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2010年5月13日木曜日

仕事とは

 「配偶者の適合」、「命名」、ニュー・チャイルドの「配属」、そして仕事への「任命」も「長老委員会」が細心の注意を払って行っているのがジョナスのコミュニティ。従って、不適合が起こるはずはないと信じられていた。
 ちなみに、「配偶者の適合」は、申請者が「適合」を承認されても、実際に告知を受けるまでに何ヶ月も、時には何年も待たせることすらある。二人の人間のあらゆる要素 ~ 気質、活力、知性、嗜好 ~ が合致し、完璧な相互作用が働くようにしなければならないからだ。
 さらに、子どもを申請できるようになるまでに「長老委員会」によって3年間観察も受ける。
 家族を決定する権利が本人たちにではなく、「長老委員会」という第三者機関にある。まさに、お見合い結婚が盛んだった仲人全盛時代を思わせる。

 仕事の任命の場合も、同じように長年の観察を経て決定される。

 いったい、個々人の仕事を決めるのは誰であるべきなんでしょうか?

 いまでも「親のあとを継ぐ」ことが当たり前に行われているところも少なくありません。

 仕事選びや自分の学び方を知るのに参考になるものに、「マルチ能力」があります。(『新 13歳のハローワーク』よりは理論的にはるかにしっかりしています。)英語圏や北欧では小学校段階で、すでに自分の得意なマルチ能力は何かを把握して、それを活かす形での教育を行う努力がなされつつあります。
 マルチ能力とは、①言語能力、②論理的―数学的能力、③空間能力、④身体―運動能力、⑤音感能力、⑥人間関係形成能力、⑦自己観察・管理能力、⑧自然との共生能力です。(『マルチ能力が育む子どもの生きる力』トーマス・アームストロング著、小学館を参照。なお、これを最初に提唱したハワード・ガードナーの本も何冊か出ています。)能力をこれだけ多様に捉えてくれると助かる子どもがたくさん出ます。現時点では、①と②で9割以上を占めているのではないでしょうか? 要するには、入試ということです。
 私がマルチ能力の存在を知ったのは、10年ほど前だったのですが、私が得意なのは③の空間能力で、しっかり最初の仕事として都市計画を選んでいましたから、驚きです。★ でも、ここ20年ぐらいは教育や人材開発・組織開発の仕事をしています。

 みんなが平等を実現しているかに見えるジョナスのコミュニティでも、職種によって敬意が払われている職種とそうでない職種があるのは、残念なことです(というか、当然のことでしょうか?)。
 ジョナスが選ばれたレシーヴァーは、20~30年に一人しか選ばれることがないのですから、もっとも経緯を払われている職種かもしれません。その一方で、3年間しかその役割を担えない「出産母」は敬意が払われないと書いてありました。出産母は、その後「老年の家」に入るまでの間、食料生産者などの「労働者」として過ごすそうです。
 また夜勤をする人たちは、家族ユニットを持つにたる資質をもっていないと判断された人たちだそうです。

 いずれにしても、これだけ緻密な観察ができるのも、全人口が最高で   約3500人に設定されているからのような気がします。いろいろな意味で、この規模(スケール)はとても重要な気がします。古代から、その規模はドンドン大きくなってきているわけで、いまはまさにグローバル化しているわけです。しかし、望ましいのはどれくらいの規模なんでしょうか?

 それでは最後に、池田晶子さんの「仕事と生活」の章(『14歳からの哲学』)からの引用です。

113 本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに「生きなければならない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。生きるためには、食べなければならない、食べるためには、稼がなければならない、そのためには、仕事をしなければならない。この「しなければならない」の繰り返しが、大人の言うところの「生活」だ。しなければならなくてする生活、生きなければならなくて生きる人生なんかが、どうして楽しいものであるだろう。

116 会社員や主婦の仕事を、そのまま楽しむことができるなら、それはその意味での才能なんだ。楽しんで仕事をしているうちに、気がつかなかった自分の才能に、気がつくこともあるだろう。生きなければならないから仕事をしなければならないなんて思っている限りは、人は決して本当には生きることはできないんだ。

  さあ、君は、どっちの人生を選ぶだろう。食べるために生きるのか、生きるために食べるのか。いずれの人生を選ぶにせよ、それは完全に君の自由だということ、覚悟を決めなくちゃね。

 私は、たまたま高校時代をオーストラリアで過ごしたのですが、オーストラリア人は「遊ぶために、仕事をする」人たちです。それに対して、日本人は「仕事をするために、遊ぶ」人たちです。私は、振り子の両極端の生活はできず、「遊びが仕事、仕事が遊び」みたいなところを見出す努力をしています。


★ マルチ能力と単に好きな教科(=『13歳のハローワーク』)の違うところは、例えば私のような空間認識能力のある人間は、建築家、都市計画家、あるいは写真家や画家などになればいいというのではないことです。確かに、学校時代は、地理・歴史(だけ)は得意でした。
 しかし、場所に関連づけてくれれば覚えることに苦労しないので、他の教科でもそれを使うことで、選択肢が広がります。同じように音感能力のある人は、音楽的なことを他の教科でも活用したり、運動・身体能力の優れた人は、からだを使うことを他の教科を学ぶときに活用すれば、そして人間関係の得意な人はそれを活用することでいろいろな教科をよく学べる可能性が高くなるという具合です。
 得意なことだけの枠の中に閉じ込めておいてはもったいない、という発想です。

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