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2013年5月18日土曜日

「教育という幻想」



 日高敏隆さんの本は、どれもおもしろいし、違った視点を提供してくれます(動物の視点から人を考えさせてくれます)。その日高さんが学校や教育について書いたのが、本書です。
 本当のタイトルは、『ぼくにとっての学校』なのですが、サブタイトルの方がはるかに刺激的なので、上のタイトルにはこちらを使いました。それが、日本の学校や大学の現状を表わしているかのようです。
 実際、日高さん自身は、その幻想の外に小学校から大学院にかけて自分の身をおき続けた人のようです。そして、大学での指導の際も、自分が体験したことを学生たちができるようにサポートしました。その意味でも、とても価値がある内容だと思います。
 以下、私のメモです(数字は、ページ数)。

33~4 小学校の部活動には、高校生が指導者としてつく。そこで指導にあたった高校の部員が徹底的に指導してしまうと、小学生をただやたらに引っぱりまわすことになってしまう。なにを測れと測らせて、すごく立派なデータが出て、そして発表もちゃんとできる。ところが小学生にしてみると、自分たちがなにをやっていたのか、よくわからなくなってしまう。そういうことで、指導するというのはどういうことなのか、あのころやったことは、いい勉強になりました。
 ぼくはいつも生物部の部室にいて、本を読んだり、調べものをしたりしている。授業は、あまりおもしろくないから出ない。そうすると、先生が自分の授業が始まる前に部室に来て、「やっぱりここにいたか。日高君、これをちょっと調べてくれないか」と言う。そして授業が終わると、「わかりましたか」と聞いてくるのです。僕はその先生の授業に出ていないことがわかっている。しかし、こういう先生たちに頼まれて調べたことは、その先生の授業よりずっと記憶に残るいい勉強になりました。  ← 要するには、やりたいことをやらせてあげるのがベスト。 それが、なかなか見出せない子には、見つけられるサポートをし続ける。

64~5 講義は残らない/自分が調べたことは身につく

74~6 学生が自由になんかできるのを確保する。それが教師の責任。

81 大学院生選考の基準がない大学院(教授たち)!!

98 再現性がないと科学とはいえないと教えられてきた。
101 ティンバーゲンの”Social Behaviur in Animals”から真似し始める/応用し始める
115~6 遺伝と学習の関係  → 194~6、 213~230
116 動物行動学をベースに人間を考える

147 変わったことがやれない日本  でも、枠を出てやってしまった学界や共同研究

180 民主主義は、小魚の群れ

 しかし、その日高さんが学長になった滋賀県立大でしたことは・・・・


     <メルマガからの続き>


 自分が小~大学院時代に、やりたいこと(蝶々の観察等)しかやらなかった人は、一般教養を廃止しました(189ページ)。そこまでは、評価できるかもしれませんが、次にこう書いています(189~190ページ)。
「概論というのは、もっとも受身で聞くものです。おもしろくない。滋賀県立大の人間学の先生方には、とにかく一般論、概論ではなく、自分の独断と偏見に満ちた講義をしてくださいとお願いしています。たとえば、最近こういうことが起こっている、なぜならばこうだからだ、と自分の根拠をあげて自説を展開してください。その中に、いわゆる基礎的なことも盛り込んでください。そして最後に自分の結論として、私はこうだと思うと言い切ってください。それが全部間違っていても構いません。」
講義(と研究)をすることが、大学教授の役割と捉えてしまって本当にいいのでしょうか? 前者には、自分はほとんど顔を出したこともないというのに・・・・ ぜひ、自分が上で書いたこととつじつまの合う行動をとってほしかったです。いいモデルを示してほしかったです。この点に関しては、とても残念です。滋賀県立大のサイトを覗いてみましたが、特に特徴的なことをしているようには見えませんでした。(単に、出さないだけ?)

 「教える」という行為が、「話す」や「すでにある知識を伝達する」という発想でいる限りは、実際に伝わる/届く量は限りなくゼロに近いことは、この本の前半部分で、日高さんが繰り返し書いていることでした。
 講義という形式は、聞く側が、話す側と波長(というかレベル)が同じ場合には効果的な方法なのですが、そうでない場合は、単純に時間の無駄としか言いようのない方法です。一見、効率的に思えますが、時間の使い方としては最悪です。
 では、学ぶ側が学びやすい/よく学べる方法とは何か?
 これも、日高さんが前半部分で自分の体験を通して書いてくれていました。「学び者が好きなこと、こだわっていることを学ぶ」につきます。それ以外の方法があるでしょうか? そうなると、教える側の役割は、何になるのか? 自分の知っていることを話すことでないことは確実です。話したところで意味はありません。
 そうなんです、学び手が言うことを聞くこと、なんです。
 あるいは、自分の授業に顔を出さないことを知っていた先生がしたように、生徒が関心のもてそうなことを尋ねて、しらべてもらい、そして生徒が教えるのをおとなしく聞くことです。
 まさに、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップのアプローチです。
 それでは、テストでいい点数がとれない。
 そんなことは、ありません。
 暗記して忘れる苦役よりも、自分のしたいことをするので、暗記する必要がなく、身についてしまいます。もちろん、一定の枠を提供した中での「したいこと」ですから、最低限おさえるべきことをおさえた上で、あとは教師と同じか、それ以上に伸びる可能性があります。リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップの場合は、限りなく本物の作家や読書家に近づいていきますし、他の教科でこの手法を使うと、限りなく本物の数学者、科学者、歴史学者、地理学者、市民・・・・に近づいていきます。
 教科書をカバーする(あらかじめ決めれられたカリキュラムをこなす)学校や大学ごっこ(=正解当てっこゲーム)ではなく、本物をさせてあげないと、いつまでたっても日高さんのような人が、特別な人であり続けるだけです。

 私は、短期間に、ジョナスはギヴァーを超えてしまった、と思っています。
 ああいうアクションが取れたことが、それを証明していると思います。
 もちろん、ギヴァーの助けもあって実現できたことではありますが。

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