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2013年5月14日火曜日

『ギヴァー』と関連のある本 93



   久しぶりの「関連のある本」です。今回は、日高敏隆著の『動物と人間の世界認識』です。サブタイトルが、「イリュージョンなしに世界は見えない」です。タイトルは、『ギヴァー』に関係あると思えませんが、サブタイトルは大いにあると思えるでしょう!
 ちなみに、日高さんの本は(翻訳本も含めて)、ほとんどはずれがありません。
 以下、私がとったメモから(数字は、ページ数です)。


7 「唯幻論」を展開している岸田秀氏は、「人間は本能が壊れてしまったためにその代わりとなる『自我』が必要になった、けれどこの自我なるものはじつは幻想であるので、人間は幻想に支えられて生きることになった」と考えている。

8 ユクスキュルの環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。
 それは人間の場合について岸田氏のいう「現実という幻想」にあたるものかもしれない。・・・ぼくはそれをイリュージョンと呼ぶことにした。厳格、幻影、幻想、錯覚などいろいろな意味あいがあるが、それらすべてを含みうる可能性を持ち、さらに世界を認知し構築する手立てともなるという意味も含めている。

10 理論的には存在し、頭ではわかっているが、現実に見たり触れたりして実感することはできないもの。→たとえば、死 それはある種のイリュージョンではないか。
  そしてさらに、そのイリュージョンはそれぞれの動物のその知覚の枠というきちっとした根拠のあるものの上にたっている。人間の場合もまた同じである。そうすると人間の構築している世界もイリュージョンで成り立っているといってもよいだろう。たとえば、人間は死というものを知ってしまった。
11 そこから悩みは始まっている。死というものの存在を知ってしまったけれど、人間の知覚の枠の外にある以上、それを体験することはできない。・・・人間はイリュージョンの上に立って、いろいろなことをやってきた。
 宗教も生まれたし、さまざまな信仰のような行為や、いろいろな思想が生まれた。世界各地で多様な儀式や儀礼も生まれた。しかし、その元は、今言った、イリュージョンである。

第1章 ネコたちの認識する世界

第2章 エクスキュルの環世界
27 『生物から見た世界』
29 ダニの世界のこのみすぼらしさこそ、ダニの行動の確実さを約束するものである。ダニが生きていくためには、豊かさより確実さのほうが大切なのだとユクスキュルは考えた。
 つまり、それぞれの動物、それぞれ主体となる動物は、まわりの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるもので、自分たちの世界を構築しているのだ。
31 彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれているようなものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。
  つまり、いわゆる環境というものは、主体の動物が違えばみな違った世界になるのだというのである。
35 同じ部屋も、人間が見ている環世界、犬や猫が見ている環世界、そしてハエが見ている環世界は、すべて違う。


    <メルマガからの続き>


48 同じ一つの場所を見たときに、人間とモンシロチョウとアゲハチョウとでは、世界はまったく違っている。ひとつの「環境」という言葉でくくってしまってはならないし、それを客観的環境と呼ぶことは彼らにとっては意味がない。
  大切なのはこの環世界であって、一般的な環境が問題なのではない。

50 私たちが環境というときは、基本的に人間にとっての環世界を指している。それ以外はなかなか難しい。

61 パリ滞在中に道路でたくさん見たハリネズミの死体。なぜか。
  彼らの防御行動が、自動車には効かないから。オオカミなどの大型動物には効いても。

67 親ドリとヒナの関係 ~ 声に反応

74 動物たちの環世界というものは、現実の客観的なものというよりは、イリュージョンが作り上げた世界なのである。そして、動物たちは、ほとんどすべて、このイリュージョンの世界の中で生きており、それによって単に生きるだけでなく、何十万年にもわたって、子孫を残し続けてきたのである。

86 古典にみるイリュージョン ~ その時代の人びとが抱いたイリュージョン
 そのように考えると、人間はこれまでにどれほど多様ないニュージョンを展開してきたことか? そして今後、未来においていかなるイリュージョンを論理的に創りだしていくことか?
88 要するに古典というものは、その当時の人々がその時どきのイリュージョンによって構築していた環世界を示すものだということである。

