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2022年9月7日水曜日

政治家も、官僚も、未来の世代へのツケをまわさない

 国の借金が膨れ上がっています。

 そして、その原因をつくり出している(?)張本人である、政治家と官僚は、それが自分たちの責任であるとは思っていません。

 彼らは、毎年の予算は前年度よりも多いことが当たり前というメンタリティーのままでいます。「前年度よりも少ない予算」というのは、彼らの辞書には存在しません。

 自ら行動に移せないことは分かっていますから、インセンティブとして、前年度比で少なくした人にはプラスアルファの昇給を出すという制度にしてはどうでしょうか?(たとえば、少なくした分の1~2割とか。スポーツ選手のエイジェントのような感覚で。そういう個人的なメリットがあるようにしないと、彼らは増やすことしかしません。その方が自分たちは得ですから。)それを、逆の仕組みにするのです。税金の支出を少なくすれば、個人が得をする仕組みに。

 

 今回の国葬問題も、その一つです。そういえば、額は国葬よりもはるかに少なかったですが、安倍マスクも同じように意味のない政策の代表のようなものでした。そういう意味のない事業に対しては、逆に「罰金」を科すという制度にするべきです。そうすれば、安易に政治家や官僚はアホなことができなくなります。

 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6437912 などのニュースで、オリンピック自体がそういうシロモノであったことも、約1年後に明らかになってきました。多くの人は、こういうことなしに、行われたとは思っていないでしょう。

 電通、オリンピック委員会、スポンサー企業、政治家は、もう一つの社会問題である政治家(特に、自民議員)と統一教会との関係と同じで「ズブズブ」と見ておかしくないでしょう!!

 

 前回の「アカウンタビリティー」の訳に関連した書き込みで明らかにしたように、「説明責任」のレベルでは何もよくなりません。「結果責任」をとらせる仕組みにしないと。

 

2022年9月2日金曜日

繰り返される日本の政治家の「説明責任」問題

  それを誘発しているのは、元々の語源である「アカウンタビリティー」を「説明責任」と訳してしまった誤訳にある!!

 その結果が、いまも(そして過去はもちろん、未来にも)政治の世界で繰り返し起こし続ける過ちを繰り返す元になっています。いまは、統一会問題であり、元首相の国葬問題などです。

 アカウンタビリティーのとてもよい説明を、『みんな羽ばたいて~生徒中心の学びのエッセンス』★キャロル・トムリンソン著の中で見つけましたので紹介します。

 

アカウンタビリティーとは、完璧を執拗(しつよう)に追い求めることではありません。それは、健全でもなければ、達成できることでもありません。アカウンタビリティーとは、私たちが教える生徒一人ひとりの成長に責任をもち、すべての生徒と協力して彼らの成長のために価値ある目標を設定し、教室で何を表現し、何をしたいのかを常に意識しながら、ベストを尽くすということです。それは、生徒一人ひとりがどのように成長しているか(あるいはしていないか)、そして私たちがプロとしての展望においてどのように成長しているか(あるいはしていないか)を、正直かつ誠実に、そして定期的に検証することを意味します。つまり、生徒の成長を最大化し、専門家としての自分自身を強化するために、何をどのように行うかを調整することなのです。ハッティによると、教師の基本的な仕事は、自分の授業が生徒の学びと成長に与える影響を評価することです。「汝の影響を知れ」と彼は助言しています。この意味で、アカウンタビリティーは、成長マインドセット(成功や失敗の両方から学ぼうとすることによって、より強く、より良く、より賢く、より自己実現に近い状態になるという信念)の現れであるとみなすことができます。学び手中心の教室におけるアカウンタビリティーの範囲は、学び手中心の可能性に対する私たちの感覚が広がり、教室が生徒の声と選択の幅を広げるにつれて拡大していきます。 (以上、その本の60~61ページからの仮訳)

 ニュアンスとしては、「説明責任」よりも「結果責任」に近いでしょうか?

