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2025年12月11日木曜日

ギヴァーに関連する本 140と141

 2冊の本は、両方ともローマン・クルツナリックによる本です。

1冊目は、生活の発見 | ムアート社。このなかで扱っているテーマ(愛、家族、感情移入、仕事、時間、お金、感覚、旅、自然、信念、創造性、死生観)は、『ギヴァー』は、哲学書!? や 『ギヴァー』は、哲学書 その2で紹介しているテーマとかなりオーバーラップし、いずれも大切なものばかりです。

 特に印象的なのは、PartⅣとして括られている信念、創造性、死生観でした。つい数十年前までは、死が生活の一部になっていたのに、ここ30、40年ぐらいは、死を見なくなった、話さなくなったことに著者は危機意識をもっています。そこで、「ライフスタイル」ならぬ「デススタイル」を提唱しています。それには、歳のとり方、死ぬ運命との向き合い方、満足して死ぬ方法が含まれます。そして「これらの技術は、開けた場で率直に死について語る文化でのみ習得することができる」と書いています。

 ちなみに、たまたま1997年にオランダを訪問した時、「Death Education(死についての教育ではなく、死に向けての教育)」が盛んにおこなわれていると聞きました。それは、死に向き合う態度・グリーフケア・倫理的選択・人生の意味づけを学ぶ包括的な教育です。特にオランダでは、安楽死や尊厳死をめぐる社会的議論が活発であるため、死の教育は「公共的・倫理的・心理的」側面を強く含んでいます。

 その特徴として、

安楽死・尊厳死の理解 ~ オランダ安楽死協会が中心となり、安楽死や自己決定権について市民向けに講座や相談を提供。

・パブリック・ディスカッション ~ 学校や地域で「Death Education」「人生の終末期の選択」について対話を促す。

・医療教育との統合 ~ 医療従事者は初期教育から緩和ケアを学び、死に直面する患者や家族への支援を必須とされる。

・グリーフケア(悲嘆教育) ~ 死別後の心理的ケア、喪失体験の共有、社会的サポートの重要性を学ぶ。

 死がタブー化しつつある日本とは、対極にある感がします(それも、なんと30年近く前のことです!)。

 

 2冊目の本は、共感する - ねうま舎を読みました。これは、1冊目の「感情移入」を一冊のテーマに広げた内容と捉えられると思います。こちらでは、

 共感力の高い人々がもっている以下の六つのエートスが詳しく各章で論じられています。

エートス1 共感脳にスイッチを入れる

エートス2 想像力の跳躍を

エートス3 あえて実験的な冒険に挑む

エートス4 語らう技を稽古する

エートス5 肘掛け椅子の旅

エートス6 革命を始めよう

 どの章も面白かったですが、もっとも印象に残っているのは、エートス4の「語らう技を稽古する」で紹介されていた「異邦人への好奇心」と「ヒューマン・ライブラリー」です。

 学校はもとより、社会全体としても、好奇心を萎えさせる場になっていますから、自分とは違う人への好奇心は大切です(それを、日々の授業のなかでやりましょうというのが『「おさるのジョージ」を教室で実現』ですので、ぜひご一読を)! スマホやパソコンは、好奇心を喚起するのに役立っているでしょうか? 語らうのには、役立っていない気がします。

 「ヒューマン・ライブラリー」は、その名の通り、本を貸し出す代わりに、人を貸し出す図書館活動です。「ヒューマン・ライブラリー」で検索したり、生成AIに尋ねるとかなりの情報が得られます。

2025年12月10日水曜日

今こそ、もう一度、読み直すべき本

今は東京と富山で二重生活を送っている『ギヴァー』の伝達者=普及協力者の伊藤さんが、以下の文章を送ってくれました!

