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2013年4月22日月曜日

『今を生きる親鸞』



 親鸞は、前に紹介したことがありますが、別な人たち二人が主には対談の形で、いまの日本の状況と親鸞の教えとの関係について話している本に出会いました。タイトルは、『今を生きる親鸞』(安冨歩・本多雅人)です。
 ギヴァーとの関連を見出した部分のみの紹介です。(数字は、ページ数)

61 『歎異抄』 ~ 「愚」の自覚に立つ
69 つねに自分自身をきちんと見つめるということ、自分自身というものに絶えず立ち返るということが大事。そうでないと、人間はついつい自分の外に「正義」というものを作り出して、それにしがみついてしまうことになります。自分のあり方に対する「自覚」が大切です。それは「自分は愚かである」という痛みを伴った自覚です。しかし、自分ではけっして徹底して自覚することはできません。ですから、「見つめる」と言っても「問われる」ということでしょう。自分のあり方を否定してくるはたらきに出遭うということですね。人間が起こしてしまうさまざまな問題を通して、つねに人間そのものを見つけていったのがまさに親鸞の姿勢でしたし、私も親鸞のその姿勢からお育てをいただきました。

78 (原発)事故を通じて明らかになった醜さというのは、実は自分の中にもあるんだという気づきを示していくことが大切な対処法。
   一人ひとりが「愚」の自覚に立つということです。

89 自分が自分であるという本来の感覚ということ。それは感受するというかたちで帰ると言うか、自分が感受したものに頷くと言うか。そこに帰らせるはたらきを本願といただいてきたのです。本願は、知らしめて(自覚せしめて)帰らせるはたらきそのものです。
   つまり、各自が感受したことに基づいて行動しなさいということですね。
   感受するのは、私一人なのですが、それは今生きている私個人の問題だけには収まらない、というところに大事なポイントがあります。そうした自分の感受性が、実は長い本願の歴史のなかにあるということ、その歴史的な深まりとか重みとかいうものが、私という個人の中に与えられているというところに、救いがあると言いますか。
   私のいのちは、長い歴史を経て、今、私となって流れてきたのです。つまり過去の縁によって、すべての存在が繋がっているからです。つまり私一人は歴史的存在なのです。そのいのちは迷いのいのちであると同時に迷いの中に深い願いがはたらいていたいのちでもあるのです。苦悩とともに本願が寄り添ってきた歴史の中に私がいるのです。・・・・自分の感受性は、自分一人のものであると言えるとともに、自分一人で背負ってきたものでもありません。ですから、自分の感受性ということを考える場合、歴史全体を感受するということが非常に重要になってくるのです。 ← まさに、『ギヴァー』の中のジョナスの気づきとアクション!!

97 業によって縛られた自分は、実は無限の世界に開かれた自分でもあるわけです。だからこそ、開かれた自分の感性を大事にし、自分の言葉をもつことが大事になってくると思うのです。自分のパイプを通すっていうのは(親鸞がどうやって自分のパイプを通したかと言えば、「機」の問題を通じてです。つまり「機の深信」という、自分自身を深く信知することです)、一人の自分と無限の世界とを繋ぐということなのですから。
   そう、言葉なんですよ、大切なのは。親鸞にとって「機の深信」の徹底とは、決して自分の世界にこもることではなかった。「愚」であるという自覚は、むしろ絶えず新しい言葉を紡ぎながら生きていくという生き方に繋がるものなのです。 ← この辺も、ジョナスの選択?

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