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2012年10月6日土曜日

生と死を考える 1



『往復エッセイ「いのち」についての60の手紙 ~ 十代の君たちへ』山折哲雄+中村桂子著を読み、『ギヴァー』と関連すると思ったところを紹介します。

この中に、幼稚園の子で草は生き物じゃない、と言い張る子が紹介され、でも引き抜いて根から何か汁みたいなものが出てきて、生き物だったのか、とこぼすシーンや、

    散る桜 のこる桜も 散る桜

の俳句を紹介しながら、咲く桜を見るときと散る桜を見るときのいずれもが桜を一番感じさせてくれる時であることを思い出させてくれますと書いた後で、

それは、「無常」の2つの意味につながっていきます。(山折:44ページ)

 一つは、形あるものすべて滅すということです。この世に永遠なものは一つもないという原理ですね。ところが、この無情にはもう一つ、それにもかかわらずすべてのものは蘇る、という考え方も同時に含まれているということにご注意いただきたいのです。
 たとえば、植物は冬に枯れはてて花や葉を落としても、翌年の春を迎えるとふたたび花や実をつけ、葉を茂らせます。人もまたこの世に死んで、つぎの世に子孫をのこします。
 仏教の無常観は、そういう自然の摂理と人間の運命を見据えたところに生まれた知恵だったと思うのです。

これに対して、中村さん(47ページ)は、以下のように反応しています。

 植物の場合、鉱物ほど生と死の区別がはっきりしていません。山折先生が、無情のもつ二つの意味としておっしゃった、形あるものはすべて滅するということと、すべてのものは蘇るということとは、まったく反対のことですから、それを一つの言葉の中に入れてしまうのは矛盾以外のなにものでもないわけですが、植物を見ていると何のふしぎもなく、この二つが一つのこととして受け入れられます。
 一方、動物の場合、確かに子孫に続いてはいきますが、死んでしまったイヌやネコが蘇ってきてという気持ちは持ちにくいのではないでしょうか。ですから、もう一度あの可愛い私のネコを取り戻したいと思うと、クローンをつくりたいという気持ちの方へ動きがちです。しかしこれは、すべて滅するという生きものの本質を否定することになり、結局、本当の意味の生を楽しむのとは違うことになってしまうと思います。

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