  *****

最近、「ギヴァー」4部作を読み直しました。

正確に言うと、「ギヴァー」は何度も読んでいるので、その他の3作を読み直したのですが。


私は約半世紀の間、学校での公教育の仕事に携わってきました。

ずっと大切にしてきたのは、「一人ひとりに必ずある可能性を見出し拓き育てる学び」、「自分の価値観を礎に得意なことや好きなことがライフワークになる学び」、「民主的で平和な社会の担い手になる学び」ということです。

そして人との関係においては、「異なる者との相互の理解と寛容と協働」です。

 

でも、最近の日本や世界の在り方に不安を感じるたび、なんとなくこれまでやってきた日本の公教育への無力感が襲ってきます。

 

相変わらず一人ひとりに必ずある何らかの才能を見出し拓こうとしない(利用しようとさえしない)学校、多様性への寛容を失いつつある政治、蔓延する暴力、激甚災害やクマ騒動などの自然からの脅威。私は里山に住んでいますが、大雨による遊歩道の決壊や熊への恐怖でもう家の前の森に入れなくなってしまい、耕作放棄地と空き家が増え柿の木が伐採されていくなどして失われていく里山の風景。

 

「ギャザリング・ブルー」で、才能を搾取されながらも残って闘おうとするキラたちを思い出し、「メッセンジャー」では、変わりゆく人々と社会へのジョナスたちの闘いを思い出します。もし私たちの世界にもヒーラーのマティがいるとしたら、それはいったい何なんだろう?

為政者からディールという言葉を聞くたび「トレード・マーケット」も思い出します。

最後にどうやってゲイブはトレードマスターを倒したんだっけ?

そんなことを思い出したくて、島津やよいさんの翻訳本を手に取りました。以前は原文で読んだため当時は理解がアヤフヤだったことがハッキリして、もう10年以上?の時が経ってから、改めて色々と考え直しています。

 

今だからこそ、もう一度、読み直すべき本であると思います。

 

2025年9月11日木曜日

経費がかかりすぎているのに、税金の無駄使い以外に何の効果もない選挙

悪い意味でマスコミをにぎわしている伊東市ではこれから数か月のうちにかかる経費が市議会議員選挙に約4500万円、市長選挙に約3000万円かかるとみられています。

 国会も含めて、すべてのレベルの議員や首長選挙で、伊東市も含めて約半分の有権者しか投票しない現実や、当選した議員や首長の資質がはなはだ疑われる人たちが多い現実や、そして有権者にとっては、選挙のたびに投票する候補者を見いだせない現実を考えると、この制度が機能していないことは確実です(さらに、下に貼り付けた理由も全国で蔓延しています!)。したがって、これだけ多額な税金をドブに捨てるようなことを毎回繰り返すのではなく、他の方法を真剣に考える時がきています。マスコミも、機能していないことをそのまま報じ続けるのではなく、機能する方向で政治を変えるための情報提供をすることが役割だと思います。

 「結局、誰がなっても同じだね。(田久保)市長には期待していましたが、嘘や逃げはよくない。生活が政治で変わるという期待感がこの地域にはない 抜本的な変化を求める市井の人々の思いが投票に反映されるというのは、昨今の国政の選挙戦にも重なる部分が大きい。政治と市民感覚の間に埋めがたいズレがあるのだ。 誰がなっても私たちの生活は変わらない、という諦めに近い意識を市民の方から感じます。いまだに、特定の業界を対象とした政治資金パーティーが行われるような古い体質の地域ですから。そこへ政党色がない田久保市長が突然現れた。市民には、これまでの政治への憤りが根本にあったんです。 図書館を豪華なものにするために40億円もの税金を使うなら、インバウンドなど観光への”投資”に回して地域が潤うような政策に回してほしいという意見は根強い」(前出・議会関係者)https://news.yahoo.co.jp/articles/e0beb2da5027a6eab46b79d4365327343882a5ac

 この感覚は、伊東市だけでなく、先の参議院選や都議選を含めて、全国同じなのですから!