96 モンシロチョウの環世界は、時間帯によって変わる。交尾の時間帯は、相手のことだけしか視界に入っていない。花は眼に入らない。

102 『プログラムとしての老い』 → 日高敏隆の口説き文句

112 フェロモンにまつわる研究も、科学の名の下に人間が作り出したイリュージョン

122 紫外線や赤外線を、人間は見られない。存在は知っていても。
123 触覚も鈍い
126 聴覚も。  超音波は聞こえない

128 世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのような知覚的な枠のもとに構築される環世界、その中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということである。

137 世代によって、ラジオ、テレビ、インターネットが当たり前かそうでないかがある。これも、環世界

143 人間は概念によってイリュージョンを持ち、そのイリュージョンによって世界を構築する。他の動物はおのおのがその知覚的な枠に基づくイリュージョンによって環世界をもっている。知悪的なものはおいそれとは変わらないから、代々まったく同じ環世界をもっている。
144 人間の場合には、いろいろと探っていくことによって、人間の知覚ではわからないが、人間の知覚の範囲内にものを持ち込んでくるような機械をつくりだしていくことによっていろいろなことを理解し、次々にイリュージョンを生み出してきた。その結果として、人間が構築する概念的世界も変わってきた。
 われわれが関心をもつのは、この人間の概念的イリュージョンによってつくられた世界である。こういう概念的世界、概念的イリュージョンというものがどうしてできあがってくるのかということがいちばん問題なのである。

146 死の発見
147 輪廻転生の思想の誕生
152 利己的な遺伝子。 遺伝子を残すだけでなく、自分が生きた証も残したい人間。
 ミーム。
155 こうしてそれまでの種族維持のためというイリュージョンは、自分の適応度増大のためという、新しいイリュージョンに変わった。

160 輪廻という不思議な、しかも現実性のまったくないイリュージョンをもつことによって、人々は自分の生き方の基盤を作ることができたのである。
 これは時代の古さ、新しさの問題ではないし、「正しい」知識の多少という問題でもない。人間はつねに何らかの形で世界を認識していなければ、生きられないということである。それは人間以外の動物がその知覚の枠に従って、広大な環境の中からいくつかのものを抽出して、自分の環世界を構築し、それによって自分の行動の指針を得ているのと同じことである。

163 地球が平面 → 丸い。 天動説 → 地動説  しかし、人の日々の生活には大きな変化はない。

172 このイリュージョンにこめられているものは、進化には何の目的も、何の計画もないということである。生き残ることができたものが、生き残っているということ、それがすべてである。

174 神経のある動物と、ない植物の違い

178 われわれ人間も、人間以外の動物も、何らかの形のイリュージョンによって世界を構築し、その中で生きている。イリュージョンの基本的な根底となるのは知覚の枠である。
179 昆虫と人間のいずれかがより真実とは言えない。同じひとつのものを、それぞれのイリュージョンによって認知しているにすぎないからである。

180 大切なのはその動物が何に意味を与えているかである。それによって、その動物にとっての世界は、その時どきによって変わる。交尾前と交尾後のモンシロチョウを礼として述べたとおりである。

  そうなると、客観的な一つの環境というものは存在しないことになる。同じひとつの林が、そこに生きているそれぞれの動物によって、そして動物の状況によって、さまざまな世界に変わっていくのである。
  それぞれの世界を構築しているのは、その動物がその時どきにもっているイリュージョンである。岸田秀氏の「唯幻論」は、人間以外の動物にも当てはまるのだ。

181 重要なのは、イリュージョンなしに世界は認識できないということである。「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。

184 われわれの認知する世界のどれが真実であるかということを問うのは意味がない。
  人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。人間以外の動物のもつイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。
185 学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的たちがあろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。

 長かったですが、以上です。
 『ギヴァー』の世界を理解するのに、そして私たちが住んでいる社会を理解する(そして何がしかのアクションを起こす)参考になったでしょうか?

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