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2013年2月21日木曜日

歴史の見方・とらえ方



 黒澤明監督の映画「羅生門」を観た方は少ないことと思います。
 あるひとつの事件が、異なる数人の人たちの視点から語られます。
 同じものはないのです。

 歴史学の世界では、この「羅生門現象」はすでに明確に認められています。
 それこそ誰の視点で見るかで、語る歴史はまったく違ったものになってしまうからです。

 でも、私たちが学ぶ学校での歴史には依然として、唯一絶対というか、正解の見方が存在するがごとく書かれています。

 私はそれが大分前からおかしいと思っていたので、梅原猛さんの『隠された十字架』や『水底の歌』などが出たときは興奮して読みましたし、井沢元彦さんの『逆説の日本史』も全部読んでいます。

 アメリカでも似たようなというか、もっとすごい歴史観が提示されていました。(梅原さんや井沢さんのアプローチは、依然として歴史上に名を残している権力者に対してこれまでとは異なる視点を提供しているレベルですから。)
 ハワード・ジン著の『民衆のアメリカ史』です。私が読んだのはそのヤングアダルト向けの『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』上・下巻でした。★

 『ギヴァー』の中では、その歴史にかかわれる存在としてギヴァーとジョナス(レシヴァー)の二人がいます。二人だけというのは、根本的におかしいのですが。しかし、たとえ二人だけだろうと、アメリカや、そして日本が抱えているのと同じ問題 ~ 何をどう伝えていくか ~  は、同じレベルで大切なはずです。


★ この『民衆のアメリカ史』に最も近いアプローチを日本でしたのは、宮本常一さんだったような気がしています。他にいいのをご存知の方は、ぜひご紹介ください。

2 件のコメント:

  1. 「羅生門現象」について、中世ヨーロッパ史の研究者だった阿部謹也さんが『ヨーロッパを読む』(222ページ)に書いていたのを見つけました。

    「私が書いたものでも、私個人としては、この時代のこの社会をこういうふうに見るということで、それは史料に基づいてやっていますけれども、しかしそれは私が見てこう見えるのであって、ほかの人が見て同じように見えるという保証はまったくないわけですから、そういうことを主張することはできませんし、私が史料を再構成した限りで史料そのものではないわけです。そこで私の頭のなかでの働きとか意欲とかいろんなものが入っていますから、これも一種のフィクションだと思うのです。」

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  2. 補足です。

    黒澤明の映画「羅生門」の原作は、芥川龍之介の短編小説 『藪の中』ですが、『羅生門』からも題材を借りていたので、タイトルを「羅生門」にしたようです。

    もし「藪の中」というタイトルだったら、「藪の中現象」だったわけです。(でも、確かに映画のタイトルとしては羅生門のほうがいいかもしれません。)

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