァーに一度はなった人たち以外は。そして、わたしたちの世界では、「イスラム過激派も自由民主主義も」


171 あらゆる思い込みから自分を解放した精神とは、捉われない精神だ。自由とは、精神に捉われないがないということだ。死の怖れにも捉われず、いかなる価値観にも捉われず、捉われないということにも捉われない。

 「悟りの境地」という感じです。 なんか「精神」もわかってきた気がします。

  何でもいい、何をしてもいい、何がどうであってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。これは本当にものすごい自由なんだよ。たとえば、想像してみるといい。死ぬという思い込みから解放された精神が、永遠に存在する宇宙として自分のことを考え続けているといった光景だ。とんでもない自由だとは思わないか。こんな自由は、やっぱり怖ろしくてたまらないから、多くの人は、勝手知ったる日常の不自由に戻ってゆくのだろう。

 ジョナスのコミュニティの人たちがしていることであり、私たちの世界の多くの人もしていること?

2010年5月22日土曜日

『ギヴァー』の表紙・その2

昨日に引き続き、編集者のAさんからの表紙についての説明です。
具体的な方法を詳しく紹介してくれています。

実際、ライティング・ワークショップなどで、自分の書いた文章を「出版」する際に、こういう形でやれてしまうな~、と思わせてくれました。
それでは、

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前回の続きです。
「雪の絵」をさがすにあたり、いちばんのぞましいのは、ラスト・シーンの風景にちかいものです。
ジョナスとゲイブに模して、たとえば少し年の離れた兄弟が、雪の中をとぼとぼ歩いている写真…そんな都合のいいものが、はたしてあるのか??

カヴァー・デザインの素材をさがす際、便利なのが「ストック・フォト」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88
です。
今回も、とりあえずストック・フォトから探してみました。
まず検索エンジンで「snow sled boy image」と入れると、あるわあるわ。しかし…なんか、楽しそうな写真が多いんですね。
あるいは、ジョナスとゲイブの年齢設定(12歳と新生児)に合わなかったり。
いろいろさがして、ちょっとさびしげな写真をいくつか見つけました。
http://www.gettyimages.com/detail/81774214/Retrofile
http://www.fotosearch.com/STK007/pdc1132/

デザイナーさんに物語の概要をお話しし、
ピックアップした写真を見てもらいました。
(本番の写真さがしは、プロであるデザイナーさんに任せます。
私がピックアップしたものはあくまで「参考資料」です。)

●私「たとえばこんなイメージなんですけど」
●デザイナーさん(以下デ)
 「うーん…なんか、これだと小説的なテイストというか、文芸作品の雰囲気に欠けますよね」
●私「そうなんですよねー。雰囲気のある写真、さがしてもらえますか?」
●デ「そうだなあ…ちょっと、ゲラ(校正刷りのこと)をよませてもらえますか?
  自分なりにイメージをさぐってみたいから」
●私「はい!すぐお送りします」

というわけで デザイナーさんはゲラを読んでくださり、あの写真をすぐにさがしてきてくれたのです。
この写真を見たとき、私はすごくびっくりしました。「うってつけすぎる!」と思ったのです。
人物像はシルエットだけで、それがむしろ想像力をかきたてるし、何より足跡が余韻の効果抜群です。
ゲイブの姿が見えませんが、目をこらすと、シルエットの人物の上着が少しふくらんでいる気が…
デザイナーさんが、「赤ちゃんを胸に抱えているっぽい感じ」にちょっとだけ加工してくれたのです
(仕事が細かい!)。
私が作品から感じとった「人間の孤独と愛情」が、象徴的・印象的に表現されている上に、手にとった人が「小説っぽさ」を感じてくれる可能性が広がりました。
ふだん、カヴァー・デザインでは、コンセプトの視覚化にけっこう苦労するのですが、今回はしょっぱなから非常にスムーズに運びました。

もちろん、これが作品世界をうまく表現できているかどうかは、最終的には読者の方々が判断することです。
けれど、編集者とデザイナーは終始気持ちよく(齟齬や後悔なく)仕事ができて、著者ローリーさんや原作の読者たちにも気に入ってもらえて、かなり幸運なケースだったのではないか…と思っています。

2010年5月21日金曜日

『ギヴァー』の表紙

はじめまして、『ギヴァー』を担当した編集者A(40歳・女性)です。
(匿名でお許し下さい・・・編集者は「黒子」なので。)
吉田さんから、カヴァー・デザインについてお訊ねがあったので、
以下、ことの次第をお話しいたします。

訳者の島津さんから本書の訳稿をいただいた日、その夜ひと晩で一気に読んでしまいました。
このブログでみなさんが話しあっていらっしゃるとおり、ほんとうに魅力的な物語だと思いました。
そして、一読した時から、「雪景色」が私の脳裏に焼きついてしまったのです。
これは、なんて悲しい、なんて寒々しい、なんて苛酷な雪の丘だろう。
人はみんな孤独で、人生はこんなふうに冷たい雪景色のようなものだともいえる。
しかしだからこそ、愛すべき者をせいいっぱい抱きしめ、ぬくもりをわかちあうのだ・・・
私は本書のエッセンス(のひとつ)を、こんなふうに理解したのでした。
で、「雪しかない!」と。
翌日、島津さんと校正の段取りについての打ち合わせを終えると、
私はさっそく「絵さがし」にとりかかりました。

本のカヴァーって、ほんとうに難しいんです!!
編集者は通常、まず著訳者のご希望をきいて、
必要なら意見や助言も申し上げて(おもに販売戦略上の視点から)、
それからデザイナーさんに相談します。
(ちなみに、島津さんは「カヴァーは出版社の領分だから」と、全面委任して下さいました。)
ふつう、私たち編集者や著者・訳者は、どうしても「本の内容に即して」とか、
「本の内容を視覚的に表現しつくせる図像を」等々と考えてしまいがちです。
ところが、実際にはカヴァーって、そういうものじゃないんですね。
ブックデザイナーの方々にしょっちゅういわれるのが、以下のようなことです。
「あんなちっちゃいスペースに、いろんなこと詰めこんで表現しようと思うと、
ゴチャゴチャしてかえって逆効果ですよ!
カヴァーっていうのは、できるだけ要素を少なく、
目で見て一発でイメージが伝わるようにしないと、ビジュアル効果は出せないんですよ!」
・・・たしかに!『ギヴァー』だって、本の外周を計ってみれば、
せいぜい12センチ×19センチていどですものね。
たとえば『ギヴァー』の場合を考えてみましょう。
この本が私たちに語りかけてくるテーマや、印象的なイメージを、
めいいっぱいカヴァーに盛り込もうとしたら、どうなるでしょう?
少年、老人、赤ちゃん、雪景色、橇、りんご、本棚、花、夕焼け、自転車・・・
これらすべてのイラストか写真を並べちゃったりして。
これでは、「何の本じゃい?」ということになってしまいます。
これはもちろん極端な例ですが、カヴァー・デザインの現場では、
似たような事態が発生することもままあります。

・・・というわけで今回もふだんと同じく、
「一発でイメージが伝わるイメージとはこの場合、何ぞや?」
をまず考えなければならなかったわけですが、
幸運にも今回はこれが、すでにしょっぱなから決まっていたわけです。
(といっても、私ひとりの主観ですが・・・)
長々とすみません。続きは次回にもちこさせて下さい。

2010年5月20日木曜日

善悪とは

 最初は、池田さんの本(『14歳からの哲学』)の中では「本物と偽物」という章があるので、それで書いてみようといろいろ考えてみましたが、断念しました。次に、「本当と嘘」にしようと思いました。

 しかし、『ギヴァー』の中の嘘は、コミュニティにいない方がいい人(いる価値のない人?)を「解放」することに集中しているようなのです。それは、池田さんの本の中では「善悪」のテーマでした。

 ジョナスの父親にしても、ガールフレンドのフィオナにしても、自分が直接人の解放に関わることをなんとも思わないことをジョナスが知ってしまったことが、ひょっとしたらジョナスが自分のコミュニティを去ることに決めた最大の理由のような気がします。愛する存在である人たちが、そういうことを何の感情もなしに平気でやり続けることが。

 池田さんの本からの引用です。
 (なお、「記憶とは」で紹介した「歴史と人類」と今回の「善悪」の2つは、  「17歳からの哲学」というパートに含まれていました。どおりで難しいはずです!!!)

152 なぜ人を殺してはいけないのだろうか。

157 その人は、悪いことを悪いことだと知らないということだ。悪いことは、自分にとって悪いことだと知らないからこそ、悪いことをするわけだ。それを食べれば病気になることを知っていて、わざわざ食べる人はいないように、自分に悪いと知っているなら、わざわざする人はいないはずだ。だから、悪いことをする人は、それは本当は悪いことだと知らずに、良いことだと間違えて悪いことをしているということなんだ。

 まるで、ジョナスの父やフィオナのようですね。ジョナスの父もフィオナも、「そう指示され」訓練をされているんだから、仕方がないのだよ、とギヴァーがジョナスに言いました。(214ページ)しかし、ジョナスは納得せずに、「でも、父はぼくに嘘をついたんですよ!」と叫び、ギヴァーは、「ジョナス、きみと私だけなんだよ、感情をもっているのは」と説明しました。

162 でも、君はこれからの人、新しい時代の人なのだから、きっとわかるはずだ。自分の外側にある道徳や法律がよいとし、また悪いとすることが、よいことや悪いことなのでは決してない。良いと悪いとを判断する基準は、自分の内にしかない。だからといって、それは、人によって違う相対的なものでは決してない。なぜなら、「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉ある、そして、それらの意味をすべての人が知っているということは、絶対的なことだからだ。

 記憶や感情がないと、このように言われたところで、通じないわけですね。
 「精神」は???


164 もしも君が、善悪は外にはなくて内にあるという事実にはっきりと気がついたなら、よいことは、「しなければならないこと」ではなくて、よいことでなければしたくない、よいことだけが「したいこと」、そういうふうに変わるはずだ。

 まさに、ジョナスがしたこと!!

