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2010年9月27日月曜日

魂のランドスケープ 3

72 ぼくがヨーロッパ音楽の中で最も惹かれるのは、その深く観想的な世界である。中世の宗教音楽ばかりでなく、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトといった人たちの中にも深く流れている観想的な世界。ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏やピアノソナタの中に流れる、観想的、瞑想的な世界は、ぼくにとって音楽を聴く最も大きな喜びである。観想的とは、現実で捉える世界の枠組みがはずれて、より根源的な宇宙の中に素材が解体され、その本来のエネルギーが泉のように流れ始める様を、ぼくは考えている。音楽が、その人の自己を越えてより深いものとかかわり合いながら、流れ始める瞬間といったらいいのだろうか。ぼくは音楽にそういった時間を求めている。どんなによくかけた音楽も、そうした観想的な世界のない音楽は、ぼくには退屈なのである。

 仏教のお坊さんも雅楽の演奏家たちも、舞台の上に座っただけで、存在感がある。深く観想的で、深い静けさを持っている。そこから、千年にわたって伝えられてきた声が響き始める。日本というものに愛想をつかして、日本から離れようとしてヨーロッパに出てきたぼくだが、この日本のお坊さんたちの深く自分に根を下ろした存在と、彼らの存在の奥からの響きである声には、強く感動した。

→ この辺は、なんとコメントしていいかわかりませんが、とてもいいというか、共感できると思いました。

82 歌は、時間と空間を生み出していく。生きていく場所を獲得し、自分の存在を主張する。小鳥が歌うのは、自分の生きる縄張り(テリトリー)を獲得することであり、また他の鳥への求愛のポーズでもあるという。
  音楽は、いやおうなしに相手の空間を占領してしまう力がある。絵画や彫刻のように、目をそらせば作品を拒否することができるわけではない。音楽は人を包み込み、ある一定の時間はその内に人を占領する。
 世界中がメディアの発展で、けたたましく音をまき散らしているのは、誰もが自分をアピールしようとして、また他者の気を引こうとして音を利用するためだ。
 音楽を書いていくことは、自分を主張するエゴイスティックな欲望があるに違いない。しかしぼくは、できたらそうしたエゴを越えた、自己(セルフ)の発見につながる道を音楽を通して見つけていきたい。
 自分の生み出す音楽が、単に自分の感情の表現に終わらず、そうした感情をより高い感情に高め、浄化した世界を持ったものであってほしい。
83 日本の普通の音楽のレベルの低さ → 日本の演歌や歌謡曲は、人を少しも変化させることがない。
 小鳥たちは求愛のために歌を歌うといったが、音楽のほんとうに気高い歌は、人間を越えたものへの憧れの形を持っているのだろう。
84 深い静けさを孕んだ音楽、海のそこのような深い沈黙を内に抱えた音楽が書きたい...世界の喧騒を吸い込んでしまうような力強い音楽空間があることを信じたいのである。
  現代の多くの人が、注意深く音を、また音楽を聴いていないのは残念なことだ。しかし世界中に氾濫している音を一つ一つていねいに聞いていたら、神経が麻痺してしまうだろう。今の時代は、音を聴かない訓練を、誰もがしなければいけないのだろうか。
 京都の石庭に行くと、その庭の説明と尺八音楽が、きわめて悪質な音でスピーカーから流れている。石庭の静けさはどこにいったのだろう。その庭の孕んでいる謎と神秘はどこにあるのか。説明できない部分、その余白の部分にこそ、その庭の美しさの秘密があるのはないのか。どうして日本人は何もかも、親切に説明したがるのだろう。大切なことを玉って味わうことはできないのだろうか。
 禅の教える、すべての説明を拒む厳しい精神はもう死んでしまったのか。そして常に根源的な場所へ還っていくための力強い否定はどこにあるのだろう。

→ 現代人も、ジョナスのコミュニティの住民と同じように、かなり危ない状況におかれつつあるということ。

91 芸術家が自己満足をはじめるとおしまいだ。
   日本から本当に新しい音楽芸術が生まれないのは、ぼくたちが本当の意味での批評精神を持っていないからだろう。

→ 批評精神が求められるのは音楽の世界の中だけでなく、すべての世界でそうだと思います。政治の世界などは皆無に等しいので、それこそひどい状態が続いているんだと思います。そういう意味では、『ギヴァー』のコミュニティとすでに同じ状況ができあがっているとしか言いようがない感じです。

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