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2025年6月18日水曜日

「学力テスト」いう税金の無駄遣い

「石破政権が物価対策でやるべきことと、NHKがよりよい社会のために報道すべきこと」の続編的な位置づけです。

 極めて人気も効果も悪かった「免許更新制」という制度が葬り去られました。これに類する制度が欧米諸国には結構あるので、それを知った安倍さん(?)等の自民党の文教族議員(いま脚光を浴びている米の農政[ノーセイでも、政治が存在しないという意味!]に影響力のあるコメ議員/農水族議員と構造的に同じ)がちょっとかじっただけで、文科省にやらせた制度です。文科省は抵抗しました。日本の大学がやれるとは思っていませんでしたから。しかし、安倍さんたちの力で押し切られ、それが2009年から2022年までの約13年も続いてしまいました。教師に無駄な時間とお金を使わせ、教育委員会には必要のない仕事を押し付ける形で。大学の教師などには、授業力や教員の資質がよくなるはずもない講座に無駄な時間を使わせて。

 でも、まだ無駄なものをなくせただけマシと言えます。葬り去れないものがまだたくさんあります。その一つが時をほぼ同じくして2007年にスターとした「全国学力テスト」です。かかわっていたのは、日本の教育に影響力をもちたいと目論む安倍さんはじめ文教族議員たちであったことはほぼ間違いないでしょう(ひょっとしたら、こちらの方は今問題になっているコメと同じく利権ないし癒着?が関係していますから、より複雑かと思います)。

公式には、文科省および国立教育政策研究所(NIER)が実施主体になっていますが、実務的にはが民間企業に委託されており、その中でも、小学6年生のテスト問題冊子の配布・回収・採点などを担っているのがベネッセコーポレーション、中学3年生は、当初がNTTデータで、その後は内田洋行が担当しています。これまで、18回やってきているのですが、国およびそれら業者は、学力テストを行うことで、①子どもたちの学力実態を測り、②そして学力の向上を図り、③子ども一人ひとりの成長のためという目的を実現してきたかというと、①はそれなりには点数という形で測ってきていると言えるかもしれませんが(しかし、プラス面はあるでしょうか?)、②と③に関しては国も、民間企業も無能ぶりを示し続けているだけです★。

現場の先生たちに聞いてみると、4月にしたテストの結果は9月にしか知らされませんから、誰もテスト内容など覚えていません(こういう時差をおかしいと思えないこと自体が、制度の意味のなさを証明している?)。「貴重な授業時間を意味のないテストの時間にとられるだけで、メリットとして考えられることは何もない」というのが小6と中3の担任たちの生の声です。なぜ、実施者はメリットを当事者である生徒や教師に提供しようとしないのか? 単純に、それは不可能だからです。テストがあることで学力を向上させる(あるいは、向上する)というのは幻想ですし、そのために授業をするというのも本末転倒の話です。大学受験生の多くが声をそろえて言っているように、「あれは、本当の勉強ではありませんから」。中・高時代の定期試験と同じように、覚えた内容のほとんどは数日のうちに泡となって消えゆく運命にあるだけですから(もちろん、なかには記憶力がよく、忘れたくても忘れられない人たちもごく少数ながらいますが!)。

 メリットを挙げることの極めて難しい、この学力テストに毎年約60億円の税金を支出しているというのは、癒着以外の何と言えるでしょうか? 日本人のテスト大好きを利用して、とても簡単にごく少数の人たちが私腹を肥やせる手段となっているとしか言いようがありません。

 子どもたちの学びの質と量を上げ、そのために教師の教え方の質を変えることに、テストが関与できる余地はまったくありません!(かえって、逆効果はあっても!!)

 今回は、テストのみに限定していましたが、教育分野で葬り去られていない悪しき習慣は国や教育委員会レベルはもちろん、学校・教室レベルでもたくさんあります! その筆頭にあげてもおかしくないのが教科書無償給与制度でしょう。毎年、およそ470億円の国の予算が使われています(高校教育の無償化で、今後はその分も上乗せられます!)。単純計算で、テストの8倍の利益・癒着の構造が存在していることを意味すると捉えられるでしょうか?

この教科書(それと必然的に付随している、時間割、教科ごとのブツ切り指導など)の存在によって、子どもたちの学びの質と量は上がっているでしょうか? 低下しているでしょうか? 上げるための努力は、これらの枠のなかで可能でしょうか? 利益や癒着の真っただ中にいる人たちは、テストにしろ教科書にしろ、そんなことは関係ありません。

 よりよくするために政治家や官僚やマスコミ等(や大学の研究者も?)の影響力をもっている人たちは努力してほしいものです。現状維持のためではなく。あるいは、「自分たちは何かしていますよ」というジェスチャーのためではなく。見直しを行わなかったり、よりよくするための努力をしないということは、自分の能力と立場の無駄遣いをあえて選択して行っているだけということになります。

 

★特に②に関しては、「学校や教師が授業改善や指導方法の工夫に役立てる」ことと、「自治体や国が教育政策を改善するための材料にする」を目的に掲げているわけですが、いままでに何か前向きなことが行われたという成果が表れていたら、ぜひ教えてください。そして、それらは果たして他の教室・学校や地域への転移が可能なものでしょうか?

2025年6月16日月曜日

大谷さん、中継をNHK BS→NHK総合

 663日ぶりとなる“投手復帰”がその理由のようですが・・・

 https://news.yahoo.co.jp/articles/1a450006e4367aaf2ab81e849c331b052efe0d6b

 石破茂首相の2万円給付案をバッサリ「俺は2万円欲しくない、それは政治ではない」

https://news.yahoo.co.jp/articles/2ba49221a0068d20387c3498288c2514d573521b

と同じで、NHKさん、それは報道ではない!? (私は、松山さんのように声を大にしては言える立場にはありませんが、このブログに書く準備をしていました。)

 

また、「大谷翔平の下請けNHKでしかないことをいつものごとく証明しているだけでもあります!