165 本当によいことって、すごく気持ちのいいものなんだよ。

 『ギヴァー』のエンディングというか、最後の2~3章を思わせてくれます。

2010年5月19日水曜日

再び、竜馬

 テーマは、「視点によって見えるものが違う!」です。

 しばらくぶりの坂本竜馬というか龍馬伝です。

 その前に、日曜日に読んでいた本に、私たちが語る/書くことはすべてフィクションだ、ということが書いてありました。例えば、自動車事故を目撃した3人に、その経緯を聞いてみると必ず3通りの異なるストーリーが語られるはずだというのです。もちろん、全員「事実」と思っていることを語ってくれるのですが。★

 16日の龍馬伝(私は昨夜ビデオで見ました)には、いくつかの見え方の違いが紹介されていました。

(1) 土佐勤王党をつくった武智半平太や平井収二郎はじめ竜馬の友だちが見ていた世の中と、竜馬や勝海舟、さらには山内容堂や後藤象二郎が見ていたものとはまったく違っていたわけです。
 そのことを、竜馬は勝海舟と、松平春嶽のところにいた横井小楠から二度言われました。
 「物事にはまったく違った見え方があることを勝先生から教えてもらいました。攘夷も正しかったのか、間違っていたのか、見方によってまったく違う、と。いま、容堂侯に友だちは牢屋に入れられています」と竜馬が言うと、
 「時代が変われば、人の考えもものの値打ちも当然変わります。物事には違う見え方があるとわかっているのに、平井収二郎の投獄が納得できないのはおかしい。いままで値打ちがあったものが、古びて用なしになっただけ。世の流れを作っているのは人間だが、世の中の流れから見れば、一人の人間はけし粒のようなもの」と小楠が言う。
 この小楠の説明にすっきり納得できないことこそ、人間・竜馬の魅力の一つでしょうか?

(2) 幕府は、神戸の海軍操練所には金を出すが、船の乗組員を養成する大阪の海軍塾は、勝個人の私塾なので金を出さないと言い出しました。役所というのは、いつの世もハードには弱く、ソフトには強いようです。そこで、勝は竜馬を松平春嶽のところに資金提供の依頼をさせに行かせたのです。みごとな説得力で、千両を出させてしまいます。出させるために使ったのは「生き金」と「死に金」の違い ~ 死に金は、単にもの引き換えに支払うだけ。それに対して、生き金は、使う以上の何倍、何十倍にもなって戻ってくるもの。これも、見方の違い!?

(3) 龍馬伝のナレーター役も務めている岩崎弥太郎とその妻・喜勢の関係にも、同じことが言えました。二人の出会いは、弥太郎が肥溜めに落ちて糞まみれになっている時だったというのです。弥太郎は、「わしは糞まみれになって助けてくれ!と叫んでいた。おまんどうしてわしの嫁になったんじゃ? 糞まみれの男に一目惚れはおかしい! さらには、ここまで落ちぶれたわしから逃げてもおかしくないのに」と不思議に思って質問しました。喜勢は、「うらないです。よく当たる手相見に言われたきに。私を幸せにしてくれるのは、糞まみれの男の人だと」と応えました。同じ糞まみれも、視点によって最悪と最良になるわけです。

 ※ 弥太郎は、下士から商売人への転換を図ろうとしていた時期でもありました。牢屋で出会った人から、「物は人によって価値が違う」ことを教わり、木材を買い占めて売ろうとしたのですがいっこうに売れません。弥太郎が「ここまで落ちぶれたわしから逃げてもおかしくないのに」と言ったのにはそういう経緯がありました。まだ、ビジネスマンの駆け出しだったわけですし、最初から成功したわけでもなかったわけです。自分を幸せにしてくれる糞まみれだった夫に喜勢は、「売れない材木におまけをつけたら、売れるようになるかもしれん」と、突拍子もない提案をします。これも、見方の違い!!

(4) 竜馬の兄の権平が、竜馬が脱藩の罪を免じられたので、弟を連れ戻しに来ました。しかし、まんじゅう屋の長次郎の機転で、竜馬の帰りを待っている間に海軍塾を権平に体験させてしまって、どれだけ大切なのかをわかってもらいました。竜馬が戻って権平は、「自分のやりたいことをやったらいい」と言ってくれたのです。それに対して、「10年経ったら、必ず帰る」と応えました。この時、竜馬29歳。死まで、あと2年でした。最後の例は、見え方の違いというか、当初は違ったものが体験を経て、同じになった例ですね。

 一つの番組の中にこれだけの見方の違いが出てきてしまっては、私も書かないわけにはいかなくなってしまったのです。これだけ見え方の違いを見せられると、『ギヴァー』も、同じものの見え方の異なるストーリーと言えなくはないと思ってしまいました。


★ この事例、いずれ紹介しようと思っていた『わたし、あなた、そしてみんな』(国際理解教育センター翻訳・発行)にも紹介されていたのでビックリしました。単にお話として聞くよりも、実際にアクティビティとして体験する方がおもしろいし、インパクトもあります。

 これは、黒澤明監督の『羅生門』(芥川龍之介の『藪の中』)のテーマでもありました。歴史学者たちも、こういう視点で歴史を捉えるのが当たり前になりつつあるようです。当然、「視点によって見方が違う」のですから。誰が残した記録かや誰の視点から見るのか、でまったく違った解釈ができてしまうわけです。

2010年5月18日火曜日

神話といえば、J.キャンベル=『ギヴァー』と関連のある本24

 ジョセフ・キャンベルの本は全部いいのですが、特にお薦めは、ビル・モイヤーズとの対談集なのでわかりやすい『神話の力』(早川書房)です。(これは、テレビ番組を起こしたものだそうです。)

 この本のメモは2年近く前にとったものですが、それを『ギヴァー』との関連があるのではないかと思い1ヶ月ほど前に2回ほど見直したのですが、ピンときませんでした。しかし、哲学的なこと(特にここ1~2週間の内容)を経た後なので、たくさんの関連性を見出せるようになりました。いまは『ギヴァー』と関連のある本としても紹介できると思います。

 ちょっと長くなりますが、2年前にとった簡単なメモの一部を紹介します。(数字は、ページ数)

22 キャンベルは、偉大な教師がみなそうであるように、模範を示すことによって教えた。「伝道者たちは、説得するからうまくいかない。自分自身の発見の輝きを示すべきだ」「世界中で最善のものと認められ、考えられている物事を知り、それを他者に知らせることによって、真実の、また新鮮な思潮を創造すること」
23 神話を通して「人間心理/原理に近づきたい」(≠人生の意味の探究)=生きているという経験を求めること
409 人生にもし意味があるとすれば、外から与えられたものではなく、ほんとうに生きている経験にある
31~38 結婚
50 意識=エネルギー  植物にも意識がある!!
58~61 神は価値体系の擬人化
64 神話とは
76~79 神話の4つの機能:①神秘、②宇宙・科学、③社会、④教育
81~83 チーム・シアトル
88~92 夢から学ぶエキササイズ ※
101 対立項の中で考える (永遠性と時間)
104 人が生まれるプロセス(→宇宙が生まれるプロセス)=神話で語られていること
105 人間生活は、神への不服従でスタート
    人間の精神は、世界中どこでも同じ
112 宗教は、第二の子宮
  告解・懺悔ではなく、「神さま、私は立派な人間でしたから、ぜひ祝福してください。これから、私が今週やったいいことをお話します」自分についての考えを消極的なものではなく、積極的なものにしていく。
113~6 イメージ/シンボル
117~8 創造する=聞く=書かせる/言わせる
120 語句よりもイメージの方がリアリティーの富んでいる
121 説教ではなく、体験を!!
123 思考(カテゴリー)を超えたもの
128~9 誰でも選択を持っている!
 サンタクロースは、親子関係の隠喩、人間関係を大切にするきっかけ
 「生」とは、殺して食うことによって生きる。
 生きることに<はかなさ>が伴わないかぎり生とは言えない
138~ 死 ~ 肉体は意識を運ぶ手段に過ぎない
 見える時限を支える見えざる次元が存在する
152 動物よりも人間が上という西洋の考え
157 儀式(イニシエーション)は神話の再現/参加 → 役割は日常性から人を引きずり出すこと
161 環境と世界の神話化が芸術家の役割
170 至福 ~ 世界(宇宙)の中の私(たち)
173 自分の聖なるスペースや時間を確保
198 死と生命は同じものの2つの面
214 自分の幸福を追求する
216 そのことを子どもにサポートする方法 注意深く見守る、話し合う
220 英雄とは、自分より大きな何物かに命を捧げた人
222 誰もが誕生のときには英雄 ~ 母も
230 自分のいい部分/英雄の部分を引き出す
237 分散に歯止めをし、みんなをひとつにまとめ、全体の意志が生まれ、凝縮したイメージがもてるために英雄が必要
251 意識と無意識の図
253 コーチ/教師の役割 「ああしろ/こうしろは言わない」
255 自分 vs. システム
    人間らしく生きるすべを学ぶ/自分自身の理想をしっかり持ち続けること vs. システムがあなたをロボット扱いするのを拒否すること
260 無意識の大切さ
263 各自の旅とは、自分の至福の追求
274~6 巣立ち
277 創造性を発揮するには、枠から出る  → ジョナスの行動
287 ニーチェ
288 人生は偶然で成り立っている
290 悟り
332 西洋の個人の重要性の出発点
333 家族の結婚 → 個人と個人の結婚
338 社会を支えるのが個人の役割、は間違っている
339 それでは、無秩序に。
341 やさしさ/思いやりをもっているかが判断基準
344 荒れ地は、真実・本物ではない生活~他人から言われたまま
347 本当の人生、意志によって営む人生~善と悪/光と闇の対立の中間
348 生かされると生きるのバランス
353 結婚は生活に責任を持って関わること = 誠実
357 愛は、道徳/社会秩序を破る
360 親(最愛の人)の愛を弱める必要性 ~ 愛が強ければ強いほど、苦痛も増す
362 人間の次元よりはるかに偉大なものがある
363 西洋は、神をエネルギー/神秘の根源とし、東洋は、神をエネルギー/神秘の伝達者とする。
364 決心/判断に信仰は必要ない。経験があれば。
365 西洋には、神を擬人化する傾向がある
366 瞑想 = あるテーマを絶えず思考し続けること
  自分がもっている神のイメージをいったん壊す必要がある
368 形のあるもの → 形のないもの
369 自分の内面にある人類意識に従って生きる!!
  瞑想は、自分のために溜め込むのではなく、世界にために与える心境
371 とても親鸞に近い考え方?
375 宗教は、ラテン語のreligio結びつきを取り戻すが語源
  最も強力な宗教的象徴は、円環 (全体性を表している。デジタルはダメ!!) マンダラ = 宇宙的な秩序
378 指輪 = 結合 & 束縛  ~ 強い絆
381 神話のイメージは、私たち一人ひとりがもっている精神的な潜在力の反映。それを熟考することで、そうした力を自分の生活の中に呼び起こす
382 理性は、成りつつあり、変わりつつあるものを通して、聖なる者へ近づこうという努力。知性は、すでに固定したもの、知られたもの、役立つものを利用すること。比較することで、よく見えるようになる!! → 『ギヴァー』の中ではジョナスがすでにもっていた知性と、もちつつある叡智にあたる??
384 闘争こそがあらゆる偉大なものの創造主
  道化が変化/闘争を起こし、成る者にしてくれる
389 永遠性の経験 = 本来の自己の経験
  なにが永遠であれ、それは「いま、ここ」にしかない
395 神話は形而上学、宗教は倫理/善悪を扱う
398~9
400 エデンはいま存在しているのです
401 「あらゆるものは隠喩(メタフォー)だ」ゲーテ