2025年7月27日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 139 『とべ バッタ』

あさ(6時半前)、落合恵子の絵本を紹介してくれるラジオ番組に登場したのが『とべ バッタ』田島征三さく・えでした。

この絵本を、『ギヴァー』と関連する本として紹介していなかったか確認したら、まだでした。

10~20年ぐらい前は、飛躍してほしい先生たちに紹介していた本でしたが、ここ10年ぐらいはどういうわけか、頭のなかから消えていました。それを、落合さんが思い出させてくれました。

 「絵本読み聞かせ とべ バッタ」で検索すると、読み聞かせを聞く(見る)ことができます。

 『ギヴァー』のジョナスがしたことに似ていると思いませんか?

 誰でも、飛躍する気にさえなれれば、飛べます!

 ポイントは、これまでの自分ではなくなることの決断!?

2025年7月21日月曜日

参院選投票率、58.52% 期日前は25.12%

 日本の有権者、「自民・公明の従順、服従、忖度の政治にノー」を突き付けました。

 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6546319

 海外から見ても、確かにそうとしか見えないと思います。

 ある意味、自民党の最右翼に位置づくか、「国粋党」ないし、アメリカのトランプ党の日本版というか。これは、参政党に限らず、似たような主張をする候補者や党が増えたことからも選挙の度の右翼化ないし国粋化は、かねがね感じるところです。


  でも、そもそも58%強の人しか投票しない(できない)という制度自体を見直すべきです。半分近くの人が選挙に行かない選択をしているのですから、機能している制度とは言い難いです。

 https://www.jiji.com/jc/article?k=2025072000197&g=pol

 基本的に、毎度毎度、「だれに投票しても何も変わらない」の繰り返しですから、「投票に行くだけムダ」と思うのは無理もありません。投票に値する人や党を見出すのが不可能なのですから・・・・(学校での勉強も、大筋ではこれに近い状態になっているのでは? 結果的に、政治も学校も、60年前、70年前に抱えていたのと同じ問題を抱え続けています。有権者は、これに対してこそ「ノー」を突き付けないと根本のところでは何も変わらないのですが、選挙制度が変わりませんから・・・・変えようがない。マスコミも、現在の制度を維持するための報道しかしませんし! https://thegiverisreborn.blogspot.com/2025/07/5-nhk.html

2025年7月5日土曜日

選挙情報と向き合う5つのポイント | NHK | 選挙の前にたしかめて

 昨晩のNHKラジオ総合の午後7:50ごろ、解説委員らしき二人が選挙情報と向き合う5つのポイント | NHK | 選挙の前にたしかめてを紹介していました。これはこれで、参考になる点がある(学校でのメディア教育にも使える!)と思いましたが、気になったのは二人の次のような発言。「選挙はイベントですから、このようなことができます。わずか2週間強ですから」

 でも、本当でしょうか? これは、「教員研修はみんなが集まる2時間だか3時間だけのイベントだから」や「授業は、45分(大学は90分)だから」と言っているのと似ている気がします。

 そこに、主体性も、継続性もありませんから、身につくものもありません。選挙という制度(あるいは、研修や授業)は、そんなに軽い存在でしょうか? その期間が終われば、あとは4年間だか6年間だか、当選者はやりたい放題(というよりも、何もやらない放題)でいいのでしょうか? イベントの期間中よりも、それ以外の圧倒的に長い時間の方が何倍も大事な気がします。そちらへのこだわりや関わりがない限り、選挙自体はもちろん、政治も社会もよくならないです!(同じことは、研修にも、授業にも言える?)

