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2011年5月28日土曜日

学校って? 

 たくさんの人たちの働きかけで、文部科学省が学校の運動場や幼稚園の砂場や園庭等の年間被曝線量を20ミリシーベルトから1ミリシーベルトに下げました。
 これは、もともと1ミリシーベルトだったものを、何を根拠にしているのかさっぱりわからないのですが、福島原発の事故の後、急に20ミリシーベルトに上げていたものでした。

 まさに、「基礎・基本」が大切だと言っていた文部科学省が、ある時は3割を削り(それは、単純には教科書のページ数に表れます)、そしてあまり根拠があるとは言えない、そしてそれを上げるための方法も定かでない中で、「学力低下」の大合唱に抗しきれずに、また増やすのに似ています。

 以下も、3月11日以前に書きためておいたものです。


 学校とはどんなところか、私たちみんなの中にそれなりのイメージがあります。
 『ギヴァー』の著者のロイス・ローリーさんも含めて。
 そして彼女のイメージは、前回紹介したように、それなりにこの本の中に書いてあったと思います。

 皆さんは、どんなところだと考えていますか?
 あるいは、あってほしいですか?

 それがどんなものであれ、確実に言えることは、いまの学校は大人たちがこうあるべきだというものを、子どもたちに押し付けているということです。「大人たち自身が体験した学校」をそのまま押し付けている、と言ったほうがいいかもしれません。体験していないものを提供するのは難しいですから。

 でも、長年やられ続けてきたそのアプローチのままでいいのでしょうか?

 それは、何をどう教えるのか(専門用語では、カリキュラムとかシラバスと言います)や、意図していなくても学校の中にいるだけで身につけてしまうもの(教科書や時間割の形で「見えるカリキュラム」に対して、後者は「隠れたカリキュラム」と言われます。ちなみに多くの子どもたちにとっては本来身につけないといけない教科の内容であるカリキュラムよりも、こちらの隠れたカリキュラムの方がきっちり学ばれてしまいます。前者が押し付けがましく、かつ暗記力が勝負を決めるような形でやられ続けていますから、その多くを忘れてしまうのに対して、後者は洗脳される形で刷り込まれるからです。具体的な例としては、たとえばコミュニケーションの取り方や人間関係の築き方があげられます)などすべてをひっくるめてです。

 中・高・大学生はもちろんのこと、小学生ですら、もっと学校や大学の中で起こることに参加し、意思決定に関われる仕組みにした方が、誰にとってもいい結果を生むと思うのですが...(これまでのアプローチが効果的であることは、まったくもって証明されているとは言えませんから) はじめから学校や大学レベルで取り組むことは難しいというのであれば、教室レベルというか授業レベルで練習することはいくらでも可能です。個々の先生の判断で十分に可能なことですから。(今日書き足した部分 ~ 学校レベルでさえ、今回の年間被曝線量の値と同じように保護者や関心をもっている人たちの働きかけで十分に可能だと思います。学校側、教育委員会側、文部科学省側にそれほど確固としたものなど何もないのですから。)

 ギヴァーとジョナスのように気がついてしまった人が行動を起こさない限り、これまでの状態が続くことは約束されているわけで、何も変わりません。

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