日本の神話の本との関連

2月26日に紹介したTさんから、以下のメールをもらいました。

ちょうど、関連する内容なので紹介します。

この間、日本の神話の本(日本古典物語全集1 
日本神話物語 風巻景次郎著、岩崎書店)を読んでいて
ふっと『ギヴァー』に似ているなと思った点が
ありましたので、メールしてみました。

日本に文字がなかった時代、皇室や豪族の家には
その家すじを暗誦する、語部と言われる方がいた
そうです。
語部は大事な言い伝えを暗誦する重い役目を
持っていたため、その役目を仰せつかった人物は、
賢く、命を大切にするため長生きをする人が多かった
といいます。

これを読んだ時、突然『ギヴァー』が頭に浮かびました。
そして、レシーヴァーがなぜ、文字で伝えなかったのか
という疑問について、私の中で「そういうことか」と
なんとなくわかったような気がしたのです。

文字自体はすばらしいものだと思っていますので、
それを否定しているわけではないのですが、もしかすると
文字で伝えなかったのは、文字にしてしまうと
制限されてしまうからではないか、と思ったのです。

例えば夕陽を見て、きれいだな、と思ったとき、
その情景を文字で残そうと思っても、今、目の前で
広がっている情景は、文字だけでは表現しきれない、
そんな風に感じるのと同じではないかと思ったのです。
そのために、五感を使って伝承していく手段を
とったのかもしれない、と。

たったこれだけのことなのですが、これを思いついたときは
一人で感動してしまいました。

『ギヴァー』は不思議な本です。

読み終わってしばらくしてからも、こんな風に突然ふっと
頭の中に浮かんできます。

それほど、深い部分に語りかけてくる本なんだと改めて
思いました。

2010年5月17日月曜日

記憶とは

 ジョナスのコミュニティの人々は一世代の記憶はもっていますが、唯一レシーヴァーだけが、何世代もの記憶をもっているという不思議な世界です。(108ページ)
  「きみに伝えるべきものは、全世界の記憶なのだ。きみや私の前、以前のレシーヴァーの前、さらには彼以前の何世代もの記憶だ」とギヴァーに言われたジョナスは、何を言われているのかさっぱりわからず、「全世界ですって? 何のことですか? 僕たちだけじゃないってことですか? このコミュニティだけじゃないんですか? ぼくは、ぼくたちしかいないと思ってました。現在しかないと思ってました」

 「もっともっとあるんだ。彼方へと去っていくすべて ~<よそ>にあるすべて~ そして前へ、前へ、果てしなく前へとさかのぼったすべてのことさ。私はそれらを全部受け取ったのだよ、選ばれた時にね。そしてこの部屋で、ずっと一人で、それらの記憶を何度も何度も追体験した。そのようにして叡智は訪れる。そうやって、われわれは未来を形づくるのだ」

 コミュニティの選ばれた一人だけが、すべての全人類の記憶を受け取り、そして次に伝えるのですから、とても重い役割です。

 そして、「記憶なしには、(科学などの)知識には何の意味もないということだ」(148ページ)、ともギヴァーは言いました。


 以下は、池田さん(『14歳からの哲学』)の「歴史と人類」の章からの引用です。

146 (携帯を例にとり)便利な道具のおかげで、言葉という精神の価値がいよいよわからなくなっているのだとしたら、進歩どころか堕落じゃないだろうか。

  楽しみを追うこと自体が生活の目的となって、何のための生活なのかを考えることをしないのならば、置き去りにされた精神は、貧しくなるばかりのはずだ。それなら、何のための豊かさだろう。精神が貧しくなる生活の豊かさが、どうして人類の進歩であるはずがあるだろう。

  君だけじゃない。人類の全体が最初からそのことを間違えるべく進んできているんだ...いつかはわからないけれども、とにかく、人類が自然から脱して、自然に対する知識と技術とを所有したその時からだ。決定的だったのが、科学、科学というものの考え方の登場だ...自然を自分の「外に」ある物質と見ることで、それらを観察、実験して、客観的な法則性をそこに見出すことが可能になった。この考え方は、人類にとって画期的なものだった...これは、それまでとはまったく違う自然観だとわかるだろう...自然はすべてが物質であると思い込んでしまったんだ。人類の間違いとは、正確にはこのことなんだ。

150 それぞれの人が自分のために自分のやりたいことをやっているその結果が、まさにひとつのある時代、時代の精神というものを作りあげているのだから、自分と時代、人類の全体というものが、どうして関係ないことがあるだろう。それどころか、精神であるというまさにそのことにおいて、自分とは人類、人類の歴史そのものじゃないだろうか。

  自分と他人はうんと深いところでつながっていると言ったね。そして、自分とは、世界に他ならないとも。まったく関係のない他人同士が、自分勝手に動き回ることで、世界に時代が現れるのはそのためだ。これは気がつくと、ものすごく面白い眺めだよ。すべての他人が自分なんだ。原始人も科学者もテロリストも、同じ精神としての自分なんだ。歴史とは精神の歴史だ。

 「自分とは人類、人類の歴史そのもの」「自分とは、世界に他ならない」「すべての他人が自分」

  ところで、自分とは人類、人類の全体に他ならないのだから、自分がよくならなければ、自分の全体もよくはならない。逆もまた真。「自分さえよければいい」ようなことは、じつはちっとも自分によいことではなおのは当たり前だ。

 『ギヴァー』に書かれていることとつながっているような気はしますが、特に後半の部分は、私にはまだわかりません。どうも「精神」が出てくるとわからなくなってしまうようです。

2010年5月16日日曜日

EQ & ライフスキル

 ジョナスがレシーヴァーに選ばれた資質が出てきたので、もう少し掘り下げて考えてみたいと思いました。
 ジョナスは「叡智」はまだ身につけていないけれども、「知性」、「正直さ」、「勇気」、「彼方を見る力」はもっている(86~88ページ)と、一昨日書きました。

 『ギヴァー』と関連のある本 3で紹介した『12の贈り物』(シャーリ-ン・コスタンゾ著、黒井健訳、ポプラ社)に紹介されているのは、

・ 力
・ 美しさ
・ 勇気
・ 信じる心
・ 希望
・ よろこび
・ 才能
・ 想像力
・ 敬う心
・ 知恵
・ 愛
・ 誠実        

です。いずれもとても大切ですね。

そして、最後は以下のように書かれています。

   これらがあなたにおくられた12の贈り物です。
   そして、最高の贈り物がもうひとつあります。
   それはあなた自身です。
   そのことに気づいたとき、
   あなたは出会ったこともない数多くの仲間と
   結ばれていることに気づくでしょう...

 12の中で私が一番気に入ったのは(大切というよりも、書かれていることばとして気に入ったのは)、3番目の贈り物の「勇気」でした。

   「だれにたいしてもまっすぐにむきあい、
    自分の思いを真剣に語る勇気。
    おびえたり、くじけたりしそうなときでも、
    信念をつらぬく勇気。
    それらの勇気が、あなたにはそなわっているのです。
    ためらわずに自分の信じた道を進むことができるように。」


 もう一つ、上で紹介したリストと同じぐらいに重要なEQ(こころの知能指数)のスキルとライフスキルを紹介します。EQを紹介したダニエル・ゴールマンは、IQを上げるのに比べて、EQを上げるのはそう難しくない、と言っていました。それで、長年それらを身につける方法を探していたのですが、思わぬところで見つけました。なんと、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップをするだけで、副産物としてこれらのほとんどが身についてしまうことがわかったのです。残念ながら、国語の時間に作文を書いたり、読解の授業をしたり、朝読や図書の時間をしていても無理です。

 なお、EQは5月13日に紹介した「マルチ能力」の自己観察・管理能力と人間関係形成能力に相当します。

2010年5月15日土曜日

ローリーさんも、表紙を気に入ってくれる!!

