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2013年3月27日水曜日

<教科書検定>「英語で授業」基本に


この記事、全部が私にはマンガ★としか読めませんでした。
(改定のたびに繰り返されることですが。)

もちろん、それに付き合わされる生徒たちはかわいそうです。
そして、そのツケは、社会として払い続けます。
これまで何十年も払っているのと同じように。

『ギヴァー』 のコミュニティでは、この教科書問題はないのでしょうか?
教科書中心の授業をしているような記憶がうっすらとあります。
著者のローリーさんは、おそらく、それしか体験していなかった
でしょうから。

でも、その「それしか体験していない/知らない」ということほど、
恐ろしいものはありません。(少なくとも、教育の場合、「知らぬが仏」
はあり得ません!!)

自分たちのしていることの愚かさ/恐ろしさに、気づけませんから。


★ 上の「マンガ」は、「悲劇」と置き換えられます。
  「犯罪」と置き換えた方が、より正しいかもしれません。

  もちろん、それは高校レベルだけで起こっているのではなく
  すべてのレベルで。

  さらには、すべての教科で、です。

2013年3月25日月曜日

地域での買い物の変化



 『明治物売図聚』で紹介したかったのは、あれほどたくさんの物売が存在し、私たちが住んでいるところに売りに来てくれていた、ということでした。住人にとっては、とても便利な社会だったわけです。
 それがいつの間にか、立場が逆転して、買う側が売る側のところに行くことになってしまいました。
 私が小さかったころは、それでも多様なお店がありました。しかし、いまはドンドン専門店が減り続け(全国の銀座通りがシャッターどおりになっている!!)、その代わりに増えているのが広い駐車場を持ったコンビニとモール(巨大ショッピングセンター)です。

 この変化は、地域コミュニティの崩壊と並行して起こっている出来事でもあります。
 物売が来ていたころは、「つけ」というのも当たり前に行われていました。信頼関係が築かれていたので、その時その時には払わずとも、一括払いが可能だったのです。もちろん、いまはそれがクレジット・カードでやれるじゃないかということになりますが、こちらは顔の見えない関係です。顧客が破産しようが、まったく関係ありません。
 「つけ」が利いていた社会(コミュニティ)だったので、年末にすべてをちゃらにすることも大事だったんだと思いますが、何十年前からそういう感覚は失われているでしょうか?

 そういえば、コミュニティのセンター的機能を果たしていた銭湯もなくなる一方です。たとえば、コンビニにコミュニティ・センター的機能は期待できるでしょうか?

 『ギヴァー』のコミュニティでそんな機能を果たしている場所はあるのでしょうか?

 利便性の追求が、いまのモノの売り買いをもたらしているのでしょうか? それとも単純に経済性の追求? それによって失ったもの(コミュニケーション、安全性、コミュニティ意識等)は考慮されていたのでしょうか?

2013年3月24日日曜日

音の世界



 前回の中世の音つながりで、『明治物売図聚』(中公文庫)というのがあります。
 こんなにも、物売りに歩く人がいたのか、と驚いてしまいます。
 目次から、例を示すと(5ページのうち2と4です。クリックすると拡大で見られます。)

   
 江戸時代から、少なくとも明治の終わりぐらいまでは、いた人たちです。
 戦前ぐらいまではいた職種も多かったのかもしれません。
 戦後まで残っていたものもあるかもしれません。

 自分の存在を知らせるためには、何らかの音を発していたはずです。
 つい数年前までは、私がいま住んでいるところでも、豆腐屋さんのラップの音が聞こえました。しかし、豆腐屋さんの高齢化が進んだのか、いまでは残念ながら聞こえなくなっています。
 似たような音を各物売りさんはもっていたように想像されます。

 「さおや~、さおだけ」的なことを、言いながら回っていたのかもしれません。一昔前までは、スピーカーがなかったので、人の声だけですから、それほど迷惑には感じませんでしたが、最近のはたまにやってきても、大きなスピーカーですから迷惑に聞こえるだけです。(以前の竹製と違って、そんなにニーズがあるものではありませんから。)
 それよりたちが悪いのは、粗大ごみの回収者です。こちらは1週間に数回来ますから(異なる業者なのでしょうが)、迷惑以外の何物でもありません。
迷惑ということでは、いまや自治体がその最大の発生源(=官製騒音公害)になっています。「おかえりチャイム」は、“チャイム”ですからまだいいとしても、問題が大きいのは「子どもの見守り放送」です。(わが市は、平日2時半です。うちの自治体はそんなの流していない、という方は、ぜひお知らせください。)

 『ギヴァー』の世界も、このスピーカーらしきものがあるようです。そういえば、各家の中にもありそうです。あと聞こえてくる音には何があったでしょうか?

