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2010年5月23日日曜日

自由とは

 ジョナスの最後の4分の1ぐらいの行動が、「自由」という言葉で表すのがいいのかどうかは、ちょっとおかしいと思いつつ...池田さん(『14歳からの哲学』)の中にある「自由」から、

166 「自由」ということは、「自分がしたいことをする」ということでいいのだろうか。
168 なんであれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。このことはしっかりと覚えておこう。
  自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくとなんだ。自分で判断するのでなければ、どうしてそれが自分の自由であるはずがあるだろう。自由は判断する精神の内にある。精神の内にしかないんだ。現在の自由主義社会の人々は、このことをほとんど理解していない。社会制度がどうなのであれ、精神さえ自由ならば、人間は完全に自由でありえるという普遍の真理についてだ。

 ジョナスのコミュニティの人々は、自由を放棄してしまっている! 判断することを放棄してしまっている! 考えることを放棄してしまっている! そして、自由主義社会の人々も?

169 不正な社会で正しい言葉を語り、そのことで殺されるとしてもそれは自由ですか、と問う人がいるかもしれない。答えよう。そうだ、自由だ。不正な仕方で生きることは、決して自分によいことではない。精神には生存よりも大事なものがある。それが自由だ。自分が自由であることだ。不正なことは精神の死だ。不正な生存が不自由なものであることを、精神は知っているんだ。

 まさに、ジョナスがしたこと!!! というよりは、ローズマリーがしたこと!!


  精神の自由とは、なによりもまず「怖れがない」ということだ。怖れがあるところに自由はない。

 みごとなジョナス!!


170 死への怖れが、人間の中では一番の大きな怖れだ。これが人生を最も不自由にしているものだ。死ぬことを怖れて、人がどれだけ人生を不自由にしているかを想像してごらん。

 ここで、賞賛すべきはローズマリー???

  人間はあらゆる思い込みによって生きている。その思い込み、つまり価値観は人によって違う。その相対的な価値観を絶対だと思い込むことによって人は生きる指針とするのだけれども、まさにそのことによって人は不自由になる。外側の価値観に自分の判断をゆだねてしまうからだ...自分で考えることをしない人の不自由は、まったく同じなんだ。

 ジョナスのコミュニティにおいては、レシーヴァーに一度はなった人たち以外は。そして、わたしたちの世界では、「イスラム過激派も自由民主主義も」


171 あらゆる思い込みから自分を解放した精神とは、捉われない精神だ。自由とは、精神に捉われないがないということだ。死の怖れにも捉われず、いかなる価値観にも捉われず、捉われないということにも捉われない。

 「悟りの境地」という感じです。 なんか「精神」もわかってきた気がします。

  何でもいい、何をしてもいい、何がどうであってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。これは本当にものすごい自由なんだよ。たとえば、想像してみるといい。死ぬという思い込みから解放された精神が、永遠に存在する宇宙として自分のことを考え続けているといった光景だ。とんでもない自由だとは思わないか。こんな自由は、やっぱり怖ろしくてたまらないから、多くの人は、勝手知ったる日常の不自由に戻ってゆくのだろう。

 ジョナスのコミュニティの人たちがしていることであり、私たちの世界の多くの人もしていること?

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