著者のローリーさんも、新しい表紙を気に入ってくれていました。
ちゃんと、自分のブログで表紙入りで紹介してくれていました。
http://loislowry.typepad.com/lowry_updates/2010/03/back-home.html

ご存知の方もいると思いますが、講談社版の表紙の写真は、ローリーさんが自ら撮った写真でした。その意味では、著者こだわりの表紙ではあったわけです。(残念ながら、日本ではそれほど好評ではありませんでしたが。)

ちなみに、表紙の人の名前は、カール・ネルソンという画家だった人です。(確か、カナダのニューファウンドランド島で)ローリーさんが雑誌記事を取材をした時に、自分で写真も撮ったそうです。

その時のインタビュー記事を読んでいるわけではないのですが、ネルソンさんの色を見分ける力に、ローリーさんは驚いたそうです。その色を見分ける力を、ネルソンさんが才能として持ち合わせていたものなのか、それとも画家としての仕事をする中で身につけたのかは、わかりませんが。

このことを、ローリーさんは『ギヴァー』を書くときに、ヒントにしたわけですね。

なお、ネルソンさんが晩年目が見えなくなったことも、ローリーさんが彼の写真を表紙に使う決断をした一つの理由だったそうです。

このように、いろいろなストーリーが前の表紙にはあったわけですが、新しい新評論社版の表紙にもあるのでしょうね。 著者自身が語るストーリーではありませんが、編集およびデザイン担当の人に聞いてみたい気がします。

2010年5月14日金曜日

品格とは、名誉とは

 新しいレシーヴァーに選ばれたジョナスの資質が紹介されるシーンがあります。
 知性、正直さ、勇気、そして叡智はまだ身につけていないけれども「彼方を見る力」はもっていると。

 ギヴァーも、ジョナスに、自分は「名誉はもっているけれども、力はもっていない」と言いました。

 そして、ジョナスのコミュニティで最大級の不名誉は、解放されることと、名前が「口にするなかれ」とされることでした。

 そういえば、あとで出てきますが池田晶子さんも「名を惜しむ」と言っていました。

 それでは、池田晶子さんの「品格と名誉」の章(『14歳からの哲学』)からの引用です。

117 「上品」「下品」という言い方がある。「じょうひん」「げひん」ではなくて、「じょうぼん」「げぼん」と読みます。古い言い方で、今は死語になりつつあるけれども、人間の品性、人品骨柄を言い表すための非常に的確な表現だから、この際しっかり覚えてしまおう。この2つのことばが、心の隅っこにでも引っかかっているのなら、そのことだけで、君の人生は全然違ったものになるはずだ。
  「じょうぼん」「げぼん」は、徹頭徹尾、見えない人柄、人の内面、精神性こそを評価する言葉なんだ。
118 服装は小汚くて、言葉遣いもガラッパチだけれども、話をしてみれば、曲がったことが大嫌いで、どうすれば人の役に立てるかということを常に心がけているような暖かい人柄の人もいるよね。きっと照れくさいから、わざとそういう態度をとっているんだ。すごくじょうひんな人、「じょうぼん」とはこういう人のことを言うんだ。
もともとが仏教の言葉、お釈迦様みたいな正しくて優しくて高潔な心の人を最高位として言う言葉だから、見た目が問題なのではないのは言うまでもない。でも、ある意味で、人間はやっぱり見た目がすべてともいえるんだ。面白いから、そう思って、友だちのことを観察してごらん。やさしい人は優しい顔つきをしているし、意地悪な人は意地悪な顔つきを、やっぱりしているんじゃないか。外面とは内面そのものじゃないか。
だからこそ、人は内面をきれいにしなくちゃダメなんだ...
119 さて、それなら、内面をきれいにする、精神性を高めるとはどういうことなのか、考えよう。君は自分のことを大事だと思うだろう。愛しているとも思うだろう...どんなにひねくれた仕方であれ、すべての人は必ず自分というものを愛しているんだ。

 この辺りまでは、なんとか付いてこれますが...

 精神は自分を自覚する。精神としての自分を自覚するんだ。そして、精神にとっては精神よりも大事なものはないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって何が大事かを考えて知ることができるのが、まさしくその精神だからだ。精神にとっては、精神こそが大事なもの、他の何ものにも換えられない価値なんだ。自分を大事にするとは、つまり、精神を大事にするということなんだ。

 この辺、何度読んでもわかったようでわからない状態が続いています。

120 「自尊心」、自分を尊ぶ、自分を愛するということの、本当の意味がこれだ。

 私がこの言葉がピンと来るようになったのは、英語のself-esteemからでした。言葉だけでは、ピンと来ず、それを身につけるための様々な活動を通してだったのです。★自尊心がそうなのかどうかは、私にはまだ確かではないのですが、少なくともセルフ・エスティームの高い低いが勉強の出来不出来を含めて、多くのことを左右しているというのです。それほど大切なもんなわけです。

 これ以降、池田さんは、自尊心とは異なる、あるいは反対の感情や感覚として、プライド(虚栄心)、嫉妬、自己顕示、恥ずかしい、見栄、卑しい・卑怯などをあげて説明してくれています。

122 極端なことを言っていると思うだろう。でも、人間には命よりも大事なものがある。それが精神だ。精神の正しさ、美しさ、その高さだ。命が大事なものであり得るのは、精神が大事なものだと自覚しているからでしかあり得ない。精神が価値ではなくて、どうして命が価値であり得るだろう。なぜなら、命の価値について考えられるのは、精神があるからこそだからだ。
・・・すべての人間は、精神つまり言葉を所有しているからだ。言葉を所有する限り、人間は問わざるを得ないんだ、「なぜ生きるのだろう」。

 今は、「名を惜しむ」という古い言い方をもうひとつ、心の隅に飾っておこう。

 いぜんは「自尊心」が受け付けられなかったのですが、「精神」を受け付けられない状態は、いまでも続いているようです。「名を惜しむ」などと言われても...


★ 学ぶタイプには大きく分けて、4種類あるそうです。①読んだり、聞いたり、見たりして学ぶタイプ、②じっくり考えるタイプ、③フィーリング/感情で学ぶタイプ、④動いたり、体験して学ぶタイプ。人はすべて持っているのですが、一番得意なのは結構わかれます。おもしろいことに、だいたい4分の1ぐらいずつに。私は、断然④のタイプです。じっくり考える哲学タイプではないのですが、『ギヴァー』のおかげで、それがやれているのですからありがたいです。それも、このブログがなければ、ここまでこだわることもなかったと思います。このブログを書き続けることで、ひょっとしたら「自尊心」や「精神」に近づけるかもしれません。そういう淡い期待をもって書き続けます。

2010年5月13日木曜日

仕事とは

 「配偶者の適合」、「命名」、ニュー・チャイルドの「配属」、そして仕事への「任命」も「長老委員会」が細心の注意を払って行っているのがジョナスのコミュニティ。従って、不適合が起こるはずはないと信じられていた。
 ちなみに、「配偶者の適合」は、申請者が「適合」を承認されても、実際に告知を受けるまでに何ヶ月も、時には何年も待たせることすらある。二人の人間のあらゆる要素 ~ 気質、活力、知性、嗜好 ~ が合致し、完璧な相互作用が働くようにしなければならないからだ。
 さらに、子どもを申請できるようになるまでに「長老委員会」によって3年間観察も受ける。
 家族を決定する権利が本人たちにではなく、「長老委員会」という第三者機関にある。まさに、お見合い結婚が盛んだった仲人全盛時代を思わせる。

 仕事の任命の場合も、同じように長年の観察を経て決定される。

 いったい、個々人の仕事を決めるのは誰であるべきなんでしょうか?

 いまでも「親のあとを継ぐ」ことが当たり前に行われているところも少なくありません。

 仕事選びや自分の学び方を知るのに参考になるものに、「マルチ能力」があります。(『新 13歳のハローワーク』よりは理論的にはるかにしっかりしています。)英語圏や北欧では小学校段階で、すでに自分の得意なマルチ能力は何かを把握して、それを活かす形での教育を行う努力がなされつつあります。
 マルチ能力とは、①言語能力、②論理的―数学的能力、③空間能力、④身体―運動能力、⑤音感能力、⑥人間関係形成能力、⑦自己観察・管理能力、⑧自然との共生能力です。(『マルチ能力が育む子どもの生きる力』トーマス・アームストロング著、小学館を参照。なお、これを最初に提唱したハワード・ガードナーの本も何冊か出ています。)能力をこれだけ多様に捉えてくれると助かる子どもがたくさん出ます。現時点では、①と②で9割以上を占めているのではないでしょうか? 要するには、入試ということです。
 私がマルチ能力の存在を知ったのは、10年ほど前だったのですが、私が得意なのは③の空間能力で、しっかり最初の仕事として都市計画を選んでいましたから、驚きです。★ でも、ここ20年ぐらいは教育や人材開発・組織開発の仕事をしています。

 みんなが平等を実現しているかに見えるジョナスのコミュニティでも、職種によって敬意が払われている職種とそうでない職種があるのは、残念なことです(というか、当然のことでしょうか?)。
 ジョナスが選ばれたレシーヴァーは、20~30年に一人しか選ばれることがないのですから、もっとも経緯を払われている職種かもしれません。その一方で、3年間しかその役割を担えない「出産母」は敬意が払われないと書いてありました。出産母は、その後「老年の家」に入るまでの間、食料生産者などの「労働者」として過ごすそうです。
 また夜勤をする人たちは、家族ユニットを持つにたる資質をもっていないと判断された人たちだそうです。

 いずれにしても、これだけ緻密な観察ができるのも、全人口が最高で   約3500人に設定されているからのような気がします。いろいろな意味で、この規模(スケール)はとても重要な気がします。古代から、その規模はドンドン大きくなってきているわけで、いまはまさにグローバル化しているわけです。しかし、望ましいのはどれくらいの規模なんでしょうか?

 それでは最後に、池田晶子さんの「仕事と生活」の章(『14歳からの哲学』)からの引用です。

113 本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに「生きなければならない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。生きるためには、食べなければならない、食べるためには、稼がなければならない、そのためには、仕事をしなければならない。この「しなければならない」の繰り返しが、大人の言うところの「生活」だ。しなければならなくてする生活、生きなければならなくて生きる人生なんかが、どうして楽しいものであるだろう。

116 会社員や主婦の仕事を、そのまま楽しむことができるなら、それはその意味での才能なんだ。楽しんで仕事をしているうちに、気がつかなかった自分の才能に、気がつくこともあるだろう。生きなければならないから仕事をしなければならないなんて思っている限りは、人は決して本当には生きることはできないんだ。

  さあ、君は、どっちの人生を選ぶだろう。食べるために生きるのか、生きるために食べるのか。いずれの人生を選ぶにせよ、それは完全に君の自由だということ、覚悟を決めなくちゃね。

 私は、たまたま高校時代をオーストラリアで過ごしたのですが、オーストラリア人は「遊ぶために、仕事をする」人たちです。それに対して、日本人は「仕事をするために、遊ぶ」人たちです。私は、振り子の両極端の生活はできず、「遊びが仕事、仕事が遊び」みたいなところを見出す努力をしています。


★ マルチ能力と単に好きな教科(=『13歳のハローワーク』)の違うところは、例えば私のような空間認識能力のある人間は、建築家、都市計画家、あるいは写真家や画家などになればいいというのではないことです。確かに、学校時代は、地理・歴史(だけ)は得意でした。
 しかし、場所に関連づけてくれれば覚えることに苦労しないので、他の教科でもそれを使うことで、選択肢が広がります。同じように音感能力のある人は、音楽的なことを他の教科でも活用したり、運動・身体能力の優れた人は、からだを使うことを他の教科を学ぶときに活用すれば、そして人間関係の得意な人はそれを活用することでいろいろな教科をよく学べる可能性が高くなるという具合です。
 得意なことだけの枠の中に閉じ込めておいてはもったいない、という発想です。

2010年5月12日水曜日

『ギヴァー』はすでに現実です!