2013年3月21日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 91



 今日紹介するのは阿部謹也さんの『ヨーロッパを読む』★です。
 阿部さんは、私が好きな研究者/書き手★★の一人で、『ハーメルンの笛吹き男』以来、出たものはほとんど読んできましたが、この本はどういうわけか抜けていました。
 内容的には、他の本で阿部さんが書いてきたことを講演の形で話したものですから、私にとってはあまり新しい発見はありませんでしたが、ギヴァーとの関連で思い出させてくれたことがいくつかあったので紹介します。

 一つは、時間、空間、死生観が12~3世紀に大きく転換したということです。それには、村や町の共同体の出現と、その中に教会が必ず存在することが大きな要素だといいます。
 それは、2つの宇宙=小宇宙(自分の身の回り)と大宇宙(その他)の捉え方の違いとも言い換えられます。 ← ギヴァーのコミュニティも、内と外をかなり明快に分けていました。そして<よそ>というか<かなた>というか<どこか自分とは関係ないところ><違うところ>Elsewhere)は、『ギヴァー』シリーズの大きなテーマの気がしています。
教会に相当するものが、いまの日本やギヴァーのコミュニティにはないのも共通点かもしれません。

 2つ目は、中世の音の世界も、いまとはまったく違っただろうということです。阿部さんは、現代人には想像もつかないだろう、と言います。機械音が、基本的にはない世界です。
ギヴァーのコミュニティも、私たちの社会とは大分違う感じをもっています。人の迷惑をまったく考えないスピーカーでの放送(自治体の)は同じですが。

 3つ目は、日本における意思決定は人間関係の持ち方によっている、という指摘です。少なくとも、いまのヨーロッパにおいては関係のとり方を押し付けない。(その意味では、歴史を知る/歴史的に捉えることはとても大切!)もちろん、そういう時期もヨーロッパにはあり、いまだに残している部分もあるが・・・日本は、世間で個を位置づける。それ以外の捉え方がない! 個が存在しない日本。世間を離れたら自立できない日本人。親子関係も世間/自立できない関係。世間と社会の違い。後者は、理性、合理性、日々努力しないとわからないもの。前者は、序列、あいまい、理性の排除、義理人情など。自己を意識させない世間、と厳しいことばが続きます。さらに、個人、人格、人権は、いずれも存在しない日本、とも。
 そして、世間をどう扱うかは、日本の大きな問題 ~ 世間を広げる可能性はあるのかないのか。世間を捨てることはできるのか、と。(以上のことは、主に第7章のテーマですが、本全体のテーマであり、少なくとも阿部さんの最後の10年ぐらいのテーマでした。)
この点について、ギヴァーのコミュニティではどうなのかな、と大きな?マークです。

4つ目は(3つ目に比べると軽い?テーマですが)、明治以前に「体育」という概念がなかった日本。それに対して、オリンピックはギリシャではじまり、中世ヨーロッパではすでに体育が十分に行われていた、というのです。でも、今度の柔道界のいざこざや大阪市の高校バスケ部の「体罰」事件などを見せられてしまうと、単なる「体育」や「スポーツ」以外の何ものかとつながっている、と思わされてしまいます。
それに対して、ギヴァーのコミュニティの「体育」「スポーツ」は?


★ 今回の本との出会いの出発点は、2月17日に書いた『スリー・カップス・オブ・ティー』です。パキスタンとアフガニスタンといえば、ペシャワールの会の中村哲さんとの共通点を思い出し、彼の本を読んでみようとチェックしてみたら、ほとんどが石風社という出版社から出ていたのです。それで、他に私が読みたそうなのをリストアップした中に、『医者は現場でどう考えるか』と、阿部さんの『ヨーロッパを読む』が含まれていました。(ちなみに、この選書法は『ブッククラブ』の本の208ページで紹介した「芋づる式」という極めて効果的な方法です。)

★★ 彼の研究テーマの「人と人の絆」というのが、なんともいいです。そういう設定ができる人って、そんなにいないと思います。

2013年3月19日火曜日

司馬さんからの宿題


 前回、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」について触れました。
 私自身、本は出たとき読みましたし、テレビドラマも見ましたし、ドラマ用につくられた歌も好きで頻繁に聞いています。
 しかし、あれらからは、日本の現代史でピークだったのが、日露戦争が終わったときの1905年で(まさに、開国以来、坂を登りつめるように)、その後はひたすら転がり落ち続けている(少なくとも、1945年までは)というのが司馬さんの考えであることは伝わってきません。
 そのことは、ご本人も別のところでくりかえし書いていますし、言ってもいました。
 自分にとっての戦争体験のひどさが、すべてを書かせている、とまで。

 そして、私の記憶では韃靼疾風録が最後の小説ですから、亡くなる前の約10年(1987~1997年)は、ひたすら当時の日本のありようを嘆き続けていたように思います。しかし、その司馬さんのメッセージがどのくらい日本人に届いていたかは、はなはだ疑問です。