 NHKの解説委員たちがこのレベルですから、「(機能しているとは言えない現在の選挙制度を温存しつつ)今のままを続けましょう!」と視聴者を洗脳しているようなものです。(ある意味で、教科書の存在が「授業は教科書をカバーするもの」という洗脳するための媒体であるのと同じように!?) 彼らも良かれと思って言っていますから、とても質が悪いです! わずか2週間強ではなく、残りの数年間をよくするためにこそ「たしかめて」を実行するなり、それに代わるものを紹介してほしいです。

2025年6月18日水曜日

「学力テスト」いう税金の無駄遣い

「石破政権が物価対策でやるべきことと、NHKがよりよい社会のために報道すべきこと」の続編的な位置づけです。

 極めて人気も効果も悪かった「免許更新制」という制度が葬り去られました。これに類する制度が欧米諸国には結構あるので、それを知った安倍さん(?)等の自民党の文教族議員(いま脚光を浴びている米の農政[ノーセイでも、政治が存在しないという意味!]に影響力のあるコメ議員/農水族議員と構造的に同じ)がちょっとかじっただけで、文科省にやらせた制度です。文科省は抵抗しました。日本の大学がやれるとは思っていませんでしたから。しかし、安倍さんたちの力で押し切られ、それが2009年から2022年までの約13年も続いてしまいました。教師に無駄な時間とお金を使わせ、教育委員会には必要のない仕事を押し付ける形で。大学の教師などには、授業力や教員の資質がよくなるはずもない講座に無駄な時間を使わせて。

 でも、まだ無駄なものをなくせただけマシと言えます。葬り去れないものがまだたくさんあります。その一つが時をほぼ同じくして2007年にスターとした「全国学力テスト」です。かかわっていたのは、日本の教育に影響力をもちたいと目論む安倍さんはじめ文教族議員たちであったことはほぼ間違いないでしょう(ひょっとしたら、こちらの方は今問題になっているコメと同じく利権ないし癒着?が関係していますから、より複雑かと思います)。

公式には、文科省および国立教育政策研究所(NIER)が実施主体になっていますが、実務的にはが民間企業に委託されており、その中でも、小学6年生のテスト問題冊子の配布・回収・採点などを担っているのがベネッセコーポレーション、中学3年生は、当初がNTTデータで、その後は内田洋行が担当しています。これまで、18回やってきているのですが、国およびそれら業者は、学力テストを行うことで、①子どもたちの学力実態を測り、②そして学力の向上を図り、③子ども一人ひとりの成長のためという目的を実現してきたかというと、①はそれなりには点数という形で測ってきていると言えるかもしれませんが(しかし、プラス面はあるでしょうか?)、②と③に関しては国も、民間企業も無能ぶりを示し続けているだけです★。

現場の先生たちに聞いてみると、4月にしたテストの結果は9月にしか知らされませんから、誰もテスト内容など覚えていません(こういう時差をおかしいと思えないこと自体が、制度の意味のなさを証明している?)。「貴重な授業時間を意味のないテストの時間にとられるだけで、メリットとして考えられることは何もない」というのが小6と中3の担任たちの生の声です。なぜ、実施者はメリットを当事者である生徒や教師に提供しようとしないのか? 単純に、それは不可能だからです。テストがあることで学力を向上させる(あるいは、向上する)というのは幻想ですし、そのために授業をするというのも本末転倒の話です。大学受験生の多くが声をそろえて言っているように、「あれは、本当の勉強ではありませんから」。中・高時代の定期試験と同じように、覚えた内容のほとんどは数日のうちに泡となって消えゆく運命にあるだけですから(もちろん、なかには記憶力がよく、忘れたくても忘れられない人たちもごく少数ながらいますが!)。

 メリットを挙げることの極めて難しい、この学力テストに毎年約60億円の税金を支出しているというのは、癒着以外の何と言えるでしょうか? 日本人のテスト大好きを利用して、とても簡単にごく少数の人たちが私腹を肥やせる手段となっているとしか言いようがありません。

 子どもたちの学びの質と量を上げ、そのために教師の教え方の質を変えることに、テストが関与できる余地はまったくありません!(かえって、逆効果はあっても!!)

