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2013年4月9日火曜日

『子どもの文化人類学』 5



 原ひろ子さんの本が続いています。

175 「教えていただく」姿勢が先方に伝わり「教えよう」という態度を引き出し、いい情報がもらえてきた。しかし、それがまったく通じないヘヤー・インディアンの社会。
 「教えよう・教えられよう」という概念自体が存在しない。

 日本や、アメリカなどでは、「人が人から教えられる」ということと、「人が人に教える」ということが可能だと考えられ、かつ、必要であると信じられているのです。
 私は、「教えよう・教えられよう」とする意識的行動は、人類に普遍のものだと考えていました。ところが、ヘヤー・インディアンの人々とつき合ってみて、この考えを修正するにいたりました。そして、「学ぼう」とする意識的行動は人類に普遍的といえるが、「教えよう・教えられよう」とする行動は、絶対普遍のものではないと考えたくなってきたのです。さらに、現代の日本を見るとき、「教えよう・教えられよう」という意識的行動が氾濫しすぎていて、成長する子どもや、私たち大人の「学ぼう」とする態度までが押さえつけられている傾向があるのではないかしらという疑いをもつようになりました。

180 「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって「○○をおぼえる」のです。 ← これは、『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加』そのものじゃない!!
あれの原本が出版されたのは、1991年。日本語訳は1993年。原さんの本が出たのは、1979年。雑誌に連載されたのは1973年。しかし、後に出てくるように「師弟関係」ではありません→ 22~23ページも

182 「人に教える」ということは、ヘヤー・インディアン文化の概念の体系のなかには含まれていないのです。したがって、「教え方の上手・下手」などを評価しようということもありません。ただ、ものをおぼえる側の「おぼえ方の上手・下手」があるだけです。しかも、「おぼえ方」を教えるものはいないのですから、「自分でおぼえる」以外には、ものごとを修得する道はないのです。
183 ヘヤー社会には「師弟関係」というものも成立しません。「師弟関係」が成立するには、第一の条件として、当事者たちが、「教える・教えられる」という行動が存在することを、意識していることが必要です。さらに、第二の条件として、「教える者」と「教えられる者」の間に相互に期待される意識や行動に関して約束ごとをもっていることが必要です。
 → 『ギヴァー』に登場するさまざまな関係は、ヘヤー・インディアンの社会と日本に比べたら、どちらに近いと思われますか?

187 「自分でおぼえたのさ」の根拠が整理されている。
    「自分で(守護霊の指示のもとに)おぼえる」以外はないのです。
    ヘヤー文化の基盤には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっているのです。ここでは、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできない、と考えられているのです。人間に対して指示を与えることのできる者は、守護霊だけなのです。 → 守護霊については、や3を参照。

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