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2012年6月16日土曜日

姫田さん絡みで考えたこと

昨日の姫田さん絡みで・・・

姫田忠義編の『伝える (1)』を読みました。その中から2つ。

高田宏さんの「島で見たことから」は、五島列島の小値賀島、隠岐の中ノ島、八重山諸島の竹富島を訪ねて、見知らぬ人に挨拶をする文化を紹介してくれています。

→ 昔、電車の中でも見知らぬ人と話し合う文化があった。それは、スペースと大きく関係していたように思う。向かい合って4人掛けで座る配置になっていたのである。いま、そのような配置にしているのはよほど田舎な路線でしか見られない。というか、一緒に座った人と話し合う文化が残っているところというか。 島で(あるいは、田舎の山村等で)見知らぬ人にも挨拶をする文化というのは、人口密度と比例関係にあるような気がする。少ないと、人恋しくて挨拶をする、という習慣があるというか。
日本でも車が走り始め、たまに対向車に出くわすとうれしくて互いにクラクションなどを鳴らしあったのを覚えている。大分前の話である。1960年代の初頭の。しばらく経つと、車の数は急激に増え、そんなことはしていられなくなった。
そういえば、山登りをする時は、互いにすれ違う時は、必ずといっていいぐらいに「こんちは」と挨拶をする。場合によっては、「あと、頂上までどのくらいですか?」などとも問いかける。
電車の中でも、お年寄りなどに席を譲るということも、もともとは当たり前に行われていたことなのだと思うが、人口密度が高くなってしまったところでは、そんなことはされなくなってしまったので、シルバー・シートなるものを設けて制度的にやらざるを得ないわけだが、あれを見るたびに失ったものの大きさを感じる。
人口密度/スケールが、どのような人間関係を維持するのかの決定的な要因の一つになっている気がする。
『ギヴァー』のコミュニティは、挨拶がまだ存在する社会なのだろうか?
それとも、挨拶はしない社会?


高木譲さんの「人間だから」は、以下のような内容です。

どこから、どうなってしまったのだろう。
おのれをふくめて、人間を見ていると、ぞっとしてくる。
人間とて生きものだから、生きて行く上での欲も見栄もあるだろう。ところが、一人分の糧や財産を得るのならまだしも、一人なのに二人分も三人分もどころか、百人分も千人分も横盗りしても、へいちゃらである。一人分以上は人様の分だということが判らないらしい。なんでも横盗りする奴らに限って、えらいといわれているのやら、成功者といわれているのやら、学問を身につけたのやらが多い。こんな奴らは身分、地位、財産、教養、知識をひけらかして、おのれよりも先輩になる人たちを呼び捨てにしても、へいちゃらである。大きな家に住んでいながら、小さな池や辺りを陰にしていても、へいちゃらである。大きな車なのに、小さな道に乗り入れても、へいちゃらである。小さな道だからと、歩いている心ある人たちが避けてくれていても、「すみません」と会釈するどころか、俺はおまえたちよりもえらいのだから、頭を下げろといわんばかりの態度である。彼らはクルマから降りて、歩くということさえ知らないらしい。職業でいうと、大企業の幹部らはいうにおよばないが、国会議員や役人らが、そうである。彼らは公僕のはずなのに、そんな当然の心得さえないどころか、おのれの役職にお手盛りで、「長」や「高級」なんていうのをつけて、へいちゃらである。

→ こちらも、スケールが大きくなりすぎた結果起こっている問題のような気がする。少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティではこうはなっていない。なにしろ「画一化」(誰もが平等)を選択した社会なのだから!!
  そういえば、ロシアや中国なども、それを志向したはずなのに、結果的に作り出したのは、資本主義社会で作り出した構造と同じか、それ以上の格差を生み出しているかもしれない。

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