知り合いの『ギヴァー』普及員でもあるNさんから、以下のようなメールが届きました。(本の内容紹介をお願いしました。)


『FREE経済学入門』苫米地英人を「ギヴァー」の視点で読んでください。

僕らは、もう一度文明の意味をゼロから考える時期に来ていると思います。
今は、ヤン・ソギル『ニューヨーク地下共和国』を読んでいます。

守備範囲から離れるかもしれませんが、水野和夫『金融大崩壊』に眼を通していただければ幸いです。

「ギヴァー」はそれほど意味や奥行きが深いとご理解ください。

理想とは、現実とは

 ある意味で、理想の状態を追い求めて行き着いた先が、ジョナスが住むコミュニティなわけですが、私たちも、似たようなことをしている気がします。

 そこで今回のテーマは、ちゃんと池田さんが『14歳からの哲学』の中で扱ってくれている「理想と現実」です。

93 (一般の人は)両者がまったく相反するものだと思っているんだ。でも、そうだろうか。
  たとえば君は、イチローを理想の人物とする。自分もいつかああなりたいと思う。それなら君は、彼を目標として毎日練習を励み、少々の辛さでは弱音なんか吐かないはずだ。理想を現実としようとする自分の努力に、疑いはないはずだよね。それなら、そんなふうに、理想によってこそ力強く生きられている君の毎日、つまり君の現実は、すでに理想であるといってもいいんじゃないだろうか。
  でも、もし君がここで、実際に大リーグに行けなかったことで自分を責め、「しょせん現実はそんなもんだよ」と言い出した時、まさにそれが君の現実になる。理想と現実とを別のもの、理想を現実の手の届かないものとしているのは、現実ではなくて、その人なんだ。自分で理想と現実とは別物だと思っているんだから、理想が現実にならないのは当たり前のことじゃないだろうか。

 ウ~ン、確かに!!

94 観念が現実を作っているのであって、その逆ではないと、前の章(社会とは)で言いました。思いや考えが状況や環境を作り出すのであって、状況や環境によってその思いやその考えになるのではないということです。だから、この場合では、理想こそが現実を作っている、理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実であるということになるね。

 ということは、まさにジョナスの行為 = コミュニティ脱出!!!
 それは、もちろん自分のためというのではなく、ガブリエルのためであり、そしてコミュニティの人たちのために。


  だって、考えてもごらん。もし目標としての理想が自分の内にあるのでなければ、どうやって人は何かをすることができるだろう。「何かをする」ということは、必ず何かを目指してすることだ。歩くことだって、そこへ行こうとするからだし、物を把むことだって、その物を把もうとするからだ。何であれ何かをすることの目標があるのでなければ、人が何かをするなんてことはあるわけがないとわかるね。
  どうして人が何かをするかと言えば、そうすることが自分にとってよいと思われるからだ。自分に悪いと思われることを、わざわざする人はいないよね。だから、人が何かをするということは、必ずよいと思われることを目指してするということなんだ。

 なるほど。意識することが大切なんですね。

95 単なる空想なら現実になるわけがない。理想を実現しようと努力することこそが現実なんだ。
  理想がなければ現実はないということ、少しは実感できるようになっただろうか。目に見える君の人生や、君の人生を含みこの社会を、一番深いところで動かしているのは「理想」、目に見えない観念としての理想なんだ。ちょっと難しい言い方をすれば「理念」と言ってもいい。よりよくなりたい、よりよくしたいという、現実の原動力としての、その思いだ。このことを自覚している大人はとても少なくて、やがて理想を語る君に対して、「もっと現実を直視しなさい」と諭すようになるだろう。でも、見えるものとして現れた現実だけを見て、見えない現実を見ていないのは彼らの方なんだから、適当に聞き流すがいいよ。

 現実の原動力としての理想! それに対して、何も生み出さない現実。

  さて、君の人生はこの社会に含まれているのだから、この社会がよりよくならなければ、君の人生だってよりよくなるわけがないのは当然だ。この当然の事実に気がついた人々は、昔から、「よりより社会」、つまり「理想の社会」の実現に努力してきた。ユートピア、戦争や貧困のない社会、誰もが平等に生きられる社会がそれだ。

 ジョナスが住んでいた社会は、かなりの程度それを実現できていたように見受けられるわけですが、それらを実現するために失ったものも大きかったようです。求められるのは、常に選択??

96 なぜその努力のほとんどが失敗してきたのかについて考えてみよう。理想とは現実のことであるなら、なぜ理想の社会は現実にはならないのだろうか。
  現実を動かしているのは観念なんだから、観念が変わらなければ現実は変わらない。「よりよい社会で、よりよく生きる」という観念が、本当はどういうことなのか自分で判断していない人々が、集団になって、徒党を組んで、自分がよくなろうともせずに社会を変えようとしていたのだから、そんな社会は実現しても、前と何も変わらないのは当然じゃないだろうか(←20世紀の社会主義のことを指しています)。

 要するには、真の意味で努力をしていなかった!!

97 正しい仕方で理想をもつということは、とても難しいことだ。それが目に見えるものとして、実際に実現するかどうかということの方に、どうしても人は捉われてしまう。そして、理想というものは、見える現実を動かす見えない力として刻々として働いている、まさにそのことによって現実なんだという事実を忘れてしまうんだ。
  理想と現実とは別物ではないのだから、君が理想を持っている、それを失うことなく持ち続けているというそのことだけで、それは十分に現実的な力として、この世界の根底で確実に働き続けているんだ。むろんすぐになんか実現しないさ。だって、世界にはこれだけの人々がいるのだもの。でも、君が理想を失わないのであれば、いつかは必ず実現するんだ。
  「いつか」って、いつなのか。そんなことを知る必要はないと、正しい仕方で理想をもっている君なら、わかるはずだ。

 ウ~ン、わかりません!!!! 悲しいかな、わかりません。

2010年5月11日火曜日

システムとは

 いま、子どもが互いに自分たちのお気に入りの本を紹介できるサイトをつくっています。★もちろん、私にはそんな能力はないので、ITエンジニアのMさんに協力してもらっています。以下のやり取りは、つい2日前のものです。(普通の自体はMさん、斜体が私)
 最初は、“ささいな”作者と著者名の入力からスタートしました。同じ本が複数入力されてしまっている問題に対処する必要が生じたからです。


 作者・著者を入力する場合、苗字と名前の間にスペースが有る無しの違いで、別の作者・著者となります。同じタイトルで、作者・著者が以下の場合は、追加可能となります。
   1. 本田花子 <--- スペースなし
   2. 本田 花子 <--- 半角スペースあり
   3. 本田 花子 <--- 全角スペースあり

 そこで、可能な限り、重複チェックに掛ける為、2.の半角スペース区切りに統一することとし、以下を追加しました。
1. 入力画面に、苗字と名前の間にスペースを入れることを注意として表示。
2. 全角スペースで入力された場合は、半角スペースに変換する。

 常識的に考えて、半角スペースを入れてくれと頼んでも、普通の人はそういう習慣がないのでやってくれないと思います。
 それなら、全角スペースに統一するか、全角スペースで入力しても、自動的に半角スペースで表示するようにしない限りは、入力者には期待できないと思います。


 まあ、データを入力する人は、人ですから、どのように入力されるかわかりません。
 時々データをチェックして、適切な変換処理や入力チェック処理を追加していくしかありません。
 一般的に、システムの規模やデータ量が増えると、自動的にデータの整合性チェック処理などを追加して、日々監視しながら運用することになります。どんなシステムでも、生き物ですから監視を行う必要はあります。ユーザー数や、利用件数が増えたら、適宜追加していきたいと思います。

 「システムは生き物」 ~ 確かに、その通りなんですよね。
 でも、多くの人は、「システムはシステム」と思っています。
 要するに、「生きているとは思っていません。」 
 一度構築したら、そのまま、と。
 『ギヴァー』のブログで書くテーマが、また一つ増えました。


 ギヴァーを読んだ感想ですが、世の中の諸制度、諸システム、全ては、今あるものが当たり前だと何も考えないで生きていくことに対する警告だと思いました。
 心当たりのあるところでは、
国際関係、国内関係、政治システム、経済システム(資本主義経済)、憲法、法律、教育システム、金融システム(銀行、通貨)、地域や家族の形態、婚姻制度、情報システム、著作権、死刑制度、裁判員制度、芸術、スポーツ、エネルギー、医療、宗教、労働、雇用、福祉、生活保護制度、、、。
 諸行無常、それ自身が変化する。回りの環境が変われば、全てのシステムや制度は、できたそのときからどんどん古くなっていく。
 それに関わる人々、一人一人が常に見直しを続け、変化に対応した変革を行うことに参加していくことの重要性を感じました。
 守るもの、壊すもの、変えるもの、いろいろあると思います。
 我々は、常日頃、あまりにも考えていない。そういう仕組みだから仕方ない。その中で、生きるしかない。そういうところに陥りがちだということを感じました。楽といえば楽ですね。
 諸制度・仕組みの奴隷ですね。あらゆる制度・仕組みを常に見直し、現状の環境にマッチするよう改革しながら生きていかねばと。


★ 現在日本では、子どもたちに「読む時間を提供していない」という大きな問題がある一方で、大人が何を読んだらいいのか指図を出しすぎています。もちろん、よかれと思ってしているわけですが、結果はそれが読むこと嫌いを増やしているようです。根底に、子どもたちには「自分で本を選ぶ能力がない」という思想も横たわっています。それを一番よく表しているのが、教科書の存在です。私たちの多くは、どこでも「自分にあった本を選ぶ練習」をさせてもらうことなく、大人になってしまいます。
 これは、しばらく前に書いた、どこでも「いい話し合いの練習」をさせてもらえない、のと同根の問題です。(ここでいう「いい話し合い」は発表の仕方ではありません。不確かなことを一緒に話し合って、視野を広げたり、深めたりすることです。)
 子どもたちが「できる」と信じていないし、そのための時間も提供しないのですから、できるようになるわけがありません。その結果として、大人になってもまともな話し合いや会議ができないことによる社会的損害は甚大です(←「原因と結果」というコンセプト)。
 以上のことも、すべて「システム」が機能していない問題と言える気がします。すべてはつながっていますから。

2010年5月10日月曜日

コンセプトとは

 「コンセプト」がよくわかりません、というメールをいただきました。

 確かに!! 私は25年くらい前から、その紹介をしています(主に、教師対象です)が、ピンと来てくれたためしはありません。紹介の仕方がうまくないのと、コンセプトで学んだ体験がないことの両方が理由としてあると思います。

 再度、チャレンジしてみます!

