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2013年4月4日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 92


  今日、紹介するのは『子どもの文化人類学』原ひろ子著です。

 この本は、1979年に出た本ですが、内容はまったく古くなっていません。時がたつにつれて、新しくなっているといったほうがいいぐらいかもしれません。
 著者が、1959年から64年にかけてアメリカ留学中の間に行ったフィールドワークをベースに書かれたものの一冊です。主な対象は、カナダの北西部の極北地帯から南西部にかけて先住する狩猟民のヘヤー・インディアンです。その人たちについて、以下のようなことを書いています(数字は、ページ数)。常にあったのは日本との比較です。

17 日本では、親の仕事を知らない子どもたちが増えている
20 「自分がほんとうに何をしたいのか分からない」大学生が増えている日本。
  それに対して、見よう見まねで、生活に必要なことを学び取っていくヘヤー・インディアンの子どもたち。「ああ、素晴らしいなあ、あんなことがしてみたいなあ。大きくなったらあんなになりたいなあ」と思えるモデルがあるヘヤー・インディアンのコミュニティと、それがテレビからしか流されない日本。
21 親たちがサラリーマン化してしまって、仕事の場と生活の場の分断。→ モデルが見えない! それに対して、『ギヴァー』のコミュニティでは結構モデルを大切にしていましたね。しかも、10歳ぐらいからは準備をし始めて、12歳で自分の仕事が決まってしまいました。
22 ヘヤー・インディアンの社会では、1960年当時、人々は狩猟採集民になるみちしかなく、それが当然でした。7歳ぐらいの男の子は、すでに自分が良い猟師になるのだということを自覚し、そのための腕を磨きはじめていました。女の子も、たくさんのウサギをわなにかけ、上手にムースの皮をなめすおとなになりたいと願いながら、自ら修練を積んでいました。そして、子どもや青年が自信に満ちて生きいきとしていました。
 それは、あれこれと職業を選ぶ必要がないという社会であるがための救いであったのか。それとも、子どもたちが、自ら設定する目標に向かって、それぞれ自分のペースで、能力を磨き、自分を試すことができているために生じた状況であったのか。それとも、他に原因があるのか。一人ひとりのヘヤーの若者や子どもたちの顔が私の瞼にちらつくとき、こういった疑問が心の中を去来します。

23 ヘヤーの子どもは、狩猟の名人といわれる人の姿に身近に接することができる一方、まだ修行中で、失敗を重ねながら猟師の生活を送っている若者とも友だちになっています。子どもが大きくなって、こんどは自分で猟をする番になったとき、ちょっと失敗したくらいで挫折したりはしません。つまり、成功しているテレビ・スターだけに憧れることになりやすい状況、成功してよい住宅に暮らしている人に憧れることになりやすい状況とは異なり、ヘヤーの子どもたちの前にはさまざまなお手本が提示されているのです。
 日本では準備から完成までのプロセスに子どもが機会をおとなが意識的につくる努力が、ますます必要な時代にはいってきているのかもしれません。

 この辺、『ギヴァー』の仕事、教育、子どもを育てるとは(フィリップ・アリエの『<子供>の誕生』も要チェック)などと大きく関連するところです。ある意味で、ちょうどヘヤー・インディアンと日本の中間ぐらいで、うまくやっている感じかな?


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