 ちなみに、上に書いてあるようなことは、日本の教育では当たり前のことでしょうか? それとも、まだ知られていないことでしょうか?

 残念ながら日本の政治の世界では、まったく見られないことでしょうか?

 ★このタイトル、学校教育だけでなく、政治の世界でも、そのまま使えると思えませんか? 学校教育では、生徒はもちろん、教師も羽ばたけない現状が続いていますが、政治の世界も、有権者はもちろん、政治家も羽ばたけない現状が続いています!? それとも、政治家だけは(アカウンタビリティーの取り違えによって)羽ばたいている??

2022年8月30日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本133

  ギヴァーのコミュニティーと似ているのではなく、逆さまなコミュニティーが描かれているという意味で「関連」のある絵本『ありがとう、アーモ!』オーゲ・モーラ作です。

 アパートのてっぺんの部屋で「とろーり とろとろ とくせいシチュー」を自分の夕食に大量に作ったおばあちゃん(アーモ)のお話。

 その匂いをかいで、次から次へといままでおばあちゃんと会ったことがない人が現れ、みんなに分けてあげ、結果的に自分の分がなくなってしまうのです。

 再考の夕ご飯になるはずだったのに、とがっかりしているとこへ

 シチューを分けてあげた人たち全員が、こんどは「ぼくたち、わけてあげに きたんだよ!」

 みんなが、いろいろな料理をもってきたのです。

 せまい へやに みんな はいってきて、いっしょに

 たべたり おどったり、 わらいあったりした。

 とりーり とろとろ とくせいシチューのおなべは からっぽだけど、

 アーモは うれしくて むねが いっぱいになった。

 そう、アーモの ゆうごはんは、いままでで

 さいこうの ごちそうに なったんだ。

 日本では、昔々の長屋での生活のようです。

 ギヴァーのコミュニティーのように、各戸に決まった給食が朝夜送り届けられるような仕組みでは起こりえないことです。そして、いまの日本のように分譲マンションやアパートあるいは団地などで、隣との接触がほとんどないような中でも、なかなか起こりそうもありません。

 私たちは、どういうコミュニティーを望んでいるのでしょうか?

 それよりも何よりも、自分だけでは食べられないぐらいに大量のシチューを作って、気前よく見知らぬ人に提供していく寛容さも、近代化(現代化?)とともに消え去っていきました。東日本大震災等の緊急事態の時などには、それが一時的に回復する時はあっても・・・

 

2022年8月27日土曜日

『ギヴァー』と関連のある本132

写真家・幡野広志さんは、2017年に多発性骨髄腫という血液のガンを発症し、医師からあと3年の余命を宣告されました。その後の2019年に書かれたのが『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』です。

 以下は、『ギヴァー』との関連でとったメモです。(左側の数字は、本のページ数)

38 「助けて」と言えることは、強い。

   身近な誰かを信じることができず、自分のことさえ信じることができていない人間の態度・・・として「助けて」が言えない。

57 たくさん(の息子)の写真を撮って、たくさん(の息子)の文章を書きとめて、「お父さんは優くんのことをこんなに愛していたんだよ」という記録を残し、記憶を残していこう。 ~ 最初は、なぜ自分のではないと思ったが、撮っている人や書いている人が自ずと表れる! ギヴァーのコミュニティーにもない視点!! 記憶自体を消し去っているのですから。

115 「ぼくは写真のことしかわからないけど、なにかをやるときの技術って、全然たいした問題じゃないですよ。技術が上がるっていうのは、ただ「失敗の回数が減る」というだけのことですから。大事なのは、自分が好きなこと、自分が選んだことを、もっとわがままになってやるっていう、それだけだと思います」 ~ これは、ギヴァーのコミュニティーでも、日本全体でも、丸ごと抜け落ちていること。後者においては、学校教育でも、社会全体でも、クリティカルな思考の大切さ(それは、「批判的思考力」ではなく、「大切なものを選び出す力であり、大切でないものは排除する力」!)が理解されていないので。

136 家族とは、「与えられるもの」ではなく、「選ぶもの」なのだ。 ~ これも、ギヴァーのコミュニティーでも、日本でも、受け入れられていない部分!

