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2010年9月28日火曜日

魂のランドスケープ 4

104 いまの日本でなかなか優れた芸術音楽が生まれないのは、まずそうした緊張感のある作品を、消費社会では誰もが求めていないことにも原因があるのかもしれない。コンビニエンス・ストアの商品のように、便利で早く手に入り、品質はともかく、その場を何とか乗り切れればそれでいい。深みのあるものなど必要ない。そういう考え方が、日本中に染みついてしまったように思う。ゆとりも余裕もない社会

→ ここでの指摘は、みごとなぐらいにすべての分野に浸透していると思います。細川さんは、日本、そしてそれを象徴する東京の虚構性というか、まがいものぶりに憤りを感じています。虚構性やまがいものという感覚は、ジョナスの住むコミュニティに対して感じることでもあります。


111 何より自分自身を、自分で造り上げた偏見の牢獄から解放すること。過去の体験で、自分を縛らないで、常に開かれた心と耳で、音楽を新しく聴き続けていくことが大切だ。

 自分がどういう音楽を聴く背景を持っているのか。どういう音楽教育を受け、どのような音楽をいつも聴かされて育ったか。そして音楽とはいったい自分にとってどんな意味をもつのか。単なる娯楽なのか。それとも聴くことを通して、より深くこの世界や、宇宙について感じる媒体となるものか。そういったことを音楽を聴く前に少し考えてみる。そうすると、音楽体験はさらに豊かに新しい可能性を広げていくにちがいない。

→ この辺のことは、何の分野でも言えることですね。unlearn(間違って身につけてしまった知識や習慣を拭い去ること)の方がlearn(新しいことを学ぶ)よりもはるかに大切であると同時に、難しいということだと思います。


113 先日バリ島にはじめて行って、ガムラン音楽とダンスを見てきた...ぼくが驚いたのは、そのダンスと音楽の持っている深い静けさだった。音量的に言えば、ガムラン音楽は決して静かなものではなく、かなり賑やかなものなのだが、それがバリ島の野外に響きはじめると、ガムランの金属音は大気に溶けて、空間に見えない精霊たちの声のように、優しく優雅に漂うのだ。そしてその響きは、大地からゆっくりとたゆいながら天に昇って行く。

115  日本に帰ってきて、全国合唱音楽コンクールの優勝団体の演奏するヴィデオを見る機会があった...演奏する子どもたちの見事なアンサンブルに驚いた。一糸乱れぬ演奏というのだろうか。実に訓練が行き届いて、正確でしっかりした演奏。彼らは同じ制服を着て、真剣に歌う顔の表情まで皆よく似ている。そしてその整った演奏は、どの地方の子どもたちもよく似ている。ぼくは、子どもたちのきまじめな演奏にひかれながらも、少しずつ不安がこみあげてきた。その不安は、ちょうど軍隊の一糸乱れぬ行進を見ているときの不安といったらいいのだろうか。そういった秩序ある姿に、確かにぼくたちはある美しさを感じる。しかし、その制度化された秩序は、そこに生きている一人一人の内面の声を実現しているのだろうか。

116 日本の全国の子どもたちを教える現場で、こうした音楽の画一化が進んでいる。そしてそこで教えられる音楽も、西洋の19世紀に作られた音楽を安易にコピーした日本人の音楽が教えられている。明治以降、日本が西洋の近代音楽を取り入れてから、日本の音楽教育は駆け足で西洋近代音楽を受容することに懸命になった。その際、日本人が長い時間をかけて育てていた微妙な音感を切り捨ててきた...日本の伝統音楽が持っていた微妙なずれや揺らぎを表現する音感は、次第に忘れられていく。

 現代生活を営むものの周辺に洪水のようにあふれている音楽...それらの音楽は、一様に西洋の近代に形作られた音システムに基づいている。それは、いわゆるメロディーに調性のあるハーモニーとリズムが付く音楽である...そういった商業主義は、西洋音楽そのものの姿をも歪めていく。19世紀の西洋音楽は、決してわかりやすい音楽でも、安全無害な音楽でもなかった。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ヴァーグナーといったドイツ音楽の流れを見ただけでも、過去の伝統への挑戦と冒険の歴史だった。

117 ガムランも、日本の伝統音楽も、西洋音楽も、そのオリジンの持っていた深く微妙な世界を省みることなく、あまりに安易に流用され、至る所で安易な融合が行われていく。そして、その本来持っている姿が失われていく。

118 音の持つ微妙なニュアンスを忘れていくことは、ぼくたちの持つ固有の言語や文化を失っていくことにつながるだろう。現代のように、簡単に世界中の音楽が聴ける状況にあると、ぼくたちはそれをあまりに表層のレヴェルで捉えて、その音楽の背景や、深層を捉えようとしない。異文化とのほんとうの「出会い」と「融合」は、その文化を徹底的に知って、その深層と出会うことによって、自分自身を客体化し、そして自分の文化をより深く知ることを促す。そしてその出会いが、かつてなかった新しい次元へ自分自身を押し上げるような形で行われたときに、本当の意味のある出来事となるだろう。

→ 113~118ページに書かれている指摘は、とても重いものがあると思いました。

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