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2011年6月7日火曜日

テストの弊害

  ピアジェの『教育の未来』の3回目です。


73 学校で行われる試験・テストの価値については、これまで多くのことが言われてきております。試験は教育にとって、まさに傷口であると言えましょう。そしてこの傷は、教育のあらゆる段階にその口を開き、教師と生徒との間の正常な関係を、損ない続けているのです。これは決して誇張ではありません。それは教師と生徒の両方において勉強する喜びを失わせ、お互いの信頼をなくさせているのです。試験のもつ本質的な欠点は、つまるところ、つぎのような二つの点にあります。まず、試験によって得られた結果は一般に客観的なものではない、というのが第一の欠点です。第二点としては、やがては試験そのものが目的となってしまう、ということがあげられます。入学試験とても、実は最終試験となってしまっているのです。中学の入学試験は、小学校教育の目的とされているのが実情です。学校で行われる試験は、客観的なものではありません。試験は生徒の構成的な能力を調べるよりも、むしろ記憶力にかかわるものだからです。学校時代の試験の成績とその後実社会に出てからの活動とがあまり一致しないということは、誰しも知るとおりです。試験は、目的そのものになってしまいます。★

試験を廃止しない最大の理由は、社会の中にある保守主義的傾向と競争原理にあると言えます。 ← 言い切ってくれています。


87 人格の発展とは、いったい何なのでしょうか。また、どのような教育法を行えば、人格の発展を確実に実現することができるのでしょうか。(これまでに、どんな取り組みがされてきているのか???)個人と人格とをはっきり分けて考えることが必要となります。個人とは、心理学においていう自我で、その中心は自分自身にあります。相互性の関係と衝突するものです。これに反して人格は、自分の自由な判断により規律を受け入れ、規律を作ることに協力する個人です。各人の立場を尊重することに自己の自由を従属させる相互的規律の体系に、自分の意志により従ってゆくことのできる個人であります。
88 人格は、相互性との調和をはかりながら自己の自律性を実現するものだからです。もっとはっきり言えば、人格は無秩序の反対であると同時に、外から課された強制に反対するものです...以上のことをまとめると、つぎのようにいうことができるでしょう。<人格の完全な発展ならびに人権および基本的自由の尊重の強化を目的とする>ということは、知的・道徳的な自律性をもって行動できる個人をつくることであり、相互性の規則を重んずるが故に他の人のもっている自立性を尊重する個人をつくることであって、この相互性の規則こそが各人の自律性を正当化するものである、と。
89 教育を受ける権利とは、とりもなおさず、活動的な理性と実生活にもとづく生きた道徳意識とを形作るのに必要なすべてのものを、学校に対して求めることができる、という権利ではないでしょうか。→ということは、まさにそれを提供する方法論の問題になる。自発的活動を重んずる方法に。


★ 以上の2つでテストの欠陥というか弊害を理解するには十分だと思いますが、少なくとももう一つ大きな問題があります。それは、知識として暗記したり、理解する部分の一部は測れるかもしれませんが、ピアジェが言う「構成的な能力」=分析、応用、統合、評価・判断、創造・想像等は測れませんし、社会に出てから(もちろん、その一部である学校の中でも)大切な態度や姿勢の部分=ライフスキルやEQについても測れません。このような観点から見ると、通常教室で行われるテストや、学力テストや、入試は、本来測られるべきものの中で20分の1ぐらい、高く見積もっても10分の1ぐらいしか測ることのできないことをわきまえた上で使った方がいいわけです。(ということは、評価の媒体としては「欠陥商品」として捉えることを意味します。)それが、あたかも個々の生徒のほとんどの能力を把握できるというような間違った認識では、生徒たちがかわいそうです。

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