 「概念(がいねん)、コンセプトとは、物事の総括的・概括的な意味のこと。ある事柄に対して共通事項を包括し、抽象・普遍化してとらえた意味内容で、普通、思考活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの」とウィキペディアには書いてありました。

 理解できますか?
 わかるようで、わかりませんよね。

 『ワールド・スタディーズ』のコンセプトは、「似ている点・異なる点」「相互依存」「コミュニケーション」「公平さ」「力の分配」「原因と影響」「価値観と信念」「協力」「対立」「変化」だと昨日書きました。ワールド・スタディーズは、直訳すると「世界学習」、日本流に言うと国際理解教育、アメリカ流に言うとグローバル教育ですが、それを教える・学ぶ際の「切り口」がコンセプトです。

 もう20年近く前になりますが、小・中・高の社会科の先生たちに集まってもらって、社会科で扱う内容を分類・整理したら、みごとなぐらいにこれら10のコンセプトで説明ができました。これ以上に付け加える必要はありませんでした。
 実は、小学校の1年生(いまは、生活科といいますが)から高校3年生まで、これらのコンセプトを繰り返し繰り返し学んでいます。
 しかし残念ながら、ほとんどの生徒はそういう意識はありません。大きくは地理、歴史、公民分野のたくさんの知識を注入されているとしか思っていません。従って、圧倒的多数の生徒は、社会は暗記科目だと思っています。もちろん、教師の多くもそう思って教えています。自分の経験がそうでしたから。
 極少数の「理解の早い」子たちだけが、自らの力でこれらのコンセプトの存在を把握し、それらをうまく活用して学びますから、飲み込みが早いというか、いろいろな新しい場面に遭遇しても、コンセプトを柔軟に活用して対処できる技を身につけています。

 これらの10のコンセプトは、12年間の社会科の中に度々登場するわけですが、社会科だけでなく、「変化」「相互依存(システム)」などはすべての教科に登場するといってもいいでしょう。
 例えば、水は固体、液体、気体に変化します(理科)。子どもの誕生と成長(保健)、料理(家庭科)、気持ちの変化や人間関係の変化(道徳)、過去形・現在形・未来形(英語)、読みやすくするための推敲や校正(国語)。体育はすべてが変化?といった具合です。
 各教科、「変化」のコンセプトだらけです。教える側も学ぶ側もそれが意識できれば、もっと私たちは変化にうまく対処できるようになると思います。さらには、好ましい変化を作り出していくことも不可能ではないと思っています。

 世の中で生きていくには、個別の知識をバラバラに覚える(その数は、無限大です)よりも、数が限定している(全教科で、せいぜい20ぐらいの)コンセプトを理解し、かつ身につけた方が、はるかに意味があると私に教えてくれたのは、この『ワールド・スタディーズ』という本だったわけです。
 教科から教育の世界に関わらなくて良かったというのは、そういう意味でもありました。すべての教科は実はつながっているのですが、残念ながら壁としての機能を果たしてしまっており、それが、子どもたちがよく学べない原因にもなっています。

2010年5月9日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 23

 哲学路線で「理想と現実」をテーマに考えていたのですが、昨日書いた『ワールド・スタディーズ』(サイモン・フィッシャー&デイヴィッド・ヒックス著、国際理解教育センター編訳・発行)と『テーマワーク』で扱っているコンセプトを読み直したら、私にとっては哲学で扱うテーマと同じか、それ以上に大切なものに思えてきたのです。(ひょっとしたら、同じことなのかもしれません。同じことを異なるアプローチを取っているだけのような気がしないでもありません。)

 もう一度、書き出します。『ワールド・スタディーズ』の10のコンセプトは、
「似ている点・異なる点」「相互依存」「コミュニケーション」「公平さ」「力の分配」「原因と影響」「価値観と信念」「協力」「対立」「変化」 です。

 また、『ワールド・スタディーズ』を通して身につける知識・技能・態度は、
① 知識(「わたしたち」と「他の人々」、豊かさと貧しさ、平和と対立、わたしたちの環境、地球の未来)
② 技能(探究、コミュニケーション、コンセプトの把握、クリティカル・シンキング★、政治的スキル★★)
③ 態度(人間としての尊厳、好奇心、共感、異文化の受容、正義と公平)

 この本を知ったのは、1986年でしたが、今考えても10のコンセプトとそれぞれ5つずつの知識・技能・態度はすばらしいと思います。こちらの方には、私自身ずっとこだわってきました。中でも、秀でているのは技能でしょうか? 教育では、これらこそが大切であるにもかかわらず、日本の教育では無視されているものばかりです。

 もちろん、『ギヴァー』の中でこれら全部が扱われているわけではありませんが、いい線はいっているように思います。

 『ワールド・スタディーズ』や『テーマワーク』で紹介されている活動をすることで、10のコンセプトや15の知識・技能・態度を身につけていけるのですから、ぜひ体験していただきたいです。★★★


★ クリティカル・シンキングは、「批判的思考」と訳されますが、どうもそれでは半分ぐらいしか言い得ていない感じがします。「批判的だけど、とても前向きで建設的な思考」なのですが、10年ぐらい前にcriticalには「重要な」「大切な」という意味があるのを思い出し、「大切なものを選び出す力」と言っています。

★★ 日本流に言えば、「公民的資質」になると思いますが、あえてpolitical skillsを直訳しました。ニュアンスが違うので。

★★ 『ワールド・スタディーズ』や『テーマワーク』がとっているアプローチは、昨日の「国ってなあに?」の事例からもわかるように、体験学習やグループ学習や問いかけを重視しています。そういう方法でないと、コンセプトや技能や態度は身につかないようです。

2010年5月8日土曜日

国ってなあに?            『ギヴァー』と関連のある本22

 前回、国が出てきたので、思い出した本があります。
 しばらくぶりに、『ギヴァー』と関連のある本です。
 私が1994年に出した『テーマワーク』(国際理解教育センター発行)です。
 生活科、社会科、総合的な学習にピッタリと思って出しました。
 グループワークや話し合いを使って学んでいきます。
 いまでは、授業でも結構使われるようになっているブレーン・ストーミング、ベン図を使った分類法、ランキング、タイムライン、ロールプレイ、イメージマップ、写真を使って(フォト・ランゲージ)などの手法が紹介されています。

 扱っているテーマは、①イメージ、②変化、③国ってなあに?、そして④ルーツと旅です。全部、ギヴァーの内容と関係すると思います。

 国ってなあに? を例にとって、その大枠での流れを紹介すると、
1) 生きるために必要なものは? のブレーン・ストーミングからスタート
2) 国ってなあに? のブレーン・ストーミング
3) 外国を訪れたことのある子へのインタビュー
4) 子どもたちがあまり知らないアジア・アフリカ・南米等の中からいくつかの国を選び、各グループに振り分けてから、その国についてどんなことを知っているか、知りたいかをブレーン・ストーミングする
5) 想像上の国を創造してみよう
  (大きな紙に6つの適当な形を描きます。その一つひとつが国を表します。実際の国が地図上でくっつきあっているように、この6つの国々もお互いに隣同士で密接な関係にあります。一つひとつをその形に切り離します。4~5人ずつのグループに、切り離した一枚=一つの国を渡します。それが各グループの国です。ここから、その紙に自分たちの国を描いていきます。)
6) 自分たちの国をつくる ~ 国名は? 気候は? 地形は? 資源は? 何を食べてるの? 国家は? 国旗は? 通貨は? 切手は? 
7) 互いの国を訪問し合う
8) 自分たちの国をみんなに説明
9) 6つの切り離された紙(国)をくっつけて大陸としてつながっていたら、誰にとって有利か不利か? ~ 実際に海岸だと思っていたところが内陸だったり、山脈の一部だったりということにもなりかねません。ほとんどの紙(国)は、島国だと自動的に思って国づくりをしますから(私たちはやはり日本人なんですね!)、6つがくっついているのを知らされてビックリ。半分の面は内陸だったのですから。
10) 貿易ゲームを体験する

 大切なコンセプトとして、「共通点と相違点」「相互依存」「イメージ」「偏見」「コミュニケーション」「公正」「力の分配」「原因と影響」「価値観と信念」「協力」「対立」「変化」などを繰り返し、繰り返し学んでいます。

 日本では知識の量に重きを置いた教育が相変わらず行われていますが、私がこの本や『ワールド・スタディーズ』★から教えてもらったのは、コンセプトこそをしっかり身につけることの大切さでした。それは、生涯にわたって使えるものですし、教科の枠を越えても使えるものです。ブツギリの知識や情報のレベルでは残念ながら使い物にはなりません。

 なお、この本には、学校ってなあに? 地域ってなあに? 家族ってなあに? 等にすぐ応用できてしまう事例も豊富に紹介されています。


★ 『テーマワーク』と『ワールド・スタディーズ』は、私が教育にかかわり始めた当初に出合った本で、いまでも私にとって大切な本であり続けています。私の教育へのかかわりがこれら2冊から始まったことが、とてもラッキーだとも思っています。

2010年5月7日金曜日

社会とは

 前回の流れを受けて、今回のテーマは「社会」にしました。
 例によって、『14歳からの哲学』(池田晶子著)からの引用です。

80 社会とはいったいなんなのだろう。それは、どこに、どのように存在しているものなのだろう。いや、そもそもそんなものは存在しているのだろうか。

 こういう問いを掲げるのが哲学なんですね。
その本質を浮き彫りにするために。
 普通は、現象面を追いかけることに振り回されて(例えば、テレビや新聞のニュースなど)、こんな問いは発しません。
 振り回されないためにこそ、本質的なことが大切なんですね!!


