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2012年8月23日木曜日

本(読むこと)の排除 = 思考停止



 日本子どもの本研究会編の『集団読書のすすめ』(1974年)の最初の10ページを読みながら、考えたこと(「考え聞かせ」)です。

10 “読書は本来個人のもの”なのか

 「読書は本来個人のものである」という考え方は、今日、日本における読書関係の研究者たちが、口をそろえて語るところである。
 まず、著者の書いた作品を、自律的にしろ他律的にせよ、読者が、読むという行為を行ったとき、読書は成立する。
 ところが、著者の書いている文章、読書の読んでいる文字に投影された“ことば”の規定は、決して著者や読者によって創造されたものではない。

11 これは、人類や民族が長い年月を経て、営々と築きあげてきた文化遺産なのである。
 したがって、われわれが一冊の本に接する場合、直接的には、ある著者の作品や論文に接しているわけだが、その背景では、間接的に、歴史的な文化遺産による媒介に依存し、媒介にひそむ歴史的思考とも対置している。 ← これを、意図的に廃止した『ギヴァー』の世界。
 とくに、この“ことば”を創造したり、質を高めたりする“場”を考えてみてもわかるとおり、集団の中から生まれている。いや、人間が集団的な生活を不可避的に要求されるからこそことばが生まれたともいえる。
 つまり、ことばは人間が時代とともに新しい発明や発見をして獲得した生産方法や、生活のちえ、あるいは創造した有形無形の文化遺産を維持・伝達する仕事を果たすかたわら、ことばを通して、より高い文化を多様に創造した。また、ことば、そのものをつかうという頭脳労働を歴史的継承してきたことによって、人間が、他の動物にみられない、考える力、想像し創造する力を集団的に蓄積してきたのではなかろうか。 ← 何不自由なく、それなりに高い文化を作り出し、そして維持しているかのように見受けられる『ギヴァー』のコミュニティだが、ことばやコミュニケーションの停滞や本を読むことの放棄などにより、「考える力、想像し創造する力」はかなり弱まっていると言える。せっかく蓄積されたものを、自らの判断で捨て去っている社会。
 したがって、人間が読書をするという行為は、一見、著者対読者の対話にみえても、それはもう一歩、ほりさげて考えると、単なる両者の平面的な対置の関係ではないように思う。
 論文や作品の創造とは、著者が常に先人たちの創造物にふれる中からある一定の認識を、著者自身が、自己の独創力と結合することによって、獲得することである。したがって、論文・作品の創造は、常に先人たちの文化遺産の継承として存在している。即ち、文化創造はいかほど有能な人間でも、たとえば狼に養われていて、他の人間と全く孤立した生活では決して生み出し得ないのである。 ← ある意味では、このような文化創造をストップし、ある段階で止まったままの状態を維持する社会としての『ギヴァー』のコミュニティ。

12 同様に、読者も人間である以上、歴史的空間的には、著者同様な過程を経て、多様な認識を獲得しているわけである。それゆえに、読書という行為は、現象的には、著者と読者という個人対個人の対置の形をとるが、読書を人間の本源的ないとなみとして捉えるならば、一個人の作品も集団的歴史的な“所産”になり、読書もまた歴史的集団的な“所産”のひとつのあらわれである。 ← その歴史的集団的ないとなみを、あえて排除する選択というのは、どういうことを意味するのか? それに至る決定を下す過程で、どのような議論が戦われたのかが、とても興味がある。
 単に、「家庭読書20分運動」に参加したり、その運動から抜けるような選択ではなく、自分たちの社会から読むという行為全般(ということは、書くという行為も??)を排除したのだから!!

 では、逆に、「読書は本来集団のものである」と果たして単純に言い切れるであろうか。
 私は、この即断についてもいささか疑問視せざるを得ない。
 なぜならば著者は、歴史的空間的な先人の所産を継承したに違いないが、やはり、その中で著者自体が、暗中模索の中で生み出した部分が加わって、新しい論文や作品=創造物を生み出している。それゆえ、この作品は、たとえよかろうが悪かろうが、けっして、他の人によって、とってかわることのできない、全く、著者自身の創造物なのである。← 作品一つひとつの個別性、というか個性がある。コピーしたものでない限りは。同様に読者の持つ思考形態は、だれもがとってかわることのできない存在である。だから、ある著者とある読者の出合いというものは、まったく、この世に一度しか存在しないという、特殊な出合いということになろう。← 二人の人が同じものを読んでも、異なる出合い/解釈が存在することを意味する。ということは、学校の国語の授業で正解が一つしかない授業というのは、いったい何なのか? 同じ人でさえ、時を変えれば、同じものを読んでも、解釈は違うのだから。

13 一言でいうならば読書という行為は、歴史的空間的には一般性=集団性をもちながら、一方では、著者と読者の出合いという特殊性=個別性をもった、二重構造の上で、はじめて成立するのである。 ← 「書く」という行為にも、まったく同じことが言える。「聞く・話す」も? 「考える」も? 「見る」も? 「感じる」も? 「つくる」も? ・・・・・

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