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2011年6月3日金曜日

『親鸞と道元』 3

 『親鸞と道元』の最終回です。


222 知床に毘沙門堂を建てた立松さん ~ 「スローな宗教」
    自然と合体した人びとの祈り

235 人はなぜ、お遍路に行くのか
236 死とはすなわち旅という感覚
245 旅で死にたい、という五木さん ~ 自然死(五穀を断って成仏する)、自分を殺すのは自殺

251 阿弥陀仏とは、隈なく照らす月の光のようなもの

261 浄土というのは、特別な場所じゃなくて、われわれの現世、生きているいまの時代には、自分自身を相対化する、そういう存在ではないかと思うんです。いまの自分の考え方、いま身をおいている社会を相対化していく、照らし出すものではないかと思うんです。

275 戒律も、懺悔すると許されるというシステムだった。 ~ とても柔軟

280 日光の男体山で経験した足元を照らす一灯の光
    救いになるのは、前を歩く人 ~ 生き方を教えてくれる、死に方を教えてくれる → そういう存在が身の回りにたくさんいたのが戦前まで、という感じでしょうか? いつの間にか前を歩く人を失ってしまった社会をつくってしまいました。

284 何かの信仰に入っていくのは人間を通じてなんですよ。本を読んで、突然目覚めて信仰に入るということは、ありえないことではないと思うけれど、それはあまり続かない信心だと思います。

296 宿業(しゅくごう)は、運命と違って、前向きな思想。いまここで自分がどういう行いをするかによって、あとの結果が決まってくるというわけだから。全部背負わされたということではなくて、自分のいまの選択が、あとの結果を決めるという発想とつながっているのです。前世、現世、来世のつながり。 → なんか『哲学者とオオカミ』のテーマだったような? そして、『ギヴァー』のテーマでもあるような。

298 宿業観というものは仏教の原則の一つで、根本だと思います。人はよき行ないをすれば、よき結果につながるという考え方は、仏教の根本にある考え方です。
    仏教の根本は、「衆善奉行、諸悪莫作」(しゅぜんぶぎょう、しょあくまくさ)といって、よいことを行ない、悪いことはしないという、これにつきるんだと思うんです。

300 すべては変わるという、不変なものはないという考え方が身についている場合には、たとえば自殺しなくてもすむんじゃないかという気がするときがあります。
301 やっぱり逃げ場がないという考え方を否定するのが仏教だと思いますね。逃げ場はあるというか、状況は変わる。ポジティブな考え方。 → これは、救いです。

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