81 「学校」なんてものを、目で見たことのある人はいないんだ。(学校の校舎は見えます!!)なのに人は、それが何か目に見える物のように、自分の外に、自分より先に、存在しているように思い、事実そのようにして毎日を生きている。「社会」というのもこれと同じなんだ。

 その存在していないものに人間は長年左右され続けます。「洗脳され続ける」と言ったほうが正しいぐらいかもしれませんね。

82 目に見えないのに存在するもの、それは思いや考えで、ここではまとめて「観念」と呼ぶことにしよう。ちょっと難しく聞こえるけれども、ただの呼び名、つまり君がいつも思ったり考えたりしているそれのことです。
  で、「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決してモノのように自分の外に存在している何かじゃない。だって、何かを思ったり考えたりしているのは自分でしかないのだから、どうしてそれが「自分の外」に存在しているはずがあるだろう...観念が現実を作っているのであって、決してその逆じゃないんだ。

 社会は、そこには存在しないものなので、自分の思いや考えで作り出している!!!

  このことに気がつくことはすごく大事なことで、うまくこれに気がつくことができると、すべてがそんなふうにできあがっているこということもわかるはずだ。
83 「ない」のに「ある」と思い込まれたものは、当然あることになる。
  社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべきなんだとわかるね。何でもすぐ他人のせいにするその態度を変えるべきなんだ。だって、すべての人が他人のせいにし合っている社会が、よい社会であるわけがないじゃないか。社会は、それぞれの人の内の観念以外のものではないのだから、それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ。現実を作っているのは観念だ。観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。

 哲学はスゴイ!!! ここまで明快なんですね。

  世のすべては人々の観念が作り出しているもの、その意味では、すべては幻想と言っていい。このことを、しっかりと自覚できるようなろう。社会がそうなら、国家というものもそうなんだ。「日本」という国が、国旗や国家や国土以外のものとして存在しているのを、君は見たことがあるかい。日本なんて、どこにもない。なのに人は、それが観念であるということを忘れて、その観念のために命を賭けて戦争したりするわけだ。ある角度からみると、これはとても不思議なことだ。観念のために命を捨てるなんて芸当ができるのは、生物のうちでも人間だけだからだ。

 「非国民」のレッテルを貼る人たちにとって、哲学をする人たちがありがたくない存在であることがよくわかりました。

84 結局のところ、「社会」というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人のつくり出した観念だということだ。複数の人が集まれば、複数の観念が集まり、混合し、競い合って、その中で最も支配的な観念、つまり最も多くの人がそう思い込む観念が、その集団を支配することになる。これが言わば「時代」というものだ。「社会の動き」とは、つまり「観念の動き」であると見る習慣を身につけよう。目に見えるものに捉われず、目に見えないものを捉えることが、だんだんできるようになるはずだ。

 と同時に、「パワーを持つ」ということはその時代の「支配的な観念」をつくり出す力を持つ、ということなんですね。
 でも所詮は観念に過ぎませんから、「時代」や「社会の動き」も、そのレベルのものに過ぎないわけで...


85 みんなが思い込んでいるだけの社会通念を、ひとつひとつ正確に見抜いてゆけるようになろう。

 ギヴァーが長年かけて見抜いたことを、ジョナスは1年もしないうちに見抜いてしまったわけですからスゴイ!! もちろん、12歳になるまでに彼は素地としてそういうものを持っていたのかもしれませんが。

 でも、目に見えないものを捉えたり、みんなが思い込んでいるだけの社会通念を見抜いたりすることは出発点でしかなくて、それがゴールではないわけで...
現実的に世の中にはびこっているたくさんの(中には弊害としか言いようのない)社会通念をひっくり返すにはどうしたらいいんでしょうか? 哲学は、それにも明快な答えを提供してくれるのでしょうか? それとも、小説と同じレベルなのでしょうか?
 要するには、「それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ」に集約されるということになるんでしょうか?

2010年5月6日木曜日

規則とは

 昨日の最後がコミュニティの規則に背くところで終わりましたから、その流れをついで今日のテーマは「規則」にしました。

 『ギヴァー』を注意して読んでいくと、特に前半部分は規則尽くめであることに気づきます。
 こうすべき、ああすべき、これはいけない、あれはいけない、ばかりなのです。

 ミスに対する処罰(最悪は<解放>)、公式謝罪、毎晩の<感情共有>と毎朝の<夢の共有>、家族ユニットは子ども2人(一男一女)、規則尽くめの毎年の儀式、服装が年齢で決まっていること、安眠アイテム、自慢の禁止、自転車の置き方、仕事別の規則と指示、家具もすべて規格化、そして告知者のアナウンスと住民のそれへの反応などなど。

 以下の2つの引用が、象徴的かもしれません。

68 コミュニティは綿密な注意のもとに秩序付けられているし、さまざまな選択はきわめて慎重に行われている。
71 ジョナスはピエールがあまり好きではなかった。彼はきまじめでおもしろみなく、小さなことでくよくよするし、告げ口屋でもあった。「規則になんて書いてあるか確かめたか? ジョナス」「それ、規則で許されてるかなあ」ピエールは、年中もったいぶってそんなふうにささやいていた。それも彼が気に病んでいるのはたいていくだらない、誰も気にしていないようなこと ~ 「そよ風の日に上着の前を開けていてもよいかどうか」だの、「友だちの自転車をちょっとだけかりてもよいかどうか、それも乗った感じがどうちがうかを確かめるためだけに」だのといった、ごくささいなことなのである。

 以下は、「規則」に関する『14歳からの哲学』(池田晶子著)からの引用です。

86 一般の社会生活で守らなければならない規則や法律は、とても数えることなんかできないくらいだ。たくさんの「べし」と、たくさんの「べからず」、社会生活とは、ある意味では、規則の集積であるといってもいい。どうして社会生活には規則が必要なんだろう。
  もし規則がなかったら、みんなが勝手なことばかりして収集がつかなくなる、社会生活が成り立たなくなるからだ、というのが、多くの人の意見だし、昔から人々はだいたいそんなふうに言ってきた。

 すでにというか、歴史的に、私たちの社会もジョナスのコミュニティと同じことをしているようですね。

90 人間はもともと悪いものだと見るその人間が作る法律なんだから、その法律の方が悪い場合だって当然ある...じゃあ、社会が決める法律には正しさは必ずしもないとすれば、正しさはどこにあるか、わかるね。そう、自分にあるんだ。善悪を正しく判断する基準は、自分にある、自分にしかないんだ。なるほど、人には自分のしたいことをする自由がある、悪いことをする自由もある。でも、悪いことをする自由は、じつは自由ではないんだ。だからこそ、善悪を自分で判断すること、それができることこそが、本当の自由なんだ。自分で自由に決めるということの、本当の意味なんだ。

 我らがジョナス君、みごとに実践していましたね!!

2010年5月5日水曜日

友だちとは

家族の次は、「友だち」がテーマです。

27 「アッシャーとぼくは、ずっとずっと友だちだよ」 ~ 二人は小さいときからの遊び友だち。ジョナスの母は、「12歳の儀式を終えたら、もう11歳のグループと過ごすことはなく、今までの友だちとはお別れすることになる」とジョナスに言う。
41 ジョナスはフィオナが好きだった。彼女は、成績優秀で、もの静かで品がよく、けれどユーモアのセンスもある。
50~56 フィオナへの好意が、ジョナスの<高揚>を引き起こした夢の告白のシーン。それを、錠剤を飲むことでコントロールしているジョナスのコミュニティ。
184~187 戦争ごっこに興じるフィオナやアッシャーたちに、本当はそれがとても悲惨なゲームであることを伝えられずに喪失感におしつぶされそうなジョナス。その後、「ちょっと川べりをサイクリングしない?ジョナス」とフィオナに誘われる。
188 「なんてかわいいんだろう」と思い、「これほど楽しいことがほかにあるだろうか。川べりの道を自転車でのんびり走りながら、おしゃべりしたり笑いあったりする。それも心優しいガールフレンドと」と考えたが、ジョナスはわかっていた。「もうそういう時間は自分から奪われている」ことを。「幼年時代、友情、屈託のない安心感 ~ そうしたすべてが消え去ろうとしている」ように思われた。
   ジョナスはアッシャーとフィオナに深い愛情を感じていた、けれども二人はその愛情を返してはくれないだろう。記憶がないのだから。 ~ ここでの「記憶」は、短期的な記憶ではなく、長期的な人類の記憶。


友情と愛情、恋愛と性も、哲学のテーマです。(ページ数は、『14歳からの哲学』池田晶子著の「友情と愛情」「恋愛と性」の章より)

99 自分が友だちに本当に求めているのは何なのかということについて、一度ゆっくりと考えてみるといい。ただいっしょにワイワイやって面白いだけの友だちというのは、やっぱりそれだけのことであることが多い。本当に面白いのは、決してつまらなくならないのは、大事なことを語り合える友だちだ。大事なことを語り合うのだから、信頼できる友だちだ...大事なことによってつながっているのだから、壊れると言うことがないんだ。

100 本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。
  一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないということだね。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求められるような友だちは、やっぱり本当の友だち、本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられるもの同士の間でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?
  自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。
  孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるからだ。
101 考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気がついたなら、君は、つまらない友だちと過ごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。ただ友だちがほしいって外へ探しにいく前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。
  そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえるもの同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことができるんだ。むろん全然語り合わなくたってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。
  本当の友情を知るということは、人生のひとつの喜びだ。うわべの付き合いだけの友達の多さなんかより、たった一人でも、君はそういう友だちを見つけるのがいい。大丈夫、そう思っていれば、必ずそれは見つかるよ。それまでは君は、自分の孤独を、うんと豊かにして待っているんだ。だって、そうでなければ、素晴らしい友だちが現われた時、君は彼に応えることができないじゃないか。

 哲学というのは、行動を明快にしてくれるものだったのですね!!!