 司馬さんが嘆いた10年間より、いまの日本の何は良くなっているでしょうか?
 大きな宿題は残されたままな気がします。

2013年3月17日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 90



 『ギヴァー』の中で印象に残るシーンのひとつが、戦場で死ぬ兵隊のシーンです。
 アメリカの歴史を紹介したときにも書きましたが、著者のロイス・ローリーは戦場に出ることのない司令官のような立場を書くこともできたとは思いますが、一兵士について書くことを選択していました。(10代前半を主な対象にして書いていましたから、すべてに関して身近に感じられる題材を選んで書いていたように思われます。)

 今日紹介する本は、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(アレン・ネルソン著)です。
 日本人が、自分が戦争で人を殺した体験を語った本はあるでしょうか?
 たとえば大岡昇平の本も、そういう視点から書かれた本ではないですよね。
 原爆体験を含めて、戦争の被害者体験は山のようにありますが★、加害者体験(それも、人を殺すことがどういうことなのか)について書かれた本は。
 「国を守る」の名のもとにしていくことは、軍隊にとった人たちを殺人マシーンにしていくことだということが、この本を読んでよくわかります。★★
 そして、アメリカにとって沖縄というところがどういうところなのかも。(大統領と首相のあいだを含めた政府高官の話からは、決して見えてこないことが。視点が違うと、見えるものも違う!!)


★ もちろん、その大切さを否定するつもりはありません。そして、「殺さない」と決めて、それを実行した体験記も大切です。

★★ 日本にとっての15年戦争も、こういうことだったと思うのですが、なかなか一兵士の視点からは書かれることがありません。あったら、ぜひ教えてください。
あの司馬さんですら書けませんから。(幸いにも、人を殺す体験をしていなかったから?)「坂の上の雲」でも戦争シーンはたくさん出てきますが、基本的にはゲーム感覚に近い描写といってもいいぐらいかもしれません。(よく言えば、俯瞰的な書き方です。)それに対して、ネルソンさんはゲームと実際はまったく異なることを語ってくれています。それは、人を殺したという体験のあるかないかの違いのような気がします。
人を殺すということは、普通の心的状態にいられないことを意味し、ベトナム帰還兵をはじめ、イラクやアフガニスタンからの帰還兵たちの少なからぬ人たちは「心的外傷後ストレス精神障害」をかかえ苦しみました。これは、ベトナム戦争後にわかったことで、日本がしでかした15年戦争中およびその後には、まだわかっていませんでした。
  ちなみに、あのベトナム戦争では58,000人のアメリカ兵が死に、200万人以上のベトナム人が死んでいます。
  いったい何のために?
  ロイス・ローリーさんが描いた『ギヴァー』のシーンにも、その理由は書かれていませんでした。

2013年3月13日水曜日

ギヴァー・シリーズ第2弾、出版



  いよいよ第2弾の出版です。以下は、そのまま新評論の新刊案内より。

子どもの創造性とは何か。「教育」とはだれのためにあるのか。
数多の問いをはらむ話題の近未来小説シリーズ、待望の第二弾!

ギャザリング・ブルー青を蒐【あつ】める者
              ロイス・ローリー/島津やよい
                            ★〈ギヴァー四部作〉待望の第二弾!

ご好評をいただいている〈ギヴァー・シリーズ〉の第二作です。物語の舞台は前作同様、「近未来」らしき世界。『ギヴァー』の登場人物は出てきません(でも、どこかに「おや?」という場面がひそんでいるかもしれませんので、さがしてみてください)。主人公は脚の不自由な少女キラ。手がとても器用で刺しゅうが得意です。彼女の住む「村」では、「欠陥」のある者は排除されてしまいます。キラも、唯一の庇護者である母を病気で亡くすや、生存の危機に直面します。しかし「村」の上層部はキラの刺しゅうの才能に注目し、彼女を生かし、重要な任務をあたえます。助かったことに安堵したのもつかのま、キラはしだいに、上層部が自分を含めた「才能ある子どもたち」を搾取していることに気づいていきます。
 訳文の推敲をほぼ終えたとき、大阪市の高校バスケ部の「体罰」事件のニュースが流れました。わたしは事件の内容だけでなく、べつの意味でもショックをうけました。訳したばかりの作品が訴えかけている問題が、いままさに現実化していると思われたからです。学校の経営やコーチの名誉心、市長の思惑などという「おとなの事情」によって、子どもが窒息している…創造と表現の自由をうばわれ、おとなの道具にされているキラたちの姿がそこに重なってみえました。
タイトルにもあるとおり、物語は「青という色」をめぐってスリリングに展開していきます。しかし前作と同じく、やはり根幹には「未来をつくる存在としての子ども」という主題が流れています。創造性を自分の手にとりもどそうとする主人公の姿は、「教育」とはだれのためのものなのかという根元的な問いを喚起せずにはいません。そしていつもながら、社会や共同体、才能、人間の「価値」や「有用性」など、ふだん何気なくつかっている概念を深く考えさせる巧みなしかけに満ちています。
昨2012年秋、第四作となる大作『SON(息子)』が発表され、さらに厚みを増した〈ギヴァー・シリーズ〉の世界。まずは第二作をおたのしみください。(しまづ・やよい)