確かに、視聴率は得られるでしょうが、日本の将来のために視聴者に考えてもらう必要のあることを見せない選択をしているわけですから。単に思考停止に陥らせる時間を増やしているだけではないでしょうか? それは、公共放送の役割??

 政治家も、マスコミも、自分の役割は何かを考えて行動してほしいです。影響が大きすぎますから。

2025年4月21日月曜日

『監視資本主義』

  グーグルを筆頭に、アマゾン、フェイスブック、アップルの巨大IT企業をGAFAと訳して言いますが、そうした企業に牛耳られた資本主義のことを、著者のショシャナ・ズボフは『監視資本主義』としてその内実を暴き出してくれています。

 704ページの大著なので、そう簡単に読める本ではありませんが・・・ここに書いてあることは、クレジット決済等でも広く行われていることだと思います。

 あくなき便利と楽に何でもできる社会を目指した帰結の一つが「これ」と言えるかもしれません!

 本の目次の前の1ページ目に掲載されているのが、下の定義です。

 『ギヴァー』で描かれている社会は、「資本」抜きの「監視主義」といえなくもない気がします。

 あなたは、何をどう選択しますか? 

 ジョナスが選択したようなことを、私たちにはできるでしょうか?

 すでに、そういう選択肢すらないのでしょうか?

2025年4月3日木曜日

ギバー(ギヴァー)について ~『ギヴァー』と関連する本138とテレビドラマ

  NHKの「土曜ドラマ」で1993417日から51日まで放送されたテレビドラマ(全3回)に『春の一族』がありました(原作・山田太一)。東京都文京区本郷菊坂の古アパートに訳ありの中年男(緒形拳)が引っ越してきて、他の住人たちにおせっかいをはじめるという内容です。住人たちは、もちろんその行為を疎ましく思っていたのですが、徐々に歓迎するようになっていきます。解説では、「個と共存」のテーマをリアルな生活感覚で描いたドラマ、とあります。当時、「隣は何する人ぞ」が皆目わからない時代に突入していたのを憂いた山田太一が、その解決法を模索したのかもしれません。

 

 いま、アダム・グラントの『GIVE&TAKE~「与える人」こそ成功する時代』が手元にあります。

 この本の監訳者の楠木建さんが、次のような『ギヴァー』との関連を感じさせてくれるような解説を書いてくれているので、そのまま掲載させてもらいます。


 「非常の時間がかかること」や、「記録」よりも「記憶」を重んじていることなど、『ギヴァー』との関連大いにありだと思われませんか? そして、最後のITの発達は私たち個人と集団/社会のあり方を、1993年代とは比べ物にならないぐらいに難しくもしています(容易にもしている?)。

 

 この後、楠木さんはどうしたら「ギバー」になれるのかも整理してくれていますので紹介します。

・まずは、「がんばらない」。

・成功するギバーは、「自己犠牲」ではなく、「他者志向性」をもっている★。

・自分にとって意義のあることをする。自分が楽しめることをする。

 

★これは、「人間関係をよくしましょう」を意味するわけではありません。「自分の仕事(や他にすること)とは、いったい何のためにするのか」ということを、突き詰めるということです! この辺について興味のもてた方は、ぜひ『『GIVE&TAKE』を読んでみてください。そして、『ギヴァー』も(再度)手にしてみてください。

★★楠木さんの解説を読んでいて、『春の一族』を思い出したので書き出しで紹介しました。そのドラマが、「迷惑がられない程度のおせっかい」を私の趣味の一つにすることに大いに役立っていたからです。そして、『ギヴァー』は私にその確信をもたせてくれたと同時に、復刻する必要性をもたせた本でした!

2025年3月17日月曜日

「票集めゲーム(選挙ごっこ)」=点取りゲーム(学校ごっこ)

  今国会の焦点の一つに、「教育の無償化」があります。

 数年前、知り合いの先生たちに「日本の教育・学校で、教えることと学ぶことに関する誤解/ボタンの掛け違えにはどんなものがあると思いますか?」というアンケートをしました。

 日本の教育や学校は、それらの誤解/ボタンの掛け違えでなりたっているとさえ言えます。(大学も、その枠のなかの営みと言えると思います。拡大再生産しているというか。)

 その結果が、教育の「無償化」という名の高校や大学までの「保育化」です。

 いま進行中の、先生たちの多忙化や質の向上★★の問題にノータッチでの無償化は、単なる税金の無駄遣いという側面が大きいです。

 政治家たちは、ほとんど身につくものが少ない、学校でしている点取りゲーム(学校ごっこ)と同じ「票集めゲーム(選挙ごっこ)」をしているだけで。いずれも日本のため、未来のためにならない、ということで共通しています。

 

保育園が、大したことはしていないという意味ではありません。

 保育園の方が、ひょっとしたら幼稚園や学校・大学などの教育機関よりも、いい教育をしているぐらいですから!

 ここでの意味は、教育面を放棄した保育専門機関としての学校や大学という意味です。

★★質の向上には、少なくとも、教え方の向上(教科書の扱い方も含む)と子どもたちとの接し方(さらには、教師相互の関係性や保護者や地域とのかかわり方も)は確実に含まれます。要するには、現状は教科書の存在があまりにも大きすぎて、他の子どもたちの学びに不可欠なものや大切なものがほとんど無視されているという状態です。子どもたちは、授業時間に教科書だけで学ぶわけではないことは、日本の教育・学校で、教えることと学ぶことに関する誤解/ボタンの掛け違えの一番大きなものの一つと言えるのではないでしょうか?