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2014年5月1日木曜日

『無境界』 その2


ちょっと長くなりますが・・・・

第3章 無境界の領域 
61 アリストテレスが自然のなかのほぼすべてのプロセスと物を説得力に富んだ正確さで分類してしまったために、何世紀ものあいだ、ヨーロッパ人は彼の生んだ諸境界の妥当性に疑問をさしはさむことすらできなかった。
   だが、いかに正確かつ複雑な分類をもってしても、そういった種類の境界線では ~ 科学的には ~ せいぜい描写と定義しかできない。

   ピタゴラスがしたことは、数えたこと。
   命名が魔術であるとすれば、計算は聖なるものである。名前は物事を魔術的に表すことができるが、数はそれらを超越することができるからだ。2という数は、あらゆる種類の2つのものをくまなく指す。つまり、ある意味で物を超越しているのである。(ミカン2個、オレンジ2個、リンゴ2個、犬2匹、etc.
62 抽象的な数によって、人間は頭を具体的なものから解き放つことに成功した。これは第一のタイプの境界、すなわち命名、分類、識別をとおしてもある程度可能であった。だが、数はこの力を劇的に高めた。ある意味で、数を数えることは、まったく新しいタイプの境界であったからだ。それは境界に対する境界、一つのメタ境界であった。
   命名は第一のタイプの境界を生み、第二の境界は種類の種類を生む。

   境界には政治とテクノロジーの力が備わっているために、人はそれによって自然界を支配する能力を高めたのである。
   同時に、人間と世界のより広範な疎外と分断化をもたらしたのである。 ← 『ギヴァー』
63 この抽象的な数という新たなメタ境界は具体的な世界をあまりにも超越していたために、人は具体対抽象、理想対現実、普遍対特殊という2つの世界に住むようになってしまった。その後、2千年にわたり、この二元論は12回もその形態を変えることになるが、それが根こそぎにされたり、調和されることはほとんどなかった。それは、合理対浪漫、観念対体験、知性対本能、秩序対混沌、心対物質の戦いとなった。これらの区別はすべてしかるべきリアルな線に基づいていたが、これらの線は一般に境界と戦いへと堕落してしまったのである。
   数、計算、測定などからなるこの新たなメタ境界は、1600年前後のガリレオとケプラーの時代になるまで、何世紀ものあいだ、自然科学者たちによって実際に使われることはなかった。教会の存在と力が使うことを封じていた!
64 しかし、17世紀になると教会は衰退しはじめ、物理学者たちが「測定」を始めた。
   彼らは、メタ境界の上に境界を設けたのである。幾何として知られている超メタ境界を発明したのだ。
   要約すると、第一の境界は種類を生む。メタ境界は数と呼ばれる種類の種類を生む。第三のメタ境界は、変数と呼ばれる種類の種類の種類を生む。この変数は公式の中でX,Y,Zとして表される。変数は、あらゆる範囲のあらゆる数を指すことができる。

65 アダムは植物に命名することができた。ピタゴラスはそれらを数えることができた。ところがニュートンには、それらの重さがわかったのである。

66 第三の境界は、測定を結論に、数を原理に転換する。各段階、個々の新たな境界は、それぞれより一般化された知識とそれにともなう力をもたらす。
   しかしながら、この自然に対する知識と力と支配は、代償を支払ったうえで獲得されたものである。境界とはつねに両刃の剣であり、それが自然から切りとった果実は必然的に甘くて苦いものだからだ。人間は自然を支配する力を獲得したが、そのために、自らを自然から根本的に切り離してしまった。わずか十世代のあいだに人間は、歴史上初めて、自らを含むこの全惑星を木っ端微塵に爆発させうるという忌まわしい栄誉を勝ち取ったのだ。

68 世界は一つの巨大なニュートン的な玉突き台 → 量子革命
69 古い物理学は原子を比ゆ的にニュートロンとプロトンが太陽核を構成し、そのまわりを個別の惑星的エレクトロンがまわっているミニチュアの太陽系と見ていた。ところがいまでは、原子はまわりの環境に限りなく溶けこんでゆく星雲のように見えてきた。「素粒子とは、独立して存在している分析可能な実体ではない。それは本質的には、外のほかの物とつながる一組みの関係性である」 それらが境界を持っていないからである。

71 縫い目のない衣

73 世界はある意味で一つの巨大な原子に似ているという現代物理学の概念は、「法界」という仏教の考え方そのものである。それは、事事無碍と呼ばれる。事は「物事、実態、現象、対象、プロセス」を意味し、無は「ない」、碍は「障害、妨害、境界、分離」(さまたげ、じゃまする)を意味する。事事無碍は「宇宙のなかのあらゆる物事のあいだには、何の境界もない」と翻訳されるのである。

74 「原子という極微の宇宙のなかの一個の小さな粒子が、未来とはるかな過去を有する無限な宇宙のなかの、無数の物体と原理を完全無欠な状態で実際に含んでいるということである」
   「すべては一であり、一はすべてである」仏教
   「個々の粒子は他のあらゆる粒子からなっており、それぞれの粒子も、同じような形で同時に他のすべての粒子からなっている」現代物理学
  → 無境界の縫い目のない衣と見ている

75 東洋は、すべての境界が幻想であることを知っていたのである。そのため彼らは、地図と領域、境界とリアリティ、シンボルと実在、名前と名づけられたものを混同するというまちがいを犯さなかったのである。

76 仏教の「空」の教義 ~ リアリティには思考もなく物もない。

   「物」を見るということは、考えることであり、考えるということは自ら「物」を描くことである。このように、「考えること(thinking)」と「物すること(原語は何??)」は、われわれがリアリティに投げかける境界の網の2つの名前なのだ。
   仏教でリアリティが空であるというのは、境界がないという意味である。
77 重要なのは、世界が境界のないものと見られると、あらゆる物事が ~ すべての対立と同様 ~ 相互に依存し、浸透しあっている、と見られるようになることである。喜びが苦痛、善が悪、生が死と関連しているように、あらゆる物は、「それらではないものと関連している」。
   大半の人にとって、これは理解しがたいことである。われわれはいまだアダムの原罪の呪縛の下にあるために、生そのものにしがみつくように、境界にしがみつくからである。だが、リアリティは無境界であるという洞察の真髄はきわめて単純である。単純であるために、理解しにくいのだ。たとえば、視野を例にとってみよう。自然をながめわたすとき、目は単独の分離、独立した物を見ることがあるだろうか。一本の木、一つの波、一羽の鳥を見たことがあるだろうか。
   この本の印刷された文章を読んでいるいまでさえ、自分の全視覚野を注意深く見てみれば、目が一度に一つのことばだけを見ているのではないことがわかるはずだ。実際に読めはしないとしても、目はこのページのあらゆることば、さらにそれを囲む背景の一部、そしておそらく自分の手と腕、膝、テーブル、部屋の一部などを見ている。つまり、あなたの身近な実際の自覚のなかには、分離した物も境界もないのである。 境界はまったくないのだ。

80 あらゆる境界は、本来何もないところに分離(とひいては争い)をつくるという意味でまぎれもない幻想である。対立のあいだの境界と物事の境界は、究極的にはやはりまやかしである。

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