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2010年11月8日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 50

 俳句と詩の本を読み続けています。
 そんな中で、『ことばと深呼吸』川口晴美+渡邉十シ子著に出合いました。

 とても軽い感覚で詩に触れさせてくれるのがいいです。
 たとえば、①「好きなものやことを20個リストアップ」したり、②その中の一つについて具体的に書き出したり、③詩や文章をタイトルなしで示し、タイトルを考えて出し合ったり(みんな違うのがおもしろい!)、④椅子にタイトルをつけてみたり、椅子と会話をしたり、⑤言葉の組み合わせ遊び(たとえば、北原白秋の「赤い鳥」を切り刻んで並べ替えたり)といった具合です。


 『ギヴァー』との関連は、以下のような点(ページ数)です。

95 さきほど、同じ文章を読んでもどこに感応するかは人それぞれだ、ということを書きました。それは、わたしたちがいま生きているこの世界そのものについていえることです。同じ空間、同じ時間、同じ場面を体験したとしても、どの部分を印象に刻むかは、人によってまるで違います。あなたは、あなただけの感覚で、常に世界を濾過しているはず。たとえ特異な体験をしなくても、気に入った何かをピックアップする感覚自体がオリジナリティなのです。
  言葉というものの数は有限です。あたなが新しく想像するわけではなく、あらかじめ存在しています。すでにある言葉をどう選んで、どう組み合わせるかが、大切になってくるのです。

→ ジョナスとジョナスの家族や友だちは同じ空間や時間を共有しているにもかかわらず、見えているものや感じていることはまったく別物でした。


98 現代詩はむずかしくて読んでもよくわからないと言われることが多いのですが、そんなふうに身構えなくても、自由に言葉と触れ合って自分なりのイメージや受けとめ方を自分のなかにつくっていけばいいのだと、感じ取っていただけたのではないかと思います。そう、詩は国語のテスト問題のように“作者の言いたかったこと”という“正解”をさぐりあてるような読み方をしなくてもいいのです。詩人が言葉の組み合わせによって描こうとしたことがそこにあったとしても、それを頭で理解できたら詩を読んだことになるかというと、そうではありません。ふつうの文章と詩とはそこがちがいます。
 ひとつの言葉の世界に触れ、自分なりの感覚と想像力を駆使しながら読んだとき、それはあなただけの固有な体験になり、あなたのなかで一篇の詩のイメージが息づきはじめます。詩は詩人が書いたときではなく、誰かが読んで受けとめたときに初めて完成するのだと言えるかもしれません。目の前の詩を完成させるのは、あなたです。詩を読むことで得られるのは、“正解”ではなく、“体験”。それは、あなたの「生きている」という感覚を新鮮に蘇らせることにつながっていくはずです。

→ であるにもかかわらず、延々と学校でやり続けていることは、すでにある“正解”を覚えること? ということは、「死ね」といっているようなものでしょうか???


99 では、どうしてそんなことが起こるのでしょう。言葉というのは、そもそもどういう働きをするのでしょうか。
  言葉は、意味を乗せて運ぶ道具としてつかわれている、と言ってもいいでしょう。
  一方で、場の雰囲気や気分をつくり、その気分を共有して一体感を得るために言葉をつかっていることも多いと言えそうです。そこでは、意味よりも声(音)の調子やリズム、反復、間、タイミングが重要になってきます。
  意味を担い、雰囲気をつくる。言葉の持つふたつの役目です。
  他人に向かえばコミュニケーションの機能になるし、詩を含めて文章を書くうえでも、これは重要な働きです。
  ですが、それだけではありません。言葉には不思議な力があります。
  言葉には、見えなかったものを見えるようにする力があるのです。

→ これをジョナスはまさに体験したのでしょうか? 言葉と記憶の関係は?


100 たとえば、引越ししたいと思い始めて、やたらと不動産屋さんが目に入ってくるとか。ということは、逆に、アンテナがないために見逃していることも、無数にあるのではないでしょうか。
  世界のなかに「わたし」はいる。「わたし」は五感をつかって世界を感じ取り、世界と関係を結んで生きているのですが、感覚というのは意外とすぐにすりきれて、弱まってしまいます。あまりにもいつも当たり前に目にしているものや、当たり前に繰り返しおこっていることは、次第の新鮮に感知できなくなってしまいます。

→ 別な言葉で言えば、「麻痺してしまう」ということ。これは、残念なことであると同時に、継続して感じていたら大変なこと!! 疲れちゃう。


  ちょっと目を閉じて、いま自分がいる部屋の様子を思い描いてみてください。
  目を閉じたままでも歩けるくらい当たり前に覚えてしまっているはずの部屋を、どのくらい細かいところまで思い浮かべられますか。ふだんどのくらいちゃんと見ていたのでしょうか。
  それから目を開けて、もう一度あらためて見ると、違ったものが見えてくるのではないでしょうか?
  大学生たちには、授業中に教室の外へ出て、そこにあるものをあらためてみてきてもらいました。皆、1年や2年あるいは3年間を過ごしてきたキャンパスで、普段はもうほとんど意識して何かを見ることもなくなっていたと思います。でも、あとで文章作品に書くのだと思って歩けば、ぜんぜんちがうはず。教室に戻って書いたくれた作品には、いつもとちがうことをした、新しい意識を持った(=アンテナを立てた)からこそ取りもどせた新鮮な目が発見したものが、いくつか息づいていました。

→ 詩人や小説家やノンフィクション・ライターの人たちは、こういうことを日ごろからやっている人たちということですね。プロの詩人や俳人やライターではなくても、詩や俳句を日々書いている人はかなりいるわけで、そういう人たちには、世の中の見え方が違っている!! でも、そういう体験を学校教育の中で、あるいは仕事の中ですることは奨励されていませんし、必要性も感じられていないようで...いいんでしょうか?


150 感受性が鋭い人が詩人になるのではなく、むしろ詩を書いていることで感受性が磨かれていくのだと思います。言葉を使うと、感覚のアンテナが立つ。つかい続ければ、鍛えられ磨かれて、アンテナの感度はどんどんよくなっていきます。世界や、自分自身を、くっきりととらえられるようになるのです。
  また、逆に、言葉をつかわなければ、わたしたちは自分の周りにある世界や、自分のうちにある想いさえ、しっかりとらえることができません。いろいろなものごとを言葉でつかまえることなしに生きていくのは、漠然と広がる世界を地図なしでぼんやり歩いているようなもの。まずは単純な言葉でもいい、世界を意識してみることから始めましょう。
  言葉はあなただけの地図、あなたが生きるための感覚そのものとなっていくのです。

→ この視点、とても大切だと思います。しかし、実際に学校やマスコミ等がしていることはみんなが同じ地図をもって、自分だけの独自の感覚を持たないようにする努力??


184 新しい言葉を書き、読むことで、新しい自分をかたちづくっていきましょう。人は何どでも、生まれ変わることができるのですから。

→ 9月24日から長年の念願だった俳句(というよりは川柳のレベル)や詩を書き始めた私としては、まだそこまでの感覚はもてません。でも書く前の状態とは違う何かが生まれだしている感覚はあります。単なる自己満足という錯覚かもしれませんが。

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