 今回は、テストのみに限定していましたが、教育分野で葬り去られていない悪しき習慣は国や教育委員会レベルはもちろん、学校・教室レベルでもたくさんあります! その筆頭にあげてもおかしくないのが教科書無償給与制度でしょう。毎年、およそ470億円の国の予算が使われています(高校教育の無償化で、今後はその分も上乗せられます!)。単純計算で、テストの8倍の利益・癒着の構造が存在していることを意味すると捉えられるでしょうか?

この教科書(それと必然的に付随している、時間割、教科ごとのブツ切り指導など)の存在によって、子どもたちの学びの質と量は上がっているでしょうか? 低下しているでしょうか? 上げるための努力は、これらの枠のなかで可能でしょうか? 利益や癒着の真っただ中にいる人たちは、テストにしろ教科書にしろ、そんなことは関係ありません。

 よりよくするために政治家や官僚やマスコミ等(や大学の研究者も?)の影響力をもっている人たちは努力してほしいものです。現状維持のためではなく。あるいは、「自分たちは何かしていますよ」というジェスチャーのためではなく。見直しを行わなかったり、よりよくするための努力をしないということは、自分の能力と立場の無駄遣いをあえて選択して行っているだけということになります。

 

★特に②に関しては、「学校や教師が授業改善や指導方法の工夫に役立てる」ことと、「自治体や国が教育政策を改善するための材料にする」を目的に掲げているわけですが、いままでに何か前向きなことが行われたという成果が表れていたら、ぜひ教えてください。そして、それらは果たして他の教室・学校や地域への転移が可能なものでしょうか?

2025年6月16日月曜日

大谷さん、中継をNHK BS→NHK総合

 663日ぶりとなる“投手復帰”がその理由のようですが・・・

 https://news.yahoo.co.jp/articles/1a450006e4367aaf2ab81e849c331b052efe0d6b

 石破茂首相の2万円給付案をバッサリ「俺は2万円欲しくない、それは政治ではない」

https://news.yahoo.co.jp/articles/2ba49221a0068d20387c3498288c2514d573521b

と同じで、NHKさん、それは報道ではない!? (私は、松山さんのように声を大にしては言える立場にはありませんが、このブログに書く準備をしていました。)

 

また、「大谷翔平の下請けNHKでしかないことをいつものごとく証明しているだけでもあります!

確かに、視聴率は得られるでしょうが、日本の将来のために視聴者に考えてもらう必要のあることを見せない選択をしているわけですから。単に思考停止に陥らせる時間を増やしているだけではないでしょうか? それは、公共放送の役割??

 政治家も、マスコミも、自分の役割は何かを考えて行動してほしいです。影響が大きすぎますから。

2025年4月21日月曜日

『監視資本主義』

  グーグルを筆頭に、アマゾン、フェイスブック、アップルの巨大IT企業をGAFAと訳して言いますが、そうした企業に牛耳られた資本主義のことを、著者のショシャナ・ズボフは『監視資本主義』としてその内実を暴き出してくれています。

 704ページの大著なので、そう簡単に読める本ではありませんが・・・ここに書いてあることは、クレジット決済等でも広く行われていることだと思います。

 あくなき便利と楽に何でもできる社会を目指した帰結の一つが「これ」と言えるかもしれません!

 本の目次の前の1ページ目に掲載されているのが、下の定義です。

 『ギヴァー』で描かれている社会は、「資本」抜きの「監視主義」といえなくもない気がします。

 あなたは、何をどう選択しますか? 

 ジョナスが選択したようなことを、私たちにはできるでしょうか?

 すでに、そういう選択肢すらないのでしょうか?

