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2011年6月9日木曜日

受身と依存の教育から、自立の教育へ

 ピアジェの『教育の未来』の最終回です。

 タイトルは、「受け身と依存の社会から、自立の社会へ」でもよかったのですが...コインの裏表の関係ですから。


104 一人の個人が知的な面で何らかの束縛にしばられている場合には、精神的・道徳的な面でも自律的な人格をつくることは不可能になります。自分自身の力で真理を見出すのではなく、命令に従って学ぶように義務づけられた個人は、自律的な人格を形作ることができません。知的な面で消極的受け身的な立場に陥った人間は、精神的・道徳的に自由であることはできないでしょう。 → 権威主義的な教育をしている限り、自立した人間葉育たない! 権威に従う人間を再生産するだけ。

 生徒の自発的活動を重んじる教育法は、人格の知的発達を可能にする唯一つの方法です。 ← 言い切ってくれています!!

 とはいえそこでは、集団の場からの働きかけのあることも、当然の条件とされています。 ← 関係性の大切さ。コミュニティの大切さ。

105 真の知的な活動は、実験的活動と自発的研究にもとづく真に知的な活動は、個人と個人とのあいだの自由な協力がなくては成り立ちません。先生から生徒への上から下への関係ではなくて、生徒同士の間の協力がなくては成り立たないのです。知的活動を行うためには、お互いにたえず刺激し合うことが必要でありますが、そのうえさらに、互いに検討し合い、批判的精神を働かせることが必要です。この2つの行為により、個人は、客観性とは何であるかを知り、証明の必要性を知るようになります。論理による思考作業は...つねに共同的な作業なのです。 ← 「自由な協力」や「共同的な作業」を中心とした授業を体験している人は、日本でどのくらいいるでしょうか? まだまだ教師一人ががんばる授業が続いています。

  伝統的な学校では、社会的関係として、教師と生徒個人との間の縦の関係しかありませんでした。知的・道徳的真理を所有する絶対的権威者としての教師と個々の生徒との間の関係しか考えていませんでした。教室で行う作業においても、家庭で行う宿題においても、生徒たち同士の間の横の直接的コミュニケーションや協力は、まったく考慮されていませんでした。点数だけがものをいい、試験が重くのしかかっていたからです。自発的活動を重んずる学校では、これとは反対に共同作業が前提とされ、個人作業とグループ作業がかわるがわる行われます。人格の発達のためには、そのもっとも知的な部分においてさえ、集団生活が不可欠であることが明らかとなったからです。 ← グループ活動の大切さ。一斉授業が中心で、グループ活動が付け足し程度じゃダメ。

118 相互的尊敬の持つ教育的意味、子どもたちの間に自然発生的に生まれた組織に根ざした教育法のもつ意味は、わからぬうちから出来合いの規律を課されるのではなく、行動の中で規律の必要性を見出しつつ、子どもたちが自分で工夫しながら規律を作ってゆけるようにするところにあります。自発的活動を重んずる教育法が、知的教育と同様道徳教育においてもかけがえのない役割を果たしているのは、まさにこの点にあるのです。単にうわべだけでなく、子どもを中から実際に変えてゆくようないろいろな道具や手段を、自分自身で作り出すように子どもを導いてゆくところにあるのです。 ← おそらく、日本の学校は、子どもたちにそんなことがやれるとは思っていない(同じレベルで、日本の社会は市民に自発的活動がやれるとは思っていない)。

 これは単なる心理学上の理論や論理的帰結ではありません。自治についての教育学的実験がますます豊かな成果をあげていることが、その何よりの証拠です。(私立の全寮制の学校や青少年犯罪者の施設の例などが紹介されているが、いまは学校の例も含めて、他にもたくさんある。)

122 自律性と相互性は、人格と自由の前提

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