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2021年9月10日金曜日

日本にはびこり続ける「世間」という問題

前回紹介した「日本のテレビの問題」も、教育が抱え続ける問題も、政治が抱える問題も、すべてのルーツをたどると「世間」の問題に行きつく気がします。

「世間の皆様にお騒がせして申し訳ありませんでした」というあいさつで使われる「世間」です。その「世間」は、「自分と直接的・間接的に関わる人たち」であって、「社会一般」は指していません。

 私が一番好きな歴史家は、ヨーロッパ中世史をしていた阿部謹也さんですが、彼がなくなる前の約10年間を費やしたのは、この「世間」の研究とその成果の発表でした。特に、日本の学会を批判しつづけました。

 彼は、歴史を「人と人の絆」と捉えていました。その歴史観から「世間」に興味をもつことは必然だったかもしれません。

 彼の一連の世間に関する本を読むと、「日本のテレビの問題」も、菅総理を生み出し、そして彼が発信能力(説明責任)のないまま(結局は一度も、聞くに堪える会見ができなかったこと。そして最後ぐらいは、それを裏切ってくれるかなという期待をもった総裁選不出馬の会見まで)存在し続けた理由も明らかになります。

 菅さん(や安倍さん)も含めて、みんな「世間」の住人であって、「社会」の住人ではないのです。彼らが、誰に対して話しているかというと、あくまでも「自分の仲間内」である「世間」に向けてなのです。だから、一般社会が、菅さんの言うことが分かるはずはありません。そこに向けて、彼自身は発信するつもりもないし、発信もしていませんから。

 「従順・服従・忖度」も、もちろん、この「世間」の中では日常茶飯事ですが、「社会」では起こり得ません(というか、かなり起こりにくくなります)。

 私たちが求めているのは、旧来の「世間」の維持でしょうか?                 それとも、「社会」でしょうか?

 

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