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2010年12月13日月曜日

『野性の実践』 1

 というわけで、昨日紹介した2冊の本は両方とも自分なりの「読み」を作り出していかないといけないわけです。しかし、その宿題が終わるまで、両方とも紹介できないというのではもったいないので、ゲーリー・スナイダーの本については、訳者が書いてくれていることを中心に紹介します。(長くなるので、3つに分けます。)


 まず、タイトルについて、

348 スナイダー自身が序文や本文中で説明しているとおり、「野性の修業」という訳が真意に近い。しかし、あえてそれを『野性の実践』としたのは、修行という言葉を古くさく感ずる読者がいるのを懸念したからにすぎない。

→ スナイダー自身の説明では、「実践の意味は、ものごとをよく見る努力、そして自己自身や現実に存在する世界にうまく適応するためのたゆみない努力、と解釈できます」(p11)になります。

349 スライダーにとって、野性とは「仏法」(ダルマ)に近いものだ。
  スナイダーは、早くから、近代西欧合理主義に対して強い違和感を抱いていた一人である。彼が疑問を感じたのは、その自我主義と人間中心主義に対してだろう。
  人間の理性を信頼するかぎり、「個」は確実な基本単位として重要な意味をもつ。そして、その個にそなわる意識は自我と呼ばれる。しかし問題は、その「自我」の中身である。

350 自我の情欲は自己中心性をもつ。それが自己主張を始めると、自我と自我との衝突に至る。それは個人と個人の対立から、団体と団体、民族と民族、国家と国家の衝突へとつながり、最終的には不幸な戦争へとエスカレートする。悲惨な歴史的事実が数々の証拠を残している通りだ。

  スナイダーはいう。「自我が占める領域はごくわずかなものだ。それは精神の入り口近くにあって出入りを監視する小さな部屋」(p41)にすぎないと。こうした自我の限界を知っていたからこそ、スナイダーは、近代西欧合理主義を超える新しい生き方を模索してきたのだ。その手掛かりは、表面的な近代的自我ではなく、その深層、無意識の領域にひそむ主体性にある。そして、その「無我」の主体性こそ本来の自己であり、真の主体だとスナイダーは気づいていた。だからこそ、禅の修業に長い時間をかけたのだ。

 「危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元では決してなく、もっと本質的な、精神と魂の次元なのだ。人間たちは、自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ」(p323)

 それゆえ、この精神と魂の危機を克服するための実践的な原理を、スナイダーは指し示す。「コスモポリタン的な多元主義と地域に深く根ざした意識、この二つの調和こそ重要である」(p84)と。これは、禅の精神を代弁するあの有名な言葉、”Think globally, Act locally”(思いは地球に、行いは地域に)を思い出させる。

→ 私自身、”Think globally, Act locally”が禅の精神を代弁している言葉とはまったく知らずに、80年代から90年代にかけては、そのことを実現するための一つの方法を提供するための活動をしていました。『地域からの国際化』という本の翻訳や国際理解教育センターを通した情報提供活動です。
 でも、スナイダーに言わせると、「『野性の実践』は、わくわくする野性体験でも、環境保護運動の努力でもなく、エコロジーの理論でも、役立つ行動主義でもなく、それ以上のものに携わることを示唆しています。自我の奥底に自分自身を自覚する方法を見つける努力をなすべきなのです」(p11)ということになります。

351 これは、「人間の本来の場所に帰ってゆくという感覚」(p280)なのだ。地域の「サンガ」の活動を大切にするライフスタイルである。

→ この辺は、まるで『アボリジニの世界』の中で書かれている内容とオーバーラップします。

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