102 愛情というのは、無条件であるものなんだ...人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、人はこれを学ぶためにこの世で生きているとも言えるんだ。

 でも、やっぱり哲学は難しいか?!

105 同性の友だちのことで悩むよりも、異性の友だちについての関心の方が、もっと切実なものがあるかもしれない。どうしてそうなのだと思う?
  これはまったく単純な理由だ。そこに性欲があるからだ。性欲、つまり性交をしたいという欲求だ。なぜ性交をしたいという欲求があるかといえば、子どもをつくって子孫を増やすという生物としての本能が、そうなっているからだ。性欲というのは食欲と同じ本能的な欲求で、その意味ではまったくの自然なんだ。
  他の動物の場合には、決まった発情期というのがあるが、なぜか人間にだけは、発情期がない。つまり、年がら年中のべつまくなし発情している。いつでも性交できるし、いつでも性交したいという状態であるわけだ
106 そうすると、それが本来は子どもをつくるための本能の仕組みであったという事実を、人は忘れがちになる。忘れて、性交によって発生する快楽の側にばかり関心がゆくようになる。そのうえ、性交するたびに子どもができるのでは大変なことになるというので、性交しても子どもができないような工夫をも人間は開発したから、性交と生殖とを完全に切り離すことが可能になった。つまり、性交の目的を生殖ではなくて快楽に限ることができるようになったんだ。こうして、性欲とは、生殖の欲求ではなくて快楽の欲求であると、実際に人々は思うようになっているといういわけだ...刹那の快楽への欲求に目がくらんで、恋愛の対象と性欲の対象とを同じものだと思ってしまう。混同して錯覚してしまうんだ。
108 よく考えると、人が人を好きになるのに明確な理由なんかないみたいだ。本当に好きなら、やっぱりこれも無条件なんだ。


 ジョナスのコミュニティは、性欲をおさえるために、毎日飲む錠剤を開発したようです。でも、「ジョナスが錠剤を飲まなくなってもう4週間になる。<高揚>が再び訪れ、ジョナスは眠りとともに訪れる喜ばしい夢にいくぶんの後ろめたさを感じ、恥らっていた。だが彼にはわかっていた。ぼくはもう戻れない、これまでずっと暮らしてきたあの感覚のない世界には」と、コミュニティのやり方(規則)に背くことを宣言しています。

2010年5月4日火曜日

家族とは

 ここ数日はゴールデン・ウィークということもあって、しばらくぶりの三世代の出会いが全国で見られています。

 家族は、『ギヴァー』が扱っているテーマの一つです。

 『ギヴァー』のコミュニティの住人たちにとって、家族は<長老委員会>によって、構成員にふさわしい職業や配偶者をマッチングされるのと同じように、ニュー・チャイルドがふさわしい家族ユニットにあてがわれる形でつくられます。子どもたちは、あまり尊敬される職業とは思われていない<出産母>たちから生まれてきます。一方で、夫婦が子どもをつくることは禁止されているようです。そして、職を全うして、社会的な価値を失うころには、<老年の家>に住むことになります。ですから、三世代がいっしょに過ごす、ということはありませんし、私たちが大事にしている「血縁関係」も一切ありません。
 ギヴァーからその三世代の家族の団欒の記憶を伝達されたジョナスは、それに強い憧れを感じました。(ひょっとしたら、それを求めて自分のコミュニティを脱出したとさえ言えるぐらいに。)
 また、実際にジョナスがコミュニティを抜け出したきっかけは、特別扱いの形で家で預かっていたニュー・チャイルド(まだ家族が決まらない赤ちゃん)のガブリエルが翌朝<解放>されることを知り、それを阻止するためでした。ガブリエルの命を守ることとコミュニティ全体に再生・再考の機会を提供することの方が、家族のメンバーに対する思い(「愛情」という言葉はご法度!)よりもはるかに大切だったのです。
 ギヴァーも、家族(少なくとも、配偶者)はいたようですが、本人が「自分の娘」として事のほか大切な存在として捉えていたのは、ジョナスの前任の<レシヴァー>で、10年前に自らの命を絶ったローズマリーでした。

 そして、家族は哲学のテーマの一つでもあります。(ページ数は、『14歳からの哲学』池田晶子著からの引用)

72 世の中にはたくさんの他人がいる。一番近い他人は、家族だ。
73 じっさい、よく考えると不思議なことだ。どうして人は、家族と一子の暮らしているのだろう。
   (親)の側から考えてみよう。彼らにしたところで、君が生まれたから君の親になったのであって、はじめから君の親としていたわけではない。君が生まれなければ、彼らはただ彼らであって、君の親という彼らであったわけでないね。この事実を、多くの場合、彼ら自身も忘れているんだ。誰が生まれるかわからなかったのに君が生まれたという、他人と他人のこの不思議な出会いの感動を忘れて、君のことを自分の子供だと思い込んでしまう。そして、時には、自分の思うように君のことをしとうとしたりして、そんなところが、この頃の君には、とてもうっとうしいんじゃないかな。他人が自分の思うようになるわけがないものね。
74  「親として当然の役割をしているんです」と彼らは言うだろう。子供のことを心配して、あれこれ気を遣うのは親としての役割だと。
    じゃ、親の役割って、いったい何だろう。
    動物の親にはない人間の親としての役割があるとすれば、それこそが、他でもない、人生の真実を教えるということのはずだ。
75  どうだろう、君のお父さんお母さんは、人生の真実を君に教えてくれているだろうか。君にはそのことがわかるだろうか。
    むろん、わからないよね。だって、君自身がまだ人生の真実とは何かを考えたことがないんだもの。だとしたら、同じように人生の真実とは何かを考えたことがないかもしれない君の親が、君の教える「人生の真実」は、ひょっとしたら真実ではない、間違ったことかもしれないということになる。さあどうしよう。
    大丈夫さ、だって、君は自分で考えることができるんだもの。
77  家族というのは最初の社会、他人と付き合うということを学ぶ最初の場所だ。家族の外の社会には、もっともっといろんな他人がいる。そういう他人とどう付き合ってゆくのかを予習するための場所なんだ。


 このぐらい軽く捉えられれば、いいですね!!

2010年5月3日月曜日

傾注すること、注意を向けること

ソンタグ再び。

●「人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です」 ~ まったくその通り! 恐ろしいほどに。 慣れや習慣がアテンションを弱める最大の要因になるので、「動き回ってください。旅をしてください」と提案し、さらには見慣れた「眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと」とも提案してくれています。でも、この連休中も多くの人が動き回っていますが、「心の傾注」や「眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと」に役立っているかというと、大きなクエスチョン・マークです。

●「注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです」 ~ その意味で、教育やメディアや政治に関わる人たちの役割は、とてつもなく大きいわけですが、自覚しているでしょうか? もちろん、個人や家庭の意識・意志も大きいですが。

●「人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください」 ~ 異質、刺激、挑戦は疲れます! しかし、それらなしには成長できないわけで...

●「検閲を警戒すること」 特に、自己検閲に。 ~ 社会中に「自己検閲」というか「自己規制」が充満しているように思えますが、特に、教育やメディアや政治の分野はそれが秀でているかもしれません。

●「本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)」 ~ 「期待を持続」して、読み続けること、とても大切ですが、一方で「二度読む(観る)価値のない本(映画)」を作り出しすぎている出版業界や映画業界の罪も結構大きなものがあるようが気がするのですが...「商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます」は出版やメディア相手でも可能でしょうか?

●「自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと」 ~ 自分以外のことに少なくとも半分以上の時間を割く! なかなか難しいように思いますが、でも、自分以外のことは何らかの形で自分とつながっている!!! 一番最後の引用で言っているように。

●「動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます」 ~ 私自身、10代の後半から20代は旅に明け暮れていましたが、もう20年以上「旅」といえるものものからご無沙汰しています。 それを、「家族」のせいにしてはいけないんでしょうね。そこにあるのは、自分の傾注・注意を向ける方向性の問題だけなんでしょうから。

●「暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること」 ~ まったく!!! でも、日本ではこんなことを言ったら、いつの時代でも「非国民」扱いされそうです。 懐疑的にみるべき対象は、国家以外にどんな単位の組織があるのでしょうか?

●「少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を持たず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください」 ~ 思いをはせることの大切さ!! しかし、それイコール必ずしも(短絡的に?)募金運動に参加することではありません。

●「傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。 傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください」 ~ この「傾注すること。注意を向ける」ことは、『ギヴァー』の(隠された?)テーマなのではないでしょうか? ジョナスの場合、ジョナスの父の場合、ジョナスの母の場合、ジョナスの妹のリリーの場合、ジョナスの友だちのアッシャーやフィオナの場合などを考えてしまいます。それはもちろん、自分のことを考えることなのですが...

2010年5月1日土曜日

スーザン・ソンタグの「若い読者へのアドバイス」

 『良心の領界』(スーザン・ソンタグ著、NTT出版)は、本全体というよりも、本の序の部分にあたる「若い読者へのアドバイス… (これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)」の内容が、『ギヴァー』のメッセージとオーバーラップしていると思ったので、紹介します。


人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
検閲を警戒すること。しかし忘れないこと——社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。
本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。
自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基礎になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を持たず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。
自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません——女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。 傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
良心の領界を守ってください……。
2004年2月
スーザン・ソンタグ


 とてもパワフルだと思われませんか?
 元気にもしてくれます。
 私にとっては、『ギヴァー』と同じように!