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2010年4月30日金曜日

『ギヴァー』の中のメディアと書物

 コミュニケーションということでは、ジョナスのコミュニティ(世界)にはいったいどのようなメディアが存在しているんだろう、とも思い続けています。テレビやインターネットは存在するのか? スピーカー以外、わたしの記憶では、他にはまったくといっていいほど描かれていません。
 本も、ギヴァーの部屋においてあるだけでした。しかも、ジョナスがそれらを読んだようには書かれていませんでした。

 以下は、「メディアと書物」について、池田晶子著の『14歳からの哲学』の第20章からの引用です。

131 戦争からお笑いまで、全部が一律に電波で流されるから、人は、大事なことと大事でないことの区別がつかなくなっちゃうんだ。
132 目に見える映像を追うのではなくて、目に見えない観念の動きを捉えることだ。外界を疑って、内界を見据えることだ。でも、いまや世のほとんどの人は、外界から与えられる大量の映像情報をただ受け取るばかりで、見えない内界を自力で考えるなんてことは忘れ果てているんだ。
    情報はしょせん情報だ。情報には本当もウソもある。事実か事実でないかということもある。本当のこと、真実というのは、外から与えられて知るものではなく、自ら考えて知るものだからだ。自ら考えて知るより、知りようがないものだからだ。
133 自ら考えて知ることだけが、「知る」ということの本当の意味だ。情報を受け取って持っているだけの状態を、「知る」とは言わない...情報は知識ではない。ただの情報を自分の血肉の知識とするためには、人は自分で考えなければならない...情報は変化するものだけれども、知識というのは決して変化しないもの、大事なことについての知識というのは、時代や状況によっても絶対に変わらないものだということだ。
135 しっかり考えて、賢い人間になりたいのなら、やっぱり本を読むのがいい。むろん、どんな本でもいいというわけじゃない。本物の人が書いた本物の本だ。メディアの策略で流行になっているような本は、まず偽物だ。だまされないように、見る目を鍛えて。
    絶対に間違いがないのは、だからこそ、古典なんだ。

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