146 NASAの(家族の)定義は明確だ。

    配偶者

    子ども

    子どもの配偶者

までが、「直系家族」なのだ。父親も、母親も、きょうだいも、含まれない。血がつながっているはずの彼らは、みな「拡大家族」に分類されているのだ。 ~ 日本でこうなるまでに、あと何十年?? ギヴァーのコミュニティーにおける家族は、①と②のみ。

153 「血のつながりよりも大事なものがある」と考えないと、親や子どもは自立「親離れと子離れ」の機会を奪われたままだ。「直系家族」としてはじまる親子の関係は、どこかで「拡大家族」に落ち着くべきなのだ。

182 安楽死は、おおきく3つに分けられる。

 ひとつは「積極的安楽死」だ。オランダやベルギーではこの方法が採用されている。 ~ ギヴァーのコミュニティーでも!!

 ふたつ目が「自殺ほう助」だ。スイスで採用。

 そして最後のひとつが、「尊厳死」だ。尊厳死とは、延命措置を控えたり、やめる行為」を指す。「消極的安楽死」とも呼ばれる尊厳死は、日本の医療現場でも認められている。

192 スイスやオランダで安楽死を選択している人たちの多くは、自分の人生やその最期について、十分な満足感をもって亡くなっていくのだという。「これ以上生きていたくない」という消極的な理由から安楽死を選んでいるのではなく、「この状態のまま、いまのわたしのまま、最期を迎えたい」という肯定的な理由から安楽死を選ぶのだ。ぼくは・・・自分が自分であるうちに、満足感をもって最期を迎えたいのだ。 ~ これも、ギヴァーのコミュニティーの「リリース」と近いのでは?

 

2022年8月15日月曜日

『ライオンになるには』エド・ヴィアー作

 どこか、『フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし』レオ・レオニと似ているところのある本(他に、あるでしょうか?)


 ライオンは、こうである/こうせなくしゃ、という固定的な見方があります。

 でも、やさしいライオンなんているでしょうか?

 それが、ライオンのレオナルド。

 アヒルにあいさつし、詩をつくったり、いっしょに遊んだり、散歩したり、願いことをしたり・・・丘に登って考えたり。

 ライオン仲間はレオナルドに、「おまえも ライオンだろう。どうもうに なるんだ!」と、本来のライオンのあり方を迫ってきました。

 しかし、レオナルドは、友だちのアヒルのマリアンヌと考えた末に、

 「きみは きみらしく   ぼくは ぼくらしく」でいいということに行き着きます。

 「ライオンとは、こういうものだ!」なんて ほんとは ないんだ・・・・。

 

  「きみは、どう おもう?」  で、この絵本は終わっています。

 

 この本は、空想が好きな人びと。そして自分自身でものを考える人たちに捧げられています。

 

 どこか、『ギヴァー』にも似たようなところ あると思いませんか?

 ギヴァーのコミュニティーでは、14歳で、一人ひとりのコミュニティーのメンバーは何になるかを決められ、そして全員がその後は、それに従って生きていくことになります。しかし、ジョナスはギヴァーになるトレーニングを受けている間に、「ぼくは ぼくらしく」を選択して、コミュニティーを飛び出す選択をしました!

