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2013年10月22日火曜日

テストというか評価の問題



テストにまつわる報道が、ここ2日ばかり続いています。
この問題からは解放されないのが、日本という国の宿命なのでしょうか?

昨日は、「説明責任か序列化か」

今日は、「センター試験廃止へ」

昨日のだけでは、とても書く気になりませんでしたが、今日のを見て・・・
両方とも、教育現場(小学校~高校)を無視したというか、配慮にかけることをやり続けていることは同じです。

昨日、書く気になれなかった理由?
そもそも、してはいけないことの尻拭い論議ですから。
有識者というぐらいなら、はっきりと「学力テストを廃止すべき」と文科省に言ってあげないと、役割を果たしていません。
そもそも、価値のないものに、あたかも価値を与えるような議論をしていること自体が、極めておかしな話なのです。
それによって、教育現場に混乱を招いている、という意識すらありません。
評価のことが全くわかっていない数人の官僚、政治家、研究者に振り回されている状況を維持しているだけです。

今日の記事もまったく同じで、そろそろテストで人を測れるのは20分の1、よくて10分の1ぐらいの能力に過ぎないことをわきまえないとまずいです。

個人的な例ですが、私はたまたまラッキーで、高校を卒業と同時にMITに入れたのですが(もう40年以上前のことです!)、理由は、テストのウェートが極めて低かったからです。もしテストだけだったら、到底入ることなどできなかったと思います。テスト以外に(というか、テスト以上に)考慮されていたのは、①高校時代の成績、②推薦書(確か3人)、③インタビュー(私の場合はOBの卒業生と日本でやりました)、④自分の作文などです。★★

これらを、学内に教授、事務、在学生の代表からなるチームをたくさん作って、選考プロセスを展開していきます。★★★
一発のテストよりは、はるかに時間がかかりますが、プロセスを大切にしています。
評価というのは、そういうことではないでしょうか?
自分たちも、よくなるための手段なのですから。
また、評価は、「客観的ではあり得ない」ということもわかっている気がします。
あるいは、客観性を突き抜けたところでするものが真の評価ではないか、と。

少なくとも、『ギヴァー』のコミュニティでも、テストに重きを置いているとは思えません。長老たちの日々の観察等が最優先されているようです。評価は、頻繁に盗み見ているだけでなく、おそらく関係者へのインタビューなども踏まえられている、と。



★このことと、テストに変わる「人を伸ばす多様な評価の方法」を紹介したくて書いたのが『テストだけでは測れない!』(NHK生活人新書)でした。テストは、所詮、選別の手段です。1割以下の勝ち組と、多くの負け組をつくるための。それ以外に達成していることはあるのでしょうか? 大学生や教員対象の研修で、「どんな時によく学べるか?」を尋ねることが多いのですが、テストのための準備で学ぶと答える人は皆無です。所詮、それが忘れる運命にあることを誰もが知っていますから。
★★ すでに、4、50年前から、テストへの幻想を捨て去っている、ということを意味します。それに対して、日本は相変わらず「テスト信仰」というか「テスト崇拝」の中にあります。
★★★ この辺のことは、企業等の入社のプロセスにも参考になるのではないでしょうか? プロセスの中で自分たちのアイデンティティを見直し、そして創っていく作業をしている感じです。何よりも、関係者すべてを巻き込んだ体制がいいです。つまり、会社等の組織の場合は、人事担当者だけがやるんじゃない、ということです。


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