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2010年4月12日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 20

『仏教「超」入門』(白取春彦著、すばる舎)の中で、特に気にとまった箇所をメモにしておく。 (それが、どれほど『ギヴァー』との関連で位置づけられるのかは、今のわたしにはわからないので、新しいタイトルをおこすことはせずに、コメント欄に書いておく。自分用のメモとして。)左側の数字は、本のページ数です。

67 何事も互いが互いを成立させている。
  すべてが、縁(よ)りて起こることだという。これを縁起(えんぎ)と呼ぶ。

68 仏陀の悟りの中身はこれである。
   すべてのものが関係しあってたがいの存在を支えている。この世のどこを見ても、いっさいを縁起の理(ことわり)が貫いている。これが、ブッダの悟りである。

69 この世のあらゆるものが、関係性においてのみその存在が確かめられているということに気づかされる。
   あなた自身でさえ、多くの人々との関係、あなたの周囲にあらゆるものとの関係において、今のあなた自身でいることができる。
   最初から自分というものが存在しているのではない。多くの人と物と事柄との関係から自分というものが今ここにこういうふうにありえている。
   この世の中のいっさいがあなたという存在を支えている。同時にまた、あなた自身が他の人や物の存在を支えているのである。こういう関係性を、仏教では「縁」と呼んでいるにすぎない。
   仏教をひと言でいえば、縁起、これしかない。

<この辺まで書いてきて、やはり新しい項目を起こすことに決めて、カット&ペーストで、ここに移動してきました。>

70 それだけでは本にならないと編集者から叱られてしまうし、読者に対しても不親切なるから、縁起の思想から当然のように生じてくる「空」の思想についても述べなければならない。
   空は「くう」と読む。
   『般若心経』の「色即是空、空即是色」
   空とは、そこにみえているものには「実体がない」ということを意味している。
   ふつうは、実体があるからこそ、そこに物や人が存在していると考える。しかし仏教では、その存在はたんに現象にすぎないのだと見る。
   だから、空とは決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の無を意味すると同時に現象の「有」を意味している言葉だとなる。
   では、そこに実体がないのにどうして現象が生じているのか。
   現象が相互に限定したり依存したりすることのよってである。

<この辺を読んでいると、『ギヴァー』との関連よりも、その続編の Gathering Blue との関連の方を考えてしまいます。>

   現象のこの相互依存は、縁起と呼ばれる関係である。縁起によって、現実世界がここに生じているというわけだ。
   したがって、縁起が分からなければ、空の意味が分からなくなる。仏教を理解するにはあと先がある。

72 実体がないのだから無だ、ということはできない。実体がないけれども現象はちゃんとここにある。私たちはその現象にかかわって生きている。生きていることも現象である。だから、この生は空である。
   色、すなわち物体や肉体の本質は空である、ということだ。空であるものは現象としては物質や肉体である。それ以上の神秘的な意味はない。
   空とは現象だと考えてしまってもいい。現象は幽霊とはまったく異なる。現象は誰の目にも見えるし、かかわることもできる。
73 電話で相手の声を聞く、しかし、本当は相手の声ではない。電気的な現象にすぎない。テレビも同じだ。写真も同じだ。いっさいが現象である。
   自分の声ですら現象である。
   これらはみな空である。けれども、無ではない。実体はないけれども、存在する。現象だからだ。
   世界とはそういう有の集合だ。であるならば、ないがしろにすることなどできるはずもないではないか。
   空のこういう考えを哲学だと思うかもしれない。はっきり言おう、哲学である。
   仏教の第一歩は、縁起と空の哲学から始まるのである。

<ということで、しっかり「哲学」の世界に入ってきています!!>

74 縁起の中には自分の心や行いも含まれていることも知っておくべきだ。
   だから、自分の心や行いを変えることが、悪い縁起を根本から排することになる。
   生活習慣病を形成している悪い縁起こそ、自分の悪い習慣や癖であろう。

<いわゆる「生活習慣病」に限らず、私たちはいかにたくさんの「悪い習慣や癖」の虜になっていることか!!!

77 すべては縁から生まれている
   仏教では、この関係性というものをもっと徹底して考える。
78 そして、この自分というものですら多様なる関係によって成立しているものであって、それら関係性を排除してしまえば、自己というものがついには何もなくなってしまうという驚くべき事態につきあたるのである。

79 自己は無であると同時に、関係性の中では有となる。言いかえれば、現在の関係性の中でこそ自己は有として存在する。
   であるからこそ、今の関係は大切なものである。今ある自分と周囲との関係は、まさに自分の命なのである。
   命とは生きている自分の生物学的な命だけではない。関係も命なのである。
   だから、「お世話になっています」という挨拶は命の確認と感謝となる。
   今だけのことではない。これまでに無数の縁があったからこそ、今の自分がここに命を持って存在しているわけである。
   喜びも悲しみも、悩みすらも、この縁によって生じている。
   そういうふうに見通していくと、結局すべてがいただきものであったということが明らかになろうだろう。
   この命も、人生のこの手応えもいただいたものである。そう気づいたとき、澄みきった安心が自然と生まれてくる。

81 これまで自分が憎んでいた相手に笑顔を向ければ、相手もやがては笑顔を返してくるという縁に変えることもできるわけだ。


もちろん、これで仏教を理解したとは思いませんが、白取さんが「核心」というか「第一歩」と言っている部分は、なんとか理解できた気がします。

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