 

2022年8月12日金曜日

滋賀県にあって、『ギヴァー』のコミュニティーに欠けているもの

それは、自転車で琵琶湖一周をすることです。

『ビワイチ! 自転車で琵琶湖一周』横山充男作は、目標設定、計画策定(時間の管理)、仲間との協力・助け合いなどがテーマの本です。

主人公の、琵琶湖一周する目的は若干不純でしたが、そんなことは物語を読むとあまり関係ありません。

小学生たちが、一人のコーチと主催者のサイクルショップのオーナーの二人のおとながついてくれる中で、二日間で琵琶湖一周を実現させました。コーチ役が自転車にこだわる理由は、「琵琶湖があるからであり、地球があるから」ですし、オーナーがこの企画についてきたのは、この企画が当たり、自転車を売れるようにするためでしたが、そんなこともあまり関係ありません。彼らの「主役は子どもたち」を貫いてサポート役に徹しているのもよかったです。

そして、何よりも、小学生たちだけで、目標設定、計画策定(時間の管理)、そして仲間の協力と助け合いで、なんとかシンドイ2日間での琵琶湖一周を実現したことが素晴らしいです。

これに近いこと、滋賀県以外の子どもたちがやれる機会は提供されているでしょうか?

『ギヴァー』のコミュニティーでは、おそらくまったく提供されていないと思います。

結果的に、「従順・複縦・忖度」に代表される人生を歩むことしか選択肢は提供されていません。冒険や挑戦の機会は与えられず、安心・安全なぬるま湯的な人生があるだけとしか思えません。

2022年8月4日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本131 

しばらくぶりの関連のある本は、『深呼吸の必要』長田弘・詩集です。

 その中でも、特に関連のある詩を二つ紹介します。

 両方とも、(子どもから大人になったのは)あのときかもしれない、という連作の中に含まれています。一つ目は、四番目の「遠くへいってはいけないよ」。

 子どものきみは遊びにゆくとき、いつもそう言われた・・・・

 「遠く」というのは、きみには魔法のかかった言葉のようなものだった。きみにはいってはいけないところがあり、それが、「遠く」とよばれるところなのだ・・・・

 子どもだった自分をおもいだすとき、きみがいつもまっさきにおもいだすのは、その言葉だ。子どものきみは「遠く」へゆくことをゆめみた子どもだった。だが、そのときのきみはまだ、「遠く」というのが、そこまでいったら、もうひきかえせないところなんだということを知らなかった。

 「遠く」というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。おとなのきみは、そのことを知っている。おとなのきみは、子どものきみにもう二どともどれないほど、遠くまできてしまったからだ。

 『ギヴァー』の中には「Elsewhere」という言葉が出てきます。ある意味では、コミュニティーの中に住民を閉じ込めておく言葉です。しかし、ジョナスはゲイブを連れて、そのElsewhere=遠くに向かってしまいました。そして、二度と戻れない状態に・・・・

 もう一つは、六番目の「なぜ」。

 「なぜ」とかんがえることは、子どものきみにはふしぎなことだった。あたりまえにおもえていたことが、「なぜ」とかんがえだすと、たちまちあたりまえのことじゃなくなってしまうからだ・・・・

 「なぜ」がいっぱい、きみの周囲にはあった。「なぜ」には、こたえのないことがしょっちゅうだった。そんな「なぜ」をかんがえるなんて、くだらないことだったんだろうか。誰もが言った、「かんがえたって無駄さ。そうなってるんだ」実際、そうかんがえるほうが、ずっとらくだった。何もかんがえなくてすむからだ。しかし、「そうなってる」だけだったら、きみのまわりにはただのあたりまえしかのこらなくなる。そうしたら、きみはものすごく退屈しただろうな。

 「なぜ」とかんがえるほうが、きみには、はるかに謎とスリルがいっぱいだったからだ。けれど、ふと気がつくと、いつしかもう、あまり「なぜ」という言葉を口にしなくなっている。

 そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、「そうなってるんだ」という退屈なこたえで、どんな疑問もあっさり打ち消してしまうようになったとき。

 ギヴァーのコミュニティーの多くの住人が、子どもも含めて、「なぜ」と考えない状態になっていた気がします。そして、いまの日本の多くの住人も??