2025年4月3日木曜日

ギバー(ギヴァー)について ~『ギヴァー』と関連する本138とテレビドラマ

  NHKの「土曜ドラマ」で1993417日から51日まで放送されたテレビドラマ(全3回)に『春の一族』がありました(原作・山田太一)。東京都文京区本郷菊坂の古アパートに訳ありの中年男(緒形拳)が引っ越してきて、他の住人たちにおせっかいをはじめるという内容です。住人たちは、もちろんその行為を疎ましく思っていたのですが、徐々に歓迎するようになっていきます。解説では、「個と共存」のテーマをリアルな生活感覚で描いたドラマ、とあります。当時、「隣は何する人ぞ」が皆目わからない時代に突入していたのを憂いた山田太一が、その解決法を模索したのかもしれません。

 

 いま、アダム・グラントの『GIVE&TAKE~「与える人」こそ成功する時代』が手元にあります。

 この本の監訳者の楠木建さんが、次のような『ギヴァー』との関連を感じさせてくれるような解説を書いてくれているので、そのまま掲載させてもらいます。


 「非常の時間がかかること」や、「記録」よりも「記憶」を重んじていることなど、『ギヴァー』との関連大いにありだと思われませんか? そして、最後のITの発達は私たち個人と集団/社会のあり方を、1993年代とは比べ物にならないぐらいに難しくもしています(容易にもしている?)。

 

 この後、楠木さんはどうしたら「ギバー」になれるのかも整理してくれていますので紹介します。

・まずは、「がんばらない」。

・成功するギバーは、「自己犠牲」ではなく、「他者志向性」をもっている★。

・自分にとって意義のあることをする。自分が楽しめることをする。

 

★これは、「人間関係をよくしましょう」を意味するわけではありません。「自分の仕事(や他にすること)とは、いったい何のためにするのか」ということを、突き詰めるということです! この辺について興味のもてた方は、ぜひ『『GIVE&TAKE』を読んでみてください。そして、『ギヴァー』も(再度)手にしてみてください。

★★楠木さんの解説を読んでいて、『春の一族』を思い出したので書き出しで紹介しました。そのドラマが、「迷惑がられない程度のおせっかい」を私の趣味の一つにすることに大いに役立っていたからです。そして、『ギヴァー』は私にその確信をもたせてくれたと同時に、復刻する必要性をもたせた本でした!

2025年3月17日月曜日

「票集めゲーム(選挙ごっこ)」=点取りゲーム(学校ごっこ)

  今国会の焦点の一つに、「教育の無償化」があります。

 数年前、知り合いの先生たちに「日本の教育・学校で、教えることと学ぶことに関する誤解/ボタンの掛け違えにはどんなものがあると思いますか?」というアンケートをしました。

 日本の教育や学校は、それらの誤解/ボタンの掛け違えでなりたっているとさえ言えます。(大学も、その枠のなかの営みと言えると思います。拡大再生産しているというか。)

 その結果が、教育の「無償化」という名の高校や大学までの「保育化」です。

 いま進行中の、先生たちの多忙化や質の向上★★の問題にノータッチでの無償化は、単なる税金の無駄遣いという側面が大きいです。

 政治家たちは、ほとんど身につくものが少ない、学校でしている点取りゲーム(学校ごっこ)と同じ「票集めゲーム(選挙ごっこ)」をしているだけで。いずれも日本のため、未来のためにならない、ということで共通しています。

 

保育園が、大したことはしていないという意味ではありません。

 保育園の方が、ひょっとしたら幼稚園や学校・大学などの教育機関よりも、いい教育をしているぐらいですから!

 ここでの意味は、教育面を放棄した保育専門機関としての学校や大学という意味です。

★★質の向上には、少なくとも、教え方の向上(教科書の扱い方も含む)と子どもたちとの接し方(さらには、教師相互の関係性や保護者や地域とのかかわり方も)は確実に含まれます。要するには、現状は教科書の存在があまりにも大きすぎて、他の子どもたちの学びに不可欠なものや大切なものがほとんど無視されているという状態です。子どもたちは、授業時間に教科書だけで学ぶわけではないことは、日本の教育・学校で、教えることと学ぶことに関する誤解/ボタンの掛け違えの一番大きなものの一つと言えるのではないでしょうか?